
<日本語学者自伝> 先月の<日本語の成因>の基にした大野晋氏について感銘を受けその後も氏の著作を調べたところ、“日本語と私”(新潮文庫)に行き着いた。前項では簡単に紹介しただけだったが、大野晋氏は1919年(大正8年)東京深川の生まれである。しがない商人の家で繁盛はしなかったが、父は彼を何とか学校を出してくれた。著書の前半は戦争がたけなわになる中で大学を卒業した彼の学生時代の記録である。私より1まわり半早く激動の時代を生きた先輩の環境の記録には相通ずるものや多少の相違点が多く、興味深い。
こどもの頃は理科に興味があった。小学4年のころに長い時間理科室で遊ぶ時間をもったことが人格形成に大きく影響した。風力計で風速を計ったり、亜鉛に希硫酸を注いで水素を作ったりした。そういう設備のない小学校だったら、今の自分はないと思うとこの日本語学者は言う。先生は一週おきに生徒に綴り方を書かせ、次の週には一人一人の文章の誤字を訂正し、まずい言い回しを整え、よい表現には脇に赤い点々を打って返してくれた。その後で先生は“さくら”の提出を求める。“さくら”とは愛称で、和歌でも俳句でも川柳でも定型ならなんでもよかった。学期末には選で優秀作品が教室の後ろの黒板に発表された。−こういうのを読むと、教育は昔の方がよかったのではないかと思えてしまう。
下町のこどもは春夏秋冬の季節感を様々な行事に伴う音と香りで捉えていたという。正月は羽根つきと寒参りの行者の称名。2月は初午。3月は青海苔をあぶる香り。5月は葛餅の黄な粉の香り。7月は川開きの花火。8月は祭りの神輿。9月は月見。10月はべったら市の叫び声。11月は菊人形の花の香り。
父は“広辞林”と“字源”、それに地球儀と舶来の鉛筆を買ってくれた。近くには寄席があり、時々行ったが、高座と客席の間には今ではないやりとりがあって面白かった。小学6年、柳条溝事件で陸軍は満州侵略を開始し、国連理事会は13:1で日本非難を決議した。日本は孤立しているという校長の話を聞いて、暗黒の奈落に落ち込んでいくような底知れぬ恐怖を感じた。
中学に入ると、個性豊かな先生が数々おられた。漢文。渋いがよく通る声で炯炯たる眼光の先生が“孝経”を訓読する。生徒は必死になって原文に送り仮名を書き込む。国語。和服の先生が“徒然草”で兼好の心情を懇切丁寧に講釈してくれた。幾何。定理を一つづつ積み重ねていくと、体系的な学問ができあがることを学んだ。この頃図書館へ行くことを覚えた。中学の山の手に住む友人の家に遊びに行き、下町と山の手の生活の差異の大きさを思い知る。彼はそれは日本と西洋の差異にも匹敵すると考えた。
一高に最終席次(ビリ)で合格。寮は南寮・中寮・北寮・明寮の四棟で、文科も理科も取り混ぜた12人が南側の勉強部屋と北側の寝室を使い分けた。消灯は12時。寮は自治制で、90の部屋から総代が1人出て立法府たる総代会を形成し、予算など諸ルールを決めた。寮委員会は行政府として明確な権限を持ち、風紀点検委員は夜中に不意に巡回点検して無断外泊者を調べた。寮生に不当な行為があって退寮処分が決まれば学校は連動して停学または退学処分を行った。寮歌が吟唱され、1年部屋は屡ストームに見舞われた。高等学校は3年で卒業してもそのままでは社会には通用しなかった。外国語だけ学べばよい、言わばお遊びの期間だった。ドイツ語は週11時間、英語は週4時間だった。何人かの終生の友人ができた。教練の時間があり、代々木練兵場で配属された現役陸軍大佐による陣取りゴッコのようなことをやらされ、開戦の翌年この時の体験を基に同級生一同は各地での赫々たる戦果報道に関わらず“この戦争は負ける”と意見が一致した。
東大は文学部国文学科に入った。国文学研究室と国語研究室の二つに分かれていたが、学科の学生はどちらにも出入りできた。大学は3年。国語研究室の橋本進吉教授の演習に出ることにする。日本語の歴史の研究というのはある時代にことばがどういう発音であったかということの究明が基本だった。“明朝”という言葉がアクルアサか、アクルアシタか、ツトメテかが宿題になった。橋本先生の研究の中心は日本音声史だった。この入学の年に太平洋戦争が始まった。巨大な深淵の上を嵐が吹き渡るのを感じた。橋本先生の説だった1200年前の上代語は8母音であったということを万葉集から拾い出す研究を卒論の題目に決め、卒業する。昭和20年1月橋本教授死去。時枝誠記教授に師事する。彼は“言語とは何か”を追及した。嫌がる父を疎開させる。3月9日夜東京大空襲の焔を友人の鶴見の家から眺める。敗戦。
