1月の話題


2003年1月

<悪徳の栄え> 左の表題で、副題が“残忍な肉欲の描写の展開を通じて、人間性を抑圧する権力・神・道徳を痛烈に批判する自由思想の先駆と謳われる大暗黒小説”(著者 マルキ・ド・サド)を読む。俗に“サド・マゾ”などと言われるがその語源を知っておくことは無意味ではない。 1797年初版発行後、時の権力(サルジニア王、ルイ16世、革命政府、将軍ポナパルト、皇帝ナポレオン)によって著書は発禁され、ほぼ一生牢獄に監禁されたサド本人は獄中で次のような主張を叫んでいる“おお、ありとあらゆる治世の、ありとあらゆる国家の殺戮者よ、投獄者よ、馬鹿者よ、いつになったら君たちは、人間を閉じ込め死なせる技術よりも、人間を知る技術を尊重するようになるのだろう!”。
 邦訳の本書自体1960年4月、猥褻文書の名目で警視庁風紀係に押収され、次いで検察庁が起訴して裁判の結果下巻は発禁処分になって現在に至っている。従って自分の入手したのは上巻のみである。この辺りの事情については全く別の「花には香り本には毒を」*という著書(石井恭二・現代新潮新社)の中で石井恭二と渋沢龍彦が被告となった日本の“サド裁判”として76ページにわたり権力による隠蔽作業の不当性を訴えている。

 著者はこの小説の中で猟奇的と思われる行動描写の合間に、主たる登場人物の口を借りて長々と悪徳思想の根源をなす哲学を述べる。石井に言わせればフランス革命の思想的背景ともなる高度に抽象的な思想書である。それの代弁は容易でないから措くとして、小説の粗筋はジュリエットという若い女がフランス社交界に入って行き、あらゆる悪徳の誘惑に逆らいがたく思うようになった頃、絶大な権力をもった大臣サン・フォンの知己を得、人の社会が作った如何なる既成の道徳にも縛られずに、大臣が自然の欲望のままに命ずることを忠実に実行すると誓って莫大な報酬と法適用の免除を得る。
 自然の再生には破壊を必要とし自然の維持には罪を必要とすると説き、悪事をする人間が自然に有益な人物でないわけがあろうかと語って、サン・フォンたちは思いつくかぎりの蛮行や殺戮を行なった。“マキャベリの言うように自然というものは手荒く扱ってやらねば言うことを聞かぬ女のようなものだ、自然は冷静な物分りのよい人より凶暴な人々になびきやすいもの”と語って、男の言うままに追随し栄華の限りを尽くした彼女だった。

 一方で大臣は革命を恐れて教育・施療などを廃し人民を奴隷化し人口の増加を抑えて屈従させる方策に専念し、遂に彼女に忌まわしい計画を報せてよこした。それは穀物の買占めによって国民の2/3を餓死させフランスの人口を大幅に減らそうというものだった。この計画に大きな役割を果たすことを求められて、見せた心の弱さを大臣に見破られて冷たく捨てられ、彼女は復讐の手を逃れたい一念で知己の誰にも知らせず財産も一切捨てて、ほとんど着のみ着のままで逃亡をはかる。
 遠方の地で彼女の告白を聞いて一切の過去を許した清浄潔白な神父と結婚し、やがて巧妙に彼を毒殺した彼女は少なからぬ遺産を継承して自由気ままなイタリア旅行に出かける。ここでまた別の悪徳の塊のような男に会い、気に入られる。この無類の富豪の毎夜行なう乱行も筆舌に尽くしがたいものだが、彼女はある夜催眠剤で眠らせて財物を盗み出し逃亡してしまうというところで上巻が終わる。

