99式1号固定機銃
写真ないっす(;_;)
種類:航空機用機関銃

性能:

全長       1331mm
銃身長      812mm
重量        23.2kg
使用弾薬     20mm
装弾数       60
発射速度    535発/分
初速        600m/s
 20mm口径以上の大口径航空機機関銃は今は当たり前となっている。というか今の戦闘機に搭載する固定機関銃では20mm未満は存在しないと言ってもいい。第一次大戦期の航空機機関銃は7.7mmクラスが主流だった。理由としては、当時の非力なエンジンと軽量な機体ではそれが限界だったという理由もあった。第一次大戦が終わって航空機が目覚しく発達してくると、大型の機関銃も搭載されだすようになった。これには反対の向きもあり、特に戦闘機同士の戦いでは3次元に、しかも高速で動き回るためにピンポイントな射撃のチャンスは一瞬しかなかった。そのために小口径でも弾幕を張って数撃って当てるという戦術も有効だった。いくら金属の機体とはいえ、飛ぶ関係上装甲はコクピットや燃料タンク周辺のみで、たとえば胴体に当たって方向舵か昇降舵の索を撃ちぬけばそれで撃墜確定なのだから、たしかに的を得ていた理論であり、この戦闘機乗りの主張も間違いではなかった。しかし第二次大戦では格闘戦から一撃離脱戦となっていき、1回のパスで撃墜できる威力のある機関銃がいいという結論となっていった。だがそれはずっと後の話だった。

 航空機に20mm機関砲が搭載された最初の機体はフランスのドボアチンD-501で、時期は1933年11月だった(ただし注文時期で、引渡し・配備は1934年になってから)。隣国ドイツで極右なヒトラー内閣が成立した時期もあったのかもしれないが、この時点では、条約上ではドイツには軍用航空機は1機も存在しなかったのだから、なぜ故に20mm機関砲を搭載したのかはよくわからない。もしかしたら、ドイツの民間機が爆撃機に化けてフランスに襲ってくるのではないかという脅威を感じたのだろうか?。さて、これを境として、ヨーロッパ諸国ではいくつかの20mm機関砲搭載戦闘機が作られた。

 さて、日本陸軍では20mmの航空機機関銃が注目されたのは大正末(1920年代中頃)でそういう点では早い方だといえた。ただ、当時の航空機技術では20mm機関砲の重量はかなり堪えたのは言うまでもなく、戦闘機に載せての運用を考えていたかはわからない。日本陸軍では重爆撃機用の防御機銃としては太平洋戦争前から搭載されていた。普通に考えて重爆撃機は大きいため重量のある機関銃を積めたからだろうし、日中戦争の中国軍機からの少なからずの損害から大きい機関銃の方がいいという結論に達したのだろう。ただ、戦闘機用としては、12.7mm機関銃止まりだった。緒戦の頃はそれでもよかったのだろうが、太平洋戦争中盤から、装甲のある連合軍航空機相手では威力不足だったし、沢山当てれば敵機は落ちるには落ちたが、その間に返り討ちにあう例もあった。一番有名な例は、太平洋戦争中に戦意高揚映画として名高い「加藤隼戦闘隊」の加藤中佐機がブレニム爆撃機の後方機銃の返り討ちで戦死している。「隼に20mm機関砲を搭載していれば・・・」と後の戦史家も嘆いた。

