私本 芦屋の浜のつれづれ草 |
7月号(回想記18・19・20)
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| 7月号(第18・19・20話) |
7月号(第18話の続きから) 垂井康夫について少し触れておきたい。彼は父の長姉つたゑの次男である。つたゑ伯母は岡山県立一女をトップクラスで卒業した才女であった。戦時中の一時期、東京から林野に疎開して西が浜の家の二階に住んでいた。垂井康夫は兄の充郎より一才年下であるから西宮で出会った時は、大学を卒業して通産省の工業技官として駆け出しの頃であったろう。通産省のトランジスター研究の草分けとなった。後に電子立国日本の先導役となった超LSI技術研究組合共同研究所の所長として活躍した。この組合の生い立ちについては、垂井康夫の著書『ICの話――トランジスターから超LSIまで――』の一部から拝借しよう。 “日頃はライバル関係にある日本で汎用コンピュータを作っている富士通、日立、東芝、三菱電気、日本電気の五社からと国の電子技術総合研究所からの研究者が一か所に集り、通産省の補助金を得て超LSI技術を四年間研究した。設立は昭和50年(1975)の10月で私が委員長を勤めることとなった。実際に集まって見ると意見がまとまりそうにない。最大の問題点はノウハウである。先進企業はノウハウの流失を恐れる。” といった有様であったが、周知の通り大成功を収めた。 官民(政府と産業界)の共同研究が電子立国日本の基礎を築き科学の進歩と日本の産業発展に貢献した。しかし残念なことにその後、官民学の協力は邪悪であり夫々は独立を堅持すべきであるとの論理が優勢となった。折角の官民学の新しい共同方式の萌芽が次世代へ継続されず、夫々は孤高を堅守できたが国民に役立てるという最終目的を置き去りにしてしまった。一方、米国は日本の官民学の共同研究方式に学び新しいハイテク時代を切り開き1980年代の瀕死の経済破綻状態から見事に復活した。21世紀初頭の昨今、デフレ経済の克服戦略の一つとして、官民学の共同研究が改めて見直されることとなった。超LSI技術研究組合共同研究の運営ノウハウを検証してみるのも無駄ではないと興三さんは考えている。 19)朝鮮戦争勃発 母から貰う毎月の小遣いが定額になった頃から小学校で郵便貯金が始まった。毎月一回郵便局の職員が学校に来て、子供たちから郵便貯金を集めた。国の急速な復興で資金需要が急騰したからであろうが、この課外教育は興三さんが貯金に興味を持つきっかけになった。ある春先のお大師講の祭りで安養寺の境内は、綿菓子、ポンポン菓子、太鼓焼きの屋台、水ヨーヨーや水鉄砲などのおもちゃ屋、射的、当て物、金魚すくいなどのゲームの露店で賑わっていた。興三さんは誘惑に負けてポケットの小遣い銭を全部使ってしまった。その夜は「獄門島」という映画を友達と一緒に見に行く約束をしていた。母に追加をねだり前借りも頼んだが、泣いても喚(わめ)いても今日だけはどうしても助けてくれなかった。文字通り“後の祭り”で貴重な経験となった。こうして節約しまさかの時に蓄えることの大切さを知り、稼ぐことに関心が移っていった。家業が商いでお金や売買の中で日々生活していたことが、それを助長したのかも知れない。 ビンを洗って殺菌用クレゾール液を入れ、紙袋を作ってタンサン詰め小分け秤量をし、入荷商品の梱包を解く手伝いなどで駄賃を貰った。昨今では商品の運搬には主にダンボール箱を使用するが、当時は菰(こも)で包んで藁縄(わらなわ)で結わえ、重い品物は木枠で囲っていた。入荷した商品の梱包を解くと藁や菰や釘や鉄帯が沢山出てきた。これらを業者に持って行くと幾ばくかの小遣いになった。金属類は廃品業者に、藁や菰は縄製造業者に持って行った。業者は菰や藁縄をばらして一本一本の藁にしその藁の三、四本ずつを二つのラッパ口から差し入れて足踏み機で回転させながら縄を編むのである。 昭和25年(1950)6月に朝鮮戦争が勃発した。この戦争は南部と北部に分かれた朝鮮半島の内戦ではあったが、実際には米国が南軍を、ソ連が北軍を後押しする代理戦争で南北戦争とも呼ばれた。この隣国の内戦が物資の需要を高め日本経済の復興を促進したことは周知の通りである。これにより藁、紙、金属などの廃品価額が暴騰し、興三さんの廃品集めが熱を帯びてきた。最早、廃品を業者に持って行くのではなく、売りに行くのであった。戦後の粗悪品のおかげで取手の外れた鍋、穴の空いたアルミのやかん、壊れた電球、部品の外れた道具や電気器具、電線の切れ端などが、家のあっちこっちに転がっていた。アルミ、鉄、亜鉛、鉛、真鍮(しんちゅう)、銅を分別して持って行くと夫々の重量価格で買ってくれる。電球のねじ込みの部分を叩いて壊し真鍮だけを取り出し電線の皮膜を破り銅線を引っ張り出した。