3月の話題


2000年3月


<鎮魂賦> 大学時代の友人Y氏が他界した。 久々に用事があって電話し奥さんから2週間ほど前に亡くなった旨告げられる。肺癌とのこと。 唖然として3月ほど前に電話した時電話口の声に元気がないのでどこか悪いのかと訊ねたところ、いやたいした事はない旨答えがあったのにと話すと、本人は病気のことを他人に言いたがらなかったのですとの奥さんのお答えであった。 昨年初頭から交換し始めた電子メールを調べてみると8通、それが前半に集中し、4ヶ月ぶりに以下の(最後の)メールが来てその4ヶ月後の訃報である。
パソコンに触わる事が出来ないで居たが、久し振りに いじれる。
貴ホームページにも、懐かしの御対面だ。
ー中略ー
体調で返事を発信するのに難渋するのなら、reply 不要だよ!
じゃあ また。
途中の結構長い文章はユーモアもあり健康の不安を一切感じさせないものだが、改めて見ると冒頭と最後の文はまさしくひっかかる。今から考えると入院治療をしていたらしい。当時私も足指の血栓に悩み自分にかまけてこれを書いた本人の心情を推察できず、メールの間隔が開いた異常にも気付かないで、問い返しもしないで見過ごしてしまったのが悔やまれる。彼は自分の病気の話をして不毛ないたわりの言葉をもらう煩わしさを避けたかったのであろう。奥さんの話では退職直後から病気が進行し始めたようだとのこと。長い会社勤めに慣れた身体は全く異なる環境に適応しきれぬ内に若い頃からのへヴィー・スモーキングの報いを受けたのか。私の随筆への感想でも最も自分の発想を理解してくれる友人と見なしていただけに、自分にとって不意を突かれた死去の現実を認めざるを得ない心の痛みは強い。しかし離別の苦渋の時をもつのを敢えて避けて逝った友の心情は痛いほどによく分る。頂戴したメール全文をまとめて保管することにした。この随筆をホームページに掲載するように勧めたのも彼である。生前の交誼に改めて感謝し、月並みな言葉だがご冥福を祈る。

<川柳> 俳句と川柳の比較解説をした冊子を読む。 松尾芭蕉は俳句よりは連歌において他の追随を許さぬ芸を誇ったという。連歌はご承知のように五・七・五の十七音と七・七の十四音を交互にくりかえすものだが、連歌の冒頭に發句があり、季語と切れ字をもって後に続く平句と区別した。十七音の内前者が子規などによって現代の俳句へと発展した。連歌と同じようでも俗言を構わず使ったのが俳諧とよばれ、庶民性と滑稽性の文芸となった。これが柄井川柳以来幾多の変遷を経て平句で切れ字がなく、前句などを切り離して季語がなくても構わぬ独立の十七音として川柳に発展した。 松岡子規は自然の写生として季語のある文芸・俳句の位置付けを行ったが、川柳は「笑い」に風刺、皮肉を加味して自然より人間性を対象の中心に捉えた。今NHK衛星テレビでも毎週俳句の時間があって味の有る議論を戦わせているが、一方毎日新聞など毎日10句あまりの川柳を載せている。最近の私は肩のこらないこの川柳を毎日のように愛読している。高尚な自然観察もよいがやはり人間くさい方が面白い。

<注意力> 囲碁のゲームで重要なのは石の働きについての感覚で、これが悪いととても高段者とはいえないが、もう一つは石の接続などについての注意力がよいことが大切である。ところが私の場合これが平均一局に二度ほど突然欠落する。いわゆるポカである。後から考えればあそこは当然あの一手というところで魔が差したように別のところに手が行く。反省してみると相手の応手はあの一手と直感的な先入観で決めつけていて、他の手の可能性を無視してしまうのだ。碁を打ち始めるときにはくれぐれも注意深く打とうと自戒しているのだが、当方だけで平均1局100手を超える着手の中にいつのまにか真空地帯が生じてしまう。鬼の如く連勝を続ける(ポカがなければ多分そうなる)のも趣味の世界で大人気ないから結果として勝ったり負けたりになるこのポカも愛嬌ではあるが、相手が明かに力の弱い低段者相手にもしばしばこれをやり、人よりこのポカが多いのに近頃痛く反省している。注意力養成のためにパソコン付属のゲームを1日1時間強実行して、願わくはポカが半減(全くなくなるなどと不遜なことは云いません)しますようにと祈る気持ちである。

