10月の話題


2002年10月

<新ヴァージョン> 先月くどいように記した事情でパソコン環境を改め、やっとそれに慣れつつあるが、新たな障害も出現した。O.S.がWindowsXPになり、M.S.Officeに付随するワープロ・ソフトM.S.Wordも当然新ヴァージョンになった。物書きのはしくれとして自分の作業環境には少なからぬ関心をもっているが、これがどうも今ひとつ思わしくない。
 最も気になるのはかな漢字変換機能で、文字をひらがなで打ち込んだ後でスペース・キーを押した時にオプションも含めて自分の希望する文字列案が現れる比率が在来の半分程度に減ってしまった。特にひらがなの後に漢字を出そうとすると、漢字に変換すべきひらがなはその直前の助詞としてのひらがなを含めた熟語が検討されて、奇妙な漢字列が提示されてしまう。
 混乱を避けるために助詞としてのひらがなをRETURNキーで確定させておいても、改めて連結した文字列として漢字変換すべき対象に逆戻りしたりする。外来語をカタカナ表記したくとも、不自然極まる漢字列に変換され、改めて文字変換モードをひらがなからカタカナ(2バイト文字)に直して入力し直さなければならなくなることがしばしば生ずる。
 誰がやるのか知らないが、恐らく相当な手間をかけて機能を増したつもりだろうが、古いヴァージョンにそれなりに慣れた人間にとって大抵は余計なお世話である。各種の設定機能を調べそれなりの設定をすれば問題のいくつかは解決するのだろうが、人の作ったルールをその人の解説で理解すること自体が億劫である。
 或る時は文章の校正中に突如砂時計が出たまま上段のファイル名が”Microsoft Word(応答なし)”に変わってしまい、開いたウインドウを画面上で平行移動する以外は何も操作できなくなってしまい、こまめに上書き保存をしなかった横着を後悔しつつも仕方なくパソコンを強制終了した。
 再起動して問題のWordファイルを開いたところ本日校正を始める前の文面が現れた他に、左上の別枠に強制終了時の文面を保存した趣旨の説明の付いたテンポラリー・ファイルのシンボルが現れ、それをクリックしたところトラブル発生直前までに私が原文に付加修正した文言が載ったWordファイルが現れた。喜んでそのファイルを上書き保存し、本日の作業が無駄にならず済んだことを感謝した。こういうのに出くわすとヴァージョン・アップは有難いと思うのだから人間は勝手である。

<古い映画を観る> 「危険な賭け」(ステイーヴ・マックイーン、フェイ・ダナウエイ主演)をTV鑑賞する。この映画は題名などから30余年前に北米田舎町の映画館で観た記憶がある。主人公は優雅な生活を送りながらも或る時7,8名を集めて銀行強盗を企て、日時を定めて電話で決行を指示する。何か9・11を連想させる話で、細部について昔の記憶は全く失せていたが、見た後でストーリーの隅々まで頭に残るのは矢張り嘗て一度見たからに違いない。反芻記憶は強いなと感じた。
 当時は最新の流行をふんだんに取り入れた時代の先端を行く娯楽映画だったが、今から見ると電話は皆ダイヤル式だし、エレベーターは網戸式で外が透けて見え、階数表示は時計針式だ。人品いやしからぬ男も女も煙草を吸っている。
 皆の度肝を抜いた盗難金額は266万US$で、女性警官が派手な遊興客に化けて主人公の犯行を暴くべく追跡するが、精悍そのものの主人公の行動範囲はゴルフ、グライダー、ポロ、アート・オークション、チェス、スポーツカーなどで、現代から見れば時代の変遷は争えないと改めて感慨を覚えた。

