
<作家の伝記> 作家阿川弘之がほぼ末弟子として志賀直哉(1883-1971)の一生を丹念に書き下ろした記録を分厚い2巻本の文庫本として目を通した。森鴎外の家族による伝記を読んだばかりだから、つい比較してしまう。類似しているのは母が早世していることとその代わりを勤める祖母がシッカリしていた事だ。直哉の場合異なるのは祖父が人格者で強い影響を受けている事と、彼の妻康子は無類の良妻で生活環境に口うるさく無類のわがままで客好きな直哉に仕えて見事に誰もが羨む家庭を作っていることだ。父とは性格の相違が甚だしく互いに強く反撥していたが、晩年になって和解した。2男6女(2人夭折)を設け、子供らを親しく愛したのは似ている。
鴎外などと違い文学一筋で生きた人だが作家としては寡作で、有名な"暗夜行路"などは中断をも含めると20年近い年月を要している他、ちょっとした作品を書き上げるのにも随分苦労したようだ。几帳面で一字一句をおろそかにせぬ文章は、状景を眼前にあるように鮮やかに描き出すとされ、小説の巧さにかけては同人随一と評された。一方で風貌・眼光・声調に魅力があって、転々と住居を変えたが作風を敬慕する若い作家も含めて多くの文人達が蝟集するのが常だった。
国語問題でフランス語を推したのは有名で、敗戦の翌年春「森有禮は60年前に英語を国語にしたらどうかと提案したが、もしそれが実現していたら今度のような戦争は起こっていなかったろうと思った。この際日本は思い切って世界で一番美しい言語、フランス語を国語に採用してはどうか」と言明した。周囲の人は皆驚いたが、もしそれが実現したら一番困るのは志賀さんではないかと誰も本気で相手にしなかった。一方で本人は一度も失言と認めないばかりか、11年も経った座談会でも同じ主張を繰り返している。昭和になってからはめっきり作品数が減っていて、これを契機にこの"小説の神様"を悪く言うのが世の流行のようになった。
家庭では我儘で癇癪もち(遺伝と自称)を自認して夫人に苦労させ、一方では来客を遇するのを好んだが、晩年は次々と知人に先立たれて気力も体力も弱まり、「もう生きているのが厭だ、ボケちまってズルズル生きていても意味がない、死にたくなると矢も楯もたまらない」と云いながらも何とか大往生を遂げるまで頑張った。
フランス語の件は軍部の台頭と専横、そして世界から孤立して日本が戦争にひきづりこまれるのを歯噛みをしながら見ていた人の発案として全く理解できないわけではないが、芸術院会員、第4代ペンクラブ会長も勤め、極めて多くの文化人たちとのつきあいを持った人にしては信じられない非現実的な発想であった。流石の忠誠な弟子阿川もこれにはつきあいきれなかったらしい。
<Wカップ> 1月に及ぶお祭騒ぎがようやく終った。4年に1度今までも世界のどこかでこんな大騒ぎをしていたことには疎かったが、日本も韓国もお蔭でいくつも立派な競技場ができた。Jリーグの人気が高くなってスポーツの関心も次第に野球一辺倒から変わってきた。大学時代寮で同室の男がサッカー部の選手だったせいで、若い時から観戦はしていたのでポイントは承知しているつもりだが、とに角矢鱈に体力を消耗するスポーツで、前後半含め1時間半経つと世界の一流選手でもあごを出す。
マスコミの肩入れのせいもあって先月は多くのゲームをテレビ観戦したが、流石に決勝トーナメントに残ったチームは隙がなく守備に力をいれていて接戦になった。私が感心したのは日本を破り3位決定戦で韓国をも破ったトルコで、その流麗なパスまわしには見惚れてしまった。日本はトルシェ監督に鍛えられて守備は相当強くなったが、攻撃力に今ひとつの迫力がなく、望むのが無理だろうが相手を出し抜く走力や相手を凌ぐジャンプ力、シュートの正確さなどに傑出したものがなかった。コーナーキックにも工夫が感じられなかった。韓国は瞬発力は日本と大差ないが耐久力は日本より上のようで後半頑張る。キムチのお蔭だという説がある。
