9月の話題


2001年9月

<遊び> ドイツの学者ヨハン・ホイジンガは遊びとは何かを総体的に論じた。それを受けてフランス人ロジェ・カイヨワは遊びを分析して競争・運・模擬・眩暈の4要素から成ると見た。以下カイヨワの受け売りである。用語(カイヨワによる)はギリシャ語かラテン語だが気にしないで欲しい。
 @競争(アゴン) スポーツ競技やゲームがあるが、ここではできるかぎりの平等な競技条件が設定されて競技者の力を競い、外部の力は一切借りない条件で行なわれるから勝利者は文句のつけようのない優越を獲得できる。
 A運(アレア) これは遊戯者の力の及ばぬ運命の判決を待つもので、遊戯者の性向や技量は関係ないが、競技条件の設定には遊戯者のチャンスを平等にしリスクと利益を釣り合わせるあらゆる努力が払われる。勤勉・忍耐・器用・資格や専門的能力・訓練は無関係である。アゴンの対極にある。
 B模擬(ミミクリ) 幻覚とまでは云わなくても架空の状態を造り擬態を演じる。〜ごっこや演劇などで自由・約束・現実の中断・空間的時間的限定を伴い、絶え間ない創作である。昔から仮面が伝わっている。
 C眩暈(イリンクス) 一時的に知覚の安定を破壊し明晰であるべき意識を官能的なパニック状態に陥れる。身体のさまざまな物理的な翻弄により普段抑制されている混乱と破壊の嗜好や陶酔と結びつく。ジェットコースターなどはその典型だ。
 祭は概ねBとCの混交だし、すべての遊びに類する催しにはこのような複数の要素がどれかが濃くまたどれかが薄く存在するが、一方でパイデイア(即興・気紛れ)という極と無秩序さを防止するルドウス(窮屈な規約・面倒な障害)という極があってその両極の中間のどこかに位置するという。
 こういう"遊び"の分析は興味深いもので凡そ人間とは何かという問題の考察にもつながりそうだが、これで完璧かというと私には"アート"という世界が議論から脱落しているように思えてならない。これを制作する立場の人には概ね仕事だが、これを鑑賞する立場の人には遊びである。また制作する人も生計のためにいや応なくわき目もふらずやるというよりは、自分のやりたいことを自分のペースでやるというわがままが結構通る世界でそういう意味では遊びに近い。遊びをしない人は折角この世に生を受けた機会の大半を棒に振っていないか。

<民族大移動> 表題について普通頭に浮かぶのは中世にアジア北部やヨーロッパ東部からヨーロッパ西部へ向けての蛮族の移動で、ヨーロッパ西部に居住し先進的な文化を築きかけていた人々にとっての大いなる脅威となったものを指す。ここではそれよりずっと古い時代に近東に居住していたが、地球環境の変化に促されて遥かアジアを横断しベーリング海峡を渡って米国東岸近くの五大湖周辺に移り住むまでの凡そ3万年、距離にして3万キロメートルに近いイロコイ族の壮大な民族移動の歴史を語り継いだ記録である。
 このほど現存するイロコイ族の末裔が父祖から伝えられたその膨大な口承史を出版した。伝えられるのは海峡の渡りの直前からの後半の部分を主にして「一万年の旅路」(ポーラ・アンダーウッド著・翔泳社)という。彼等は地球環境の変動の中でよりよい環境を求めて移動し生き抜くための智慧を賢い女性を中心に集めて子孫に口伝えにすることを考えつき実行した。
 圧巻は海面の高さ・地形・気候も現在とは違っただろうが、舟などなくただ長い綱だけを頼りにベーリング海峡を島伝いに渡りアジア大陸から民族が北米大陸に移動したことである。その前段で智慧深い老女が民族の移動について重要な意思決定をし、人々に智慧を授け、自らは移動に必要な体力のない老齢を悟って静かに群れから離れた。北米大陸ではより温暖で生活に適した土地を求めて南下、更には東漸し、山岳地帯・海岸・平原などの地形による優劣を知り、いくつかの先住の民族と遭遇して付き合い方やよりよい生き方を求めていく過程が詳しく述べられている。人間の進化に"ことば"が如何に重要か、また文字のない時代に歴史を語り継ぐ民族の強い意志を思い知らされる。

