
<日本語大切> 文春3月号で表題の特集があって、計16項目について識者が多様な視点から日本語を論じている。元来私はこのテーマに強い関心をもっているので、このすべての論説について自分なりに評価してみた。整理のためにタイトル、筆者、内容への賛否、重要度、論旨の要約、関連する感想をエクセルのリストにまとめてみる。総じて論旨に全面的に賛成が半ばで、残りはまあなるほどという程度。重要度については大中小にほぼ三分された。
最も共鳴したのは御茶ノ水大学教授藤原正彦氏の「数学者の国語教育絶対論」。日本は今危機にある。国家の体質は国民一人一人の体質の集積であり、一人一人の体質は教育により形造られる。すなわち、この国家的な危機の本質は誤った教育にあると説く。母国語の語彙は思考であり情緒である。知的活動とは語彙の獲得にほかならない。語彙を身につけるには何はともあれ漢字の形と使い方を覚えることであると言い切る。教育の要諦は祖国愛を育てることで、祖国とは国語であると言い、読書は教養の土台で、その教養なくして健全な大局観をもつことは至難であると述べる。
筆者は小学校における教科の重要度は一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下であると主張する。また国語教育の中において「読む」、「書く」、「話す」、「聞く」は平等でない。あえて重みを付ければ20対5対1対1くらいだろうと言う。将にわが意を得たり。いかにも数学の先生らしい主張で嬉しくなる。日本人初のノーベル賞をとった湯川秀樹博士は幼少の頃、訳も分からずに四書五経の素読をさせられたが、そのお陰で漢字が怖くなくなった。読書が好きになったのはそのためかもしれないと語っている。今の若い人は"そんな"と言うだろうがこの辺りに教育の要諦がありそうだ。昔寺子屋では「読む」と「書く」しか教えなかったが幾多の偉人を出した、今は英語とか諸般の雑知識を幼い内から教えようとし過ぎて虻蜂取らずになる。
後の15テーマでは「カタカナ外国語は亡国の道」という堺屋太一が明治維新の時に翻訳語の創作と概念の定着に努めた栗本鋤運、福沢諭吉、成島柳北の業績をたたえ(これは「電気」「機械」など近代知識にからむ諸概念を軒並みに漢字にした点で実際素晴らしい仕事をしたと思う。中国人は偉そうな顔をしているが今は皆この日本人の成果を利用している)、最近の翻訳努力の衰退を嘆くのに同感する。他に短文を勧める鴨下信一、志賀直哉を挙げて文章の凝縮努力を説く大久保房男、「山本夏彦“完本文語文”熟読」という徳岡孝夫のテーマでは文語文に比して口語文の語尾が単純で貧弱というのが印象に残った。総じて皆さんの日本語への愛情が即々と伝わってきて気分をよくしている。
<起き上がる> 月に一度定期健診に訪れる病院内の通路で、先に走っていく兄を追いかける三歳にもならぬ幼い女の子(4頭身ぐらいか?)が目の前で平滑な床で滑って膝をつき両手を付いた。と見る間にその前傾姿勢のままで立ち上がるや前方へ踏み出して、何事もなかったように追いかける走りを続けていった。それは恰も計られた連続写真を見るようで、その間の前進速度は一定に近く、転んだことによる遅れはほとんどなきに等しかった。私はつくづくとその状景に見惚れてしまった。
近頃はロボットの開発流行りだが、テレビで川田工業と産業技術総合研究所の共同開発になるという人間型ロボットHRP2プロトタイプ(身長154センチ、体重58キロ) の起き上がり動作を実演した。人に胸を押されたロボット(8頭身ぐらい)は、瞬間的に体を丸めながら重心を落として尻部分の衝撃吸収パッドから着地。その後あお向けに寝た姿勢から膝を曲げ、前後のバランスを取りながらゆっくりと無事に起き上がった。転んでも壊れずに再び立ち上がるロボットの開発はこれが始めてだそうで、今後いろいろ改良が計られるだろうが、慎重にそろそろと立ち上がる姿は先の女の子の円滑でスピーデイな動作とは大差である。
私の場合歩行中に転ばぬよう右手に杖を突いて3点支持でバランスを確保しているが、先日も郵便局で開いて手を離すと自動的に閉じる入り口の扉を開こうと杖を左手に持ちかえてドアを押し開けようとした時、親切に不自由な私を助けるつもりで中にいたご婦人がドアを手前にグイと引き、私はバランスを失って咄嗟に足が運べずゆっくりと倒れた。怪我などするはずもないが、こうなると簡単には起き上がれない。手を引っ張ってもらったぐらいでは駄目でご婦人の手には負えず、居合わせた男性に後ろから両わきの下に腕を入れてヤッと抱え上げ立ち上げてもらわない限りダメで、その場合も私に杖をもたせて自力でバランスを取り戻して立つまで介助者には手を離さず支え続けてもらうように頼んでいる。
