去年の年頭から夢日記をつけています。だんだん溜まってきたので、整理することにしました。

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2004.08.08
「ハッスル」
 
 久しぶりに故郷・柴又に滞在中の寅さんは、ちょっと用事で出掛けている。とらやの面々はすっかり寅さんのことを忘れて、ちゃぶ台を囲みメロンを食べている。オイちゃん、オバちゃん、さくら、前田吟、タコ社長、みんな楽しそうにお喋りしながらメロンを食べている。そこへ寅さんが帰ってきた。「さくら、俺の分も頼むよ」。皆気まずい顔。寅さんの分を切り忘れてメロンを食べちゃったからだ。

 寅さんの顔がみるみる紅潮した。「さくら、なんだっ! お前たった一人の血を分けた兄弟だろう! お兄ちゃんを勘定に入れずにメロンを切ったのか!」「ご、ご、ごめん」と一同うなだれる。「謝れば済むってもんじゃないんだよ! どうせ俺はとらやの人間じゃないんだ。どーせ俺は、どーせ俺は、どーせ俺は」とイジケる寅さん。暗く重苦しい時間がとらやに流れる。

 そこへとらやの暖簾をくぐる屈強な男たちが、倍賞リング・アナに先導されて登場。アントニオ猪木、小川直也その他猪木軍である。猪木の(元)奥さんは倍賞美津子。つまり、さくらの妹である。寅さんは猪木から見ると義兄にあたる。

 猪木は寅さんの肩に手をかけ「義兄さん、落ち込まないで。ハッスルしましょう。ハッスル、ハッスル」。キャプテン・ハッスルこと小川直也の合図に合わせて皆でハッスルする。お陰で寅さん、オイちゃん、オバちゃん、さくら、前田吟、タコ社長、一同座が和んだ。


2004.06.24
「中国四千年の歴史」
 
 民放TVで「世界ラーメン大賞」という番組を見る。中国代表の四川省・細麺が大賞に選ばれた。司会は風見しんご。確か欽ちゃんファミリーだったな、この男は。「さすが中国四千年の歴史、さすが四川は中国ラーメンの中心地ですね云々」と解説しているので、「相変わらず民放は軽薄だな…」と思う。中国でラーメンいえば「蘭州ラーメン」じゃないか…。

 そういえば以前中国人の前で四千年の歴史って言うと、「否、中国の歴史は五千年だ」と訂正されたことがある。気になったので調べると発掘されている「夏王朝」が4千年。伝説とされてる三皇五帝までさかのぼれば5千年くらいみたいだ。なんだ、千年もさかのぼらせて図々しいじゃないか。ちなみに前述の中国人は「日本人の先祖は中国人だ」って言ってました。話を聞くと「徐福伝説」のこと言ってるみたい。始皇帝から派遣された3000人が日本人の始まりなんだってさ。図々しいじゃないか、中国人。ちなみにこの話は、中国旅行中なんども聞かされたので、多くの田舎の中国人は信じてるみたいです。

 風見しんごが四川が中国のラーメンセンターのようなことを言ってたので、地図帳で中国の地図に見入ってしまった。でも、新疆、内蒙古、チベットは共産党が無理やり併合したものなので、本来の漢の土地は意外と狭いよなー、と思う。


2004.06.24
「近衛兵募集」
 
 ダライ・ラマ14歳の幼少期、バルコルに張られた「近衛兵大募集」の求人張り紙を見て多くの若者が集まった。「猊下のためには命を捧げます。ダライラマ法王に長寿あれ!」とか皆威勢のいい事を言っている。賢い摂政は、やらせでピストルを一発天井に向けて撃つと、多くの希望者は散り散りに逃げた。逃げずに残った若者の中から近衛兵を選んだという。

 先代のダライラマ13世は英国に攻められた時はモンゴルへ逃げ、中国に攻められた時はインドに一時避難した。ダライラマが存在する限りチベットの存在は消えないという言葉を残したと言う。 そういえば、カンボジアのシアヌーク殿下って人もそんなとこあるな。いつも北京やピョンヤンにいるみたいで。国民統合の象徴ですか。

 1959年のチベット蜂起のときに14世がインドに亡命してなかったとしたら、どうなってただろうか。文革で幽閉されたあと、形ばかりの名誉職をあたえられ、チベットに近づかないよう北京に無理やり住まわされていたりして…。


2004.06.13
「韓国、ブランド事情」

 彼女と、とある町の三越に入る。ブランド品のバーゲンをやっていてヴィトンやアルマーニ、エルメスなどのバッグ、ポーチなどが「SALE」と大書された籠の上に無造作に山積みされている。最近は路線を変えているのかカラフルな色彩にヴィトンのロゴ・マーク。村上隆がデザインした物か?日本人向けに大量生産しているんだろうか…と推測する。ざっと見て三越を出て、2人で歩く。三越の裏は終戦直後の焼け野原。B29によるじゅうたん爆撃の爪あとが生々しく所々にバラック小屋が点在している。「モツ煮込み」の看板が掛かった食堂のバラック群を抜け腰を下ろす。

 「欲しかった?」と聞くと、「ううん…」と曖昧な返事。「じゃあ買ってあげるからここで待ってて」と、男気を見せる私。

 急いでブランドのバッグでも買ってやろうと、最短距離の「モツ煮込み」食堂街を通って三越へ向おうとするが、あたりは既に営業準備のため大勢の人々がせわしなく働いている。モツ屋の主人が「いま準備中だ!邪魔だ!」と怒鳴り、通過させてくれない。仕方なくルートを替え大通りに迂回して三越へ着いたが、韓国人のツアー・グループが既にブランドを買い込んでしまい、商品はほとんど無い。ツマラナイ小物しかないので、仕方なく買わずに引き返すことにした。

 路面電車が走っていたのでスグ乗り込んだ。調べたわけではないが徒歩で5分ほどだったので、適当に1つ目で降りればいいや…と思う。しかし、電車は特急なのか、停留所を通過してズンズン進むので焦る。隣に座ってるオバちゃん達が「駅と駅の間が遠いのよねー」なんて話している。

 30分以上走っただろうか、もう隣の街まで来てしまった。仕方なく下車し、トボトボ彼女の居る方へ歩いて引き返す。着いたのはもう夕方。当然あきれて彼女も帰ってしまい誰もいない。今度会った時に誠実に説明すればきっとわかってもらえるはず…と思い直し、一所懸命に言い訳を考える。

 と、同時に韓国のブランド事情にも思いをはせる。韓国・釜山のとある商店街。庶民的な洋品店や雑貨やメガネ店などが並んでいる。ノスタルジーに浸りながら歩いていると、「日本人?にせものアルヨ」と怪しい店主に手招きされ薄暗い雑貨屋に入る。

 小汚い階段を下りて地下室に入ると、そこは銀座の一流店並みにディスプレーされたきらびやかな別世界。「コレ、全部ニセモノよ。日本人、喜んで買いマス」と主人はカタコトの日本語で話す。承知の上で贋物を買う旅行者が多いという。高級店並みのショーケースに並んだ偽ブランド品。値段は10分の1、確かに品質は判別しかねる。


