11月の話題


2009年11月


<オランダ> 司馬遼太郎の“街道をゆく”シリーズ35、“オランダ紀行”からの抜粋である。司馬遼太郎の“街道をゆく”シリーズをはじめは漫然と読みあさっていたが、そのうちにこのシリーズは探訪する地域についての歴史と地理に関する遼太郎による厖大な調査と思索研究に基づく報告書であることに気付いた。43編にわたるこの著作のまだ半ばを読んでいないが、私にとってこれらの作品はすべて他のものと比肩できないほどの珠玉の価値をもった文芸として存在するようになった。またその表現スタイルは遼太郎一流の語り口で諸方面から頂上に攻め上るように趣を変化させるので、いささかも飽きさせず、強いて難点を言えばどこに何が書いてあったか 後で探すときに少し苦労するぐらいのものである。この年までいささか読書を重ねてきたが、このシリーズこそ第1級の文芸作品として推奨することに躊躇しない。私のは気に入った箇所の抜書きに過ぎないので、時間のあるかたは是非原作を手にとってみられることをお勧めする。また文庫版の表紙のカラー写真は探訪地域を代表する画像として趣があり、一見に値する。

 紀元前後のオランダは僻地だった。国全体が海面とすれすれなほどに低かった。土地はライン川が運んできた土砂によってできていた。昔から“低い土地(ネーデルランド)”と呼ばれてきた。古代人は人工の丘(テルプ)を築き、その上に村をつくったが、やがて丘と丘を土木的につなぐことで堤防を築いた。以後人々は神が作り忘れた地面を人間の手で営々と造り続けた。オランダでは堤防を築くのにコンクリートは使わない。スイスやドイツで買ってきた自然石で築く。石と石を積み上げるときにヤナギの枝をクッションとして置くという。水辺に水鳥が多いのは魚が多いからだろう。コンクリートだとプランクトンが繁殖せず、プランクトンがいないと魚は育たない。自然石主義は生態系に関する配慮がある。この石と粗朶を組み合わせるオランダ式の粗朶工法は日本の河川土木工事に強い影響を与えた。雄大な干拓地が河港や海に浮かび、干拓地と干拓地の間を大きな堤防が結び、その堤防を高速道 路が走っている。世界は神が作り給うたというが、オランダだけはオランダ人がつくった。

 またオランダ人はニシンを内臓を抜き取り塩詰めにする保存方法を開発して航海と操船技術を上達させ、遠方まで売りに行った。15世紀末にはニシン船は700隻を越え、売り上げは英国の毛織物を越えてオランダ商業の母体になって貿易を主体にする東インド会社に発展した。 ベルギーも訪れている。地域名としてのネーデルランドはオランダ王国、ベルギー王国、ルクセンブルグ大公国の三ヶ国を指し、頭文字を撮ってベネルックスというが、いずれも地面の大半が海面より低く、湿地帯も多い。オランダとベルギーの距離は近く、九州と四国より近いほどである。ヨーロッパは共同体(EC)を結成したが、昔から英、仏、独の三強が三すくみであって、共同体の本部はベルギーの首都ブリュッセルに置かれている。因みにECの事務局長職は続けてオランダ人が勤めている。この地域が中立とみなされるらしい。歴史的にはスペインのフェリペ2世は狂的なほどにローマ教会を支持し、新教(プロテスタント)を弾圧して、1568年のオランダ人大反乱を招く。やがてオランダは独立し、スペインとカトリックの鎖を断ち切って、栄華の坂を駆け上る。アントワープの商人やユダヤ人たちはスペインの鎖を嫌い、大挙アムステルダムに移り、数百年前には一漁村に過ぎなかったアムステルダムはヨーロッパ第1の国際貿易港になった。アントワープは逃げ遅れたが、今ではそれに懲りてさすがに宗教・民族差別はない。ナチの1941年弾圧の際にはユダヤ人たちはアントワープ市のペリカン通りに集中して移り住んだ。

 国中の風車が偏西風を利用して排水を行ってきた。昔ドン・キホーテが挑んだ風車である。今では電動の排水ポンプが活躍している。この国では地球温暖化と海水面上昇は極めて切実な問題で、二酸化炭素排出規制には真剣そのものである。凡そ20年前の朝日新聞の記事でオランダ政府のスポークスマンは最悪の場合人間はドイツに逃げれば命は助かるが、多くの国土と産業施設が海に奪われると発言した。人口1450万の2/3は逃げなければ溺死する。長い年月をかけて築き上げてきた長大な堤防の上を海水面が上昇して乗り越えるようになればこの国は壊滅する(冒頭の衛星写真参照)。