重度の身障者<ロボット<自在にふるまう女の子 という3種の顕著な起き上がりの差異の図式である。

<運転士> 上り新幹線の運転士が高速走行中に居眠りして26kmを最高速度270km/hで走行、岡山駅で所定の停車位置の100m手前で緊急停車した。駅の職員が運転席に駆けつけたところ、運転士33歳は運転席で座ったまま眠っており、後で事情を聞かれて新倉敷付近で眠気に襲われそのまま意識を失ったと述べうなだれていたと報じられた。マスコミは一斉に大騒ぎをしたし、扇千景国土交通大臣は「もってのほかの事」とぶちあげ、以後運転士には監視者をつけることになったらしい。私は人間である以上こういう事件を起こす可能性を皆無にするわけにはいかないが、新幹線の自動制御システムはここで報じられる限りにおいてはよくできていると感じた。それほど騒ぐことではない。
同じく運転士がからむ事故として1週間ほど前に韓国第3の都市大邱の地下鉄では放火された車両の反対側の線路をフォームに進入した電車の運転士が煙に包まれて状況判断を誤り、乗客に適切な退避指導もしないままに運転席のハンドルを抜いて自分は退避してしまい、後に残された多くの乗客(実数不明 300人とも言われている)はドアが自動的に閉じたために逃げるに逃げられずに黒い煙とガスに包まれて死亡する悲惨な事故が起きた。運転士の過失責任も当然問われるべきであるが、交信記録に残された運転指令所も動転していた運転士に適切な指示をしていない模様で相当な責任がありそうだ。更にハンドルを抜き去った車両のドアが警告もなく閉じてしまい、車内の乗客が無為に閉じ込められてしまうシステムに一層の問題があるのではなかろうか。
自動制御システムはどのような思想で設計されるべきか、緊急時とは違い落ち着いて冷静に判断できる設計時点でフェイルセイフの基本方針を如何に実現するか、設計者の責任は運転士たち当事者以上に重い。一旦ドアが閉まってもそのような場合に軽く手で開けられる設計になっていれば、恐らく死者の数は1/3を下回ったのではないかと推定する。運転士が車両を離れるに際してハンドルを持ち去るシステム、またその場合にはドアが直ちに自動的に閉じてしまうシステムは日本の電車でも同じではなかろうか。そしてこのような事故が発生した時にシステムの設計方針はどこでも同じだからとろくに再検討もせず、事故に関わった関係者の行動責任だけを追及してはいないだろうか。これだけ自動制御に金をかけている現今、人間が少しぐらいボヤボヤしていても大事にならないように安全に配慮した設計が肝心だ。
<サブリミナル・マインド> 人間は自分のことが十分わかっているつもりだが、意外にそうでもないらしいということを心理学者の下条信輔助教授が説いている。私には論旨全般がもう一つ把握できないのだが、それでもいくつかの興味ある論点を拾い出すことができた(中公新書)。
脳の機能はまだ十分には解明されていないが、潜在記憶システムと顕在記憶システムは異なる神経機構をもっていることが実験的に証明されているそうだ。極めて短い時間(例えば5/1000秒)の画像提示を受けて、本人の自覚がないにも関わらず、刺激が知覚や行動に明確な影響を与えることが分かっていて、著者はこれを潜在的な(サブリミナル)認知過程と名づけた。そして見覚えがなくても、実際に見た潜在記憶のあるものは好きになるという効果が知られている。
一旦忘却した後でもう一度学習させると、初めてのときよりも早く基準に到達することが分かっている。これは忘却したと思っても、また事実再生、再認ができなくても、完全に忘却したわけではない。脳の中に記憶の痕跡が残っていて、再学習を助けたのだ。
コマーシャルの効果については二つの原理があると言われる。「説得性原理」と「親近性原理」で、前者が商品の魅力をアピールして消費者を納得させるのに対して、後者は単純に消費者を商品になじみがあるだけでそれを選好させるものである。こういった事実(後者)が実際にあるのかという疑問に対して、答えはイエスでなおかつその効果(単純提示効果という)は大きく、特定の対象をただ繰り返し経験するだけで、その対象に対する好感度、愛着、選好性は増大する。テレビ・コマーシャルをしつこいくらい繰り返した方が効果が上がるというのは一種の経験知である。