2004.06.09
「言葉の壁」

 数年ぶりに九州の郷里に帰る。懐かしい町をブラっと見て回ろうとバスに乗る。1つ目の停留所で下車しようとブザーを押すが運転手はミスして通り過ぎる。久しぶりの故郷で怒るのも気分が悪いので改めてブザーを押すが、又しても停車せず3つ目の停留所でやっとバスは止まった。

 やんわりと抗議すると、「ブザーば押してなかとやろうが。あんたが悪かとばい」と強弁される。「キサマ、なんば言いよっとか!」と九州弁で口汚く罵ろうかと思ったが、なにぶん18年も東京で生活しているので、とっさに土地の言葉が出で来ない。

 「どうしてブザーの音に気が付かないんですか?」と標準語で抗議しようとも思ったが、バスの乗客たちの敵意のこもった眼が僕の背中を刺すように注視しているのがわかる。閉鎖的なイナカの土地柄なので、標準語を話す闖入者には皆、警戒心を抱いている模様。集団リンチされても困るので、情けないがスゴスゴと引き下がってバスを降りる。

 むかし通った懐かしい中学校を眺めながら散歩していると、地元のおばさんが話し掛けて来たりする。都会ではありえないな、やっぱりイナカはいいな…と思っているうちに気分が和らいだ。


04.06.04
「怪しい友人」

 警察に取調べを受ける。自分自身悪いことをした覚えは無いのでどうという事は無かったが、3日間警察署に呼び出され尋問を受けたので不快な気分になる。原因はHさんにある。Hさんとは20年来の古い友人で以前はよく遊んでいたが、しかしここ数年は年賀状を交わす程度の付き合いしかない。

 最近Hさんはバンコックで麻薬所持容疑で逮捕されたのだが、彼の手帳に私の住所・氏名があったらしい。それで警察がわざわざ交友関係を調べに我が家に来たという次第。

 後日、Hさんは中学生の髪の長い少女2人を連れて我が家に訪ねてきた。例の件もあり、お互い気まずい雰囲気。Hさんと少女たちがどういう関係にあるのかは不明だが、彼女らもバンコック帰りでLSDやMDMAの密売に関わっているらしいのが私にはわかる。


04.06.04
「歯の構造」

 犬歯がぐらぐらするのはシソーノーローのせいだ。 と、思い鏡でよく見ると、意外にも歯茎は桜色でしっかりしている。柔らかくなってしまったのは歯側のようで、表面がパリパリと剥がれ内側から肉が露出している。

 今まで歯というものは奥に神経、その周りに象牙質、一番外側にエナメル質と言う具合に、硬い物質で構成されていると思っていたが、実際は茹で上がったカニの足のように肉の周りにカルシウム製の殻がかぶさっただけの状態だとわかった。栄養バランスに気をつけないと。特にカルシウムとか。


2004.05.27
「高原ホテルの裏庭」

 ラサ市内の外れにある高原ホテル(Plateau Hotel)に宿泊する。このホテルに来るのは初めてチベットを訪れた1988年以来なので16年ぶりの滞在となる。当時はブルーに塗られた真新しいホテルだったが、さすがに今では色あせて見え、英字の看板は所々文字が欠けている。

 ラサの安宿というとメイン通りにある「ヤク・ホテル」「バナクショー・ホテル」「スノーランド・ホテル」などが有名で世界中の多くの若者を集めるが、アマノジャクの私は少し外れた高原ホテルを好んだ。ここの客は漢人とチベット人の行商人がほとんどで、日本人どころか外国人と会うこともなく、旅行気分を満喫できる。服務員は全てチベット人で、カメラを下げた日本人が余程珍しかったのか親しくなり、一箇月の滞在中に写真をとってあげたりしたものだ。

 さて今回は16年ぶりということで当時とは印象も随分違う。増改築されてるらしく、ホテル正面は当時のままだが、奥へ奥へとホテルの敷地が広くなっている。服務員も全員若い人と入れ替わっていて、残念ながら以前の人達との再会は果たせなかった。

 ホテルの裏庭には小さなレストランがある。モモ(チベット餃子)やトゥクパ(チベットうどん)を食べる人々で賑わっている。その賑わいをカメラに収めながら散歩していると裏庭の右隅に、よく見ないと解らない程度の小道を発見。恐る恐る進むとまた広い裏庭に出た。そこにもレストランがあって多くのチベット人で賑わっていた。あぁ、景気が良くてレストランを増築したんだな…と思い、またスナップしていると、また敷地の片隅に秘密の小道。裏に回るとまたまたレストランで人々の喧騒。これは奥の院奥の院へと仏が並ぶ中国の大寺院みたいだな…と、フト思う。また、北京の紫禁城もこうした構造だったような気がする。

 三つ目のレストランでも小道を見つけ裏庭に回ると、今度はレストランの服務員の宿舎が並んでいた。チベットも最近はそれなりに豊かになり、家の中は調度品であふれている。特に仏壇まわりには力を入れ込んでいる点がチベット的である。

 玄関で椅子を机代わりにして勉強をしている子供がいたので近づいてみると、家の中から父親が顔を出した。「この子は勉強が出来るので北京か上海の高校へ進学させるつもりです…云々」と答えたので、少しチベット的哀しみを覚えた。


2004.05.04
「イセエビ」
 
 15年くらい前、長期のインド放浪から帰国した僕は、とりあへず住むところが無いので兄の下宿に転がり込んだ。当時兄は都内某大学の大学院で生物学を専攻していた。修士論文を執筆中で、生き物を下宿に持ち帰っては、なにやら実験をしていた。

 四畳半の擦り切れたタタミの上にビーカー、フラスコ、アルコールランプなどを新聞紙の上に広げている。硝酸、メチルアルコール、アンモニアの匂いと僕ら若い兄弟の体臭が混合し独特の臭気を醸していた。

 兄はイセエビの遺伝子配列を研究しているらしく、あぐらをかいたままイセエビの尻尾の固い部分を薬品に浸したり火にかけたり顕微鏡で覗いたりしている。実験が終わったイセエビは焼いて食おうとアルコールランプの上で調理する。

 「のりよしよー、お前フリー写真家を名乗ってるが、そんなんで食えるんか?」と説教をたれる兄。アミの上ではイセエビが美味しそうにエビ反っていた。ジュージュージュー。「まあ、大変だろうがこれでも食え、人体に害はないよ」と焼けたイセエビをくれる優しい兄。薬品の匂いと煙の中で嬉々としてイセエビにかぶりつく兄弟。


2004.04.16
「ハリボテ馬」

 砂浜を散歩していると、竹ひごと障子紙で出来た白いハリボテの馬が幾つも遠くまで並んでいる。5メートルおきくらいに馬は頭を沖の方へ向け、遠くで灯台が何かを警戒するように沖を照らしている。

 ハリボテ馬はそれぞれが3段重ねで「親亀の背中に〜小亀をの〜せ〜て〜♪」の唄のように、馬は背に小さなハリボテ馬を、さらにその背には小さな馬が乗っている。

 元寇の襲来に備えて幕府が設置したモノなのか、現代芸術家クリストの新作なのか、時代背景が不明なのでよく意味が分からなかった。


2004.04.14
「台北の陳君」

 台北で旧知の友人・陳君を訪ねる。街中はとにかくバイクの往来がすごい。陳君は私が宿泊しているホテルまでわざわざ来てくれた。彼は1才〜8才の子どもが男の子ばかり4人いるのだが、愛車のスーパー・カブに全員乗せてきた。ハンドルの前に2人サドルの後ろに2人、奥さんとは別居中なのでいつもこうして出かけてると言う。そんなママチャリみたいなことして危険だよ、というと「没問題、没問題」と笑う。

