2月の話題
2008年2月

<臨死体験> 立花隆という男はこのテーマに異常な関心をもっていて、掲題の著書(文春文庫)上下巻2冊にわたってこの分野の知見をこれでもかと言うほどに繰り返し述べている。しかしこの問題に関心をもっている人は決して少なくはなく、国際臨死体験研究協会という組織が現存する。そこには部外者が判らぬながらに決して笑殺などできない体験者たちの共通の認識がある。事故や重大な身体疾患によって生命の危機に直面し、一旦は意識を失った人がしばらく後に意識を回復した際に語る話に、多様な中にもかなりの特異な共通性が認められる。
その顕著な例をいくつか挙げると
○ 体外離脱―横たわっている自分を見下ろす、自由な浮遊、更に遠方へ瞬間移動する
○ トンネル(暗闇)とその先にはまばゆい光(右下)
○ 花畑
○ 人に出会う(故人―近親が圧倒的に多い)
○ 川―境界と考えられる。欧米では高い塀、いずれも生と死の境界線を意味する
○ 突然全てが判る全知感、既知感(デジャ・ヴュ)=初めてなのに既に出会ったことがあると感ずる
○ 絶対者(神)が傍にいて自分はその完全な庇護の下にいるという確信
○ 気分―幸福感と安らぎ、静けさ
○ 人生の回顧
○ 戻るきっかけー現実界からの呼びかけ、他者の指示、たまに自分の意思

これらの内容は国による相違がかなりあり、例えば花畑は日本では圧倒的に多いが、インドでは少なく、逆にインドではヤーマ神による審判が多いが、日本では閻魔大王の審判は最近少ない。また光は欧米では神(キリスト)と同一視されるが、日本人の場合それは無機質の環境条件でしかなく、別に絶対者に対する強い信頼感が生ずるが既存宗教とは無関係。
はじめて臨死体験を本格的に研究したレイモンド・ムーデイは以上の他に自身の体験として耳障りな騒音を挙げている。この分野の科学的研究を行い、国際臨死研究協会会長を務めたケネス・リングはこの騒音は例外的であると言い、代わりに前記10項と自分が死んだという主観的実感の10項目を挙げている。また音楽が聞こえてきたという複数の証言もあり、騒音を述べる人は少ない。
このような状況に陥った人の脳内にはエンドルフィンという脳内麻薬物質が生成されているという説がある。これが幸福感、恍惚感をもたらすと言う。神経細胞における情報伝達は接しあったニューロン間で行われるが、ここにはシナブス空隙があり、シナブス間は神経伝達物質という化学物質が情報伝達の役を担うという。エンドルフィンはこの働きをするとともに痛みの神経導路を遮断する。悪性腫瘍に苦しむ末期患者がエンドルフィン3ミリグラムの投与によって平均36時間痛みから解放されたことが報告されている。また鍼麻酔は鍼によって体内に大量のエンドルフィンが発生し、痛みの感覚が遮断されることが判っている。もちろん臨死状態の人のエンドルフィン値実測記録はないが、動脈血の酸素分圧とエンドルフィン値の逆相関の関係が知られていて、低酸素状態になるほどエンドルフィン値が急激に高まることが知られている。この他にも未知の幻覚物質が作用しているのかも知れないが、臨死体験で見る世界は幻覚剤体験の場合と違って美しく澄み切った世界で、感覚も正常に近いという。

立花隆は体験者の話を聞くうちに体外離脱に強い興味を覚えるようになり、N.H.K.の企画“脳と心”のセッションに被験者として参加した。横になって過呼吸を続けるうちに手足がしびれてくる。指の感覚が薄れてくる。指がシーツに触れると感覚が戻るが、離すとまた消える。そうしているうちに体の外側と中身が予告もなくズルッとずれた。両者の間に微細な空隙があり、そこにグリースでも塗りこんであるように動いたのである。これは体外離脱の一歩になるのではないかと考えた。過呼吸をやめ静かな呼吸に切り替えて、けだるさのまじった快感に身をゆだねている内に手の指一本一本が大きくふくらんで、スキー用の手袋のサイズになり、更にその手がもっと大きい手によって握られていた。とても暖かい手で、握られているのが快かった。その手は驚くほど巨大に感じられた。
今度は週刊文春の企画で心理学者ジョン・リリー博士が考案、米国で商品化した隔離タンクに入った。幅と高さが約1.2メートル、奥行き約2.4メートルで二つの空気調節孔があり、25センチの深さに硫酸マグネシューム(比重は水より大きい)が張ってあり、また内部は気温・液温ともに36.5度前後に保たれている。この中に素っ裸で入り仰向けにプッカリ浮いてフタを閉じると、音も光もなく幻覚体験を持つ人もいるという。立花氏はドアが閉じられた後一瞬姿勢が安定できなくなってパニックに陥ったが、その後は安定し、自分を取り巻く環境が無限の遠方まで拡がり暗黒の宇宙空間にただ独り放り出された感じがした。しかしあまりの心地よさにじきに眠り込んでしまったらしく、幻覚を見るような体験は起こらなかった。そこでもう一度タンクを探して挑戦した。タンクの縁に触れない限り自分の肉体の存在感は消失し、自分は完全に意識の点のようになっていた。知覚と肉体が消失した状況は一種の体外離脱ではないかと思った。体験者に尋ねるとほとんどの人はその時自分に姿や形はなく、ただの意識の点に化していたと答える。ファインマン(ノーベル物理学賞受賞者)はこのタンクの中で修練の結果体外離脱に成功したと述べているが、それは5回目辺りで1度や2度では無理と知った。しかしそれは自我と体がずれるところから始まると書いてあり、尤もだと思った。昔から僧侶の修行者が追求した挙句手に入れる悟りの境地もこれに似ている。ヨガの修行の結果得られるクンダリニー覚醒では脊椎に沿って七つのチャクラが下から上に順に開いていき、遂に頭頂の開いたチャクラから宇宙と交信する境地に達するという。
前に述べた如く立花隆は異常に執着しているから臨死体験者の話をいやというほど集めているし、聞き手の興味をそそる点からも体外離脱時の知見が多いが、その述懐には個人差が大きい。しかしほぼ共通している点がひとつだけあり、それは体験中の気分が至福に包まれたものであり、体験者には死というものを忌避する心情が消えていつでも喜んで迎える気分になっていることである。これから推すと危うく生還した人だけでなく、素直にあの世に向かった人たちの大部分も死の瞬間には生理的に至福の心情に包まれている可能性が多いと思われる。それが自然の摂理であるならば、人の死をさほど嘆き悲しむことはないのであろう。

