
<木造駅舎> N.H.K.は近頃“にほん木造駅舎を訪ねる旅”と題して、眠さを誘うようなテ−マ音楽とともに日本全国にわたる古い木造の鉄道駅舎を紹介している。駅舎は大抵平屋なのだが、丈は高く、高窓から待合室への採光を考慮している目立つ構造になっている場合が多い。鉄道の開通当初、将来の発展を期待する周辺の人々の願いが建築の設計にも反映しているように思われる。今や駅の所在する小都市もしくは集落に溶け込んで、風景的にもそのシンボル的な存在になっている(写真:正面の赤屋根が八東駅)。
多くの場合鉄道の利用者数は伸び悩み、1日の利用者数も高校生などを中心に数百人にとどまっているケースが多い。更に減ると無人駅になる。そういう駅の道路の向かいの雑貨店で代りに切符を売っていたりする。駅舎の横に花壇があって、近所の人が美しい花を育てていることが少なくない。待合室の四周に設けられたベンチは素朴に黒ずんだ木製で、歴史を感じさせる。人っ気の少ない駅舎の正面横には大抵赤い郵便ポストがある。


<玉音放送> 64年目の終戦記念日8月15日を迎えた。この行事は実質的な政治の権能の大部分を統帥権の名の下に軍部に譲り渡さざるを得なかった昭和天皇が非常時によく決意してその大権を行使した記念であり、ラジオを介して全国民に呼びかけた詔勅はその象徴であった。
詔 書
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(けんけん)措カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦(また)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス然(しか)ルニ交戦已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情(ちゅうじょう)モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ
御 名 御 璽
昭和二十年八月十四日
各国務大臣副署
当時小学生だった自分は、予告があったのでこの天皇の詔勅を一通り拝聴した筈なのだが、記憶に残っているのは「堪ヘ難キヲ(ここで小休止があった)堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ビ」の一句だけだった。昭和天皇(裕仁・1901〜1989)があの時決断に及ばず優柔不断であったなら、日本の受けた打撃は更に壊滅的であっただろう(写真は昭和21年新憲法に署名する天皇)。
終戦記念日になると新たに秘話が開陳される。今年のN.H.K.は中国に残存した陸軍部隊を昭和19年後半から南部に転戦させて米空軍による(中国本土の)基地化を防ごうとした話を報道した。だがそれは荒廃し食糧も調達できない土地を1500キロも徒歩で移動することであり、疲労困憊した部隊は容易には目的地に到達できず脱落者が相次いだ。ようやく目的地辺りにたどり着いたときには米軍が日本爆撃の可能な太平洋の島々を入手しており、本土の大都市から中小都市までの継続的な爆撃が始まっていた。当事者は飢えと伝染病で死んでいく兵隊たちに作戦はムダだったとは決して口にできなかったと語った。ガダルカナルに侵攻した多くの兵士たちは兵站の支援なく、空しく餓死したと伝えられる。制空権を握れず輸送船が狙われたのが主因らしいが、昔から日本軍は兵站を軽視した。同じ戦死にしても、作戦の拙劣さから相手に一矢も見舞えず仆れた兵士たちの無念さは殊更だっただろう。歴史上米軍の対日本作戦ほど効果的に成果を挙げた戦争も少なかったに違いない。朝鮮・ヴェトナム・イラク・アフガン、対日戦争以後米国はどこでも決定的な勝利を収めていない。逆に言えば日本軍ほど近代戦に弱かった国も珍しい。有効な戦略を全く持ち合わせなかった。戦線および内地での死者は310万人に達した。陸海軍参謀の肩章は無能さの象徴だった。あれだけ無残にやられては日本が未練なく降伏できて却ってよかったと言い切れる。

