経済問題


 第8章

 2007年7月24日

<日銀> 2001年1月、21世紀の幕開けを祝う公邸での新年パーテイの席上に一人の大蔵省高官がいたが、彼だけは楽しげな客たちの中で寂しそうだった。声を掛けられて彼は次のように慨嘆した。“もう終わりです。我々は大蔵省という名前を失ったのです。既に力は奪われてしまった。せめて名前だけでもと思うのだが、その名前もこの1月5日に取られてしまうのです。”―これは“円の支配者”(リチャード・ヴェルナー、草思社)の冒頭の記述である。著者はドイツ人であるが、オックスフォード大学大学院博士課程を経て東大大学院で経済学を専攻、独自の調査で日本経済の実態を熟知している。

 実は私は6年前にこの本を読み、2001年7月、<日本銀行>のテーマでまさしく紹介しているのだが、恥ずかしながらあの際は著書の文章の表面を追っただけで、日本の中央銀行・日銀が如何に恐るべきことをやり遂げたか、そのために如何に長期間をかけて周到に準備をしたか、またそれが恐るべく多大な犠牲を払ったにも関わらず、長期的な視点で見るとそれはぜひ必要なことであったし、またそのような荒療治でなければ達成できないことだった事、そして振り返ってみればそのような大改革の必要性については既に前日銀総裁の立場で国民に対するメッセージ(前川レポート)の形で強く訴えていて、必要な手順を抜かりなく踏んでいることをも私は十分にはというよりほとんど全く理解していなかった。

 改革の対象となるべきは“1940年体制”、戦争のための国家総動員体制である。経済的に官僚が取り仕切る統制経済であったのだが、戦後も米ソ対立の中で日本復興を早める手段として米国に容認され、重点的輸出振興策を中心に日本経済の奇跡的発展をもたらした。通産省主導の下に最初は繊維産業、次いで造船業と鉄鋼業、その後を自動車産業とエレクトロニクス産業を優先して外貨割り当てを行った。しかし“ジャパン アズ NO.1”などともてはやされるに及び、国際社会は日本経済にその異質性(輸出偏重の国家資本主義)を清算し、市場開放・規制緩和を強く求めるようになった。

 日銀が如何に巧みにジャーナリストや自称エコノミスト達の眼を欺き、そればかりか権威の象徴の如く日本経済界に君臨していた大蔵省を欺き通し、挙句の果てに世に知られぬ仕組みを介して故意に不動産を中心とするバブルとその突然の崩壊による巨額の不良資産を発生させ、なおかつその深刻な影響を不況の形で長期間持続して、世人に監督官庁大蔵省の失態を強く印象づけ(日銀は大蔵省の監督下にあったから、この大カタストローフ=不祥事の責任はないと衆人が考えた)、遂に国民は日本経済の徹底的な構造改革や規制緩和の必要性を受け入れる心情になり、無能力振りを曝した大蔵省を解体に追い込み、日銀法の改訂で日銀の政府・大蔵省からの独立を勝ち取ったかは、まるで実に巧妙に仕組まれた壮大な劇を叙述する推理小説を読むような感がする。そしてこのような素っ破抜きの著書が刊行されて6年経っても依然として一部の政治家を除く大多数の国民には実態が理解されていないのは、伝統的に日銀が自らの業績を決して宣伝せず、地味に振る舞い続けるからである。

 話が過去にさかのぼるが、1946年、占領軍の承認を得て、一万田尚登が日本銀行総裁に任命された。彼は1924〜1926年にベルリンに派遣されてヒャルマール・シャハトの信用統制政策に学び、信用創造の権威者になっていた。終戦後銀行は軒なみ負債だけで無資産だった。日銀のお墨付きを得た企業が手形を発行すると、銀行はその手形を日銀に売却し、日銀は新しい通貨を発行した。新しく創造された通貨が生産的に使われている限り、上昇するのは生産高で、物価ではない。経済成長は潜在成長率をはるかに下まわっていたから、インフレの危険は小さかった。次に日銀は銀行に融資ビジネスを再開させるために、紙切れ同然の戦時国債を高く買い取った。代わりにすることは紙幣の印刷だった。援助を受けた銀行は日銀の言うなりにリストラや合併を行った。

