
<歩く> 健康保持のために原則は1日1回自宅周辺の街路を歩く。近頃は猛暑を避けて朝起き抜けに出かける。時たま同じように歩いているおじいさん・おばあさん(大抵向こうが年上)に声を掛けられる.近頃は少し腰の曲がった小柄なジイさんによく出会う。平家蟹のような顔が私を見てニッコリ笑うと、邪心がない様子が実にいい。こちらも大きい声で「おはようございます!」と叫ぶ。"私は92歳になるが毎日歩いているお陰でこのように元気だ、雨の日も歩く、歩くのは何にも代えられない薬だ"と言う。脚の血行不良で距離を延ばすと痛みが強まり翌日まで響くから、歩行距離は短くしているが、このジイさんに刺激されてこの夏も休まず歩き通したい。
<靖国問題> アヘン戦争を仕掛けられてミジメに屈服した中国(清)に幻滅を覚え、欧米諸国の尻馬に乗って侵略のまねごとを始めた日本は、いつの間にかまさにいじめっ子がいじめをエスカレートする如く独り侵略戦争に深入りしてしまった。支那ポコペンなどと呼んだ当時の風潮は明らかに相手を軽侮していた。南京でも行き過ぎをやっただろう。
因果は巡って日本は生意気だと逆にいじめにかかった米英に切羽詰って日本が開戦したのとは明らかに立場が違う。この軽侮は韓国に対してはなお強く、近代化もしたが属国化して各所に神社まで建ててしまった。
極東軍事裁判の欧米のやり方には批判もあるが、中・韓両国にとってはまさに溜飲を下げる思いだっただろう。21世紀に及びようやく中国も世界の大国として堂々とふるまうようになったが、150年の苦難と屈辱に耐えた記憶は未だ心中深く刻まれていて、日本が贖罪意識を捨てて自負と軽侮の過去へ逆戻りするのではないかという疑心は極めて強いようである。それは歴史教科書の改ざんに強硬に反対する韓国も同様で、軽侮した方が忘れてもそれを受けた方は一生忘れないということだろう。日本もよいことも色々したのだが何せ相手に望まれてではないから便益は忘れられて怨みだけが強く残っている。
マレーシアのマハテイール首相が日本はいつまで謝っているのかと云うのは当事者でない無責任論で、小泉首相にとって欧米諸国に対しては全く遠慮の必要はないが、中・韓両国に対してはあの横暴な侵略をやった旧陸軍の最高責任者が合祀されている靖国神社を光復節(韓国)に参拝するのは、あれだけ嫌がっている以上遠慮するのが外交の要諦だろう。古くは漢字文化の恩恵を受けた大国である。この歴史問題をアジアでフランクに扱えるようになるまであと50年ほど必要という説がある。そうなれば関係者は完全に死に絶える。
<クール> 少し以前にインターネットで先進的なホームページを訪れると、クールなもの、ホットなものというような分類がでてきて戸惑った.今になって知ったのだが、1960年代にマクルーハンが著書「メデイアの理解」を世に出して当時はまだ出現していなかったインターネットの世界まで予見するようにメデイアの本質を探り出そうとした時に、多様なメデイアをホット(押し付けがましい)とクール(かっこよくて関心をもちたくなる)という言葉で呼んだのに始まるのだそうである。15世紀にグーテンベルグが活版印刷を実用化してまず聖書を写本から開放し、テレビ映像が衛星で世界同時にリアルタイムに流れ始めマクルーハンが「グローバル・ヴィレッジ」と言ったが、このような時の先端メデイアは常にクールであった。現代は本に代ってインターネットがその役割をこなしつつあるが、どのように利用するのがクールかいまひとつ私は掴みかねている。

<本因坊戦> 先月末終了した今期の本因坊戦7番勝負はそれ全体が過去に類例のない魅力的なドラマだった。挑戦者は師匠を林海峰とする若き天才張栩21歳、受けて立ったのは昨年趙善津からタイトルを取ったばかりの王銘えん(王偏に宛)本因坊39歳。同じ台湾出身ながら年齢差もありお互いにほとんど相手を知らなかったという。張がもしタイトルを奪取すれば最若年タイトル獲得の記録になる筈だった。
