12月の話題


2002年12月

<カタロニア讃歌> パブロ・ピカソの“ゲルニカ”という有名な絵で20世紀前半の第2次大戦直前に、スペインで全国民を巻き込み同胞が殺し合い、筆舌に尽くしがたい苦悩を人々に植えつけた内乱があった事を知っていたが、その実態を知らずに過ごしてきた。このたびジョージ・オーウェル著の「カタロニア讃歌」(現代思潮社)というノン・フィクションのレポートを読み、改めて矛盾に満ちたその市民戦争にからむ人間社会の動きの記録の一端を読ませてもらった。
 1930年代のヨーロッパは重苦しいファッシズムの嵐に包まれていた。そんな中でスペインのバルセロナと周辺のカタロニア工業地帯には先進的な労働運動の革命的な高揚が育ちつつあり、1936年7月フランコ将軍の叛乱に反対して決起した反ファッショ闘争の主導権を労働戦線が握ることになった。軍隊や警察への支配力を失って弱体化したブルジョア共和国政府に対抗して武装したプロレタリアートが創設した革命的委員会が優勢になり政府的な権能を帯びていった。英国人オーウェルは新聞記事を書こうと1936年12月バルセロナにやってきたが、進行する革命の雰囲気に呑まれ外国報道員の特権も捨てて自発的にPOUM(マルクス主義統一労働党)市民軍に参加してしまった。
 彼は語っている。「労働者階級が権力の座についている町に身を置くのは始めての経験だった。物資はすべて不足気味だったが、人々は満足し希望に満ちていた。何よりもまず、革命と未来に対する信頼があり、思いがけず平等と自由の時代に生きる喜びがあった。人間は資本家の機械の歯車としてではなく、人間として行動しようとしていた。」「外見上は富裕階級が街に存在しなくなり、誰もが粗末な労働者階級の服か不揃いな民兵服を着ていた。誰も“セニョール”や“ウステー”と言わず“コムラード(同志)”や“トウ(お前)”と言った。多数の裕福なブルジョアが当時一時的に身をやつしてプロレタリアを装っていたとは思わなかった。」
 当時スペインにはPOUMの他にCNT(労働国民連合)とUGT(労働者総同盟)があり、マドリードでも反ファッショ合同市民委員会が組織されていたが、強力なソヴィエト(労働者農民兵士評議会)によりブルジョア政府を抑え込む革命的指導部はこれらいずれの政党にも存在しなかった。二重権力の提起する二者択一の掟を理解しなかった労働者諸政党は考えが甘く、次の段階ではブルジョア政府との連合を日程に載せつつあった。一方でスターリニスト共産党はロシアとイギリス・フランス帝国主義との軍事同盟の代価にスペインのプロレタリア革命を圧殺する課題をもち、カタロニアにPSUCと称する社共合同政党を設立して労働者組織からの脱落者を集め、ロシアの武器が到着するやPOUM、CNTに対する殺人的キャンペーンを開始していた。これが反動的粛清の合法化に繋がり反革命が勝利する転換点となった(こういう事実は現場にいる著者には分からない。私もこのような事情を著者の手記ではなく、著書の後に付された訳者の解説で知った)。

 著者は乏しい装備で戦線に出かけ、ファッシスト軍との小競り合いに終始する塹壕戦を4ヶ月経験した後、休暇でバルセロナに帰ってくると、労働者階級の支配力は衰え旧体制の復活が顕著になって状勢は急変していた。人々は戦争に無関心になり、金持ちと貧乏人、上流階級と下層階級へという社会の通常な分化が鎌首をもたげていた。見ず知らずの人に君や同志では呼ばず、昔通りセニョールやウステーになっていた。
 1937年5月革命勢力(アナーキストとPOUM大衆)対支配勢力(政府治安警察隊とPSUC)の衝突としてバルセロナ市街戦が始まり、オーウェルもこれに巻き込まれる。バリケードが築かれ激しい市内戦が始まるが、手記を読む限り混迷の中で客観状勢は分からない。実際はここで労働者連合は決定的な敗北を喫した。大衆の自然発生的な抵抗も空しかった。そしてスターリニスト共産党はこの事件をPOUMの計画的な犯罪として徹底的な非難を行った。政府はPOUMの非合法を宣言した。革命が最終的に鎮圧されたのは1939年1月だが、この時点で革命は実質的に破産し死滅していた。