<ニュートン> 放送大学の講座の中で最近の日本青少年の理工学離れを憂える心情から科学雑誌“ニュートン”を取り上げる番組があった。東京大学教授だった地球物理学者竹内均が定年退職後の1981年独自で創刊した。この人は寺田寅彦の随筆“茶碗の湯”を読み、彼の説く自然の摂理の深さに感銘を受け、寅彦と同じ地球物理を志したという。在職中に青少年に分かりやすい科学技術の普及の必要性を感じていたが、たまたま米国のNational Geographicがそのような趣旨で豊富なカラーの写真・絵図を用いた雑誌を定期出版していることを知った。竹内氏が訪ねると懇切丁寧に説明してくれ、また過去に集めた厖大な技術資料を収納した書庫を案内してくれた。
これが竹内氏が本来大学の先生などには手の出しにくい月刊誌の出版を志す契機になった。若い人に興味をもってもらうために彼も興味を惹くようなカラーの写真・絵図を多用すると共に、科学は実証の集合によって成立することに記事の力点を置いた。Alftrd Wagnerの大陸移動説の紹介にあたっては彼自身が諸大陸の図形をジグソーパズルのように組んだりほぐしたりを繰り返した。昭和天皇に御進講をした際には彼自身の研究の結果昔接していた筈の北米大陸と欧州の対応地点で同じミミズの遺骸が見つかったことからWagnerの大陸移動説が裏づけられるという話をして、生物学者だった昭和天皇の賛同を得たという。

今では科学雑誌”NEWTON”は日本だけでなく、中国、台湾、韓国、イタリー、スペインなど6ケ国で発行されているといい、発行部数は40万部、写真・絵図は原画を各国に送付しているという。毎月NEWTON SPECIALと称する特別テーマを掲げるのが特色になっている。竹内均氏は2004年4月に死去したが、宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部の水谷仁教授が編集の後継者になった。元祖のNational Geographicも以前よりしっかりした財団の援助を受けて現存している。残念なのは日本にはそのような篤志者の寄付を受けて運営される財団がないことだ。創刊のときからこの雑誌を私も知っていたが、竹内均氏の編集長としての情熱と強い意志がこの貴重な雑誌の存続を支え、後継者を生んだ。この際月刊誌はとにかく“ニュートン”関連の何冊かを購入することにした。高校では今人気が下火になっているそうだが、地学=地球物理・宇宙科学が私の目下の最大関心事である。

<未知の世界を探る> 立花隆の“立花隆・100億年の旅”と“宇宙・地球・生命・脳”(いずれも朝日文庫)は題名はつながっていないがシリーズもので、大学・研究所の研究室を訪ねて現代日本の新分野探索の動きをレポしているので、目ぼしいものを拾い出して科学・技術の新動向を知る一助にしようと思う。まずそのテーマを彼の命名に従って概観しよう。但し探訪が行われたのは約10年前なので、興味の薄いものは思い切って割愛する。
1 遺伝子で脳を究める 東大・堀田凱樹研究室
2 性行為の遺伝子を探る 山元行動進化プロジェクト
3 脳型のコンピュータ 電子技術総合研究所・松本元研究室
4 2001年に人工脳をつくる 人間情報通信研究所・進化システム研究室
5 人工知能で何ができるのか ソニーコンピュータサイエンス研究所・北野宏明氏
6 昆虫ロボットから脳に迫る 東大・下山勲研究室
7 極微細な世界を目指す 東北大・江刺正喜研究室
8 サッカー・ロボットのワールドカップ 阪大・浅田稔研究室
9 分子の動きで筋肉を探る 阪大・柳田敏雄研究室
10 分子認識のしくみを探る 東大・黒田玲子研究室
11 仮想世界を体験する 東大・広瀬道孝研究室
12 生命をリアルに“瞬間”でとらえる 東大・廣川信隆研究室
13 時計のないコンピュータをつくる 東大・東工大・南谷崇研究室
14 宇宙の素顔をX線でのぞく 宇宙科学研究所・井上一研究室
15 重力波をつかまえる 国立天文台・藤本真克研究室
16 劇的な太陽の素顔に迫る 宇宙科学研究所・“ようこう”観測チーム
17 地球磁気圏の尻尾を探る 宇宙科学研究所・太陽地球系物理研究室
18 地球の歴史を解読する 東工大・地球内部ダイナミクス研究グループ
19 “進化”を実験室で確かめる 阪大大学院・応用生物工学専攻“さきがけ21”研究グループ
20 生物の形づくりの正体に迫る 東大・浅島誠研究室
3と13は現行のコンピュータの仕組みを改革する動きで、3は人間の脳の神経細胞を模したN.N.P.(ニューラル・ネット・コンピュータ)と5ケのメモリーが1000ケのシナプス入力を受け付ける。こういうものが1000セットあって、神経回路網を模した回路を作り学習しながら高速処理を行う。翻訳作業などに適。13は非同期式コンピュータで、現行のコンピュータでは共通の情報処理信号をクロックに合わせて隅々まで配信し、それに応じて単位情報処理が行われるシステムなのだが、クロック信号分配のための電力は全体の1/3に及んでいて複雑化による配線遅延が顕著になり、特にこの遅延は環境温度の上昇に影響されやすいために冷却が必須になる。非同期式システムの採用によって性能の迅速化が容易になる。
いくつかの新たな手段で宇宙の謎の解明が進みつつある。14は大気中では吸収されてしまうX線を大気圏外の人工衛星“あすか”で捉えるもので、数千万度〜数億度の天体が認識できるようになって、ブラックホールの調査に一歩近付いた。従来の可視光線や赤外線などでは捕捉不可能だった。15の重力波の検出は“TAMA”に始まる装置でパルサーなど宇宙に伝播する重力波を捉えようとする試みで、重力崩壊の検知や未解明の暗黒物質の解明に役立つことも期待されている。暗黒物質は宇宙の質量の大半を占めていると言われるが現在の技術ではまだ認知の方法がない。16で太陽の解明が“ようこう”(硬X線望遠鏡と軟X線望遠鏡を備えている)によるX線観察で進んだ。太陽では元素がプラズマ状態(原子が電子をはぎとられた状態)になっていて、粒子の動きは電流になって強い磁場を発生する。ベクトル・マグネトグラフによって磁場の動きとプラズマの運動が観測できる。フレアに伴う磁気リコネクションは磁力線の中に蓄えられていたエネルギを一挙に放出することや宇宙現象の解明に類似の現象があって大いに役立つことが判ってきた。17ではジオテイル衛星が地球周辺の磁気圏やプラズマの分布を観測した。ハレー彗星観測のために打ち上げた人工惑星“さきがけ”もたまたま地球磁気圏の尻尾を観測した。地球磁気圏は地球半径の30倍の円筒状になっていて、その全体が受け止める太陽風のエネルギは日本の全電力消費量に相当する。
生物関連、2では行動が遺伝的にプログラムされているのを見るのに最適なのは昆虫だという。6では昆虫の運動能力を人工的なロボットで代行させようとすれば大変高くつく。だから昆虫を直接利用するハイブリッド・ロボットは多様な用途がああるという。この大きさの世界では重力は無視できるほど小さく、摩擦力や粘着力が相対的に大きい。そういう認識から飛ぶマイクロマシンを考えついた。20では細胞分裂初期の胞胚の状態でアクチビンという誘導物質を用いると、その濃度や前処理の仕方によって心臓、腎臓、肝臓など全く異なる臓器に生成される。これによって細胞の前成説(個々の細胞は発生過程において将来何になるかが予め定められていると説く)は否定された。
以上、立花隆は個々の研究室がそれぞれ何らかの形で予算をもらって恣意的に進めている多様な研究を無責任な立場で覗いてみたに過ぎない。それも10年ほど前のことだから、現在これらの研究がどう発展しているか、あるいは停滞しているかは改めて調べてみないと判らない。立花隆の解説は詳しく突っ込んでいるようでいてその研究の独創性についての理解がいまひとつの感があり、いまひとつよく判らない。だが日本人も色々な分野でコツコツ研究を進めていることは確かで、この中のいくつかは後世に残る成果を生むことだろう。未知の世界を切り開いていく話は何でも魅力がある。

