
<童話集の研究> 昨年9月に採りあげたドイツ圏で永らく聖書に次ぐベストセラーといわれた「グリム童話集」59篇にこの際改めて目を通し、その中にあるいくつもの独自な要素を分析し考えてみることにした。
あちこちに入り込むと容易には戻れない深い森があるのはドイツ独特の環境である。この童話が採録された約180年以前のドイツは産業が発達する前で、一般には貧しい人が多く貧窮のあまり食べ物に事欠いて子供を山の森に捨てることさえ珍しくなかった。富裕な人(王様と呼んだ)は割拠して城に住み、人々の憧れの対象だった。至る所に様々な動物が棲み、人との交流も多かった。現今の都会と違って人々は自然と親しく共存していた。
童話の特徴は小説などと違って回り道や周辺の状況説明に余計な長い語句を費やさないことで、単刀直入に肝心な事柄に絞って話をズンズン進行させていく。会話が多く、登場者の感情説明は短く直截である。確かにこうしなければ聴いている子供は飽きてしまう。各所に挿絵があり言葉だけで想像しにくい状況把握を有効に助けている。考えてみればこのような手法はある種の情報提供には大人にも適用してもいいかもしれない。
童話はある意味で人の現世では果たせぬ欲望のはけぐちである。お菓子でできた家、「お膳よ、お仕度!」と唱えるとどんな場所にいてもご馳走がずらりと並ぶお膳(願かけ膳)やテーブル掛け、呪文を唱える度に口や尻から金貨を吐き出す驢馬、あるいは呪文とともに袋から飛び出して止めろと合図するまで相手を殴り続ける棍棒などの呪宝が登場する。
前例に懲りて行動を改めそうなものなのに、性懲りもなく同じような失敗を何度も繰り返す話が少なくない。こういう童話を聴く子供からすると、自分だったらもうそうはしないと地団太を踏むだろう。その意味では童話は巧まざる反面教師を演ずる。まともなお説教よりこの方が自然に子供を賢くするだろう。
よくある家族関係が誇張された形で提示される。継母と継娘の関係は最悪で、母に実子がいれば継娘は憎悪の、長ずれば嫉妬の対象になり、童話の中では大抵殺されかける。兄と妹は仲がよく、魔法にかかって動物にさせられた兄たちを妹が命を賭けて救いに行く噺が複数載っている。3人兄弟では上の2人はボンクラで末弟が利口で成功すると決まっている。
人の本性に連なる心理描写も出てくる。ここだけは見てはいけないよ、見たら大変な災難に遭うよと念を押されるとそう言われた人は必ず見たくてたまらなくなり、すぐにその禁じられた場所に立ち入って果たして災難に出くわす羽目になる。あるいは折角役割分担などがうまくいっているのに、それに飽き足らなくなり深く考えもせずに秩序を変えて取り返しのつかぬ破綻を招く。
しばしば魔女が現れて魔法をかける。魔法で動物に変えられてしまう。あるいは自分で動物に化けてしまう。また動物の声を聞き分ける能力を得る。動物の話を立ち聞きして真相を知る。人間と動物の間は今よりずっと親密な関係だったようだ。
多くの話には決して明記されてはいないが、一つ以上の教訓が含まれている。“因果応報”とか“親切を施されたら必ずお返しをするものだ”などありきたりのものだけではなく、“女の欲望には際限がない”とか、“知らぬ者を気安く信用するな”とか、“優れた機能は得てして外見の悪さを伴う”などさまざまである。極端なのは“バカは死ななきゃ直らない”というのもあった。こういう形で教育すれば頭の悪い子でも大抵は頭に入りそうだ。
気になるのは簡単に人を殺そうとすることで、話を面白くするためもあろうが主人公は概ねその危険に遭って必死に逃げ回ることで話が展開していく。話の最後に悪事をなした人間は露見すると情け容赦なく罰を受け、簡単に殺害されてしまう。それは当然であって同情する必要はないという雰囲気になっている。“悪いおばあさんは釜茹でにされてしまいました。めでたしめでたし”といった具合である。ドイツ人は少し冷酷ではないだろうか。
<ゲーム> 最近こういうニュースがあった。−コンピューターゲームを文化、芸術、産業など多方面から研究する日本初の「ゲーム学会」が発足する。11月3日、大阪電気通信大学(大阪府四条畷市)で設立記念大会を開く。目標は世界でも例のない「ゲーム学」の確立だー
