96式25mmホチキス式対空機銃
写真ないっす(;_;)
種類:対空機関銃

性能:

全長       2400mm
重量        37.0kg
使用弾薬     25mm
発射速度   120発/分
初速        900m/s
 第一次大戦から登場した航空機の出現は「対空兵器」というジャンルを生み出した。当初は歩兵用機関銃がそのまま転用されていたが、照準器に難があったし、空に向けて撃っていてもどこに飛んでいるかが分からないので(2年も機関銃を撃っていると慣れてきて飛んでいく弾が見えたとも伝えられているが、戦場に2年もいたら戦死するか負傷除隊しているだろう)その運用には限界があった。後に対空用照準器が開発され、曳光弾も開発された。

 第一次大戦直後のデータで、航空機1機を落とすのに必要な銃弾は4000発と見積もられた。金属部品なんてフレームと計器とエンジンと機関銃ぐらいで、外皮は布張り、パイロット・燃料タンクを守る防御装甲板など全くなかったし、速度も200km/hにも満たなかった時期においてでさえこれだけの銃弾が必要とされた。

 1930年代から航空機のエンジン性能は飛躍的に向上した。不可能と思われた300km/hなんて軽がると突破したし、飛行船を除いては重量物なんて詰めなかった航空機も大型化の恩恵で大量の貨物(といっても2tとかそのレベル)や人員が詰めるようになり、航空機輸送は(高嶺の花とは言え)活発化してきた。当然、軍用機としても注目され、地上襲撃機用の爆弾搭載可能な航空機も作られていった。
 さて、航空機の搭載量が増えるとなると爆弾搭載量も増えた。これを対艦攻撃に使うことも考えられた。大砲の弾は最大で40kmほど飛ばせればいいほうで、しかもこの距離での命中はほぼ不可能で、最大有効射程はせいぜい20kmほどとされた。それでも100発撃って1発当たればいい方だった。航空機はというと、時代によって航続距離は違ってくるが、200km以上は飛んでいって帰ってこれた。命中精度も急降下攻撃機ならば、日本の例で言えば80%もの驚異的命中精度だった。これは極端な例だが、普通の攻撃機でも10%は命中が期待できた。早い話が砲撃よりもずっと効果はあった。
 やはり航空機による対艦攻撃で一番良かったのは魚雷が詰めるようになったことがあるだろう。艦船は何百発の命中弾を受けようが、艦船が浸水しない限りは絶対に沈没しない。魚雷は喫水線下を攻撃するので命中すれば確実に浸水が期待でき、駆逐艦クラスの小型船ならば1発食らわせれば撃沈もできた。
 第二次大戦の海戦のカギを握ったのはこの急降下爆撃機と魚雷を積んだ雷撃機だったと言えるだろう。日本海軍の象徴とされた戦艦大和に引導を渡したのもこの2機種だった。
 当然、艦船はこれらに対する防衛手段も必要になってきた。陸上で用いてきた7.7mmクラスの機関銃では威力不足だった。艦船の場合は大抵が視界がよい地形での射撃だし、人力で運ぶわけではないので重量制限がないので、より大口径の方が射程距離も長く威力もあり好まれた。

 昭和7年(1932年)、海軍工廠はフランスのホチキス社から13.2mm機銃と25mm機銃を参考購入した。同時に製造権も購入することになった。当時の日本といえば無断コピーも結構行っていたが、製造権を購入したのは注目できる。昭和7年当時といえば満州事変の翌年で諸外国からの日本への圧力が高かった頃で、特にアメリカは強く非難していた。アメリカを仮想敵国としてきた日本海軍は脅威に写ったのは想像に固くなくともかく即座に艦艇の戦力増強を行いたかったのだろう。製造権を購入すれば図面一式がついてくるし、なにより製造元のホチキス社に堂々と製造のノウハウを聞けるという強みがあった。

 96式25mm機銃は名前のように昭和11年には制式化されたと思える。ただ日本では制式年度を想定して前々から○○式と名前を仮に決めておくので実際に昭和11年に採用されたかはわからない。ちなみに、艦艇に搭載されたのが確認できるのが昭和10年に行われた戦艦金剛の改装からだった。

