| 自 分 史 |

だんだん書きます!!
![]()
出生から乳児期
1
昭和1桁後半生まれ 群馬県伊勢崎町(現伊勢崎市)に生まれる
生まれた時のことは覚えていないが(当たり前)
オルゴ−ルみたいな音が上の方でするのは今でも覚えています。
勿論見えない、 体は上を向いたままで寝返りなど出来るわけがない
どのくらいの日時が過ぎたかわからないが、やがて少し見えてきた。
今思うと母親の声はそれ以前から聞こえていたしある程度の簡単な意味も理解でき
ていたのではないかと思います。
ただそれだけ…………
次の記憶は言葉が話せるようになってから
![]()
幼 児 期
2
60年以上前のことなのであまり記憶に残っていませんが,たぶん2歳ぐらいと思うが
親戚のお爺さんが遊びに来たので母親がサンマか鰯を焼いて出したのを頭から
尻尾まで全部食べてしまったのを見ていて,傍で「お爺さん,頭と骨を出さないかい」
お爺さん,(うん,いいや)この会話だけは今でもはっきり覚えてます。
どちらが先か覚えていないが,もう一つ。
母親が天ぷらを揚げているのを傍で熱いのを2.3個食べてしばらくして急に寒気
がして体が震えだし母親に叱られると思い「かーぼーちゃんなんだか熱いんだよ」
と反対の訴えをしたの今でも覚えてます。
母が熱を測ったらすごい高熱なのですぐ医者を呼んだそうです,もしこのままだと
父親に母が大分叱られてしまうと思ったそうであるが,医師が到着したときは
すでに熱は下がり玄関が開いた音で「誰だ」と言ったのも思い出しました。
医師はこれだけ元気があれば大丈夫…といって簡単な処置をして帰っていきました。
お月さまが怖くて暗くなると早く窓を閉めるように…缶詰の缶を部屋中転がすのが
好きでした…毎朝目覚め時砂糖(ざらめ)を舐めるのが日課だったようです。
![]()
3
暫く記憶が途切れます。
5.6歳の頃現在の住所へ移転しました。
その当時の記憶は殆ど思い出せません。
強いてあげれば遊び友達のシンチャン(呼び名)とその姉のオリョウチャン
が現在でも健在で、オリョウチャンには白寿センターと言う所でお目にかかります
シンチャンには、以前市役所に勤務していたときにお目にかかったが,役職も
だいぶ上役になって退職したとの噂を聞きましたが,現在もご健在でご活躍
とのことであります。
移転当日は父に抱かれて、前住所の紺屋町(現曲輪町)から同聚院前まで来て
抱かれているのが大変なので降りて「歩いて行く」といって歩いた記憶だけは昨日
のようにはっきり記憶に残っています。
祖父が軽井沢の駅長の時に急死したため私の父が次男なのに家を継いだのは
少し訳があります。
当時長男(伯父)が東京の文理科大学(現在教育大学)在学中であり、急遽戻るのを
躊躇したらしいです,どのような話し合いがあったのか定かでないが,私が義務教育
卒業後の進学は大学まで、伯父(長男)が責任を持って面倒を見るのが条件
だったようです、軽井沢の駅長の次は上野の駅長になるのが当時は不文律ながら
決まっていたそうです。
約束の条件どうりにならなかったのは、終戦時の都会の食糧事情が一番らしいです。
もしそのようになっていたら今頃はどう人生が変わっていたか事実は小説より
奇なりですね。
![]()
幼年期以後
4
母は農家の生まれで18才頃まで,東京の伯父の家に行っていたと話していました
帰ってきて,時々伊勢崎へ友達と遊びに来た時に,踏切番の父の目にとまり
自転車で後を付けられて(今ならストーカー),それから家に遊びに行くうちに
自然と恋愛関係に発展して,結婚したと生前母が話していました。
当時は父方と身分が違い過ぎるので,祖母に父が大分反対されたみたいです。
祖母の家に入ってからもず−っと折り合いが良くありませんでした。
5
私の隣近所には同年齢の子供や1年違いの幼友達が半径100メートル以内に
ざっと数えても10名を下らない程住んでいました。
5、6歳から6年生頃まで同じ顔ぶれでいつも遊んで居たのが今でも懐かしく
想い出されます。
遊びは路に釘を刺して陣地取りやビーダマ遊び、メンコ(この土地ではブッツケ)
かけっこ、鬼ごっこ、冬はたこ揚げ、竹馬乗り独楽回し、夏は近くの川で水遊びや
魚取りそれから近所のお稲荷様の狛犬に跨ったり、私たち同年代の皆さんは
日本中で同じような遊びをしていたような気がいたします、銭湯へ行くのも
映画(活動写真)見るのも仲間といつも一緒でした。、