 ところがこの陳君、運転が恐ろしく下手。ホテルに遊びに来た帰りも、心配しながら大通りを行く彼らを見守っていたのだが、交差点で大事故を起こしバイクは転倒、後ろに乗った2人の子どもは吹っ飛び、前の2人と陳君はボーリングの球のようにアスファルトを転がっている。慌てて現場に駆けつけるが、全員無事なのが不思議だ。むかし見てたアニメ「トムとジェリー」みたいにペチャンコになった人がすぐに元通りになる。「没問題、没問題」とヘラヘラ笑う陳君。

 彼は来月地元の町長選挙に立候補するという。台湾の選挙はとにかく金、金、金…。交通事故を装ったテロも絶えないと聞く。「陳君、マジで気をつけなよー」と忠告する。

 夕方、台北の街をぶらぶら歩く。高級そうなレストランに大きな垂れ幕「日式方便面 一斤」と書いてある。日本のインスタント・ラーメンが流行りなのだろうか?


2004.03.05
「プロレスの現在」

 近年少子化の影響で小学校の生徒数は激減、学校側も空き教室の有効利用のため安価で教室を一般に開放している。中高年向けのさまざまな市民講座や老人大学が、全国津々浦々の公立小学校で夜間ひっそりと開かれている。

 私が参加したのは「見出しのつけ方」教室。元・東京スポーツ次長のT氏を講師に、東スポ見出しファン向けに10回講座が開かれている。今日の課題は田村亮子あらため谷亮子選手。アテネ五輪女子柔道で谷選手が優勝したと仮定し、新聞の見出しを考える。

 30分間考えに考え抜いて思いついた見出しは「やったねヤワラ、アテネV2!!」…。つまらん…何のひねりも効いてない…。自分の文才のなさに絶望し、落ちこぼれ学生よろしく教室の後ろ扉からそっと抜け出し廊下を彷徨う。

 長い廊下の突き当たりには「ザ・プロレス」と張り紙がした教室がある。プロレスの歴史でも講義するのかな?と思いつつ教室を覗く。意外にも中では懐かしい大物レスラー天龍源一郎と川田利明が体育館で小学生が使うマットの上で激しいスパーリングをしていた。

 昭和の昔プロレス界には3団体が並立し、全日本プロレス=日テレ、新日本プロレス=テレ朝、国際プロレス=テレ東というように、各テレビ局がプロレス団体の経営を支えていた。ところが平成に入り、K−1やプライドなどリアル・ファイトを謳う団体が格闘技界に進出。観客も旧態依然としたプロレスに飽き飽きしていたので、新団体の出現を歓迎した。

 プロレス界は地殻変動を起こし一時は30近い小団体が乱立、選手のレベルは下がり地盤沈下はますます進んだ。有力レスラー達は給料も払えないプロレス会社に嫌気がさし、総合格闘技のリングへヤドカリ的に出張参加。しかし悲しい哉、K−1戦士らの前にプロレスラーは連戦連敗、プロレス界自体がすでに崩壊しているのが現在の状況である。

 ほとんどのレスラーはプロレスを辞めるかK−1選手に転じたが、いまだプロレスに未練がある天龍&川田選手は小学校の空き教室を道場替わりに、夜間黙々と練習に励んでいるという訳である。しかし、最後の生き残りレスラーのこの2人も今月限りで自身の団体「ザ・プロレス」を解散するという。

 先輩格の天龍は暗い表情で「今月でウチも解散だが今月は馬場さんの3回忌だろう…なんとか最後の興行を打ちたいんだが…。結局プロレス界は地上波3局のパイの奪い合いだから…もう、K−1やプライドにテレビを盗られちゃってダメだよ…」とかなり弱気。「あいつらヒドイよォォォ〜!!! 次々と転びやがって〜!!!」と川田の怒りは、K−1戦士として再デビューした元同僚レスラーらに向う。

 「転ぶ」という言葉は遠藤周作著「沈黙」に出てくるセリフである。小説の舞台は江戸時代。キリスト教禁止令が出された頃の長崎である。ローマ教会の優秀な神父であったフェレイラ神父は自分の為に拷問を受けている何も知らない民たちのために、自ら「転ぶ」=「棄教」する道を選ぶ。祈っても祈っても沈黙を続ける神…。

 このシーンを思い出し、不器用に生きる最後のプロレスラー天龍&川田の行く末を案じながら、仮道場を後にする。


2004.02.01
「北京の中心で、ダーをさけぶ」

 中国人にとって春節(旧正月)は、我々の元旦同様1年の内でもっとも重要な祝日である。その春節の前日、西暦で言うところの1月21日の晩、アントニオ猪木は北京でプロレス・イベントを開催した。
 
 いまや格闘技界のプロデューサーとして才能を発揮しているアントニオ猪木氏。中流階級が生まれつつある中国でプロレス・イベントを成功させようと、旧日本軍の軍服に身を包んだ日本人悪役レスラーを大勢北京へ送り込んだ。

 戦後日本にプロレス文化を根付かせたのはもちろん力道山。敗戦で打ちひしがれた日本人の眼前で、シャープ兄弟ら白人アメリカ人を空手チョップでなぎ倒し、一大プロレス・ブームを起こした。

 「温故知新」のことわざ通り、中国人大衆の前で悪役日本人を倒すことでイベントは成功する…と猪木氏は踏んだのである。

 会場の北京工人体育館は、多少生活にゆとりのある中国人民で超満員。スモークの中、WWE張りの派手な演出でリングに向う軍服姿の悪役日本人レスラー。手にはもちろん軍刀を握っている。「最敬礼」「ハイ!」のパフォーマンスで観衆を盛り上げる。対する中国人善玉レスラーは中国武術の二枚目揃い。

 日本人が攻めると「日本鬼子!」「小日本!」と罵声が飛び、ブーイングの足踏みで会場が揺れる。しかし、大部分の観客は笑いながらショウを楽しんでいる風で陰険な雰囲気ではない。試合はシナリオ通り、最後は中国人レスラーが勝つようにできている。

 全試合終了後、猪木氏がリングに上がり得意のマイク・パフォーマンス。中国風に「イー(1)・アール(2)・サン(3)、ダーッ!」と観衆一体でこぶしを突き挙げ、中日友好を謳いあげる。かくして、初の中国プロレス興行は成功裏に終わったのでした。


2004.01.22
「タクラマカン温泉」

 新疆ウイグル自治区の砂漠地帯に点在するオアシス都市も、近年は観光客誘致に力を入れている。といっても鉱物や天然ガスなど天然資源は豊富だが観光資源には乏しいので、各地方政府は「温泉」の整備に力を入れている。

 チベットは何度も旅した私だが新疆は初めて。たまには…と日本人ばかりの小さなグループツアーに参加してみた。今では鉄道やバスなど交通手段が整備されてきた新疆のタクラマカン砂漠だが、気分を出すため一行はウルムチから徒歩で西へと向う。数十キロごとに「オアシス温泉」があるので、一日の疲れを温泉で癒すというツアー。
 
