箆柄日記(2005年3月)

破綻しすぎ
2005.03.26
土曜日

午前中新しい案件の打ち合わせ。エフエム那覇のプロジェクトと上手く歩調を合わせれば悪い話ではない。むしろ、良い物が出来そうだ。

さて、箆柄暦『四月の沖縄』の入稿も済んだので、ひさびさまるみかなーで一杯引っかける。小浜さんは昨日誕生日だったので、昨日はだいぶ店もいっぱいしていたらしいが、今日は客も少なくまったりとした感じ。

誕生日プレゼント(余りものでごめんなさい)のお返しに、12年寝かした久米仙12年、都合24年物をご相伴に預かる。口に含み、鼻の奥にふぬーと空気を通すと、強力な香りが広がった。うまかった。

看板のあと、照屋林助さんの話をゆっくりと伺う。およそ五期ぐらいに分かれる波瀾万丈伝は最高の酒の肴となった。亡くなられたばかりの人を肴になどと少々不謹慎かもしれない、いやてるりん大統領ははそんなことは気にしないだろう。5月6日にコザ独立国国葬という名の追悼公演があるらしい。

帰り道、ふらふらと桜坂シネコン琉映に立ちよる。4月10日の閉館に向け、何本見ても500円で特別上映が行われている。土曜日はオールナイト。まあ、縁起物と思って入ると『さよなら銀河鉄道999』が始まるところだった。

やっぱり『さよなら〜』は話が破綻しすぎてる…。途中で少し寝てしまった。もうちょっと早く行ってひとつ前に上映していた『銀河鉄道999』の方を見れば良かった。ゴダイゴの曲で景気付けたかったな…。

帰宅後久しぶりに目覚ましをかけずに寝た。

すみません、今夜は遊ばせて頂きました。明日からまた頑張りますので関係者各位におきましてはご容赦を。

追記:
沖縄スタイル』vol.6が発売になった模様。今も移住考と情報ページを担当しています。よろしく。


ある種のリアリティ
2005.03.25
金曜日

お客さんの指定の、制作・印刷会社へ行く。ここの二代目社長さんは、昔東京のDTP出力センターで店長をしていたとか。まあ私もそんな時期があったので、奇遇といえば奇遇。久しぶりにDTP談義に花が咲く。

局に戻るとまたまた新しい案件が。明日話したいということになる。今夜は箆柄暦『四月の沖縄』の最終段階なので、明日の昼間は頭が回るかどうか心配。

作業しながら、なんとなく『金八先生』の最終回を見る。もちろん最終回は卒業物だ。クラスでソーラン節を踊るシーンがあったのだけれど、東京なんだから東京の芸能でやれない物なのだろうかとか思った。

卒業物と言えば、火曜日は『ごくせん』の最終回を見た。同じ先生物と言っても『ごくせん』の内容は痛快コメディ、社会問題満載の『金八先生』とは比べるべき物ではないのかもしれないが、それでもなんだか『ごくせん』のほうにある種のリアリティを感じた。


新しすぎて
2005.03.24
木曜日

箆柄暦『四月の沖縄』の準備の合を縫って一本大事なミーティング。このメンバーのミーティングはとても勉強になる。しかし話が新し過ぎて半分くらいは分からない…。分からないことは分かる人に任せて、自分の役割をきちんと果たさなければ。

今日もお稽古にはいけず。惨敗。


変わったことを
2005.03.23
水曜日

午前中、大島保克さんが、新作『島めぐり』のプロモーションで来社。収録に立ち会おうと思ったが、始まる前には間に合わず、スタジオの外で待つ。

今回は短いコーナーでの出演だったが、次回はマジカルでたっぷり語って欲しいと思った。5月の取材の時には実現したい。その頃にはマジカルをネット放送できるようになっていたらいいなと思う。

午後は映画『ニライカナイからの手紙』の主題歌を唄っている、永山尚太くんがマジカルに出演。立ち会いをする。

若くてとても好青年だけど、年に似合わず結構な人生の場数を踏んできている感じだった。放送ではちょっと言えない話(たいした話ではないんだけれど)も有った。偶然が重なって今ここにいるといってはいるけれど、チャンスを掴むだけのそれなりの経験は積んでいたのだと思う。

