オノレ・ド・バルザック
1799〜1850。フランス最大の作家の一人。
ゴリオ爺さん

「ゴリオ爺さん」岩波書店(岩波文庫)、二巻
出版年・・・1997年9月
価格合計・・・1160円
ひとり残ったラスティニャックは、墓地の高みへと何歩か歩いて行き、セーヌ川の両側にうねうねと横たわっているパリの町を眺めた。(中略)そして彼はつぎのような壮大な言葉を吐いた。「さあ、今度はおれとおまえの勝負だぞ。」(下巻、237ページ)
モームが世界の十大小説の一つに選んだ、バルザックの人間喜劇中最大の傑作。
最初の方は退屈である。50ページくらいは我慢して読まなければ・・・しかし、途中から俄然面白くなる。分量は全部で500ページくらいだが、私は一日で読みきってしまった。ヴォートランら興味深い脇役陣も、主人公であるゴリオとラスティニャックも、私の注意をひきつけた。特にゴリオの行動と運命には涙せずにはいられない。
ゴリオの物語の結末は悲惨で残酷なものであるが、ラスティニャックはそれでも上流社会を目指し、引用したせりふをはく。そしてまた、別の物語が始まる。人間喜劇・・私はいずれまた、他の作品を読むつもりだ。
セザール・ビロトー

「セザール・ビロトー」藤原書店(バルザック「人間喜劇」セレクション2)、1巻
出版年・・・1999年7月
価格・・・2800円
この連中は六週間後には食うものもなくなるだろう。(181ページ)
「ある香水商の隆盛と凋落」というサブタイトル通りの破産を扱った小説。
『ゴリオ爺さん』は最初のほうが退屈であったが、こちらはわりと最初から楽しんで読むことができる(それでも第三章の初めで述べている破産に関する説明などは、やはり退屈である)。また『ゴリオ』と同じく物語にぐいぐいひきつけられて、全体的にも楽しく読めた。巻末の対談にも書かれているが、『ゴリオ』ほど暗い話ではないので安心して読める面もある(もっとも、だからこそ私は『ゴリオ』の方をより評価するのであるが)。
従妹ベット

「従妹ベット」岩波書店(岩波文庫)、2巻
出版年・・・1950年7月〜9月
価格合計・・・1340円
一文なしになるってことは、つまり現代社会において、不幸のどんづまりですよ。私は現代に生きている男です、だから崇拝するんですよ、お金をね。……」(下巻、145ページ)
『従兄ポンス』とともにバルザック後期の名作「貧しき縁者」二部作をなす。
序盤で退屈するのはもとより覚悟の上だったが、訳文が古めだったこともあり、下巻に入るまではどうにも乗り切れなかった。しかしユロ一家の破局→再生にいたるラストスパートは息もつかせぬ迫力である。
この作品で特筆すべきはキャラクターの異常さ、滑稽さだろうか。ユロ男爵の阿呆ぶりには、同情を通り越して笑いがこみ上げてきたし、女主人公たるベットの陰険、ヴァレリーの悪辣さときては、これまた憤慨するのを通り越して滑稽な感じを受けたほどだ。この二人の前では、金ピカ歌姫のジョゼファまでも尊敬すべき女に見えてくるくらいだから、その酷さは推して知るべしである。
ラブイユーズ

「ラブイユーズ」藤原書店(バルザック「人間喜劇」セレクション6)、1巻
出版年・・・2000年1月
価格・・・3200円
裁判所にうるさいことをいわれずに男を始末する方法はたった一つしかない。そいつと決闘することだ。だが女を片づける方法なら、三つは知っている。(364ページページ)
悪漢小説。第一部は不良兵士フィリップと画家ジョゼフの対照的な兄弟が紹介され、またフィリップの破滅が描かれる。第二部ではイスーダンに住む愚鈍な伯父ジャン=ジャック・ルージェが、美女ラブイユーズとその恋人マックスに食い物にされている様子が紹介され、ルージェの遺産相続権を求めてジョゼフと母アガトが向かうが為すところなくパリに帰ることが述べられ、第三部では再びフィリップが登場して、マックスと遺産を巡って対決する。
残忍極まりないアンチ・ヒーローたるフィリップと、そのライバルとなるマックスの悪辣さを描く筆致はまさに圧巻、悪党二人の対決を描く第三部のハイライトはとりわけ本を措くことのできない面白さがある。財産などなんとも思っていない、少なくともさして執着していないジョゼフがマックスにいいように弄ばれて追い返されるあたりや、悪逆無道なフィリップが最後に銀行家にしてやられるあたりもリアル。登場人物たちの駆け引きの様子は、あるいは緊迫に満ちていたり、あるいは辛辣なユーモアを含んでいたりして、読者を物語に引き込む力がある。
暗黒事件