<畠山一清> さる人から依頼があって、荏原の創業者の謦咳に接した人から故人について何なりと報せて欲しいという。ここに記すのはあくまで私が関わりあった範囲での畠山一清翁である。私が入社した時点(1957年)では現役の社長を務められていたが、10年経たぬうちに酒井億尋氏に社長を譲られて会長となり、現役を退かれた。専門は井口在屋先生に師事したポンプの製造だから、大学とともに大先輩である。没年は1971年(90歳)。1960年畠山記念財団を設立して発明協会への継続的な支援体制を作る。1964年入手してあった白金の土地に畠山記念館を建て、茶人として多くの美術コレクションを含む都内有数の茶道具美術館とした。従業員保養所になっている箱根大平台の清山荘の他に能舞台のある茅山荘が今では荏原の資産になっている。入社した年に大卒独身社員のために大鳥居に独身寮を建て、早速私はここへ入れられた先輩社員と親しくする機会を得た。氏が唱えた熱と誠の精神を体得するにはよい場だった。
私が入社する時に通常の事務レベルの試験はなかったが、社長の面接があった。詳しい表現は忘れたが、面接は一対一で、尋ねられたのはただ一点、“人間(企業人)として最も大切にしなければならないことは何だと思うか”だった。突然の予期せぬ質問だったが、熟考もせずに思うがままに即答した。何と答えたか今では憶えていない。自分なりの答えではあったが、相手を感心させる答えでなかったことはすぐに感じられた。“ウーン、まだ若いなあ”と苦笑されて面接は終った。私の悪いところはこういう質問を他の人間にもしたのか、どういう答えが望まれたのかというような情報収集を事前は勿論事後も一切しなかったことで、従ってこれはこれで終りである。こういうことはどこの社長もやることでは決してないということだけは強く感じた。後に今の自分だったらどう答えるだろうかと時々考える。
1999年の”フランジ“の項にも書いたが当時定期的に社長の視察があり、社内全部門の視察を社長が行い、重役たちがその後に付き従って歩いた。私など若い者は何も心配や気兼ねがないから、平然としていたが偉い人ほど何か落ち度を見付けられないかと心落ち着かぬ有様だった。昔は設計という職場は製図板の前で突っ立っていたし、文句があるのなら言ってみろとばかり私も傲然と立っていた。そういう気分というのは何となく中央の通路を歩いてくる社長にピンと来たらしく、やおら社長はツカツカとこちらへやってきた。詰まらぬ図面を画いていたが、私にこういう仕事を命じているのは私の上司だという考えだから、傍へ来て図面を見られても平然としている。そういう気分は即座に相手に伝わる。折角だから何か言ってやろうという社長の意思から前に書いたようなフランジに関するコメントを残して彼は去って行った。
幸か不幸か私自身は一清氏から直接叱正を受ける機会はなかった。設計に配属されて丸3年が過ぎたある日私は今まで一度も行ったことのない社長の席へ行った。私は上司に命じられてずっと大型渦巻ポンプの製作手配をしていたが、主要な仕事は過去に作られた図面が使えればそれを使うし、使えなければ新たに図面を画く、但し羽根車の図面だけはまだ自分で画くことを許されず、必要な時には直属の上司(係長)が画いて渡された。私は毎日与えられる仕事の範囲に不満を持っていてもう少しやり甲斐のある仕事が欲しかった。その時の私の心情として同期入社の男が製糖プラント部門に配属され、入社した年からある分野を任されて度々北海道へ出張していたのが羨ましかった。会社の伝統のある部門は人材が多いのでどうしても新入社員は下積みの仕事をやらされるが、新造の部門では人材不足で新人に多くの仕事を任せる。そういう事情の理解が私に十分だったとはいえなかった。当時の自分をポンプ・ケーシングを画く職人になり果てたと思っていた。そういう不満が鬱積し、その捌け口を無思慮にも社長にぶつけに行ったのである。秘書などは置いていなかったから門前払いをされる恐れもなかった。畠山社長に“私は会社を辞めたい”と短刀直入に言い、その理由として与えられている仕事への不満を述べた。社長は黙って話を聞いたが、私に“そういう話を直接私のところへ持ってくるな”と一言言った。私は黙って礼をして引き下がった。その後上司からきついお目玉を食うと覚悟していたが、誰も何も言わなかった。
間もなく私は日本鉱業水島製油所から受注したプラント冷却用海水送水ポンプ設備の機械・電気設備一式の担当を命じられた。4基の送水ポンプ自身も大動力で新規設計を要する重要な機械だったが、別に高圧の消火ポンプ、駆動機は電動機と停電に備えてのデイーゼル・エンジン、更にポンプ場内のすべての配管と弁類、またすべての機器(デイーゼル・エンジンには多くの補機が付く)の連動指令・制御・保護回路が受注範囲に入っていた。
新規設計の両吸込み渦巻きポンプのケーシングは海水への耐食性のある高価なアルミ青銅製だった。ここで私は後に私の生涯唯一の特許となる吸込流路形状を採用し、性能試験の結果従来にない92%の記録的なポンプ効率を得た。これはやり甲斐のある仕事にありついたことと直接関係なく3年間ポンプ・ケーシングを画き続けた中で手に入れた唯一の成果といってもよいものだが、この設計手法がようやく結実したことでこの型のポンプの平均効率を5%以上上げる目途がついた。配管設計については経験豊富な先輩に助勢してもらった。小配管系統図は自分で作成した。電磁弁を多用し、後に記す電磁弁と手動弁の組合せを多用した。下請けに入った電気会社の技師と操作方式について打合せ、それをまとめた展開接続図を監修した。これを基に当時は大げさな継電器がズラリと並ぶ継電器盤が何面も作られた。ポンプ場の全機器が起動・停止命令や故障発生に伴い予め定めた論理通りに作動するかをスケジュール表を作成して現場で個別に検査し、ダメ出しをして行った。こういうプラントを現場でまとめる仕事は初めての経験だったが、やり甲斐を感じ、今までの仕事の不満は忘れて夢中になった。
この請負工事は当社として前例がない性質のもので、当時の設計課長(上司)が当初こんなややこしい仕事はどうせうまく行かないだろうとつぶやいていたのを聞き漏らさなかった。私は長期出張で現場に滞在して電気技師とともに機器の動作テストにかかりきっていた。やがて課長が状況視察にやってきて恐らく客先から工事の進展に満足できる旨聞き安堵したのだろう、作業している私の横で鼻歌を歌いだした。正直な人だった。後で考えるとそれ以来私は課長の全面的な信頼を得た。多分帰社すると畠山社長に満足すべき状況を報告したのだと思う。現場の試運転調整には1ヶ月近くかかった。今から考えるとノンビリした話だが、実質責任者だった私には竣工までの厳しい工期とタイムリミットは課せられていなかった。前例が少なかったからだろう。1960年の秋だった。この仕事が私に与えられたのには間接的に社長の意向があったことは疑いないが、その種の説明は一切なかった。
帰社すると間もなく当時の河野建設相の肝入りの朝霞―東村山原水連絡緊急水道工事の関連で荏原に新座加圧送水ポンプ場の受注が決まり、私は何となく必然的にその担当になった。当時の記録的な大動力(4200kW)両吸込渦巻きポンプ3台と油圧駆動吐出弁等の付属装置が受注範囲だった。ポンプ自体と全補機設計を担当し、この時初めて係長から離れて羽根車の設計も独力で行った。当然ケーシングには独自の吸込流路形状を採用した。高い試験圧力のために材質には鋳鋼が用いられ、神戸製鋼に発注された。鋳造前に木型拝見という工程があって私が設計意図通り木型が製作されているか検査に赴いたが、先方から形状を指定する45度ごとの断面形状の移行が素直で(この種の製品としては)作りやすかったと感想を述べられた。それこそ私の形状特許の眼目だと我が意を得た思いだった。工場での性能試験では保証効率は上回ったが、89%の効率でやや不本意だった。後の現場竣工後の現地試験は水道局設置の電磁流量計が用いられ、ポンプ効率は92%を越えた。水道局の掛長から工場試験より現場の方がよい性能が出たのは何故かと質問が来た。狭い工場の試験場ではポンプの前後は曲がりくねった配管を接続せざるを得ず、私の特許形状の利点が殺されてしまうのに反し、現場は吸込み、吐出し側とも長く直線的に伸びる理想に近い配管形状のためにポンプ内の流速分布が大幅に改善され吸込流路形状とマッチしたのだった。なおこの連絡管路は暫定的な目的だったからその後使用されていないが、その後に完成した朝霞浄水場から東京都内に向けての浄水送水ポンプ7台には同じケーシング・羽根車が使用され、新座より高速回転、5500kWの動力で駆動され現在も活躍していて、新座と同様に直線管路接続だから、省エネにいささか貢献している。この辺まで畠山社長は概要をご存知だった筈である。以後水撃現象にも関心があり、私の仕事はポンプ自体の設計からポンプを如何にうまく機能させるかという機場設計、システム工学の方に自ら望んで重点を移していった。
若干の日時が経ち、視察中の社長の小配管に関するコメントが人づてに聞こえてきた。ポンプの付属機器として電磁弁を付け、自動的にそこを水が流れるようにするのだが、その電磁弁の前後に手動バルブを付け、またそこに配管のバイパスを設けてそこにも手動バルブを付ける。手動バルブは万一電磁弁が故障したときにその回路を手動で閉じて手動でバイパスに水を流す配慮であって、誰かがそういう仕組みを電磁弁配管の一般的なプラクテイスにしてしまっていた。社長はこういう小配管がアチラでもコチラでも行われているのを見て怒り出し、これでは小配管はバルブのお化けだと言っているという。当事この方式を私も多用していて悪いとは思っていなかったが、今から考えると社長の言うのも尤もで、折角の電磁弁による小配管の自動化を不時の故障についての配慮が電磁弁1ケにつきバルブ3ケを増した上に自動を手動に引き戻すという思想不統一を持ち込んでいる。そういう矛盾がはびこっているのを社長が指摘しても、設計部長辺りがさっと修正しないから、社長の不機嫌は治らない。
今になって考えると一清氏のいらだちがよく判る気がする。発明協会会長の立場でこういう一見尤もらしくて本質的にはバカげた仕事を部下たちがするのを許すわけにいかないが、叱っても面従腹背で本意を理解しようとしない。多分この後だっただろう、東大機械出身の設計部長(役員)が更迭された。学歴で重用しようとした人物が形式にこだわり指摘しても物の本質を見極められないのに愛想を尽かしたのだと思われる。バルブのお化けのほかにも気に入らぬ理由は当然あったのだろう。当時の事務所は羽田の西側の2階の建物1棟だけで、2階が設計、1階が営業と事務だった。2階中に響き渡るような声で勢威を振るっていた先輩でありもう老人に近い前設計部長が悄然と1階の窓際の席に移っているのを見るのは寂しかった。反省すれば私もバルブのお化けを作るのに加担して畠山社長の真意を理解しなかった一人である。いざという時には手動で弁を開閉する機構さえ電磁弁に付ければ取り敢えず済むし、速やかに不良品を取り替える方が重要だったではないか。
設計部長の後任は吉村工場長が兼務し、会社が発展していたこともあり分野別に技術部が設けられた。私の課長は大型ポンプ部長に昇進した。一清氏はある意味で癇癪持ちだったらしく、吉村氏には何度も譴責処分を受け、始末書を書かされた前歴があった。じきに社長になるが、多分一清氏存命中に胃ガンで他界した。この人は一清氏に鍛えられたせいか、清濁併せ呑む温厚の人と称された。苦労人だったらしい。私だって一清氏には気に入らないことがあったと思うが、孫のような男を叱っても仕方がないと思われたのだろう、一度も小言さえ言われなかった。滅多に顔をあわせる機会もなかったのだから当然だが。