<風と遊ぶ> 造型作家 新宮晋が広大なモンゴル草原の一角に様々な形状、動きをする赤い風車を数十基設置した。モンゴルの人たちは昔から遊牧生活を送っているが、草原を吹き抜ける風を愛している。それが目に見えるのに感嘆し、この催しを無条件にかつ好意的に受入れた。政府要人など数千人が集まって記念の行事も行なわれた。小ムヅカシイ説明など一切しなくてもそれぞれの風車が自分のペースでクルリクルリと廻る様が全体として見飽きない眺めである。小学生を集めて日本から持参した様々な色・形の凧を揚げさせた。不思議だがモンゴルには凧というものがなかったそうである。こういった形での交流は実に後味がいい。肌に感じないような僅かな風でも動く風車があり、人々は風に敏感になった。土地の人は風車が風を呼ぶようになった、雨を呼ぶ仕掛けもしてもらえないかと無理なことを云っていると言う。

<近代絵画> 西洋の話ではなく、明治初期の日本に画材を求めてインターネットをうろついてみた。今回特に気に入った画家は二人、河鍋暁斎と小林清近である。
 河鍋暁斎は狩野派の流れを継ぎ、幕末から明治動乱期にかけて伝統的な絵画から浮世絵、戯画、狂画、額絵、行灯絵まで幅広い芸域を見せまた独自の女性像を描いた。中でも花鳥版画の美麗さ奔放さは独特のもので、随所に蛙が自由な姿態で顔を出すユーモラスな絵がいい。旺盛な自己拡張の意欲と庶民的な精神の発揮で欧米にまで知られた。狂画を咎められて一時拘留されてから名を暁斎と改めたように決してマジメ一途の人ではない。
 小林清近は浮世絵の最後の時代を飾った絵師と称され、木版画のほかに油絵・写真術・日本画をもモノにしている。河鍋暁斎は彼の師でもある。清近の絵は光と影を捉える"光線画"と言われ、東京名所図で明治初期の今や珍しい風景をあれこれ紹介している。変わったところでは"百面相"と名づける老若男女の喜怒哀楽の表情を描いた作品群がある。一方で日清・日露戦争の状景を描いた作品が多く、今と違ってテレビや写真が発達していなかったから記事による報道が専らになる中で、多少タイミングが遅れても彼の絵は当時の国民に強烈な印象を与えたに違いない迫力がある。私自身明治時代の戦争シーンはほとんど観たことがなかったのでいささか感じ入った。彼は従軍画家のような形で戦地へも行ったのだろうか。