 温泉といっても50メートル×50メートルほどの人工的な正方形の露天風呂で、湯気の立ってるプールといったおもむき。露天の四辺は高く盛られた土手で囲まれている。遠くから見ると蜃気楼の中、何も無い砂漠に温泉の土手盛りだけが浮かんで見えて、さながら白昼夢でも見ているかのよう。不思議な光景である。
 
 砂漠を延々と歩いてきた私たちツアー客は、土手の階段を上り温泉に入る。湯気の向こうにラクダが湯浴びをしている姿が印象的。私は元来風呂は早いほうなので、のぼせないうちに湯を出て露天周りの砂風呂へと向う。

 砂風呂といってもここはタクラマカン砂漠のど真ん中なので、あたりはどこも砂だらけだ。地熱のため温泉周り全体が暖かいのを利用し、各自が勝手に穴を掘って体を沈めるというサバイバル的な砂風呂。全身コタツに入ってるみたいに気持ちがいい。よく寝むれそうだ。

 夕闇も迫り天空には大きな三日月、地平線には先ほどのラクダを連ねた隊商が地平線を横切るシルエットが見える。携帯のアラームを朝6:30にセットして幻想的な気分で眠りに就いた。


2004.01.14
「下宿の想い出」 (04年の初夢)

 京都の町家は間口が狭いが奥に細長く、うなぎの寝床とよばれる。当時僕が間借りしていた下宿も下町の路地裏にある木造の細長い長屋だった。

 ただ特筆すべき点がある。木造建築にしては奇妙なほど巨大で内部構造も複雑、あちこちにドアがあり昼なお暗く、廊下で迷うと出られなくなる。「京都町家風九龍城」とでも呼んだほうが近いかもしれない。

 長屋の表通りに面した2部屋は、図書館として使われている。通りに面した玄関にあたる部屋が「区立江戸川図書館」、奥に入った方が「江戸川大学付属図書館」である。

 「区立」の方は、木造とはいえガラス張りで内装も現代風、清潔感がある。和洋折衷の斬新なデザインで、雑誌にも度々取り上げられ、「和」のテイストを好む若い人々でいつも活気がある。

 それに対し「付属」の方は、薄汚れたすりガラスの向こうに陰険な中年女の司書が座っていて雰囲気は暗く、利用者はほとんどゼロ。それもそのはず、図書館への入り口が恐ろしく解かりづらい。

 僕は自分の部屋に帰る時、毎日「付属」の前の廊下を通るのだが、入り口を開けて入ろうとすると「裏口から入れ!!!」と猛烈な剣幕で司書が怒るので恐ろしい。サービス精神が全く無いので、もちろん看板もなく、裏口がどこにあるのか誰も教えてはくれない。どこかに「付属」に通じるドアがあるはずだが、この長屋には訳のわからないドアがあちこちに沢山あって、3年住んでいる僕でさえ迷子になりそうだ。

 ある日、どうしても「付属」に1度入ってみたい衝動に駆られ、長屋内のドアというドアを片っ端から開けて回った。開けるといきなり急な階段になっている、とても危険なドアがあったので、「これは怪しい」と思い、ずんずん下へ降りてみた。真っ暗で怖かったが、どこまでも階段を下っていくとドアがあり、開けるとそこが「江戸川大学付属図書館」だった。

 陰気で怒り気な中年女が、貸し出しカウンター越しに「いらっしゃい」と声をかけてくれた。


2003.12.26
「ラプラン寺再訪」

 チベットのラプラン寺を再訪。以前2度訪れたことがあるが、今回は10年振りなので感慨深いものがある。寺に入るとチベットのお寺独特のバターの匂いや念経の声、五感で懐かしい親しみを覚える。

 向こうからどこかで見たような色黒の中年僧。「もしかして、ラマ・バロか?」 彼は、一瞬僕の顔を見て、「おおっ、ノリ・ヨシ!」 10余年振りに僧ラマ・バロと再会し、熱い抱擁を交す。

 10余年前インドのラプラン寺(チベットのラプラン寺からの亡命僧らが難民キャンプ内に建てたお寺)に長らく滞在したことがあるが、当時僕の世話を良くしてくれたのが僧ラマ・バロである。

 かれは(チベット系)ネパール人だが、宗教的には仏教徒なのでチベット寺で修行をしていたのである。その縁で数年前からチベット本土のラプラン寺に来ているという。

 インドからは他にも同僚の僧、カサン・タシも来ているという。ただ、ちょうど今、マラソンの高橋尚子選手がチベットで高地トレーニングをしているので、彼女の世話で忙しく、カサン・タシとは再会できなかった。

 ラブラン寺の周辺も以前と比較すると多少は拓けていて、仏教修行をしている日本人やチベット語研究の大学院生、仕事で来ているTVディレクターなどを見かけた。

 ラプラン寺の周辺をぐるりと囲む参道を歩いていると、所々に線香売りやお経CD売りが露店を出している。しばらく歩いていくと、道端に自動車教習所の受け付けのテントがたっている。日本語で「ようこそラプラン自動車教習所へ…云々」と書いてある。

 多少は拓けてきたとは言え、わざわざこんな地の果てチベットまで、日本人が免許を取りに来るのだろうか…と多少違和感を覚える。もちろん料金は格安だが、更新のたびに、わざわざチベットまでやって来るのだろうか…。でも、更新の度に、ラプラン寺で交通安全祈願をするのも悪くないかもな…。


2003.12.21
「沖縄でバスに乗る」

 沖縄で、海のすぐ近くのペンションに泊まる。海を散策しようと宿を出て2分、もう大海原が広がっている。

 浜辺を歩いていくと、なぜか高校時代の同級生があっちに2人、こっちに3人と、あちこちにたくさん歩いている。せっかくだから皆を集めて記念写真を撮ろうと思いつき、とリあえず、いったん海岸口までバスで引き返すことにする。

 下車しようとすると料金がやけに高い。8千沖縄ドルか日本円500円払えという(1沖縄ドル=約0.6円)。

 実は昨日もこのバスには乗っていて、悪気は無かったのだが、東京のクセで乗車時にお金を入れたと勘違いし、お金を払わずに下車したような気がする。運転手と車掌(夫婦)が僕の顔を覚えていて、制裁的料金をふっかけてきたと思われる。

 日本円のトラベラーズ・チェックはたくさんあるが、今日は日曜日なので、唯一換金できる「沖縄銀行」は閉まっている。とりあえずT/Cとパスポートを彼らに預けて、今日は何とか勘弁してもらおうか…と思案する。


2003.11.16
「水中プロレス」

 大学の新図書館を山口君と二人で訪ねる。「新図書館は入り口付近の作りがデザイン的に変だ、設計者は美的センスが無いね。」、と僕が言うと山口君はうろたえる。入り口部分は建築学科の学生たちがデザインしたので、山口君は気を使っているのだ。

 そういえば、僕の発言に反感を持ったのか、建築学科の学生らしき若者たち7〜8人が、僕をあちこちで刺客のように睨み付けている。

 僕は言いたいことは何でも口に出さないと気が済まない性格だが、余計な事件に巻き込まれるのは面倒なので、キャンパスを離れ、山道を歩く。いつもの山道を外れてしまい道に迷うが、直感で海の方角がわかった。今日は巌流島でプロレスの試合があるので、彼と別れる。