「暗黒事件」新潮社(新潮文庫)、1巻
出版年・・・1953年10月
価格・・・560円
「歌いつつ死なん!」とロォランスは叫んだ。「家の御先祖の五人乙女のあの叫びは、何時何時までもこの私のですわ」(198ページ)
ナポレオンの時代を舞台にした歴史政治小説。亡命貴族シムーズ兄弟とオートセール兄弟、それにシムーズの従妹ローランス・サン=シーニュは、王党派としてナポレオン政権の転覆を企てている。しかし彼らの計画は、ナポレオンの側近フーシェやマランらのより大きな権謀に巻き込まれ、悲劇的な結末へ向かう。
この作品はバルザックのファンの間でかなり評価が高いようだったので、古本屋で見つけてすぐ購入したのだが、期待を裏切らないすばらしい出来で、中盤以降はまったく夢中に読まされてしまった(描写が過度にくどいところをいくらか読み飛ばしたのは、まあ、いつものとおりであるが)。筋書きは緊張感に満ちていて、途中で読むのをやめられない面白さがある。ナポレオンという輝かしい人物を取り上げながら、その周囲の暗黒を冷徹に描写しているあたりは、歴史小説としての興味が尽きないところだし、主人公ミシウや女主人公ローランスの英雄的な行動も、心打たれるものがある(バルザックは写実主義と言われるが、けっこう英雄趣味なところもあるような気がする。ただし、スケールの小さな英雄には、悲しいかな、常に悲劇が待ち受けているものだし、バルザックはキャラクターを容赦するような作家ではない)。
余談になるが、ナポレオンの近臣、といったとき、ネーとかミュラとかを取り上げるユゴーと、タレーランやフーシェに注目するバルザック、こうして比べると、19世紀フランスを代表する二人の作家の趣味の違いが端的に見えてくる感じがする。
百歳の人
「百歳の人」水声社(バルザック幻想・怪奇小説選集1)、1巻
出版年・・・2007年4月
価格・・・3000円
「伯爵」と彼は、恐怖でうわずった声でいった。「私には勇気もありますし、先着の客人が私と同様に肉と骨でできた人間でありさえすれば、そいつに立ち向かうのは怖くはありません! ……伯爵は気持ちよく私をもてなしてくださいましたし、それには大変感謝しております……おわかりいただけますね……と申しますのも、どうしたってこの城にはおられません、いまあそこで私が会ったのは私の医者、道案内人、つまり伯爵のご先祖! ……」(114ページ)
ナポレオン配下の若き将軍ベランゲルトは、スペインからの帰途、裕福な工場主の娘ファニーと出会うが、彼女はその晩に失踪してしまう。ベランゲルトと容貌の酷似した老人が彼女をさらったのだ。謎めいたこの老人「百歳の人」は、ベランゲルトの出生から今に至るまでの生涯に深く関わっていた。老人は16世紀に102歳で没したはずの、ベランゲルト家の分家の先祖ベランゲルト=スキュルダンではないかと憶測されるのだが――。
「百歳の人」の造型といい、奇怪でやや扇情的猟奇的な筋立てといい、まさしくゴシックホラーの空気に満ちた作品。影の主人公といえる「百歳の人」の存在感は抜群で、多層的な性格もよく描き出されている。が、若い頃の作品であるためか、もしくはゴシックホラーとしての枠にはまろうとしたためか、「人間喜劇」シリーズの作品のように、登場人物すべてに濃密なキャラクター性が与えられ、縦横無尽に動き回る――というレベルには達していない。「百歳の人」のほか、産婆ラグラドナや従者ラグロワールあたりは面白く描けているが、例えばヒロインのマリアニーヌなどはよくある純真なヒロイン像を出ておらず、そのためベランゲルトとマリアニーヌの恋愛を描く段などはかなり退屈である。ほかの個所でも、緊張した場面と弛緩した場面との落差が激しい。
また、一度「完」とつけた後に、10ページほどの補遺がつく構成になっているのだが、最初の「完」はけっこう衝撃的な終わり方をしているので、補遺の部分が蛇足に感じられた。まあ、ここらあたりは19世紀小説の限界だろうか(でもC.ブロンテの『ヴィレット』なんかはその壁を乗り越えてるんだよなあ)。
かなりリーダビリティの高い作品ではあるが、「人間喜劇」シリーズの圧倒的な面白さと比べると、さすがに数歩落ちる。
アネットと罪人
「アネットと罪人」水声社(バルザック幻想・怪奇小説選集2)、1巻
出版年・・・2007年5月
価格・・・3500円
だがこの悪魔が、あなたの幸せを絶えず見守るのです。(210ページ)
敬虔な少女アネットは、従兄シャルルと結婚するため、乗合馬車で従兄の故郷ヴァランスへ向かうが、途上での事件をきっかけに、二人の関係は破綻し、アネットは同乗者デュランタルに心を寄せる。不吉な予感に苛まれながらも、アネットはデュランタルと結婚するが、二人の前途には破滅が待ちうけていた――。
デュランタルと彼の部下ヴェルニクトはもと海賊、神を怖れぬ人物として描かれる。シャルルと決裂したアネットだが、信心を持たないデュランタルと一緒になることはできない、というわけで、デュランタルの改心が前半の山場となるのだが――惜しいかな、改心の描写がやや冗長な上、改心以後、デュランタルはキャラクターが漂白されてしまって、今一つ存在感を欠くようになってしまう。
「天使」アネットや改悛者デュランタルの造型がやや精彩を欠いているのにひきかえ、作品の末尾までピカロかつロマンな存在感を保ち、小説世界を引っぱり続けるヴェルニクトの描写は出色、この人物はまことにかっこいい。また、公爵の愛人に取り入って職を得ようとするシャルルなどもバルザックらしいキャラクターだろう。総じて、悪人を描く筆は後年同様に冴えているが、善玉は「人間喜劇」ほどにはよく描けていないという印象だ。
筋運びについては、中盤、悪漢小説としての緊張感がちょっと欠けるかな、と思ったが、終盤は怒涛の展開で目が離せなくなる。ことにヴェルニクトの死を描く結末部分は凄絶で、思わず息を飲んだ。
ウジェニー・グランデ