昭和22年清泉女学院に勤務することになる。仮名遣いの研究で藤原定家の時代の用法にアクセントがからむことを見出した。タミル語の場合もそうだが、見込みが正しい場合は(思いがけないデータも発見されて)事実の方がその見込みの線に飛び込んでくると述べた。古代日本語の成立の由来を調べることを一生の仕事と思い定める。昭和28年“上代仮名遣の研究”を出版。
昭和29年“広辞苑”(岩波)出版助勢の依頼を受け、基礎語1000を解説・文例とともに加えた。昭和30年“日本古典文学大系”(岩波)の共同編集に加わり、“万葉集”・“日本書紀”を手がけた。国史家と共同作業して国史学会の方が国語学会より学問として厳格だということを知った。
戦後占領軍の改革圧力は言語そのものにも及び、米教育使節団はローマ字の採用 を勧告した。当時勧告とは命令だった。一方で当時小説の神様と言われた志賀直哉は“もし60年前に国語に英語が採用されていたなら、その利益ははかりしれない。また今から採用するのなら、世界で一番美しいフランス語がよい”と主張した。彼は言語を台所の道具のように簡単に取替えの利くものと夢想した。これは敗戦の衝撃のひとつの具現化に過ぎなかった(著者)。貴族院議員だった山本有三は“国語の改革は外国人でなく、自分たちでやりたい”と国語審議会を主宰した。Romajikai、カナモジカイが推進役になり、漢字制限が具体化した。新聞は長年念願の漢字使用制限の好機と見た。文部省国語科は仕事を得た。審議会には時枝教授も参加したが会の無方針に不満だった。当時漢字を1200字に減らす案があったが、それで新聞が作れるか試すととても無理なことが分かり、審議結果を当用漢字1850字にまとめて現代かなづかいとともに昭和21年政府が告示実施した。1年後当用漢字の音訓を制限する“音訓表”と小中学用教育漢字881字が発表された。
C.I.E.(G.H.Q.民間情報教育局)は日本国字問題に介入する前提として昭和24年夏独自に日本人の読み書き能力の調査を行った。全問題に対する被験者の平均得点は78.3%だった。ローマ字会は78.3点では社会生活を営むのに耐えないと主張した。しかし1981年のインドで最高の識字率と言われるケララ州の識字人口は35%だった。この調査の後C.I.E.は日本の国字問題から手を引いた。昭和26年国語審議会は人名用漢字として追加92字を発表した。半分冗談話として、100字増やそうと思ったが適当な字がなくて、カンモジカイ理事長の土岐善麿の“麿”とうるさい大野晋の“晋”の字を入れて92字どまりになったと伝えられる。また昭和40年に“藤”という字は植物だから本来かなで書くことになっていたのを人名用漢字としてようやく追加されたと聞かされた佐藤栄作首相は驚いて中村文相を呼び、国字政策を取り仕切っていた国語課長を更迭させた。この時を境に国字政策は漢字削減を止める方向に転換した。昭和20年代の終わりから漢字制限について発言し始めた大野氏は国語審議会委員を委嘱された。行ってみるとこの会はほとんど素人の集まりで文部省の部案を総会に通すための役人の隠れ蓑になっていることを知った。
20年かけて“岩波古語辞典”を始めて自分の主導で刊行した。これは“広辞苑”が完成した時の岩波編集部長の誘いに応じたもので、大野が上代・平安と基礎語計2万語、佐竹昭広氏が中世、前田金五郎氏が近世前期各1万語という分担だった。父は刊行の前々年に死去した。しかしこれはこどもの頃“広辞林”と“字源”を買い与えてくれた影響力のお陰である。
蒙古語と日本語の比較研究に打ち込んできた江実氏の紹介でドラヴィダ語の辞典を入手したことがタミル語に出会う契機になった。1979年のことである。早速大修館書店の月刊“言語”に“日本語とタミール語”の連載を始めた。“似てい過ぎる”という批評を含めて大野見解に対する論難と攻撃はこれ以後長く続くことになる。直接のインド行きで多くの収穫があった。N.H.K.は同行し、基本的に協力してくれた。単語だけでなく、助詞や助動詞の対応を証明できて始めて同系論が成立する。在外研究を申請し、1981年マドラス大学への1年の留学に向かった。日本では週刊文春に大掛かりな大野攻撃の記事が載った。帰国してみると、大書店の大野晋の作品コーナーが消え、新たな原稿は出版社に拒まれた。