<枕> 2月6日のN.H.K.“試して合点”はテーマに“枕”を取り上げた。朝起きた時に首が痛い、肩が凝っている、何となく爽快感がないと言う場合、枕が原因であることが多い。番組には若い女性の整形外科医が登場し、そういうのは大後頭神経痛で、寝ている時に首がよい角度を保っていないために頚椎の各節から出ている左右二本の神経が部分的に圧迫されていたために生じる現象だと説く。これと逆の究極のリラックス状態というのは理想環境の無重力状態で、例えば死海の水に浮かんだ状態で首の休まる究極の首の角度になっている。そういう時は頚部の脊髄が直線的に伸びており、7本の頚椎が素直に等間隔に並んでいて、各椎間板にかかる圧力も均等に小さくなる。キリンは眠るときにあの長い首をどうするのかというと、普段は立っているが、本当に休みたい時は地に座り込み、首をゆっくり曲げて自分の尻の横に押し付けるのだという。尻を枕にするわけだ。キリンは首の長さに関わらず頚椎の数は人と同じ7ケだというから骨の間隔がまばらで、首を曲げても神経痛にはならないのだろう。
寝ている時にそれを実現するには仰向けに寝て首の角度を15度にすればよいと整形外科医は言う。3〜4センチ厚さの固めの座布団1枚の上に幅50センチでキチンと揃えたタオル4枚を敷くとそれが実現できる。その状態からタオル2枚足しても抜いても理想の角度からずれるので違和感が生ずる。
枕の硬さも高さと同様に重要である。人間は睡眠中に血行をよくするために無意識に寝返りを打つ。1晩に10回ほど寝返りをすると、睡眠がよくとれる。枕が軟らか過ぎると頭が沈み込んで寝返りが打てないから寝苦しくなる。一方あまり硬いと腰の回転とともに首も大きく回転してしまう。少し軟らかいと腰の回転に比し首の回転は小さくなり楽である。仰向け15度の枕の高さは横を向いた時に首から背中までほぼ一直線になる。
従って安眠のコツは枕の高さと硬さの正しい選択にあると言う。私の場合頚髄の手術以後枕は使わなくなった。いろいろ変えてみたがいずれも違和感がある。疲れきったときは仰向けでも寝られるが普段は右横向きに寝る。寝返りは小さく横向きの角度を変える。どうにも寝苦しい時に左横向きになることもあるが、落ち着かずいずれ右横向きにも戻ってしまう。人間慣れた姿勢というものがあるのだろう。整形外科医のアドバイスは私にはマッチしない。首に限らず痛い苦しいというのは局部的な血行障害だから、それを緩和するのが第一だと思っている。昨夜は左足の霜焼け(先端部の血行障害)で大いに眠りが妨げられ、何度も無理な姿勢で指の根元を揉みほぐした。
<富士山噴火> 富士山は現在まで宝永噴火以来約300年の間噴火を起こしていない。休火山というような言い方をする人もいるが、過去の歴史を調べてみると、有史以来間歇的に噴火を繰り返していて、地下のマグマの噴出量は3200年以前は1000年あたり2立方キロメートルだったのが、それ以後は1000年あたり1立方キロメートルとやや勢いが衰えてはいるものの、地下のマグマの生産は依然として続いているので、その噴火は時間の問題でしかない。強いて言えばそれが溜った量をほぼ一度に噴出する大噴火になるのか、小噴火の頻発になるのかが、詳しい噴火時期・噴火地点とともに現在では予測困難なことである。