ここのところぱたぱたと外出が多いが、箆柄暦『四月の沖縄』の準備もあってキツイ。しかも今月から、いろいろと発行体制が変わったことを反映したりしないといけないので、いつもより考えることも多い。

箆柄暦のサイトの手直しも必要だし、キツイキツイ。


気づかずにいる
2005.03.22
火曜日

昼、瀬底島FOUR ROOMSのご主人が那覇に買い出しに来た。久しぶりに昼飯を食べながらしばし話し込む。主が食事に選んだ店は美味しい中華料理屋さん。こんな近くにこんな美味しい中華があったのか…。

さて、今日のマジカルの出演者は藤木勇人さん。今日は自分のことより琉球チムドン楽団の宣伝をしたいとのことで、キャサリン賀寿丸さんを伴って、てんぶすのサテライトスタジオに登場。

先日の打ち合わせの時もそうだったけど、腰が低く、周りに気を使う、沖縄には珍しいタイプの舞台人。どんなときも雰囲気を盛り上げようとする気持ちを忘れない気遣いの人。

それにしても藤木さんの顔の広いこと。てんぶすサテライトスタジオの前を通りかかる人の中にいろんな知り合いがいて、番組中しょっちゅう外に手を振っていた。

これは偶然ではないが、泉&やよいのやよいさんがやってきた。やよいさんはマジカルを聞いたことがなかったが、お姉さんからこの番組は面白いと聞かされていたそうで、藤木さんがでるのを機会に様子を見に来たらしい。かなり自分も出たい出たい光線を発していた。

他にも那良伊千鳥さんが通りかかったり、していたけど、もしかすると普段からいろんな人が通りかかっているのに、私たちが気づかずにいるだけなのかもしれない。


頭をたくさん
2005.03.21
月曜日
振替休日

振り替え休日だが、ミーティングで出社。定例ミーティングのあと、別のテーマで夜までミーティングが続いた。ミーティングばかりしているように思うだろうけど、ミーティングのためのミーティングではないので意味は重い。しかも決めるまでやるミーティング。とっても疲れる。

今日は東京では、東京時代の三線仲間が多数参加して、八重山古典民謡保存会関東支部の公演が行われた。公演の写真が届いた。舞台の上に並ぶ懐かしい友達の顔が立派に見えた。当日を迎えるまでには、いろんな事があったようだけれど、先ずはお疲れさま。

頭をたくさん使ったのでとっても疲れた。続きは明日…。

そうそう、今日はガムランの公演も、南佳孝さんのライブにも行けなかった。ホントに残念。悔しい…。


再放送
2005.03.20
日曜日
春分の日

テレビをつけてつらつらと仕事をしていたら、「プライム10『笑芸・チャンプルー〜沖縄の巨人・照屋林助〜』」(1993年)の再放送を見ることが出来た。この番組は久しぶりに見た。

コザ独立国が建国されたころの番組だと思う。てるりん大統領はとても元気で、玉城満さんを筆頭に、閣僚のお歴々の鼻息も荒い。コザの街も今よりは随分と元気に見えた。

番組を見ていて、今のコザの街の寂れようとてるりん大統領が元気を無くして亡くなられたことがリンクしているような気がしてならない。

てるりん大統領は「那覇は外からの沖縄の入口、本当の沖縄の入口はコザだよ」と語っていた。しかしそのコザが、沖縄ブームの中で元気を失っているということは、どういうことなのだろうか。

本当の沖縄は観光客には通じないのだろうか。それともコザが本当の沖縄の魅力を伝える機能を果たしていないのだろうか。あるいはコザが、かつての本当の沖縄の魅力を失ってしまったのか。

そんなはずはないだろう。残された閣僚のみなさん、力を合わせて、コザの魅力、本当の沖縄の魅力を発信してください。でないと本当の沖縄の入口がどこなのか分からなくなってしまいます。


卒業した
2005.03.19
土曜日

『鉄腕DASH』を見た。県外では3月6日に放送された内容。エフエム那覇も少し登場した。取材のあった日、なは[Pasha]CLUBにゴツイおじさんの画像がアップされたのは、武蔵丸親方だったのか。