観客席に売れ残りがあって県知事や大臣たちまでも憤懣やるかたない風だったし、テレビの放映権料はとても高かったらしいが、一体誰の収入になるのかFIFAに決算報告をして情報公開してもらえないものだろうか。チケットの獲得に費やした人々の時間を総計したら膨大な数字になることだろうが能率が悪過ぎる。インターネット販売というのも結果的に見てよい方法ではない。FIFAにしてみれば日本人はcrazyだと言うだろうが、こっちがお客なのだ。反省してもらいたい。

<鳥瞰図> 石原正というグラフィック・デザイナー、自称都市鳥瞰図絵師の仕事を見た。何枚もの空撮写真を基にアイソメトリック画法で、定規は使わず手描きでかつ正確な尺度で都市の風景を作成していく。下描きの上に建物の輪郭線を墨入れしていく手順だが、1mm巾に2本の線を描く技術をもっているとのことで、コンピュータとは無縁の徹底した手仕事の世界である。画相筆、丸ペン、筆ペン、製図ペンなどを対象によって使い分け、樹木なども描き分けている。ビル屋上の空調設備など省略せずに丹念に描きこんでいる。ビルの階数は窓の積み重ねでごまかさず忠実に表示する。
周辺に樹木の生い茂った神社などは上部からの写真では建物が覆い隠されているが、現地へ出かけていって手持ちのカメラで詳しく撮影しじっくり眺めた結果を、生い茂る木を透かして特徴のある建物を描いている。関西・堺在住の人だからあちらの風景が多いが、大阪天満宮本殿横の大きな楠に菅原道真の隠し絵を画きこむ茶目っ気がある。こういう技はパソコンに無縁な人の得意とするところ。都市には意外に樹木が多いからいたずら画きできる機会も多い。
本人は作品のコピーを販売して生計を立てているようで、インターネットでも何点か作品を紹介しているので、試しに自分のパソコンに取り込んで見たが、ヌカリなく再現防止措置が施してあった。10年も経てば都市の風景はすっかり変ってしまうというが、こういう図面を飽きずにコツコツ作り続ける人と、またそれを好んで買い求める人がいるのが面白い。
<指揮者> すごい人が現われた。今年1月に「ロシアボリショイ交響楽団」の主席指揮者になった西本智美さん32歳。世界中の指揮者の0.1%に満たないと言われる女性指揮者である。子供の頃オーケストラの楽譜を見てこれを読む指揮者に憧れた。指揮者になるためにはまず作曲について知らなければと、大阪音楽大学では作曲科へ進んだ。ロシア系の音楽家に惹かれていて、ろくにロシア語を話せないのにロシアに乗り込み、サンクト・ペテルブルグ音楽院に入学してユダヤ系ロシア人イリア・ムーシン教授の最晩年の教え子になる。教えられたのは作品を譜面は勿論その時代背景まで徹底的に知り尽くせということ。
帰国直後にバイクに乗ったヒッタクリに遭って顛倒、衝撃で脊髄神経を傷めて半身不随になった。辛く孤独で寒さも厳しかった留学中のことを思い出し、懸命にリハビリに励んで遂に復活。京都市交響楽団の公演には恩師ムーシン先生がロシアから駆けつけて下さり、サンクト・ペテルブルグの伝統を引き継いだと賛辞を頂く。復帰以来「これが最後かもしれない」と思って指揮台に立っているという。だが「自分の指揮に満足した事はないですね。いつも反省してばかり」と。座右の銘は「百忍通意」。タクトを振る彼女の姿には流石の迫力を感じる。
この話題としてしばしば音楽家を登場させるが、それは中途半端でない精一杯な生き方に共感と憧憬を覚えるからだ。こちとらには到底無理だが、厭でも人の目を意識するこの人たちの境遇には、厳しいがまさに中途半端でない生き甲斐がある。

<京都> 京都の人は、外部に住んでいて京都をよく知らない人を"よそさん"と総称する。爆撃を受けなかった数少ない古都であり、1200年の首都としての歴史もふまえて京都には知っておくべき多くのことがあると以前より感じていたが、縁がなくこの街にはほとんど踏み入れる機会がなかった。その意味で私などはよそさんと呼ばれるにも値しないが、せめてこれから少しでも知っておきたいと「京都人だけが知っている」(入江敦彦 洋泉社)という小冊子を手に入れた。書いてある事はその一端ではあろうけれど、疎い人間でも将来訪れる折でもあればやがて分ってくるという意味でその要約を披露する。
1 桜 多くの名所がある 円山公園など 22ヶ所
2 おばんざい お番菜 仕出屋の料理 北野商店街など 12地点