性格は目下NHKの囲碁番組で講師も勤める王が常ににぎやかで陽気、スポーツ好きなのに対して、張は寡黙で冷徹、趣味は詰め碁造りで運動は苦手と対照的である。
6局までコミがあるのに互いに黒番を入れ合って最終局まで来たのだからまさに互角の戦い振りで、第7局は握りによって黒番は張になった。派手な手はあまりやらず静かに打ち進めようとする張に対し、本棋戦全体を通じ序盤あまり類例のない手を打ち能動的に局面を動かそうとする王がやはりこの碁も仕掛けて、途中冷静に兵を引く機を失して相手の地になぐりこまなければならなくなり、乗るか反るかの争いは一手寄せ劫になった。本来なら一手余裕のある張が有利な筈なのだが、この碁は劫の立て方がむづかしく終盤王の持ち時間がなくなり秒読みが忙しくなる中で、張が何手か打った劫立ての石をまとめて呑み込む形で王が劫を張に譲った瞬間、張の体が大きくグラッと揺れた。立会い記録の盤側の女性が吃驚して一瞬張をマジマジと見つめたほどだった。この際どい折衝は放送時間のなくなるギリギリのところで解説の武宮元本因坊が指摘・予告した通りに進行した。数手後に張は投了したが劇的な終了後の王本因坊の安堵の笑顔は時間切れでテレビでなく翌日の新聞で見た。
王本因坊にとってこの若い挑戦者の天才的な打ち回しを制するのには絶大なエネルギを要したことは疑いないが、私は王の積極的な打ち回しがとても好きだったので彼がタイトルを守ったことに心から祝福を送りたい。張の感情を表に出さぬ白皙な横顔が全局を通じて印象的だったが、彼にとってはいい経験だった筈で健康さえ損なわなければこれから何度もチャンスがあるだろう。
勝負の中で性格の違いがどう作用するか予見しにくいものがある。全局を通じて時間の先になくなるのは王の方で終盤王が自分の着手を悔やんで激しくボヤくが、持ち時間に余裕があり静かな張がこれで相手の心理を見透かして堅実に勝ちを呼び込むかというと、むしろそうではなく張の心も揺れるらしく問題手を打って勝ちを逸するケースが一度ならずあった。王のボヤキが消えた時には実質的に勝負は終わっている。
<五重塔> 最初に本を手にして途中の文章をチラチラと眺めた時、一気にまくしたてている長く切れ目もなく引用符もない文体にとてもスンナリ入り込めない強い違和感を覚えた。幸田露伴の「五重塔」を代表的な職人描写の文学として推奨していたのは永六輔だったと記憶する。露伴が明治24年に世に出した求心性の強い文体の秀作ということで、抵抗感を抱いたまま冒頭から読み始めてみると、意外にスンナリ入っていけて小品なので一気に読み終えた。自分が日本人でなければこうはいかないかとも思った。また随筆などと違ってこういうものは途中から這入ったりしてはいけないと悟った。
上野谷中の感応寺に狷介で頑固、世渡り下手で貧乏暮らしの寺社建築の大工が五重塔を建てさせてもらうに至るまでの如何にも人の世にありがちな関係者の葛藤を描いた話である。期待していた職人の技術の素晴らしさについての具体的な記述はないが、施工依頼者の上人の意向をふまえて主人公が如何にも職人らしいこだわりを貫き通した点が主題になっている。末尾に近く完成したばかりの五重塔をすさまじい嵐が襲う場面の描写は、情熱をこめた画家のカンバスにぶつける荒々しいタッチの如く理性を逸脱した如き表現が続き、文学という枠を越えた芸術の迫力を感じた。人々の憂慮を吹き飛ばして五重塔はかすり傷も負わなかったが、後世に残る名建築の作者がその後どうなったかは定かでない。