たまたま前項と同じ2001年9月、<遊び>をテーマにしてヨハン・ホイジンガの遊びの4要素(競争・運・模擬・眩暈)を紹介した。恐らくこういう思想も紹介されるだろうし、私も身障者でなければ大会に参加したいところだが、この種の情報が集中的に扱われることは喜ばしいことで、いずれなんらかの形で“学会”の成果を利用させてもらう機会があるだろうと期待している。
私は碁を打つが、年齢のせいもあって昨今は残念ながら棋力が伸びず、自分で打つより観戦に回ることの方が多くなった。今は一つのゲームに深入りするよりいくつものゲームを知り、それぞれの特徴に詳しくなることにより大きい関心がある。最近パソコンを更新した機会にいくつかの新しいゲームを試してみている。
人間はいくつもゲームを考え付くが、自分でそれを使ってみて或いはそれを使う人の意見をよく聞いて、より欠点の少ないゲームにするためにルールを改良することに熱心な人は意外に少ない。また既存のゲーム・ルールにこだわりルール変更に保守的な人が多い。
囲碁は極めて優れたゲームと思っているが、ここへ来て中国辺りからコミ(先手・後手のハンデイキャップ)を日本の5.5目から6.5目、更には7.5目に変えようという動きがあり、日本も引きづられて近く6.5目に変えることになるようだ。戦後暫くまでは4.5目が常識で、囲碁で生活を支えている多くの人(いわゆるプロ)の誰も異議を唱えなかったのだからよく考えるといい加減なことではある。
その内に盤面の大きさも現在の縦横19路を変えようというオプションが出現するかもしれない。今までは碁盤という高価なゲームの道具があって、19路という既存の決まりを変えるなどというのは論外だったが、今やコンピュータでゲームをするのが当たり前になると、これを2路増やす或いは減らすということに抵抗がなくなる可能性が強い。それによって定石の運用ももっと柔軟になることだろう。

<女性ダイバー> 初めに耳にしたのはイルカへの賛辞だった。「こっちへおいでよ、一緒に遊ぼうよ」と誘いかけてくるイルカ達の何の恐れも悩みもないあけっぴろげのさまに、「ウワアー!」と心から解放され幸福感にひたってしまいますと楽しそうに語るのは元女優の高樹沙耶。
N.H.K.の「公園通りで会いましょう」に出演していた。やがて今の専門について語り出す。決して楽しくはないが毎日訓練して身体を適応させていったという無呼吸の潜水時間は目下4分20秒。最初は30秒も我慢できなかったと述懐するが尤もだ。海女は2分以上潜るというがこの数字は凄い。
次に紹介されたビデオでは、タンクなしでウエット・スーツに身を包み水中に垂直に垂らされたワイヤに沿って真っ直ぐに降下していく。真っ暗な海中で照明と共に待ち構えたカメラの深さまで降りてきてワイヤに取り付けられた水深45Mのマーカーをもぎとると、上方へ反転して長い脚ひれをユックリ力強く揺り動かして上昇していく。
水面に躍り出た彼女の歓喜の表情を水上のカメラが映し出す。今まで42Mの日本記録をこの時彼女が更新したのだという。ここまで来るのに強い勇気と冷静な長い身体への言い聞かせの時間があり、少しづつ記録を伸ばしていったのだそうだ。水圧で突然ゴーグルの中へ水が噴射してくるとパニックになりかけるが、それにも慣れた。
ハワイ島に8000坪の土地を購入した。子供たちに海を中心に自然体験教室を開く。次の課題は深海ダイビングの世界選手権に出場することだと言う。ほれぼれするほど素直な表情で奇をてらうことのない普通の女性だが、五体満足で努力を惜しまぬ彼女には無限の可能性が待っている。


<橋梁> 景観としての橋梁に興味をもち、写真の蒐集を始めた。その橋を渡る立場ではないので、橋に沿った角度、即ち前方に橋の路面が延びて行っている画面には興味がない。なるべく橋と直角に近い方向から橋の全長が画面内に収まるようにある程度距離を取ったものが好ましい。また橋だけでなくその地域性を特徴づけるような樹木などの周辺の物件を共に取り込みたい。
インターネットで探してみると、特定の名所の風景とか芸術写真などでは閲覧だけで画像の取り込みを防止しているものがあるが、この分野では滅多にそのような規制はない。日本でもまた外国でも自分の近くにある橋は特徴と独自の美しさを誇りたくなるのが人情で、橋の画像を多くの人に無償で見て欲しいと大多数の撮影者は考えているようだし、また法的な規制も少ないのだろう。