 一万田は信用統制メカニズムを戦時中にならって導入し、今度は軍需産業ではなく石炭・鉄鋼・造船・電力・鉄道・工作機械などの輸出関連産業を“A”に、その他の製造業・小売業・農業・教育・一部の建設業を“B”に、消費関連産業を“C”に分類して“C”には実質ほとんど配分はなかった。信用配分は法的根拠のない非公式なものだったが、すべては日銀総裁の一存で決まった。1949年に政策委員会を置いたが、実質は一万田とその後継者の牛耳るところとなった。1950年になると融資の申し込みは莫大になり、“融資斡旋部”、後の“営業局”(佐々木直営業局長)は毎年の融資総額の伸び率と各銀行の融資割当枠を決めた。各銀行幹部は日銀のカウンター(窓口)で融資割当枠を申し渡されるので、この手続きは“窓口指導”と呼ばれるようになった。銀行は成長志向だから割当額一杯の融資またトップダウンの業界統制を実現した。時代とともに変化する優先部門の決定には通産省が参加し、1955年には“A”と“B”が平等な扱いを受けるようになった。その結果1960年台に日本は10%以上の実質成長率を継続達成した。

 大蔵省は徴税・関税・国際金融・金融機関の監督・財政政策・金融政策を司り、信用配分にも関心をもっていた。一万田は日銀を大蔵省の手綱から解放すべく努めた。彼は大蔵省に金利の裁量権を委ね、一方で信用の量あるいはその配分については専門用語を並べ立てて煙に巻いた。そして金利こそ主要な政策手段だと世間に主張し始めた。日銀は窓口指導は効果がないと廃止し民間銀行の預金準備を監視監督するだけにしたと言明したが、預金準備はシステム全体が好ましい信用拡大が可能になるように設定されていたー換言すれば1960年台、1970年台を通じて窓口指導は事実上続いていた。他方日本のO.E.C.D.加盟に伴う1963年の金融緊急措置例の撤廃に伴い、大蔵省の信用配分への直接介入の法的根拠が失われた。山一證券の取り付け騒ぎが起こると田中角栄首相は日銀に山一への無制限および無期限の融資と信用創造を命じた。日銀はここで政府に屈したが、代償として財政法を改正して政府の国債発行を可能にさせ、日銀の信用統制の独立性を回復した。新財政法は新規発行国債の日銀引受を禁止した。これによって金融政策と財政政策にずれが生じ、政府は以後景気刺激のために国債を発行する手段を得たが、代わりに膨大な国家債務の山を抱え込む種を背負うことになる。1965年最初の国債が出回った。

 日銀は自由市場の信奉者を自認しているので、公に信用統制をしているのを知られるのは不具合で、またその法的根拠もなかったので、公的刊行物では中央銀行の金融政策は公定歩合とコールレイトによって行われると述べて窓口指導には触れず、その役割は小さくなったと見せかけてきた。一万田は部下にこう訓戒していた。“日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがよい”と。時とともにエコノミスト、評論家、官僚が窓口指導による信用統制が果たす重要な役割を忘れ、1980年はじめにはそれは全く陰にかくれてしまった。