さて、長い間編集を担当してきた『週刊沖縄ふぁん』の二代目裏編集長を卒業した。本日、今後私が何処へ行くのかを伝える内容の最終号を編集長宛に送信、編集長がチェックして問題がなければ読者へと配信されるはずだ。

先週号で卒業をお知らせしたあと、たくさんの読者からメールを頂き、名残惜しかった。読者のメールで思い出すこともあり、以前の号を読み返してみたりもした。随分といろんな事をこのメルマガで試してきたなと思う。

しかし、これから更なる大きなフィールドに駒を進めることになると思うと、感傷に浸ってばかりもいられない。むしろここからが大事なのだ。

利用者が増えるということは、より多くの不特定多数を相手にするということだ。その中にはいろんな人がいることだろう。楽しい出会いもあると同時に、厳しい意見を浴びることもあるかもしれない。

これまで以上に、真摯に、そして慎重かつ大胆に取り組んでいきたいと思う。


箱の中味は
2005.03.18
金曜日

社長&社長ミーティングの末席に立ち会う。なんだかだんだんプロジェクトが楽しくなってきた。きっと上手くいくさ。

夕方からオリオンビールの「報道関係者懇親会」というのに出席。会場はもちろん系列の西武オリオン。凄い数の出席者で混みあっていた。報道関係、代理店、流通関係など、いろんな人が来ていた。

それにしても、さすが西武オリオン、料理が旨い。さすがオリオンビール、料理のランクも高い。本気で美味かった。

立食パーティーのメニューには、刺身、寿司はもちろん、マーボー豆腐や坦津麺までふるまわれ、沖縄そばや何と「イラブー汁」まで有ったのには恐れ入った。もちろん飲み物のメインは鮮度抜群のオリオンビール。ああ幸せ…。

お土産は鮮快生となにやら箱。この箱の中味は何と県産くるまエビ! しかもおが屑にまぶして生きている状態。さすがにとても調理は手に負えないので、西武オリオン裏のチューパンジャーに進呈してきた。

風邪気味なので一杯だけ引っかけて帰宅。なかなか風邪が全快しない…。


子供の頃から
2005.03.17
木曜日

今日は、ひっさしぶりに「でんさ節」とか「つぃんだら節」を練習した。こういう曲はやっぱりしばらくやらないと細かいところを忘れる。ここでも何回もそう書いているけれど、やっぱり鈍っていた。

さて、お稽古の後、一階のジュネから電話。春男先生のCDを買った客が会いたいと言って来ているので店に顔を出して欲しいとのこと。何でもフランス人だそうだ。いったいだれなんじゃろと思ったら、大工先生のところで習っているわかものだった。

最近、ヨーロッパから三線を研究に来る学生や大学院生とかが多いけど、彼もそんな一人のようだ。私はそのうち、三線や沖縄芸能の世界でも、柔道とか空手の世界みたいなことが必ず起こると思っている。

日本語ペラペラ。泡盛は好きかと聞くと大好きという。フランス人は子供の頃からお酒(ワイン)を飲んでいるので、水より酒が好きだとか。ホント? その割りには随分酔っぱらっていた。なんだか人の良さげな憎めない奴。

「ところで、オーシャンゼリゼって曲は元はイギリスの曲って知ってた?」と教えたらびっくりしていた。日本人も「蛍の光」を日本の曲と思っている人も多いだろうからしょうがないか。

最近は、THE BOOMの「島唄」は沖縄の人が作った曲と信じて疑わないウチナーンチュもいるとか。有名な笑い話。


お試しあれ
2005.03.16
水曜日

月曜の夕方から喉が痛い。昨日から身体の節々に違和感が。それでも昨夜はついついお稽古に行ってしまった。

お稽古の後、ニンニクたっぷりの野菜炒めを食べるなど、滋養のある物を食べるようにして寝た。おかげで今日はだいぶ治まったのだが、もしかして寝る前に飲んだ泡盛のホット豆乳割りが効いたのかも。

思いつきで作ってみた泡盛のホット豆乳割りだが、飲んでいるうちにぽかぽかしてきた。ついでにバナナも食べたけど、それとも良く合う。お試しあれ。

それとも持ち直したのは、なえさんの御願のおかげだろうか?

