
<宮里藍> 米女子ゴルフツアーに組み込まれているエビアン・マスターズ(フランス)は2009年7月26日、当地で最終ラウンド(パー72)行い、宮里藍がソフィー・グスタフソン(スウェーデン)とのプレーオフを制して米ツアー初優勝を飾った。
首位に1打差の4位でスタートした宮里藍は5バーディー、2ボギーの3アンダー、69で回り、通算14アンダーの274で首位に立ったが、直後にグスタフソンが最終ホールでバーディーを決めて宮里に並び、プレーオフに突入した。宮里藍はプレーオフの1ホール目でバーディーを奪い、パーに終わったグスタフソンを下して優勝賞金48万7500ドル(約4600万円)を獲得した。
日本の女子ゴルフ界でスーパースターだった宮里藍は2006年から米ツアーに本格的に参戦、2〜3年目にかけて大きなスランプに落ち込んだが、よくその試練に耐え今年4年目で初の優勝を果たした。宮里藍は、「小さい時からこの日を夢見てきたが、やっと現実になった。非常にうれしい。きょうは勝てるチャンスがあったので大変なプレッシャーがあった。勝てて本当によかった」と語った。また「4日間が長かった。でも勝つときとはそういうものなのか、恐ろしい程落ち着いてる自分もいてそのバランスが一度も崩れる事はありませんでした。」とも語った。
過去の日本女子選手の米ツアー優勝は樋口久子、岡本綾子、小林浩美、平瀬真由美、福島晃子の5人。宮里藍は24歳の最年少で6人目に加わった。ドライバー・ショットなどを見ると、華奢な体で精一杯のスイングにはあまり余裕が感じられず、若さでなんとかカバーしている感もあるが、ゴルフ一筋の姿勢は何とか外国でのツアーのハンデイも乗り切って、自分をうまくコントロールする術を身に付ければ今後の更なる活躍を期待できるかもしれない。なんといっても彼女の笑顔には華がある。

<日食> 久しぶりの皆既日食が日本南方の硫黄島で2009年7月22日午前11時過ぎに観測された。喧伝された悪石島や屋久島は生憎の梅雨前線の雲に覆われて前日から乗り込んで待ち構えた観測者たちをガッカリさせた。N.H.K.は硫黄島と洋上観測船の画像を6分余にわたって放映した。ダイヤモンド・リングやプロミネンス(2ケの紅炎)が美しかったし、周囲の風景が忽ちの内に夜景に変じ、周囲360度の地平線が夕暮れの紅に包まれていく様は圧巻であった。昔と違うのは衛星画像が太陽を隠す月の影を太平洋上に捉えることができるようになった(写真右下)ということだが、雲にまぎれてあまり印象的な画像ではない。
記念のためにN.H.K.提供のYOU TUBE動画画像を取り込もうと試みたが、その方法が判らない。
それはそれとして昔から日食と月食を滅多に見られない現象として人々は珍重するが、太陽と、月と、月にかかる地球の影がたまたまほぼ同じサイズなのでお互いにピッタリ覆い隠すことになって、感動的な状景が演じられるのであって、こんなことは必然性はないほぼ偶然なのだから、地球人はある意味で僥倖の楽しみを得ていることになる。月や木星に住んでいてはこういう味わい深いイベントはもち得ないのである。

<本郷界隈> 司馬遼太郎の“街道をゆく”シリーズに惚れ込んでしまった。今回の文庫版“本郷界隈”の表紙は神社の境内の状景である。前景には鳩が群れている。門から社殿に続く敷石があり、手前右には一本の銀杏の木が植えられている。寺院を訪れた人が奥の方に散見され、院内の散策にとりあえず用のなくなったらしい歩行器が放置されている。門の左手には高く聳える鬱蒼とした樹木が落着いた雰囲気を作り出している。本郷のどこにしても、決して日本以外ではあり得ない。この辺りを記述すると必然的に歴史と地理書になる。地形的には武蔵野台地が周辺の沈下した海に削られて次第に谷や窪地ができたので、必然的に本郷は坂が多くなった。また主たる人口の流入は江戸幕府の成立に伴って大規模な都市改造が行われたのと期を一にし、明治時代から戦後に至って更に大きな変革が進んだ。私も大学後期にはこの地に住んで決して短くはない2年を送ったので、自分なりに感慨がある。残念ながら岡崎からポット出の若者にこの本のような指導者・案内役も不在だったので、折角の史跡の類も辿る機会をつかめなかった。