 オーウェルは戦線に復帰するが早々に咽喉部貫通銃創の重傷を負って野戦病院を転々とする。傷が半ば癒えてやっとのことでバルセロナに戻ると無慈悲なPOUM弾圧が始まっていた。コミュニストに支配された秘密警察は全員が同罪であるという想定で行動し、POUMと関係のあった者全員、負傷者も看護婦もPOUM党員の妻も時には子供さえ手当たり次第逮捕した。彼が尊敬し共に戦ったベルギー軍人を牢獄に訪れた時、その友人は不潔な場所でもきちんと制服を着て髭もあたっていて、快活に「まあそのうち、われわれはみんな銃殺だと思うよ」と言った。
 オーウェル夫妻はやっとの思いでスペインを脱出する。奇妙な事に安全なフランスの地を踏んだ夫妻は言うに言われぬ失望を感じ、こう述べている。「気違い沙汰に見えるだろうが、私たち二人とも望んだのはスペインに戻ることだった。誰の得になることでもないが、二人ともスペインにとどまって他の人たちと一緒に投獄されていた方がましだと思った」。彼は「いくつかの表面的な事件を記してきたが、それらが私に残していった感情をうまく記すことができない」と嘆いている。その思いが著書に付けた題名”Homage to Catalonia”に集約されている。Homageは“讃歌”と訳されているが、むしろ“満腔の敬意”とでも受取るべきかと私は思う。
 当時オーウェルのみならず世界から腕利きのジャーナリストがスペインにやってきたのは、スペイン市民戦争がヨーロッパ知識階級に甚大な影響を与えたからだ。当時の日本人は全く関心を払わなかったけれども。「“人間の尊厳”ということばに意味が残っているのならそれはスペインのお陰だ」という人がいる。ファッシズムの圧力で皆が小心翼々の時代に、ここでは民衆や個人一人一人の自発性や広範で根強い抵抗があった。挫折し取り返しのつかぬ敗北の憂き目に遭ったことではあるが。

<ケータイの形態> 些か興味を感じる随筆(草思社)に出くわしたのでここに紹介する。なお私自身は日常生活に必要ないので目下流行の“ケータイ”と称する物品を所有していない。 −ケータイは私からいつも逃げようとする。家の中で姿を消すこともしばしばだ。そんな時は家の電話でケータイを呼び出す。私のケータイは洋服ダンスの中で受信ベルを鳴らしてこたえてくれたり、稀にはトイレの中から応答する。胸のポケットに入れたケータイは上着を脱ぐときポケットから滑り落ちたがる。先日も新幹線で私の隙を狙って床に落ちたケータイは勢いよく通路をすべり、かなり先でようやく止まった。いまいましい気持ちで座席に戻り、私はケータイを手にしてその形を仔細に観察したー
 ここで著者は本題の“ケータイの形態”論に入っていく。−なんとも滑りにふさわしい形である。俗に自由曲面といわれる面に囲まれた形だが、この形はここ10年身の回りにどっと溢れた。カメラや家電、情報機器、自動車にいたるまで、ぬんめりとした曲面におおわれた形がわれわれ周辺に溢れている。なぜこんな現象が起きたかを考察してみようー とある。いよいよ興味を惹く。
 著者は戦後間もなくカメラ会社に入った技術屋のOBとある。私も似通った境遇だ。若いころひたすら製図板に向かってT型定規と三角定規とコンパスと鉛筆で図面を描いた。その時代彼の設計の手本はライカだったと言う。そしてライカに対する愛着の根源はそのボデイーの握りやすさにあり、そのまた根源は定規とコンパスで描ける単純明快な形、握るという動作のためのわずかな抵抗感が人の手によくなじんだ、なおかつ適度な丸さと厚さ、長さがいいバランスをしていたとおっしゃる。蒸気機関車や扇風機も含めてこのような機械美は旋盤やフライスによる直線と円弧の組み合わせによる形態で成り立っていた。