<女のさが> テレビのいわゆる朝ドラを観ていて気が付いた。女の中には自分の亭主の生き様について全部とは言わぬまでもかなり大きな部分であからさまに注文をつけて、それが実現しないとどうにも我慢できないできない人が居る。どうにも賢いやり方とは云えないが本人にはそれが分らない。こうなると執念深くなるから男の方も頭から逆らうと収拾がつかなくなるので面従腹背と行く。それがまたピンとくるから諦めるどころか清姫のごとく追いすがる。それは無理というものだ。匹夫の魂奪うべからずということがある。男は概してあっさりしていて、逆注文とかそういう執念深いことはしない。それがまた癪にさわるらしいので始末におえない。

<原田泰治の世界> 黒柳徹子の部屋はウイークデイの午後に個性のある著名人を一人づつ招いては、彼女らしい視点で招待客の特徴ある業績を紹介していているロング・ランの番組だが、ここに日本の童謡百選に添える絵に挑んだ原田泰治が登場した。モネの「印象」などとは正反対で、決して手を抜かずバカ正直とも思われる丹念さで草や木の葉、屋根の瓦や石垣の石を省略せず繰返してビッシリ画き込む画風が作品の最大の特徴とされた。絵としての構成が必ずしもバランスがとれているとも云えない。こういう技法自体はあまり芸術らしくないようにも思うが、塗り絵的な単色の組合せによる鮮やかな色彩効果と、絵を見る人に与えるほのぼのとした情感は個性的な点でこれを芸術と言わずして何をそう評せるか。とにかく頭の中の風景でなく、徹底的に現地へ行って童謡に合う風景を捜し求めて(写真に撮ってくるらしい)画くということを力説していたから、こういう変った人が生涯の事業として作成した絵本も面白そうだと買い求める事にした。15000円という本の値段にも驚いたが気安く持てないほどの重さも流石だ。本を開くと右のページに童謡、左のページに絵という装丁である。日本は海に囲まれてもいるがつくづく山国だと感じた。都会とは正反対の、中途半端でない田舎が1枚1枚画きこまれている。そこにはビルとか乗用車とかテレビのアンテナのような現代を象徴するものはほとんど描かれていない。昔から連綿と続いてきた日本が、農作業をする人たちと戯れ遊ぶ子供たちとしてこれでもかとばかり描かれている。一つだけ例外的な文明の香りは鄙びた風景にマッチした電車や汽車がしばしば登場することだ。作者は子供の頃から鉄道が大好きだったに違いない。鉄道は戦前からあったし古き良き日本の範疇からはみ出さないのだ。

<芸術> フルート奏者山形由美が言う。同じ曲目を何度演奏しても毎回微妙に変ってしまう。全く同じ演奏というのは絶対にできないと。陶芸も同じで作者も意図しない予期せぬ色合いの変化が面白い。そう言いながら彼女が鑑賞するのは文字通り"窯変天目茶碗"。茶を喫するならこういうものが好い。

<M.S.WORD> 以下は愚痴であり、マイクロソフト製のワープロ・ソフト(そうは言っても日本語だからソフト開発に参加した日本人に大部分の責任があるとは思うが)M.S.WORDへの悪口である。長い文章を書いている内に突然行間が1段おきに広がった。それを直そうといじっている内に「この文書は不正処理が行われたので強制終了します」とメッセージが出て折角苦労して追加作成した文章が保存できずに消えてしまった。仕方がないのでもう一度追加前の文書を呼出して何とか文書を追加作成して上書き保存しようとすると、!マークとともに「このファイルは他のアプリケーションまたはユーザーが使用しています」と注意書きが出て受け入れられない。それではと"ファイル名を付けて保存"を選ぶと今度は「このファイルは読取り専用です」ときた。特に心当たりになるような操作はしていない。頭へ来てその日は何をやってもダメだとパソコンを終了して寝てしまい、翌日起き出していろいろやってみると今度は異変は起きない。でも不信感だけは残る。十分にマニュアルを読んでない自分も悪いが余計な機能がありすぎる。そのくせ日本語ワープロに必要な漢字ボキャブラリが全く貧弱だ。以前にマックを使っていたが、これに付属していたイージー・ワードはソフトの重さは軽かったが必要な機能は備えていて使いやすかった。O.S.の関係で制約されるのは面白くない。