この地の江戸時代〜明治時代についてはこの書を読むまで知らぬことがほとんどで、興味深く読ませてもらった。司馬遼太郎はよく調べているのだが、サラリーマンとして一生を送ると実に多くのことを知らずに過ごしてしまうことを痛感する。こういう文章がある。−本郷台を団子坂から南に折れて、崖上のみち(藪下の道)をたどると、根津裏門坂に出る。坂の中腹に根津権現(根津神社)がある。江戸中期の宝永年間、根津権現が幕府によって造営されるまでこの地名はなかったという。− 冒頭に紹介した写真は現在の根津神社だという。門前に遊郭があって繁華を支えたといい、“根津の客まあ腹掛けを取ンなまし”という川柳があったという。根津門前には大工が多かったらしい。こんな岡場所が大学地域にあっては風儀上好ましくないと明治21年州崎に移転させられたという。
夏目漱石や寺田寅彦は千駄木に住んでおり、森鴎外は無縁坂に住んでいた。“雁”に出てくるお玉の家もこの辺にあった。家康の入部前に湯島天神の台地を断ち割って作られた切り通し坂は春日通りと呼ばれ、三四郎の時代にはひきもきらず電車(市電)が通っていた。麟祥院に墓がある春日局にちなんだ名らしい。三代将軍家光の乳母になった経緯が述べられている。子規も本郷真砂町に住んだ。樋口一葉は菊坂台の下にいた。
本郷・東大農学部の前で本郷通りと白山通りの分岐点があり、追分と呼ばれてきた。私はその先の本郷肴町の寮に入り、毎日本郷通りを横を通る都電を眺めつつ正門前まで通っていたが、白山通りが中仙道(中山道)の起点になることをつい最近まで知らなかった。太平洋岸を通る東海道に対して山中を通るためにそう呼ばれたが、日本橋を出て板橋宿を経て信濃や木曾を通り近江の草津で東海道と合し、京に入る。宿場の数は東海道の53次に対して69次あるが、途中大河がないので足止めの懸念がなかった。一方本郷通りは大田道灌が用いた軍用道路であり、将軍の日光参拝に使われる日光御成街道とも呼ばれた。
東大正門は午後10時に閉じられ、不思議なことに側部に通用口もない。私は機械科の製図室で10時過ぎまで作業してこの閉じられた門に至ると、躊躇なく鉄門の上までよじ登った。門は多分明治時代に設けられた鉄鋼構造物で、格子状の形状は登攀者に絶好の足がかりを与えてくれ、容易に頂部に立つことができる。そこで右手をつき“やっ”と外側に飛び降りた。左手には講義ノートなどの入った重い鞄をさげている。扉の高さは2.5メートル以上あっただろう。革靴に石畳だから足をくじくと大事だが、若いときはそんなことは気にしない。その後は卒業設計の終わるまでの約2ヶ月間毎晩の行事になった。幸い雨の夜はなかった。こんなことをした学生は珍しかっただろう。当時は身のこなしが巧みだった。都電はもう終わっていて、静かな街路に飛び降りる音が響き渡る。守衛は横の守衛室にいるから知っているはずだが、一切お咎めはなかった。門が閉じられて困った人はほかにもいた筈で、門の横をたどっていけばどこか仕切りの柵に目立たぬ切れ目があって、それほど苦労せずに外へ出る抜け道があったに違いないが、駒場寮以来の旧制高校的な蕃カラ気風が自分の中にもあって、やましいところもないのにそういうところをコソコソ通るのはイサギよしとしない気分があったので、探してみようともしなかった。誰に褒められるわけでもなし、今から考えれば全く若気の至りである。一方お茶の水方向の通用門は病院の関係で閉じられることはなかったので、製図室には大勢残っていたが、電車通学の人たちにはこういう問題は一切なかった筈である。
江戸の市域はどこまでかという点について、江戸後期幕府の手で地図に“朱引き”が行われた。以後、ご府内のことを“朱引き内”と呼んだ。本郷は一部を除いて朱引き外であった。江戸はそこに生まれただけで自慢になる都市だったのである。享保年間、歯科医の兼康友悦という人が本郷三丁目の角に店を開いて“乳香散”という粉歯磨きを売った。大いに繁盛して江戸中に知られるようになり、川柳で“本郷もかねやすまでは江戸のうち”と詠まれるようになった。遼太郎もわざわざ本郷三丁目の交差点の“かねやす”の店を訪れている。江戸の大火の後“かねやす”も含めて江戸の町屋は瓦ぶきや土蔵づくりになった。こうして景色として“かねやす”までが江戸のうちになった。江戸時代には“所払い”という刑があり、江戸では“江戸払い”と言われた。江戸から追放されるとなると、江戸の境界が問題になる。それは品川、板橋、千住、本所深川、四谷大木戸で、本郷は江戸のうちだから、罪人を突き放すにはあと1時間板橋まで足労願うことになる。