 戦後長らくこういう時代が続いたが、1990年前後から急激な形の変化が起きラウンドフォルムが出現している。著者はこれを“風呂場の石鹸”と呼んでいるが、日産の“シーマ”も小型全自動カメラも手からツルリと逃げてしまう丸い肥満体になり、ライカの引き締まった粋さが消えてしまった。これは設計・生産手段のコンピュータ化によって到来したCAD/CAMの成果(?)であり、デザイナやエンジニアはコンピュータでしか描けない自由曲面を多用し、生産側はNCマシンが高い精度で複雑な形状の部品や金型を作ってしまう。
 著者ははじめの内こそ新鮮と感じたが、今や猫も杓子も採用する軟体動物のような自由曲面にかなり食傷していると嘆いている。全く同感だ。私の場合は買い換えたテレビのリモコン端末がまさしくそういった形状のために握りにくく、時たまツルリと床に落としてしまい、その度に衝撃で裏蓋が外れ電池が転がり出てしまう。腹を立てて裏面一杯に大型のガムテープを貼ったので、折角の最新デザインは醜くなったが構わずに毎回風呂場の石鹸の握りにくさを我慢して使っている。考えてみればCAD/CAMのお陰で状況が改悪されたというのは正しくない。使う方(設計者)の心がけとしてつい世の風潮に倣うだけで、手に適当な抵抗感も与え且つ結果的にうまくなじむような真に人間工学的な設計に無関心な事こそ責められるべきだ。

<ヨットマンの芸術支援> ビートたけしのTV番組“誰でもピカソ”は石原慎太郎東京都知事を招き、彼の支援する大道芸人たちの芸を紹介した。若い芸人たちの芸名は憶えられなかったが、それぞれ誰の真似でもなく人を飽きさせない独自の芸を見せてくれた。それを見守る慎太郎は手放しで嬉しそうな表情を見せていた。決して批判でもまた評価する眼でもなく、保護者の暖かい眼だった。芸人たちは従来は警察の干渉におびえながら演じていたが、今は警察がむしろこういう街での出し物を嚇すやくざまがいの連中から保護してくれるお蔭で安心してやっていけるようになったと喜んでいた。
 慎太郎本人は若い時に絵を描いたこともあるし、物書きの道に入って早くから世に認められた(*芥川賞受賞)のでその道を進んでしまったが、映画監督の道を志したこともあったし俺は本来芸術家なのだと言い、若い人は大学を出てチマチマと会社などへ入らないで、こうやって(眼前の大道芸人たちを指す)自分の好きなことをやるのがいいのだとのたまう。
 彼の原点は弟裕次郎とともに父にねだってヨットを買ってもらったことに始まる。あの当時よく買ってくれたものだと述懐しているが、それから湘南の海は彼らの修練の場になった。*「太陽の季節」はそこから生まれた。誰だったか度忘れしたが彼より年長で確か今も存命の有名人が「コイツらはなんてぇ贅沢なことをやってやがるんだ」と言い、呆れ羨ましがって後から海岸に別荘を求めヨットを習い始めた。強風の吹く湘南の海でのその人の苦労話が伝わっている。一方のご本人は押しも押されもしない政治家になってしまった今でも一流のヨットマンだと自認している。
 世の中に彼ほど個性が強い知識人も少ないかもしれないが、彼が両頬に笑窪を作る独特の笑顔を見せると、何でも許せるような気になるから不思議な人だ。文学賞の審査員としては大抵辛口の批評に終始しているし、国の政治家の中韓国への低姿勢はボロクソにけなすが、こういうユニークな人が同時代に生きていることを心底から嬉しく思う。願わくば世間のおだてに応じ首相に乗り出したりして寿命を縮めないように。なべて中庸が求められる総理大臣に芸術家がなったりするとロクなことはない。重箱の隅をつつくようなしつこい話や何とか挑発に載せようとする輩のたむろする国会の委員会審議を連日事無く了えるには忍耐と寛容という別の資質が要る。

<人の脳について> 昔パスカルが「人間は考える葦である」と言った。人は言葉によって考えると言われる。また人と他の動物たちとの差異は言葉を使うか否かだとも言われる。だが抽象的にそう言っているだけでなく、その具体的な仕組みについて究明が始まったのはごく近年のことらしい。「言語の脳科学」酒井邦嘉著(中公新書)を読んでそのあたりの認識を少しもつことができた。東大大学院総合文化研究所・助教授の著者は“言語に規則があるのは、人間が規則的に言語を作ったためではなく、言語が自然法則に従っているためである”と言い、著書の中で言語がサイエンスの対象であることを明らかにしたと主張する。
