
<宇宙科学史> サイモン・シンの“宇宙創成”(新潮文庫)はビッグ・バンに至る人類の宇宙解明の歴史を上下二巻に分けて詳しく述べているが、その記述態度は特定の人間だけに焦点を当てるのではなく、古代から夜の空を眺めて宇宙の成り立ちに想いを馳せていた人類の情念が科学という土台の上で試行錯誤を繰り返しながらどのような成果を生んでいったかを努めて忠実に表現しようとしていて、このテーマについての第一級の教科書と思われる。本には当たりはずれが多いがこの本は今年読んだ中でも傑出している。著者(右の写真)はインドからの移民である祖父母をもち、ケンブリッジ大学院で素粒子物理学の博士号を取得した後にジャーナリズムで健筆を揮うようになった。
この著書は副題が“ビッグバン宇宙論”となっているが、ビッグバン以前はどうなっていたのかなど未解明の話題には触れず、対象を科学的に実証された知識に絞って如何に人類の叡智と努力が結実していったかについて文章構成力の巧みさを発揮して素人に判りやすく述べている。冒頭の記述は次のように始まる。
―この宇宙には一千億以上の銀河があり、どの銀河にもざっと一千億の恒星が含まれている。その恒星のまわりを、一体どれだけの惑星が回っているのかはわからないが、少なくとも一つの惑星上に、進化した生命が存在しているのは確かだ。その中でも一つの生物種は、この広大な宇宙の起源について考えをめぐらすだけの頭脳と勇気を手に入れた。人類は幾千代にもわたって空を見上げてきたが、我々はその中で特別な世代に属する栄誉に恵まれた。我々の世代になって初めて、宇宙の創造と進化についてかなり満足のいく、合理的で首尾一貫した説明ができると言えるようになったからだ。ビッグバン・モデルは夜空に見えるものすべての起源をエレガントに説明するという点で、人間の知性と精神が成し遂げた最も偉大な成果の一つである。ビッグバン・モデルは、飽くことのない好奇心と、大胆な想像力、そして細心の観察と厳格な論理から生み出されたものなのだ。−
要約1
世界中の文化が宇宙の創生に関する独自の神話を作り上げてきた。初期の社会は神話・神・怪物ですべてを説明していた。紀元前6世紀のギリシャで哲学者たちは宇宙を自然現象として記述しはじめた。ギリシャの科学者たちは実験と観測、論理と数学を使い地球・太陽・月の大きさと相互の距離を測ることに成功した。ギリシャの天文学者は太陽と恒星と惑星は不動の地球のまわりを回るとした。プトレマイオスは周転円で惑星の逆行運動を説明した。16世紀にコペルニクスは宇宙の太陽中心モデルを作った。ケプラーはテイコの観測結果を用いて惑星は円ではなく楕円軌道を描くことを示した。ガリレオは望遠鏡によって木星に衛星があること、太陽に黒点があること、金星には満ち欠けがあることを示した。コペルニクスの説を奉じたイタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノは宗教裁判所によって死刑を宣告され、猿ぐつわを噛まされ杭に縛り付けられ焼き殺されたし、ガリレオは宗教裁判所に捕らえられて地動説撤回を強要されたが、太陽中心説が支持を増すにつれて科学者を弾圧してきた教会は次第に寛容になってきた。
要約2
レーマーは木星の衛星の観測によって光の速度が有限であることを証明、やがてそれは秒速30万キロメートルであることが判った。アインシュタインはエーテルの存在を否定し、光の速度はすべての観測者に対して一定であると主張した。アインシュタインは特殊相対性理論、次いで一般相対性理論を作り上げた。アインシュタインは静的で永遠な宇宙という条件を満たすために、一般相対性理論に宇宙定数を付け加えた。フリードマンとルメートルは宇宙定数を捨て、膨張する宇宙を認めるとともにビッグバン・モデルを唱えたが、科学者の大半は永遠で静的な宇宙を信じていた。
要約3
