
<むら社会> 富士銀行が新設30店で土日曜も全面営業と毎日新聞トップで報じた。これからの企業競争を生き抜くために銀行もやっと目覚めたかと少し心がなごむ。口先では「差別化」と言いながら日本社会ではあまりにも横並びが多すぎる。新聞休刊日などスポーツ紙以外は一斉に休む。テレビのある番組で話題になりなるほどと思ったが、日本では「あの人は変わっている」というのは仲間として受け入れがたい感情をストレートに表現するものだそうだ。理性よりもっと本能的なところで多くの日本人が仲間(友人)に同質性を求めるのは長い農耕社会で先祖が培った精神的な遺産だろうか。私の父の系統は代々百姓だが、若いころから私は人と同じことをするのが嫌いで個性を重んずるという意味でアメリカの文化に親しみを覚えた。以前に述べたタケシの「誰でもピカソ」の番組が好きなのはこれに通ずる。この不況から脱出するためにこの際世の中の思想が変ればよいと思うが、同じテレビの番組は年配者以上に今の日本の若い人にこの同質性を求める傾向が強いと報じた。救われないよ。
<塗り絵> 花の絵の描き方で形態(輪郭)はなるべく詳しく忠実に、色は単純化していくつかの美しい色を定めた範囲は同じ色調と濃さで塗る方法を見てこれはいいと思った。これは先にふれた淡彩画の行き方を更に徹底したものだ。常人の感性は形態の複雑な変化と色調の複雑な変化を合わせて正確に受け入れるほどの受容量(コンピュータ的に言えば絵を表示するために必要なメモリ量)を持ち合わせないから、モネの「印象・日の出」における如き形態は単純化して色調変化に重点をおく行き方の対比としてこの手法は有力だと考える。対象は別に花に限らない。現実の複雑な視野に広がる像をどのように切り取り、どのように形態は複雑でも色は単純化して表現するかがこの技法の工夫のしどころだ。適当なツールを捜してパソコン利用で自分も試みたい。
<動物> サイエンス・アイで東大海洋水産研究所教授が20年以上にわたりうなぎの産卵を研究しているのを紹介した。日本の川や湖から太平洋に出てはるかフィリピン沖の黒潮が東から回流する付近まで遊泳し新月の夜に産卵するという。これを調査船を出し深度400Mまで潜る水中カメラで追いかけているのだが未だに映像に捉えられないという。これに協力している少なくない人々を含めて人生いろいろである。そういえば別の番組でカナダの紅鮭の産卵を紹介していたがこちらの方は孵化すると川を下って海に入り3,4年後に産卵のために生まれたところに戻ってくるまでどこでどうしているのか分らないと言う。人間には欠落してしまっている能力をもつこういう生物に敬意を表する。
<美人> バンコック・アジア大会の開会式で各国選手の入場を観る。オヤと思ったのは国名のプラカードを持って先頭に立つ女性がいずれも垢抜けた美人だったことだ。背がスラリと高くうりざね顔で衆人の注目を受け止めてニコヤカに立つ姿が41カ国分次々と変るのだが不思議にも皆似通った雰囲気を具えていた。タイというとポッチャリと丸顔でやや背の低い女性をイメージしていたが全く違った。国のプライドを賭けた舞台裏での関係者の配慮は相当なものだったろうと推察する。日本ではこうは揃わないだろう。

<商売> 自宅にいるようになってから家の付近を通る物売りの声が否応なく耳に入る。この中で「竹やあ竿竹、20年前のお値段です」というのがある。今日も氷雨の降る中を遠くの方から聞こえてきて丹念に路地を車で回っているらしい。新築の住宅団地ならとにかくこんな古くからの住人ばかりの住宅地を頻繁に回ったってそう売れっこないと思うのだが。永らく企業の中で能率重点に働いてきた身には別世界を知らされる。
<自負> 「ロシアをいまの破滅的な状況にした最高権力から、賞をもらうことはできない」。ノーベル賞作家ソルジェニーツィン氏が、エリツィン大統領が贈ろうとした国家最高勲章をはねつけた。こういうことを言ってみたいね。晴れ晴れとした気分とは程遠いのだが。
<散歩> 夕方の日課の散歩で私と似たどちらかと言えば低い背丈の男と会う。私を時折見かけるので声をかけたという。73歳で毎日約1時間半歩いているそうだ。お元気そうですねと言ったら嬉しそうな顔をした。歩く道順を詳しく説明してくれる。昨年までは朝5時台の電車に乗って東京方面まで通勤していたとのこと。お互い似た境遇だし特別な利害関係がないから素直に顔を見て話すことができる。