富士山は東海道に面しており、東京など関東地方に近く都市が数多く隣接しているので、一旦噴火すれば近代化以後は未経験の都市型災害が発生することは疑いない。火山から噴火によって放出されるものの中で最もその被害が懸念されるのは火山灰である。冬季高空に噴出された火山灰は強い西風によって長距離を東方に運ばれ、京浜地区から千葉県にまで達する。まず人体に有害で、鋭い角をもつ粒子は肺や気管を傷つける。屋外では厳重なマスクが必須となる。家屋は厳重に戸締りし、エアコンの換気口も目貼りする。屋根に積もった火山灰は極めて危険で、もし50センチも積ったら木造家屋の半数は倒壊すると言われる。雨が降ると更に危険。細かい灰は静電気によって電子機器の内部に侵入してコンピュータ類を誤作動、もしくは機能停止させる。ワイパーはフロントガラスを傷だらけにしてしまう。道路に積もった火山灰は自動車のエンジンに吸い込まれ、フィルターを詰らせて走行不能を招く。降雨があれば灰は道路とタイヤの間で滑りやすい面を作り、高速道路でスリップ事故が多発する。航空機のエンジンに吸い込むと極めて危険であり、航空機は火山灰の浮遊する領域は飛行してはならない。水源地・浄水施設の汚染は大問題になり、給水制限まで招く。道路に積もった灰を水で洗い流して排水管などに流入させると、排水管・下水管を閉塞させ、長期使用不能を招く危険がある。結局シャベルですくって土嚢に詰めて適所まで運ぶしかないという。農作物や森林も灰による被害は甚大で、生鮮食料品価額は急騰するだろう。