しかし1983年3月スリランカのサンムガダス教授が来日し共同研究の申し入れがあった。勤務先の学習院大学は以後10年にわたりこの研究を支援してくれた。古典日本語と古典タミル語の助詞や助動詞の類似は係り結びの共通性の発見に繋がった。古代甕棺の形の共通性や水田稲作に関わる単語や宗教に関わる言葉の共通性が分かってきた。作家井上ひさし氏は一貫して支持してくれた。大野氏は実証的に秩序立てて証明していけば言語学者や考古学者の大勢はいずれ理解してくれるだろうと断ずる。彼の生地にかかる両国橋(冒頭の写真・昭和7年完成)は二つの国を結ぶ橋と信じている。

<巨船ベラス・レトラス> この書名は2006年7月<リセット>で紹介した筒井康隆の新作である。“ベラス・レトラス”でWeb検索すると、30,200件ヒットした。相当な人気なので、Amazon.co.jp.の図書紹介を見ると、いくつかの書評が目に入る。少し長くなるがその一部を引用すると、
○筒井康隆が初めての人にはきついかも, 2007/4/10
レビュアー: アラメンド (千葉県柏市)
筒井康隆独特の語り口である、 読点が極端に少ない文章、 代名詞をあまり使わない文章、 章分けしない作品構成、 は筒井康隆をあまり読んだことがない人には取っつきにくいと思う。
本書の主要登場人物は作家や詩人なのだが、 本作はメタフィクションであるため、その作家や詩人が書いた作品の登場人物が 実体化して本作に登場する。
メタフィクションに慣れていないと、こういう構成自体 受け付けないのではないだろうか。
私は筒井康隆が好きなので、比較的楽しんで読めました。 宣伝文句になっている痛烈な文壇批判も、なるほどなあ、 出版界の地盤沈下は最早止まらないのだなあ、と感心した次第。
ー16 人中、15人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。ー
○死ぬまで筒井は筒井, 2007/4/24
レビュアー: hontaka (東京都府中市)
『銀齢の果て』の読後にも感じたが、 御大は意固地になって“一般的に”差別用語とされている語を 使おうとしているように思えてならない。 一応このことは指摘しておく。 ……おくけれど、そのことがこの作品の価値を下げるものでは、ない。
僕は文学者ではないので、こんな卑近な表現しか出来ませんが、ミルフィーユのごとく、もしくはラザニアのごとく、「虚構現実」のうえに「現実虚構」を重ね、「虚構虚構」で味付けしたら「現実現実」が出来上がった。そういう感じの作品でしょうか。
文学界の現状に、御大はYESともNOとも言いかねているのだと思う。だけれども「俺は俺。死ぬまでこういう作品を書いていくんだもんね〜」と宣言しているかのような、「筒井、いまだ老いず」を証明する作品。
ー6 人中、5人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。ー
○メタフィクションの秀作
30年以上筒井康隆を読んでいるが、大いなる助走からは洗練度が桁違いで、作品全体から強烈な時代批評を感じる。筒井康隆がこれまで培ってきた実力の一端を披露するだけでこれだけの作品をものしてしまうことに畏敬の念を持たざるを得ない。読後に苦しくなるほどの満腹感を感じるのが最近の筒井康隆作品であったが、今回は広く若い読者にもわかりやすく噛み砕いて書いた軽快さを感じる。
“銀齢の果て”などに衝撃を受けた独自のファンが少なからずいることが判った。とにかく文筆に若干の才がある女子高生の私小説などとは次元の異なる世界であり、人間の想像力の広さに感心させられるご同類が多いことは慶賀すべきだ。ここまで来ると、拙い筆で本書の一端を紹介せざるを得ない。
著書は渋谷のイタリアン・カフェで起った爆発事件の描写で始まる。テレビの報道によると、カフェ“ペッテイロッソ”で開催中の“パンクロックと文学の会”で3人ほどの死者を出した爆発事件の犯人は富山の鉄工所に勤める鮪勝矢という29歳の男で、日頃から文学こそ魂の叫びであるという主張をもち、ふざけた小説ばかり書く最近の作家たちや20歳にもならぬ少女に文学賞を与えて売り出そうとする文壇や出版社の傾向を嫌悪していた。客席の後ろから3列目に時限爆弾を仕掛けた。