 私の感想はこういった人間の行状が現実にあったかどうかは別として、このような願望は多かれ少なかれ誰の心にも潜んでいる、それを危険思想や猥褻図書として本を発禁処分にしても無駄なことだと思う。人間の本性に目をつぶるのは気の弱い人の所業だ。普通の人ならばそのような行状のもたらす結果を容易に推測できるから、反面教師として生きる知恵に加えることができるだろう。下巻にはジュリエットの続く所業が記されているらしいが、どうせ50歩100歩だろう。石井氏は先述の著書*で道元の正法眼蔵と対比して論じている。難解な世界だがいずれ研究してみたい。

<歴史的建造物雑感> 毎日新聞のホームページに入って「東京てくてく再発見」と題して東京の古い土木遺産14点を写真と小文で紹介しているコーナーを見つけた。日本橋、東京市街高架鉄道、絵画館前通り、田園調布、勝鬨橋、愛宕隧道、地下鉄銀座線、岩淵水門、三河島処理場、隅田公園、日の出桟橋、駒沢配水場、清洲橋・永代橋。いずれも明治時代に首都を近代化するために先人が後世に誇れるようにと格別の思い入れで設計・施工したもので、時代の変遷によってその一部は実用から記念物に移行しつつあるが、完成当時見聞する人々に新時代の到来を実感させただけに感慨をおぼえさせる。
 日本橋は橋梁としては短いものだが、総御影石造りで諸街道の起点としてブロンズ製の日本国道路元標が埋め込まれ、ヒレのある麒麟と東京市のマークを掴む獅子立像彫刻が橋脚柱上に飾られていて気品がある。直上に架かっている首都高速道路橋が些か景観を害しているが、今や無用の迂回路(通行料無料)なので近く撤去予定だという。
 個人的に思い出があるのは役割を終えた三河島下水処理場で、ここのポンプ場には浚渫用ポンプの如く斜上吐き出しの横軸渦巻きポンプがズラリと並んでいて、荏原を創業した畠山社長が「鶴が首をもたげたようだ」と言って悦に入っていた話が伝わっている。今ではこういう特殊形状のオーダーメードの製品は作らないで、送水方向の特殊な要求は配管で処理するが、当時は記録品だし個別生産が当然だった。夏にはピンクの夾竹桃の花が到る所に咲きつくし、レンガ造りの建物がゆとりをもって配置される場内だった。同様に早期に設営された淀橋浄水場は早々と役目を終えて、埋め立て跡に東京都庁その他のビル群の林立するところとなり、今や跡形もないから遺産にはならない。

<外国人と京都> パンツエッタ・ジローラモというイタリー人はN.H.K.の委託を受けたタレントとして活躍していて、教育番組のイタリア語講座なども担当しているが、ある日“京都上がる下がる”という番組に出演した。京都の町に古きよき日本を求めて松原通りを散策する。この道は昔加茂川に牛若丸と弁慶で有名な五条大橋がかかっていたが、豊臣秀吉が橋を下流側に移設しついでに五条通の名も持って行ってしまったので、代わりに松原通りという名を付けた。自動車のすれちがいも容易でない狭い幅員の通りだが、戦災に遭わなかったこともあり都が京にあった時分からの旧家が並んでいる。彼は背中一杯に“M”と刺繍をつけたジャージを着込んで通りを闊歩していく。中々いい男である。
 駄菓子屋に立ち寄ると、留学を始めたばかりの二人の中国生まれの女の子が物珍しい菓子選びを興味いっぱいでやっているのに出くわす。気を許した二人に案内されて早速同じ通りの一角にある彼女らの下宿を見せてもらうことになる。こういう古い町並みはどこか自分らの住んでいた故郷の町と共通点があり親しみが湧くと言う。“M”という字は松原通りのMだと彼が言うと、「本当ですかあ」と彼女らが叫ぶ。こういう京都の町には意外にこのような外国人たちが似合う。但しそれには日本語が一応話せて、伝統のある京都を愛していることが条件になる。