富士山の近傍では他の様々な脅威が待っている。噴石(火山礫)、溶岩流、火砕流などのほかブラスト(爆風)もあり、ウカウカしていると命も危ない。富士山の場合は専門家によってハザード・マップがそれぞれについて作られている(右の図は一例)。噴火の型を富士山に即して述べると、
@ ブルカノ式 噴石や火山弾は火口から4〜5キロまで飛ぶ。噴火の原動力はマグマ中のガス。爆発は突如として始まり間歇的に繰り返す。火山灰は上空に達すると何十キロも飛ぶ(例:桜島、浅間山)
A ストロンボリ式 山頂の南東と北西にある側火口からマグマのしぶきを連続的に噴出するタイプ。高温のマグマが噴水のように空高く上がり弧を描いて火口近傍に落ちる。溶岩は粘性が小さいので麓まで届く(例:ストロンボリ火山(伊))
B プリニー式 大規模の噴火に伴い噴石が広域に降り積もるタイプ。噴煙が何万メートルも上がり、遠方に達する大量の降灰がある。しばしば火砕流の発生を伴う。(例:セントヘレンズ火山、ベスビオス火山(伊))
順番に行こう。
噴石:放出時間は短時間だが、目で追って避けることは困難。死亡の可能性がある。シェルターがあればよいが、到達範囲外に退避するのが最善。
火砕流:火山灰や軽石を内部に含む高温・高速の流れ。時速100キロメートルを超え、通過した地域をすべて焼き尽くす。大規模な火砕流は膨大な体積をもち、分布域も数千平方キロに達することがある。富士山では過去3200年の間に10回以上火砕流が発生しており、標高1000メートル付近まで流下していた。
火砕サージ:火砕流と同様だが通過後の堆積物はずっと薄く、数センチメートル程度。しかし温度は400度に達し、人が巻き込まれれば致命的。一般に火砕流の外側1キロメートル外側を火砕サージの到達範囲としている。(例:雲仙普賢岳)
岩なだれ・ブラスト:地震とともに山体崩壊と爆発が発生する。水蒸気爆発に次いでブラスト(爆風)が発生、衝撃波は時速900キロで伝播し樹木を倒壊する。火山による山体崩壊の国内事例として北海道駒ケ岳、有珠山、渡島大島、鳥海山、磐梯山、御岳、雲仙眉山がある。富士山でも2900年前に東斜面が崩壊して御殿場市を埋めつくした。崩壊量は1立方キロ。この際岩石が滑落した距離は15キロメートルで、滑落速度は時速約100キロと推定されている。岩なだれやブラストが発生すれば逃げることは全く不可能である。(最近の大崩壊例:セントヘレンズ火山)
泥流:積雪期の富士山は高所の火砕流が融雪型の泥流を誘起する可能性も大きい。火砕流が発生しなくても噴火は大量の融雪と泥流を惹き起こす。宝永噴火の直後から降灰と堆積物による泥流は長期にわたり流域の人たちを苦しめた。集落や都市を襲うと大災害を招く。泥流の流速が毎秒1メートルを超え水深が20センチを超えれば水死すると考えるべきであろう。(例:ピナトウボ火山、南米のネバド・デル・ルイス火山)
溶岩流:溶岩流の速度は速くないので流出が確認されてから避難しても間に合う。しかし溶岩は仲々冷えないので、一旦溶岩に覆われた地域の復旧は困難である。冷却だけで1年かかる。11000年前に噴出した三島溶岩は山の南東部中腹から流れ出して現在の三島駅を越え、海岸付近に達した長大な溶岩流である。その長さは30キロ、幅は数百メートル、厚さは最大50メートルに達している。エトナ火山では溶岩流の経路を人工的に変えようとする努力がなされ、ある程度成功した。

富士山の将来の噴火を予測するためにはその地下構造を知らなければならない。調査の結果基底部には隣の愛鷹山(火山)と同規模の@先小御岳火山があり、岩質は安山岩に角閃石を含んでいて、造成された時期も愛鷹山と同時期の数十万年前と推定されている。その後10万年より以前にA小御岳火山(安山岩)が現在の高さの半分強で造成され、次に10万年ほど前にB古富士火山(玄武岩)が8割ほどの高さで、そして最後に1万年ほど前にC新富士火山(玄武岩)が現在の規模で造成されたという4階建て構造になっていることが判った。
新富士火山活動は噴火のデパートと言われるように様々な噴火様式が見られ、五つのステージに分けられる。
ステージ1(11000年前〜8000年前) 三島溶岩にも見られるように大量の溶岩流出が特徴。8000年前の猿橋溶岩も粘性の小さい玄武岩の溶岩。この時期に39立方キロのマグマが噴出したと推定される。これによって円錐形の美しい基本外形ができた。
ステージ2(8000年前〜4500年前) 小規模の爆発が続き、大量の火山灰を噴出、富士黒土層と呼ばれる真っ黒でフカフカした土壌を作った。山頂火口付近では小型の火砕丘が形成された。
ステージ3(4500年前〜3200年前) 山頂から頻繁に溶岩を流出した。粘性の大きい溶岩流でブロック溶岩を形成した。また山頂だけでなく側火山も噴火し、溶岩とスコリアを噴出している。
ステージ4(3200年前〜2200年前) この時期には山頂で爆発的な噴火が頻発し、大沢火砕流などの火砕流が発生した。また東方山麓に大量のスコリアを降り積もらせた。2900年前には東斜面が山体崩壊を起こした。2200年前には山頂火口から大量のマグマを噴出したが、これが山頂噴火の最後になる。山頂付近に着地したマグマはカチンカチンの溶結火砕岩になった。このために山頂付近の傾斜が急になった。

ステージ5(2200年前〜現在) 山麓斜面で小規模の爆発的噴火が頻発した。数多くの火口が富士山の北西と南東を結ぶ線上と、それと直交する北東の斜面の2線上にできた。それらの火口からは最初はスコリアを、しばらく後に小規模の溶岩を流出した。延暦噴火(800〜802年)ではスコリアと火山灰のために東南東の東海道(足柄路)が閉鎖され、新たに三島溶岩越えのルートが開設された。貞観噴火(864年)では北西山麓に長さ6キロにわたる割れ目ができて大量の溶岩が流出し、青木ケ原溶岩という溶岩原となり、北麓の大湖に流入してこれを分断、西湖と本栖湖に分けた。この時のマグマの総量は1.4立方キロであった。平安時代(937年)にも北麓で割れ目噴火が起こり、流出した溶岩は20キロメートル先の富士吉田市に達した。最後の噴火は宝永噴火(1707年)で、噴出したマグマは0.7立方キロの降下火砕物となり、南東山腹に直径1キロの巨大火口(右の写真)を作った。噴出した大量の軽石とスコリアは東方山麓に厚く堆積した。

現代技術では次の噴火の時期と位置・態様は予測困難であるが、宝永噴火以後300年経過しているので、地下に少なくとも0.3立方キロのマグマが溜っていることは推定できる。懸念されるのは南海、東南海などの海溝型大地震(マグニチュード8と推定される)と富士山の噴火が連動することである。過去にも1435年と1707年に地震と富士噴火が連動している。海溝型地震は津波を伴う危険も大きく、そうなれば社会のパニックは更に増幅され、日本の政治・経済に与える影響ははかり知れない。勝手ではあるができれば私の死んだあとの話にしてもらいたいものである。
この項の情報は右に掲げた本“富士山噴火”(鎌田浩毅・講談社ブルーバックス)から取材した。