 海岸から島へは泳いでいく。島の中ほどに小プールがあって、そこでボブ・サップみたいな外人と戦う「水中プロレス」。これはイノキさんのアイデアで、僕がイノキ軍第一号として、今回の試合に抜擢されたのは意外な人選。(ちなみに、2試合目はフジナミさんの試合が組まれているらしい)。僕は「水中プロレス」は得意なので、巨漢の外人を簡単にやっつける。夕方、イノキさんは巌流島に到着し、僕とフジナミさんにギャラをくれる。愛弟子のフジナミさんにはたった4千円。僕には「10万円札」を4枚くれる。

 イノキ軍の序列では僕のほうが全然下なのだが、最初に「水中プロレス」をやってみたパイオニアなので、評価してくれたのだろう…。イノキさんは何事も最初にやった者を評価する人だ。イノキさんは大晦日にこのアイデア「水中プロレス」を使って、マサ斎藤と「巌流島の戦い」をやるらしい。その実験として今日の僕の試合は組まれたのだ。

 夜、カフェテリア形式の食堂で若手レスラー仲間と食事をする。皆はイノキさんの独裁的ワンマン経営、「水中プロレス」が危険かどうか新人に実験させる手法など、多少歪んだ性格に批判的だが、僕はパイオニアを評価する点などに、会社経営者として好感を持っている。


2003.11.11
「ナカシマ君」

 路地を散策していて、学生服をキチンと着用したナカシマ君を見かけ、声をかける。ナカシマ君は高校時代の同級生で、十数年振りの再開。一浪して高校入学した苦労人で性格はいたって真面目。いつも標準学生服を正しく着用していた。

 ちょっと奇行が目立つ人で、周囲からは変人扱いされてた部分もあったが、そういった点も含めて僕は当時ナカシマ君に好感を持っていたものだ。

 路地裏でしばらく立ち話をしたあと別れる。でも、よくよく考えると彼も今や30歳代後半のはず。やっぱりナカシマ君は今でも変わった人なのだろうか…と疑問に思いながら歩きつづける。

 霞がかった広い野原に出る。殺伐とした雰囲気のなか、旧ドイツ軍の戦車とサイドカー付きのバイクが朽ち果て打ち捨てられている。バイクの脇に古い小さなレコードプレーヤー。手で回すと動く。

 近くに小さな茶室のような平屋が一軒立っている。声をかけ中を覗くと、中年夫婦と小さな女の子の陰気な3人が黙ってこっちを見ている。しばらくして奥さんが薄くて古いレコード(ソノシート)を一枚、黙って手渡してくれた。昭和初期の唱歌のようだ。「朝日ソノラマ」と書いてある。

 僕はレコードを、地面に打ち捨てられたプレーヤーに載せた。電源が無いので手で回すと、か細い音が聞こえる。なるほど、CDは電気が無いと聞けないが、レコードは電気が無くても聞こえるので便利だな…。


2003.11.07
「バスSTOP」

 JRの駅の改札を出て歩いていると、偶然、具志堅用高さんにばったり出会う。雑談しているうちに話題は具志堅さんの子供の話題になる。「ちょちゅねー。うちは娘が2人さー。成績抜群で将来たのしみさー」。そうですかー。オガタサダコさんみたいに将来活躍するといいですねー。

 JRの駅を出ると、そこはなぜか欧州だった。僕は今日、ユトレヒト発フランクフルト行きの飛行機に乗るのだ。そのために、空港行きのバス停へと、スーツケースを引きずりながら向う。

 バス停待ちの人々はなぜかほとんどがカップル。行列の最後尾に着いた僕の前には痩せた1人の若い女。フリーダカーロ似で眉毛が繋がっているが、なかなかの美形。5時間くらいバスを待つ間に彼女と恋仲になる。

 半日すぎてもまだ空港バスは来ない。彼女といちゃつきながら、バスが来て欲しいような欲しくないような、微妙な感情。他の人々も、おんなじ気持ちらしく、誰もバス会社に抗議の電話を入れる者はいない。バスを延々待つうちに朝を迎え起きてしまった。


2003.11.03
「女の嫉妬」
 
 僕と彼女は窃盗で暮らしている。毎日、山手線に座り、おしゃべりに夢中の女性達のバッグから財布をスルというやり口。

 僕ら2人の前に女性2人組みが…。たまたま、間にサラリーマン風の男が座っていて、2人は隣り合ってはいない。ある駅で真中の男性が下車したので、僕はその席にスルリと座る。僕の左右にカモの女性たちがいる。

 僕はリラックスさせておいて盗もうと思い、2人に話し掛けた。話は大いに盛り上がり、2人はスキだらけ。いよいよ、仕事(スリ)をやろうと思ってた時に、いきなり僕の彼女が立ち上がり、大声で僕を責め立てる。自分以外の女の子と楽しそうに喋っていたのが、気に障ったらしい。僕は真面目に仕事をしてただけだったのに…。女の嫉妬は恐ろしいな。


2003.10.17
「言論界」

 当時(清末)私は紫禁城西側の城壁の脇にある胡同に住んでいた。皇帝も往時の勢い無く革命の機運が高まり、北京の治安は乱れていた。一種の無政府状態に近いもので、城壁も部分的に崩れていたが補修されることもなかった。

 ある晩、横4列×縦8列の隊列を組んだ盗賊騎馬軍団が、私が住んでた胡同のすぐ前に止まり、紫禁城内を襲った。次々と運び出される財宝の数々。盗賊はプロ軍団、次々と馬の背に財宝を運ぶ。皇帝の軍隊は士気が低く、城内からは何の反撃も無く、やりたい放題。

 ただし、盗賊たちは粗暴ではなく、礼儀正しいスポーツマンタイプ。我々庶民には、決して意地悪をしない。庶民はこぼれ落ちる小判に群がるが、彼らは怒ったりはしない。地面に散らばった「5角銭」にあさましく群がる人、人、人…。

 大正時代、私は長年住み慣れた北京から帰国し、日本で文筆活動を開始した。漢学を修めていたので、言論界の重鎮として遇された訳である。時は、大正デモクラシー、小さな新聞が乱立し、言論界は活発だった。

 当時、既にはびこりつついあった「拝金主義」が話題になった時、私は若い頃中国で見た光景を思い出し「人々、5角銭を求むるなり」と、だだなんとなく呟いた。それがなぜか当時の世相とマッチしたのか、大反響を呼んだのは本当に奇妙だった。


2003.07.25
「房総半島、水浸し」

 取材で房総半島を訪れる。南房総のほうは秘境の趣がまだ残っていて、東京から半島の突端まで行く電車は週に4日しか走っていない。月〜水の3日間は電車は途中の富浦が終点になる。富浦駅は木造の無人駅。「月〜水はここまで」とぶっきらぼうに書いた看板が立て掛けてあった。
 
 僕はその日、富浦で下車し、取材ノートを片手に山道を歩いて館山方面へ歩くことにした。未舗装の細い山道を老夫婦や兄妹の二人連れなどが行き交っている。僕の前には一匹のハンミョウが飛んでは着地し、道案内でもするようだ。時代がかった木造の床屋があり、先ほどの兄妹が散髪をしながら一休みしていたので、気付かれないようライカでスナップ。先を急ぐと巡礼の人たちか?白装束の山伏風の人たちが半島の先へ先へと歩いている。日蓮生誕の地だからだ…と納得する。