3 水 伏流水 名水=醍醐味 上醍醐の清滝宮拝殿脇など 15地点
4 喫茶店 若旦那の立寄り先 上七軒の静香など 25店
5 つけもの 京つけもの(香のもの)千枚漬など 13店
6 きもの 訓練により取得する美意識の対象 西陣織物会館など 25拠点
7 ご利益 多神教の真髄、無節操で自分勝手な信仰 晴明神社など 38社寺
8 あの世 怨霊鎮魂行事、送り火・迎え鐘 上御霊神社など 36社寺
9 和菓子 茶道・華道・香道と関連 紫野味噌松風、八橋など 28店舗
10 料亭 京料理4系統:懐石・精進・有職・普茶 祇園など 28店舗
11 その他 ことば:京都語、場所:平安京を包む盆地 東山トンネルなど8地点
決してぜいたくな人でなければ味わえない対象ではなく、つましい地元の人が慣れ親しんだものが大半である。数字は巻末に付された著名な場所の数で、暇があってこれらの半分でも訪れることができれば歴史ある京都をかなり知ったことになるだろうし、敢えて言えば古きよき日本も実感できようし、もはや"よそさん"ではないと抗弁できる。
<歎異抄> 私の父はしがない三河の農家の次男に生まれ、国語の教師として一旦は東京に勤務したが、戦時疎開で生まれ故郷に移り住んだままその地で没した。墓は父の先祖が眠り、私の小学校時代の同級生が住職を勤める寺にあり、法事に住職を呼んで短い講話を聴くだけの不信心な体たらくだが、それでも自分では寺の宗旨に逆らう気はなくて、浄土真宗信者のはしくれと思っている。
"歎異抄"は実質的に浄土真宗の教本であり、趣旨は以前より委細承知しているつもりだったが、この度現代語訳本を入手して一通り読み返してみた。底本は教祖・親鸞の後継者蓮如の写本であるが、歎異抄自体の著者は不明である。18条より成り、教義を単純明快に記すとともにその周辺に生ずるであろう信仰上の様々な疑念に対して懇切丁寧に答えている。
浄土真宗の教義はすべてのいきものを救うという阿弥陀如来の不思議な誓願(これを本願という)があり、その本願を信じて浄土に生まれるべく念仏を唱えれば、阿弥陀はその者を光明の中に収めとり、決して見捨てない。この教えは他力本願であって、"南無阿弥陀仏"と念仏さえ唱えればよく、善行は必要ない。ただ一声の念仏で八十億劫という永い間迷いの世界に苦しみ続けるほどの重い罪が消える。実に寛容である。
この教義を端的に表す親鸞の有名な言葉は「善人なおもて往生す。ましてや悪人をや」というもので、善行を積んで浄土に行くというのは自力の考えだが、この教えは他力の行であって、悪い事をやめなければ救われないということはない。誰でもそうしなければならない縁がもたらせば、どんな悪い事もするものだ。それは成仏とは関係ないと言い切る。実は親鸞の子善鸞は布教に当たって"まことの念仏者は悪をやめ、善を行わなければいけない"と説いた。これを後で親鸞は聞いて善鸞を義絶し、善鸞は邪教に落ちたと言われる。
こんな不道徳な宗教は仏の教えに背くと奈良興福寺の僧侶が後鳥羽上皇の朝廷に訴え出て、親鸞の師法然聖人は土佐へまた親鸞は越後へ流罪に、4人の弟子は死罪になった。時の権力にとって不都合だったことは明らかで、以後も迫害は陰に陽に続いたが、野火の燎原に広がる如くこの教えは庶民に広まった。歎異抄の奥書に「この歎異抄は浄土真宗にとって大切な聖教です。仏法に縁のない人には安易に見せてはいけません」とあるのは上記の事情をふまえての事だろう。
第3者としてこの宗教と先に紹介した旧約聖書の教えなどとを比較してみれば、戒律など差異の甚だしいのに誰でも唖然とするだろう。人間社会に対する見方、哲学も天と地ほど違う。同じ仏教の系統でもチベットのラマ教では聖地巡礼の旅に厳しい五体投地の苦行を課す。人がこの世に生まれ出る時、その社会及びそれが奉ずる宗教を選べないし、その後の人生においてそこから脱出するのは簡単ではないが、それにしては宗教が信者に要求する内容には不平等を歎じたくなるほどの相違がある。大抵の宗教は道徳を守るべく厳しい掟がある。すべてこれ宗教誕生の際の社会事情によるのだろうか。巡り合せは人の世の運と言って片付けてしまうには深刻な問題だし、実に妙だ。