実験データによれば画像の反復呈示回数と好感度の変化は閾上(自覚有)の場合はある回数で飽和するのに対して、閾下(自覚なし)の場合には反復するほど効果が増大する。意識に上らぬ状況だけに恐ろしいことでもある。この原理を利用したのがサブリミナル・コマーシャリズムである。漫然と民放テレビを見ていても、いつの間にか特定の商品名がいやおう無く脳の片隅に叩き込まれるらしい。マスメデイアによるサブリミナルな操作によって政治や倫理、宗教に関わるマインド・コントロールも可能となると、無警戒ではいられなくなる。当面は技術的にさして深刻な実施効果にまでは至っていないようだが、今後は警戒もした方がよいのかもしれない。
<国会討論雑感> 最近しばしば国会予算委員会などの討議をテレビ中継するようになった。N.H.K.が第一でも衛星放送でも同じ中継をするのは視聴者としては手抜きと感じる。第一でやるのなら衛星放送はぜひ別の番組にして欲しいものだ。質問をする議員は皆テレビ中継があることを十二分に意識していて、肩に力が入っている。無闇に総理に回答を求め、担当の閣僚が答弁に立とうとするとすかさず「総理、総理!」と叫ぶ。最近の小泉首相の答弁は総じて単調で同じセリフの繰り返しが多く、訊いて損した感が強いにも関わらずだ。
予算枠は30兆円を超えないようにするという昨年の公約を今年は守らなかった点について、「大したことではない」と首相が発言して随分追及されていたが、私は単に公共予算を増額するのでなく、現時点ではこのような分野にこれだけ金を注ぎ込む必要があるという力点をハッキリ明示した政策提示が必要だと思う。その点景気浮揚の声に押され、官僚の抵抗に腰砕け気味の小泉首相は多分昔あったように前年度付けた予算を減らさないような実績ベース(ゼロベースというのか?)の予算配分を復活させてしまったのだろうと推測する。何と何に重点配分してそれ以外は軒並み何パーセント以上減額したというような勇ましい話は決して聞けなかったし、追求するべき野党も時々刻々変わるイラクや北朝鮮などの国際情勢に空しい議論を尽すだけで、肝心の予算内容について本質的な追求をする議員は誰もいなかった。多分第2東名の橋脚だけが林立している高速道路工事にはコッソリ多額の予算がついたのだろう。
入沢肇自民党議員が霞ヶ関の改革として、単に高級官僚の天下り問題を追及するだけでなく、現在の官僚の昇進が事務官(事務系)と技官(技術系)とで大差があり、技官は伝統的に待遇が悪い状態が続いていることを問題に挙げた。そして中国では朱鎔基現首相もその後継者(氏名を聞き漏らした)も技官で、技術系が重用されている点を例示してわが国も早急に思想改革が必要と訴えた。これに対して石原行政改革担当大臣は鋭意対応すると答弁していたが、日本の場合こういう問題はそうたやすくは革まないだろう。私も技術屋が行政に参画することに大賛成だが。

<たまちゃん> 最初に多摩川(六郷川)に出現、次に鶴見川、次いで横浜の帷子川と移動してきてここの護岸工事のコンクリート棚が気に入ったらしく、時たま現れては這い登って昼寝する。多くの人が見物はできるが直接近づきにくい場所だから、本人(オットセイ)も安心してここを選んだようだ。幼女が“タマチャアン”と呼びかけるし、近所の奥さんたちもニコニコして眺めて喜んでいて人気の的になった。命名は最初の出現地にちなんで誰かが付けたら皆がそれを踏襲したようで、マスコミも取り上げていつのまにか公認された。横浜市では住所=帷子川として住民登録すると、大勢がその登録票のコピーをもらいにくると報道された。
そこへ突然米国の動物保護団体と名乗る一団が現れて、早朝から帷子川の川断面を遮るサイズの網2枚を沈めて“たまちゃん”の捕獲にかかった。何をするのかという近所の人に答えて、たまちゃんを捕獲して北の海に戻してやりたいと言ったという。米国の団体というが日本人もいて(どうもその男が発案者らしいが)、今は元気だが弱ってきてからでは遅いのだと大声で主張しているのがテレビ報道された。たまちゃんは当日もお気に入りの棚に上がっていたが警戒していて早めに川に飛び込み、一旦2枚の網に挟まれたがうまくすりぬけて脱出し海に逃げたらしい。