今夜は生姜たっぷりの中味汁を食べて、やはり泡盛のホット豆乳割りを飲んで寝よう。ここで寝込むわけには絶対に行かない。このまま治まっておくれ。


屋敷御願
2005.03.15
火曜日

今日は、エフエム那覇の「屋敷御願」をした。

電波という物は強い力を持ち、正しく使えば絶大な力を発揮して発展につながり、間違った使い方をすると大きな災厄をもたらす可能性もある。また、毎日いろんな人が出入りする場所は、様々な気が運ばれてくるので、その場の状態が不安定になり易い。

放送局とはまさにその両方が当てはまる場所。そこに働く人も日々様々な影響を受けやすいので、土地の神様にしっかりと御願しておかなければならないのだそうだ。

そこで、「マジカルミステリーツアー」のパーソナリティ田村さんの発案で、新社長も就任したことだし、「屋敷御願」をするということになったのだが、なんと御願のためにやってきたのは、久高島のノロのなえさんという方だった。

なえさんは、70代くらい(間違ってたらごめんなさい)の小柄な女性で、姿勢がすっとしていて白髪をきちんと結び、柔らかな語り口の方だった。とにかく凛として清潔感のある女性だった。

なえさんは事務所にやってくると、まずお供え物を整えた。丸い盆に男性を象徴するバナナ、女性を象徴する林檎、富や繁栄を象徴するみかん(中にたくさん実が入っているから)を乗せて、場を清めるための水と神様に捧げるお酒をを用意した。

お供え物が整うと、東南西北と順に御願してゆく。ノロの役割はあくまでも御願する人を助けて神様に祈りを届けることなのだそうだ。今回は新社長がメインとなり、社内にいたスタッフ全員で御願に参加した。

ひと通りの御願が済むと、なえさんはトイレと水回りの御願をされた。水回りは使った水が土地にまで達する、土地の神様と直接接する場なので、大事にしなければいけないのだそうだ。

最後に全員でなはパシャし、なえさんとひとりひとり握手を交わした。なえさんの手は小さなはずなのに、なぜかとても大きく感じた。

ところで、なえさんが御願した受験生の合格率は100%合格の記録更新中なのだそうだ。これで今年のプロジェクトは成功間違いなしだ!

追記:
人によっては、久高島は呼ばれないと(縁がないと)なかなかいけない島といわれている。今回嬉しいことに、私にも少し縁が出来たので、そろそろ呼ばれないかなと思う。


次回は是非
2005.03.14
月曜日

『沖縄便利帳2005』好評のようでなにより。平積みの黄色い表紙が目立っている。

この本のハイライトは、県内全市町村ごとに、データファイルを設けていること。公共施設や病院、教育施設の状況を比較しながら済みたい場所を探すのに役立つ。子供のいる移住者には特に便利。

各自治体に相談して取材したのだが、取材の段階では完成形のイメージが掴めないので、自治体によっては対応がまちまちだった。余り協力的でない自治体も有り、手を焼いたようだ。

完成した本を送ったところ、「こんな凄い本になるのだったらもっと丁寧に書けば良かった」という反応の自治体もあったとか。

それはそれでしてやったり。次回は是非今回以上のご協力のほどを。


自信を持って
良い成績

2005.03.13
日曜日

沖縄観光速報社へ行き、『週刊沖縄ふぁん』(メルマガ)の来週号の打ち合わせをする。2002年11月12日から、休刊になっていたこの老舗沖縄メルマガを引き継いで、編集長渡久地明、裏編集長わたくし体制でやってきた。2年ちょっとの間ほぼ毎週休み無しで発行してきたが、次週で私が裏編を卒業と言うことになる。

編集長とはあれこれ話をしたのだが、私はメルマガという媒体がある程度の役割を終えたと思っている。実際、沖縄関連の他のメルマガを見ても、最盛期の部数に比べ多いところでは数万部、数千部単位で減少している。

編集長、裏編集長体制といっても、ほぼ100%をわたし独りで作成してきたことを考えれば、4400部だった購読者数を5500部まで伸ばし、その後1000部弱の減少にとどめることが出来たことは自信を持って良い成績だったと思う。

最後の方は記事を書ききれず、イベント情報を中心とした内容となってしまい、読み物好きの読者が離れていったのも感じていた。忙しくなりすぎて無休の活動に時間が割けなくなってしまったということもあるけれど、理由はそればかりではない。