<ショール> 深々と冷える夜、布団に入ると毛布や何枚もの掛け布団で武装しているが首元がスースーと寒くて気になる。思いついてショールを首に巻くことにした。不思議なことに首に巻きつけた途端に何とも言えない充足感に包まれ、もう首から下などどうでもいいという安穏な境地に入る。この時の感覚は在来経験したことのない大げさに言えば宗教的な法悦境とも言えるもので、ショールによって首から下の身体の存在感が断ち切られたような具合になる。
 最近「試して合点」という番組で“冷え性”とか“手足が冷える”という現象について論じて、人間は寒いと感ずると大切な頭と胴体を保護するために手足の血液循環のスイッチを切ってしまう(全く循環がなくなるわけではないが、血流が弱くなる)ために手足の温度が下がるという事と、その寒いという感覚は大いに首元から身体を包む空気が上方に逃げることで誘起されるので、首巻を巻いてその気流を絶つと“寒い”という感覚が消えスイッチが入って手足に血流が盛んに流れるようになるという。従って若い女性が冬季に脚を寒気に曝しても首巻をするのは合理的だと説明していた。
 私は外出する際に首巻などしたことはないが、上記の話を勘案して夜間睡眠中の手足の冷えを防ぎ、しもやけの悪化を防止するために、ショールの使用を励行することにした。よく分からないがショールを首に巻きつけた瞬間に感ずる首から下の断絶感は多分手足への血流開始のスイッチと関係があるのだろう。人体の不可思議な仕組みか。

<アインシュタインの夢> 2001年6月の話題でアインシュタインを取り上げ、相対性理論に基づく宇宙旅行の話を紹介した。40年で5万光年の彼方、銀河系の中心まで宇宙船で往復することができる。帰着するのは10万年未来の地球。誰一人大昔に旅立った人のことなど憶えていない。この話は時間というものの奇妙さを人に考えさせる。アインシュタイン本人はどうだったか知らないが、こういった事をずっと夢想した男がいて、表題の著書(中村桂子訳―ハヤカワ文庫)を発行した。物理学者アラン・ライトマン。彼は人の社会を包む時間の異様な動きのさまを30通りも考えた。
 人々が自分では気付かずにいつまでも同じことを繰り返す世界とか、地球の中心から離れるほど時間の進みが遅くなるので人々は競って高地に住む社会、或は住む地域によって時間の進み方が違う世界とか、更には時間が逆に進み皆時とともに若くなる社会などである。凡そこんな話は馬鹿げていて、読者に買って読めと勧める気にもならない。
 だがこういう話の中で一つだけ心にひっかかるものがあった。それはーこの世界が1907年9月26日に終わるという設定だ。だれもがそれを知っている。終末の1年前にどこの学校も門を閉ざす。未来がかくも短いのになぜ未来のために学ぶ必要があるか。こどもたちは大喜びで遊びにふける。終末1月前にはどこの会社も店じまいをする。残された時間がかくも短いのに商工業を続ける必要がどこにある?皆金払いがよくなる。財産を残して何の意味がある?仲の悪かった人たちも仲直りをする。皆短い時間だから平安に過ごしたい。
 終末の1日前、初対面の弁護士と郵便局員が腕を組んで歩く。過去の地位がなんになろう。1日だけの世界ではみんなが平等なのだ。世界の終末1分前、人々は美術館前の広場に集まる。老若男女が人の輪を作り手を握り合う。だれも動かない。だれもしゃべらない。あたりは絶対の静寂に包まれ、人の胸の鼓動が聞こえるほどだ。そよ風が吹き、空には雲がひとつ浮かんでいる。肉体は重さを失い、巨大な雪の毛布が急速に押し寄せてくる。−というものだ。
 これは感銘を与える詩である。どこかでいつか似たような経験をしたような気もする。少なくとも夢の中では。皆分かりきった顔をしてそれぞれの人生を生きているが、いつ終焉を迎えるかは神のみぞ知る。もしこの話のようにそれを明確に知ったら大なり小なり未練は残ろうが、運命が皆に平等に訪れることを承知して、諦めの内に最後の時を迎えることになるだろう。常識では創造主はそんなことを許さない。だから人の世の悩みは尽きないのだが、いつの日か宇宙観測の結果巨大な天体がまさしく地球に向って飛来しつつあることが発見されれば、夢の話ではなくなる。