<レコン> 青海省同仁ではチベット族が住民の90%を占めるそうだが、386人の絵師が参加して祖先から伝わる民族説話を4年の制作期間をかけ、寺院の壁に総延長618mの大絵巻(レコン)を仕上げた。下を向いて自由な姿勢で制作するのに比べて壁画は位置の制約で姿勢も楽ではないし、油断をすれば顔料は垂れ落ちる。暑い時も寒い時も屋外と大差ない環境に耐えなければならない。こうした苦労の末に壁画が完成した時に制作に参加した人々の顔は皆純真で明るく輝いていた。昨今中国共産党指導部の民族同化政策が一段と押し進められているが、民族自立の心は決して押し潰せないだろう。文化大革命の如き大きな悲劇が再び起らぬことを祈る。

<人工衛星> 毛利衛さんの搭乗し地球を周回する人工衛星からの地球表面の画像が長時間にわたり茶の間のテレビに流された。衛星の軌道は1周ごとにずれて2台のカメラにより地球表面の立体画像を記録した。雲による遮蔽があるから不完全ではあるがいずれデータを整理し世界全土の立体地図が提供されると言う。テレビの画面から海岸線、河川、湖が見分けられるのは自然であるが、珊瑚礁が鮮やかな青色で島の輪郭を形造っているのは印象的だった。また水平線は暗黒の空に青い大気が地球の丸い輪郭を浮き上がらせ、月が黒い空からこの青い帯に没していくのは奇妙な景観である。白い雲は地表の形状に応じてあらゆる形状を呈し、速やかな衛星の移動に見飽きることのない動く画面を楽しむことができた。

<岡崎城> 家康が青年に達して始めて拠った父祖ゆずりの岡崎城は「5万石でも岡崎様はお城下まで舟が着くよ」と唄われる菅生川(矢矧川の支流)沿いの小さな城だが、城内には小さな池がありそのほとりに家康の遺訓を刻んだ石碑がある。私の若い頃に読んで忘れられぬ語は「人の一生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」というものだ。楽しさ甘美さなどみじんもないが、いかにも家康らしいはらに沁みる言葉である。他人はとにかく俺はこれでやってきたのだと。

<民族抗争> ロシアが今徹底的に痛め付けようとしているチェチェンのイスラム教を信奉する民族は自分等の家族が受けた恨みは7代までさかのぼって晴らさなければならぬと言い伝えているそうだ。彼等の死に物狂いの抵抗にロシアは手を焼いている。一方でセルビア人の横暴を抑えるためにコソボに進駐した国連軍は今度はアルメニア系の人たちの報復に引き揚げる時期を見出せないでいる。平和は永久に来ない。

<鶯> 明けるのがめっきり早くなったがまだ寒く起床をためらっていた彼岸過ぎの今朝6時前に庭でうぐいすが鳴いた。4声か5声はっきり「ホーホケキョ」と耳に残った。流石に庭の紅梅は散って枝には花の残滓が残るのみだが、やはり梅の木を訪れたのだろう。もちろん起き出して雨戸を繰った時には影も形もない。しかし久しぶりだったし「ケキョケキョ」という不完全な鳴き声でなかったのに満足を覚えた。

<フラクタル> 大学の同級生で秀才のN教授の著書を同じく別の同級生から貰い受けて読む。中に「成功と不成功、違いはフラクタル」というのがあって、複素数Cを含む2次式(ここで式を書こうと思ったらMACと違ってM.S.WORDの世界では簡単には書けないことが判明)を逐次代入法で求めると計算が収束するかしないかは限りなく複雑に入り混じって予想は不可能であるというマンデルブロー博士のフラクタル理論を紹介し、人生における成功、不成功も運の要素が極めて大きくフラクタルで、その人の価値とは違うというのがあった。まあそういうこともあろうし仲々面白い見方だが、一方で私にはN教授のような八面六臂の活躍はできないしする気もないのも確かだ。その辺はフラクタルではない。


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