真鍮や銅の買い取価格は高価であった。梱包の木枠を外す時に抜き取った釘は叩いて真っ直ぐにすると、目方でなく古釘として結構な値段で買ってくれた。こうして家の中から金気(かなけ)のものが無くなり、貯金通帳の残額が増えていった。 ある日、縁側の片隅の物置場に手のひらくらいの大きさの丸型と四角の鉛板を五個ほど見つけた。その鉛板の片面には小さな真鍮の針が全面に付いていた。何に使うものかも判らないし役に立つものとも思えなかった。その内の三個を持ち出し真鍮の小針を金槌で叩いて潰し回収業者に持って行き鉛として買ってもらった。二個残したのは後ろめたい気持ちがあったのかも知れない。しばらく経った年の瀬のある日、母がなにか探し物をしながら 「興三さんここにあった剣山(けんざん)をしらんかなー。三つ足らんのじゃけど。」 と問い掛けてきた。 「ありゃあ河本のおっちやんとこへ持って行ったでー」 と答えた。河本とは廃品回収業者である。 「やっちゅもねえことをして。ありゃなぁー生け花の花を立てるのに使うんでぇー」 と言ったが、それ以上は何も言わなかった。“やっちゅもねえ”とは“とんでもない”とか “良くないこと”との意味である。 話が突然近代の中国に飛ぶ。1960年代の半ば中国で文化大革命が起こったとき、同じような現象が報告された。旧弊が中国の発展を阻害しているとして、旧時代の思想・文化・風俗・習慣を打破せよという“破四旧”運動が全国規模で吹き荒れた。毛沢東語録の赤い手帳を片手にした紅衛兵と称する極左の若者が年長者の考えを糾弾した。その過程で産業の基盤である鉄の生産増強が求められると、地区や職場単位で家庭や地域にある不要金物の回収活動が盛んとなった。 廃品回収の段階はまだ良かったが、成果競争が高じ歴史上貴重な文物や家庭で使用中の鍋釜までもが廃品として集められた。これを促進する過激な紅衛兵と良識派の年長者の間で、また親子隣人の間で糾弾と密告が渦となり、無数の死傷者や悲劇が生じた。戦中の日本での金物供出運動、興三さんのような単細胞的廃品回収、文化大革命時の世代確執をも引き起こす金属集めなど、どこの世界でも何時の時代でも同じような発想と帰着が起こるものである。げに小人は養い難く、付和雷同は恐ろしい。後年、文化大革命時の鍋釜事件を知ったとき、興三さんは思わず少年の日を思い出し一人ニヤリとしたものである。 朝鮮戦争に話を戻そう。朝鮮戦争が勃発してしばらく経った頃、朝鮮の人たちがこの林野の町にどっと流れ込んできた。朝鮮半島での戦火を逃れ日本海を渡り中国山脈を超え出雲街道を通りはるばる、この山間の林野にやって来たのである。町内から林野駅への沿道の家並が途絶える所々の空き地に、掘っ建て小屋を建て住み着いた。漠然とした記憶だが百人近くはたむろしていた。チマチョゴリの白い服を着て、先が反り返った白い靴を履きコンロに架けた鍋を前にして、あの股を広げて腰を落とす独特の恰好で煮炊きをする情景は異様であった。その付近には異臭が漂っていた。今思えばニンニクの臭いである。朝鮮漬けと言う白菜の漬物が我が家の食卓に登るようにもなったし、バンブーダンスに似た朝鮮式縄跳びが学校で流行(はや)るなど、朝鮮文化の一部が日常生活にも入り込んだ。戦後すぐに見た米兵に次ぐ二回目の外国人であり、異文化への接触であった。その見慣れぬ群棲と旺盛な生活力は少年の目にも異様に映った。その故か、興三さんの朝鮮人への印象は永い間決して良いものではなかった。ずっと後年に仕事で韓国の方々と接するようになって、ようやく朝鮮人への悪印象というか偏見が消えた。この朝鮮の人たちも昭和28年(1953)7月の南北休戦を機に潮が引くようにいなくなった。大部分の人たちは祖国へ帰ったのであろう。 20)やっちゅもねえ話 「やっちゅもねえことをして」は母の口癖であった。あまりヒステリックには怒らなかった。寛容な性格であったのかも知れない。赤や青や半透明の黄色の玉が数個と耳かきのような黒い木と真鍮の棒が数本、硯箱(すずりばこ)に似た桐箱の中に転がっていた。玉には小さな穴が開いていた。この玉二、三個を持ち出し、ビーダマ遊びに使っているうちに負けて取られてしまった。母の嫁入り道具の簪(かんざし)棒とその珊瑚・トルコ石・琥珀玉であると、後になって知った。失くしたことがばれた時も、母は 「やっちゅもねえことをして」 と言ったままだまった。今日のように物が豊富な時代ではない。剣山も簪玉も貴重品であったろうと、後悔し心の中で詫びたものである。ただ、戦中には髪飾りなど非国民の所業であり、敗戦後には子供たちを食べさせることに必死の母にとっては、簪玉など腹の足しにもならず、所詮ビーダマと同じ価値しかなかったのかも知れない。ひどい時代であった。 同じような“やっちゅもねえ”話をもう一つ披露しよう。