<中国の実態> WTOへの加盟など経済界でのこのところの中国の進展はめざましく、日本の少なからぬ企業が労働コストの安さから生産拠点をかの国に移しつつあって、日本人は自信喪失気味だがその実態はどうなのか。そううまくは行かないと赤裸々に指摘する論文が内部告発のような形で現れた。何清漣の著した「中国現代化の落とし穴」*(草思社)。本書は1996年、「中国的陥穽」として出稿し、「十字路に立つ中国」として出版しようとしたが、政治的に刺激が強すぎると、「現代的陥穽」と改めて1998年北京の今日中国出版社から出されて中国国内で20万部以上(海賊版を含めると300万部以上)のベストセラーとなった。彼女は著書の中で中国政府が宣伝したがっている近年の目覚しい経済発展―いわゆる陽の当たる場所は敢えて無視している。
 何氏は99年に「ビジネスウイーク」誌(国際版)で“変革の先端にいるアジアのリーダー50人”の一人に選ばれたが、2000年3月更にラデイカルな論文「現代中国の社会構造変遷についての総体的分析」(本書*第11章に記載)を発表したため当局の逆鱗に触れ、「現代的陥穽」は発禁となり、女史は国家安全局により24時間の監視体制におかれ、遂に2001年6月米国への政治亡命のやむなきに至っている。本書*は脱出後、新材料を付加して訳出された。副題は「噴火口上の中国」。

 著書をなるべく短文で紹介するために“結び”の文章から入ることにする。1949年以後中国共産党は暴力革命によって有産階級を消滅させた。その後毛沢東の文化大革命が深刻な危機をもたらしたが、後継者ケ小平の改革は社会的経済的危機の溶解だけで社会制度を改革しようとするものではなかった。改革の“総設計師”と称されたケ小平は「猫論」(白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ)と「摸論」(川を渡るときは石に触りつつ一歩一歩慎重に進む)を掲げ、“真理を検証する唯一の基準”として“実践”を信奉したが、経済行為とイデオロギーの分裂を回避した結果、イデオロギーが拠って立つ基礎である誠実さが失われてしまった。彼の「不争論」は“いうこととやることは別”という言行不一致を一層推し進め、国家日和見主義の流行を奨励して社会の気風を大きく破壊した。
 ケ小平は改革の初期、“まず少数の一部の人が豊かになり、その後に人民全体が豊かになる(この後半は実は虚構であった)”という耳ざわりのよい承諾を与え、どの部分の人がどういう手段で豊かになるのかについては具体的な説明をしなかった。現実には少数の一部の権力者かあるいは権力者と利益の交換を行なった者が大量の汚職・腐敗活動によって先に豊かになり、社会的な富が極めて不公平な形で分配されて貧富の格差はますます増大した。1978年以来20年の経済改革によって権勢者は“権力の市場化”のルートを通じて先に豊かなグループになり、中国の社会大衆は改革の利益の損失者となった。人口の15%を占める権勢者たちの富は人口の8割以上を占める下層人民の資源の略奪によって蓄積された。
 こうした改革は中国に安定をもたらすことはできない。政治体制の改革を排除した跛行型の改革が中国にもたらした悲惨な結果を以下に概括する。これらすべては中国が20世紀後半において全体主義の道を選んだ結果生じたものである。