<天神さま> 菅原道真は文武両道に秀で並ぶものなき人と畏敬されていたが、右大臣まで昇進した後政敵である左大臣藤原時平の讒言によって九州大宰府に左遷された。この人は今で云えば竹中平蔵経済財政担当相のように本来は学者なのだが、時の宇多天皇の厚い信任を得て政治の世界のトップ近くまで上りつめた。このままでは藤原一族の危機とばかりにつのった貴族達の妬みと反感が、時平をして引退したばかりの父(宇多上皇)と子(醍醐天皇―17歳)の中を割くクーデターを実行させた。都育ちの老齢の身に北からの海風が吹きつけ不便窮まる環境はさぞかし辛かったことだろう。左遷というより実質は流刑であった。役所とは名ばかりのロクに雨露も凌げぬ茅屋で道真は健康を害し2年足らずで他界したが、その前に天拝山に登り7日7夜無実の罪を天に訴え続けた。
 彼の死後の祟りと称される関係者の消息はただ事ではない。まずクーデターに際して宇多上皇を阻んだ藤原菅根が5年後に病死し、翌年疫病に罹った時平は39歳の若さで世を去った。それから3年ごとに道真の後を継いだ右大臣源光が狩りの途中で落馬横死し、醍醐天皇が疱瘡に倒れ、道真追放の立役者三善清行が死去し、醍醐天皇と藤原氏の娘の間に生まれた二人の皇子も次々と病死した。遂には清涼殿への落雷で大納言藤原清貴ら3名が感電死した。翌年醍醐天皇は自分の過ちを宇多上皇に詫び、位を皇太子に譲るとともに病を得て46歳で崩御した。
 口さがない民衆によって道真は怒れる雷神と恐れられ、菅原伝授手習鑑"天拝山の呪"などとしてその後能・文楽・歌舞伎・浮世絵に長く伝えられることになった。その怒りを鎮めるために時の政権は故人の官位を元に戻し天神として京都の北野天満宮に祀ることにした。その後北野天神は全国2万数千箇所に勧請せられた。このように当時の京都を震え上らせた"鬼"道真が今は学問の神様として受験合格を祈願するこどもたちに只管崇められ敬愛されるのは、悪いのは当時の政権に関わった人たちで死後1100年も経った今、平民の子孫になんら疚しいことはないという民衆の達観があるからだろう。後味の悪さのかけらも残っていないのが面白い。但し藤原家の末裔だけはお控えなされ。

<失着> 碁を打つ。1局は双方で300手に達することもあるが、大勢が決まるまで凡そ一方では100手の中で、まさにボーンヘッドとしか評せない手を平均2〜3手は打って後で悔やむ。先の先まで見通せずに打った手は仕方がない。しかし相手が応手を1手打った途端、あるいは自分の手を見て相手が考え込んだのに際して、シマッタと頭を抱えるのを何とかしたい。そういうケースは普通ならこう打つという手をやめて、パッと閃いた手を採用したときに多くの場合発生する。こう打ったら相手はこう来ると思いこんでしまい反射的に手が出てしまうのだ。これを手拍子という。吉行淳之介の随筆に中村光夫が亡くなる数年前に「発言したり返答するときには、まず7つ数えるようにしているんだ」と言ったとある。この伝で行けば囲碁でも今この手をぜひ打つ必要があるか、他の考え方はないものか着手前に自分によくよく問いたださなければいけない。

<死を考える> 文春に載った「中陰の花」という芥川賞受賞作を読んだ。著者は玄侑宗久という僧籍の人だが、臨済宗の僧侶夫妻が親しくしていた老巫女が自分の予言通りの日に死ぬ前後の事情を詳しく描写している。夫人は少し前に流産した子の冥福を願って色鮮やかな紙縒を無数に編み、夫妻で本堂に飾り経をあげる。最近はフィクションである小説の類は興味が湧かず滅多に読んだことがなかったが、やや特異な世界を平易な表現で綴る文章に短篇ということもあり一気に読み終えた。途中で飽きさせない文は何であれいい作品だと思うことにしている。"中陰"というのは人の魂が一気に消滅せず暫くそのあたりにさまよう感じを言うらしい。人の死についての僧侶夫妻の考え方に違和感を覚えなかったのと僧が葬儀で見事な引導の香語(そういうらしい)を申し述べるのに感心した。もちろん個人差は大きいが、人は自分および他人の死について如何に長時間考え悩むか改めて思い知らされる。目下の私はそうではないが、目覚めている時間の凡そ半分もそのことが脳裏から去らない老人は結構多いのではないだろうか。