横浜市への事前の届け出では川の清掃作業をするということだったそうで、言っていることとやっていることが違うではないかと市が事情聴取したらしい。目下のところ違法ではないそうだが、大勢の無言の抗議が応えたらしくグループはもう捕獲を止めたと言っているようだ。莫迦な事をやる人間もいるものだ。あれだけ市民が歓迎し住民登録までしているのに、皆の面前で捕らえて無理やりよそへ連れ去ってしまうなど自分勝手で横暴だと悟らないのが不思議だ。人の思惑を気にしない行動は傲慢無礼に感じられる。川が汚れているから住むべきでないなどというのは程度問題で、たまちゃんにしてみれば自分の勝手でしょと言いたいだろう。
初めのころはミーハー的な関心事ぐらいに思っていたが、こうなるとこれに懲りずなんとか又帷子川に戻ってきてくれないかと少し気になっていたら、最新ニュースで帷子川に再出現した。とりあえずほっとした。
<博物学> 新書版で河合雅雄編「不思議の博物誌」という小冊子を一読した。僅かなページ数の中に20人の博物学の専門家による32話が収録してあって、それぞれの異なる世界の入り口から中のごく一部を垣間見せてくれるようなものなのだが、人間を取り巻く自然環境についてかくも深遠な未知の世界があることを知らされると、日常の些事にかまけてこのような分野についてろくに知らずに寿命を終えるのは如何にも残念な気がする。また子供たちもこういう世界を知らずに成人して欲しくない。調べればこの随筆にも32ものテーマを提供してくれる貴重な資料であるが、いずれボチボチそのような試みを実行するとして、取り敢えずはこの本の知識で2〜3のテーマを論じてみたい。
−1− ブラックバス 最近東京のさして大きくもない複数の川で、川幅一杯に無数のブラックバスが群れているのが報道された。体長は20cm近くあり、捕らえて焼いて食べられそうに見える。寡聞にして知らなかったのだが、この魚は戦後北米から導入されたもので、その詳しい経緯は知らないがお蔭で今やブラックバスのいる池にはメダカやフナはいなくなってしまったそうだ。これらの小さい魚にとっては羊の群れに狼を放たれたようなものだったという。心ない日本人の密放流またはキャッチ・アンド・レリースの結果らしい。そう聞くと真に残念。
−2− 里山 この本に里山の定義が書いてあって、“薪炭の生産を目的として定期的に伐採・利用される二次林のこと”とある。そんな定義があるとは全く知らなかった。また世界に誇る日本一の里山は兵庫県宝塚市から大阪府を通って京都府南部に続くなだらかな北摂山地であり、その素晴らしさは1に平安時代から続く800年以上続く歴史性、2に伐採・炭焼きによって本来の里山景観が現在も持続していること(これは安価な木炭でなく茶道文化と結びつく美しい菊炭によって可能となった、3に台場クヌギの存在、4にクヌギ林の昆虫群生で、人の植栽によるクヌギを中心にさまざまな生物が新しい生態系として里山を育成し、人と自然の共生の典型であると記している。
―3− 巨木 北米には“大きい”、“高い”、“長寿”という三つの世界一の木がある。巨木はジャイアント・セコイアで、推定重量1385t、樹高最大はコースト・レッドウッドの114.4m、いずれもカリフォルニア。長寿はメキシコにあるトウーレ・サイプレスで推定樹齢2000年。樹木が何故このように大きくなるのか真相はよく分かっていないようだ。端的に言って114mの高さまで1気圧の地上から水が上がっていく理屈は未だに誰も解明できない。こんなことが分からぬこと自体が不思議だがそれが厳然たる事実で、動物はもちろんだが植物も人間の手で創りあげることは全く無理である。
地球が誕生したのは凡そ46億年前で、その中で5億4000年前から2億5000年前の古生代からさまざまな化石が現れ、地球環境の変化が推測できるようになった。こうした博物学のお蔭で100年にも満たぬ寿命の我々も多くの知識を与えられることは有難いことだ。でも知らぬことが山ほどある。
<春遅し> 彼岸が来たというのに依然として寒い。流石に厳寒期とは様子が少し違うが、真冬の服装を変える気がしない。近所の庭も未だ白梅が盛りで、散る気配がない。我が家の紅梅も同じだ。今日は真昼になっても陽が射さないこともあって暖房を止められない。
気象庁の中長期予報は当たらない。幾らなんでも旬日を経れば温暖さが訪れるだろうが、今年の桜の開花は平年より遅れるに違いない。地球温暖化といってもそう無差別にやってくるわけでないのはやや気が休まる。
今春はイチローの所属するマリナーズが大リーグ開幕の二試合を訪日して行なうことになっていたが、米国の対イラク開戦で安全上の理由から中止された。日本サッカーテイームの訪米も同じく取りやめになった。四六時中のようにテレビはイラクの戦闘の状況を伝え、季節感が一時預かりになってしまっている。