<風の行方> 月刊誌「致知」に連載されている表題の記事として小島直記氏の日記を読んでいる。82歳と高齢の作家で二度の癌を患い人工肛門や筋肉痛など様々な日々の肉体的な障害を克服しながら、好奇心を失わず毎日のように人と碁を打ち、寄贈される著名な作家の作品を読み、致知出版社主催の小島直記塾(講座)を開くなど精力的な活動の様が綴られている。正法眼蔵の輪読会に参加する、パソコンでワープロ機能をマスターするなど勉学心はいよいよ盛んである。大相撲は琴光喜と朝青龍を応援(私と同趣好)、アインシュタインが年をとっても偉ぶることなくウーン分らないを連発し、袋小路に入ると始めからやり直していた話に感心し、学歴や肩書きより原点への回帰思考が大切だと言っている。今の私には及ぶべくもないし、先方は私のことなど露ほども知るはずもないが、それでもかけがいのない師である。ご長命を祈る。

<縁側> 古い日本民家の縁側に下駄履きで腰掛けてゆっくりと庭を見ながらくつろぐ風景は心が落ち着く。私は戦時中に一家の縁故疎開で岡崎の外れの農家だった父の兄の元にお世話になったが、それまで都会生活で全く知らなかった農村の真っ只中に入り込んだ。農家は向かって右に寄せて入り口があり、入って右には農機具と風呂場、奥は炊事場で左に同じような大きさの何間かの居間があるが手前に縁側、左の一番奥に仏壇がある。黒く煤けたような家の中で仏壇だけが金ピカなのが子供心に印象的だった。こういう農家の構造というのは概ね類似していて、まるで規格にでも従っているように個性は少ない。旧東海道に沿って家並が続くが道に面する屋敷の巾までほぼ同じである。祖先から譲り受けた田畑は限られたものだから、父のように次男は家を出て行くしかなかった。こういう生活形態が昔から連綿と続いていたのだろうが、終戦を境にして状況は激変してしまいほとんどの田畑は住宅地となり、人々はサラリーマンになってしまった。家の構造も変わり表の庭に面した縁側も消えた。せせこましい家が多く生活の利便さは増しても家並の揃った素朴な美は失われた。つまらん。
<高校野球> 甲子園の高校野球は利害のないこちとらにはあまり興味を惹かないのでテレビのチャンネルを変えて極力敬遠していたが、準決勝の日大三高と横浜高校は共に関東地区の強豪なので興味を覚え観戦を決め込んだ。日大三高のバッテイングは全員力一杯振り切る高校離れの強烈なもので、それを横浜の福井投手が健気に頑張ってしたたか打たれながらも決定的な得点差を許さずによく終盤にもちこんだ。一方の日大三高の近藤投手は球威はかなりあるものの制球が今ひとつで、それにつけこんで横浜はしぶとく加点して遂に最終回四球から流石に球威の落ちた相手投手に2本の3塁打を連ねて同点に追いつき、一死3塁と逆転の絶好機を迎えた。それまで14安打の日大は8安打の横浜に効率よく追いつかれ明らかに浮き足立った。流れはできた、このまま好球必打で行けばいいと思った。ここで相手チームはスクイズを警戒し2球ウエストしたが、横浜監督は構わず次の球にスクイズを命じたところ打者は小フライを打ち上げてしまいダブルプレイで万事窮した。後は意気阻喪した横浜が簡単に加点されてサヨナラ試合となった。
実は7回にも無死2塁で監督は見え見えのジェスチュアで徹底的にバントを命じ打者は3回3塁線にバントをファウルして徒死した。その後四球で1・2塁になると監督は重盗を命じ3塁に刺されて折角の反撃のチャンスを奇策で潰したばかりだった。試合後の監督のコメントは「心配していた弱点が出てしまった。気のゆるみはなかったがどこかに焦りがあったのかもしれない」とあったが、私に言わせればそれはすべて自分のことだ。俺のせいで勝てる試合を潰してしまった、申し訳ないと選手に詫びなければいけない。もちろんゲームは水物、一つ運があればうまくいったかもしれない、然しこの場合は岡目八目。巨人の長島もそうだが、バントは意表を突いてやらないと結果が悪いことが多い。試合巧者と称せられたこのチームの監督は意外に単純で罪なことをするとツクヅク思った。