「純愛 《ウジェニー・グランデ》」角川書店(角川文庫)、1巻
出版年・・・1957年10月
価格・・・510円
なんにでも、よく気をつけるようにな。(242ページ)
ソーミュールのグランデ老人は樽屋から身を起こし、葡萄畑の経営などで成功して一代で巨財を得る。しかしたいへんな守銭奴で、妻、娘、下女ナノンの三人とともに倹約して暮らしている。土地の名士クリュショとデ・グラッサンはその財産を狙い、グランデの娘ウジェニーに子弟を婿入りさせようとたくらむ。そんな中、パリからグランデの甥・シャルルが訪ねてくる。ウジェニーとシャルルは愛し合うようになるが、シャルルの父ギヨーム・グランデは、シャルルも知らぬ間に、破産してピストル自殺を遂げていた――。
原題はヒロインの名『ウジェニー・グランデ』だが、角川文庫版は『純愛』という訳題をつけている。訳題に相応しく、多分にメロドラマ的な内容を含んではいる。が、愛を描いても、愛より金が物語を引っぱることになるあたり、やはりバルザック的である。登場するキャラクターの中で最も目立っているのは、やはり主人公グランデ老人だろう。彼は行動力と狡智に長けており、小説中を縦横に動き回る姿には存在感がある(守銭奴ぶりを描く段はやや類型的に感じられるが)。そのほかウジェニー、シャルルはもちろん、下女ナノンのような端役にいたるまで、おもしろい登場人物が揃っている。細部からゆっくり説き起こし、怒涛の結末へ導いていく、バルザック的な物語展開も健在。秀作である。