 米国の言語学者ノーム・チョムスキー(1928〜)は“人間に特有な言語能力は、脳の生得的な性質に由来する”と主張して20世紀後半の自然科学・人文科学・社会科学のすべてに影響を与え、未だにそれが十分に実証されていないために多くの人々の賛否両論の渦中にいる。著者は米国ボストンでMRI(磁気共鳴映像法)を使った研究に続き言語学を学び、チョムスキーの思想に直接触れて、言語の問題の奥深さを知ったと述懐している。著書の目的はチョムスキーに対する誤解を解き、言語の問題を脳科学の視点から捉え直すことが目標だそうである。
 言語の脳科学はまだ始まったばかり(実質的には1990年代から)で、学問の目指すべき具体的な方向も定見がないそうだが、著者によれば次の3点を目標にする。1)人間にしかない言語機能を“文法を使う能力”と捉え、文法は脳のどこにあり、他の認知機能とどう分かれているか解明する。2)文法は如何にして脳に作られるのか、その基本メカニズムが言語の違いや個人差に依存しない普遍的なものである理由を解明する。3)言語はそれ以外の事象の認知機能と何故違うのか、その神経メカニズムを解明する。−著者は特に文法の法則性とそれを支える原理を知りたいと言う。
 “言語とは心の一部として人間に備わった生得的な能力であって、文法規則の一定の順序に従って言語要素(音声・手話・文字など)を並べることで意味を表現し伝達できるシステムである”と定義できる。チンパンジーは複数の手話単語を覚えることまではできるが、これらを組み合わせて文を作る能力はない、即ち語順がない。チョムスキーは人間であるかぎり生得的に備わった言語能力をもつ、即ち脳に“言語獲得装置”があり、これは個別言語データを入力として個別文法を出力する装置であると述べた。文法の獲得ができるのは人間にかぎられる。
 言語の本質は何かという問題を詰めるとその構成要素として“形式”と“内容”に分けられ、前者は文法例えば語順の規則性であり後者は意味であって、それぞれ“統語論”・“意味論”として言語学の二つの主要な研究分野になっていて、他に音声がどのような法則で人間の言葉になり得るかという問題を扱う“音韻論”がある。この三要素はそれぞれ処理が単独かつ自動的に進むが、互いに補い合って働くもので、“モジュール”と呼ばれる。まだ証明されてはいないがこれらのモジュールは脳内の異なる部位で主として扱われると考えられる。
 ワーキング・メモリーという概念がある。電話番号のような意味のない独立の数字を一時的に忘れずに保持できる情報の数(記憶容量)はマジカル・ナンバーと呼ばれ、“7プラスマイナス2”個と言われる。しかし文を覚えるときは20以上の単語からなるものでも問題ない。文法や意味と関連付けて用いられる言語の記憶はワーキング・メモリーとは本質的に異なる性質をもつからである。両者が脳内で扱われる主部位に差異があることは容易に推定される。
 脳の活動を画像化するための手法として神経活動の盛んな程度に応じて放出されるガンマ線を捉える“PETの方法”と、血液中のヘモグロビンの変化をMRIの信号値で捉える“fMRIの方法”が、また近赤外線レーザ光によって脳の局所的なヘモグロビンの濃度変化を調べる“光トポグラフィー”という技法が開発された。また異なる段階での状況の差異をそれぞれに対応する画像の差として求める“差分法”が考案された。このような元来医療機器として脳の病変を調べるために開発された機器の動的な応用によって、主として言語活動で脳のいかなる部位が如何なる時に活動するかの研究がごく近年進み始めた。例えば綴りの間違った文と文法的な誤りを含む文を見せた場合では後者の方が強い脳活動が起こり、特にブローカー野という脳の特定の部所(左脳・側頭部)は文法処理に特化していることが分かった。即ち統語論のモジュールはブローカー野にある。
