3月の話題


2002年3月

<春到来> 1週ほど前に急に暖かくなり、毎年他所に比して開花が遅い我が家の庭の紅梅がパッと咲いた。その後また寒さが戻ったが、月の改まった今日になって雨が止むと日中の気温が15度Cを越え暦に応じて一遍に暖かくなった。ずっと着用していたジャンパーを脱ぎ捨てて散歩に出かけると、薄曇りだが真冬に陽だまりを求めて歩いたのをつい忘れてしまう。どこからともなく馥郁たる香りがしていて、何の花かは突き止められないが、この雰囲気は悪くない。世間では杉の花粉騒動でやかましいが、今までのところ私は関係なく過ごせている。季節の移り変わりは人の心も改めさせる。俳句心があれば一句ひねるところだが。

<話し言葉> 近頃若い人の話し言葉によく出てくるのが"すごい"という文句で、言葉としては昔からあるのでつい聞き逃してしまうがこれは"非常に"とか"とても"という意味で副詞として何かの形容詞を強調する目的で使っている。書き言葉としてはとても受け入れられないが、話し言葉としては若い人は皆流行語の感覚らしく平気で頻々と使う。ジュニア喉自慢での司会者との会話では出演者から1日に10回は発せられるように思う。美しい日本語ではなく、気に入らない。こういうケチをつけるのはやはり年寄りの通弊だろうか。

<官僚亡国論> 文春3月号で前経済企画庁長官・堺屋太一が平成官僚を完膚なきまでに論難した。1990年から現在に至る日本の没落を惹き起こした責任はすべて官僚が負うべきだと云う。官僚組織は経済財政・外交・交通・警察・厚生・農林水産・教育などあらゆる面で、現状の理解も将来の予測も誤りの反省も改革の決断もできない無能で無責任な組織で、無能であるが故に無能な事を善しとする悪循環に陥っていると言う。
 ここまで云われて反論できないとなれば事態は深刻である。そう言えば土地にからむ尨大な不良資産の発生のほかに高速道路・本四連絡橋・林道などの償却問題、続発する警察の不祥事、B.S.E.処理にからむ相次ぐ失態、医療の荒廃、有明海の干拓問題、学級崩壊、各種情報の隠蔽など何一つとして明快な解決が図られず問題は次々に増えていく。また混迷は対応する民間側にも一端の責任がある。銀行の貸し付け審査能力の欠如、頑迷で無反省の日教組、金儲けしか考えぬ無責任な医療機関等々。

 堺屋氏はこうした事態を招来している無能な官僚への処方箋はあるかという問いに自ら答えて曰く、官僚に共同体をやめさせ国政全般から手を引かせることだと。そのためには@外部から大量の人材を登用して組織原理を変え、A人材評価の基準を大臣が結果で評価するように変え、B文化革命を起こす事だと。簡単におっしゃるが、歴史は秦の始皇帝以来官僚の害を撲滅できた政治家はいない事を教えている。ご本人も確か元官僚の筈で、官僚たちが如何に狡猾に生き延びる術策を用いそれにうき身をやつすかを十分にご存知の筈だ。現在国政に関わっている官僚たちの各種権益をどうやって削るのか、その代替方策を誰がどのように建て実施するのか、不用になった多数の人たち(官僚)を如何に因果を含めて転職させるのか。堺屋氏はこうしたことが実現不可能な事を承知の上で、机上の空論を述べているとしか思えない。大体@は人減らしの逆だし、Aは大臣ひとりで何ができるか。
 官僚の役割に対する国民の通念をこの際見直すべき事に異論はないが、全面的な否定をしても秩序は維持できない。考えられるとすれば最近台頭しているN.G.O.・N.P.O.の人たちに何らかの役割を演じてもらうことだが、人間というものは初心はよくても権益に近づくと必ず腐敗し堕落する。そういう人たちに国民から敬愛される役割を演じ続けてもらうには適正な規範と身を犠牲にしてもそれを徹底させる力量をもった聖徳太子の如き指導者が必要と思う。今外務省で始めているように世論の力で自らを厳しく見直す事ができればそれに越したことはない。

<漢字> また引用で気が差すが「漢字と日本人」(高島俊男 文春新書)は小冊子ながら自分の関心事に触れるだけに極めて興味深かったので受け売りだが以下に要点を紹介する。
 日本語は日本列島に外部から文化が流入した形跡を如実に留めて今に至っている。まず大きな影響は唐から漢字が遣唐使たちによって持ち込まれたことで始まった。それまでは話し言葉としての"やまとことば"はあったが、文章に記述すべき普遍的な文字はなかった。