 96式25mm機銃は対空機銃として陣地および艦艇に搭載された。特に艦艇にはほとんど全てに搭載されたと言ってもいい。ただし、2連装ないし3連装でバーベットに搭載してから設置する方針だったようで、大抵の場合はそうして製作されて艦艇に搭載ないし陣地に設置された。対空機銃としての威力が文句なかったという理由もあるが、信頼性が高かったという理由もあったろう。太平洋戦争時の海軍兵士の手記などを見ても「よく故障した」とかいう、他の兵器で良く見受けられる記載が見られないし、射撃しなければいけない時にはちゃんと射撃できたのだろうから、故障はほとんどなかったと言っていいだろう。ちなみに、太平洋戦争末期になると搭載するバーベットの生産が追いつかないので、96式25mm機銃単体で、簡単な銃架に乗せて対空機銃とした例もあった。後述するがこっちのほうが評判は良かったという。

 96式25mm対空機銃は弾重250gの弾を初速900m/sの速さで撃ち出せた。銃弾は原則として曳光弾で、この弾は4秒ほど発光して飛んでいった。当然、初速900m/sのままの速度で飛んでいくわけではないが(空気抵抗で速度は下がる)4秒あれば2500mは飛ぶ。対空機銃として考えた場合、これは十分な数値と言えた。

 昭和20年6月に海軍砲術学校が纏めた書によると「25mm機銃が(航空機目標に)命中を期待できるのは1500mまで。これ以上の距離では撃ってもムダ。」という結論を出している。

 1500mの距離といえばいかほどだろう?。

 雷撃機の場合、雷撃高度はだいたい10mとか低高度だけども、水平距離での1500mといえばちょうど敵艦に攻撃せんと吶喊(とっかん。突撃)をかけている距離だった。雷撃時の魚雷発射速度は雷撃機速度の慣性で高速で進むが水中に入ると水との抵抗で急速に速度を失い、魚雷の巡航速度まで即座に落ちる。1500mの距離で雷撃をかけた場合、敵艦まで到達するまでに1分ぐらいかかった。対する艦の方は大型艦になればなるほど舵がききにくくなる。戦艦大和の場合は舵を切って実際に艦が旋回するまでに約30秒かかったと言われている。早い話が1500mで雷撃したら目標艦には30秒の余裕があるわけで、操鑑技術が多少なくても回避の余裕は十分にあった。ただし雷撃時に魚雷は上から落とすわけだから引力で水中落下時に50mももぐってしまう。その深度補正でどうしても500m以上の距離が必要だったから、雷撃開始距離は800m前後だった。

 急降下爆撃機は高度6000mで巡航し、目標(ここでは敵艦)を見つけると高度3000mまで軟降下し、高度3000mから急降下して高度500mほどで爆弾を投下する。急降下爆撃では1000m以上で爆弾を投下しても命中が期待できなかったという理由がある。また、500m以下で爆弾を投下すると急降下状態からの引き起こしができなくなるので(ようは海面に激突する)爆弾投下距離は500m〜1000mの間だった。ちなみに高度1000mを切るとたとえ敵艦に命中しないと分かっていようが爆弾を落とさないといけなかった。そうしないと爆弾重量の重みで引き起こしができなくなるからだった。実際、爆弾投下装置が壊れてそのまま海に突っ込んだ事例はいくつかある。

 この距離ならば96式25mm機銃も存分に威力を発揮できたはずで、たとえ当たらなくても雷撃機や爆撃機のパイロットをビビらせるのには十分だった。上でも書いているように2000mちょっとは曳光弾が光って撃ち出せたから、至近弾だろうがビビらすことはできた。心理的プレッシャーをかければ遠い距離から魚雷や爆弾をリリースさせられたから、命中率をより低くできたわけで、理屈の上では有効だったと言えた。

 しかし実際にはそうはいかなかった。上でも書いているが、96式25mm機銃はバーベットに搭載してから設置するのが建前だった。このバーベット搭載型は銃の上下は銃手が行うが、旋回は別人が行うために照準を合わせるのが一苦労だった。敵機は300km/hを越える速度で三次元飛行しているし、乗っている艦も回避行動で面舵・取舵を行うので照準が余計に難しかった。バーベットの生産が追いつかないのと、取り急ぎ対空機銃の増設を行いたいがために射手の腕力で照準を行う単装の25mm機銃も搭載されていった。上下左右の照準を射手自身が行えるために向かってくる敵機に対してはより有効に照準できたという。連装よりも評判は良かったと言われている。ただし、銃身が熱をもってしまうので(連装以上のものはどれか1つを射撃させてあとの銃は銃身を冷やすために射撃を止めていた)連射能力に限界があった。昭和19年10月のレイテ戦直前に戦艦大和・武蔵にはこの単装機銃が所狭しと配備されていたが、あくまで応急的なものだったので、主砲発射の時には射手は退避しないといけない場所もあった。また、その際に銃自体が壊れる場合もあったろう。そのせいか、単装機銃は昭和20年4月の沖縄出撃時にはほとんど撤去された。そのせいではないだろうが、沖縄出撃時、戦艦大和には合計152丁の96式25mm機銃が搭載されていたが、そのほとんどはバーベット搭載の、上下照準と左右照準が別人で行う3連装機銃だったが、大和以下6隻沈没と引き換えに撃墜したアメリカ軍機はたった10機でしかなかった。ちなみに、対空機銃増設の年度別のを表にすると、