<快勝> タイのアジア大会は女子マラソンで高橋尚子が、1万メートルで川上優子が、また男子100メートルで伊東浩司がブッチギリで優勝した。辛勝も悪くはないが快勝は胸がすくようだ。それぞれトラックで日の丸を振る時これまでの努力と心労を自分でねぎらっているなと祝福する気持ちになる。昔中国の王軍華が圧倒的な強さを見せたが、時代は移る。

<電話と訪問販売> 昼間電話がかかってくると大半がセールスだ。多いのがマンションの販売と屋根がわらの点検取替えだ。どこからか電話の名簿を入手したのだろう。その頻度から推すと明かに過当競争である。興味ありませんと事務的な声で答えると一遍で撃退できる。自宅建物の地震強度の調査というのがあった。いつどんな大きさの地震が来るか分らないのにそんなことをやっても仕方がないではないかと言ったらそりゃあそうですけどと答えた。シロアリ駆除は巡回してくる。無料ですから床下に入ってシロアリ被害の点検だけやらせてくださいというのに退職直後にウッカリ乗りかけて家内に叱られた。その後月に一回は別のが巡回してくる。ツクヅク世の中不景気で仕事にあぶれた人が多いことを実感する。
<和と乱> 誰かが齢をとってくると今まで見えなかったものが見えてくると言った。確かにそういうことがあると感ずる。人生において禍福はあざなえる縄のごとしと言われるがテレビの朝ドラは忠実にこれを再現しているようだ。平穏無事が続くと人は無意識にこれを打破する事件を待ち望み、事件に伴う緊張がある時間が継続すると今度は解決に伴う安堵を希求する。これは人が生きていく上で求めているリズムのようなものだ。長期にわたってこれが一方に偏ると精神的なバランスがくずれる。実人生においてはこの周期が思うようにいかないのを先の朝ドラは短期的に実現して代替効果を提供する。しかし実際にこの波瀾を求める心情が人間の本質であって、学校におけるいじめから宗教戦争まで世に争い事は絶えるはずがない。
<浮世絵> インターネットでの画像蒐集は朝日新聞あたりの西洋美術のやみくもな模索から始めN.H.K.の西洋名画百選に遭遇、写真としては同じ朝日の寺と花、紅葉特集から山の写真家の作品に辿り付いた。それなりの満足感はあったが今一つとの思いが美術館めぐりの中で今回浮世絵を探し出した。浮世絵独特の題名を付けそれを画面の隅に赤い短冊で示す手法が懐かしい。美人画は未だにピンと来ないが風景画はいい。特に広重は無条件に心の中に素直に入ってくる。構図の取り方、配色がどの絵もバランスがとれていて、なお嬉しいことにはパソコンの画面で見るよりプリンタで印刷してみると淡い色調が鮮明に浮き出してまさに私の葉書印刷にピッタリなことである。近代文明の入る以前の日本の自然風景の美しさが心に沁み入る。こんな絵を次々と見せられるととてもではないが自分で拙い絵をこれから手がける気にはなれない。
<血行障害> 左足先が痛くてサンダルをはいて新聞を取りに行くのが苦痛になった。足先の血行がよくなるように右手でマッサージしてみたが痛みは消えない。遂に昔腰椎を痛めてその手術前に一時的に内側に捻転したきりになった左足首が緊張のためかその捻転の悪癖を再現しはじめ、気をつけないと歩行中に捻挫する危険を感じた。筋肉弛緩剤をもらうために行き付けの三沢医院で診てもらったら一目でこれは冷たくしないように暖めていないとダメと言われた。要するにシモヤケということだ。そう言えばコドモのころは冬になるとシモヤケで苦しんだが、通学通勤で常時靴下をはき靴をはいているようになってからこの疾患から遠ざかっていた。よくみると足の指先が紫色になり如何にも血行の悪い外観を呈している。四肢の知覚障害(温冷痛覚が四肢ごとに異なり自分でも具体的に記憶できないような異常)で一寸した痛みやかゆみは感じずある限度を越すと突如切り裂くような痛みが走る。不覚にもこれをシモヤケと察知できなかった。居間の床が以前は敷いてあったジュータンを外してあり、その板間を冬になったのに裸足で過ごしていたのが直接の原因と思われる。早速靴下を常時はくことにした。身体はもっと労わってやるように心がけよう。