−1− 漢字を学んだ日本人たちはまず第一段としてこれを表音文字としてやまとことばを記述することを始めた。日本書紀・古事記も同じく一字一音で書かれた。ワープロ入力では少し苦労するがスサノオノ尊がクシナダ姫と結婚して新居を営んだ歌を紹介すると、
 やくもたついづもやへがきつまごみにやへがきつくるそのやへがきを(ゑ)
 古事記 夜久毛多津伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁
 日本書紀 夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳菟倶盧贈廼夜覇餓岐廻
 多少の差異があるが苦労して漢字を拾った跡が分り、いわゆる"万葉がな"を構成している。
 漢字の発音は留学生らによって正統的に伝えられた"漢音"のほかに、古くからまた後の世まで伝わってきた南方系の"呉音"があり、ロイヤル・チャイニーズとして漢音に統一すべきと呉音は度々(明治時代にも)排斥されたがしぶとく生き残った。漢音は硬く強いのに比し呉音はやさしく耳に快い。"人生"も"人情"も漢音は"ジンセイ"で呉音は"ニンジョウ"となる。如何にも日本人らしい使い分けだと思う。
 本来漢語の一語一語はそれぞれの声調(アクセント)をもち平声・上声・去声・入声の4種類があるのだが、日本人は皆不器用でこれが使いこなせず、入声だけが部分的に発音として残った。

−2− 引き続き日本人が漢字を使うための加工の第ニ段は漢字をその意味によって直接日本語で読むことにしたことである。すなわち"山"を"サン"あるいは"セン"と読まずにやまとことばで"ヤマ"と読み、訓よみとした。これは今では当たり前に思えるが、当時としては随分思い切った所業である。その結果として漢字による日本語の表記は音訓まじりになった。例えば柿本人麻呂の歌
 おほきみはかみにしませばあまくものいかづちのうへにいほりせるかも
 皇者神ニ四座者天雲之雷之上爾盧為流鴨
と随分短くなった。おまけに文末の"鴨"は語義と無関係でふざけて訓読みの表音文字として利用している。

−3− 次に日本人は漢字の字形を簡略化して"かな"を創った。但し発生的には正規の文字と考えたわけではなく、漢字を真字(真名)とし、かなは假名(かりそめの文字)とした。2種類あると便利だと意識的に作ったのでもなく自然発生的にできた。平安時代に歌でなく随筆文学が女性によって生まれたが、男は漢字を使うべきだったので平仮名を女性がうまく利用した。かなの効用が本格的に認識されだしたのは明治時代になってからかもしれない。

−4− 江戸時代になると和製漢語が生まれた。耳で聞いて分ることばでまぎらわしさがなく、日本人の生活から生まれたもので中国人にはわからない。大切・粗末・世話・野暮・無茶・面倒・親分・子分・番頭・丁稚などなど。庶民の中から生まれた言葉は決して消滅しない。

−5− 明治以後、西洋文化摂取によって数千数万に及ぶ大量の和製漢語が造られた。 その大半は西洋語の翻訳による2文字熟語である。政治・経済・産業・技術・学術などあらゆる分野の概念を片っ端から用語として翻訳漢語にした。これらの造語は江戸時代と異なり耳で聞いても意味は分らず、字を見ると見当がつく。ここへ来て日本人は同音異義は当然と気にしなくなり、周囲の状況から本来の漢語に到達する術を身につけた。そして漢字の発祥地中国へも大半は逆流入して立場が逆転した。

−6− 現在の日本語はおおむね以下の4種の語群より成る
(1) 和語 やまとことば
(2) 字音語 漢語と和製漢語
(3) 外来語 漢語を除く外来語と和製洋語 第二次大戦後やたらに増えている
(4) 混種語 まぜこぜ語 例 プロ野球

−7− 明治以降西洋文化に目がくらみ、様々な形で漢字をやめようとする運動が起こった。それは英語・フランス語・エスペラント語など日本語をやめる主張から始まり、かな文字会・ローマ字会などの一切の漢字を廃する動き、当用漢字として使用字数や読み方を制限し字をくずす動きなどである。これらは結局のところほとんど成功していない。人々は使いたい漢字をやめようとはしなかった。無理をせず自然に任せるのがいい。

−8− ワープロ時代になり使用できる漢字はJISで定められる事になった。著者は使いたい漢字がJISの制約を受けることを非難している。彼は言う。漢字を制限してはならない。文化資産としての文字をJISの手から解き放つことが緊急の課題である。

<イギリス海岸> 猿ヶ石川が北上川に注ぐ地点はドーバー海峡と同じ第3紀の泥岩層で、化石になった大型の胡桃が大量に見付かったが、百万年前からの隆起と沈降が記録されるこの地点をイギリス海岸と宮沢賢治が名づけたと実弟宮沢清六氏が手記に記している。宮沢賢治のことはあまり知らなかったが、この手記でその生き様を多少なりとも掴む手がかりを得た。
 幼い時に"風の又三郎"の歌を聴き、得体の知れない自然の脅威の新鮮な印象を抱いた。「ドドードドドドド、ドドードド、青い林檎も吹き飛ばせ」という歌だ。これが賢治の歌だった。
 銀河鉄道の夜とかイイハトーヴォ童話集とか類型のない沢山の童話を巨きなトランクに詰めて帰省した。作品をあまり詳しく知らないのが残念だが、発想が極めてユニークで日本に滅多に生まれない天才的な文学者・詩人だった。