1700年代にハ―シェルは太陽を取り巻く星の集団として天の川銀河を示した。1784年にメシエは星雲のカタログを作った。1912年リーヴィットはケフェウス型変光星を調べ、変光周期は実際の明るさの指標になり、変光星までの距離を見積もれることを示した。1923年ハッブルはアンドロメダ星雲内にケフェウス型変光星を見つけ、この星雲は天の川銀河のはるかかなたにあることを証明した。原子は定まった波長の光を放出するが、天文学者はその星の遠ざかる速度によって光の波長がずれる(赤方偏移)ドップラー効果を見出した。1929年ハッブルは多くの銀河の距離と速度の間にほぼ直線的な関係があることを示した。
要約4
ルメートルはハッブルの膨張宇宙の観測をビッグバン・モデルの証拠と考え、アインシュタインもこれを支持して一般相対性理論の宇宙定数を人生最大の誤りとして削除した。しかし大多数の科学者は宇宙の寿命(ハッブルは20億年と推定した)が短すぎるとしてこれを支持しなかった。ビッグバンは今日の宇宙が90%の水素と9%のヘリウムでできている理由は説明できたが、ヘリウムより重い元素が生成されることは説明できなかった。ガモフ・アルファ・ハーマンが予想したビッグバンの名残は発見できなかった。これに対抗して1940年代ホイル・ゴールド・ボンデイは絶えず宇宙は膨張するがその空間に新銀河が生まれるという定常宇宙モデルを提唱した。
要約5
1950年には定常宇宙モデルとビッグバン・モデルにはいずれも決定的な論拠が不足していた。しかしバーデとサンデイッジがアンドロメダ銀河までの距離を修正し、宇宙の年齢は大きい方に評価し直された(150億年+−10億年)。また重い元素は(ビッグバン直後には生成されないが)年取った星の中心部で形成されることが判った。1960年代に電波天文学は若い銀河とクエーサーを宇宙の遠方にのみ発見した。これは銀河の分布は一様という定常宇宙モデル説を否定するものだった。1960年代半ばにベンジアスとウイルソンは宇宙背景放射を偶然に発見した。1992年COBE衛星は宇宙のさまざまな方向から来るCMB放射の微小なゆらぎを捉えた。これら新たに発見された事実のためにビッグバン・モデルの正当性が証明された。
未解明の諸問題
銀河周辺にある星は非常に大きな速度で飛び続けており、銀河内部のすべての星の重力を合わせても周辺部の星をつなぎとめておくには足らないことが判っている。そのために銀河には膨大な量の暗黒物質があって、光は出さないが強い重力で星たちを軌道につなぎとめていると考えられている。その正体は判らないが、ブラックホールを含むMACHOや宇宙全体にしみわたっているWIMPという説もある。
銀河の後退速度は超新星の光度変化からも測定できるが、最近の調査によれば宇宙の膨張速度は次第に大きくなっているらしい。宇宙を暴走に駆り立てている斥力の正体も謎であり、これは暗黒エネルギーと呼ばれている。
これらの問題が未解明のために、宇宙が膨張の末に収縮が始まって、膨張と収縮を繰り返す多重ビッグバンの可能性まで含み、定説を生むには程遠い。当面はウイルキンソン・マイクロ波非等方性検出衛星(WMAP)が高い精度で宇宙のさまざまなパラメーターを測定した結果、宇宙の年齢を137億年(+-2億年)とし、宇宙の構成要素のうち、23%は暗黒物質、73%は暗黒エネルギー、4%が通常物質であることと、測定されたCMB放射のゆらぎの大きさは初期宇宙のインフレーション期に期待される大きさと合致したという事実をもって最新の現状認識としたい。

<哲学> エルヴィン・シュレーデインガーの“わが世界観”*(ちくま学芸文庫)の大要を理解しようとしている。シュレーデインガーは波動力学を完成させて1953年にノーベル物理学賞を受賞したが、これ*は彼のほとんど独立した(というか、彼にすれば根源的な)業績である。前記の冊子の始めの部分に付せられた彼自身の著作による“自伝”によれば、それは3年余を費やした波動力学とは異なり、彼の終生のテーマであった。
形而上学(metaphysics)という言葉が冒頭に出てくる。今の日本では滅多に使われなくなった用語だが、これを辞書で確かめると、物理学が対象の振る舞いの法則を考えるのに対して、形而上学は法則が存在する理由を問う、最も根本的な概念や信念の研究とあり、原語から推せば、“physics”(物理学)に対して“meta”(超・高次の)の立場をとる。これからすれば物理学の一分野である波動力学を創ったシュレーデインガーがその基である形而上学(即ち世界観)にこだわったのは当然であった。
