私本 芦屋の浜のつれづれ草 |
6月臨時号(回想記16・17・18)
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6月臨時号(第16・17・18話) |
16)安養寺の会陽 続いてもう一つの真木が投げ込まれる。数日かけて割木にお香を焚き込んで香木とし、それを数十本使って小さな円筒の真木を巻いて縛り込む。あたかも小さな薪の束の中心部に真木が収まる状態である。香木の束が解けるまでは外形は大きく、簡単には一人占めできない。こうして香木の束を中心に男たちの二つの群れがあっちへこっちへと移動しながら、二つの真木の争奪戦が続く。境内の樹木や屋根から群れの中心に目がけて飛び移る男たちもいる。バケツで水を掛けると水蒸気が湯煙となって立ち昇る。ワッショイ、ワッショイの掛け声に混じり罵声や怒号が飛び交い、時には諍(いさか)いも起こる。小半時もみ合っている内に、香木の束は次第に崩れてゆき、中に収まっていた真木を四、五人の手で奪い合うこととなる。真木を握る男の手は三人、二人と次第に減って行く。真木は伽羅(きゃら)の香木で出来ており芳香を放つので、おいそれとは隠しきれない。執念深く戦い抜き真木を独り占めした最後の一人が、何食わぬ顔で静かに群れから抜け出す。真木の行方が不明となり群れが少しずつ崩れてゆく。予め二、三人が組となり奪った真木をリレー式に群れから運び出すこともある。ある年、股間の“まわし”に真木を隠しているがバレて、男たちの数本の手が股間にこじ入れられそこが戦場と化した。もみくちゃにされたその男が半死となる事故が発生した。勇壮な男たちの命を掛けた裸の戦いである。 こうして真木を隠し持った裸の男はそ知らぬ顔で仁王門を後にする。争奪戦に敗れ失意で帰宅するふりをして腕を組み背中を丸め寒そうに長い石段を足取り重く下る。下りきるやいなや脱兎の如く坂道を駆け下り商店街を目指す。商店街は今夜だけは夜通し店を開け、電灯を点して真木の到来を待ち受ける。真木が納められ福をもらった商店はその年の商売繁盛間違いない。名誉ある店は祝儀をはずみ男はその年の福男として祝福される。こうして会陽が終われば春はすぐそこである。 祖父、幸八の明見屋へは度々真木が納められたそうである。 ある日、興三さんは蔵の中で遊んでいて桐箱の中に数本の真木を見つけた。子供の真木より一回り大きい。二つの半円筒が木のクギで合わさり、半分に開けられる仕組みである。開くと中の空洞に小さな和紙の巻き物が納められていた。和紙を開くと墨で描かれた観音菩薩の絵があった。安養寺が保有する国の重要文化財「木造十一面観世音菩薩像」である。林野に腕白は数いるが、本物の真木を手にとって見た者は他にいないであろうと一人悦に入った。 17)川上と大下と越路吹雪 昭和24年(1949)小学四年生の夏休みに姉妹四人と阪神間の西宮に住む叔母の家に遊びに行くことになった。これまでに岡山や姫路へ町内会の旅行などで行ったことはあったが、神戸まで行くのは初めてである。しかも子供たちだけの旅に心を弾ませた。 「姫路で山陽本線に乗り換えて、三宮でもう一度乗り換えて西宮で降りるんでぇ。忘れたらいけんでぇー」 と母が念を押した。姫路駅で見た山陽線の鉄道地図では三宮駅の東に西宮駅があり、わざわざ乗り換える必要がないと分かった。 初めて見る舞子の松林や須磨の白浜の美しさに見とれ、海の向こうに霞む淡路島に興奮していた。戦災後の復興が進む神戸の街並みにも目を見張った。林野を出てから既に4時間近く経っていたが疲れはなかった。三宮駅を過ぎて程なく車掌さんが検札に来て切符を見てから、 「長距離列車は三宮と大阪間の途中駅には停車しません。西宮駅へは大阪から各駅停車で引き返して下さい」 と教えてくれた。 「しもおたなー、へえで三宮で乗り換えと、お母ちゃんが言たんじゃー」 と言っていると列車が突然停車した。大阪かと思って窓の外をみると、西宮の表示版が目にとまった。 「降りよう。早よー、早よー」 と四人がデッキから転げ落ちるように下車した。最近のように電動式の開閉ドアーではない。ホームに降りて辺りを見れば下車した乗客はわれわれ四人だけで、ホームには四、五個の荷物が転がっていた。客車に連結された貨車から荷物を降ろすために1分足らず臨時停車したのであった。兎も角、車中に残される者もなく四人が無事下車できて胸をなで下ろした。 駅の改札口を出て持って来た地図を頼りに西へ東へ北に南にと行き先を探すが、それらしき道はいっこうに見当たらない。結局、今いる場所と地図が相違していると分かった。近くの交番で尋ねたが住所を持っていないのでお巡りさんも地図を見ながら思案投げ首である。 「叔父さんの名前は?」 