構造としては橋の重量を支柱に伝えるためにアーチ型ブロック積みなど路面の下部構造で梁を支えるものと吊り橋のように上部構造で支えるものに2大別され、最近は後者が圧倒的に多い。稀に両者折衷のもの、また梁自体の強度で直接支えるものがある。材質は木製、石造、煉瓦積、鉄筋コンクリート、鉄骨、鋼索などがある。
“世界の橋”として紹介されている中にも全長23mから支柱間1991mまであり、構造・材質はそれによって変わる。最近長大さを世界で競うようになると、皆吊り橋構造になり形状は似通ってきて、近代的な形状の優美さはあるもののもう一つ面白みに欠ける。本四連絡橋などで採算性はとにかく、日本の技術が世界一流なのは確かなようだ。上左は捩り振動で自壊し再建されたタコマ橋(米)、上右は因島大橋(日)。
昔の橋にはそれぞれ趣きがあるものが多く景観的に興味深い。日本では長崎の眼鏡橋、岩国の錦帯橋、熊本の通潤橋、上高地の河童橋、隅田川の永代橋。外国では中国の盧溝橋、フランスのガール水道橋、ロンドンのタワー・ブリッジ、ニューヨークのブルックリン橋、フィレンツエのヴェッキオ橋、スコットランドのフォース鉄道橋、ローマのヴィットリオ橋、パリのポン・ヌフ、オランダのマヘレ橋、ヴェネツイアのアカデミア橋などである。
これらは人類の知恵と努力の結晶としての歴史的な建築物で眺めて飽きの来ないものばかりだが、入手しようとして不成功だったのは二重橋である。戦前戦中天皇の象徴として度々新聞1面に登場した皇居正面入り口のこの橋は、現在どういう理由かよく分からないがインターネットでまともな写真が入手困難*になっている。いまどきその筋のお達しでということもない筈と思うのだが、現実にはあるのかもしれない。―後日注、これ*は理由は分からないが一時的な障害に過ぎなかったー
<気温変化> 先月中旬の残暑に愚痴めいた事を述べたら、今度は一遍に寒くなった。気象庁の専門家によると、今年は遅くまで南から高気圧が日本列島へ張り出していたが、これが引っ込むと今度は日時をおかず北から強い高気圧が出てきた。例年は両者の間にかなりの時間的な猶予があるのだが今年はそれがないので、秋がなくて夏から冬に移ると考えれば大過ないだろうと言う。
テレビで朝に夕に寒い寒いとアナウンサーがさかんに言うので、ついこちらも釣られて余計に気になってしまう。この間までは同じ人たちがいつまでも暑い暑いと嘆いていた。気象変化の異常は困るけれど、統計的に見ればこの程度のバラツキは昔からあっただろう。そう騒いでも仕方がないのでさっさと厚着をするしかない。火山の大噴火や大隕石の衝突でもあればとてもこの程度では収まらない。11月中は暖房をしないですますつもりでいる。
現在コンピュータの大型化・高速化の大きな需要は流体解析の精度向上にあるわけで、中でも気象予測は地球大気の流れ解析予測技術として昔より向上したことは確かだが、未だに1日先の予測の不正確さが相当に気になる状態だ。ましてや中・長期予報などは勝手にやっていろという感が強く、信用できない。現にこの項の冒頭で述べた現象について予告した予報など聞いた記憶がない。現況の百万倍ぐらいの演算速度になれば少しは頼りにできるだろうか。

<月の満ち欠け> 普段、今日が満月を過ぎているか未だかという事をあまり意識しないが、夕方の空に鎌のような細い月を見てああ上弦の月か、やがて満月になるのだなということを一瞬に考える。これは幼いころから承知していた訳ではない。よく考えれば月の出は1日ごとに1時間弱遅くなるのだから、日没前に月が見られれば満月前ということは分かる訳だが、私の場合は形で考えるようになった。
それは大学のドイツ語の講義で小城という教師が「“abnehmen”は「減る」、“zunehmen”は「増える」、これは筆記体で書いて第1字の形を月と比べれば分かる。この知識で月の満ち欠けとドイツ語の両方を覚えられるから一挙両得だよ」と教えてくれたのが印象的だったからだ。普段ドイツ語など全く使う機会がないがこういう形で役に立つこともある。
「上弦」というが夕方見ると月の右側が輝いているのでむしろ左弦という方が実際的ではないかと思い、広辞苑を見ると、「夜中過ぎに弦を上にして月の入りとなる」と書いてある。そんな時刻には寝ているから知らないわけだ。また「下弦」を広辞苑で見ると「月の入りにあたってその弦が下方になる」と書いてある。しかし明るくなる前に月は沈まないのだからこれは現実には見られない話だ。