カント(形而上学と同様に最近は引用されることが少なくなった哲人である)が言ったようにすべての思弁的な形而上学を消し去ってしまうのは容易なことで、この聖なる空中楼閣は一吹きで消し飛んでしまう。しかし我々がすべての形而上学を除去してしまえば、どんな専門科学の極めて限られた分野でも明瞭な説明は不可能になるだろう。即ちこれを廃棄すれば、芸術と科学は生気のない骸骨になってしまうだろう。−これが彼の説く世界観の存在理由である。カントは“純粋理性批判”で現実から離れた独断的・思弁的な形而上学を排撃したし、シュレーデインガーもそれに同意しているが、彼の説く形而上学は自然科学と相補的で我々の認識に不可欠なものとしている。
シュレーデインガーの抱く根源的なテーマは次の四つであった。
@ 自我は存在するのか。
A 私とともに世界は存在するのか。
B 自我は、私の死によって消滅するのか。
C 世界は、私の肉体の死によって消滅するのか。
彼はこれらの命題を解決すべく長く悩んだ末に、インドのヴェーダンタの哲学にたどり着いた。如何なる自我も単独ではあり得ない。自我の背後には肉体的事象と精神的事象の途方もない連鎖が広がっているのだ。自我が先祖のできごとから生じたというよりは、自我は先祖のできごとと同一なのである。自我は誕生によって創造されたのではなく、深い眠りから目覚めたのである。どんな思想も決して(従来と無縁な)新しい萌芽などではなく、太古からの生命の樹にやがて花咲くべき芽であると言える。個々の個体発生においては、その個体の有する特殊性のみが意識化されるのである。身につきつつあるものは意識的なもので、身についてしまったものは無意識的なものである。
われわれの意識的生活はすべて、昔から引き継いできた自己と永遠に対立しながら発展してゆく、進化上の闘争なのである。エゴイズムの放棄は人類の発展過程においてまさに進行中であり、自然法則の必然性ゆえに必ず実現される変革である。蟻や蜜蜂のように長い共同生活を形成してきた生物たちははるか昔にエゴイズムを放棄してしまっている。人類は歴史的にはるかに若く、ようやく始めたばかりだが、この徴候は倫理的な価値判断が果たす生物学的な役割である。エゴイズムを取り除かずに国家形成をしようとする動物は、やがて滅び去るであろう(cf 北朝鮮政権)。
シュレーデインガーはウバニシャッドの梵我一如の教義に共鳴し、生涯を通じてこの根本的な確信が万人に共有されるべきだという信念を貫いた。それは自我と世界との合一であり、さまざまな事象を統一的に理解しようとした彼の努力の成果であって、“我が世界観”の根幹をなしている。彼は合理主義的な考え方と神秘主義的な考え方を並存させてもっていた。物質世界の力学や時空構造を追及するすぐれた論理性をもつ一方で、情熱に満ちた詩集を作り上げる素晴らしい感性を備えていた。なによりも彼はエゴイズムを嫌い、倫理の尊さを主張した人でもあった。

<待った> 囲碁棋聖戦は山下敬吾棋聖が依田紀基挑戦者を4:2で退けてタイトルを防衛した。第6局は熱海で3月10〜11日に行われた。二人の対戦は毎局持ち時間一杯に使うから、テレビ放映は形勢不明のままに予定時間が来てシリ切れトンボになってしまう。N.H.K.の衛星放送は国会が委員会を開催していればそちらを優先するし、囲碁界第一の関心事であるタイトル戦が決着を迎えるという大事な時に、臨機応変の扱いをすることもなく、(こちとらにすれば)どうでもよいような次の番組のためにゲームの進行度合いに関係なく時間が来れば打ち切るセンスのない運営をやっているから、特に今回の第6局については肝心の勝負どころが完全に放映時間からはみ出してしまった。解説の武宮9段によれば白番山下は何度も勝機を逸していて本局はどうやら依田有利という観測だったが、武宮は後述の山下の強烈な手段を見ておらず、翌日には2目半の白勝ちと出ていた。