6
祖父は(母親の)私が4年生の時に亡くなりました。
今の喉頭癌と言う病名で当時は瘰癧(るいれき)と言っていたようです,自分の子供
には厳格だったらしいが,私には優しい祖父でした,今でも目に浮かぶことが
あります。





上段の写真は左から祖父,祖母(母方)父,母(結婚前)父の友達と私(私以外は故人)
下段は左から私,妹(長女)母,祖母,叔父(母方)妹(次女) 昭和18年頃
祖父と祖母は昭和19年,父は昭和14年に亡くなってます,母は昭和53年没。
此の写真を見ると当時を鮮明に回想されます,出来ることなら戻りたい。
母親の生家方にも祖母や母親が健在当時は従兄弟が2歳から6歳年下まで居たので遊びには
困らなかった,当時は未だ昭和10年代の後半で男性は殆ど全員が洋服だが女の子は未だ着物
姿の子が少しは居たようだ,子供なので遊びは殆ど田舎のため共通して楽しんだ。
勿論皆さん今でも元気で地元組や女の子は結婚して東京,横浜方面でお孫さんに囲まれて
楽しく暮らしているとの噂が,年に数回従兄弟の処に遊びに行くと風の便りであるそうです。
下の写真は現在撮影したものです(母親の生家付近,同所)左は北方面,右は南方面撮影(H16.11.23)
赤堀町今井(平成17年1月1日より伊勢崎市に合併予定)左画像が北方面で前方右が母親の実家です
当時はこの道路はリヤカーの幅で周囲は殆ど桑畑,たまに視界が良い処は野菜畑で家は一軒も見当たらなかった

7
学校を卒業と同時に(義務教育)遊び友達は進学組と就職組に分かれ,進学組も
希望校が違うため,バラバラになってしまいそれ以来都会へ行く人や地元組など
で消息不明の人もおり,中にはお亡くなりになった方も数名居るとの噂です(平成16年現在)
8
私は成人後地元で群馬県知事の認可を取り各種学校を経営して現在に至っております。
これから成人後の過去のこと少しづつ書きましょう。
当時は遊びはほとんど何もなく,友達に(同級生)にダンスホール見学に誘われて行ったのが
始まりで,数日後に習い始めてから,まさかその時は今まで続くとは夢にも思っていま
せんでした,その友達は現在はこの世に居ません。
間もなく同年程度のダンス友達が出来て安酒を飲み歩いたり,若さを堪能するようになりました
ダンスもステップを覚えたり,基礎を学ぶと奥行きの広いのに驚きました,数少ない専門書
を買い求めて,もともと嫌いでないので熱中しました,競技会に出場したり,試験を受けたり
しばらくはダンスオンリーでした(写真の趣味は15才から)。
9
少し前後しますが,私が中学3年生の時代の習い事はクラスで1,2名の生徒がそろばんを習って
いた時代でして他の習い事は皆無でした,食べることが精一杯の時代なのでそんな余裕は
ほとんど無い時代です。
歩いて20分程の会議所(現存)で北と南の小中学校の4年生以上の生徒の中で中学3年生は
北中の女の生徒が一人で,後は6年生が数名程度で殆ど4年生でした。
従って話の合う年齢はその北中の彼女だけでした,行けば会えるので毎日6時が楽しみで,それが
励みになり上達したようなものです,
いつも帰りは下級生を数名従えて,彼女と話しながら帰るのが楽しみでした,それが突然彼女が
今日で止めると言ったときは口が聞けずに,暫くしてから止めないように説得しました,が駄目でした。
万一の期待を抱いて翌日行ったが駄目でした,暫くの間気が抜けて練習もうわの空でした,彼女の
名前は木暮ジン子と言ってましたが,どんな字を書くのか不明です(これは旧姓で本名です)
今でもご健在なら探して一度お目に掛かりたいと思います。(05.06.02)
10
NO9と同じ年代の後半になりますが,20才当時初めてダンス友達の2才ほど先輩に酒をご馳走になったのが,此処にあった友達の姉さん経営する料亭でした。
道路に面して格子戸の玄関があり,入ると直ぐに緋鯉のいる池があって,そこを回って廊下伝いに各部屋に入る純日本風の料亭でした。
今でもテレビで良く見る料亭と同じです,最初2杯程グイ飲みさせられてから,5分ほど過ぎて又一杯呑まされましたが,少しも酔わないので,先輩の友達は始めて呑んだと思ってないようでした,自分でも酒に強いのがその時に判りました。
写真のように現在は駐車場ですが,当時は手前約4分の1が肉屋でソーセージ等自家製造の販売店で,その後ろが皮膚科の医院でした,道路右奥4分の2が料亭でした,現在も道路沿い右に見える建物で,先輩友達の姉さん(ママ)と娘さんでスナックを経営しています。