<時代の変遷その2> 2003-6にこのテーマ“時代の変遷”で取り上げた*のは“テレビが来た日”というのが主題であった。今回は5巻に及ぶ小宮豊隆編の“寺田寅彦随筆集”を読んでいるが、その全体を通じての感想をこの項に集約しようとしている。もちろん寺田寅彦という人は先月も取り上げたように時代を先駆けたような怜悧な観察者であったが、彼といえども明治から大正という大きな時代の波にゆさぶられながらその生を終えた一科学者であって、前記の時代*より更に半世紀ほど前であったが故に現代では不問に付すようないくつもの問題に遭遇し、(ある意味では)翻弄されている。もちろん彼は時代を超えて通用する真理をも逃さず捉えているが、ここではわざとそれをわきに置いて彼といえども時の流れには逆らえなかった事柄に焦点を当てようとする。
○ 船旅 2月余を費やして船で渡欧する。その間に見聞する様々な事象はもちろんそれなりに興味深いことも多いだろうが、その多くは本来切望したこととは異なった筈である。航空機による旅行が常識化した現代ではたとえ望んでも往時の経験は得られなくなった。
○ 丸善と三越 富士山の見える日本橋に“魚河岸”があって、その南と北に“丸善”と“三越”が相対している。丸善が精神の衣食住を供給しているならば、三越や魚河岸は肉体の丸善である。東京へ出るようになってからは、時々この丸善の二階に上がって棚の書物を隅から隅へと見ていくのが楽しみの一つであった。欲しい本はたくさんあっても、財布の中はいつもとぼしかった。ある婦人は月に幾回三越に行くということを、時と場所と相手とに構わず発表して歩く。
○ ねずみと猫 今の住宅を建てる時に、どうか天井にねずみが入ないようにしてもらいたいということを、特に請負人に頼んでおいた。そのうちにどこからともなく、水のもれるようにねずみの侵入がはじまった。一度通路ができてしまえばそれきりである。そのうちに子猫が欲しいという家族の希望が八百屋に伝えられて実現した。ねずみはまだついぞ捕ったのを見たことがないが、もうねずみのいたずらはやんでしまって、天井は全く静かになった。−総じて住宅にねずみが住まなくなったのはいつごろからだろう。
○ 蓄音機 買い求めて当分の間は毎日子供から蓄音機をと迫られた。子供らはもうすっかり歌詞や旋律を覚えてしまい、朝起きると床の中で歌っていた。蓄音機のラッパというものはあまり気持ちのいいものではなかった。いずれにしても今の蓄音機はまだ完全なものとは思われない。いちばん邪魔になるのはあのささらでこするような、またフライパンのたぎるような雑音である。2年ぐらい使った後に歯車の故障が起こって使用に耐えなくなった。
○ 電車(市電)の混雑について 私は満員電車には乗らないことに、すいた電車にばかり乗ることに決めて、それを実行している。停留所に来てみると人の群れが集まっていて、皆電車の来る方向を気にして落着かない表情を露出している。その間に群れの人数は増す一方である。5分か7分してようやく電車が来ると、人々は後から来る電車は永久にないかの如くに先を争って乗り込む。こういう場合にはほとんど決まったように数十秒、長くて2分以内に次の電車が来る。第1のでは入り口の踏み台までも人がぶら下がっているのに、第2のものではつり革にすがっているのはほんの2,3人だったり、どうかすると座席に空間ができたりする。こういうことは大多数に判っていても最初の満員電車に先を争って乗り込まなければ気が済まないのは国民性だろうか(著者は懐中時計を手に電車の到達時間の実態を計測し、併せて到着時間に生ずるブレの増大する数理理論を立てる)。