 1970年台に入ってからの日銀の金融刺激策は行き過ぎていた。銀行は日銀営業局に命じられた高い貸出割当額を消化するために金を借りてくれと企業に頭を下げてまわった。生産的プロジェクトへの投資は十分だったので、企業は銀行融資を非生産的活動、すなわち投機的土地購入に向けた。折から田中角栄の列島改造論で土地ブームが起り、次いで株式の高騰から消費物価と卸売り物価とほとんどの市場が過熱した。1973年11月オイル・ショックが起った。過剰な信用創造は土地など資産価額を押し上げただけで最後には不良債権化する。日銀は1973年初めから1974年初めにかけて貸出の上限枠を急激に下げ、-65.4%にまで絞った。それは1年以上続き、経済活動は収縮し、高いインフレの後はデフレが始まった。不況が発生し失業が急増して、20年以上にわたり二桁成長を続けてきた日本の高度成長は終わりを告げた。不況は長引き深刻な影響が全国に及んだが、5年目の1978年に工業生産が回復して73年10月のレベルに達し、戦後最悪の不況は終った。何故か。理由は1977年に日銀が窓口指導による貸出の上限枠を引き上げたのである。日銀は信用拡大による不動産ブームの発生と拡大、そして不可避的な崩壊のメカニズムについて最初の実験を行い、貴重な体験を得た。

 多くの人は不況が長期化した原因を論じ始めた。従来の輸出主導型の高度経済成長を維持するのはもはや困難で、国内需要拡大へ移行すべきという声が強くなった。日本型経済システムが悪者になりはじめ、国内市場を米国なみに開放すべきという日米賢人会議の報告が出た。大蔵省を含む官僚への批判が公然と出始めた。日銀総裁を辞し経済同友会代表幹事に就任した佐々木直は1983年1月“世界国家への自覚と行動”と題していわゆる佐々木レポートを作成した。内容は市場開放と自由化、官僚の規制や指導の禁止、産業構造の変革を求める当時としては過激なもので、大蔵省への正面攻撃でもあった。佐々木の後任者として同じく日銀総裁を辞した前川春雄は中曽根首相の私的諮問機関の報告書を1986年4月に提出し、これは前川レポートと呼ばれた。

 レポートは従来の経済政策および国民生活のあり方を歴史的に転換する時期が来たことを告げ、輸出指向型を内需主導型経済構造に変革し、官僚の抵抗を排除して規制と許認可中心のシステムを市場メカニズムに基づく“原則自由・例外制限”の体制に転換し、貯蓄優遇廃止・労働時間短縮・国際分業・現地生産・農業部門の閉鎖性の解消などの推進を挙げている。そして“経済構造の是正並びに体質改善については、調整過程が中長期に及ぶため、息長く努力を継続していかなければならない。しかし、施策の着手については早急にこれを行う必要がある。”と明言している。マスコミや識者たちは批判的だった。言っていることは尤もだが、こんな根本的な改革を容易にできるわけがないと。レポートの掲げる目標はかなり明確だったが、それをどうやって達成するかという点についてレポートは妙に寡黙だった。レポートの最後に“以上の提言の実施に当たり、財政・金融政策の果たすべき役割は重要である。財政政策の運営に当たっては、赤字国債依存体質からの早期脱却という財政改革の基本路線は維持すべきであるが、財源の効率的・重点的配分、民間活力の活用、規制緩和等の工夫を図り、中長期的に、バランスのとれた経済社会を目指し機動的な対応を図る必要がある。”とあるのが唯一のヒントだった。

 官僚の権力基盤は行政指導と許認可権限にあり、エリート官僚の頂点にある大蔵省はレポートが求める規制緩和が実現すれば、失うものが極めて多かった。古いシステムに根を張った利権を克服することは夢物語に思われた。歴史家の説くところによれば、経済的、社会的、政治的システムの大きい変革の実現は、国家全体を揺るがし、エスタブリッシュメントの権力を侵害するほどの危機が起こった場合に限って可能である。それは以下の如き経過で起こった。