戦艦大和
460mm主砲
155mm副砲
127mm高角砲
25mm機銃
銃門数計
昭和16年12月
3連装×3=9門
3連装×4=12門
2連装×6=12門
3連装×8
24
昭和18年秋
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×12=24門
3連装×12
36
昭和19年1月
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×12=24門
3連装×12,単装×26
62
昭和19年3月
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×12=24門
3連装×24,単装×26
96
昭和19年7月
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×12=24門
3連装×29,単装×26
105
昭和20年4月
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×12=24門
3連装×50,単装×2
152

戦艦武蔵
460mm主砲
155mm副砲
127mm高角砲
25mm機銃
銃門数計
昭和17年8月
3連装×3=9門
3連装×4=12門
2連装×6=12門
3連装×8
24
昭和18年秋
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×6=12門
3連装×12
36
昭和19年4月
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×6=12門
3連装×18
54
昭和19年5月
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×6=12門
3連装×30,単装×26
116
昭和19年7月
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×6=12門
3連装×35,単装×26
130
昭和19年10月
3連装×3=9門
3連装×2=6門
2連装×6=12門
3連装×35,単装×26
130


になる。25mm対空機銃の数自体は増えに増えていったのがわかるだろう。それでも、落とした敵機が少なかったのは、3連装機銃ばかりだったからだろうか?

 先に書いているが、この96式25mm機銃は大小全て合わせてもほとんどの日本海軍艦艇に搭載されて使用されている。搭載数は艦の大きさが大きくなるほど数は多いが、海防艦などの小艦艇には何丁かしか積んでいなかった。陸上基地の対空砲部隊の報告書でも「有効な対空射撃のために1つの対空陣地に8〜12丁配備したい」と報告しているぐらいだから、単装でもいいから、かえってそっちの方が対空能力は上がるから配備していれば、あそこまで沈没させられることもなかったろう。
 また、補給軽視と言われた日本でもさすがに輸送船は基本的に護衛がつくからだろうが、輸送船自体は対空兵器としては7.7mm機銃程度しか装備していなかった。ソロモン海域他の南方海域で攻撃機による沈没が多かった一因であったとも言われている。攻撃機による艦船攻撃は命中率が悪いと上で書いたが、アメリカでは反復爆撃という、爆弾を一旦海水にぶつけて跳ね返させて艦船に命中させる攻撃方法を実践していた。この爆撃方法は進路さえきちんと取れば命中が約束されたほど命中率が高かったといわれている。実際には敵艦船群の真上を通過しないといけないので相手が強力な対空火器を持っている場合は撃墜される可能性はあったが、対空兵器類が乏しかった日本輸送船は次々に沈められていった。こういった輸送船に多数の96式25mm機銃を積んでいればあそこまで沈んではいなかっただろう。
 後知恵なら何とでもいえるが、当時の日本の工業力を考えても無理がない対空能力増強方法だったと言う事を考えると悔やまれてならない。

 96式25mm機銃は航空機には転用されなかった。20mmよりも威力があり30mmよりも軽いのだから航空機に積んでもよさそうなものだが、転用されなかった理由は良く分からない。恐らくベルト給弾式への改造の手間を惜しんだか、航空機用に転用できるほど量産していなかったからだろう。

 96式25mm機銃の欠点は上で書いているように連装以上のバーベッド搭載型は上下照準と左右照準が別人で行ったために高速で動く航空機を狙うには困難だった点があった。また、大型艦船に搭載した型はLBR照準装置という何丁かを連動させて狙う装置があったが、この装置が昭和5年前後の航空機性能を想定していた。つまりは速度が200km/h程度で飛んでいるのを想定していたために年代が進んで400km/h以上が当たり前になってくるともはやこの照準装置は役には立たなかったとされている。

 利点は銃弾威力が文句がなかったのと生産性が良かったのと、なにより故障が少なく信頼性が良かった点に尽きるだろう。だからこそ終戦まで生産され使われ続けてきたのだった。


一覧に戻る