 16世紀以降オランダは海洋先進国であった。海洋博物館を訪れれば判るが、オランダの風帆船の特徴として船腹が膨らんでいて威容を感じる。船腹の断面はV字型ではなく、トマトの断面かチューリップの花のようであった。その理由は税金のせいで、甲板の面積が徴税の基準になっていた。造船家は依頼主の要求によって甲板の面積を抑えて船腹をたっぷり膨らませた。合理的ではあったが技術的には困難があったであろう。小さな国土しかもたないオランダがヨーロッパ一の商業的繁栄を築いたのは船という海上の領土があったからだ。当然その繁栄は英国の嫉妬を買い、フランスの憎悪を買った。英国は後の時代のような大海軍も大商船隊も保有していなかった。オランダに比べてどじで無能で市場調査の能力もロクになかった。艦船の保有量もオランダに比べてずっと少なく、海の後進国だったのである。話は脱線するがオランダ人はトルコに野生していたチューリップを栽培して300年間オランダに少なからぬ利益をもたらす球根産業に育成した。

 2世紀にわたる鎖国時代の日本は欧米諸国を警戒していて、オランダと清国の商船に対しだけ長崎1港に限って通商を許した。国中が暗箱の中に入っていて、長崎出島という針孔から洩れる外光が世界だった。そこに監禁された十数名のオランダ人が二千数百万の日本人社会に僅かな影響を与え続けた。オランダの人体解剖図は初めて腑分けに立ち会った医者たちに文明の衝撃を与え、この日から蘭学が開始された。福沢諭吉が横浜で英語に接するまでは日本の近代はオランダ語によって拓かれた。

 一方で著者はオランダ人の画家レンブラントとゴッホが日本人に与えた強い影響について記している。17世紀のレンブラントは“夜警”と“トウルプ教授の解剖学講義”の作品が有名で楽観派に属するが、19世紀のゴッホは悲観派の代表になる。彼の作品は数多く日本人に知られているが、著者は“馬鈴薯を食べる人々”を挙げる。5人が食卓を囲んでいるが、どの表情にもものを食べる楽しみなどはなく、生命を生きつなぐために夜の食事をとっている。食卓にはバターもない。耕して得た結果をただ生きる無表情に咀嚼している。ゴッホはそれが人だと観る。著者はゴッホを観るのはこの一点の作品だけでいいと言い、ゴッホが愚直なほどに聖書の中で生きたという。また生前のゴッホは人々に理解されなかったが、ゴッホにおける奇異さが人々の目から鱗が落ちるように抜けると、彼の絵は生命の悲しみの表現であることが理解され彼の名声が確立した。著者がゴッホを深く愛していた証拠はこの著書でも80ページを割いていることからも明らかである。オランダには英国のような詩人・劇作家・作家がいない。その代わり多くの絵画の巨匠を出した。また文章としてはゴッホの数多くの書簡集が評価されるようになった。


<叡山> 司馬遼太郎の“街道をゆく”シリーズ、“叡山の諸道”からの抜粋である。 叡山をひらき、やがて南都(奈良仏教)に対する天台宗の一大本拠になる基礎を築いたのは、伝教大師・最澄である。最澄は滋賀郡に移り住んだ漢人たちの子孫で、推古天皇の608年、最澄誕生の150年前、彼らの中から遣唐使が派遣された。最澄は遣唐使として入唐したが、主目的とした顕教としての天台宗は日本で歓迎されず、添え物として持ち帰った越州の田舎密教が歓迎された。しかし密教としては同じ時期に入唐した空海が大唐長安の正統密教をことごとく持ち帰ったために首座をゆるさざるを得なかった。晩年の最澄は唐の天台山から持ち帰った厖大な経論を整理できず、南都仏教とのたたかいの中で一宗の確立が困難で、弟子たちの多くが叡山を去った。死に臨んで数少なくなった弟子たちに“私の供養のために仏像をつくったり、写経したりするな、我が志を述べよ”と悲愴な遺言を残した。