 5年ぶりの南房総訪問だが、海岸線が以前とは全く違うのに驚く。鋸山に登り南を眺めると、前回の津波による水害で、内房の方は完全に水浸しになっていて湿地化している。泥水の中で町の再建に働く作業員の姿がアリのように見える。

 そういう訳で、いま南房総では公共事業が盛んに行われていて、テトラポットや堤防工事、小学校やガウディー風の大教会の再建が盛んに行われている。だが、日蓮の生誕地に今ではキリスト教が広まっている点に軽い違和感を覚える。

 千倉から館山までは、札幌や名古屋にあるような100メートル道路が最近完成し、隣町がはるか遠くに霞んで見える。田舎町にはまったく似つかわしくなく、車の通行も皆無に等しいが、地元の人たちは「東京からの観光客も増える、便利になったぁよ」と喜んでいる。

 うねうね曲がった趣のある山道がまた一つ消滅したのは残念だと僕は思った。「結局のところ、開発とは曲がりくねった道をまっすぐにすることなのか…」と1人つぶやく。


2003.07.10
「広東の製薬工場見学」

 広東省・東莞市にある製薬会社の薬品製造工場を訪問。野生動物を原料に薬を作る工場で、SARS関連で取材対象に選んだ。オートメーション化された最新工場で白衣を着た若い女性たちがテキパキと働く。
 
 彼女たちは内陸から来た高卒の従業員で、インタビューをすると、なぜか詩歌(漢詩)に託して回答してくる。レトリックを駆使した回答、言葉の裏には中国古典文学からの引用なども含まれ、内容の濃い取材となる。高卒とはいえ、中卒が多い内陸では割合エリートな彼女たち。雅やかな雰囲気で取材は進む。

 訪ねたのは工場の一室で10人ほどの女性作業員が熊の金玉をスプーンで丹念にすり潰している。皆、かなり慎重な手さばきと真剣な目つきで、金玉を凝視している。全員が割り当てられた量をすり潰したところで、スイッチと入れる。するとベルトコンベアーが動き出し、先ほどのすり潰された原料は別の工程へ移動する。最終的にアンプルに封入され、箱詰めされる。そうした工程は全て自動化され、彼女たちはLED表示の工程図で確認できる。

 最後の箱詰めのランプが光ると一同大歓声。ロケットの打ち上げに成功した管制室を思わせる。一仕事終えたという訳で、しばらく中国茶を飲みながら、おしゃべりが続く。聞くと、今日の午前の仕事はこれで終わりらしい。でも、まだ一箱つくり終えただけなんだけどなぁ…。これだけの仕事に何で10人もいるんやろう…。

 近代化を進めながらも雇用を確保しなければならない中国の、古くて新しい問題を垣間見た気がした。


2003.06.29
「三人の元横綱」

 テレビのレポーターの仕事で、元横綱の三氏、曙親方・貴乃花親方・花田勝さん(元三代目若乃花)宅を訪問。一時間半の生放送で、三氏が現役時代に友人・知人に書いた手紙を、番組スタッフが極秘に入手、手紙のコピーを本人に見せて、昔の苦労話や思い出を楽しく語ってもらおうという企画。
 司会の仕事は普段こなしているが、生放送一時間半は初めてなので、気合がはいる。
 
 まず、曙親方、貴乃花親方宅の順に訪問し、番組は順調に進行する。曙親方は普段から朗らかなので助かる。また、貴乃花親方も、引退して以降は性格も穏やかになり、面白い話をたくさんしてくれた。以前は無口で難しい印象があったが、なんだ、結構面白い、いい人じゃないか。
 
 最後に元若乃花の花田勝氏を訪問。ところが、ものすごく表情が暗い。現役時代は明かるい「お兄ちゃん」だったが、あれは演技だったのか…。
 
 思い出を語ってもらおうと、昔本人が書いた手紙のコピーを見せると、突然涙を浮かべ、「これは、私が現役時代に出すことを許された三通の手紙の内の一つです」「当時、手紙はすべてニ子山親方に検閲され、おまえは精神が弱いと殴られました」「僕は稽古は人一倍励みました。人は何をやるかが大事で、何を書くかは自由ではないでしょうか…」など、顔を涙でクシャクシャにして生放送どころではない。
 
 今日の番組はゴールデン・タイムの生放送、こんなどん底の暗い雰囲気のままでは、番組をしめられない。どうして最後に若乃花なんか選んだんだ! ふつう、貴乃花でしょう? 僕はディレクターを恨んだ。でも、どうしよう、このままじゃ番組終われないし、次からレポーターの仕事も来ないだろうなぁ…。
 
 そこで突然ドアが開き、タレントの高田純次さんと野球解説の川口和久さんが、大声を張り上げながら登場。特に、高田純次さんがいつもの根拠のない笑いで、場を盛り上げる。弾丸のように炸裂するギャグに、暗い元若乃花の顔にも笑みが浮かび、僕も何とか番組がしめられそうだと安堵する。高田純次さんに感謝。


2003.06.27
「竹信仰」
 
 日曜日にピクニックに出かける。東京の郊外にある、竹林に囲まれたピラミッドに登る。東京はパリやロンドンに較べ、公園が少ないと否定的に言われるが、実際はこういう鎮守のピラミッドが多いので、実際は割と緑が多いと思う。日本は古来より竹信仰の国。あちこちに巨竹を祀る、鎮守のピラミッドがある。嗚呼、日本人に生まれてよかった…。

 ピラミッドのヘリの部分をふうふう言いながら100メートルほど登り、頂上にたどり着く。日曜日なので、家族連れや中高年のカップルで10メートル四方ほどの頂上は、和やかな雰囲気。眼下を見渡すと竹林の向こうに新宿副都心のビル群が見える。隣にいた老人が、麓の見事に生い茂った竹林を指差し、「あの竹林は、もともと一本のものが地下茎で枝分かれしてるんだよ」と、うんちくを語る。

 鎮守のピラミッドの頂上には当然「竹」が祀ってある。しめ縄を巻かれた、直系1メートルほどはあろうかという巨大な竹が、5メートルほどの輪切りにされ、ドカンのように横たわっている。敬虔なお年寄り達は、両手を合わせ一心に拝んでいる。とはいえ、竹信仰の篤い日本でも、現代は宗教離れが進んでいるので、ほとんどの人たちは旅行気分でピラミッドに来てるみたいだ。

 のんびりした気持ちで風景を眺めていると、後ろから誰かが声を掛けてきた。若手レスラー(アメリカ人)のトニーだ。偶然なので、嬉しくなる。試合で日本を転戦する合間に観光に来たらしい。トニーは、いま売り出し中の期待の新人で、WWFのビンスマクマホンJrにも目を掛けられているらしい。僕(イノキ門下のレスラー)がアメリカ修行時代に知り合った友人でもある。なかなかのナイス・ガイで大の日本びいきでもある。話を聞くと、かれは最近アンドレ・ザ・ジャイアントと試合をしたらしい。3回自分の得意技の「サソリ固め」をかけにいったがダメで、3回目に逆に切り替えされ、負けてしまったという。「君はまだプロレス界に入ったばかり(3ヶ月)なので、これからだよ…」と激励し、2人で巨竹の脇でプロレスごっこをする。