 日本の長期資本の流れは1980年に20億ドルの入超だったのが、85年に資本輸出額650億ドル、更に87年は1370億ドル、88年は1310億ドルにまで急増した。ジャパンマネーは全世界の金融資産と不動産を買いあさった。日本国内では1980年代半ばから地価と株価はすさまじい上昇を示した。85年1月から89年12月までに株価は240%、地価は245%上昇した。国内総生産に対する地価の比率は通常1前後になるが、この時は5.2まで上昇した。エコノミストは市場が出す結果を信じるように訓練されているから、この現象を説明しようと試みたが、できなかった。それはこの土地ブームに加わった人に聞けば素人にはすぐ判った。彼らは買った土地を貸して収益を上げようと考えたのではなく、直ぐに土地を売却して利益をあげることだけを考えていた。株価も同様であった。この時期にはゴルフ場会員権相場もはねあがり、贅沢な保養施設や豪華な社宅、本社ビルが次々に建設された。労働市場も過熱し失業率は2%にまで下がった。しかし消費物価指数は低いままでインフレは鎮静していたので、多くの人々は日本経済の奇跡を讃えた。エコノミストはこの事態を説明できず、ただ苛立っていた。

 1990年以降突如として資産価額が下落してエコノミストたちを再び仰天させた。1990年1月から94年12月までに地価も株価も半値になった。1991年純長期投資の輸出は突然かき消え、ジャパンマネーは世界のあらゆる戦線から姿を消した。日本企業特に金融機関が利潤を動機に投資を行っていたのではなかったことは明白だった。1989年半ば以降銀行が突如貸出額の伸びを抑えだしたことが原因だった。借金して土地投機を行った個人・企業は元金どころか金利も支払えなくなり、戦後最高の破産件数を記録した。いくつもの銀行や証券会社が債務不履行になった。1980年代の好況は一転して1990年代のバブル崩壊へと進み、1930年代以来最大の不況が襲った。透明性の欠如した経済システムが不況の原因とされ、日本的経済構造の改革を求める声が国の内外であがった。

 個々の融資担当者は危険に気付かず、担保物権の土地に前年の伸びをあてはめた翌年の予想地価をはじきだして融資を進めていた。日銀の過大な割り当てを消化するために2年先の値上がりを前提にする金融機関も現れた。しかしろくに警告もなく突如貸し出し枠は縮小された。このようにして生じた巨額な不良債権を抱えた銀行は債務不履行のリスクを避けようと1992年には中小企業への貸し出しを減らした。信用収縮(クレジット・クランチ)である。中小企業は日本最大の雇用主である。これは本格的な不況に発展した。

 不況打開のために大蔵省は1995年2月と3月日銀に200億ドル相当の米国債購入を命じ、円安移行を図った。大蔵省は日銀が米国債を買うのに必要な円を印刷するだろうと考えたが、日銀は通貨を印刷せずに必要以上の円を国内経済から吸い上げた。日銀の信用創造量は増えないから、円は弱くならない。95年3月円は記録的な高さになった。1996年には日本は古いシステムを変えなければならないという声が強くなり、日銀は中央銀行を政府・大蔵省から独立させる日銀法改正を働きかけた。しかし評判が落ちたとは言え大蔵省の権力は健在で、議会に日銀法改正を許さない情勢だった。日銀は10年計画を延長して再び信用創造の引き締めを行った。1997、1998年と再び景気は後退した。大蔵省が増税して財政政策を引き締めたばかりだったから、大蔵省が悪者になり、1997年夏衆参両院は日銀法改正を可決、98年に施行された。“ビッグバン”改革が始まり、大蔵省の権限は縮小されて財務省に格落ちされることになり、金融機関に対する監督権は独立した金融庁に奪われた。1986年の時点では世人には考えられなかった野心的な10年計画が2年遅れでほぼ完成した。日銀は1998年3月末積極的な紙幣印刷を開始して長期不況脱出のゴーサインを出し、1999年やっと景気浮揚が始まった。

 歴代の日銀生え抜きの総裁は以下の通りである(括弧内は実質支配した期間)。
 一万田尚登(1946.6〜1958.6)
 佐々木直(1962.4〜1974.12)
 前川春雄(1974.12〜1984.12)
 三重野康(1984.12〜1994.12)
 福井俊彦(1994.12〜) ―速水優が日銀出身者として1998.3〜2003.3の間総裁の座にあったが、日銀法改正にからんだ功績で福井は改めて2003.3から総裁の座に就いたー