「和田xxです」 「職業は?」 「県庁に勤めています」 「西宮の税務署長と思います」 興三さんは何処で何時耳にしたのか妙な事を憶えていた。結局これが決め手となって小一時間後に行き先が判明した。今なら林野に電話をして和田の住所を聞けば直ぐ分かるところだがそうはいかない。スミ薬局に電話が引かれたのは半年後であった。 当時は省線電車と呼ばれ後に国鉄となり今は民営化されてJRとなったが、この国鉄西宮駅ではなく阪急電車の西宮北口駅からの地図が書かれていたのである。 「三宮で阪急に乗り換えて西宮で降りるんでー」 と伝えた時に“阪急”が欠落したのか、あるいは地図の書き違えか未だに謎である。岡山の片田舎の子供たちには、国鉄以外に列車があるなど思いもよらぬことであった。それにしても送り出す方も迎える方ものんきな事である。もう少し注意を払うべきであったろう。今ならリスク管理の甘さを責められるところである。家業に多忙であったからかも知れないが、総じて子供を信頼してというか放任主義で自由にさせていたようである。特に興三さんは何事も自分で決めて自分で実行してきたように思う。国鉄西宮駅から阪急西宮北口駅までは、それほどの距離はないが四人の足取りは重かった。幼い桂子は靴擦れで血がにじみ、途中で買ったゴム草履を引きずり、涙と汗と土埃でくしゃくしゃになり、ようやく和田の家にたどり着いたときには、夕食時間をゆうに過ぎラジオ番組の「とんち教室」が始まっていた。 須磨の浜で海水浴を楽しみ三宮の大丸にも行った。広い売り場にびっしりと並ぶ高価な商品に驚いた。大食堂に興奮し屋上の遊園地でミニカーに乗った。翌日、宝塚行きの阪急電車の中で小さなハプニングが起きた。金髪碧眼の上品な夫人の隣に座っていた妹の桂子が夫人の指を無心に触り始めた。よく見ると全ての爪が真っ赤である。初めて目にするマニキュアであった。夫人は我々をチラッと見て微笑んだがそのまま触れられるにまかせていた。宝塚歌劇の華麗な舞台に目を見張った。美少女たちが舞台いっぱいに互いに肩を組みテーマ曲「ロンパリ(吾がパリ)」に合わせて一糸乱れぬエネルギッシュなラインダンスに圧倒された。二年間の厳しい訓練に耐えた生徒たちにとり晴れのレビューである。宝塚歌劇について少しふれる。明治44年(1911)に宝塚に温泉が発見されたのを機に、箕面有馬電気軌道はお客を呼び込むべく宝塚新温泉を開業した。阪急電車の前身であり宝塚ファミリーランドの誕生でもあった。電気軌道会社の小林一三専務は宝塚新温泉のアトラクションとして大正3年(1913)宝塚唱歌隊を結成した。6年後に宝塚音楽歌劇学校に改組され今日に至っている。 その日、天津乙女のあでやかな日本舞踊や男装の春日野八千代に、大スター越路吹雪を初めて見た。越路吹雪は昭和26年まで宝塚に在籍した有名な男役であるが興三さんが観劇に行った昭和24年の7月公演の一回だけ女役を演じている。歌姫カルメンを演じ「ハバネラ」や「ジプシーの踊り」を歌いきる演技力と歌唱力を備えた塚ガールは、彼女をおいてはいないとの説明であった。記念すべき日になった。塚フアン、コーチャンフアン多いといえど、この逸話を知っている人は少ないであろう。まして実際に目にした人数は今日では限られている。宝塚には歌劇の他に動物園と遊園地があった。興三さんはここの遊戯機、特にローラースルー(別名ゴーゴー)がお気に入りで度々遊びに行った。この宝塚ファミリーランドは残念ながら2003年4月7日に惜しまれつつ閉園され、動物たちは他の動物園に貰われて行った。明治44年に開業以来92年間の長い歴史に幕を降ろしたと報道されていた。しかしながら、小林一三氏が残した“清く正しく美しく”のモットーは今も宝塚に脈々と生きている。 西宮球場でプロ野球も見た。広い球場に緑の芝生、すり鉢状の観客席に目をみはった。今は閉鎖され解体作業が始まっているが十数年前まではプロ野球阪急ブレーブス(後のオリックス)の本拠地であった。プロ野球が1リーグの時代であり、その日は巨人と東急の試合があった。あの有名な赤バットの川上、青バットの大下も出場した。巨人三番の青田と東急の大下がホームランを打ったが、川上はライト前のテキサスヒットに終わった。巨人のピッチャーはスタルヒンで、東急のピッチャーは後に創価学会から立候補して代議士になる白木であったかと記憶する。中尾投手と小松原投手を見た記憶もある。巨人対東急のダブルヘッダーであったか、翌年の試合であったかは定かではない。初めて見た都会の文物に興奮し林野に帰ってしばらくは仲間たちに吹聴の日々であった。 18)西宮のアメリカ博 翌年の昭和25年(1950)新学期が始まれば五年生になる春休みに、 「自宅の近くでアメリカ博覧会が開かれるので見においで」 と従姉の和田洋子から電話があった。