ドイツ語は知らないが英語では上下左右はなくて、“crescent”(次第に満ちる)と“waning”(欠けていく)とだけ言う。昔の日本人の方がよく月を見ていたらしい。南半球ではどうなるのか。
<蛍光ペン> 10月冒頭、M.S.Wordの新ヴァージョンで環境変化に伴う不具合に余計な機能が多すぎると愚痴を書いたところ、私のズボラさに呆れたらしい友人から少し本で勉強したらどうかとアドバイスされた。一念発起して「Word2002 300の技」(技術評論社)という本を買ってきて頭から読み始めた。副題に「便利な小技に使いこなしのヒント、驚きの裏技まであますところなく伝授!」と書いてある。たかがワープロ・ソフトというなかれ、実に多くの機能があることに改めて驚き呆れた。私の場合、WindowsXPの日本語機能もろくに知らないので必ずしもすらすらとは読めないし、書いてあることを実際に試すので能率がなかなか上がらない。
どうでもいい事も多い中でこれはぜひ今後積極的に使いたいという機能があった。それは「蛍光ペン」で文中の要所にマーキングするもので、緑・黄・青・赤など多彩な色が使え、着色部の検索もできて例えば目次が容易に作れる、個別にあるいは文全体について色を変えたり色を消すなどプログラムならではの応用が自在に利くのである。
そのほかに長い英単語があると次行に送られて前の行が間延びする対策として単語の途中で折り返す機能とか、自動的なバックアップファイルの作成、特殊記号の入力法など知っていた方がよい事項がいくつもあった。問題は自分の記憶力で、一度読んで分かったつもりになっても全然当てにならない現状だから、目ぼしいものは拾い書きして繰り返して目を通し頭に叩き込むしかない。
やや邪道だと思うが「ローマ字の拡大使用」というのがあって、小文字の母音(ぁぃぅぇぉゃゅょ)に対応して利用できる子音として(l,x,wh,q,lk,qy,xk,qw,gw,c,sw,ts,th,tw,dh,dw,f,fy,fw,v,vy,ly,xy,w)を使い、例えば“くぁ”をqwa、“でゅ”をdhu、“ヴぁ”をva、“にぇ”をnyeというふうに入力する世界があることを知った。単独で“ぁぃぅぇぉ”と書くのならla,li,lu,le,loと、また“ゃゅょ”はxya,xyu,xyoと、“ゎっ”はlwa,ltuと入力する。
読み進むうちに設定換えができるいくつかの項目で“初期設定”が私などの常識と違う点がいくつかあることに気がついた。一応読み終わったので、改めてそういう事項だけを調べて書き出してみたいと思っている。まさしくこういう事が冒頭にお節介で余計な機能と難じたポイント解消につながるようだ。
<日本語観察ノート> 井上ひさしの随筆。副題で「人生の難局を切り抜け、難問を乗り越えるその力が“ことば”である」とある。話は政治家のうっかり発言から名前の付け方まで多様に展開している。氏は最近のことばの乱れを別に憂慮するようなことではないと言い、日本語の“辞書”の部分は開かれた体系で何でも呑み込んでしまうが、一方で“文法”の部分は閉じられた体系で外国語が入り込む余地はないと説いている。明快な分析で全く同感である。例えばこの頃若い人の多くが“私(わたし)**的には”という表現を“私は”とか“私の場合は”の代わりに使うのが気になっていたが、次第に慣れてきて敢えて排斥する必要はないと思うようになった。時間の経過の中でよい表現は残り、よくないものは自然にすたれていく。
文章を作る立場について「言いたい思いが強くあればあるほど、筋道を立てて話さざるを得なくなる。調べて、考えて、内圧を高めて、これを言わない内は死んでも死に切れないと思い込む」と書いているのは、確かにそうあらねばならぬと身にこたえた。流石の心構えで、こういうのを文筆家魂というのだろう。どうでもいいことなら書かない方がいい。
もう一つ尤もだと思ったのは近頃横行する“位はい”、“改しゅん”、“がい骨”、“せき髄”といった混ぜ書きの事で、ぜひとも混ぜ書をやめて漢字を使いなさい、そして読者に読みにくいかもしれないと思ったら振り仮名をつけよと説き、「振り仮名は常に傍らにいる教師である」と教えている。