前の第5局といい、第1,2局といい、山下は不思議な粘りをもっていて、中盤の終り頃にはどうやら負けらしいと思われる碁を抜け目なく拾っている。あるいは賞金4000万円と言われる高額のタイトル料に依田が固くなって冷静な判断力が鈍ったのかも知れない。最終局について小林九段の解説を聞くと平凡な応対では足りないと見た山下が活きられる右上隅を捨てて左下の黒に常識を超えた形で襲いかかり、そのカラミで左辺中央の黒石を効率よく召し取り、更に左下の黒を攻めて下辺に相応の地を確保した。その後右辺中央から左方へ向かおうとする黒石の連絡の不備を突いて切断、リードした。この間依田は相手だけに打ち回されている。山下の思考回路は我々素人とは明らかに違う。手順の妙というか、碁は相互に着手するものだから一方を取れば他方は譲らなければいけない筈がいつの間にか相手より多くを手に入れている。その辺のからくりは序盤と中盤初期に筋書きを仕込んでいるように思われる。プロが舌をまく攻めを秘した不思議な芸である。
最近は自分ではあまり打つ気がしないので、専ら強いアマの対局を観戦して楽しんでいるが、岡目八目という言葉もあるようにヒトの碁は慾得なしに見ているだけに設けられた陥穽がよく判り、ああは打たぬ方がよいなと見ていると、吸い込まれるようにそっちへ打ってしまうということがよく見受けられる。この頃多分対局ソフトの不具合が原因だと思うが、一手打った後で打った相手が中押し勝ちという表示が出ることがある。操作ミスもからんでいるのかもしれない。一方がやや優勢になった直後に“この対局は中断されました”と表示が出ることがある。これも興醒めである。多分劣勢になった方が中断ボタンを押したのだろうが、これは味が悪い。或いは自分に急用がdきたのかも知れないが、いさぎよく“投了”処理をすべきだ。そうしないと相手も気分が悪いだろう。
プロでは許されないことだけれど、素人どうしの碁の場合に1回だけ“その手待った”を許すルールを採用してみるのも面白いかもしれない。何手もさかのぼるのでは興醒めだから待つのは1手だけとする。周到に準備をして最後に“あっ”と言わせる打ち方をされたらダメだが、そういうのは矢張り技量が違うか、やられる方の用心が悪いのである。うまく待ったをされるとお返しをする機会を逸して口惜しがることもあるだろう。それはそれで面白いし、ゲームとしてのアヤが増すかもしれない。この頃のインターネット対局は持ち時間制限をしている場合が多いが、そういう場合は待ったの処理を含めて時間は加算していけばよいだろう。多数の石を打ち抜かれた後でマニュアルで一手復元するのには思わぬ時間がかかる恐れがあるから、盤面上の一手待ちの復元機能は自動で処理するのがよいと思われる。嫌いなら待ったを許容しないルールを選べばよい。あくまでオプションである。
暇人は詰まらぬことを考えるものだと笑ってください。世の中楽しくないことが多いから、たまには肩の力を抜くためにこういう毒にも薬にもならない提案ばかり募集するところがあってもよいのではないか。

<戦争の必然性> 戦争はその発生の事情こそ変わるが決してなくならない。凡そ80%の人は“戦争はいやだ、二度としてはいけない”というのだが、今読んでいる本 “戦争 プロパガンダ10の法則”(アンヌ・モレリ、草思社)は国のリーダーが如何にして世論を参戦に同意させるかのいくつもの例を挙げている。それはマスコミを利用した一方的な宣伝であり、実利的な判断、自分側に不利な情報は伏せられる。戦争開始の度に為政者は誰でも次のように言う。“我々はひたすら平和を希求してきた。しかし我々の忍耐力にも限度がある”と。
@ 敵が先制攻撃を仕掛けたー米国の世界貿易センター・ビルへの攻撃
A 敵側が一方的に戦争を望んだービンラデインのテレビ放送
B 敵のリーダーを悪魔扱いするーサダム・フセイン、ミロシェヴィッチ
C 我々は偉大な使命のために戦うー湾岸戦争
D 当方は紳士的に対応していても、敵は不当な残虐行為を行う
E 敵は卑劣な兵器や戦略を用いる
F 我々の被害は小さく、敵の被害は甚大―NATOの対ユーゴ戦
G この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である。―ブッシュ米大統領
戦争が終わる度に我々は自分が騙されていたことに気付き、次の戦争が始まるまでは“もう騙されないぞ”と誓うが、戦争が再び始まると、性懲りなくまた罠にはまってしまうーと述べられている。