<柿の種> 寺田寅彦の随筆(岩波文庫)を読んでいる。自序があって、−この書の読者への願いは、なるべく心の忙しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節づつ間をおいて読んでもらいたいということであるーと書いてある。随筆の終わりには昭和十年十月十六日とあった。文庫本としては粋な蝶の模様の表紙が使ってあり、“棄てた一粒の柿の種 生えるも生えぬも 甘いもしぶいも 畑の土のよしあし”という題の説明文がある。
著者の意図には反するかも知れないが、1〜3ページの小品を前後の区別なくページのあくままに読み始める。敬愛する寺田寅彦の自らの人生を省みるような短文に出会う。
曰くー宇宙の秘密を知りたくなった。と思うと、いつのまにか自分の手は一塊の土くれをつかんでいた。そうして、ふたつの眼がじいっとそれを見つめていた。すると、土くれの分子の中から星雲が生まれ、その中から星と太陽とが生まれ、アミーバと三葉虫とアダムとイブとが生まれ、それからこの自分が生まれてくるのをまざまざと見た。・・・そうして自分は科学者になった。
しばらくすると、今度は、なんだか急に唄いたくなった。と思うと、知らぬ間に自分の咽喉から、ひとりでに大きな声が出てきた。その声が自分の耳に入ったと思うと、すぐに、自然に次の声が出てきた。声が声を呼び、句が句を誘うた。そうして、行く雲は軒ばに止まり、山と水とは音をひそめた。・・・そうして自分は詩人になった。−
これは驚きである。科学者というのはもちろん認める。この人はそれと同等の重みで詩人として自任している。それ以上くどく言わないのも迫力がある。
―シャトルの勧工場でいろいろのみやげ物を買ったついでに、草花の種を少しばかり求めた。そのときに、そこの売り子が「これはあなたにあげましょう。私この花が好きですから」と言って、おまけに添えてくれたのが、珍しくもない鳳仙花の種であった。帰ってきてまいたこれらのいろいろの種のうちの多くのものは、てんで発芽もしなかったし、また生えたのでもたいていろくな花はつけず、1年きりで影も形もなく消えてしまった。しかしかの売り子がおまけにくれた鳳仙花だけは、実にみごとに成長して、そうして鳳仙花とは思われないほどに大きく美しい花を付けた。そうしてその花の種は、今でもなお、年々に裏庭の夏から秋へかけての眺めをにぎわすことになっている。この一些事の中にも、霊魂不滅の問題が隠れているのではないかという気がする。−
―道端の崖の青ススキの中に一本の楢の木が立っている。木の幹に虫がたくさん群がっている。紫色の紋のある美しい蝶が5,6羽、蜂が二種類、金亀子のような甲虫が一種、その他に、大きな山蟻や羽蟻もいる。よく見ると、木の幹には、いくつとなく、小指の頭ぐらいの穴があいて、その穴の周囲の樹皮がまくれ上がりふくれ上がって、ちょうど、人間の手足にできた瘍のような格好になっている。虫類はそれらの穴のまわりに群がっているのである。人間の眼には、おぞましく気味の悪いこの樹幹の吹き出物に人間の知らない強い誘惑の魅力があって、これらの数多くの昆虫を引き寄せるものと見える。私は、この虫の世界のバッカスの饗宴を見ているうちに、何かしら名状し難い、恐ろしいような物凄いような心持ちに襲われたのであったー