 中国の生態環境は既に重大な危機に直面している。水質汚染、大気汚染、都市の廃棄物汚染、化学物質汚染など人類を脅かすすべての汚染が中国をむしばみ、将来に致命的な影響を与えている。化学肥料の大量使用による地力の衰弱・土壌の悪化や砂漠化など。
 道徳倫理の面から見ると現在の中国は空前の「礼崩楽壊」にあり、役人の腐敗振りと道徳の乱れはいかなる発展途上国をも上回っている。地方政府の行為は更にゴロツキ化している。従来の文化や道徳風習などのソフト統制が存在基盤を失い、宗法組織とマフィアが農村を支配した。中国における契約履行率は6割を下回る。
 国有企業の改革は“三つの山”に抑えられて実質的に破綻した。それは過重な債務、企業の福祉社会化、過度の余剰人員である。対策として取られたのは“株式制改造”であり、国有資産の所有権を移行することである。中国政府が私有化を肯定も否定もしなかった結果、従業員も参加する大衆的な私有化は不可能になり、マネージャーや工場長など権力者による私有化が進んだ。国家の資産や従業員の血と汗は底知れぬブラックホールに流れ込んでいった。企業は崩壊し大量の失業者を生んだ。
 50年代、毛沢東とその指導下にあった政府は政治的説教を使って密告を組織化した。この虚偽と無知を助長する制度は中国の伝統的な道徳に巨大な破壊作用を及ぼした。その後に人文精神の支えのない経済発展が社会秩序の混乱を助長し、詐欺行為が蔓延して公正な裁判は期待できず、現在の中国人はもはやどんな道徳も信じなくなった。
 耕地面積が減少する一方で農村の出産は野放しであり、人口あたりの耕地面積は減る一方になっている。非効率で生産性向上の見込みのない農民を吸収すべく農村に郷鎮企業が生まれ、一時はもてはやされたが環境問題などさまざまな弊害にぶつかって、90年代には郷鎮企業の閉鎖が相次ぎ、大量の労働力を放出する結果を招いた。現在中国の農村にいる4億2000万人の労働力の内少なくとも1億6000万人は余剰労働力である。これが都市を目指すのは必然で、メデイアはこの現象を“民工潮”と呼ぶ。農村部の教育は凋落していて、盲目的な出稼ぎ農民の大半は都市の実際の需要を知らずに進出し、仕事を見つけられず路頭に迷う。都市の犯罪は激増し治安は悪化の一途を辿る。

 現存の経済・教育・職業構造から見ると、中国は中産階級を作り出す道を欠いている。極端な両極分化であり、なおかつ問題は少数の社会的エリートの地位と富が正当に所得したものとして人口の大多数を占める社会の成員から承認されていないことにある。多くの国有企業が破産し、数千万の罪のない労働者は失業を余儀なくされる中で経営責任を取るべき人々で失業労働者の貧窮の程度まで零落した者はいない。
 中国共産党が政権を担当して以来、幹部の選抜に関して合理的なメカニズムはつくられなかった。試験制度もないし、選抜は公開でも民主的でもなく神秘的な閉鎖状態にある。結局縁故者中心の採用になり、官位売却などの腐敗現象を生む。WTO加盟が政治民主化の発端になるという説もあるが、外国資本がゲームのルールを変えることはなく、かれらが中国の腐敗した制度・環境に順応することは既に事実が証明している。原則を語らない国家日和見主義が蔓延して、ケ小平以後の政府はもはや如何なる政治理念をもたなくなり、個人的利益をはかる政治的投機行為が役人になる唯一の基準になった。
 共産党は自身の合法性を傷つけないために“文革”を討議することを許さないとの規定を作ったために、若い世代は“文革”を正しく認識するすべがなく、“文革”を経験した農民・下層労働者・流民は落ちぶれたために歴史の真実を忘れ、むしろ文革時代を懐かしむようにさえなった。貧富の分化の激化に伴い、平等に貧しかった時代の毛沢東が人々の心に蘇りつつある。

 このような何氏の鋭い分析を読んで、我々外部の人間のケ小平に対する評価が現実に総設計師としての彼の影響を未だに強く受けている中国国民には全く見当違いであることを知って愕然とした。併せて共産主義(実は全体主義)の呪縛の恐ろしさを如実に感じさせられる。前記の事情を知れば、日本における不法移民と思われる人たちによる凶悪な犯罪の近時の増大は本国での混乱の氷山の一角に過ぎないことが分かる。いついかなる形でこの大国に矛盾を破ろうとする大爆発が起こるのだろうか。

