戦争における銃創の割合


戦争とはどんなにエレクトロニクスが進んでいようと最終的には地上部隊の攻撃が勝敗を決する。これは湾岸戦争の例があるように、今も変わらない。
当然ながら、戦争があれば、多かれ少なかれの死者が出る。その際の銃創の割合を、厳選して、満州国対モンゴル(実質的に日本対ソビエト)の戦い「ノモンハン事件」のソビエト軍側の資料を元に解説したいと思います。
これしか資料がなかったというのは内緒にしておこうφ(..)(謎)


 ノモンハン事件の概略:

 昭和7年に日本が傀儡国家として建国した満州国とモンゴル(外蒙古)との国境線は曖昧な地域もあった。ようは地形的な目標がない場所も少なくなく、今まで陸地の国境線を殆どもたなかった日本はその点の配慮を欠いていたといえる。現にモンゴルを実質的に支配していたソビエトとの国境線と日本のそれの場所は食い違っており、双方共に小さな衝突を繰り返していた。かくして事件は起こった。昭和13年7月にソビエト軍の小部隊が張鼓峰(ちょうこほう)に陣地を構築する。この張鼓峰は日本側の主張では満州国の領土だった。軍中央は大きな戦いにしたくないので(当時日本は中国との戦争を行なっていた)、現地に駐屯していた第19師団(師団長"尾高(すえたか)亀蔵")に武力行使を認めなかったものの、師団長は独断で攻撃を命令。時に昭和13年7月31日。ソビエト軍は一旦退いたものの、2個狙撃兵師団(ソビエトでは歩兵師団を狙撃兵師団と言う)で逆襲に転じた。日本側は増援は一切おこなわず(大命に背いた以上、増援は認められなかった)外交でなんとか切り抜けた(8月10日に停戦協定成立)。余談ながら、第19師団で出動した第75連隊は文字通りの死守で、なんとか停戦まで張鼓峰を死守した。
 この事件の後に関東軍参謀部では「満ソ国境紛争処理要項」を纏めた。簡単にいえば、「第一線部隊は相手が国境を侵したら積極行動を取れ。」というものだった。ノモンハンではハルハ川が流れていて、日本側ではこの川を国境線と主張して、ソビエト側ではその東を主張していた。こういういざこざがあって、日本軍部隊が「満ソ国境紛争処理要項」を忠実に守った場合、大紛争にならないほうがむしろ不思議だろう。
 このノモンハン事件は昭和14年5月13日に始まり、一旦は日本側はソビエト・モンゴル軍を撃退するものの6月18日にはソビエト軍が反撃開始。日本側も第23師団と第26歩兵連隊、第一戦車団を投入し万全の体制で反撃を行なった。参謀本部が絶対禁止を指示していたにもかかわらず、モンゴル領のタムスク飛行場の爆撃を行ない(100機以上も投入した大規模な空襲だった)、戦いの主導権を握ったと判断した日本軍は一旦はハルハ川左岸(モンゴル領)まで進出したものの、7月3日にソビエト軍は戦車を主力とした部隊で攻撃を行なった。この戦いでは94式37ミリ速射砲や歩兵の火炎瓶攻撃でソビエト軍も100両以上の戦車を失ったものの、ハルハ川東岸(日本の主張する国境線では満州国の領土)に撤退した。同じ頃に95式軽戦車や89式中戦車を主力とする日本戦車隊合計70両は短時間のうちに40両を失ってしまい、全滅を恐れたためか、早々に戦車部隊は撤退してしまった。8月20日にソビエト軍は一大反攻を行なった。300機以上もの戦闘機・爆撃機で猛攻撃を加え、重砲で完膚なまでに敵陣地を叩き戦車部隊と歩兵部隊を進撃させるという、まさに教科書通りの戦いだったものの、日本にはこれを防御する手立てはなかった。孤立した日本軍陣地の守備兵は各個撃破されたか、なんとか停戦まで死守した。9月16日に停戦協定が成立し、国境線はソビエトの主張する線に変えられた。
 余談ながら、ソビエト側ではこの事件を「ハルヒンゴール戦争」とよんでいる。