 最後に著者が嘆いている問題を挙げておく。一つは学会が古典言語学の“語彙論主義”というあらゆる言語の現象を単語レベルで説明しようとする立場にこだわり、文を扱う“統語論”の立場を避ける傾向がごく最近まで続いている事、もう一つは日本で言語研究の大半が著しく文系に偏っていることで、既述の脳機能の計測法などの科学的な手段を用いる上での制約が多い事だ。著者は文系と理系の境界領域にある言語の脳科学で、文系と理系の垣根は百害あって一利なしだと批判している。全く尤もだが、古くからある学界慣行という障害の打破には時間がかかるのだ。もう一つ私の感想としてロボットばやりの昨今だが、この領域をロボットに存分に取り込むのにはあと1世紀近くかかるだろう。それでも無理かもしれない。

<最近のN.H.K.> NHKのBS放送は、アナログ時代にわずか10年間で、1500万件(受信料不払い者も含む)もの視聴者を獲得した。ギネスブックものの記録だと言われている。NHKはBSデジタル放送を別としても、地上波で2チャンネル、BSアナログ放送で2チャンネルを保有しているが、視聴している限りではあまりコンテンツ不足に悩んでいる様子はない。むしろ、オリンピックなどのイベントがあるたびに、「BSは全部やる」を謳い文句にして視聴者にアピールしてきたくらいである。
 NHKの巧みさは、必ずしも多チャンネルの強みだけではなく、地上波とBS放送間での番組のやり繰りに注目したい。朝の連続ドラマや日曜夜の大河ドラマなど、地上波とは放送時間をずらしてBSで流すケースは多々ある。地上波で放送している時間には見られないが、BSで放送されている時間になら見ることができるという人も多い。VTRで録画しておけば済む話ではないかと思われる方もあろうが、NHKのファンには中高年者が多く、VTRの操作がおっくうな人も少なくない。タイム・シフトで視聴できる便利さを評価する視聴者が多いようだ。またNHKにとっても一つの番組を繰り回して使えば、制作コスト面のメリットもある。
 一方で地上波民放の場合には、1チャンネルしかないため、再放送を視聴者が喜ぶようなかたちで行うことが難しい。その上に地上波とBSを同じ同一法人が放送するNHKに対して、民放の場合は地上波とBSはあくまでも別会社。このため地上波での番組関連契約は、BS放送にまで拡張できない。民放系のBSはNHKの成功例を踏襲できない。このため、「予算に限りがあって良質な番組が作れない」「視聴者が集まらない」「予算がさらに制限される」という負のスパイラルが続いてしまうことになる。同情はする。
 NHKの番組での人使いの荒さに最近気がついている。固有名詞を出すのははばかられるが、同じアナウンサーがおやここにもという具合で暇のないほどの活躍ぶりである。それも特別の人だけではない、あの人もこの人も、男も女も頑張っている。“試して合点”という番組の裏話で司会役の立川志の輔が述懐していたが、番組を陰で支えるスタッフ陣の事前の調査・準備の周到さには頭が下がるというし、小野文恵アナもアナウンサーの枠を超えた名解説役ぶりを演じている。国会でNHKの半期ごとの予算審議があるが、会長が答弁に窮するような辛辣な質問など一切なく、毎回文字通りシャンシャンで通過している。ぜいたくでない予算の中でよくやっていることを皆認めているのだろう。民放に対比してのNHKの放送の充実振りは世界にも誇れるのではないだろうか。
 敢えて言えば地震の後の津波警報などで、公的な報道機関としての義務なのではあろうが、半日近くも予定していた通常番組を中止して海岸付近の住民への注意と避難勧告と静かな波の打ち寄せる海岸風景を繰り返し流し、ウンザリさせることがある。こういう場合に限りやむを得ず、逸早く通常の番組にチャッカリ復帰している民放に避難することにしている。また例年のことだが年末・年始の番組には、アナウンサやスタッフたちの正月休みのためではあろうが、ロクな放送がない。折角の休みでくつろいで、どれテレビでも見ようかというサラリーマンの皆さんには同情します。この辺は褒めるのも割引しなければならない。