今また北朝鮮をめぐってキナくさい匂いがしてきた。定例の米国―韓国の合同軍事演習に対して韓国民間航空機の安全を保障しないと言い、長距離ミサイルの発射とそれが人工衛星周回を目的とすることをほのめかし、これに対して米・日・韓がそれは国連決議に反すると指摘し、米国がそのようなミサイルが発射された場合は迎撃ミサイルで撃ち落すことがあり得るとの報道に対しては、北朝鮮軍部はそのような場合は我々に対する宣戦布告と看做し、日米韓三国に対して容赦のない反撃を開始するという声明を発表した。米日韓の中枢を攻撃するという。互いにどこまで本気か判らないが、相互の強い反感はエスカレートされる危険があり、こんなことから本格的な戦争が勃発する危険もないとは言えない。
6カ国の枠組みで北朝鮮を核武装から引き離すという構想は次第に実現性が薄れてきた。ブッシュ前米大統領の悪の枢軸発言は尻つぼみになってしまったし、オバマ新大統領は大不況対策に懸命で、外交政策はまだ様子見の段階である。北朝鮮がこの段階で暴発する可能性は高くはないが、戦争を忌避しないこの国は何をやるか分からない。国と国の敵意がぶつかれば、人間のさがとして常識では考えられないことが起こる可能性はある。

<パチンコ> テレビで紹介したのだが、ごく昔のパチンコ台を集め、修理して骨董品並みのものばかりを何とか動くようにして並べて店を開くというどこか地方の町が話題を呼んでいるという。子供たちに前人気が出ているらしい。
これで思い出したのは私自身の体験である。戦後間もない昭和22〜23年の頃パチンコが流行しだして私が中学に通っていた岡崎にも入ってきた。学校帰りに菅生川にかかる明大寺橋のふもとにできた小さなパチンコ屋に一人でよく行った。台には10ケ近くホールが設けてある。入ると一度に最大15ケぐらい玉が出るホールが中央に1ケ設けてあるが、そういうのはピンで厳重にガードされていて容易には入らない。周辺のホールは入っても3ケか5ケしか玉が出ない。当然各ホールには出る玉数が表示してある。中央は狙っても無理に思えるので、周辺の小ホールを狙うことになる。比較的よく入るのだがうまく出来ていて入る確率が出る玉の数より僅かに劣っているためにジリ貧になり、やがて最初に買い求めた玉を全数すってしまうと、ヤレヤレと其の日は終りにするのが定例だった(冒頭の写真は昭和23年に発売された正村ゲージという素朴な形式)。
僅かな小遣いしか貰っていなかったが、他に使うところはなかったので月に何回か行って決まった額だけ玉を買っては消費して帰った。店はいつも空いていてロクに客は入っていなかった。パチンコ屋の隣に同学年の友人が下宿していて帰りにたまにそこへ立ち寄ったこともある。高校になってからは飽きて、行く頻度が減った。年とともに次第に台のホールの数が減ってきて、代わりに3ケ、5ケなどというケチな数を出すホールはなくなってきた。攻略しようと努めたが毎回失敗した。長持ちするか短時間で終わるかの差だけだった。いつも行くのは独りだったし、パチンコのことを人に語ったことはない。
今“昔のパチンコ”でネット検索しても“昔”違いであの当時のような素朴な台にはとてもお目にかかれない。勿論電動の“で”の字もなく純然たる機械式で玉の転がる音以外には音も光もなかった。入った時にも玉がゾロゾロ出るわけではないから景品交換のために玉を持ち運びするための大型のプラスチック・ケースもなかった。全く素朴だったのである。唯一今でも変わらぬものは玉のサイズで、直径11mm、重さ5gのパチンコ球と呼ばれる鋼球である。打ち方も今では左手を添えて右親指でレバーを引くと自動的に玉が発射されるようになり、機関銃を撃つようだ。私はそういう時代に入ってからは全く遠ざかってしまったから、現代パチンコで勝つポイントを知らないし、それを語る資格もない。だがエレクトロニクスがパチンコ台を如何に目覚しく進化させたか、それはWikipediaを読めば詳しく叙述されている。大体このゲームは日本以外ではほとんど流行しておらず、台湾と韓国の一部にしかないらしい。だが日本のパチンコ業界の就業者に占める在日韓国・朝鮮人の割合が高いとみられ、日本に約1万6000〜7000店ほど存在するパチンコ店の経営者に占める割合は7割から9割とも言われている。一方で年々進化する台の製造に関しては日本人の独壇場であろう。こういう装置こそ日本人が最も得意とするものだ。