知り合いの作家達の集まりで革新的な作品ばかりを載せる文学雑誌を創刊しようという話がもちあがった。雑誌の名をブラスコ・イバーネスにちなんでスぺイン語の“ベラス・レトラス”とし、そのマークを船にした。皆で語っている会場がグラリと揺れたように感じられ、船の中と錯覚した。この雑誌の名を聞くと何故か皆身をよじらせ、どんよりとしてしまう。集団催眠なのか。
入牢し死刑の判決を受けた鮪勝矢の“鬼になる”という作品集は売れた。新聞や週刊誌に書評が出て、賛否両論の大騒ぎになったからである。これは文学とは無縁の世に出たい野心のみで書かれた駄文という評もあったが、話題になっているということだけで本を買う読者によってベストセラーになり、遂に20万部を突破した。出版社の要請でこの本の推薦文を書いた著名な作家を刺し殺す小説を書く男が現れた。
やがて鮪勝矢が推薦文を書いた作家のところへ挨拶に来る。刑務所から出られない筈だが、ここ(船の中)は異空間であり異時間だから、そういう制約を受けぬことに不思議はないという。彼は作家に推薦の礼を言う。別の作家が彼に苦しんで書いていることが判る小説はダメだと批評する。鮪は不満である。突然隣に座っていた男が“お前なんか金儲け主義の出版社のお陰で売れたんじゃないか”と毒づきはじめる。彼が怒鳴ると強烈な口臭があたりいっぱいに吐き出された。それは先の作家を刺し殺す小説を書いた男だということが皆に分かった。皆が彼を退席させようとすると、“こんな殺人者を同席させて、わしを座らせんとは何事だ”と抵抗する。“文学とは本来差別的なものなのだよ。帰れ帰れ、おっさん”と手取り足取り排除されてしまった。
後に皆が廊下を歩いていると例の口臭まがいの悪臭が感じられ、そのもとをたどっていくと、廊下の片側に置かれた塵芥箱に老将軍の彫像が付いていて、よく見るとそれはおっさんであり、悪臭は塵芥の投げ入れ口でもあるその口から匂い立っていた。その表情は意外な境遇に成り果てたことに仰天しているようにも見えた。作家と編集者たちが船尾に立って上空を見上げると、空中には四階建ての教会風の建物が浮上し、船尾から1キロばかり後方を約100メートルの上空に浮かんで追尾してくる。“あの空中会館には文学関係の評論家たちがいます”と作家の一人が解説する。“それは今が監視社会だからだ”と別の作家が言う。上空の建造物は彼ら10数人を見下ろすようにその正面を斜め下方に向けていた。“散りましょう”恐怖を覚えて彼らは散った。全員が船尾からいなくなると、空中会館はゆっくりと顔をあげ、船と同じ速度で追尾を続けた。
盲目の詩人を介助する役割で文壇の集まりに美しい文学少女が登場する。詩人は彼女に詩より小説を書くことを勧めた。作家たちは彼女に皆が雑誌の連載でしか長篇小説を書かなくなっている事情を教える。未発表の書き下ろし単行本など売れないというのだ。いつの間にか彼女も船に乗っている。詩人は彼女にこの船がどういう船で、どこへ行くのか知らないと言った。彼女は船内の大劇場でギリシャ悲劇を演ずる。観客には船内のほぼ全員が集まり、あの塵芥箱になった男もいた。オイデイプス王は“文学が顧みられない時代が来た”と泣き、皆も泣く。彼女はこの文学の衰退の時代に見せかけの役割で残るのは厭だと言う。別の男が文学は衰えてもそれが漫画やアニメや映画に形を変えて残ればよいではないかと言う。やがて彼女は“誰にも読まれずとも小説を書きます”と言い放ち、憤然として劇場の後ろの扉から出ていく。誰かが後を追い、船首像になってしまった彼女を発見した。

<ポル・ポト>
ポル・ポトは地方の富裕な農家の子として生まれた。昭和に入った頃である。兄は王の官吏で、姉は王の側室だった。王室とのコネで、国費留学生に選抜され、パリのラジオ電気技術学校で学ぶことになったが、留学中、彼は共産主義に傾倒する。帰国後インドシナ共産党に入党し、森の中で長いゲリラ生活を送った後、1975年、彼はロン・ノル政権を倒して首相の座についた。国名を民主カンプチアに改めた。カンプチアはカンボジアの古名である。毛沢東の文化大革命に強い影響を受けた彼は政権を維持できた4年の間に急進的で過激な改革を矢継ぎ早に断行した。
彼はありふれた独裁者のように自分の一族一門に富や権力を集中するような事は一切しなかった。その代り妥協は決してしなかった。彼は都市を抹殺しようとし、貨幣を一掃しようとし、宗教を根絶しようとし、家族を解体しようとし、知識人を消滅しようとした。都市の住民は農民より劣る“新人民”として農村に追いやられ、激しい労働を課せられた。すべての銀行は襲撃され、金庫は破壊された。僧は皆放逐され、仏像は廃棄され、寺院は荒廃した。子供らは無理やり親から引き離され、革命組織オンカーの共有物とされた。