ー追記ー 後日五木寛之の「蓮如物語」を読んだ。平明な文章で本願寺8代目の法主蓮如の生い立ちとその業績を記しているが、ここに見る限り人々が生きていくのに精一杯な戦乱の世においては、すがるべき宗教は必然的にこういう形になると認めざるを得ない。裏を返せば、平和で昔に比して満ち足りた現今ではこの教義では少々甘ったるいということになる。
<消されかけの文明> オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの「チベットの7年」という冊子を読み終えた。第2次大戦末期インドで戦争捕虜となった氏はヒマラヤの麓に設けられた収容所を脱走し、追跡するイギリスの手を逃れ、鎖国政策を取るチベット国内の関門を潜り抜けて、想像を絶する過酷な旅の果てに、世界の屋根チベット高原の禁断の都ラサに漂着する。もう一人の登山家と凶悪な盗賊を避けて冬期にさしかかった6000m級の峠を越え、凍傷と靴擦れと飢えと病でボロボロになった二人を首都の人々は追い返すことなく暖かく迎えてくれた。

<怪談・奇談> 夏にふさわしいテーマとして表題のラフカデイオ・ハーンの著作を改めて読んだ。"耳なし抱一"の話など知っているものもあったが、そうでないものもあった。この際彼の経歴を見ると、ギリシャに生まれて、アイルランドに育ち、フランスで学んだ後に、アメリカを放浪し、西インドに遊んでから、東海の孤島日本にやってきて、やっと永住できる国を見出した。日本名小泉八雲は節子夫人の助力の下に若い頃から強い関心をもっていたこのジャンルの日本書籍全般を渉猟し、出入りの人々の話に耳を傾けて取材に努めた上で、彼自身の選択と構想の下に執筆にかかり、一字一句も疎かにしないように添削・修正を重ねて、古臭い因果話に新たな詩魂を加えて、端麗高雅でロマンテイックな要素・幽遠淡寂な情趣・胸に迫る哀感・凄陰の鬼気などを盛り込んだ滋味のある流麗な文体で物語を創作した。
始めて読んだ話で好きになったもの1篇の概要を紹介する。天正年間京都に果心居士と呼ばれる白い顎鬚で神官の身なりをした老人が仏画を見せ、仏の教えを説いて生計を立てていた。神社の境内の木につるす掛け物の絵は実に見事で、そこに描かれた鬼や亡者は生きているように見え、説教を聞く人々の喜捨は山のようになった。噂を聞いた織田信長がこの絵を見て感心し所望すると、老人は百両を要求した。家来が老人の帰路を襲い絵を強奪して信長に献上・披露すると白紙になっていた。後日居士を捕えて究明すると、絵には魂があり代価を払わぬ信長公の前から消えうせたのだと言上した。そこで信長は百両の支払いを命じ、改めて公の面前で件の巻物を広げると絵は細部まで復元されていた。しかし絵は色褪せて見え、人物は前のようには生き生きとしていなかったので、信長が理由を問うと、以前の絵はどんな値もつけられないほど貴いものだったが、この絵は支払われた金高に相当する値打ちしかないと居士は答え、仕方なしと放免された。
また後日、信長を討ち果たした明智光秀に招かれ、果心居士は大いに酒を振舞われた。居士はお礼に技をお目にかけると言上し、そこの屏風をご覧下さいと言った。屏風には近江八景が描かれていたが、その一つに湖上遥かに一人の男が舟を漕いでいる図があった。小舟の長さは一寸にも足りなかった。居士が小舟に手を振ると舟は向きを変えて絵の前景の方に動き出し、ずんずん大きくなって船頭の顔かたちがはっきりと認められるようになった。更に舟が近寄りわずかな距離まで迫った時に、突然絵から部屋の中へ湖水が溢れてくるように思われた。水が膝まで達したので人々は急いで裾をからげた。舟が屏風の中から滑り出してくるようで、一丁櫓のギイギイいう音が聞こえた。舟が果心居士のすぐそばまで来ると、居士はそれに乗り込んだ。船頭はくるりと向きを変え、非常な早さで向こうへ漕いで行き始めた。舟が遠のくにつれて、部屋の中の水も急に減り始め、再び屏風の中へ引いていくようであった。舟が前景を通り過ぎるや、部屋は再び乾いてしまった。絵の中の舟は滑るように遠のきながら絶えず小さくなって、湖の沖合いで一つの点のように小さくなるとやがて消えてしまった。果心居士は二度と日本に現われなかった。