ソビエト軍の損害:
 ソビエト軍の記録によれば、ノモンハン事件に投入された兵力は69101名で戦死者6831名、行方不明1143名、戦傷者15251名、戦病者701名となっている
EXCELって便利だ(^^;)
 上記死傷者で、原因が判明しているのは至極当然と言おうか、戦傷者と戦病者のみ。戦死者の死因はいちいち調べる事はできないし、行方不明者はなおさら。戦病者の場合は銃創とは全く関係がないので、銃創の割合は戦傷者のみの統計を記載します。

 負傷者の割合は銃創者が6741名、破片創(砲弾・地雷)7381名、破片創(航空機用爆弾)991名、凍傷138名となっている。ここの「銃弾のはなし」には直接関係ないけども、なんで夏の戦闘(5月から9月までの)なのに凍傷者が出たかというと、ノモンハンではこの時期でも真昼30℃を越えたけども、夜には-15℃にもなっており、これが凍傷の原因となっている。実際、この寒暖の差で風邪をひいたソビエト軍兵士も多かった。以上余談。
EXCELって便利だ。2
 さて、上を見て分かるように、この戦いでの負傷者は爆発弾の負傷が半分以上を占めている。これはこの戦闘に限った事ではなく、大抵の戦闘は破片創が多い。大抵の戦争映画では死傷する兵士の多くが銃創だけども、本当の戦争では砲撃で叩いた上で突撃を行うし、阻止砲火で防御側も大量の砲撃を行なうので、必然的に破片創が多くなる。ただし、例外もある。ソビエトとフィンランドの戦い「冬戦争」では銃創者が68%で破片創者が31.9%と銃創者が圧倒的に多かった(余談ながら残りの0.1%は凍傷者)。理由として考えられるのは、冬戦争当時(1939年12月〜1940年3月)の気候は文字通りの冬で、しかも極寒の地での戦闘だったので、雪が爆発を和らげたためと考えられる。以上も余談。
このシチュエーションに他意はないです(^^;)
 上図が負傷部位の数とパーセンテージ。ただし、銃創だけでなく、破片創(砲弾などの爆発物の負傷)も勘定にいれてある。「銃創による負傷の割合」なのに、なぜかというと、理由は簡単で、分離してある資料がなかったからです(^^;)。いいかげんだなぁ(;_;)。ただ、破片創も銃創もパーセンテージにはあまり差はないだろうと思いますので、だいたい銃創による負傷もこのぐらいの確率と思ってくださいA^_^;)アセアセ。
 上図みて分かるように、意外と頭の負傷が少ない点がある。これは当たる確率が少ないというよりは、ここに当たって助かる確率が少ないという事ですね。「銃創のはなし」で詳しく述べますが、当たる確率は非常に高く、鎧が廃れた近代・現代戦でも、また日露戦争までは採用していなかった日本でもヘルメットを採用しているので、ここに当たる確率は高かったと言うべきでしょう。とある兵士の戦場からの手紙でも「・・・上海以来の鉄のカブトの弾の跡。自慢じゃぁないが見せたいね・・・」というのあるので、結構当たりやすかったという結論となりますね。「じゃぁ戦死者の数も勘定にいれろ\(`◇´)/」と声がきそうですが、戦死者の負傷部位の資料がないんです(;_;)。やっぱいいかげんだ(;_;)。泌尿器負傷が42名いるけども、これは「弾道のはなし」で述べた”義根を・・・”の例もあったかもしれない。
 逆にいえば、両手両足の数が半数以上を占めている事実は、ここに当たっても致命傷にはならないという事だと言える。上図からみて、上部位の負傷が多い事実も、やはり上の方が被弾しやすいという事だろう。余談ながら、ソビエト軍の報告書では、下士官・兵の何人かはわざと腕に負傷を生じさせて戦線離脱を試みた者も少なからずいたという。その報告書によると「決定的な手段の後」に止んだという。
 なお、負傷者15251名のその後だけど、1939年11月の時点で負傷者15251名のうち720名が死亡。355名が軍籍を離れた(病気療養や、予備役編入などの措置もこれに含まれている)。3964名が戦列復帰している。残りの10212名はこの時点ではまだ病気療養中という報告がある。のこりの10212名がどうなったかは分からないけども、、戦列復帰が相当な割合を占めている。「相手の反撃を黙らせるには殺すしかない」とは、とある傭兵の言葉だけど、その通りなんだなぁと調べて思った。

 関係ないですが「戦場における銃創の割合」と銘打ったワリには資料が不完全だったす(;_;)


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