<フェルマーの最終定理> また数学の話である。取材は掲題のタイトルの本(新潮文庫)で著者はサイモン・シン。ケンブリッジ大学の大学院で素粒子物理学の博士号を取得したが、プリンストン大学数学科の催しに参加してこの話題に接し、本書の出版を契機にジャーナリストに転進した。“ビッグ・バン”などの著書もあり、素人にも判りやすい解説を行うので、いずれまた紹介する機会があるかもしれない。この本は数学者がどのようなことに情熱を燃やすのか、この世界での問題解決の困難さがどのようなものであるかを教えてくれる。主人公はアンドリュー・ワイルズである。
紀元前6世紀、エーゲ海東部の島サモスに生まれたピュタゴラス(上の彫像)は“数には数の論理がある”という思想を説き、数学に最初の黄金期をもたらした。“直角三角形の斜辺の長さの二乗は他の二辺の長さの二乗の和に等しい”というピュタゴラスの定理は現代の中学生なら皆知っている。しかしこれから派生した一見簡単な問題が史上最強の数学者たちを何世紀も悩ませる難問になった。ピュタゴラスは当時ギリシャの植民地だったイタリア南部のクロトンに教団を設立し、知恵を愛する人の集まりとした。教団のメンバーは数学上の発見を決して外部に漏らさないという誓いを立てさせられた。ピュタゴラスの死後もその掟は守られていて、十二の正五角形から成る正十二面体の発見を公表してしまったメンバーは溺死させられた。

ピエール・ド・フェルマーは1601年フランス南西部に生まれた。彼は家が裕福で大学卒業後、地方の意向を国王に伝える請願委員の役を務めた。やがてトウルーズ議会の勅撰議員に選ばれたが、策謀渦巻く政治に巻き込まれないように彼は余力のすべてを数学に注ぎこむことにした。フェルマーはやがてパスカルと知り合い、共に確率論や微積分学の創設にも関わった。フェルマーは裁判所の仕事をするようになったが、裁判官は社交を控えるように言われていて(交友関係が広く、友人・知人が裁判所に呼ばれると公正を欠く恐れがある)、数論という算術に没頭した。彼はいくつもの問題と解答を作ったが、どちらかと言えば解法や証明を書き残すのには熱心ではなかった。フェルマーはいくつもの定理を創り、それは人の手で証明されたが、最後にフェルマーの最終定理と言われるものが残った。それは
x{n}+y{n}=z{n} <但し{}は冪乗記号の代用>
(n>=3) を満たす自然数解x,y,z,n は存在しない というものである。
但しこれは厳密な証明がなされていなかったので、予想と呼ばれるべきものだった。これだけが350年を越える手強い謎として悪名を残すことになった。しかしこれが証明されたところで何か深い真理や洞察が得られるわけではない。これがそれほどの名声を博したのは、切り立った崖の如く登攀が難しいというそれだけの理由からだった。プロの数学者が何世紀も煮え湯を飲まされたという事実だけが残った。
1707年スイスのバーゼルに生まれたレオンハルト・オイラーは当時大きな業績を挙げたアイザック・ニュートンに刺激を受けて、航海術から財政学・音響学・灌漑に至るまで幅広いテーマに取り組んだ。当然数学にも関心が強く、フェルマーの方程式のn=4の場合についてフェルマーが残したメモを手がかりに、もし解があるならばそれよりも小さな整数の解があることを証明(無限降下法)し、逆説的にn=4の場合には解がないことを証明した。オイラーは更に虚数を用いてn=3の場合にも無限降下法によって解はないことを証明した。しかしこれ以上のnに関しては無限降下法は使えないことがはっきりして、世界一の難問に突破口を開いたものの、進展は挫折した。一方で数論の研究者はnが素数の場合だけを証明すれば、すべてのnに関して解がないことを明らかにした。ところがドイツの数学者ダーフィト・ヒルベルトは素数が無限に存在することを明らかにした。こういう純粋数学の知識は現実世界にはなかなか応用が困難なものだが、素数理論は暗号技術に応用できるのである。但しフェルマー問題の解決は遠のいたように見えた。
1847年フランス学士院はフェルマーの最終定理の解決に対し、金メダルと3000フランの懸賞をかけた。ガブリエル・ラメはその数年前にn=7について証明していたが、前記学士院の会合ではまずラメが、次いでオーギィスタン・コーシーがフェルマーの最終定理が証明できるところまで来たと宣言した。しかし翌年の学士院で発表したのはエルンスト・クンマーで、コーシーとラメが証明の根拠にしようとした素因数分解の一意性は実数についてのみ成り立ち、虚数いついては成立しないと論破した。数学者たちは皆深刻な打撃を受けた。新世代の数学者たちは、解決できそうにない行き止まりの問題などには目もくれなくなった。
1908年ドイツの資本家パウル・ヴォルフスケールは同時に数学者でもあり、コーシーとラメの失敗を解説したクンマーの著書を読みふけった結果、クンマーの証明にギャップを見付け、その修正に成功した。その結果フェルマーの定理の証明は達成困難な領域にとどまることになったが、その時彼は失恋のために自殺を企てており、数学上の証明が元気を取り戻し命を救ってくれたお礼として、フェルマー最終定理の証明に懸賞金10万マルクを投ずると発表し、期限は2007年9月13日とした。但し最終定理が成立しないことを証明した者はビタ一文もらえない。プロの数学者の大半は定理は証明できないと見ており、それほどの関心を示さなかったが、新たに多くの素人に近い人たちが問題に取り組み始めた。
1975年、ケンブリッジ大学の大学院生になったアンドリュー・ワイルズはそれまでの夢だったフェルマー問題を一旦は棚上げしかけたが、指導教官ジョン・コーツは彼に楕円曲線論というテーマを与えることでその決定を先延ばしさせた。この研究は結果的に夢に手をかける道具をワイツに与えた。
東京大学理学部数学科に学んだ志村五郎と谷山 豊は人々が考えもしなかったことだが、楕円方程式とモジュラー形式が実質的に同じではないか、両者は統一できると言い出した。どの楕円方程式にも一つのモジュラー形式が付随しているということで話題になったが、まだ論理的な証明がなされなかったので、“谷山・志村予想”と呼ばれた。それは楕円の世界とモジュラーの世界をつなぐ橋を意味した。谷山は別の理由で自殺したが、志村は思想の普及に努めてそれなりに成功した。プリンストン高等研究所のロバート・ラングランズはこのような発想が数学の大統一を可能にすると述べ、ゲルハルト・フライは谷村―志村予想の証明がフェルマーの最終定理の証明につながると主張した。バリー・メーザーの助言を受けてケン・リベットも楕円方程式がモジュラーであることが証明できれば、同じ効果があると言明した。しかし大多数の数学者にとって谷山・志村予想の証明は不可能と考えられていた。