 若い弟子の円仁が師の遺志を遂げるべく遣唐使に加わり、9年で帰国して“大唐求法巡礼行記”を記した。時期は晩唐で王朝は仏教に非寛容になったために、円仁は目指す天台山にも行けず苦労を重ねたが、山東半島赤山の新羅人が便宜をはかってくれ、天台山の代わりに五台山へ、更に長安へ行き、帰国して叡山に戻り、持ち帰った経論によって最澄の遺業大成に努めて天台座主となった。後世慈覚大師と呼ばれるようになる。叡山西麓にある赤山明神は赤山の人々の恩義を忘れなかった慈覚大師の遺命で創建された延暦寺別院である。

 円仁は叡山の横川に籠山したが、第18代座主になった良源も横川教学を充実して死後元三大師と呼ばれるようになった。正月三日に遷化したことによる。生涯で二度叡山を代表して南都の代表と論争する場に臨み、二度とも勝って一山の南都に対する優位を勝ち取った。良源は“有性も無性も斉しく成仏する”と唱えて反論を封じた。これによって長く南都の下風に立っていた叡山は完全に独立し、むしろ上に立つようになった。また元三大師はタクワンを発明したといわれる。彼の住坊は横川にあり、定心坊と呼ばれていたので、叡山や坂本あたりの町屋ではタクワンのことを最近まで“定心坊”と呼んだ。天台の大師は史上6人いるのに対して真言宗は開祖空海ただひとりであった。 

 昔から叡山では三塔十六谷といわれる。全体を総合大学とみなし、三塔は三学部に相当し、その下に谷という学科が付属する。即ち、東塔―北谷、南谷、西谷、東谷、無動寺谷。西塔―東谷、北谷、南谷、北尾谷、南尾谷。横川―般若谷、香芳谷、戒心谷、解脱谷、兜卒谷、飯室谷。これらの谷々には三千坊と誇称されるほど多くの僧坊があったが、今はそのほとんどが廃れている。尾根に住むと風が強いが、谷に住むと風は防げる。十六谷のほとんどは南北に走る叡山の稜線の東側(琵琶湖側)で、ここに住めば冬季北西風をかなり逃れることができる。

 円仁が天台座主になった翌々年、藤原の貴族の一人が一門一族の導師たるべき若い僧の人選を依頼してきた。円仁は相応を選び、相応は籠山十二年の修行に入る。彼は円仁から不動明王法を授かり、不動明王を拝したいという一念から回峰行を創始することになる。彼は無動寺谷に草庵を結び、叡山のひだというひだを舐めるように歩いた。彼の夢寐に薬師如来が現れて、“毎日遊行の苦行”を是認し、“是れ、常不軽菩薩の行なり”と教えたという。相応はのちに叡山より北の比良山系に入って三年の籠山をし、滝の中に火炎を背負った不動明王の色身をありありと見た。思わず抱きつくと桂の古材だったというが、ともかくも見神を成し遂げたのである。

 遼太郎は回峰行者の世話と管理をする法曼院を訪れ、大行満光永澄道師に会った。この人は昭和十年生まれで、昭和38年、千日回峯・十二年籠山に入り、昭和50年に満行した。一山の僧は伝統によりこの人を敬して“北嶺大先達大行満大阿じゃ梨”と呼ぶ。師の著書によれば“青春期から中年にかけての十二年、比叡山に籠っていた。この間延べにしておよそ地球上一周ほどの距離を歩いた。千日回峯という。文字通り千日の間、一日30キロから84キロの行場を歩く。84キロになると、一日中歩き詰めに歩いている。まったく意識もうろうであり、意識モウロウといえば回峯行だけでなく、九日間の断食断水不眠不臥という人体保持の限界を越える行にも挑戦する。・・なにがそうなのかといっても、回峯行は、人間が人間としての特権である文明を拒否して、原始人間に立ち戻らなければできぬ行であり、もっというならば人体の機能が鳥やケモノに近づいているといっていい。”とある。行者の服装は死に装束ともいうべき白一色で、蓮の葉を両側から巻き上げたような独特の笠をかぶり、いざというときの自害用の死出の紐と短刀を携行する。午前零時、無動寺谷の護摩堂で朝の勤行に入り、二時に白装束に着替え素足に草鞋で出発する。灯火もなく、風雪も辞さない大変な行である。昔ある王が家来に闘鶏用の鶏を飼って訓練させた。次第に訓練の実が上がったが、人が尋ねる度に家来はまだダメです、相手に挑もうとしていますと答えた。最後に“できあがりました。木鶏に似ています”と言った。木でつくった鶏のようですと言った風姿はどこか澄道師を思わせた。