 日銀総裁は在来の慣行もあって、5年ごとに大蔵省出身者が就任した。その場合は次期総裁を予定されている日銀出身者が副総裁を勤めた。このシステムは世間に大蔵省と日銀の間で金融政策の力が均衡しているように思わせた。が、現実には大蔵省出身の総裁は重要な意思決定、つまり信用創造量にかかる決定から一貫して排除されていた。佐々木以後、日銀内には水曜日を除く毎日夕方定められたメンバーだけの秘密会議が開かれていた。大蔵省出身の総裁がこの会議に招かれることはなかった。窓口指導を通じて日本を動かしている日銀の基本政策はここで決められた。前川レポートの前提となる“日本改造10年計画”も。

 最初は外国から、その後国内でも日本の問題は自由市場モデルに従っていないためだという見解が大勢を占めるようになった。強力な官僚が過剰な規制を強い、カルテル(談合)を維持して国内経済を閉鎖させ、企業は収益を求める株主の声を無視し、労働市場は終身雇用によって硬直化し、企業部門には債務が累積している。古い経済のシンボルである大蔵省の解体に次いで、日銀のプリンスたちは戦時経済の特質である輸出指向の放棄、市場開放を志向した。内需拡大、サービス産業など消費者向け産業へのシフトとこの分野の生産性向上を図り、年功賃金制度を廃して創造性発揮を誘う。1995年“規制緩和白書”が発表され、1998年外国為替管理法改正により外国為替取引は自由化された。1995年の製造物責任法は消費者寄りの姿勢を明確にした。独占企業の利益を図っていた公正取引委員会は大蔵省を離れて独占を取り締まるようになった。

 このような自由主義経済への移行に伴い、21世紀の日本社会は新しい道を進むことになった。デメリットもある。平等、安全な社会、完全雇用など日本のよかった点も捨てることになる。野党は“格差社会の到来”などと与党を批判するが、これは皆で受け入れた結果である。しかし私には著書で触れられていない一つの疑問が残る。先に逝った宮沢元首相(蔵相)が“後世に私は責められるだろう”と述べた日本政府の発行した巨額な国債に伴う負債のことである。これあるがために長期金利も自由に上げられず、財政政策の足枷になっている上に若い世代に多額の借金を残し、消費税率引き上げの論議の種になっている。景気対策として政府が多額の国債を発行したのについては間接的には日銀も責任がある。経済に素人の私だから敢えて言うのだが、財政法に手を加え日銀が信用創造によってこれを買い取ってしまうことはできないものなのかと思う。

 2007年12月1日

<米国の失墜> 米国に発したサブプライムローンの危機は、2001年以来の低金利時代に、金利が上昇したらローン破綻が増えると知りながら、ローンを使った消費拡大を実現できるので、米国連銀がサブプライムローンの拡大を黙認した結果として起きている。サブプライムの住宅ローンに関しては、今後さらにローン返済不能の人が増えることが確実視されている。信用格付け機関による各種のサブプライム債券の格下げが続くことは、ほぼ間違いない。米金融界では、値が下がる前の今のうちにサブプライム債券を投げ売りする投資家や、自社の関係会社が発行したサブプライム債券を関係会社ごと清算して損切りする金融機関が多くなっている。投げ売りは、さらなる価格の下落を誘発している。

 アメリカの金融危機は、サブプライム以外の高リスク債券の分野にも感染しており、優良(プライム)な住宅ローン債券、クレジットカード債権を証券化した債券(アメリカにおける残高約9000億ドル)、企業買収資金の債券、その他のデリバティブ商品など、金融危機が感染して含み損を拡大している分野はいくつもある。これらを合計すると金融界全体での最終的な損失は、1兆ドルとも予測されている。