最近,先輩友達の消息を電話で尋ねたら,4年ほど前にお亡くなりになったと教えてくれました。(05.06.18)
11
年代は昭和30年頃のことだが,当時盛んにダンスホールが流行してました。
初めて知り合い,踊った女性と二人で散歩に出かけいつの間にか河原に出ました。
反対の崖状の高い処が戦争当時の避難壕の大きな穴が幾つか掘られたままになって
残ってました,夕方薄暗くなり自然にその中に入り,話し込んでましたが,お互いに
若い時代で,何となく変な気持になり男女の関係に初めてなってしまいました。
私は初めての経験でしたが,彼女はもう素人でも慣れたものでした,どうも私より
年上のようで,結婚を要求されて返事をしてそれから行為に及びました。
帰りは何となく虚しい感じででした,何日か悩んで又ダンスホールで会いましたが
もう何の気持ちも湧きませんでした,彼女もそのようで結婚の約束を解消する話を
持ち出したらあっさり了解しました,その後何度かダンスホールで会いましたが踊ることも
無く,お互い自然に忘れ去りました。
その後は遊ぶところが場所柄,相当な男女関係が生まれて,数冊の本が出来る程です。
それは機会が有ればそれだけを書きましょう。(H19.04.17)
12
ダンスホールでは勿論男性の友達も大勢知り合い,現在も当時の人との付き合いがあります。
当時は酒屋もあり,安い酒を飲み,今の若者と同じに我が世の春を謳歌してました。
若い内は自然に意気投合した人たちが集まり,趣味は個人的に話したところ,将棋の強人が
多くいて,皆自称天狗で競い合ってました,私は当時将棋は全然判らず,仲間に入りたく
猛練習しましたが,悲しいかな大人と赤ん坊で,初めは歩3個で負けてしまう有様でした。
暫くして5級までなり,2枚落ちが限度でした,参考までに彼らは5.6段の実力者ででした。
5.6名のグループでしたが現在は2名だけで,他の友達は他界してしまい,同級生1人と
友達は,現在県大会で上位入賞をして,地方新聞に出るほど活躍しています。(H19.04.18)
13
暫く同じような生活を続けていましたが,昭和38年頃街中のダンスホールで知り合った女性と
約5年間交際して,結婚しました。
それでも派手な遊びが続き,子供が出来ても殆ど飲みに出掛けてました。
昭和40年12月,突然喀血…保健所勤務の叔父に頼み,太田市高林の県立東毛病院に
入院しました,約3ヶ月後に病院から薬物療法か手術か問われ,薬物療法は長期療養と
知らされ(約1年以上)早い退院を願い手術に決めました。
当時は医学が現在と違い,亡くなる患者さんも大分出ました。
長い療養生活なので,自然に若い看護婦さんと親しく話すようになり,不安を紛らすように
皆さんもなっていきました,私はミス東毛と言われた美人看護婦さんと話す機会が多くなり
ました,退院時新車を購入して,それを自分で運転して迎えの妻と帰りました。
14
ここで母のことを書き込んでおきます。
母は明治41年3月28日に,佐波郡赤堀村(現伊勢崎市)大字今井に生まれました
東京に叔父がいて本人も暫く其方で行儀見習いをしたようですが,詳細は不明です。
大正11年の関東大震災には,自宅の竹藪に駆け込んだ話を聞かされましたのでその時は
実家にいたことです。
父と知り合ったのは,友達と伊勢崎町(現市)の映画館に映画を見に行き帰りに
遮断機の踏み切り番をしていた父が見つけて,踏み切り番の時間の合間に後を尾行されて
後で自宅を尋ねて知り合ったようです,当時の恋愛結婚です。
父の親は(祖父)軽井沢駅の駅長をしていて,その時に亡くなったようです。
当時は次に上野の駅長の番に不文律ながら決まっていたようで,そこで不本意にも挫折して
伊勢崎に祖母が居を構えて落ち着いたようです。
母は昭和53年7月29日にこの世を去りました,その前年の8月に僅かな金額の貯金通
通帳を私に渡して呉れました,今思えば自分の生涯をその時に悟ったのか知れません。
最後の病院に12月に入院する時,車で送っていきましたら,降りるときに
「もう着いてしまったな」と僅かな時間で着いたのを名残惜しそうに呟いて
いたのが耳から消えません,このことを書いていると今でも涙が出ます。
屹度父や幼いときに逝った妹,数年前に亡くなった妹と巡り会えたでことしょう。