 農林学校を出た彼は"アメニモマケズ、カゼニモマケズ"という有名な詩で"サムサノナツハオロオロアルキ"とヤマセと呼ばれ東北地方を周期的に襲う冷害への恐怖と懸命に戦い、文字通り農村を心配してかけ歩く内に疲れて生来頑健でない身体を肋膜炎で傷め、若くして逝った。
 宮沢清六氏の手記を読むと21世紀初頭まで生きながらえた氏が賢治のまことによき理解者で、世に賢治を知らしめた功労者ということがよくわかる。賢治は私の生まれた年に30歳台で早世したが、戦後の世にもし生きていたらどんな仕事をしたことだろう。

<女優> 学生時代は純真で、世に名の知れた女優さんに素朴な憧れをもっていた。経済的に不自由していた(当時ゲルピンと称していた)から、映画撮影のエキストラ募集でもあれば無条件に応募した。何の映画か分らぬままに群集の一人になって走る。先頭を走っていくのが津島恵子だった。こっちは単純に何とか追いつきたいと思って走ったが、間に大勢いて果たせなかった。
 よく知らされぬ名目で度々デモに動員された。途中で横を歩いていた友人が物知り顔に此処は岸田今日子の家だと言った。それは崇敬する人のことを口にしている顔だった。そう云われてもその時は自分は岸田今日子の顔を知らなかったが、この家で今何をしているのだろうと思いながら、"高嶺の花だな"と云った。全く他愛ない話である。

<老画家> "生き方探求"という特集の月刊誌を読み、画壇を離れ画業一筋に生きた孤高の画家という触れ込みで矢谷長治という人を知り、「柿と語る」という本人の述懐を紹介する。
 だいたい十一月十五日頃から柿がとれる。テーブルの上にたくさんの柿を並べる。一週間くらいたつと、水分がさがって柿の形がおちついてくる。その中の何個かを選んで描きはじめる。描き出したら、その柿には指一本ふれない。ふれると、ふれたところから腐ってくる。柿を描き続けていると、柿と実際に語れるようになるのは一ヶ月過ぎてから・・・。つぶれるまで描き続ける。三月半ば頃柿はつぶれてしまう。ただ不思議なことは、モデルにした柿だけが最後まで残る。毎年、何十年も描き続けるが、例外はない。
 これは冬瓜でもそうですよ。あそこに冬瓜の絵があるでしょう。あれ、描き終わったときに、見つめられていない向こう側は崩壊していた。

 また曰く、僕が本制作に入ったら、命をかけているんだから、僕がものを言わないときは絶対言うなと周りの者にも言っています。本当の絵というのは禅問答みたいなものだと思う。完成まで7年かかることもある。伊吹山の近くの観音峠は雪が深い。そこの三叉路で朝から夕方まで雪を描く。5分もすると真っ白になるが、いちいち雪を払っていたら描けないから、放っておくと雪の塊になってしまう。長岡に行くトラックが時々通るが、普段そこにそんなものはないから不思議がって車を停める、すると筆をもった手が動いている、そこで運転手は「あっ、人間だ」と叫ぶ。
 大正4年生まれだからもう86歳だが、未だに現役である。こういう人の気力に生半可でない強い生命力を感じ、底辺を支える技術力とともにその生き方に羨望を覚えつつ衷心より敬意を表する。

<遠野地方> 柳田國男全集から前回に引き続き"遠野物語"を読んだ。このタイトルを付せられた箇所はは喧伝せられるほどの量はなく、たかだか72ページである。著者を折々に夜分訪れた一人の遠野の住人から聞き取り筆記したものだと書いてあり、短い独立の話が119件収めてある。舞台は標高1914mの早池峰山の南方に広がった岩手県の遠野郷とよばれる丘陵地帯である。
 地域に生息する獣や山男などもからむ様々なコワイ話が記されていて所謂狐狸妖怪と渾然一体になって生活していた様が窺えるが、その次はどうなったかと推理をめぐらすべきストーリー性は乏しい。だが明治以前の山村の生活・話題はかくもあったかと理解の手がかりを得られ、素朴だが捨て難い味がある。
 話を転じて先に紹介した宮沢賢治の彼なりに真摯に生きた世界も早池峰山を仰ぐここに近い地域だった。宮沢清六が「兄のトランク」で示した多彩な兄の詩もみなこの風土から生まれた。今は廃線になったかもしれないが、岩手軽便鉄道が谷に沿って走っていた。
 今日はNHKの"小さい旅"が遠野地方に現代を生きる若者が馬を育てる環境を紹介した。放牧地の馬は飼い主を声と匂いで識別しおだやかな表情で長い顔を主人にすりよせてくる。馬と接する人達はいずれも心が和むのだろう、子供らも含めて実にいい表情をしている。
 互いに別の話だが日本百名山の1にも数えられる早池峰山の何の変哲もない自然が都会では決して見られない人間らしい山里を作り上げて、捨て難い郷愁を誘うのである。



総目次
ホームページに戻る