<漢方> 12月にアンドルー・ワイル氏の医療に関する論説を紹介し、その中で東洋医学についても触れているが、著者自身がこの領域に詳しくないので十分説得的な説明は避けている。そこで「漢方」と題する東洋の正統医学の概説書(石原 明著 中公新書)に目を通してみた。尤も文庫本で駆け足の記述になっているので、中国・日本におけるその歴史的な変遷が主体で、素人相手の本故もあって医学書としての本論部分の突っ込みはごく浅くなっている。以下私のメモ代わりでもあるので、疾うにご承知の向きはご容赦ください。
 “方”というのは医家が患者に対して処方することで、これは患者の“証”(疾病現象)に従って定められる。漢方の古典である「傷寒論」では証を知るために疾病の所在、状態、時期の3種のカテゴリーを設けている。疾病は絶えず変化し動いているので疾病の時期を知ることは極めて重要である。“証”のための診断は“望”(観察)、“聞”(聴覚と嗅覚)、“問”(患者への質問)、“切”(脈診と腹診)の4手段による。漢方の基本姿勢の西洋医学との差異は“疾病そのもの”を対象として治すのでなく、“病んでいる人”を治す点である。
 中国における医術は古くから呪術系、輸液系、手技系の要素をもっていたが、生活環境に応じた特色ある医術が発達したらしい。東方では漁業による皮膚病が多く外科的療法が、西方では狩猟で厚衣美食による内臓疾患に応じて劇薬が、北方では遊牧を業とし寒冷による鬱血に対して灸療法が、南方では農耕を主とし高温多湿の血行障害に対して針療法が、中央部では交通便利な平原で運動不足に対して按摩・マッサージが盛んになったと伝えられる(多少のこじつけもあると感じる)。

 現存する中国医学の伝統は黄河文化圏、揚子江文化圏、江南文化圏に三大別できる。“経絡”と称せられる生命エネルギの走行路発見は黄河文化圏医学最大の収穫であり、経路経穴説として今日の針灸医学の根幹をなしている。世界人類の中で黄河文化圏だけで経絡現象が発見された理由は針を用いる縫製技術が中国だけで必要とされたことと、針灸の治療点・反応点の多くが四肢の末端にあり、寒くても衣服を着たままで目的が達しやすかったからと言われる。
 揚子江文化圏には不老長寿を願い、薬草のデータベースとしての医療の古典「神農本草経」が生まれた。最古の実用薬物書である。江南文化圏には漢代に完成した「傷寒雑病論」があり、実用的で極めて高度の臨床治療体系をなしている。前者のような特殊な自然物の神秘的な薬効に頼らず、容易に入手できる薬物を組み合わせてその総合効果を発揮できるように努めた。多くの人々の努力と経験が蓄積されて、一定の薬物の配合による“方”とそれに適応する“証”の原則が見出された。
 その後後世に名を残す幾多の名医が出たが、その一人扁鵲の治療方針は「疾の理にある時は湯熨(温湿布)のおよぶところである。血脈にあるのは針石(刺針・瀉血)がゆく。それが腸胃にあると酒醪(薬物療法と栄養補給)の領分だが、骨髄に疾が入ってしまったものは手の施す余地もない」というものだ。疾病は外的因子が内的素因と結合してまず体表を冒し、次第に深部に侵入して遂に死に至らしめるという考えで、確かに癌が骨髄に転移したら打つ手はないという話と符合する。その後倉公、華陀、張仲景などの名医が出た。明時代には李時珍が全国を採集旅行し27年かかって「本草綱目」52巻の大著をまとめ、1892種の動植鉱にわたる薬物を記載した。日独英仏各国語に訳されている。