 僕はイノキ門下のロートルレスラー。強くはないが、後輩の面倒見はいい方だと思う。イノキ道場は練習はキツイが、若手にプロレス観を教え込むには良い場所なので、「今度、イノキさんを紹介してあげるよ。ためになると思うよ」と先輩風を吹かしてみる。


2003.06.08
「部屋が縮む」

 以前働いていた通信社の写真部を訪ねた。以前はカメラ機材やカメラバックが雑然と並ぶ、汚い大きな部屋だったが、今では以前の数分の一しかないガランと整理された「小部屋」になっていた。

 元同僚は「技術が進歩したから、写真部も小さくしたんだよ」と、日常、報道写真の現場で使うデジカメをポケットから取り出し、見せてくれた。四角い形をしていて、「チェキ」に似ているが、ちゃんとNikonのロゴが入っている。

 昔は、大きな一眼レフカメラ2台と交換レンズをたくさんカメラバックに入れていたので、腰を悪くするカメラマンが多かった。いまでは何でもデジタル化、小型化されていて、夢のようだ。

 でも「現場から写真を送信するときはノートパソコンとかいろいろいるんだろう?」と僕。 「いや、今じゃモデムもパソコンもカメラの中に内臓されている。スポーツ取材はレンズの都合で少しだけ荷物が増えるけど、普段の仕事は、これだけでOKなんだよ」とチェキ似のニコンを手のひらに載せる。

 話をしていると、今年入社したばかりの新人カメラマンが取材先から戻ってきた。新聞社・通信社のカメラマンというと、以前は、下はジーパンに上はカメラベストと言った、ダサい格好の人がほとんどだったが、彼は、まるで広告代理店の社員みたいにオシャレな格好をしている。荷物は手ぶらで、もちろんカメラバックなど下げてはいない。 色の着いたジャケットの内ポケットから、チェキ似のニコンを取り出し、メモリカードを元同僚に手渡す。

 なるほど何でも加速度的に小さくなって、世界は恐ろしいほど便利になっていく。 そして、部屋も縮んでいく。


2003.05.30
「タルト作りに挑戦」

 料理教室でタルトを作る夢。小林カツ代に似た先生が指導してくれる。小麦粉を溶くところから始まると思ったが、意外にも「まず、とうもろこしの粉を溶いてください」と言われる。アフリカあたりのパンみたいだな…と思いつつも先生のいう通りにする。

 生地の準備が出来、いよいよオーブンで焼く…と思ったが、意外にも先生は「今日は、ガス・レンジを使ってタルトを作ります」と、当然のように言う。

 しかも、生地を流し込むハート型の金型は底が空いているので、上から生地を流し込んでも下へと抜けて行くのは明白だ。ずっと先生の言う通り従っていたが、さすがに変だと思い「この金型じゃ無理ですよ、だって底が無いので、ガス・レンジが生地でドロドロになりますよ」と少し反抗する。

 すると小林カツ代似の先生は、氷水を浮かべたボールに金型の下部をつけて「こうして、金型を冷やしておくと大丈夫なんです」と余裕の微笑で教えてくれる。

 冷やした金型をレンジの五徳に直接置き、ドロドロの生地を流し込むと、金型の下部は冷えているので生地は固まって落下しない。そこでレンジの火を点火すると、生地は急速に焼きあがり、おいしいタルトが出来る…という料理法。

 自分がこれまで先入観にとらわれていたことを深く反省する。氷水で冷やすという点が、なるほど合理的だと感心しつつ、嬉々としてたくさんタルトを焼き上げる。


2003.06.09
「アイルランド人」
 サッカーの国際試合「アイルランド対ノルウェー」の試合をスタンドで観戦。 試合中アイルランドの選手が退場になった。プレーが行われている以外のところで、(つまり球の無いところで)アイルランドの選手が、相手に噛みついたらしい。

 噛みつかれた方のノルウェー人も、実はアイルランド系ノルウェー人。

 アイリッシュは世界中にいるものだ。そして、みんな血の気が多い。


2003.06.01
「結婚式の撮影」

 結婚式の写真を撮影する仕事。前日、新郎新婦と打ち合わせをする。「なるべくカジュアルな形でやりたいので、目立たないようにさりげなく撮って欲しい」と言う新郎。 「一眼レフカメラはイアツ的だから、このカメラで撮って欲しい」と、コンパクト・カメラ「ビッグミニ」を一台渡される。

 変わった要求だと思ったが、「ビッグミニ」は昔、欲しかったカメラなので納得して帰る。

 当日、淡々と撮影は続くが、披露宴の終盤になって、カメラのストロボが壊れて光らなくなった。替えは無いので、絶望的な気分になる。

 高砂の席にいるいる新郎は、そんな僕の心情を察することもなく、花嫁の肩に腕を回し、「写真を撮って!」とVサインで笑う。お酒も入っているので、2人はやけに盛り上がっている。

 絶対写りっこないのは分かっていながら、後でどういう言い訳しようかと思いつつ、撮れてるフリをしてレンズを向ける。


2003.05.22
「カスピ海会議」

 カスピ海周辺の中央アジア諸国の首脳達が国際会議を開いている。 本来カスピ海の環境問題を語る趣旨の会議のハズなのに、皆でゴルバチョフの悪口を言っている。
 
 みんなゴルビーのリベラルさが気に食わないらしい。「自分達は独裁者のくせに…」と中央アジア諸国の大統領達に反感を覚える僕。

 夜になり、カスピ海会議のイベントの一環として、エリック・クラプトンのライブが開催される。クラブトンのブルースギター、生で聞くとしびれる。 僕は中学の時からの大ファンなので、熱狂した。特にクリーム時代の古い曲「バッジ」や「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」を演奏してくれたので感動した。

 コンサートの翌日、ホテルで休んでいると、突然クラプトンが僕の部屋に入ってきた。「君のために、もう一曲、演奏してあげるよ」と紳士的にいう。 もちろん僕は舞い上がるほど嬉しかったが、あいにくギターがない。彼は手ぶらだ。どうするつもりだろう。

 「ありがたいですが、ギターがないから無理ですよ」 というと、彼は僕を裸にし、僕の体にエレキギターの弦を6本張り付けた。 僕を「人間ギター」にしたクラプトンは、甘いバラードを爪弾く。さすがにうまい。うっとりして、時間が経つのを忘れる。

 気がつくと午後4時半。今日は午後から仕事があったことを急に思い出し、「断りと言い訳の電話を入れないと…」 と思いながらも恍惚に浸る。


200304.15

「写真家Yさんのロッジ」

 ネパールのポカラでトレッキング客向けのロッジ経営を始めた知り合いの写真家・Yさん。大きな体育館のような建物の2階の片隅に六畳ほどのスペースを借り受け、そこに日本から来たツアー客を宿泊させるという算段。6人ほどがやっと雑魚寝できる程度の劣悪な環境。しかも、2階に上る階段もなく、長いハシゴを昇っていかないとロッジにたどり着けない。
 