1986年アンドリュー・ワイルズは谷山・志村予想の証明がフェルマーの最終定理の証明に直結すると聞き、電撃的ショックを受けた。彼は直接関係ない研究からは一切手を引き、屋根裏部屋に籠り独力で仕事を進めることにした。衆人環視のもとでは集中力がとぎれてしまうと考えた。周囲には研究の進み具合を含めて一切漏らさず、あるタイプの楕円方程式についてまとまった仕事を終えていたが仲間を煙に巻くために小分けにして6ヶ月ごとに小論文にして発表を続けた。1年考えた末に証明の出発点に帰納法を選んだ。帰納法は最初の場合に命題が真であることを証明し、次にある場合が真ならば次の場合も真であることを証明する。彼は5次方程式の解を求めたガロア(奇矯な行動故に決闘で早逝する)が用いた群論を計算の中核に据えた。3年でガロア群を楕円方程式に応用し、楕円方程式を無限の要素に分解して、すべての楕円方程式の最初の要素はモジュラーだということを証明した(第1ステップ)。第2ステップとして岩澤理論は使えないことが判った。彼は弟子のマテウス・フラッハが最近開発した手法に目をつけ、コリヴァギン・フラッハ法を拡張することに専念した。楕円方程式はいくつかの族に分類できることが判り、フラッハ法をある楕円方程式に使えるように修正したところ、その族のすべての楕円方程式に使えるようになった。他のすべての族に適応することについても次第に自信がついてきた。6年かかったが作業は障害を乗り越えて終了した。彼は口の固いニック・カッツ教授に検証を委託し、地味な講座に名を借りて二人で検証作業を完了した。
ワイルズは1993年6月、3回に分けてオハイオ州立大学で講演を行った。講演の題目は“モジュラー形式、楕円曲線、ガロア表現”となっていて、最終目的は明らかにされていなかった。しかし2回目の講演前にはフェルマーの最終定理が証明されたのではないかという噂のメールが飛び交い、聴衆が大幅に増えた。3回目の講演には、彼の証明を支える理論を生み出した人たちの大半が揃っていた。メーザー、リベット、コリヴァギンなど。最後にワイルズは黒板にフェルマーの最終定理を書き、“ここで終わりにしたいと思います”と言った。講演終了後には大喝采が巻き起こった。志村教授は翌日のニューヨークタイムズで自分の予想が証明されたことを知った。谷山豊の自殺から35年目だった。しかしジャーナリズムはフェルマーに焦点を合わせ、谷山―志村には軽く触れるだけだった。
お祭り騒ぎは終ったが、証明のチェックはこれからだった。ワイルズは論文を“インウェンテイオネス・マテマテイカエ”に提出し、編集人バリー・メーザーは6人のレフリーを選任することにした。作業を容易にするために200ページの証明を六つの章に分け、各レフリーが1章づつ担当することになった。第3章を担当したのはニック・カッツであった。彼は小さい問題にぶつかり、アンドリューに質問のメールを送った。返事は質問の答えになっていなかった。やがてカッツもワイルズも問題が些細なものではなく、容易には解決できないことを理解した。問題はコリヴァギンーフラッハ法がワイルズの思惑通り機能する保障はないということだった。ワイルズは自分の方法がE系列とM系列の全要素に対して使えるということを、どんな疑問も寄せ付けないほど明確に示さなければならなかった。ワイルズはニック・カッツにあと1日あれば解決してみせると言ったが、1月経っても論文は修正されなかった。数週間前に世界中の新聞が世界一素晴らしい数学者と呼ばれたワイルズは誤りを認めざるを得ない屈辱的な立場に追い込まれていた。秋が過ぎても論文は公開されず、証明に問題があったという噂が流れはじめた。遂にワイルズはいつまでも沈黙を守り続けるわけにはいかないと感じ、12月4日“フェルマーの現状”と題する電子メールを数学関係の掲示板に載せ、査読の段階で現れた問題の一つにまだ解決できないものがあることを認め、近い将来に解決でき、論文も発表できると信じていると記した。しかしワイルズの楽観を額面通りに受け取る者はほとんどいなかった。
ワイルズは屋根裏部屋に戻った。検討に明け暮れ1年余が経過した。ワイルズは遂に敗北を認める時期が来ていると感じはじめていた。うまくいかなかった理由を突き止めようとしていたワイルズは9月19日、コリヴァギンーフラッハ法には欠陥があり、単独では使えないことが明らかになったが、一旦捨てた岩澤理論がコリヴァギンーフラッハ法の助けを借りればうまく使えることに突如気付いた。両者はそれぞれ単独では不十分だが、それぞれが相補って完全になる。この閃きの瞬間をワイルズは決して忘れないだろう。問題は解決した。10月25日に2篇の論文が提出された。今回の証明には何の疑問も生じなかった。“ジュラー楕円曲線とフェルマーの最終定理”と“ある種のヘッケ環の環論的性質”。あわせて130ページに及ぶこの論文は数学史上前例のないほど徹底的な吟味を受けた上で1995年5月“アナルズ・オブ・マセマテイクス”に掲載された。1996年3月、ワイルズはラングランズと共に賞金10万ドルのヴォルフ賞を受賞した。ラングランズは少し前から数学の大統一計画を提唱しており、ワイルズの証明はこの計画に命を吹き込んだと評価された。ジョン・コーツは“この証明には、核分裂の発見やDNA構造の発見に匹敵する意義があります”と言明した。
物理学では電磁力・素粒子間の弱い力・強い力・重力という四つの力の統一が21世紀の大きな課題になっているが、数学でもラングランズ・プログラムはゼータ関数の統一を目指している。過去にいくつか数学者の話題を取り上げたし、その中で日本人の活躍が物足りないと述べた憶えがあるが、ここでは縁の下の力持ちの役の感はあるが、志村と岩澤の日本人の仕事がなかったらワイルズの業績が結実することは決してなかったことは明らかであり、この数学の統一にも大いに資したわけだから、僅かに溜飲を下げることができる。何が人類に対する偉大な貢献かは人によって評価が変わることは疑いない。
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