<再び歴史教科書について> 結局来年度に扶桑社の中学教科書を採用した市区町村立および国立中学はゼロ、全国で0.1%未満という。一方でマスコミに取り上げられたために市販本は50万部を超す売れ行きになった。
マスコミに報道される強い反対者の言辞を聞くと大半はロクに読んでいないし、従来の固定観念に凝り固まっているさまがよく分る。難解だなどという評言に至っては何を甘ったれたことをいうかと叱りたい。昔中学に入った途端に学ばされた"漢文"で覚えた抵抗感に比べればものの数ではない。手取り足取り書いてある。
文春7月号で民主党議員の小泉俊明氏が「歴史教科書を読み比べた」という表題で現在日本の中学の現場で使われている7種の教科書と中国・韓国の国定教科書を通読した上で論じている。人間は体験の中からしか学べない。歴史を学ぶ最大の意義は先人たちの成功や失敗を疑似体験することでの教訓を悟ることで、日本の過去のすべてを罪悪視するやりかたは不適切と断じている。当然だ。扶桑社の教科書が歴史的な人物を多く取り上げ、また物事のプラス面とマイナス面を併記してこどもたちに自分で冷静に考えられるようにしていることを評価しているのは頷ける。
この問題は50年を越える日本戦後の歴史の中で侵略に対する過度の反省がいわゆる自虐史観を生み育ててきたことを考えると、扶桑社の教科書が出現したからといって一気に関係者の考え方が改まって逆転解決とはいかないことはよく分る。だが50万部を超す市販本の売れ行きは日教組に牛耳られた教育委員会の現状をじわりと批判する新たな流れが日本に生まれていることを証している。便利な新製品が普及するのに比べると人々の思想を変革するにはより長い日時が必要だ。この際日をずらせたとはいえ小泉首相の靖国参拝もからんだために解決はなお遅れそうだ。中国・韓国の殊更の反撥を招くのは避けたいが、総じて扶桑社に代表される現状改革の意図を理解・説明することなく、徒にそれを誘発している日本のマスコミの勉強不足はヒドイものだ。

<不景気> 政府が構造改革を進めようとしている矢先にその足を引っ張るように平均株価が記録的な低水準にまで落ち込み、金融機関などの資産は一段と目減りし、失業率は更に上昇の気配が強い。IT産業の凋落は著しくこのほど富士通は12000人の人員整理を発表した。
では景気回復の牽引車となるべき産業は何だろうか。考えて見ると現在の大学工学部で意気軒昂なところがあるだろうか。既存技術でカバーできる産業は軒並み人件費の低い中国・韓国などに肩代わりされつつあるが、このところ新技術に支えられた目ぼしい産業分野が一向に育っていない気がする。私の知る限りロボット産業が唯一有望な分野だが、コスト対効果で近い将来に今ひとつ需要を生む製品に結びつきそうにない。宇宙産業は発展性はあるが所詮は金持ちの道楽だ。ニーズから云えば環境の悪化を防止する諸技術が飛躍的に発展して多額の税金を投入してもその成果に胸を張れるようになるべきだが、今ひとつ冴えないのは強力な政治の牽引力がないからではではないか。
地球温暖化防止方策も地球規模でのエネルギ政策が不明確では竜頭蛇尾になりそうだ。原子力発電の問題点を明確にしこれをこのように解決すればよいというストーリを作成して国際的な評価の場で徹底的に議論すべきだ。単に道義的に米国を責めるばかりでなく具体的にこのように日本や米国はエネルギ政策を転換すべきだという提案が必要なのだ。
金融工学という本を読んだ。高度の数学を使った先進的な理論があるらしい。しかし今の日本や米国で進行する不景気の波を食い止める総合策を作れる人は誰もいないように見える。凡そ局部的な領域で智慧を出す人間は大勢いても、システムを総合的にまとめることについては大抵の人が苦手なのだ。だがこれからの世で真に求められるのはそのような総合化をめざすシステム工学だと信じている。誰かこの分野で目の醒めるような体系化をしてくれないか。それとも足を引っ張ることの好きな人間達には無理かな。