○ 相対性理論 アインシュタインの業績は十分に認める口ぶりであるが、ニュートンの在来理論のどこに限界があるのかは論じておらず、著者自身がこの理論とその有効な適用範囲を十分に理解していたとは思われない。彼は宇宙にはあまり関心を寄せる機会がなかったと思われる。もし近年の宇宙観の進展を知ったならば彼は最大級の関心を寄せたに違いない。
○ ルクレテイウス 紀元前1世紀のローマの詩人哲学者である。著者は畏敬すべき古代の科学者でもあったとして彼の随筆の60ページ弱にわたり熱情をもって論じているが、どこが偉大なのかよく判らない。また寺田寅彦以外に論ずる人もあまりいないようだ。不思議である。
○ 映画 “映画時代”と名づけて論評を試みているが、昭和5年のこととてそれが成立する基盤はまだ十分には整っていない。影絵の踊りとかジャヴァの影人形などの話が出てくる。芝居の複製のようなトーキーは失敗だし、映画に下手な天然色を出そうとする試みも愚かなことのように思われるーなどと書いている。当然ながらこの主題については月日の経過とともに進歩して、“映画雑感”という題でズラズラ外国映画の題名を並べ始めた。感想の方は当人ほどにはこっちは感興はない。「バード南極探検」・「沈黙の敵」・「機械」・「トルクシブ」・「ベルリーン」・「西部戦線異状なし」・「モロッコ」。映画というものの魅力に惹かれてどうやら矢鱈に見始めたようだ。暫くして「青い天使」・「モンテカルロ」・「アフリカは語る」・「三文オペラ」・「パリの屋根の下」・「大地」・「自由をわれらに」。当時日本映画はまだ比較対象にはとてもならなかったようだ。―ここまでが随筆集の前半。

<本所深川> また敬愛する司馬遼太郎の“街道をゆく”シリーズ(36)で、今回は“本所深川散歩・神田界隈”を取りあげる。冒頭に地図があって、隅田川とその東岸地区を示している。隅田川から東へ北十間川、IR総武本線をはさんで南へ小名木川、仙台堀川名どの運河が分岐していて、江戸幕府が低湿地帯に縦横に堀を掘削して残土で地のかさあげを行い、広汎な都市造成の大土木事業を行った地域である。今夕刻のNHKニュースの時間にはこの隅田川上流を眺める風景が表紙代わりに映し出されて、首都東京を象徴する画像になっている。本来本所深川は下総(しもふさ)国であり、武蔵国である江戸とは隅田川を隔てて別地域だった。それが川に橋がかけられてつながったので両国橋と呼ばれ、やがて次々に橋がかけられて本所深川は江戸と一つの地域になった。こういう地理と歴史を著者は丹念に取り上げている。
江戸っ子は宵越しの金を持たないというのは江戸の職人たちのことを言うのだと講釈がある。落語のネタになる話が続いて出て来る。江戸は実に火事が多かった。分けても明暦の大火(俗称振袖火事)は江戸史上最大で、江戸城の天守閣も焼け落ちた。隅田川まで逃げてきた10万7000の人たちが水にはばまれて命を落とした。幕府は火の教訓をよく活かし、江戸の市街を大改造して多くの空き地と広い道路を作った。そのために新たに屋敷地が必要になり、本所が開発された。本所を江戸とつなぐ橋が架けられた。橋は時代とともに増えて、今では新米のタクシー運転手は先輩から“山の手は坂で憶えろ、下町は橋で憶えろ”と教えられるという。
両国駅の南側に吉良邸跡がある。著者は刃傷事件の後吉良邸がここへ移った経緯から忠臣蔵の一幕がここで実行されるまでの事情をご丁寧に述べている。次は本所生まれの勝海舟が両国橋の上で夜間大事な餅を風呂敷ごとばらまいてしまい、回収できなかった事件があって、後に幕府代表になって江戸をまるごと西郷隆盛にくれてやった話と繋がると説いている。幕府は町民のためにいくつも大衆娯楽を作った。歌舞伎は江戸市中だったが、大相撲は両国の川越えだったし、深川の富岡八幡宮の祭礼見物に大勢が永代橋を渡った。人の波で橋が落ちたこともある。