<コンピュータ電話> 電話がかかってきて受話器を取ると、一瞬の間をおいて事務的かつ平板な声で「これはコンピュータ電話で、女性の方にアンケートをお願いしています。ピンポーンというチャイムの後でお答えください。」と前口上があって、「奥様は着物が好きですか ピンポーン」と来た。相手を男とも女とも確認しないままだから断りようもなく、「いいえ」と答えるとちょっと間をおいてプツンと切れた。恐らく返事の声の周波数の低さで男の声と判断して接続を切ったのだろう。
 まだ始めて間もないから不届きな点があるが、その内に相手がアンケートに協力してほしい相手であるかどうかを予め確認した上で必要な会話に入るように改良するだろう。音声認識機能と組み合わせたソフトを開発した人間が陰にいるのだろうが、今後こういうものが流行ると、それでなくても投資案内や墓地の斡旋など招かざる電話が多いのに、またそれが増えて困る。こっちもコンピュータがかかってきた電話を予め取り、相手を確かめた後に本人が出るようなソフトを組み込まないとやっていられないような時代になるのだろうか。

<治癒力> 過去に一度取り上げたような気がして総目次をざっと見直してみたが、見当たらないので改めて紹介する。アンドルー・ワイル医学博士とその著書「人はなぜ治るのか」(日本教文社)。医療の問題についてはこの随筆で度々取り上げているが、これほど明快かつ統合的に人の健康保持と治癒の仕組みおよび医療全般について論じている人と著書は世にないのではないかと思う。もしこの方面について日常大きな不満や疑問をお持ちの方には、少々分厚く読みでのある本ではあるがぜひ一読をお勧めしたい。
 詳しく説明すれば著書全体をなぞらなければならないが、サムエル・ハーネマン(1755-1843)は当時の正統的な医学に愛想を尽かして、“ホメオパシー”と呼ばれる医療体系を創り出した。原理は類似の法則(類は類を治す)というもので、“健常者に特定の症状を起こす物質にはそれと類似する症状を呈する病者を治す効力がある”という。彼は症状の対立物を使う治療法(例えば熱を下げるのにアスピリンを使う)を“アンテイパシー”と呼び、また当時の多くの医師が行なっていた英雄医学(当時好んで瀉血をした)を“アロパシー”(その病気とは別のもの)と呼んで軽蔑した。
 “ホメオパシー”は薬理効果の2相性(薬の直接作用とそれに抵抗するからだの反作用)を利用して自然治癒力をひきだそうとする。彼は第2法則として無限小の法則“薬は正しく希釈されれば投与量が少なければ少ないほど、病気に抵抗するからだの生命力を効果的に引き出す”を考えた。この治療法はヨーロッパからやがて米国に普及し、19世紀前半アロパシー医学を凌ぐ勢いを見せた。
 しかし19世紀後半になるとアロパシー陣営はA.M.A.(アメリカ医師会)を作り、英雄的療法の瀉血と甘汞を止めて麻酔薬と消毒アルコールを使うようになった。彼ら科学派の批評家はホメオパシーの無限小の法則を“希釈を重ねていくと軽くアヴォガドロの限界をも超えてしまう”と言って嘲笑し反撃に転じた。ホメオパシー医は医師会から除名されるようになり、弾圧に屈して変節を始めた。ついに米国のホメオパシーは19世紀末に空中分解してしまう(最近また復活しているが)。今やアロパシー医学は世界中で主流を占める治療法になった。莫大な資金と一流大学の知的権威という裏づけをもち、最新実験科学と臨床的成功例に支えられて、我々の生活と思想に対して法律や宗教にも劣らぬ強い影響力を及ぼしている。

 しかし現代医学があまりにも高価かつ危険に過ぎ、ますます攻撃的な手法や高度な医療機器、そして危険な薬剤への依存度を高め、かつ本当に治したい病気は治せないという不満は高まるばかりだ。アロパシー医学界は物質としてのからだにだけ注目して、健康と病気にはつきものの心や魂の問題を無視するだけでなく、あらゆる代替医療に対して閉鎖的かつ好戦的で、隙あらばつぶしてやろうと臨んでいる。