−ある日。汽車の一番最後の客車に乗って、後端の戸口から線路を見渡した時に、夕日がちょうど線路の末の方に沈んでしまって、わずかな雲に夕映えが残っていたので、鉄軌(レール)がそれに映じて金色の蛇のように輝き、もう暗くなりかけた地面に、くっきり二条の平行線を画していた。汽車の進むにつれて、おりおり線路のカーブにかかる。カーブとカーブの間は真っ直ぐな直線である。それが、多くは踏み切りの所から突然曲がり始める。ほとんど一様な曲率で曲がって行っては、また突然直線に移る。なるほど、こうするのが工事の上からは最も便利であろうと思って見ていた。しかし、少なくともその時の私には、この、曲線と直線との継ぎはぎの鉄路が、なんとなく不自然で、ぎこちなく、また不安な感じを与えるのであった。そうして、鉄道に沿うた、昔のままの街道の、いかにも自然な、美しく優雅な曲線を、またとなく懐かしいもののように思って眺めるのであったー
著者は自分の言いたいことを婉曲にオブラートに包んでいる。機械工学的表現を使えば、汽車に乗っている人間はレールが直線から一定曲率のカ−ブに入った瞬間に突然強い遠心力を受ける。人は突然こういう衝撃的な力を受けるのは不快である。またレールが円弧から直線に移ると、今まで受けていた遠心力が突然消えるから、逆向きの衝撃力を受ける。これまた不快である。軌道が美しく優雅な曲線を描いていれば、レールの曲率は0から次第に大きくなり、最大値を取るとまた次第に小さくなって0に至る。こういう軌道上では遠心力は緩やかに変化するから、乗客は不快感が少なくて済む。寅彦はそういう真理を言わずもがなに説いている。線路が地形の要求に応じようとするとき、円弧と直線だけで構成させれば製造上は最も安上がりであるが、乗客の乗り心地は犠牲になる。西日本鉄道福知山線の脱線事故(2005年4月)は速度の出し過ぎも一因だったが、こういう直線から円弧への切り替えポイントで発生した。高速で大きな曲率のカーブに入った瞬間、遠心力による衝撃で車両は浮き上がり、脱線した。事故の責任は運転手ばかりにあったのではない。寅彦の随筆はこういう危険を予告したとも言える。この事故後にこの問題を指摘した専門家は少ない。レールの敷設方法の見直しも本格的に行われた話は聞いていない。
−大学の構内を歩いていた。病院の方から、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に叢生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつような心地がした。背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持がした。ー
こういうのは生半可な小説よりよほど読み甲斐がある。こんな魅力のある随筆は滅多にお目にかかれない。確かに寅彦は科学者である以上に詩人だった。自分で言うだけのことはある。

<哲学> 以下の記述は“反哲学入門”(木田元・新潮社)の受け売りに近いものである。多くの日本人にとってこの領域の話は日常になじまないものであるに違いない。少なくとも明治維新以前、従って150年以上昔の日本では、大多数の人々にとってこの分野の話といものは、別世界の、自分たちとは縁のない世界だった筈である。著者はそのような日本人に本来全く縁の薄かった分野が“哲学”という知らぬ存ぜぬでは済まされないような術語のせいで無理やりに知ったかぶりをさせられるようになった経緯をすっぱ抜いている。
木田元という人は1928年生まれ、東北大学文学部哲学科卒で自らを哲学者と任じているが、この本の“まえがき”で次のような実に率直な感想と所見を述べている。
―わたしは“哲学”を勉強し、大学でも“哲学”を教えていたわけですが、以前から自分のやっている思考作業は“西洋”という文化圏で伝統的に“哲学”(フィロソフィー)と呼ばれてきたものの考え方とは、決定的に違うところがあると思っていました。よく日本には哲学はなかったと言われますが、私もそう思いますし、哲学がなかったということを別に恥ずかしいことだとは思いません。“哲学”というのは、やはり西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと思うからです。ですから、自分のやっていることは、強いて言えば、そうした“哲学”を批判し、そうしたものを乗り越えようとする作業ではないかと思い、それを“反哲学”などと呼ぶようになりました。―