 それなのに日本から来た、中高年の何も知らないツアー客は、オーナーが日本人なので日本語が通じると満足そう。

 実はこの体育館みたいな建物の一階には、現地人経営の豪華なロッジがあるのに彼らは知らない。豪華な方のロッジは、内装もきれいで床にはペルシャ絨毯。マッサージ用のベッドが並んでいて、ネパール人のあんま師が、欧米からの旅行客の肩や背中を揉んでいる。

 Yさんは、このあこぎな商売をやりながら、ネパール100名山の写真を長期間にわたって撮影するらしい。


2003.02.28
「インドの歌う乞食」

 インドの田舎道を一人でトボトボ歩いていると、向こうの方から、座禅のように足をたたんだインド人の乞食の群れが、大声で歌を歌いながらたくさんやってくる。足に障害がある人たちの集団か? 囲まれてしまって前へ進めなくなってしまった。 みんな足の親指を赤いリボンで結んでいて、両手は後ろで組んでいる。 どうやら暴力的な人達ではないようで、ホッとする。

 でも、あしらって前へ歩こうとすると「歌を聴いていけ」と大声で怒鳴るので怖い。 無視するとみんなでピョンピョン付き纏って、通せんぼをする。

 リーダー格で哲学者風のインド人が「本来、我々は不具なのではない。我々は無抵抗(非暴力)の証として、足をリボンで結ぶのです」 となかなかインド的なことを熱く語る。

 確かに、本来彼らは足が悪いのではない。その証拠にウンコをするときはリボンをはずして、スタスタ道端の草むらに向かって用を足している。


2003.02.08
「インドの暴力カレー店」

 インドの田舎道を一人でトボトボ歩いていると、道路のど真ん中にプレハブの大きな小屋。道の左右は林になっていて、目的地に着くにはどうしてもその小屋を通過しなくてはならない。
 
 「すいませーん」と断ってのれんをくぐると、通路の左右には険しい顔をした体育会系のインド人がずらりと並んでいる。白いランニングシャツが良く似合う筋骨隆々の上半身。小屋の出口にたどりつくまで、この人たちの間を通っていくより方法がない。

 入り口に近い男が「通るなら、カレー食ってけ」と因縁をつける。小屋の左右外側の方には大鍋がズラリと並んでいて、不潔で貧弱な体型の痩せこけたインド人たちが、うつろな目でカレーを似ている。カレーを煮るのが専門の低いカーストなのだろうか。

 (小屋のインド人たちは皆はだしなので、)僕が靴を履いたまま小屋に入ったから怒っているのかと思ったが、どうやら外国人をターゲットにした新手の暴力(カレー)バーらしい。 カレー鍋を覗くとインド風の辛いだけのサラサラ・カレーではなく、小麦粉の入った日本風の美味しいカレーだ。 日本人を専門に狙っているに違いない。
 
 日本人はこんなインドの田舎でもカモにされていると思うと情けない気持ちになる。


2003.01.20

「不調の船木が復活」

 巨大なホールで行われる「屋内スキー・ジャンプ」。モスクワの国際空港みたいに薄暗い屋内スキー場で競技は行われている。

 ジャンプ台から飛び出すまでは、普通のスキー・ジャンプと同じだが、着地が変わっている。着地点付近に50センチおきに、つり革が下がっていて、着地の時につり革に掴るのが競技ルール。着地は体操の「つり輪」みたいな感じ。

 長野五輪以来不調の船木は、K点超えのつり革に掴まり、ニッカネンを抜き見事復活。





2003.01.13

「徳用目薬」

 ドラッグストアでお買い物。僕は目薬を買いにきたのだ。 
 
 普通の目薬の隣に、ドラム缶大の巨大な「たる」に入った徳用目薬が売っている。「たる」はワイン用の物をもっと大きくしたような、木製で重厚なもの。中の目薬の成分は普通に売ってる目薬と同じ。

 金輪際目薬を買わなくて良い量があるので確かにお得ではある。買おうと思ったが、一生、この「たる」を家に置くのも間違った判断のようにも思える。我が家は狭いので、やっぱり普通の目薬を買うことにする。

 この判断は正しかったように思う。


2003.01.13

「汗をかいて痩せるCD」

 手首にCDをはめて生活すると、汗をかいて手が痩せるという実験。僕が実験台になってCDをはめると、実に簡単に手首が細くなる。外すときは、ペンチでCDを割る。ダイエット商品として、写真家のOさんと助手の女の子が売り込みを始める。
 
 普段Oさんにヒハン的な人たちは、このビジネスは絶対失敗すると悪口を言っている。
 
 でも、本来Oさんはお金儲けが目的ではなく、楽しみとしてこの事業を行っているのだ。そのことを僕は知っている。その証拠に彼と助手は駅前で、無料でCDを配っている。

 でも、どうやって手首にCDをはめたのだろう…。 




2003.01.06

「トス回し」

 小学6年生の時代設定。同級生の吉田くん、広瀬くん、Nくんと自分。皆、性格がそれぞれ違う。
 
 上記の3人が校庭でバレーボールのトス回しをして遊んでいる。4階の教室の窓から、3人を眺める自分がいる。孤独を感じることも無く、ただ、たんたんと眺めている。
 
 広瀬くんは下手だがハッスルしている。広瀬のミスを吉田が責める。確かに吉田は巧い。校庭を眺める僕。



2003.01.03

「僕は旅に出る、後は頼む」

 大きくて現代的な建築の美術館にいる。広い展示室は明るく、上方のガラス窓から外光が美しく部屋を照らしている。 部屋は、ガランとしていて中央にセンスの良い机が置いてあるだけ。僕と「フォーク詩人」のNさんだけがいる。 

 僕はおもむろに百科事典より大きい白い本を取り出し、Nさんに話す。「この本を展示(開いて机上に置くだけ)しておいてくださいよ。展覧会が終わったら、机の引出しに戻すんですよ」。
 
 その白い本には何も書かれておらず、机に大きな本を置くだけといった行為自体がアートである…という設定のようであった。
 
 人の好いNさんはニッコリ笑顔で 「わかったぜ! ピース!」 と旅立つ僕を見送った。
 


2003.01.02 (03年の初夢)

「タイで踏切りを泳ぐ」

 場所はタイ。大勢の現地人に揉まれながら踏み切りが上がるのを待っている。変わった構造の踏み切りで、上り線と下り線のあいだに大河が流れている。「日本では見たことがない作りだ、さすが外国だ」と感心する。川はどんより汚れていて、ゆったり流れている。水深は何とか足が水底にとどく程度で、川幅の割には意外と浅い。舞台はタイのはずだが、雰囲気はインドのベナレス(ガンジス川)に近い。
 
 対岸から踏み切りを渡り、さらに中央の川を渡ってこちらに来る大勢の人波。こちらの踏み切りは、なぜか上がらない。
 
 踏切りをずっと待ってると、一人のおばさんが踏み切りの黄色いバーをかいくぐって、スタスタと線路を渡り、川を泳ぎ始めた。皆も「踏切りを無視して渡ろうか…」と話をするが、時折、右方から物凄いスピードで特急電車が来るので、その勇気は無い。右方は急カーブで見通しが悪いのだ。「あのおばさんは運がよかったのだ」とまた、皆でうわさ話。

 踏み切りがなかなか上がらず、さすがにイライラする。同時に、川を渡るときにメガネを外すか、掛けたまま泳ぐかで悩む。


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