最初はコリント・ゲーム(こどもの頃よく遊んだ)を垂直に立てた形で発想され、1930年に名古屋で第1号が誕生した。戦争で中断したが1946年の終戦直後に復活した。矢張り発祥は名古屋なのである。私が通った中学・高校生の頃は玉1ケ1円だったのが今は1ケ4円、即ち100円で25ケになっている。歴史に従って機能の進化を見る(最近は全く現場に立ち入っていないので実感が沸かないが)と、高速度連射機能(1953年、但し一旦禁止になったが後に復活してレバーを押し続ければ0.6秒に1発玉が発射される)・チューリップ機能(1960年)・盤面のファッション化・電動式ハンドル(1972年)。機能にからむ用語としてフィーバー・リーチ・ダブルリーチ・連チャン・時間短縮などがあり、詳しく知らないがいずれも稼ぎを増す機会を増して相場を高め、射幸心をそそる。0.6秒に1発玉が発射されるので250発(1000円)は2分30秒で無くなる。熱くなって開店から閉店まで回し続けても出なかった場合、約20万円を消費してしまう。数万円の負けは一般的であり、長期的に数百万円以上を失う人間が後を絶たない。物事はほどほどにしなければ。この業界の年間売り上げは27兆4550億円(2007年度)だそうで、これだけ聞くと外国人は日本人というのはどういうバカな人種かと思うだろう。私はそうは思わない。

<学問のすすめ> 福沢諭吉については既に2004年10月の<福沢諭吉>と2007年2月<福翁自伝>にかなり書いているが、今回は彼の有名な著書“学問のすすめ”(岩波文庫)に目を通し、彼の思想と時代背景について所感を述べる。まず巻末の小泉信三による解説(小泉は“解題”と称している)がこの著者の内容とその性格、並びにその世に与えた影響力の強さについて如実に教示しているので、その辺りから紹介しよう(写真は築地の福沢邸跡)。
“学問のすすめ”は明治5年2月から明治9年11月まで、福沢の39歳から43歳までほぼ5年にわたり、断続しつつ出版された前後17編の著述の総称であって、切言痛論、揶揄翻弄、明治の人心を刺激啓発して封建的旧物打破の業をなさんとしたもので、福沢の著書の中でも第一に挙げられるべきものとしている。この書は初版凡そ22万部で、全集緒言によれば“毎編凡そ20万とするも17編合して340万冊は国中に流布したる筈なり”とあり、この書の売れ行きが古来稀有のものであって、如何に当時の人心を動かしたか察するに余りがあると記している。当時福沢は既に“華英通語”、“西洋事情”、“雷銃操法”、“西洋旅案内”、“西洋衣食住”、“窮理図解”、“世界国尽”等を著して日本第一の著述家になっていたが、これらはいずれも西洋事物の紹介か新知識の普及を主眼としており、現存のイデオロギーを攻撃批判する思想闘争とも言うべきものは“学問のすすめ”をもって嚆矢としている。
福沢は自らも巻き込まれた維新の政変に対して元来熱情的では決してなく、前途を悲観し混乱の行く着く先は亡国の破目に至るであろうと主取り仕官は一切御免という気分が動かしがたいものになっていた。ところが維新後明治政府が着々と実行した革新政策は意表を突くものであり、殊に明治4年の廃藩置県は福沢ら文明主義者を狂喜せしめるものであった。洋学を教え、著述翻訳に勤めて自らの生計を建てればよしという消極的な気分から、新政府の果断な実行を見るに及んで新しい希望と思想をもって新日本の思想的指導の任務を自らに課する気持ちに進んできた。“コリャ面白い、この勢いに乗じて更に大に西洋文明の空気を吹き込み、全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明国を開き、東に日本、西に英国と、相対して後れを取らないようにできないものでもない”と第2の誓願を起こして“学問のすすめ”に手を付けたーという。