 一方で治療行為と称して各種の検査を習慣的に実施の上で、内科医は狭い専門分野だけの判断で副作用にお構いなしに投薬を乱発し、外科医は摘出手術を乱用する。現在のアロパシー医学は明確で統一的な基礎理論がなく、病気の特異的・物質的な作因の証明とその作因を抑え込む個別的な治療法とに関する厖大かつ煩雑極まりないデータの集合体になっている。彼らの仕事の大半は病気が起こってからその病気と戦うことであり、その病気の引き金となった作因を真の原因だと誤認して、そこに戦いを仕掛けるのである。
 異端医療と称せられるものにオステオパシー、カイロプラクテイック、ナチュロパシーなどがある。オステオパシーは関節をポキッと鳴らすように修復して血液の循環を改善し神経機能のバランスを回復させることで治癒を促す方法、カイロプラクテイックはあらゆる病気の原因を椎骨の関節間転移に求め、背骨に手技を加え椎骨を調整してあらゆる病気を治す方法、ナチュロパシーは正統派の治療に不満を抱く人々が編み出した水療法を含む各種の療法だが外科手術や強力な薬剤の使用には反対する。
 他にエネルギのバランスを見、病気の初期段階を重視して鍼、灸を用いる伝統的な東洋医学(その理論は西洋医学者には理解不能である)、原始的な狩猟民族が頼るシャーマニズム、米国で生まれ物質は精神に従属すると考えるマインド・キュアーあるいは信仰治療、心霊治療、またナチュロパシーと類似して内容の明確でないホリステイック医学などがある。

 著者はこれらすべての治療法について絶対に効かない治療法はないし、また絶対に効くという治療法もない、患者と治療家の双方のその治療法に対する信仰心が鍵だと言う。このような問題を突き詰めていったときに著者はプラシーボ反応あるいはプラシーボ効果に治療の本質があると指摘する。“プラシーボ”というのは医師の専門用語で“患者を益することはなくても気休めになる薬の総称(俗に言えばだまし薬)”である。
 またプラシーボには活性なもの(鍼や注射のように患者にとって明らかな手ごたえのあるもの)と非活性なものとがあり、明らかに活性プラシーボの方がより重要だ。著者は力説する。“治療に対する純粋な治癒反応としてのプラシーボ反応こそ医学の最も重要な果肉であり、医師はプラシーボ反応の除外でなく包容にこそ心を砕き、より多くそれを生じさせる努力をすべきだ”と。個々の患者の内部からの治癒力を最もうまく引き出すことが重要なのだと。
 著者はイボ取りが深刻ではなく卑近な例ながらそのメカニズムが心と関係がありかつ未だに解明されておらず、深刻な命題であるがん治療との類似性にかんがみて、イボの自然治癒のメカニズム追及に多大な予算を投入する価値があると説く。また著者自身アロパシー医学の教育を受けその免許をもって実践に当ってきたアロパシー医の一人として、現代のアロパシー医療の適用を推奨する領域とそうでない領域があることを明確に認め、後者に対しては現代医学以外の治療法を探すと明言している。因みに彼はウイルス性疾患(肝炎やポリオ)や代謝性疾患(糖尿病)、一般的な癌、リウマチ、喘息、高血圧症、多発性硬化症ならびにもろもろの慢性病を後者に挙げている。またアロパシー医は口先だけは予防医学の必要性を説くが、今日国民の多くが冒されその死因となっている病気の大半の予防は彼らの手に余ることであると述べている。

<断絶> 漫然とテレビを見ていると、若い二人の女性が話し合っている。話題は幼い子供たちに平和の大切さを実感させるのが如何に難しいかということだった。彼らを誹謗する気は全くないが、経験のない日本の若い世代にとって “平和ボケ”という現象はアフガンやアフリカ南部の現場を直接訪れないかぎり避けられないのが現状なのかもしれない。
 自分の少年時代の体験をまざまざと想い出す。それは昭和20年の春の末、疎開で農村に住んでいた小学6年の自分には勉強しろなどと誰も言わないし、迫り来る戦争の圧迫感だけは常時身に受けていた中で、4kmほど離れた岡崎の中心地へ徒歩で漫然と訪れた。康生町という市の中心街で見たものは男たちが大勢で掛け声をかけながら鳶口で家を引き倒している状景だった。