医者・法律家・官僚・技術者・教師といった職業は社会的“害虫”として扱われ、駆除された。彼は“美” を締め出そうとし、あらゆる美術品は破壊され、歌・踊り・化粧は禁じられた。男も女も一様に黒い服を着せられ、女の髪型はオカッパしか認められなかった。彼はプライバシーを葬ろうとした。私的な集まりはもとより、日没後の会話は禁じられた。誰もが相互監視や密告に怯えて寡黙となり、笑い声ひとつ立てるにも神経をすり減らした。彼は差別や格差を憎んだつもりだったのだろう。が、それが嵩じて差異そのものを根こそぎにしてしまった。残ったのは、貧困・飢餓・醜・恐怖・無知という最底辺の平等。
150万から330万人が虐殺された。詳しい数字は誰も知らない。1979年にはヴェトナムの侵攻を受けてブノンぺンを放棄することになった。その後は追われてタイとカンボジアの国境地帯に逃げ込み、ゲリラ活動を続けた。
1995年、一人の日本人青年がカンボジアに入った。地図にはS21と記されただけの白亜の鉄筋三階建てがプノンペン市内の貧しい住宅街に聳えていた。きれいに刈り込まれた芝生には、椰子樹が涼しげな影を落としていた。ここはブルジョアの子弟が通う高校(リセ)だったが、1975年にポル・ポトが政権を取ると閉鎖され、生徒は追い出され、代りに2万にのぼる成人男女が送り込まれた。彼らはここで尋問され、拷問され、次々と処刑されていったと言う。入り口近くの部屋には1冊の汚れたファイルがあり、氏名・男女の別・職業・逮捕および処刑の日が記されていた。犠牲者はすべて彼らの言う“社会的害虫”・インテリ層だったことは記載された職業から明白である。嘗ての教室は尋問と拷問の部屋となり、机も椅子もない。赤錆びて剥き出しになった鉄製のベッドと手錠に似た枷と鎖。リノリュームの床には薄黒い染みがこびりついていた。
プノンペン郊外のチェンエクという村で水田と椰子林の連なるどこにでもある風景の中で、朱の切妻屋根を載せたパゴダと周辺の多くの穴があった。穴からはいくつもの骨が出土する。案内人はチャンキリという鋭く硬い葉をナイフ代りにして、ポルポト派の兵士が赤ん坊の首を斬って穴に投げ込んだという。母親の見ている前で。次いで母親も穴に投げ込まれた。パゴダの正面階段をあがると、床から天井までギッシリと髑髏が積み上げられていた。男はゆっくり“8985”と言った。掘り出された髑髏の数だった。老若男女ラの見分けさえつかない。不揃いの灰白色のいびつな球体。側面に黒マジックでナンバーが振られていた。
青年はアンコール・ワットからバイヨンを訪ねた。寺院全体を覆っている人面はすべて観世音菩薩だというが、風雨に晒され、崩れ、爛れ、密集堆積している様はあのチェンチェクの髑髏のようにも見えた。アンコールワットの西、西バライで、森の王に会うつてを求めた。追い立てられたとはいえ、歩ル・ポトは山中で健在と伝えられていた。彼はこの男が酔狂や気まぐれで150万〜330万人を殺したとは思えず、その真の動機を本人から確かめたかった。導かれるままに長い山中の移動を続けた挙句、遂に目的を果たした。
20人ほどの黒シャツ姿の兵士たちが現れた。その後ろに白髪の年輩男性がついてくる。警邏に従う囚人のようだったが、背が高く、肌が白く、福々しい。眼には鷹の鋭さも蛇の狡猾さもなく、眉間に癇症な線もない。退職した大学教授の印象だった。いきなりフランス語を浴びせられて慌てるが、英語を使うように頼み、受け入れられる。会う前に勧められた自家製のパンの味を訊かれて、美味だったと答えると、チャーミングな笑顔を見せた。自分の表情や所作が他人にどのような印象を及ぼすか、正確に知っていると思った。現在日本の政治状況について質問し、アドミラル・トウゴウの名は毛沢東と並んでアジアでは不滅だと言った。物の見方をただす質問をいくつかした上で、今でも日本では労働者が搾取されているのではないか、自分はそういう社会を改めようと闘ってきたと言う。彼は語を継いで“運動の出発点に誤りはなかった。しかし働いても働いても、豊かにならない。私たちは更に鞭をふるって前へ進むしかなかった”そこで声が途切れた。ここで青年は“あなたの鞭のためにどれだけの人が命を落としたかご存知か”と訊く。“大義に犠牲はつきものだ、同情は反革命に繋がる。レーニンも毛沢東も、少なからず人民を災難に晒した。災難を償って余りある大義を守り抜くためにです”―国民の三分の一を犠牲にしてでも守らなければならぬ大義などあるのかという青年の反論に対して、彼は断乎として“ある”と答えた。英語の判らぬ兵士たちはその辺に寝そべっている。