遼太郎は土木工学の宮村教授とともに隅田川を船で遊覧したことを記している。一旦川をさかのぼり、千住大橋から橋々を眺めつつ流れをくだる。隅田川は荒川下流の分流で、海に入るまでの僅か23.5キロメートルの間に35もの橋がある。宮村教授は“隅田川の橋は近代橋梁の博物館です”と言い、橋をくぐるたびに橋の由来や型について説明してくれた。 江戸期隅田川の上流は利根川だが、漏斗状の堤防を築いて限られた水量だけを隅田川に流すようにした。だからよほどの異変がない限り隅田川は安全だった。それが浅間山の噴火による大量の降灰で状況が変わり、隅田川の上流は荒川になったので、幕府は荒川に再び漏斗状の堤防を築いて隅田川の洪水防止を図った。よって近世・近代を通じて江戸・東京の市街地は大きな水害を受けていない。本所・深川の水はそこに降った分だけだと宮村教授は言う。
昔源頼朝は石橋山で敗れて千葉に渡り、武蔵国に入ろうとしたが隅田川の水位が高かった。下総に滞留する内に数百人だった味方が3万に増え、浮橋(船橋)を作って勇躍川を越え西に向かった。ここに平安時代以来の白鬚神社がある。深川文化を代表するものとして著者は辰巳芸者を挙げる。彼女らは羽織をまとってお座敷に出た。今でいう宝塚の男装の麗人である。鶴次というような男名前を名乗り、その気風は“侠(キャン)”とよばれた。女郎は色をひさぐが、芸者は芸だけを売った。


<古橋 廣之進> イタリア・ローマで水泳世界選手権大会が開かれていて、連日日本男子の活躍も報じられていたが、突然ニュースは日本水連名誉会長古橋 廣之進氏がそのイタリア・ローマで死去したことを報じた。氏は1976年より国際水泳連盟の副会長を務め2009年7月24日にローマで開催された総会でも再選されたが、その9日後の8月2日午前中に現地のホテルの部屋で亡くなっているのが発見された。死因は急性心不全という。享年80歳だった。
古橋さんは、先月24日に開かれた国際水泳連盟(FINA)の総会に出席し、副会長に再選されたばかりで2日の大会最終日を見届けて、3日に帰国する予定だった。 会場の屋外プールでは時折スタンドから観戦。現場に出るのが何よりも好きで、気温40度近い酷暑の中、日本選手団の関係者と選手の活躍を見守った。大会最終日の2日、急逝した日本水泳連盟の古橋廣之進名誉会長に、世界中から集った水泳関係者が別れを告げた(写真)。


<宇宙の解明> いま、私の机の上には“見えない宇宙”(ダン・フーバー・日経BP社)という本がある。それほど分厚い本ではないけれど、一度読んだだけではその内容の詳細は頭の中にうまく収まらない。それについての感想として、対象が日進月歩する現代科学の最先端の知識に及んでいるのだが、最近の科学者たちの絶えざる貢献によって、我々が昔学校で習った知識は遠くかすんではかなくなってしまっている。しかし却ってそれ故に未解明の分野はますます拡大し、結論から言えば現代ある程度断言的に表現できるのはこの本の序文に著者が記した短い文章の範囲にとどめておくべき(序文以後の詳しい議論は試行錯誤の要素も含んでいて、どこまでが真理か疑わしくなってしまう)というのが穏当なところだろう。
そこでその序文を以下に紹介して見よう。因みに著者ダン・フーバーは米フェルミ国立加速器研究所の理論天文学グループの研究員で、ダークマター、超対称性、ニュートリノ、余剰次元、宇宙線などを研究している。ウイスコンシン大学で博士号を取得、オックスフォード大学で研究員を務めている。訳者柳下貢崇はブラックホールや中性子星のまわりにできる“降着円盤”の世界とコンピュータ・シミュレーションに魅了され、宇宙物理学を専攻し、北海道大学で博士号を取得。と紹介されている。なお、2009は世界天文年だそうである。