 サブプライム債券の崩壊を発端とする債券危機は、米経済の全体的な資金調達能力を引き下げ、住宅ローン破綻による消費の減退と相まって、アメリカの景気に悪影響をもたらしている。石油価格の高騰などでインフレがひどくなる中で、連銀は12月の会議で再び利下げをするのではないかという観測が、関係者の間で強くなっている。9月と10月の連続利下げは、世界的なドル安を引き起こし、原油や金の価格高騰に拍車をかけ、中東産油国や香港などの通貨の対ドルペッグが外れそうになった。原油の先物市場では、すでに1バレル250ドルの先物が売れ始めている。その水準まで高騰すると考えている関係者がいるということだ。そんな現状下で、再度の利下げは、11月に入ってのサブプライム債券危機の再燃と合わさって、ドルの信用不安を再燃させることは間違いない。アメリカの財政赤字が9兆ドルを超えて増え続けていることも、ドルの信用不安を加速する。世界経済は、どんどん危険な方向に追い込まれている。

 これらの経済危機は、顕在化した今夏以降、何回かにわたって「損失の総額は、これまで考えられていたより大きい」という悪化方向の見直しが行われてきたが、見直しの間隔がしだいに短期間になっている。危機は、加速度的に悪化している。最初に金融危機が顕在化した7月末から、次に「危機はけっこうひどいかも」と騒がれた10月までは2カ月あったが、最近では2−3週間ごとによりひどい段階が現れている。米連銀は、年末に金融機関が資金調達難に陥らないよう、巨額の資金流入を続けている。金融危機の損失総額の概算は膨らみ続けており、金融機関の多くが、自社の損失を確定できない底なし沼の状態に陥っている。

 今後半年ぐらいの間に、湾岸通貨は通貨バスケットへのペッグに切り替わり、OPECは湾岸通貨建て(最初はサウジ・リヤル、いずれは湾岸統合通貨)での原油価格の表示を開始するという、イランがOPEC会議で主張した展開があり得る。ドルが下落する中で、OPECが湾岸通貨建ての原油価格の表示を開始することは、悪循環的にドル下落に拍車をかけ、ドルが原油価格の中心的な値付けである状態を終わらせる。

 以上は米国発本年後半の経済大混迷に関する専門家の評論の抜粋である。日本政府は新テロ対策法案を何とか国会を通過させてインド洋での艦船への給油活動を再開させることを最優先のテーマとしているが、民主党が反対するようにこの給油活動が日本でなければできない国際的な貢献になるという納得できる説明がなされていない。従来からの日本は只管米国に追随する姿勢を見せ続けるという以外に政治的な意味はないのではないか。在来からの米国の権威の失墜がブッシュ政権の拙劣な中東政策と相俟って、経済的には上記のように世界的なドル離れが加速する形で顕著になっている現在、自民党はいたずらに米国におもねるのではない毅然とした姿勢に建て直す必要がある。

 2007年12月12日

<サブプライムの罪と年金問題> 前項で取り上げた米国のサブプライム問題は1990年代の日本のバブル崩壊・不良債権問題の如く深刻な様相を呈している。しかし私など素人にはそのような深刻な経済問題の真相がよく分からない。それを文春正月号に“2008サブプライムの悪夢”の題で竹森俊平慶大教授は問題点を平易に解説してくれている。要点をさらってみると以下の如くである。

 米国には住宅ローンに2種類あって、プライムローンとサブプライムローンに分かれる。プライムの住宅ローンは昔からあったもので、銀行のような伝統的な金融機関が行い、連邦政府の監査・規制を受け審査も厳格で、ローンはほとんど固定金利である。一方でサブウライムの住宅ローンは資本金の規模も小さい新興の金融機関が行い、ろくに連邦政府の監査・規制を受けていない。審査も杜撰で借りての収入もチェックされず、ローンは変動金利である。サブプライムは93年には0だったが、06年には全体の2割に成長した。その背景にはクリントン、ブッシュの両政権が低所得層や少数民族の持ち家政策推進を政治的に有利と考えてサブプライムの成長を後押ししたことがある。2005年までは低金利が続き、住宅価額も上昇を続けていたので問題が表面化しなかった。