<狂牛病> 千葉県で9月10日狂牛病の疑いのある乳牛が見つかったことにからんで、問題の乳牛が生まれた96年から昨年までに、この牛を最初に育てていた北海道の農場から問題の牛を含めて72頭を売却したこと、その内少なくとも28頭が道内、また長野・三重・山形・埼玉・愛知・広島・宮崎各県および他の地域に出荷されていたことが確認された。これらの一部はすでに食肉処理され、あるいは肉骨粉などの飼料に回ったと見られている。
 問題は発見された牛がどのようにして罹病したのか、何を食べたのが原因なのか未だに特定されていないことである。米国の同時多発テロのニュースの陰に隠れて問題の重要性が今ひとつ国民に認識されていないようだし、監督官庁たる農林省および北海道庁のタイミングのずれた対応の責任も問われていない。英国およびECで如何に近年この問題に頭を痛めているか、日本の役人は対岸の火事と鈍感であったが、アジア諸国は敏感にこの報道に対応し、既に日本を半ば汚染された国として扱っている。
 英国あたりでは既に脳髄や脊髄などを肉骨粉から除外し、食用に供する牛の年令を3年以下に限っているという。プリオンという蛋白質が牛と同様に人の脳組織をスポンジ状に空洞化してしまうというのは衝撃的な話で、細菌でもウイルスでもないと言う。何故このような新たな脅威が人類に襲い掛かるのか、皆よく分らぬだけに恐ろしい。

<韓国人> 昨今歴史教科書問題などであまりにも韓国がしつこいのに腹も立ち、「韓国人の歴史観」*(黒田勝弘)という本を求めた。この国は清が建国すると蛮族の王を皇帝として従えないと宣戦布告して逆に清に占領され、1637年臣従を誓わされた。以後その関係は1895年に日本が日清戦争に勝利するまで続く。今度は日本を自らより上位に位置づけるような日本の「皇」を認めないとして朝鮮朝廷が日本の国書を拒否したことから日本に征韓論が生まれ、1910年日本に併合されてしまう。以後1945年に日本が第2次大戦に敗れるまでの35年間日本の支配によって人々の意識もほとんど日本人になってしまった。解放後の朝鮮半島は米ソが分割進駐し1948年に南に大韓民国が米国の支援で、北に朝鮮人民共和国がソ連の支援で成立し分裂国家となった。その後金日成による北朝鮮の侵略戦争があり、米・中両国の支援で1進1退を繰り返した後1953年現状の境界線が定まった。要は朝鮮半島を統一する自主独立国家の形成は無理と世界から見くびられている。
 このように韓国は永く外力に屈従し続けた歴史をもち、自力で独立を勝ち取っていない鬱憤を未だに晴らせないでいる。これが「恨」といわれる民族感情であり、韓国人は過去を否定したがる断絶の歴史観を持つと言われる所以である。韓国の歴史教科書には我々が光復を迎えることができたのは我が民族が日帝に抵抗して闘争してきた結実であるという"抵抗史観"で自力による解放を説いている。そう思いたいのだ。
 著書*にはこう書いてある。韓国における反日感情の基本は日本に対する民族的なコンプレックスである。歴史的には中国文化圏における先輩でありながら後輩の日本に後れをとり支配された屈辱感と日本の敗戦後再び復興で日本の風下に立たされる悔しさ、しかもその日本との地理的な関係は永久に続く。慰安婦問題や歴史教科書の表現で少しでも日本がひるむ問題は日本に対する道徳的優位と日本糾弾の快感を保持するために永久に手放したくない。1995年になってそれまで壮麗な美観故に国立中央博物館として保存されていた旧朝鮮総督府庁舎の解体・撤去を時の金泳三政権が実施した。汚辱の歴史は見たくないという心情が大勢を占めたためと言われる。併合後日本は国内に準じて貨幣・教育制度、港湾・鉄道・道路・通信・銀行などのインフラを整備した。それらをもって「日本はいいこともした」という評価は日本人はもちろん韓国人が言っても"妄言"(聞く耳をもたない話)として糾弾される。その内にこれだけ我々が厭がっているのにまだ言うかと悲鳴に近くなってくる。こうなるとこわれものに触るような対応しかしようがない。


 何か新事態が発生するとすぐに日本はどうなっている?と気にするくせに、表向きは全く無視している風を装う。文化面の新流行などは広告こそ嫌うが中身は早速取り入れるようだ。屈折した心情である。なお私が1965年に訪れた際には1ウオン=3円だったのが今や1円=10ウオンである。日本が相対的にそれほど豊かになったとは感じられないが。



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