なるほど振り仮名付きの文章というのも悪くない、折角M.S.Wordでルビの打ち方も覚えたのでホームページにも使ってみようと、試してみると、HTML文書に変換した時に本項冒頭の**マークを付した部分の如く“ルビ付き文字”が“括弧つき”に変わってしまうことが分かった。仕方がないことだし、ルビの字のサイズは小さくて読みにくいので、寧ろこの表現法の方がいいのかもしれないと思うようになった。
氏は続けて「面倒がらずに辞書を引き、語彙を増やし字の使い分けを確かめよ」と言っている。御尤もです。私も以前に紹介したように手許にデジタル辞書があることだし、当用漢字などにこだわらず漢字を多用し、振り仮名も躊躇しないようにしよう。昨今の中国では折角祖先が開発してくれた多様な漢字の使用を制限し、味気のない中国独自の簡用漢字を使っている。中国共産党というのは今回の党大会で資本家・経営者も党員として認める事にしたようだが、昔から使われた漢字の自由な使用は認めないのだろうか。私たち日本には漢字を多用する自由がある。

<負傷> 大相撲九州場所は昨日北の湖理事長が力士の休場者が多く、折角の興を殺いでいる事を特に来場の人たちに詫びた。名古屋場所では16名もの休場者が出て話題になったが、今場所も開幕直前に貴乃花が膝の悪化を理由に休場を申し出、武蔵丸も左手の故障で途中休場してしまった。二人の横綱不在で昇進のチャンスが来た筈の魁皇と千代大海が相次いで負傷・休場して上位から4人もいなくなっては、皆が気落ちするのも仕方がない。平幕でも3名の負傷・休場が出た。他にも痛みをこらえて何とか出場はしているが精彩のない力士がいて、力士のひ弱さというか壊れやすさに気が休まらなくなる。
貴乃花の場合、膝を傷め米国まで行って手術した結果が完治しないので、気力だけでは限界がありもう引退が近い気がする。それに比して魁皇の場合は元気一杯でご当地場所に臨んで、力の限り左下手投げに行ったら肩のへんでブツンといってしまったと述懐する。誰かが相撲は力比べじゃあないんだから程ほどにしないとと言っていたが、確かにこの人は嘗て力で相手の腕を痛め付けるような相撲を再三取っていたが、最近は自分の腰や腕を自分で壊しにいってしまう。
素人が言うのも何だが、技や動きの工夫で相手を制するような相撲に変えないと力士は自分で寿命を早めてしまうばかりだ。倒れ際に相手にのしかかられ脚を逆に捻って膝を傷めてしまうなどは最後にうまく体を抜く訓練をした方がいいのではと思わせる。一番の勝負にこだわって完治できない負傷を負うことがないような修練でもやれないかと思う。安芸島などは額を再三すりむいても、大怪我はしない相撲を取る術を心得ているように思う。誰か大怪我をしないためのトレーニングという講座を作って力士全員に講義をできないだろうか。
土俵の高さも安全面から気になっている。勝負の終わりに不自然な形であの高さを下へ転げ落ちて負傷したケースが少なくない筈だ。4人の審判役は常時墜落してくる巨体に潰される危険に面している。昔土俵の4隅に4色の柱があり視界を妨げるだけでなく危険だったので、天井から下げる4色の房に変える改善をしたが、土俵をすり鉢の底に置き桟敷席は高い角度から見下ろすようにすれば、土俵を盛り上げてあれほど高くしなくても見にくくはならないだろう。
<新産業> 機械学会誌の11月号には次のようなテーマを掲げてそれぞれいくつかの論文を載せている。「マイクロマシンに将来はあるのか」、「ロボットに新しいビジネス展開はあるのか」、「携帯電話はどこまで進化するのか」、「福祉機器開発プロジェクト、成功のシナリオは」、「日本企業が2020年世界でリーダーシップをとるためには」。裏を返すと逼塞したここ10年余の社会環境の中で日本の機械産業は明確なターゲットを持たず、ともすれば自信を喪失しかける中で、事務局として考え付く数少ない新産業の命題について何とか前向きの声を引き出したいと今回の企画になったと推測する。工学部の就職先は製造業よりサービス業が上回ったと報じられる昨今である。