―序文 科学者はあらゆるものがきちんと整理されているのを好むという見方は、よくある誤解である。すなわち、自分たちのアイデアにもはや疑問を抱かないとか、現在の説明が不完全であるとは考えたりしないといった見方である。もちろんそんな見方はまるで見当違いだ。何といっても、私たち科学者がすべてを知ってしまったら、発見すべきものが何もなくなってしまう!しかしすべての科学者が日々夢見るのは同僚たちの間違いを証明することだと言ったとしても、あながちふざけているわけではない。
科学者がもっとも胸を躍らせるのは、まだ定位置にはまっていない最後のピースが残された謎めいたパズルだ。そしてこのことは、現代宇宙論がこんなにもたくさんの物理学者、理論家、実験科学者の注目を集めている理由である。過去30年ほどにわたって、自然界の謎のうち観測的宇宙論の発見ほど深く、そして困惑の種となっているものはほとんどない。
ほぼ20年前、私たちはおそらく歴史上で最大のコペルニクス的な革命の真っ只中にいるのだと私は書いた。ご存知のとおりコペルニクスは地球が太陽系の中心ではないと、大胆にも正しい主張をした。彼の洞察が確かめられてから350年ほどの間に、人類は宇宙の中心からますます遠くへと追いやられ続けている。地球が太陽系の中心にないだけではなく、太陽系も銀河系の中心ではなく、銀河系の退屈な郊外に位置している。そして銀河系もまた、私たちの属する銀河団の中心ではない。実際、私たちからはあらゆる方向がほとんど同じように見え、宇宙の中での私たちの場所に特別なことは全くない。
更にこの宇宙で支配的なものは地上で観測できるものとは全く異なり、目に見えない物質とエネルギーなのだということが判ってきた。ほとんどの銀河で支配的な物質は望遠鏡では見えないことを知った。それは自ら光を放たない。その“ダークマター”は未解明の素粒子と場から成っていて、大型粒子加速器などによる探索が待たれている。このダークマターの謎は、非常に小さなものと非常に大きなものという相補的で一見かけ離れた物理学のふたつの領域、すなわち素粒子物理学と宇宙論の主要な未解決の難問を結びつける。
10年前には更に謎めいた発見があり、それはダークマター以上の重大事を意味した。宇宙のエネルギーとして最大のものは物質を全く含まず、空虚な空間に存在して斥力の重力として働き、宇宙の膨張速度を加速しているらしい。ダークエネルギーについては多くのことがまだ判っていないという指摘は控え目な言い方である。観測される大きさのエネルギーをなぜ空虚な空間がもつのかということは、物理学で恐らく最大の謎である。この認識は理論素粒子物理学の状況をすっかり変えてしまった。大勢の天文学者と天体物理学者はこのエネルギーの正体を理解するための新たな宇宙探査機を打ち上げようとしている。
ダークマターとダークエネルギーの正体の探求は、私たちがこれまで乗り出だした冒険の中で恐らく最大のものである。この正体が明らかにならない限り、人類がずっと問い続けてきた問い、即ち「私たちはどこから来たのか」、そして「私たちはどこへ行くのか」という問いに答えを出すことができない。―
もう一冊同じテ―マを取り扱った解説書“暗黒宇宙の謎”(谷口義明・講談社)があり、その冒頭でダークマターは宇宙全体の質量の23%を占め、ダークエネルギーは宇宙全体の73%の質量(質量とエネルギーは等価である)を担うことが判った。この数字は宇宙マイクロ波背景放射探査衛星WMAP(2001年6月)がもたらした。我々が知っている物質の質量は僅か4%に過ぎないと記している。たまたまハッブル望遠鏡は星の光に照らし出されて立ち上がっている3本の暗黒星雲=イーグル星雲を写し出した(写真)。暗黒星雲は宇宙に散開するダークマターの一端に過ぎない。我々は宇宙の探索によって未知の分野の一端に首を突っ込んだ段階なのだろう。ここで2冊の著書の内容を暗黒宇宙について詳述しても、どこまで真理に近づいたのかあまり当てにならない。人類が解明すべきテーマは果てしない。