引っ越して三年も経つと「沖縄ではいちゃりばちょ−でーという言葉があって」などと初歩的な解説はたるくて書けなくなってくる。編集部体制なら引っ越してきたばかりの新人にそういう記事を書かせて、自分は少し深い記事を書くなどして厚みを増すことが出きるが、ひとりではそうも行かないのだ。

逆に新人を使い捨てて、いつまで経っても初心者レベルの記事でよいのだという方針のメルマガもあるが、それは読者を舐めた考えだろう。それで数万部の落ち込みをしているのだから、結果は明らかだ。

結局、一番大きな変化は、ブログの登場に間違いない。

だからといってメルマガに全く意味が無くなったとは思わない。丹念に作られたメルマガはやはり面白いし、ある程度読み物としての需要は減ったかもしれないが、データをプッシュする媒体として、やりようによってはまだまだ充分有効だと思う。

週刊沖縄ふぁん』を発行したあとに、このサイトのアクセスがポンとあがるのが楽しみだった。この楽しみが無くなるのは辛いけれど、やっぱり何事も始まりが有れば終わりもある。そろそろ卒業しなければ。

何より、なじみの読者がいてくれるという実感を失うのは寂しい…。


集中して放送
2005.03.12
土曜日

午前中からミーティング。これまでいろいろ援助してもらってきた形の会社から、協力の要請だった。ようやく助けてもらうという形から何か返すことが出来そうな感じ。良い話しだった。

午後から予定通り大事なミーティング。だいぶ内容が詰まってきた。これからが大変だ。

エフエム那覇では11時から告別式の時間にかけて、林助さんの作品を集中して放送した。

『沖縄漫談 平成ワタブーショウ 沖縄チャンプラリズムの世界 その一』『平成ワタブーショー 沖縄チャンプランリズムの神髄2』『67の青春』『よろず漫芸 平成ワタブーショー スマイル〜沖縄の笑い』『照屋林助作品集』、登川誠仁さんとの対談物『ハウリング・ウルフ』からの選曲。

林助さんの作品は、ほとんどが唄と語りが混ざっている。そのため放送していると、まるで林助さんが番組に出演しているようだった。

早速リスナーから、「今の特集は素晴らしかった。再放送の予定はないのか?」と電話が鳴った。メールでも同じような問い合わせがあった。CDで発売されていると説明すると驚いていた。意外とこうした作品が発表されていることが知られていなかったようだ。

他の県域局はCD化されていない貴重な音源を持っているはずだ。是非そうした音源を作品にするなり放送するなりして欲しいと思う。小浜さんからはいつも「平成ワタブーショウは絶頂期のワタブーショーのクオリティにはほど遠い」と言われているが、ならば絶頂期を伝える作品を掘り起こすのが、ウチナーンチュの使命ではなかろうか。


すっかり動転
2005.03.11
金曜日

激しい雨で朝早く目が覚める。照屋林助さんの死を悼むかのよう。

告別式は3月12日13時から沖縄市倉敷の沖縄葬斎場で行われるとのことだった。12日は大事なミーティングがあって行けない。ミーティングの延期をお願いしようと連絡を取った。

しかし、沖縄では葬儀の習慣が違い、告別式に出ないと不義理ということはなく、四十九日まで毎週行われる法要に出席すればよいという習慣があるので、焦ることはないとたしなめられる。結局ミーティングは実施することにする。

他にもいろいろ教えられた。香典袋は水引の着いていない簡素な物でOK。金額も1000円から3000円くらいが普通で、そのかわり「なんか(七日ごとに行われる法要)」に何度も行く場合、行くたびに納めるという仕組みになっているのだそうだ。内地の感覚で包みすぎてしまったが、逆に失礼ではなかったか…。

なんだか昨日はすっかり動転していて礼儀も分からず行動していたらしい。反省。

午後、箆柄暦東京担当が告別式に出席するため急遽来沖。東京担当は林助さんの生前インタビューを連載するなど大変お世話になったとのこと。今週の火曜日まで遊びに来ていたのに、取る物もとりあえずの再来沖。明日はみんなを代表して出席してもらうことにした。