<わらべ歌> 京都のわらべ歌を訪ねてというテレビの番組があった。マルタケエビスニオシオイケ、に始る独特の節回しは京都の東西に走る通りの名を北から南へ並べたもので、実用を兼ねているから京都の子供たちは皆暗誦していて声を揃えて唄う。手まり歌とか鬼ごっこの歌とか数え歌の紹介。しばらく唄わなくても唄い出すと次から次へと口の筋肉と耳が連動して記憶の糸が歌詞を順繰りに引き出してくる。老婆たちが憶えていて顔を見合わせて楽しそうに揃って唄う。年齢に関わらずまた欠落者が無く誰でも自然に唄うということは人に共通な本来の能力によっていることだ。暗誦と声を出して唄うのでは頭脳の活動のしかたが明らかに異なると思われるが、こういった風習が生活環境の変化とともに薄れていくのは健全な精神文明の維持の為に相当に愁うべきことだ。

<生き甲斐> ホームページを開いて自殺志望者に薬剤を販売供与しこれを利用して死亡した若い女性の事件が大きく報道され、インターネットのもたらす罪禍のようにも言われた。これは全く筋違いだが自殺には肉体的な苦痛に耐えられない場合のほかに、生き甲斐を全くなくしたことが動機になることが極めて多い。今の日本の閉塞的な状況が特殊な資質をもたない一般の人たちに解決を困難にしていることは確かだが、個人個人が自分なりに工夫して自分の生き甲斐を持つという事は絶対に必要なことだ。私自身最近の状況に応じて新たな生き甲斐を模索し続けているが、力がなくて人にまでこうしたらよいではないかという救済の手を差し伸べることができない。偉大な宗教というのはまさにそのために有るはずだ。学校へ通う多くの子供たちや若い人たちに何とかしてあげたい。
<写真> インターネットの写真家のホームページから鎌倉の寺院散策を見付けた。寺院の名はあっても建物はほとんど写っていないで秋を迎えた木々の姿が次々と出てくる。裸の写真ではなく額縁に入れ写真に合わせた色合いの布地を用いてその内に写真を収めてある。青空の日を選び年月を経た木々の紅葉などの有り様を構図と色の対比で見事にまとめている。著名な写真家かどうかは知らないが一枚の写真を得るためにどれだけの模索をしたことか。画面の中に切り出された自然の美しさは一編の短編小説のように無言で語りかけてくる。私のような行動に制約のある身障者にとって代わりに足となり目となり手となってくれるメデイアとそれを支える人たちの存在に感謝する。
<教育> 関口宏のサンデーモーニング特別番組「日本が危ない」が興味深かったので要点を紹介する。まず日本の旧来からのシステムは規格大量生産を前提とし、政財官のトライアングルと終身雇用・福祉を求める国民の組み合わせで協調性と没我を求める教育がこれを支えていた。80年代に入り右上がりの成長が止まった時このシステムは存在根拠を失ったが、以後ほぼ20年にわたり基本的な改革なしに無策に推移してさまざまな矛盾が拡大し表面に露呈してきた。農耕社会の成立以来日本に形成された保守的な思想がこれを助長した。少し冗長になるがこれを代表する諺として、曰く出る杭は打たれる、雉も鳴かずば撃たれまい、寄らば大樹の陰、郷に入れば郷に従え、長いものには巻かれろ、赤信号皆で渡れば怖くないなど。今学校へ行く子供たちがやたらに切れる、授業が成り立たないとというのはこのような画一的な社会構成員造成の教育方針の矛盾に敏感な子供たちが気づき、苦し紛れに抵抗しているのだ。 ではどうしたらよいんだ。今までのような画一的な答えは否定された。とにかく個性と感性を大事にした考え方に思いきって切り替えなければいけない。参加者のこの問題への対応としての意見は次のようなものであった。漱石の言う「自己本位」、自分を掘り当てる喜び、自尊好縁(趣味の合う人と付き合う)、違いはあるのが当然、野焼き(とりあえず規制を全撤廃)、関わり・関与・関心、夢を持って元気に、ふれあい(ボランテイア)など。
<随筆の小題> アナトール・フランスの人生観「エピクロスの園」を読んでいる。彼は話題ごとにタイトルを付けている。この小文はそんなたいそれたものでなく日常生活の中の感想など勝手なものだが、読んだ友人からタイトルを付けた方がよいと言われてそれを試み始めた。ただしタイトルを決めて文を書くのではなく、書きたいことを一段落するまで書いてそれを見渡して後で題を付ける。文全体の内容を短い言葉で代表させるのは必ずしも容易ではない。まあしかし何もむづかしく考えることはない。
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