<ノンフィクション作家> 開高健の著書を3冊買い求めてまとめ読みをする。「白いページ」、「冒険者と書斎」、「開高健の博物誌」の3冊だが、3番目のは彼の独立した著作ではなく、彼のアチコチの著書の中から動物・植物についての記述を別人が項目分けしてまとめたもので、従って一部は前の2冊と内容が重複している。
 経歴を見ると28歳の若さで「裸の王様」で芥川賞を受賞し、順調に文壇デビューを果たしてからは、海外特派員としてベトナム戦争に従軍したほか死の前年まで世界各地を頻繁に訪れている。食道癌がもとで58歳で他界しているが、あれだけ飲みまくり食道楽を貫いて、不規則な生活・野蛮な環境を物ともせずに書きたいことは書き、やりたいことを貫けば十分もとは取っているだろう。
 好奇心の塊。何匹も猫を飼ったが、どの猫もある日家を出てそれっきりになってしまう。奇妙に死を見届けたことがないと書いている。また諏訪湖に生息し群団をなして遊泳するワカサギは3年しか寿命のない魚だが、死骸が湖面に浮くのを見たことがないと土地の古老の話を紹介している。例のカラスと通じる話だ。
 絵は素人だが自分の“最初の一瞥”を信じると言い、ゴヤに惚れ込んだ。他の画家には感じないがゴヤだけには“芸術は長く生は短し”を実感すると述べて、珍しく伝記まで何冊も読んだと短くない随筆の頁を特に晩年漆喰壁に残した黒い絵などのゴヤの作品の叙述に割いている。
 一つ彼の哲学と悩みに出会った。彼は10年間に随分ルポを書いたが、近頃になってやっとその影響を骨や内臓の部分で感ずるようになったと記し、小説は報道を含んでもいいが報道は小説を断じて含んではならない、見ていないことを見たように書いてはならぬという意味で、ノン・フィクションはフィクションを断固として排除しなければならないと言っている。ここまではいい。ここから先が難物だ。
 ノン・フィクションを書き続けていると“私は見た”という信念が、小説家として言葉を事実に変えていく作業の内の繊細でおびえやすい部分をひからびさせてしまう、彼はこれを暗くて湿った土の中の菌糸のもつれあいとか渚の石と日光にさらけ出されたクラゲとかいくつも彼独特の華麗な表現(私はそれを不器用に省略して引用した)で換言して述べ、証人と小説家が手を携えあって歩んでいく難しさを嘆いている。
 さもあろう。このような矛盾を包含したノン・フィクションに敢えて挑み、敬愛するへミングウエイの唱えた”audible,visible,tangible”を実践した著者に無類の好意を抱く。中国の古い諺に「1時間の幸せには酒を飲め、3日の幸せには妻を娶れ、8日の幸せには豚を屠れ、一生の幸せには釣りを覚えろ」とあると言う彼は後半生のエネルギの多くを世界各地の釣りに費やした。彼の著書のどのページを開いても平凡さのかけらもない。羨ましい人生だ。