エフエム那覇では、告別式の時間を中心に、林助さんの作品をたっぷりかけることにした。音源集めに奔走した。

夜、まるみかなーに立ち寄り、小浜さんとゆんたくする。バックにはずっと林助さんの作品がかかっている。途中から聴いたことのない内容になる。『ウンタマギルー』の頃にパルコで行われた公演の録音だった。途中から戸川純とのやり取りになったりして貴重な内容だった。

しんみりとした夜だった。


訃報
2005.03.10
木曜日

朝から悲しい知らせが飛び込んできた。2005年3月10日午前2時33分、戦後の沖縄を笑いを通じて元気づけ続けてきた、照屋林助さんがグソー(あの世)へと旅立たれた。

裏編の元に訃報が飛び込んできたのは、朝9時頃だった。箆柄暦東京担当の情報ソースを中継してのものだった。亡くなられた時間が時間だけに、朝刊の掲載は無理だろうと思い、すぐにネットを検索、テレビ、ラジオを付けたが、琉球新報、沖縄タイムスのウェブには特に更新はなく、ニュース等でも報道を確認することが出来なかった。 NHKは国会中継、民法では「はなまるマーケット」だのなんだの全国ネットの朝のバラエティ番組が流れるばかり、誤報かとも思った。

それでもニュースソースが信頼できる線だったので、間違いはないだろうと思ってはいた。この日は丁度、用事があってコザに行くつもりだった。スーツに黒のネクタイ黒の靴下(自分的には久しぶりにBluesBrothersスタイル)を付けて、「てるりん館」へと急いだ。エフエム那覇に電話して、確認できたらすぐ放送しようと伝えた。

途中香典袋を用意するなどしながら、午前11時頃には「てるりん館」へ到着した。白黒の幕はなく、人影もまばら、報道陣が詰めかけている様子もない。もしや何かの間違いかと思ったが、入口には「忌」の文字が有り、事実なのだなと知った。

入口で林次郎さんに挨拶する。ご自宅の中へ通されると、すでにご遺体は戻られていた。お部屋には親族の方のみおられ、電話がひっきりなしに鳴っていた。お線香を上げさせて頂きながら、ご存命のうちに「箆柄暦」を見て頂き、感想などお聞きしたかったと深く悔やんだ。

やがて玉城満さんが駆け付けた。どうやら早く着きすぎた、私がここにいるのはどうも場違いだ。挨拶を済ませて外へ出ると、うつろに携帯電話を握りしめ、どこかへ電話している人影がちらほら。てるりん大統領出演作やりんけんバンドのステージで見たことのある顔も。私もエフエム那覇に連絡を取り、残念ながら誤報ではなかったことを伝えた。

パークアベニューのトータルプロに立ちよる。ピロ崎浜さんに林助さんが亡くなったよと伝えると、ビックリしていた。事務所には朝からFM沖縄(エフエム那覇とは別です)のハッピーアイランドが脳天気に流れていたが、そんなニュースは読まれなかったらしい。

その後、キャンパスレコードに立ち寄った。ビセカツさんのもとには、すでに追悼特集の依頼が数社から寄せられており、資料を読み返しているところだった。ビセカツさんは、どのようなお別れの言葉を紡ごうかと思いを巡らせているようだった。

ビセカツさんに、朝から報道がないのはなぜなんだろうとぶつけてみた。最初に報道したのはどうやらNHK沖縄だったらしい。NHK沖縄はビセさんが連絡するまで知らなかったが、11時半頃すぐに放送したらしい。

琉球新報や沖縄タイムス、放送局は数日前から準備に入っていたらしいが、どうだったのだろう。ビセさんがラジオ沖縄に電話すると、昼過ぎにニュースで報道したそうだ。NHKの他は昼過ぎからの報道だったようだ。

WEBの方は、新報、タイムスより、朝日新聞の方が先に訃報を伝えと聞いた。

いったい県内の報道陣は何をしていたのだろうか…。


ひとつひとつ解決
2005.03.09
水曜日

沖縄スタイル』の原稿を脱稿。これでようやく一通り抱えていた作業が片づいた。なんだか何度も「これで片づいた」と同じような事を書いているようだけど、ホントにようやくすっきりした。