しかし最初からこのような遠大な計画と抱負をもって着手したわけではなく、旧友に学問の趣旨を示したものを人の勧めに従って公表したのが第一編で、続刊は考えていなかったのが、思わぬ好評に次々に新たに刺激を受けた問題を採りあげて遂に17編にまで至ったというのが実情である。このように最初から全体構想を描いてスタートした事業ではなかったが、全編を貫く思想そのものは福沢の生涯を通じての信念だった。なお福沢が勧めた学問とは新しい実学(福沢愛用の熟語だった)であり、旧来の漢儒の学を対照的な虚学として軽侮した。実学の“実”とは思弁的・浮文的な儒学に対する実証・実用を意味し、ある時は実学に振り仮名をして“サイヤンス”といった。
“学問のすすめ”の本文には問題点を追及するのに急で必ずしも名文とは言い難い部分もあるし、内容的にも複数の編にわたって重複した記述が見受けられる。新時代に即しての様々な懸念の中には今となっては“案ずるより生むが易し”と言いたくなるような早期に解消した懸念もある。当初意図した各編ごとの論及はやめて、現在にもおろそかにできない要素や福田独特のユニークな主張を中心にして以下に取り上げてみる。
○ 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。しかし現実の世の人間に賢愚・貧富・貴賎が生ずるのは学ぶと学ばざるの差によるのである。世に無知文盲の民ほど憐れで憎い者はない。無知は不徳につながり世を乱す。愚民の上には苛き政府も必要になる。学ぶ際に勤むべきは日用に近き実学である。物事の道理を抑えて今日の用を達すべきである。時勢を察するのも学問である。文字を読むのは学問のための手段であって、実用に役立たなければ飯を食う字引に過ぎない。国のためには無用の長物、経済を妨げる食客である。
○ 人は生まれながらに同等である。同等とは権理通義(生命・財産・名誉)が対等ということで、これは個人と組織についても通用する。例えば政府と人民とはそれぞれ定められた約定に従って職分を尽くすのであって、税金を納めている人民を保護するという政府の当然の職分に対して御恩などという必要はない。
○ 凡そ国民は一人の身で二箇条の勤めあり。其の一の勤めは政府の下に立つ一人の民たるところにてこれを論ず。即ち客の積もりなり。その二の勤めは国中の人民申し合わせて一国と名づくる会社を結び社の法を立ててこれを施し行うことなり。即ち主人の積もりなり。故に一国はなお商社の如く、人民はなお社中の人の如く、一人にて主客二様の職を勤むべきものなり。第一 客の身分をもって論ずれば、一国の人民は国法を重んじ人間同等の趣意を忘るべからず。国の政体に由って定まりし法は仮に愚なるも不便なるも、妄りにこれを破る理なし。国法が不正不便なら政府に説き勧めて静かにそれを改めるべし。第二 主人の身分をもって論ずれば、一国の人民は即ち政府なり。その故は人民悉皆政(まつりごと)をなすべきものにあらざれば、政府なるものを設けてこれに国政を任せ、人民の名代として事務を取り扱わしむべしとの約束を定めたればなり。故に人民は家元なり。また主人なり。政府は名代人なり。また支配人なり。政府たるものは人民の委託を受け、その約束に従って一国の人を貴賎上下の別なくその権義を守らなければならない。人民は既に一国の家元にて国を護るための入用を払うはその職分なれば、この入用を出すのに不平を言ってはならない。
○ 国の文明は形で評価してはならない。学校・工業・陸軍・海軍、みな面目を改め形だけは整っていくが、先進諸国に比してその内容は薄弱で、人民独立の気力が充実していない。何故かといえば従来千年以上前から国のすべての組織に政府の関わらないものはなく、人民はその指図に従っているだけだった。政府は昔力を用いて強いたが今では政府は力と智を用い、民は昔政府を恐れ今は政府を拝む。こういうことでは人民の気力は一段と失われ、文明の形は整っても精神は衰えるだけである。こう考えると国の文明は上の政府が興すのではなく、また下の小市民からでもなく、その中間層から興って大勢の向かうところを示し、政府と並び立って始めて成功が期せられるのである。この“ミッヅルカラッス”の地位にいて文明を主唱すべきは学者の類なのだが、現状は官途に赴き些末の事務に奔走するか、政府に依頼して自らは傍観している者が大半なのは痛哭すべき事態である。学問は事をなすための術で、実地に接して事に慣れなければ決して勇力は生じない。我が社中意あるものは凡そ文明の事件を悉く私有となし、国民の先をなして政府と相助け、薄弱な独立を不動の基礎に育成して他国にいささかも譲らぬようにする。このように官業に譲らぬ民業の育成が文明の正常な発展のためにあらゆる分野で急務である。