<人間らしさ> NHK“人間ドキュメント”の番組で兼坂弘氏(79歳)を紹介した。嘗ていすず自動車に勤め、若くからエンジンの設計に没頭した。世界に出して恥じないと信ずる12気筒V型デイーゼル・エンジンをリーダーとして開発した。55歳で定年を迎え、ハッピー・リタイヤメントと会社を送り出された時、陶工や画家は一生好きなことがやれるのに俺はもうそれがやれないのかとひそかに涙したという。
 産業道路を歩くと、走行してくるトラックの多くが未だに彼の設計になるエンジンを搭載していると指差す。日常はエンジンの構造改良についての工夫を続け、個人で特許を申請し続けてその申請・維持費用がもう2200万円になるという。もちろん自己負担だ。
 最近東京都をはじめ大都市をかかえる自治体が公害発生の元凶としてトラックの排気ガスに注目し、改良装置をつけなければ道路を走らせないと言い出した。兼坂氏は俺の出番が来たとニンマリして早速動き出した。彼を知る昔の仲間が集まり、試作・実験・費用負担など協力を申し出てくれた。
 軽油を燃料とする排気ガスの出口に微粒子のフィルターを取り付けるが、ここに付着したカーボンがトラックの低速走行時には排気ガスの温度が低くて燃焼せずに詰まってしまう。都会の道路は交通渋滞が多いからそのチャンスが多いのだ。
 計測してみるとエンジン負荷の小さい状態では排気ガス温度が100degCに達しない。300degCを超えて始めてフィルターに付着したカーボンと排気ガスの有害成分が完全燃焼することが分かった。
 兼坂氏はピストンの往復運動に連動して開閉する吸・排気弁の通常の動きを改めて一旦閉じた排気弁をピストンの下降行程の途中で少し開いて排気がシリンダに逆流するようにすることを考え付いた。排気弁駆動用のカムの形状を従来の卵型の側部に小さな突起をつけるように変えてこれを実現し、排気量を制限して排気温度が上がることを狙う。
 新工夫のカムシャフトを大田区の町工場で製作してもらい、早速エンジンに組み込んでテストを開始する。何度かの調整の結果、計測してみると低負荷時の排気温度が見事に300degCを超えた。
 テレビでの紹介はここまでで、もう体力に余裕のない兼坂氏は自分のアイデアが実用化された暁に自分の寿命がきて満足裡に死ねればこれにまさる幸せはないと述懐する。技術の改良はこういう人間の“嗜好”にもとづく執念で達成される。今回の二人の日本人のノーベル章受賞も同根だ。但し周囲の協力など環境が整わないと成功しない。
 同じ技術屋としてこの話を聞くと、カムシャフトの形状を変えてしまうと排気ガスの常時の逆流により全負荷時のエンジンの性能が著しく劣化するから使い物にならないだろう。従って低速走行・軽負荷時にのみ排気ガスを逆流させる工夫が必要で、そのためには融通の利かないカムシャフトの形状ではなく、エンジン負荷に連動して排気弁の動きが変わるような別の工夫が要るはずだ。
 こんな話のテレビ報道を許すぐらいだから、取り巻きも何とかするかもしれないし、こういう議論の積み重ねで石原都知事が取り上げた公害撲滅も遠からず実現すると信ずる。技術屋根性というのは採算性とか合理性というのとは少し別のところにあるが、それ故に人を魅するものがある。

<廃墟> 「廃墟の歩き方」という本を題名だけで興味半分に入手した。随筆かと思っていたが、頁を開いたら写真集だった。世の中には変わった人もいるもので、著者の紹介を見ると廃墟探険家と自称している。本の冒頭には法律、危機管理、マナー・禁止行為、探検時の装備などが記載してあって、自分でもやってみようと思う人への心得が並んでいる。
 選んでいる対象は全国の廃鉱、次に廃病院、廃工場、廃宿泊設備などである。その中にはノーベル賞で有名になったカミオカンデのある神岡鉱山、長崎沖の軍艦島などもあり、何といっても多数の人々が家族もろとも長年月働きかつ生活した歴史が偲ばれる複合施設は迫力がある。それに比べると規模は大きくても経営の破綻などから建設後日月を経ずして放棄された物件は心に訴えるものが少ない。
 住居は人が住まなくなると急激にアチコチが痛み、手がつけられなくなる。逞しいのは植物で、蔦や苔はコンクリートを覆ってしまうし、土壌があればビッシリと丈の高い草が成長して、樹木の枝が建築物に覆いかぶさり破れた窓から内部へ侵入していく。
 コンクリート施設や石材・プラステイック材は形が残るが、床・壁材など木製・繊維製のものは早々に朽ちてゆく。鋼材も時間はかかるが形が崩れていく。そのアンバランスが風景をゆがめ、足場が崩れる恐れが無警戒な廃墟への踏み込みを許さぬようにする。
 こういう施設を写真で順に見ていくと、人間のやっている事はあとから眺めると大方こんなもので、懐旧の情が消えればいずれ当事者の努力や執念もすべて無に帰するのだと証明しているように感じられる。