すっきりしたところで、これから自分の仕事の中心となるプロジェクトに向かうことになる。まずはその根幹となる部分について進捗状況の確認などを目的にミーティング。

楽しい。単純に言って楽しい。何より参加メンバーのモティベーションもモラルも高いレベルにあり、ビジョンも共有できている感じ。もちろんそれぞれの思惑はあるだろうが、それはそれでまた良し。

メンバーにはウチナーンチュもナイチャーも混ざっているが、それぞれに県外での活動経験を持っている。それをふまえて、それぞれが沖縄という場所で感じてきた疑問や不満をひとつひとつ解決してゆく。

そんなプロジェクトに発展すれば良いなと思っている。


●●●
2005.03.08
火曜日

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2005.03.07
月曜日

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あと20年は走らんと
2005.03.06
日曜日

今日は「サルサの日」。Chu Pan Jahのシンジ君からKACHIMBA1551主催のライブがあるのでダンスクラブ松下へおいでませとメールがあったのだが、どうしても見ておきたい映画があってそちらに行った。御免。

その映画というのはザ★ゴールデン★カップスの記録映画『ワンモアタイム』。よさげな匂いがプンプンしていたが、大当たりの映画だった。沖縄では月曜日までなので、バンドマンは見ておくべしと思う。

ザ★ゴールデン★カップスはまだ本牧に「フェンスの向こうのアメリカ」が有った頃、ゴールデンカップという店で誕生し、ハマの不良達やベースの米兵達相手にBluesやR&Bを聴かせて圧倒的な人気を誇っていた。この構図は、同時期のコザと似ている。

しかしまあいろいろあって、当時ブームだったGSバンドのひとつとして売り出され「長い髪の少女」のヒットを飛ばすものの、本牧の不良達のバンドにはかったるかっただろう。これは紫やコンディショングリーンに王子様のような格好をさせて歌謡曲を歌わせるようなものだ。

そんなわけでライブではヒット曲をやらないでブルース、R&Bばかり演奏していた。ザ★ゴールデン★カップスが解散したのは1972年。最後のステージは沖映通りの「OK劇場」だったという。ライブの最中に出火し、楽器が全焼。まさに燃え尽きた解散だった。

前半はside-Aと題して、内田裕也、忌野清志郎、北野武、CHAR、横山剣、鈴木ヒロミツ、矢野顕子などなど、なんだかとんでもない人たちの証言や当時の映像でつづる内容。

後半のside-Bでは再結成コンサートのライブ映像。GSバンドの再結成ライブ映像なんてと思ったら大間違い、ぶっとい音でカッコイイの何の。こってりした生のライブを一本見たような満腹感があった。そりゃそうだ、ルイズルイス加部、ミッキー吉野、エディ藩、おじさん達現役だもの。

自分の親と同じ世代とはまるで思えないと思ったけど、客席に集まったファン達がまさに親の世代。でも客達も今でも悪そうでカッコイイ。自分もあと20年は走らんといかんなと変な勇気がわいてきた。

帰りの道すがら、久しぶりに聴いた「ヨコハマホンキートンクブルース」を口ずさんでいた。


もの凄く寒い
2005.03.05
土曜日

土曜日だけど総掛かりでミーティング。だいぶイメージが具体化してきたけれど、それによって新たな問題点も立ち現れてくる。もう一段階ブレイクスルーが必要な感じ。

それにしてももの凄く寒い。セーターにコート、ニットキャップというおよそ沖縄らしからぬ風体で移動した。部屋にいてもしんしんと冷えてくるので、仕事の続きは朝からにしてとっとと布団に潜り込む。

話によると、奄美大島の山頂(標高484メートル)で積雪が見つかったらしい。浅瀬の魚が寒さで仮死状態になって浮いたらしい。えらいこっちゃ。


恐縮
2005.03.04
金曜日

きょうは「ゆかる日まさる日さんしんの日」。昼間はラジオの中継を聞きながら作業。しかしとくにはさんしんの日らしいこともせず過ごした。「かぎやで風」も弾けないし。

昨日藤木勇人さんから、箆柄向けに「琉球チムドン楽団」の資料を手渡したいと電話を頂いた。箆柄にリアルな事務所はないので、今日の夕方エフエム那覇にて落ちあうことにしていた。