今日は機械学会員宛の電子メールの一つとして“日本機械学会21世紀アンケート”なるものが届いた。「機械技術で5〜10年で解決すると思われる事項・問題」、「問題解決に必要な技術」、同じく「20〜30年後」についての2点の同テーマ、そして「30年後にも解決できないと思われる事項・問題についてその具体的な理由」、次に「機械系以外の分野の技術」について同じ5点の質問。そして「将来の技術的課題を解決するために機械技術者に求められるスキルは,何だと思われますか」、「日本機械学会の今後進むべき方向など,学会への期待・要望をご記入ください」とあった。
この際今の立場で自分なりの答えを出してみようと思い立った。最初の2問はおざなりにかわして、20〜30年後について「ロボットのオーダーメード」とし、その問題解決に必要な技術として「家庭で使いたくなるようなロボットに要求される諸機能を経済的に実現するための諸技術。例えば介護・リハビリ支援用ロボットに要求される機能は標準化された完成品モデルでは決して達成できない。多様なオプションに応じられるような諸部材や制御技術とその組み合わせ技術の開発・標準化による製造コストの大幅な逓減」と書いた。
30年後にも解決できない云々については「ロボットにとって恐らく最も不得意の分野でありまた昨今失われつつある技術として日本古来の職人芸が挙げられるが、こういうものは先輩(師匠)からの伝承により、なおかつ本人自身の努力と修練で一生をかけて育て上げるものである。この領域にロボットを挑戦させるにはそれを育て上げる人と改良を続けるロボットとの絶えざるコラボレーションが不可欠であろう。産業化のためのコスト的な制約は当然ながら最も厳しい」と書いた。
機械系以外の分野の技術の項には「上記のロボット産業はある意味で人にできない事を含めて人のあらゆる活動の代替を果たすものの実現を図るだけに無限の可能性があるし、あらゆる工学系の技術を結集することが求められる」として同一テーマに固執し、機械技術者に求められるスキルとしては「別に機械技術者に限らないことだが、他人・他社のアイデアによる要素技術を如何に取り込み、組み合わせるかがポイントだと思う。その意味では特許制度は障害になるが、最終的な成果を共に受容する中で政治的に問題を解決する仕組みが併せて求められる。」と書いた。
学会への期待・要望については「上に取り上げた問題をせめて日本国内に限ってでも積極的に解決する場を設けて頂けないでしょうか。日本国内産業の空洞化を防ぐためにもぜひ必要と考えます。」として多分無理だろうが、政産学3者が一体になって有機的なプロジェクトを立ち上げるように記してみた。
学会誌の論文を読むと、私の挙げたオーダーメードのロボットはパソコンの組み立てのように一般の半ば素人が必要な要素を買い集めてキットを組み立てるように扱うのにはとてもとても程遠いのが現状で、投稿者の一人(メーカから大学教授に転じた人)は自分の失敗の積み重ねの中から「どんなロボットが事業として成功しないかだけは的確に予測できるようになった」と言い、また「ロボットを語るとき、“人に代わって”という言葉こそロボットの新事業を阻んでいる最大のものである」と言い、「ロボットが人にできることをやれば人には勝たしてもらえない、人にはできないことをやるべきだ」と言い切っている。私には弱音とも思えるが、私企業にはそれだけ容易ならぬテーマなのだろう。
事業が成立する基盤は言うまでもなく価額だが、同じ人が多様サービスの分野では現状の1/5から1/10に下げなければならず(本当はその程度ではまだ不十分ではないのか?)、そのためにはロボット分野全体を市場とする部品共通化、モジュール化ソフト、これらのオープンインターフェースとプラグイン化を国レベルで行なうべきと言っている。確かにメーカーが個別に取り組むテーマではない。また現在を生き抜かなければいけない企業がこのように息の長い取組みを要求されるプロジェクトに長期間参加・注力できる余裕があるかどうかは問題が多い。
今景気対策として臨時予算を組み公共事業を立ち上げるべきと国会でも騒ぐが、肝心の公共事業の中身については一向にアイデアが出てこない。こういうテーマこそじっくり腰を据えて取り上げたらどうか。但し予算の付け方、発注法を官に任せず、実行チームと評価チームを独立に立ち上げて時々刻々軌道修正を怠らず、成果は民間に開放していく巧みな運営が求められる。国家のために一身を投げ出すような気構えと構想力に富んだ優れたリーダーが必要だ。ぜひロボットの日本と言われるようになって欲しい。