“あなたは全体が貧しくても、うまく立ち回れば個の豊かさは実現できると言うかもしれない。私は決してそう思わない。いくら平和を謳歌しても、植民地の繁栄、カルタゴの平和なら意味がない。搾取や屈従が野放しにされた社会では、人は幸せになれない。民主カンプチアはだれのものも奪わない。どこよりも高潔だ。犠牲を伴うから、正しさは価値を帯びるのだ”―青年が“正しさは、人がよりよく生きるためにあるのであって、正しさのために人が生きるのではないでしょう”と言うと、彼は“よりよくが何であるかを知るには正しさという物差しが必要ではないか”と反論する。
更にこう追い討ちした。“私たちには自分たちを守ってくれるムラがない。父親がいない。だから自分がムラを作り、父親になるしかなかった。歴史を見てください。カンボジアはいつも外から揺さぶれっぱなしだった。アンコール王朝はチャンバに侵略され、アユタヤに滅ぼされた。19世紀にはフランスに植民地化され、20世紀には日本に占領された。ロン・ノル時代はアメリカの属国になり、ヴェトナム戦争に利用された。我々の政権の後にはヴェトナムが支配した。今度はUNTACが支援という名の支配をする。自分の足元をさんざん翻弄されてきた者には、個が社会に先行するなどという発想はもちようがない。”更に言う。“多様性というのは、倦怠期のブルジョア夫婦の回春剤のようなものです。私たちには、そんなものにうつつを抜かす余裕はない。人は意味を介して世界につながる。意味は、人と世界をつなぐ弁です。世界が穏やかなら、弁を緩くしておいて構わない。しかし世界が不確実で、荒波が逆巻いていれば、弁はきつく固定せざるを得ない”と。別れぎわに握った彼の手は赤ちゃんのようにぷくぷくした、柔らかな掌だった。
本項の記述は経済小説“ポルポトの掌”(三輪太郎・日本経済新聞出版社)から引用した。著書には青年がデイーラーとして育っていく側面が記されているが、関係ないので割愛する。巻末で著者はポル・ポトとの対話は創作と断っているが、一概にそう断じきれない節がある。なおポル・ポトは1998年、タイとの国境付近の村で息をひきとった。人間はどんな行為にも理屈をつけて正当化する。30年以上経った今、ようやくポル・ポト派旧幹部に対する国際裁判が始まろうとしている。

<鈍感力> そのものズバリ、表題の随筆を入手した。作家・渡辺淳一の著作(集英社)である。人の言説で100%気に入ることは稀だが、これは私の場合その稀有の部類に属する。“鈍感”というのは通常非難すべき資質であるが、ここでは人が健全に長生きするために欠かせない徳であることを縷々述べている。まず挙げられているひとつの実例を紹介しよう。
著者は若い編集者が夫婦喧嘩をしたというので、そのわけを訊く。彼の家で使っている歯磨きチューブは白く長くて、チューブを押すと、押した指の痕が残る、柔らかい性質のものである。彼は几帳面な男で、このチューブを押してできた指のへこみの痕を埋めるために、毎日減った分だけ後ろから巻くのをならわしにしていた。ところが彼の奥さんはそんなことは気にせず、どこからでも押して、チューブに指の痕を残していく。彼は毎朝それを補正していたのだが、遂に我慢できなくなり、“君ね、チューブを押した後は、俺のようにキチンとへこみを正して、後ろから巻くようにしなさい。俺は君が押した後の、でこぼこがいつも残っている、このずさんなところが嫌いなんだよ”と奥さんに言ってしまった。そう言った途端に今度は奥さんが睨み返し、“それではあなたの嫌なところ”と一気に三倍も言い返されて大喧嘩になった。
著者は夫が浮気をしたわけでもないのに、こんな些細なことが喧嘩の原因になるのは二人が長く一緒に住んでいるためだが、夫婦の間ではこの種の行き違いが無数に出てくるし、議論しても解決はしない。もともと鈍感な人なら問題にならないが、気にし出すと際限がなく、遂には夫婦の仲も崩壊する。互いに忍耐が大切なのだが、それよりも素敵な鈍感力があれば、二人を永く支えてくれると説く。