 織田信長の叡山焼打ちは1971年9月12日に行われた。当時の信長はアチコチで無理を重ねており、家康以外はすべて抵抗勢力として連合戦線を形成しようとしていた。本願寺には不思議な武力があって、諸方に一揆を起こさせて信長を奔命に疲れさせた。また叡山に矢を向けるとたたるという風説が流れており、当時敵対した朝倉・浅井勢は叡山の山上に登って信長の自滅を待った。信長は叡山の代表を呼び、我が方に味方せよと言い、そうすれば接収している山門領を返還しようと言ったが、応じないので、それなら中立になってどちらにも組しないようにと求めた。もしこのいずれにも応じないのであれば、叡山の根本中堂と日吉大社の三王二十一社を焼払ってしまうがよいかと言った。叡山側は態度をはっきりせぬままに引揚げた。信長の提案を蹴ったのである。堂塔の焼打ちなどできる筈がないとタカをくくっていた。織田軍は12日延暦寺攻撃に動いた。北部は木下藤吉郎に、東部は明智光秀に担当させ、命じられた行動は僧俗ことごとく殺せというものだった。堂塔は一宇も残さず灰になった。集団大虐殺(ジェノサイド)が行われた。光秀は徹底的にやり、高僧、美女、小童など目立つ者はいちいち信長の前に引き出されては首をはねられた。藤吉郎は手加減してやったので逃避者の多くが助かった。このことは長く伝承されている。


<松井秀樹> 2009年11月4日米国ニューヨークのヤンキー・スタデイアムで行われたヤンキーズ対フィリーズのワールド・シリーズ第6戦に指名打者・5番で出場した松井はチームがこの一戦に勝ち、念願のシリーズ優勝をチームが9年ぶりに成し遂げるのに直接参加・貢献できただけでなく、日本選手として初のシリーズMVPを獲得した。

 二回、先制の2点本塁打を右翼に打ち込んだ。カウント2―0と追い込まれ、粘った8球目だった。2死満塁の三回には中前打を放って2打点を加えた。五回にも右中間二塁打で2打点。ヤンキースタジアムには早くも「MVP」の大歓声が沸き起こった。結局この試合は7:3でヤンキーズが勝ったが、ヤンキーズの7点のうちの6点は松井の打点によるものだった。

 観衆の一人として松井を見るとき、彼は決して常に信頼できる打者ではない。歯がゆいほど情けない打席をくりかえすことがある。そういう状況は結構多く、最近の常時の打率は3割を切っているのではないか。しかし並みの選手と違うのはいざというときに勝負強いことだろう。この点ヤンキースの前監督にも現監督にもしっかり評価されていたようだ。

 投手との相性ということがある。打者には誰でもこれがあるが、私は彼の場合それが顕著だと思っている。今回の最終戦、フィリーズのペドロ・マルテイネス投手とは以前から相性がよく(第2戦でも本塁打)、他の選手よりよく打ち込んでいた。それがめぐり合わせでこのフィナーレにぶつかったのが松井とヤンキースの幸運だった。ヤンキースのキャッチャー・ポサーダはシリーズの中盤よく打ってチームの勝利に貢献していたように思うが、最終戦に限っては松井の後から出てきてはいいところなく三振して退いていた。多分ペドロ・マルテイネスとは合わないのだろう。リベラはヤンキースの勝利試合はキチンと終りを締めていた。そういう人たちを拾いあげないMVPはめぐり合わせに過ぎない。

 彼は2年ほど前に腕を骨折したし、同じ頃から両膝に水がたまり、痛みでずっと苦労している。シーズンオフに両ひざともメスを入れている。激しく不規則な運動を強いられる外野守備は2年ほど前から許されない状況にある。規則的なベースランニングとは違うのだ。それさえ痛みが心配になるらしい。普通こんなハンデイを背負って大リーグの正選手ではいられない。しかし彼の場合は打者としての天分と人並みはずれた精進によってここまでやってきて、ヤンキーズの指名打者の地位獲得につながった。今回のMVPのお陰でもう暫くは選手寿命が延びるかもしれない。