その電話を誰が聞き両親の意見がどうであったか詳しい経緯は忘れたが二、三日後に興三さんは桂子を連れて誰にも言わぬまま二人だけで二時頃の汽車に乗った。小遣いを貯めて汽車賃程度のお金は持っていたし、林野から西宮の叔母の家へ行く自信はあった。夕方になって二人の不在に気づき家族が探し始めた時、西宮の叔母から無事到着したと電話があり両親たちは安堵した。興三さんは思い付くと前後の見境なく行動するところがあった。こうして興三さんは再び西宮で春休みを過すこととなる。 アメリカ博の会場は西宮球場とその付近の広大な敷地で開かれていた。第一会場の入り口を入るとホワイトハウスがあり、そこを通過し球場ビルに入ると屋内展示場でアメリカの生活と文化と産業が紹介されていた。絨毯を敷いたリビング、洗濯機や冷蔵庫等の電化製品が並んだキッチン、書籍やおもちゃがある子供部屋、ベッドのある寝室など初めて見る物ばかりで、子供心にもその豊かさに驚いた。少し離れたところに長蛇の列のコーナーがあった。その日は諦めて翌日並んでやっと見た。三つの小さな箱の正面に夫々ガラス窓が付いており、そこに小型の映画のように動く写真が映っていた。これこそテレビジョンの試験放映で公式には3年後の昭和28年にNHKが放映を開始した。 屋外つまり球場のグランドにはジープが停車し少しはなれた場所にトラクターが停まり、機械化された農業風景を紹介していたかと記憶する。サーカスの催しもあり目隠しをした二人が手渡しする空中サーカスや、巨大な球形ゲージの中をオートバイが縦横無尽に走り回る妙技に目を見張った。象を初めて見たのもこの時であったかと思う。 第二会場は西宮球場に隣接し辺りは田んぼであったが、現在は高層の高級マンション群に変貌している。パノラマと称する屋外会場でアメリカの歴史と風景を紹介していた。入口を入ると左手に四人の顔の彫刻が目に入った。後年ヒッチコックの映画「北北西に進路をとれ」の舞台にもなったサウスダコタ州ラシュモア山ブラックヒルの岩肌に刻んだ有名なアメリカ大統領、ワシントン、ジェファソン、ルーズベルトそしてリンカーンである。実物を12倍に拡大し写実性の富む巨顔である。右手にはヨセミテ国立公園の巨樹セコイアが立っている。その巨木の地表部分の幹をアーチ状にくり貫いて作ったトンネルの傍らにトラックが停車して、巨木の大きさを誇示していた。その外サンフランシスコの金門(ゴールデンゲート)橋(ブジッジ)、テキサスの油田採掘塔、西部劇のカーボーイと幌馬車、グランドキャニオン、アメリカ横断鉄道で東海岸に行けば、シカゴの高層ビル群、自由の女神、ナイヤガラ瀑布などアメリカ観光名所のダイジェストで、さながら小人国に迷い込んだ興三さんであった。今日でいえばディズニーランドやユニバーサルスタジオである。これらは後年補充した知識も含まれるが初めて見る異国の文化、風俗、風景に接しアメリカの偉大さや地球の広大さに強い感動を覚えた。後年の外国への夢を開いたのかも知れない。井の中の蛙が大海を見た二日間であった。今までの林野での遊びが子供っぽく思えた。自覚こそしなかったものの二年続けて大きな啓蒙を受けた。 余談だが先年テレビを見ているとヨセミテ国立公園の巨樹セコイアが話題になっていた。大きさを宣伝するために、幹をくり貫きトンネルを通しトラックと一緒の写真を大々的に世界に発信したのが徒(あだ)となり、幹をくり貫かれた巨木は栄養失調で倒れてしまったと報道されていた。犠牲となり横倒しになった無残な姿が人間の身勝手と環境破壊を身をもって訴えていた。 啓蒙といえばその頃、二つの見慣れない品物に出会い初めて東京を意識した。一つは林野の竺原の家で、今一つは西宮の和田の家であった。ある日、竺原の家で遊んでいると東京から来た賢ちゃんの従姉(いとこ)がストッキングを見せてくれた。当時出回っていた人絹やスフとは違う人工繊維であった。足に履くとき伸縮性があり透明なために履いているのがわからないくらいであった。金額は忘れたが目の玉が飛び出たのを覚えている。物不足で人絹やスフの合成布さえ手に入り難い時代の贅沢品であった。今日のナイロンである。この婦人用ナイロン製ストッキングを透して初めて東京を見た。もう一つは手のひらに乗るほどの小さな箱であった。興三さんがアメリカ博で和田に滞在中に従兄の垂井康夫が東京から来阪し和田の家で数年ぶりに再会した。小箱の中から音が出てきたのが不思議であった。これこそトランジスターラジオの試作品で未発売の品であった。 (閲覧有難うございました。 8月号に続きます。引続きご支援願います) |
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