 04年連銀は金融引締めを行い、これがタイムラグを伴って05年にサブプライムの変動金利の上昇を招いた。更に06年には住宅バブルの崩壊で住宅価額は下落に転じた。金利の急騰でローンの支払いに困った借り手は住宅価額の下落で持ち家の売却もできず、不払いが急増した。

 以上はロー・テクの話だが、金融イノベーションはハイ・テクによって問題を拡大した。住宅ローンの証券化である。この手法は80年代には確立していた。住宅ローンの債権者は金利変動のリスクを回避するために証券化を促進した。その流れでサブプライム・ローンも証券化された。プライム・ローンとサブプライム・ローンでは審査の厳格さが違うので危険性が全く違うのだが、サブプライムの歴史は浅く社会の認識は甘かった。不払いの発生で一挙に危険性が表面化した。更に証券会社は金融技術を駆使して住宅ローンを他の証券と混合してハイブリッドな商品を作り上げる。そのような商品の安全性をムーデイーズなどの格付け機関が数学モデルを用いてチェックし、格付けを与える。サブプライム・ローンを本源とした証券がトリプルAという優良証券に化ける。2007年8月の危機発生によって本来ならサブプライムとは無関係の筈の日本のみずほ銀行や野村證券ではこのような証券を買い込んでいたために少なからざる損失を発表した。

 フランク・ナイトによると危険には過去のデータから発生確率が予測できる“リスク”と発生確率が予測できない“不確実性”の2種類があるという。前者は容易に保険の対象になり得るが、後者は前例のない事業で損失の予測が困難である。両者の差異は従来はさほど意識されていなかったが、危機以後は後者の危険性が晴天の霹靂の如く人々に認識され、過大に評価されるようになった。ハイブリッド金融商品の相場は急落した。本来であればサブプライム・ローンは住宅ローン全体の12%に過ぎないと言われていてその負の影響は限られたものであった筈だが、金融商品化して世界にばらまかれ、その実体が(ハイブリッド化によって)不明確になったがことと、金融商品化した結果が金融機関の審査を免れるというモラル・ハザードに対する不信のために、金融商品が住宅ローンに関係があるというだけで世界の投資家から過大に危険視され、敬遠されるようになった。

 筆者竹森教授はこの状況を1990年代の日本のバブル崩壊時に類似しているという。金融機関のバランス・シートの悪化が更に深刻化する危険があるからだ。一方でこの閉塞した状況が10年以上の長きに及ぶかという懸念に対しては、シテイグループやメリルリンチといった金融機関が続々と巨額損失を発表し、引き当てを実施したという状況は、当時の日本での金融機関の組織がらみ、更には国家がらみの損失隠蔽を続けた状況とは大いに相違するので、さほど長く尾を引くことはないだろうと見ている。

 それよりも、対比して問題の隠蔽・先送りという日本の組織の悪しき伝統が社会保険庁の5000万件に及ぶ公的年金の記録漏れという歴史上類例のない悲惨さで引き継がれている事実に改めて着目しなければならないと説く。むべなるかな、12月11日の記者会見で実態を調査中の舛添厚生労働大臣は該当者不明の5000万件の年金記録の内で1975万件については、社会保険庁のコンピュータ上の探索では持ち主の特定が不可能になったことを認め、“実態がこれほどひどいとは思わなかった”と述べ、来年3月までにすべての記録の持ち主を特定するという自民党政府の公約は不可能になったことを正式に認めた。サブプライム問題とは比べものにならぬほど大きな官僚不信・政治不信の波がこれから日本で巻き起こるであろう。


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