 近代に入り中華民国が成立すると西洋医学が流入し、急速に伝統医学は冷遇され圧迫されて遂に1914年教育総長が“中医”の廃止を布告し、最悪の受難時代を迎える。だが1950年中華人民共和国が成立した時に、長征の時期に伝統医療の効に接していた毛沢東をはじめとする共産党幹部によって“中西医学合作化”が提唱されたのは特筆すべきことだった。王斌は論文で中医を徹底的に批判し若い西医に支持されたが、“中医をないがしろにする資産階級思想を批判する”という朱健の論文によって決着がつき、1955年中華医学雑誌は合作化の政府方針を強力に支持し、国立の中医研究院ができて中医学の近代化が飛躍的に進んだ。具体的な実情を知らないが、両医学の足らざるところを相補うことができれば世界で最も進んだ医療環境が実現できるはずである。
 一方日本では飛鳥・白鳳時代以降の1500年、朝鮮を経由して伝来した古代中国医学は日本固有の経験技術を併呑して、仏教と共存している時期が長かった。やがて“傷寒論”の流れを汲む古方派と宋・金・元の医学を集大成し実証的な医学に練り直した曲直瀬道三の打ちたてた後世派に分かれて推移するが、明治になって西洋文化の摂取を施政方針にした政府と新しいもの好きな民衆は伝統医学の漢方を置き去りにした。漢方を体得するには高度の熟練が要求され科学的な普遍性に欠けるハンデイキャップがあった。明治9年政府は西洋医学のみによる開業試験を実施したので、漢方医は新たに医師免許を取得する術を失った。漢方側の請願に関わらず明治28年国会は開業試験に漢方を編入することを僅かな票差で改めて否決してしまった。
 このように日本では折角永年ノーハウが蓄積された漢方医学を西洋にならいたいあまりないがしろにしてしまった。明治維新の陰の部分である。昨今しきりに漢方見直しの機運があるが肝心の専門医が育っていない。開業医としての収入の道も確保されていない。現実に私も針・灸・マッサージの治療を受けたくても、近所に頼れる技術をもった医者がいない。その点近代中国は流石に伝統を軽視せず、日本より賢明な選択をしたようだ。

<老いについて> 今「老いてこそ人生」石原慎太郎(幻冬社)―を読み終えて、久しぶりに充足した心持である。健康と死を主題にした随筆であるが、自分より1年年上で華麗に戦後を生き、多くの人との交際をもった短くない人生についての感慨が全く抵抗感なく受け止めることができた。
 随筆の文章から彼には伸晃(政治家)、良純(舞台俳優)、宏高(銀行家)、延啓(画家)という男ばかり4人の子息がいることを知った。名の付け方からして自分の感性に近いし、職業が見事なほどにバラバラなのは彼らが勝手に選んだのだと弁明されるが、間接的には人の真似をしたがらない父親の影響だろう。慎太郎本人も含めて声が似ているために電話では間違えられることが多いそうである。
 改めて随筆の内容を逐一紹介しても仕方がないが、この人も極めて多くの時間を自分の体調―健康管理といずれ訪れる“死”への考察について割いていることがよく分かる。自裁した円谷幸吉、三島由紀夫に強い衝撃を受け、それなりに理解はするものの決して共感はせず、「死を意識するということの、“恐れ”以外の効用があるということに案外多くの人たちが気づいていない」と述べ、死を意識しだすことで人間の感覚が鋭敏になり甘美になって、残された人生の味わいが増すから、決して死を回避せずまともに受け止めるべきだと主張している。
 多くの知人の終焉を見てきて、この世の唯一の真理は釈迦の唱えた「色即是空、空即是色」だ、人は死ぬために老いていくのだ、そう悟ればじたばたしても仕方がないと語る。日本をこの上なく愛するヨットマンの昨今の心境だ。