友人たちと一泊のゴルフ旅行に行ったら、旅館の食事に不具合があったらしく皆軽い食中毒症状を呈したが、一人だけ何ともない男がいた。著者の推測によれば、彼は貧しい家に生まれ、小さいころ親は生活に忙しく多少の不衛生な環境でも放任されていたのではないか、そのために何でも口に入れ、いろいろな雑菌も食べていたのかもしれない。少し汚いものを食べた方が腸内雑菌が増え、外から入ってくる雑菌にも抵抗力がつく。最近は衛生状態をやかましく言うので、他の仲間はちょっとした菌にも反応する敏感な腸を持っている中で、鈍感な腸をもっていた彼は立派な勝者ではないか。最近彼に会ったら益々丈夫に見え、後姿を見ながら伝染病が流行っても彼だけは生き残ると思ったと書いている。世に清潔好きな女は多く、僅かに汚れた衣服や食物など見つけると鬼の首でも取ったように騒ぎ立てたりするが、こういう女に育てられた子供は必然的に雑菌への抵抗力が弱い。
ガンの予防や治療、治った後でも重要になるのは鈍感力で、不安が嵩じると自律神経を刺激し、体の抵抗力を弱めてしまう。いい意味で鈍くて、嫌なことや鬱陶しいことは忘れるようにすれば、血もよく巡り、身体の抵抗力も強くなり、生気が漲ってくる。ガンのとり付く人間様の気持ちの持ち方ひとつでガンの運命は変わるのだと著者は強調する。ガンの原因に遺伝説があるが、遺伝があるとすれば、それは神経質なタイプだろうと言う。ガンセンターに勤める看護士の話でも、性格的に楽観的で前向きの人は治癒率が高いと言う。
―健康であるために最も大切なことは血液がサラサラ流れることです。そのためには、あまりくよくよせず、他人に嫌なことを言われても、すぐ忘れる。このいい意味での鈍さが、血の流れをスムーズに保つ要因になるのです。― この本の冒頭近くにこういうことが書いてある。この渡辺淳一という人は医学部を出て、10年ほど医者をやっていたらしい。そしてこの人の健康に関するアドバイスをもう一度繰り返しておく。
現在、さまざまな病気の予防や治療のことがしきりに言われていますが、難しいことを考える必要はありません。それより、健康であるために最も大切なことは、いつも全身の血がさらさらと流れることです。そのためには全身の血管がいつも開いていることが必要で、この血管をコントロールしているのが自律神経です。この神経を変に刺激せず、いつもリラックスさせておく、些細なことで揺るがない鈍さこそ、生きていくうえで最も大切で、基本になる資質です。
調べたらこの人は1933年10月29日生。同い年で1月違うだけだった。道理でウマが合うわけだ。

<節減と効率化> ケニアの副環境相ワンガリ・マータイさんが宣伝してくれたのは“モッタイナイ”という日本人の素朴な心だが、その思想を現代社会で有効に実現するためには多くの工夫や計画性が必要になる。“地球持続の技術”(小宮山宏・岩波新書)では小難しいことは言っていないが、地球温暖化対策をはじめとして人類存続のための数多い知恵やヒントが盛られている。著者は応用化学出身で、化学システム工学および地球環境工学を専門とし、現東大総長だが、多くの有識者が現今この問題に強い関心を有しているにも関わらず、それぞれ別個に主張・行動して全体像を共有していないと指摘する。我々の抱えている問題を分かりやすく説明し、地球持続のためのマクロなビジョンをビジョン2050として提示している。
著者はビジョン2050の具体像として
1 エネルギの利用効率を3倍にする
2 物質循環のシステムを作る
3 自然エネルギの利用を2倍にする
の3項目を提示している。
1を達成するために、自動車のガソリン消費量を1/4にする、家庭やオフィスのエネルギー使用量を現行の40%にする、発電所単位電力あたりの化石燃料消費を現行の2/3にする、素材生産のエネルギー消費を素材リサイクルの促進と技術進歩で現行の1/3に削減するなどと述べている。目の付け所はよいにしても、例えば自動車の軽量化とハイブリッド化によってガソリンの消費を1/4にできるというのはどう見ても無理筋、1/2にできればオンの字で、タイヤの低摩擦化で路面抵抗を減らしバスもトラックも1/4にというのだが、私など機械屋からは非常識な高望みとしか思えない。他も同様で、現実はそう甘くない。