 日本海軍はといえば、航空機用としては20mm機銃(ちなみに、日本陸軍では12.7mm以上を機関砲と、日本海軍では連射できる火器を全て機銃と読んでいた)にはあまり興味を示してはいなかった。日本本土の防衛は陸軍担当とされたため、日本海軍戦闘機の目標物といえば敵戦闘機であり、または味方艦船を攻撃せんとする攻撃機・雷撃機だった。攻撃機・雷撃機は重量のある爆弾・魚雷を搭載する関係上、堅固な装甲を施すことができなかったため7.7mm機銃でも十分だった。また、味方攻撃機・雷撃機搭載機銃の目標物はやはり敵戦闘機だった。ただ、上でかいたように1934年にはフランスで20mm機関砲搭載のドボアチンD-501が配備され、仮想敵ソビエトでも同年に20mm機関砲を搭載したI-16戦闘機を初飛行させていた。そのためにそれに触発されたのだろうとしか言えないが、この頃から日本海軍は20mm機銃に関心を示していた。7.7mmから12.7mmクラスを飛び越していきなり20mmに口径選定をした理由の真相はわからないが、単純に「12.7mmよか20mmの方が威力があるやろ?」という理由だったのかもしれないが、それでも大英断には違いなかったろう。この英断を下したのは、当時航空本部長で後に連合艦隊司令長官となる山本五十六だった。
 ちなみに、上でかいたI-16戦闘機は後に日本海軍戦闘機と対決することになるが、中国戦線に登場したI-16戦闘機には20mm機関砲は搭載されていない型だった。また、I-16戦闘機の機関銃は1点に集中しないので、もしかしたらI-16戦闘機の20mm機関砲は対地攻撃用だったのかもしれない。

 さて、英断を下したとはいえ、海軍内部にはどこの馬ともわからない20mm機銃の輸入・開発・戦闘機への搭載には反対する人も多かった。そこで推進派は、三菱商事を通じてエリコン20mm機銃を輸入しようとしていた浦賀海渠株式会社の機銃部門(富岡兵器製作所)を分離して大日本兵器株式会社を設立した。昭和10年(1935年)9月には大日本兵器に32丁のエリコン20mm機銃が輸入されさっそく研究が始まった。製作方法の研究だけでなく、運用の研究も同時になされ、昭和11年には96式艦上戦闘機に試験的に搭載してテストされている。大きいので主翼に積んでのテストだったが、当時は機銃の遠隔操作方式が未熟だったのでいろいろとテストがされた。結局は96式艦上戦闘機の量産型には20mm機銃は搭載されなかったが次の艦上戦闘機への搭載は絶対要求だった。ともあれ、この20mm機銃を作り上げないことには新しい艦上戦闘機も作れないからともかく実用化を急いだ。昭和12年(1937年)の日中戦争勃発の影響もあったろう。
 昭和13年にはやっと国産品が完成して同じ年の8月には空中運用テストも行われた。ちなみに当初の予定では昭和13年7月の完成の目処だったので多少は遅れてはいたもののほぼ予定通りだったといえる。そして採用され、「99式20粍1号3型固定機銃」と命名された(ただし以降では99式20mm機銃と呼称する)。

 99式20mm機銃は零式艦上戦闘機(いわゆる零戦)に最初に搭載されたのがよく知られている。同機は昭和15年(1940年)6月には中国戦線の漢口(ハンカオ)基地に進出し、昭和15年9月13日に重慶上空に味方爆撃機護衛の際に、爆撃を回避するために空中退避していて重慶基地に帰って来ようとしていた中国軍戦闘機27機を同地で全機撃墜する大戦果を挙げた(日本側発表)。これは中国軍機31機中27機撃墜であるとか、27機も撃墜していないとかいう説があるが、戦果をあげたのは紛れもない事実だし、その時戦闘を行った12機の零戦は全機帰還している。この大戦果に海軍上層部は、機体を作った三菱重工、エンジンを作った中島飛行機、そして99式20mm機銃を作った大日本兵器を表彰している。その手放しの喜びようが知れたと共に99式20mm機銃の破壊力が発揮できたと言うところだろう。アメリカ側も、この日本新型機には注目し「Type Zero」と仮称して中国から報告書を取り寄せた。ちなみに、零戦のアメリカ軍コードネームは「Zeke」だがアメリカ軍パイロットは仮称の「Zero」で通していることから、よほどこの重慶上空の戦果が影響したといえるだろう。