<音のデータベース> “日本の音百選”というのに出会った。北は“オホーツク海の流氷”から始まり南の“沖縄のエイサーの祭り唄”までさまざまな特徴あり懐かしい音百件を集めたものだ。内容を見ると鳥の声、祭、鐘の音、陸の水音、海の音、生物などの複合音がそれぞれ10件近くある。あとは植物の発する音、昆虫の音、人工的なものとしては交通、産業の特徴ある音が5件以上あった。昨今はコンテンツ流行りで画像情報は随分手に入れやすくなったが、音の情報はまだ珍しい。
 入手したのは“121WARE”*というNECからの週1回の広報メールで、とるに足らぬ情報が多い中で、たまにはこんな面白いものを呉れる。このメール*は希望して申し込んだのではなく、昨年秋にパソコンを新調した時に毎朝起動すると画面中央に出てくるNECの広告があって、これを邪魔だから消すために半ば強制的に入会させられた結果として受け取ることになったものだ。因みに121というのは”ONE TO ONE”ということで親しみを感じさせようという命名らしいが、今ひとつピンとこない。脱線した。
 リストはウエブ時代らしくタイトルをクリックするとそれぞれのテーマの詳細を紹介するホームページへ飛ぶようになっているので、EXCELに取り込んで自分のパソコンに収納してみた。1件ごとに開いてみるとそのテーマを象徴する美しい写真が添えてあって、そこにはそのテーマを百選の一に選んだ詳しい理由、その音をよく聞ける時期、場所、“アクセス”として現地訪問のための各種交通手段、そして“よりみち”としてついでに訪れるべき場所まで紹介している。
 だがどのホームページにも肝心の音は入っていない!探すだけ無駄である。音の入っていない理由も書いていない。そこでデータベース作成者の思惑を考えた。対象になるべき音は短時間で収録しきれるような単純なものではない。時々刻々変化しているのでそれを敢えて収録しようとすれば厖大な録音時間が要るし、またそれをうまくまとめて表現しにくい。もう一つの理由は今市販されているパソコンのスピーカーの劣悪な性能でこの妙なる音を聞いてなんだこんなものかという気になられては心外である。ぜひ現地に直接赴いて(少しは苦労して)その音を捜し求めて、その周辺の状況も視認し楽しみながら直接お聞きなさいと言いたいのだろう。
 “百聞は一見に如かず”とよくいうが、こういうのは何と言ったらよいのだろう。“百論は一聞に如かず”か。深田久弥の“日本百名山”ではないが、暇があって脚の達者な人は是非直接現場に行きなさい。マイカーでも行けるし高所に登る苦労をしないでよいだけ楽ですよということらしい。脚の不自由な私は現地訪問を御免蒙る、こういう人間もいるのだからほんのさわりだけでもよいから録音を聞かせて欲しいというのが偽らざるところ。なおご希望があれば私のコピーしたリストを差し上げます。

<筆記用具> 古い机の引き出しを開けるとインクのカートリッジが何個も出てきた。それを装填すべき万年筆も捜せばどこかにある筈だ。今は決して万年筆など使う気にならない。無抵抗にボールペンを使う。透き通って中のインクの減り具合が分かるからいざという時のために必ず座右に予備のボールペンを求めておく。
 昔は鉛筆を併用していた。30年以上前に技術士の資格試験で削った鉛筆を10本ほど持参したのが本格使用の最後で、今は電話などのメモにその辺に転がっているのを使うことがごくたまにあるぐらいで、削るのが面倒だから鉛筆も使わない。今でも学生は答案用紙に消しゴムと鉛筆で相対しているのだろうか。そう言えば選挙に行くと投票用紙に書き込むボックスには鉛筆が置いてある。どういうわけか消しゴムはないから、それならばボールペンの方が手間がかからない筈だが。持ち去られると困るからなら鉛筆と同様に紐で繋いでおけばよいのに。先端の太くなった鉛筆は書く感触も悪い。
 こういう身近な用具の変遷は気付いてみるといろいろある。普段意識しないがコストの変化と用具に対する考え方の変化が続いている。これは文明の恩恵とも言える。昔誰さんに頂戴した大事な万年筆だなどという話は実用面からはもう消滅している。筆記用具は(なければ困るが)大切にするべきものではなくなっているからだ。



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