晩秋であったと思うが、入田の畑で大根の収穫を手伝った日のことである。収穫を終えて大根の山ができた。これを百メートル余り先の用水路まで運んで洗わねばならない。沢庵漬けにするためである。 母は数本の大根を抱えて 「これらの大根を川まで持ってきて」 と言いおいて先に行ってしまった。二、三本なら抱えられるが、 「それじゃーこの大根の山を運び終えるのにゃあー何回も往復せなきゃーいけんがなー」 と興三さんは思案した。そのとき、 「大根十数本を荒縄で一束に結わえて、引っぱれば簡単だ!」 と妙案を思い付いた。肩に綱を掛けて 「ヨイショ、ヨイショ」 と引っ張って大根の束を川まで引きずって行った。やっと洗い場にたどり着いたとき、母はそれを見たとたん 「やっちゅもねえことをして」 と言って黙った。振り返って足元を見ると十数本の大根と葉っぱが地面で擦られて見るも無残な形になっていた。大地を“おろし金”にして大根おろしを作った地球規模のスケールの大きな作業であった。どうもアイデアは良いが細部へ注意を欠くのが興三さんの質(たち)のようである。 「角君のオッチョコチョイが無(の)をなったら、良い点が取れるんじゃがなぁーと、太田先生が言いなさった。」 と五年生のとき、父兄面談会の晩に母から注意された。が叱られた記憶は少ない。 法眼寺で遊んでの帰りであったと思う。井出の店先で楕円形の大きな西瓜が売られていた。井出の店は種(たね)と農作物を売る店である。興三さんはその西瓜が無性に食べたくなり、跳んで帰って母に買ってくれとせがんだ。母は声を無視して洗濯を続けていた。根負けした興三さんが 「僕がお金を出してもええけん」 と言うと、しぶしぶとエプロンで濡れた手を拭きながら 「そうまで言んじゃぁ買ったげるけん、ついておいで」 と言ってくれた。薄暗い井出の店に入り母が来店の意を伝えると、 「ありゃあ西瓜じゃあねぇで。ありゃあ干瓢の瓜じゃあがな」 と井出の小母ちゃんは大笑いしながら 「えれーおしいことをしたなー」 と慰めてくれた。興三さんは残念な思いと新しい発見が入り混じり複雑な気持ちであった。母は翌日、干瓢の入った巻き寿司を作って、 「あの瓜からこの干瓢の帯がとれるんでー」 と教えてくれた。 母はよく縁側でミシンを踏んでいた。ある初秋の夕方、 「日がはよう暮れだしたなー。もう見えにくうーなってしもたがなー」 と独り呟(つぶや)きながらミシン針に糸を通そうとするが、手元が暗くて思うようにいかない。松下電器の二股ソケットを使って電源からコードを引けるのはもう一、二年先で、当時はまだ電力不足で電力使用が制限されていた。そのとき興三さんの脳裏で自転車に付いている発電ランプと学校で習った豆電球の発電装置が同時に閃(ひらめ)いた。 「ミシンの車輪にモーターを取り付けて発電したら、手元を照らす豆電球くらいは灯せる!」 と思いついた。早速、豆電球、コード、小さなモーターなどを買い込み作業に取り掛かった。しかし、モーターの回転軸を固定してミシンの車輪と摩擦させることがどうしても出来ず、ついに諦めた。閃(ひらめ)きはエジソン並であったが、手先が不器用な上に、諦めのるのもまた速かった。 入荷商品の梱包解きの手伝いをしていて、奇妙なことを発見した。梱包に使われている木枠の上に、スミ薬局の住所や「割れ物注意」など様々な文字が、黒く捺印されているのが目に留まった。その表示を良く見ると文字の縦や横の線が所々部分的に途切れている。例えば、口(くち)という文字の場合、縦の線と横の線の一部が途切れているのである。漢字の偏や冠や旁(つくり)などの、日や白や戸や月や田の部分も同様である。 「へんだなぁー。 なんでだろうー」 との疑問が沸き、それが次第に大きくなっていった。どの様な方法で捺印したのかと考えていたある日、パッと電気が点いたように謎が解けた。大発見をしたようで嬉しかった。 日本経済が復興し“文化”が流行語となり、生活改善が叫ばれるようになった。様々な新しい家庭用品が出回るようになった。今日で言うアイデア商品の開発である。ある日、セールスマンが新型かまどと人工まきの売り込みにやって来た。もちろん電気釜などが無い時代である。釜戸に火をつけたきぎをくべその火力を維持調節して、ご飯を炊き上げるには相当の時間と手間が掛かる。商店の主婦は顧客の応接をしながら台所仕事もこなさねばならない。セールスマンは商店の主婦の泣き所を知っている。 (閲覧有難う御座います。 8月号からは新しい URL: http://homepage2.nifty.com/sumikozo2/ に変わります。 「自分史エッセイ 8月号〜」をクリック下さい。) |
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