○ 政府は国民の名代として罪ある者を捕らえ罪なき者を保護する職分がある。国民は法に基づきそれを犯す者を捕らえ、死刑にもする権柄を政府に任せたのだから、これらに国民は決して手を出してはならない。徳川の時代に浅野家の家来、主人の敵討ちとして吉良上野介を殺したことがあった。世はこれを赤穂の義士と唱えたがこれは大きな間違いではないか。双方の喧嘩なのに一方の内匠頭のみに切腹を申付け他方は無罪というのは不正な裁判だが、何故その不当を政府に直接 申し出なかったのか。政府は容易にはそれを認めないであろうが、47人の家来がたとえ殺されようが次々に訴え出れば遂にはいかなる悪政府も裁判を正したであろう。国法を犯して上野介を殺したのは私裁であって断じて赦されないことである。幸い政府が乱暴人を刑に処したから無事収まったが、もし赦したら吉良家と赤穂家の間で果てしのない敵討ちが続いたことだろう。私裁の極限が暗殺である。天下古今暗殺によって世間の幸福を増した例はない。諭吉は私塾で発生した不都合な裁判の例を挙げているが、それでも法には服さなければならないと説いている。
○ 事物を疑って取捨を断ずる事 信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。
試みに見よ、世間の愚民、人の言を信じ、人の書を信じ、小説を信じ、風聞を信じ、神仏を信じ、卜筮を信ずる。人に行われる真理の多寡を尋ねれば答えて多しと言うべからず、真理少なければ偽詐多からざるを得ず。文明の進歩は天地の間にある物の働きの趣を詮索して真実を発見するにあり。その源を尋ぬれば、疑の一点より出でざるものなし。ガリレヲ、ガルバニ、ニウトン、ワットなどを挙げ、いずれも皆疑いの路に由って真理の奥に達したるものと言うべし。しかれども東西の人民、風俗を別にし情意を殊にし、数千百年の久しき、各々その国土に行われた習慣は、仮令利害の明らかなるものと雖も、頓にこれを彼に取りてこれに移すべからず。況やその利害の未だ詳らかならざるものにおいてをや。これを採用せんとするには千思万慮歳月を積み、漸くその性質を明らかにして取捨を判断せざるべからず。
読後の感想:使われている言葉が今から僅か百有余年の差ではあるのに、ずっと昔の時代の所産のように感ずる。洋語をカタカナにして日本文の中に取り込むのは現代でもやることだが、福沢氏の場合は恐らく(日本で)初めてに近かったであろうし、ほとんどは(カナとしては)氏の造語であろうからその意味でことばが熟していないための違和感があるのはやむを得ない。また当時は現代語(口語体)は生まれていなかったから当然ながら文語体である。氏としては最大級の努力で読みやすい言葉を選ばれたに違いないので十分に内容を理解できるが、現代文を読みなれた立場からの違和感はやはり払拭はできない。
内容は今の我々からすれば大部分は常識だが、当時の日本人には在来の儒教思想からは革命的であり、歯に絹着せず決め付けられて“新しい時代とはこういうものか”と、さぞかし冷水を浴びせられるようにショッキングだったに違いない。当時の中国や朝鮮が日本の如くには華麗に変身できず時代の荒波をまともに受けたのはむしろ当然であって、福沢氏の目のさめるようなこのアドバイスでもなければ日本人だって間誤付いて醜態をさらすところだっただろう。赤穂浪士を非道徳の犯罪者に決め付けたのもその一環で痛快だった。特筆すべき点として、−凡そ人間に不徳の箇条多しと雖も、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし。貪婪・奢侈・誹謗の類は、何れも不徳の著しきものなれども、よくこれを吟味すればその働きの素質において不善なるにあらず。−と述べて、怨望の禍、恐怖すべきにあらずやと強調している。