<暑い秋> 俗に“暑さ寒さも彼岸まで”と言い、10月1日は衣替えになるのだが、今年は10月も半ばを越えて連日最高気温が25degCを超える夏日だ。明らかに地球温暖化の影響だが、こうなると衣替えで一斉に長袖、上着着用という日本の慣行も守っているのが不合理になってくる。生活習慣も融通を利かすべきだ。
 私は家にいるので構わないがそれでも半袖のシャツがまだ仕舞えないし、毎日扇風機のお世話になり、たまには冷房をつけたりしている。この冬あたり南極の氷が大量に溶け出して海水面が上昇し、太平洋の環礁やバングラデシュの低地などで水没騒ぎが起きるのではないかと他人事ながら心配になってくる。

<合理主義の人> 「福翁自伝」という小冊子(岩波文庫)を読む。1万円札に載り、慶応義塾を創設した福沢諭吉の口述、全面加筆による生涯の伝記である。幕末から明治維新の動乱期を民間人として生き抜いた異色の先進的な大人物の極めて興味をそそる記録であり、年譜によれば天保5年(1835)中津藩士(下士)を父として大阪に生まれ、明治34年(1901)68歳脳溢血再発で長逝、主要記事は下記の如し。
10台で漢学を学ぶ。封建、門閥制度を親の敵と深く心に期す。
20歳蘭学を志して長崎に出、23歳大阪に戻って緒方塾に入る。塾長になる。
25歳藩命により江戸に出る。横浜で蘭語が役に立たぬことを知り英語に転向、独学。
27歳咸臨丸に乗り組んで訪米、29歳訪欧、31歳幕府に召抱えられ翻訳係となる。
34歳再度渡米(東岸)。有馬家中屋敷を買い受け、慶応義塾と名づける(1868)。
37歳危うく暗殺を免れる。慶応義塾三田の地所を政府から貸下げ、2年後払い下げを受ける。“学問のすすめ”発刊。
46歳東京学士会院設立、初代会長。49歳時事新報を創刊。
57歳慶応義塾大学部設置。
 幕末には世は勤王、佐幕二派に分かれて争ったが、彼は幕府の門閥圧制鎖国主義が大嫌い、一方で勤王側は幕府より甚だしい攘夷論に凝り固まっていて、既に欧米を見知っている立場からは馬鹿馬鹿しくていずれにも組せず、前途道遠しと思いながらも塾生を集めて専ら洋学の普及に努めていた。上野の森に官軍が彰義隊を追い詰めた日も講義をしていたという。
 鎖国論が優勢な世の中で開国文明論を主張していた福沢は長らく暗殺の危険に曝されていた。彼自身の述懐では文久2年(1862)頃から明治7年(1874)頃までが最も物騒で、夜間の外出や旅行は身分が分からぬように随分気を遣った。それでも郷里の中津へ戻った時は2度ほど好運故に襲撃を免れた。その後は羨望嫉妬が政府の役人に向けられるようになり、洋学者は大いに楽になったと書いている。
 これだけ先見の明があり、西欧の知見に詳しい男を世が放置しておくはずがない。明治政府は何度も御用召しをかけるがその都度病気だと断る。大体明治政府即攘夷政府と思い込んでいたから近づく気などある筈がなかった。だがこれは維新直後のことで、恒久的に官僚に加わらなかった理由としては 1 役人は威張る、2 役人の不品行は目に余る、3 主義主張を安易に変える変節振り、4 文盲でない者は猫も杓子も仕官に熱心で自主独立の望みがない ― これらに反発した。
 一国の独立は国民の独立心から沸いて出る。皆が奴隷根性になっては国がもたない。非力でも自分がその手本になってやろう、独立独歩と安心決定し政府によりすがらぬことにした。一切万事人にも物にもぶらさがらず、捨て身になって世の中を渡ると決めたと心境を語っている。公共事業民営化のさきがけである。



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