個別にはよい提案もある。家では電気ヒーターや石油(ガス)ストーブをやめてヒートポンプにする。コンプレッサーを使って熱を汲み上げる方が数倍も省エネになることを知らぬ人がまだ多い。断熱材を壁・床・天井に使い、窓を二重ガラスにして冷暖房の必要性を減らす。照明に白熱電球は使わない。これは消費電力の光への変換効率が極めて悪い(1%)からだ。蛍光灯(白熱電灯の5倍の効率)を推奨しているが、調べてみると白色L.E.D.は蛍光灯との対比で消費電力1/2、寿命10倍、大きさ1/10、発熱量1/4とある。また純正白色にこだわらなければ変換効率最高43%のL.E.D.が既に開発されているなど、発光ダイオードを中心とする照明分野の省エネは今後の大きな発展が期待できる。
鋼材、アルミ、コンクリートなど素材リサイクルは省エネの観点からも原材料入手難を緩和する点からも重要な方策だが、収集と分別には困難も伴う。紙やプラステイック、セラミックは一層困難が多いだろう。地方自治体は家庭から出るゴミを曜日を分けて分別させているが、年とともに分別仕分けが複雑化して、私などもうついていけなくなっている。寿命の尽きた人工物からは質の悪いスクラップが多量に発生し、廃棄物のリサイクルは容易なことではない。物質循環のシステムを作るにはそれを予め想定した材料利用に関する発明から始めなければならないだろう。もともとそういうことを予め考えていない文明に育っているのだから。
自然エネルギの利用を増やすのも容易ではない。著書にも書いてあるし、私は前から気付いていたが、極地域周辺でカタバ風という地球規模の安定した強風がある。南極に近い海上を季節・天候に関係なく偏西風が常時吹きまくっている。これを風力発電に利用できればそのエネルギ量は莫大だ(地球の慣性は大きいからそう簡単に自転速度は落ちないだろう)
が、その電気エネルギを一時的に蓄積し、利用する地域へ持ち帰る手段がない。巨大な蓄電池が必要になる。砂漠など1年中ロクに雨の降らない地域もある。そういうところで太陽光発電をすれば、日本より単位面積あたりの収量は多くなるだろうが、持ち帰る手段がないのは同じである。ダムによる水力発電などはもうネタ切れであろう。小宮山先生はどうやってこれを倍増させるというのか。
こうしてこの厳しい状況への対応策を考えてみると、手持ちの技術だけでは容易に手がつけられないことが分る。ノーベル賞とは別に新しい発想で上記の如き難題を解決する新技術に資金を提供して広く人類の知恵を搾り出す仕組みがあってもよいだろう。カタバ風の利用など目的はハッキリしているのだから、超国家プロジェクトとして考えたら解決案が出ない筈はないと思う。安部首相は2050年での温暖化ガス発生の半減を最近言い出し、ドイツのサミットでは米国を引き込むことにある程度成功したようだが、日本自体を含めてその実現の裏づけはまるでもっていないだろう。技術立国らしい知恵を出すよう国民に呼びかけたらどうか。

<グラバー> 最初に断っておくが、本項の主要な記述内容は“石の扉”(加治将一・新潮文庫)によっている。同書は本来中世ヨーロッパでゴシック建築を手がけた石工組合を前身とする秘密組織・フリーメイソンを解説するものだが、その一人が日本に重大な影響を与えた例として次のグラバーに関する話が出てくる。この本を読んだ後で、北海道放送が制作し、2006年2月26日にT.B.S.系で“龍馬の黒幕”というテーマで俳優・及川光博を作家・加治将一氏がグラバー邸に案内して話を聞かせるという番組が放映されたことを知った。
長崎湾の南側の丘に眺望を誇るグラバー邸があり、その庭園には観光客がひきも切らない(右上の石の胸像はグラバー邸に据えられたもの)。この邸宅を建てたトーマス・ブレイク・グラバー(Thomas Blake Glover)は1857年、海軍中尉だった父(トーマス・ベリー・グラバー)と兄とともにスコットランドの故郷アバデイーンを離れて、当時の欧州諸国による植民地化の拠点になっていた上海を訪れる。父はここに拠点を構えていたジャーデイン・マセソン商会に二人の息子の身柄を預けた。詳しいことは分らないが、この間に息子はフリー・メイソン*に入会している。この英国を代表する大商社*は日本の内情とそれをめぐる国際情勢を若者に詳しく教え込んだに違いない。1859年9月16日、息子グラバーは日本へ向けて出航する。21歳だった。日本上陸後早速居を長崎出島に設ける。父はアバデイーンへ引き返し、造船業を始める。この後息子が入手する少なからざる数の船は父の造船所の手によるものらしい。