 その後も、太平洋戦争勃発と共に、99式20mm機銃を搭載した零戦はアメリカ・イギリス軍機相手に奮闘した。特に零戦の機動力の良さと日本海軍搭乗員の錬度の高さも相俟って文字通りの無敵の活躍を行った。「入道雲とゼロ(零戦)が見えたら逃げろ」とまで命令が出されるほどだった。
 その裏には99式20mm機銃の破壊力があったとされる。たしかに20mm機銃は1発食らわせると炎上したとかいう話はある。太平洋戦争開戦時に20mm機関砲を積んでいた戦闘機は日本の零戦だけで、アメリカ軍機が装備していたブローニングAN-M3(M2重機関銃の航空機搭載型)と比べた場合、銃自体の本体重量はほぼ同じでアメリカ軍戦闘機は翼に2丁ずつ計4丁が標準だった。零戦は1丁ずつ計2丁で、戦闘機は10kgでも飛行性能に大きく左右するのでこの利点は大きかったろう。また、威力を比べるとマズルエナジーでは99式20mm機銃の方が若干大きかったが、99式20mm機銃にはブローニングAN-M3にはない榴弾があったのでその破壊力も大きかった。そのために「零戦は運動性能に優れ、また20mm機関砲の破壊力で無敵の力を誇った」と良く書かれている。
 ただし、零戦搭乗員の手記ではあまりいいことが書かれていない。たしかに、当たった時の破壊力はすばらしいとは認めているが、実際に当てられないという苦情があった。零戦(太平洋戦争初期の21型)には99式20mm機銃と毘式7.7mm機銃が2丁ずつ装備されていた。海軍の試験では7.7mm機銃弾は撃ってから500m離れたときに296cmドロップ(沈下)するが、20mm機銃では同じ距離で490cmドロップした。早い話が同じ機体に積んでいる銃器の弾道が違っていたのだった。また、99式20mm機銃自体の信頼性も高くなかった。99式20mm機銃は圧縮空気作動式だったが、これは当時の日本でも結構高度な技術で開発段階でもなかなか苦しんだ。強引に量産化したためにその遠隔装置の故障が相次いだと言われる。ちなみに7.7mm機銃は機首についており、銃本体後部が操縦席にあったので自分でコッキングができたために多少のジャムならなんとか自分でできた。主翼内でのジャムは直しようがなかった。
 99式20mm機銃は通常弾は榴弾だった。10gの炸薬が入っていて、ある程度飛んだら自爆する仕組みになっていたが、銃身内部で自爆する通常弾も多かったといわれる。これは日本の製造技術の未熟さから起因したとされる。そのために後には自爆しないように設計されて作られたもののそれでも自爆事故が絶えなかったと言われている。

 99式20mm機銃自体は、上で書いた初速の遅さに起因する弾道の不安定さと威力のなさが嫌われて太平洋戦争中頃以降は銃身の長い2号機銃が作られて搭載されるようになった。
 

 99式20mm機銃は圧縮空気装填方式を採用している。圧縮空気ボンベを動力源にボルトを動かすものだが、ボンベに空気を充填する必要があったので、地上整備の際は大変だったろう。ちなみに、いくら人力主力な日本とはいえ、当時からしてガソリンエンジンの空気吸入器ぐらいはあったので、それで空気をボンベに入れていたと考えられるが、貴重なガソリンを浪費するから、実際には手動式で詰めていたのだろう。ちなみに、重量150kgぐらいの大型空気入れも日本にはあった。
 榴弾を弾として使う関係上、オープンボルト式を採用していた。クローズドボルト式だと発射スタンバイの際に薬室に銃弾があるが、これだと発射して熱をもった薬室で榴弾が自爆する恐れがあったためだった。オープンボルト式だと発射スタンバイの際に薬室にないのでその事故は防げた。ちなみに、機関銃のように発射直前にボルトが閉鎖する方式ではなく、ボルトの閉鎖は行われなかった。つまりは短機関銃のオープンボルト方式と中身的には同じだった。ただし、そのままだと発射の際に高圧ガスが機関部に流れ込むので、ボルトが10mm没入するようになっており、緩衝バネと慣性でなんとか発射まで持ちこたえた。没入するといっても薬莢があるので実際的には没入しないが(銃弾がない状態だと没入する)その前進の慣性で閉鎖をしていた。あと20mmクラスの銃器の緩衝バネは単車のサスペンション用バネぐらいあるのでそれでも良かったのだろう。この方式は閉鎖器がいらないので重量を軽くできたという利点があった。


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