 折りしも米軍の爆撃は日本の大都市をあらかた壊滅させ、主要な中小都市に目標を移していた。人々は焼夷弾爆撃による延焼を最小限に留めるために、立ち並ぶ家並みの “間引き”を実行していたのだ。子供の私はそのような作業に先立ってどの家々に手を付けるかという深刻な話し合いはもちろん直接聞いていないし、犠牲になった家族の悲嘆も目にしてはいない。見たのはあちらでもこちらでも濛々と土煙を上げて倒される家々の姿だけだった。しかし関係者の心情は子供心にもよく分かったから、暗然とした心を抱いてトボトボと家路をたどった。
 それから1月も経たぬある日、果たして岡崎は爆撃を受けた。夜激しい爆音に屋外に出ると西の空は真っ赤に燃えていた。翌日のこのこと見に行くと、間引きをしたにもかかわらず、その中心街は一面の焦土と化していた。アチコチで余燼がくすぶり、どこも異様な匂いがした。屹立していたのは電柱の燃えカスぐらいだった。泣き叫ぶ人などどこにもいず、住んでいた人はどこへ行ってしまったのか静かだった。
 自分の第一の感想はこれで平等になったなということだった。少しぐらいあがいてもダメだ。帰り着く自分の住処は閑散とした農村の一隅だから爆撃は免れた。同行者はなく凡そ一人で行動していたし、親たちは生活に必死の毎日だったようで、これらの事柄を当時人と話し合った記憶はないが、事態は子供心ながら身にしみた。とにかく生きていることが大事だなと単純に思った。こういう体験を次世代あるいは2世代後にうまく伝えられないのを断絶という。ことばで話しても上滑りしてあまり役に立たない。

<祭り> 老齢の母の無聊の慰めに毎日1枚絵葉書を送っているが、その画材を求めてインターネットに入り、“祭”で検索してみた。早速「ニッポンの祭」−祭百景データベースーに出会った。“北の大地から南の島々まで、ニッポンの四季を彩るふるさとの祭を全国39社の地元新聞社がくわしく紹介します”とあって、季節の月別に245件(現在)の祭りを色彩豊かな写真とその由来の説明文とで紹介している。日本人としての共感と情熱が競合する組織を繋いで損得抜きで見事な企画を実現させている。
 最近生まれたもので○フェステイバルなどと名付けたバタくさいものもたまにはあるし、花火はあまり地域的な特徴が捉えにくいので除外すると、大勢は伝統的な歴史に支えられたもので、昔より衰えるどころか若い人たちの積極的な参加で盛り返している感が強い。1枚1枚の写真を眺めると、実に色彩豊かで美しく、装束は見事に揃っていて、出し物は見物を驚かせる迫力があり、参加者たちの表情が皆生き生きしていて、かつまた祭りごとに実に多様であって、静止画面ながら激しい動きと熱狂の喚声が伝わってくるように感じられ、見ていてすこぶる楽しくなる。人はなんと生き生きした表情を見せることか。阿波おどりでは踊り狂う男たちを15の写真を組み合わせて見せてくれる。
 さして広くもない日本列島で季節に応じ地方ごとにこのように多彩な祭りが毎年催されているのは何と嬉しく有り難いことだろう。私など詳しいしきたりを一向に存じないが、個々の祭りは何ヶ月も前の準備段階から最高潮に達するまでに多くの人たちが伝統をふまえて地道な努力が積み重ねている筈で、決して一部の人間の勝手な振る舞いに左右されているわけではないことが大事なところだ。また京都祇園祭などで言えば山鉾巡行の一場面だけが写っているが、一つの祭り全体をとっても見るべき多くの状景がある筈だ。
 来る正月の初詣は今年よりさらに多く、限りなく1億人に近い人たちが新たな年の多幸と景気回復の早からん事を願って神社仏閣にお参りするとの報道の予測が出ている。自分はハンデイがあって参加できないが、伝統に従って祭りや初詣に躊躇なく参加する日本人が大好きであり、この国に生きていることを心から嬉しく思う(上掲は"よさこい祭"(高知))。


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