 7年前に日本のジャイアンツから米大リーグ入りして以来、ヤンキースの一員としてその優勝に貢献するのが自分の務めだと常に公言してきた律儀な男である。こういうのは言葉がうまく通じなくてもチームの人たちには即通じる。ジーター主将などは今回の彼の活躍を一番喜んでいるだろう。今後の望みを尋ねられて、“自分はニューヨークを愛し、ヤンキースを愛し、チームの皆を愛し、ファンの皆を愛し続ける”と答えた。チームへの貢献への僅かな妨げになることを恐れて、日本のファンの期待が強かったにも関わらず、WBCへの参加を断念するほどの実直な男である。人が信頼され、愛されるのは結局こういうひたむきさによるのだ。


<民主党の欺瞞> 民主党の新政権になってから始めての国会が開催され、衆議院議院の予算委員会が開催されている。11月4日のテレビ中継でその審議状況が放映された。斉藤健氏(自民党・改革クラブ)はCO2削減問題について取り上げた。斉藤議員は新人議員なのだというが、委員会の実質的各論討議の冒頭で質問陣の先陣を切ることを認められたのだからその優秀さが認められたのだと思うが、彼は鳩山首相が国連の場で日本が1990年比25%削減という思い切った提案(鳩山イニシアテイブ)を行ったが、その具体的な中身はどうなっているのか、どれほどその数値的な根拠について詳しく検討したのかを質問した。

 鳩山首相、菅副首相など何人かの閣僚が答弁に立ったが、いずれも首相の国際公約を裏付ける具体的内容ならびにその数値的根拠の裏づけについての説明はできなかった。目下調査検討中との弁明に留まった。斉藤健氏は外向きに派手な声明をする前にそれを実現するために国民はこれからどのような具体的な犠牲を強いられるのかを説明し、それについてのある程度の国民的合意を取り付けるべきではなかったかと問いただしたが、このような論議が行われている現在でもそういう具体的施策についての説明準備は全くできていないことが明らかになった。

 質問は25%の実質、すなわちCO2放出権の買取などを含めない真水の削減量が何%になるのか、またマニフェストの別の部分に謳っている高速道路料金の廃止とガソリン暫定税の廃止によって必要削減量が在来より実質的に何%増えると見込んでいるのかにも及んだが、数値的な検討は一切済んでいないことが答弁によって明らかになった。

 質問者はこの問題に関してエネルギー対策として原子力発電量の増加が極めて効果的であることに言及した上で、直島経済産業相に原発の増設についての意見を徴したところ、積極推進したいと答えたが、同じ閣僚である福島社民党党首を名指しすると、“社民党としては”と断った上で、“原発の増設については一切反対であり、エネルギー対策としては太陽光発電など他の手段に頼るべき”と答えた。最近提案されている原発の9基新設についても彼女は頭から否定した。質問者は同じ質問を首相に宛てた。耳を澄ませて聞いたが、首相は“時間をかけてでも国民の理解を得ていきたいムニャムニャ”と不鮮明に答えて本件についての明確な閣内意見の統一ができていないことを露呈した。 議論の終りの方で鳩山首相が改めて強調したのは現時点で地球上の人類が無事に生き延びるためには自分が提言したような思い切った削減の実行が必須であって、その実現のための方策は次の問題であり、そういう断固とした姿勢が他の主要国に追随を強いるためにも不可欠であると示唆した。

 改めて質問者は削減の対象とすべき基準年について首相は1990年を唱えているが、現に中国は近年の急速な発展のために1990年比3倍にもなっており、とてもその基準年に対して“削減”などとは口が曲がっても言えない、米国も中国も非公式にではあるが、もし検討するのならば2005年比にしたいらしいがどうかと問いかけた。確かに中国あたりのこの問題は日本よりずっと深刻であることを実感した。COP15で世界はこの問題をある合意にもっていくための会議を開くそうだが、会議の破綻の可能性は極めて大きい。

 またこの問題に限らず民主党の政策立案はまだ野党時代から頭が完全には切り替わっておらず、非現実的な対応が散見されるので、当面はとても気を許して見ていられない。わが身に即して言えば後期高齢者医療問題など宙に浮きかけている。遠からずアチコチで矛盾が勃発することを懸念している。