−フィロソフィアというのは「ありとしあらゆるものがなにか」と問うて答えるような思考様式で、日本人の思考の圏域にはない“西洋”という文化圏に特有のものだった。デカルトの言う“理性”とはたしかに人間の内にはあるが、人間のものではなく、神にとって与えられたもの、神の理性の出張所のようなもので、日本人が考えている“理性”などとはまるで違った超自然的な能力なのだから、それを原理にして語られていることが我々にわかるわけがない。それは我々が劣っているということではなく、思考の大前提が違うのだ。しかし先生も先輩も皆理性の何たるか判った顔をしていて、それが判らぬなどと言い出せる雰囲気ではなかった。これは日本の哲学研究者たちの集団自己欺瞞だった。―
日本最初の本格的な哲学研究者だった西周は江戸時代に蕃書調所でphilosophyを“希哲学”と訳している。これは冒頭に掲げたソクラテスが求めていたもの(知を愛する)をしっかり認識した上で、“希(ねがう)”を用いていたのだが、明治になって“希”の字を削って “哲学”にしてしまった。これは西周による誤訳である。本来“愛知”と言わなければならない。日本にも人生観・世界観とか道徳思想はあるが、これは哲学(philosophy)ではない。それは「ありとしあらゆるものがなにか」という問いに対して超自然的な原理を設定してそれに答えるような、特定な思考様式というべきである。
Philosophyの希求はギリシャ時代に始まり、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、アウグステイヌス、トマス・アクウイナス、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーへと継承されていく。本来の学問は自然学(physics)であるが、アリストテレスは“第一哲学”と呼んでいた学科のノートに“自然学の後の書”という名を与えた。これが“metaphysica”と呼ばれるようになるが、日本ではこれに形而上学(けいじじょうがく)という理解しにくい漢字を充てた。
313年にコンスタンチヌス大帝はキリスト教をローマ帝国に取り入れた。もともとキリスト教はイエスという教祖の奇蹟的言行を伝える民間信仰のようなもので、体系的な教義など持ち合わせていなかった。380年にテオドシウス帝によってローマの国教に採用されたので、ギリシャ哲学を下敷きに超自然的原理の部分に“神”を代入して教義体系を作り上げた(アウグステイヌスは“神の国”全22巻を著した)。教義体系の整備は教父と呼ばれる人たちによって推進され、自然的な事象にはアリストテレスの自然学が、神の恩寵や奇蹟のような超自然的な事象については“第一哲学”が用いられた。
しかし476年にはゲルマン民族によって西ローマ帝国自体が滅亡し、キリスト教文化を引き継いだ東ローマ帝国でもユステイニアス大帝の哲学禁止令によって900年の伝統をもつアテナイのアカデメイアは閉鎖され、ギリシャ哲学の遺産は遠くアラビヤの地に運ばれ、イスラムによって研究・保存されることになる。
近代に至ってニーチェはこれまで哲学と言われてきたものをすべて批判し乗り越えようとした。彼の主張はプラトン以降のいわゆる西洋哲学・道徳・宗教はすべてプラトニズムであり、それをいかに克服するかが自分の課題だとした。つまり、“アンチフィロソフィー=反哲学”の概念が誕生した。ニーチェはニヒリズムを単に虚無的な心理状態を指すだけではなく、ありもしない超感性的価値を設定し、それを目指して行われてきたヨーロッパの文化形成の全体を規定してきた歴史的運動の呼び名と解すべきと主張する。
このように見てくると、著名な哲学者たちのこれまでのさまざまな努力は決して人類普遍の課題にまともに取り組んでいるのではなく、世界の中でも限られたヨーロッパ固有の問題のために専ら費やされてきたと言えることが判る。ニーチェの後を継いだハイデッガーにしてもユダヤ人差別こそしなかったけれども、ナチスを支持して不偏不党とはいえなかったし、ヨーロッパ問題から抜け出せなかった。著者が抱いた日本人としてのこの問題への正当な取り組みに期待するのはこれからかもしれない。