約束の時間ちょっと前に局へ行くと、ご本人が10分前には来社しており恐縮。腰の低い丁寧な話しぶりも芸人さんには珍しい。しかし芸人さん特有の強いプライドのような物はキッチリと感じた。

藤木さんは沖縄がどう見られているのかの変遷を肌で感じながら歩んできた人だ。芸人として芸を見せてきた側からと、観客としてそれをみてきた側の話を付き合わせながら、しばし昔話となった。

面白かった。「マジカル」出演のアポも取れてラッキー。

追記:
3月6日19時から放送の『鉄腕ダッシュ』にちょっとばかりエフエム那覇が登場するらしい。エフエム那覇では事前チェックしていないらしくどんな放送内容になるのかは分からないとのこと。県内の放送は19日の16時から。


それを肴に飲む
2005.03.03
木曜日

箆柄暦秘密営業担当が持ってきたお話しで先方とミーティング。久しぶりに大人のやり取り。まだこういう勘を取り戻せてない感じでちょっと緊張した。

それにしても、秘密営業員の飲み友達ネットワークの威力にびっくり。まさに歴史は夜作られる。特に沖縄ってところは結局こういうつながりが一番大きかったりする。良いのか悪いのか…。

ミーティングのあと少しばかり飲む。気が付くとかなり長いこと外で飲んでいなかった。特に仕事の打ち合わせのあと、それを肴に飲むなんてのはいつ以来だろうか。

アイディア出しと情報交換で楽しくもあり有意義でもありの一席だった。


きっちり傷ついた経験
2005.03.02
水曜日

マジカルミステリーツアー」に、金城実&よなは徹の「連カチャ」コンビが出演。箆柄暦『三月の沖縄』でインタビューを掲載させていただいた事もあり、収録に立ち会う。

今回は金城実さん中心にトークが進んだ。のっけから生まれてまもなく一家でパラオへ移り住み、終戦のどさくさでお父さんと生き別れ、引き上げの途中台湾で兄弟をマラリアで失い、沖縄に戻ったときにはお母さんと二人切りになっていたという話から始まった。波瀾万丈すぎだ。

実さんは「他でこんな話をしたことがない」と語っていた。なぜかそんな話がぽろりとこぼれるのがこの番組の「マジカル」たる由縁なのだ。全然時間が足りなかった。また出演して欲しい。放送は3月8日三板の日だ。

夜メールチェックすると、NUUさんから箆柄暦の取材と、「マジカルミステリーツアー」への出演の了解が来ていた。Kiroroさんの時と同じように、マジカルをベースに記事をしたてる立体企画で臨むか、個別に取材するか検討中。

それにしてもNUUさんの新譜『あかり』、良い出来。タイトルチューンの「あかり」も良いけれど、私は「握手」が気に入っている。自分の中にある割り切れない部分を素直に「やさしくなんてなれない、すべて受け入れるなんて出来ない」と唄ってしまうところに好感を覚える。

こういう唄は、自分自身がきっちり傷ついた経験がなければ、説得力を持って唄えないのではないだろうか。


ちょっと時間が
2005.03.01
火曜日

4月からの新体制に向けて、いろいろなミーティングが続いている。これまでやってきた活動を如何にスムースに新しい器に移行してゆくのか、なかなか難しい。新体制を組み立てる作業と移行作業が同時進行しているので、今月も忙しい。

さて、それでももうちょっと三線も弾きたい。今日はひっさしぶりにお稽古へ。ほんとうに久々に兄弟子も交えて合唱。やっぱり気の置けない雰囲気で演奏するのは楽しい。何より師匠が嬉しそうなところがこっちも嬉しい。

ちょっと手を忘れていて焦る。何回か弾いているとすぐ思い出すのだが、せっかく覚えた物を忘れるというのはなんとも悔しいというか歯がゆいというか。この調子だと最優秀賞はちょっと時間がかかるな。

実際、越城節やまんのーま、たらくじ、更にションカネ、月ぬまぴろーまなど、難曲揃いで歯が立たない。ここからはよんなよんなで行くしかないか…。優秀賞まで一気に走ってきたけれど、本来そういう物なのかもしれない。

八重山の唄は暮らしと共にある唄だと言うし。

帰りに1階のジュネで八重山そばを食べる。こちらも久しぶりに食べる。いつもの通り美味しい。ほっとする美味しさ健在。