<科学者とあたま> 最初に断っておくが、以下は寺田寅彦の随筆集からの引用である。“科学者とあたま”というのは当該部分の随筆の小題である。

 ―私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを話して聞かせた。「科学者になるには“あたま”がよくなくてはならない。これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的少数である。

 この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は“あたま”という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることはもちろんである。

 論理の連鎖の唯一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確で緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透かす内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は“あたま”がよくなくてはならないのである。 しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認め、そうしてその闡明に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物分りの悪いのみこみの悪い田舎者であり朴念仁でなければならない。

 いわゆる頭のいい人は、言わば足の速い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くことができる代わりに、途中の道端あるいはちょっとしたわき道にある肝心のものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとおくれて来て わけもなくその大事な宝物を拾って行く場合がある。

 頭のいい人は、言わば富士の裾野まで来て、そこから頂上を眺めただけで、それで富士の全体を呑み込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登って見なければわからない。

 頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けていく。どうにも抜けられない難関というのは極めて稀だからである。 それで、研学の徒はあまり頭のいい先生にうっかり助言を請うてはいけない。きっと前途に重畳する難関を一つ一つしらみつぶしに枚挙されてそうして自分のせっかく楽しみにしている企図の絶望を宣告されるからである。委細かまわず着手してみると存外指摘された難関は楽に始末がついて、指摘されなかった意外な難点に出会うこともある。

 頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、“自然のほうが間違っている”かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。

 頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手にふれる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せるからである。

 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。 科学の歴史はある意味で錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。

 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからである。怪我を恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭のよい人は戦士になりにくい。

 頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のする事が愚かに見え従って自分が誰より賢いというような錯覚に陥りやすい。そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、やがてその人の進歩が止まってしまう。頭の悪い人には他人の仕事が立派に見えると同時にまたえらい人の仕事でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。

 頭のいい人で人の仕事のあらはわかるが自分の仕事のあらは見えないという程度の人がある。そういう人は人の仕事をくさしながらも自分も何かしら仕事をして、そうして学会にいくぶんの後見をする。しかしもういっそう頭がよくて、自分の仕事のあらも見えるという人がある。そういう人になると、どこまで研究しても結末がつかない。それで結局研究の結果をまとめないで終わる。すなわち何もしなかったのと、実証的な見地から同等になる。そういう人はなんでもわかっているが、ただ“人間は過誤の動物である”という事実だけを忘却しているのである。一方ではまた、大小方円の見境もつかないほどに頭の悪いおかげで大胆な実験をし大胆な理論を公にしその結果として百の間違いの内に一つ二つの真を見つけ出して学会に何がしかの貢献をしまた誤って大家の名を博することがある。しかし科学の世界ではすべての間違いは泡沫のように消えて真なもののみが生き残る。それで何もしない人よりは何かした人のほうが科学に貢献するわけである。

 頭のいい学者はまた、何か思いついた仕事があった場合にでも、その仕事が結果の価値という点から見るとせっかく骨をおっても結局たいした重要なものになりそうもないという見込みをつけて着手しないで終わる場合が多い。しかし頭の悪い学者はそんな見込みが立たないために、人からはきわめてつまらないと思われる事でも何でもがむしゃらに仕事に取り付いてわきめもふらずに進行していく。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結果にぶつかる機会も決して少なくない。この場合にも頭のいい人は人間の頭の力を買いかぶって天然の無際限な奥行を忘却するのである。科学的研究の結果の価値はそれが現れるまではたいてい誰にもわからない。また、結果が出たときにはだれも認めなかった価値が十年百年の後に初めて認められることも珍しくない。

 頭がよくて、そうして自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げだし、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者になれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれないことももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。

 つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。 この事実に対する認識の不足が、科学の正常なる進歩を阻害する場合がしばしばある。これは科学にたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる.

 最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の智慧のすべてであるように考えることである。科学は孔子のいわゆる“格物”の学であって“致知”の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋も持っていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これも わかりきったことのようであってしばしば忘れられがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。

 この老科学者の世迷言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。−


 随分周到な文章で、時代が変わっても(昭和10年、雑誌鉄塔に所載)決してぶれることのない真理をうがっていると感心したのでここに全文を掲載することにした。


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