5月の話題


2003年5月

<疫病> もう知らぬ人は地球上にいないのではないかと思われる新型肺炎SARS。この度ヴェトナムでは国内の蔓延抑圧に成功したと発表した。WHOも病院側の手際のよい隔離処置を評価している。一方で中国では12月の発生から当局が事態の重大性を認めるまでに3.5ヶ月かかり、初期の対応を誤ってまだ収束の見通しは立ちそうにない。初期に単なる流感と誤解した病院関係者から30%以上の犠牲者が出ている。
 街を歩く人が揃ってマスクをしている北京の光景は異様だし、結婚式・映画などの集会は一律に禁止された。病院に見舞いに来て警察による強制隔離処置を受け、矢来の向こうで泣き叫んでいる人達がテレビ放映された。北京郊外の人たちは交通を介してのウイルス汚染を恐れてか、交通を妨害するために道路に穴を掘り出したということまで伝えられる。中国のような広大な国土で汚染を徹底的に締め出すことの難しさは想像を超える。
 まだウイルス抗体を培養しワクチンを製造するのに暫く時間がかかるのだろう。それにしてもこういう新種のウイルスはどういう機序で発生するのだろう。ニューヨークタイムスは発生源が蛇・鳥・獣など何でもごっちゃに扱って食用に供する中国都市近郊の動物屠殺処理場であると紹介していた。従ってウイルスはまず動物に寄生しやがて人間に取り付くらしい。それ以上詳しいことは分からない。
 昔は疫病が現代よりずっと脅威で、一度の流行である都市の人口の1/3が斃れたなどということがザラにあったらしい。人の寿命は疫病から如何にうまく逃れたかによって決まるので、平均寿命は低い時代がずっと続いたとされる。ペストや天然痘が駆逐できるようになったのは最近(20世紀)になってのことらしい。えらそうな顔をしていても人間は動物だから無防備でウイルスに襲われればひとたまりもない。イラクで生物や化学の大量破壊兵器を探しているが、思いもかけぬ地域でやられることになったのは皮肉なことだ。
 ー医学知識に乏しく、”ウイルス”と記すべきところを”細菌”と当初記してしまいました。訂正の上謹んで誤りをお詫びします。そして塩基配列の異なる4種類のウイルスが発見されたと報じられています。ワクチン製造の件も自信ありませんー

<再び漢字について> 前月に続いて阿辻哲次の「漢字のはなし」(岩波ジュニア新書)を紹介する。この本は先の大島正二の著書より噛み砕いた表現をしているので、読む順序を逆にした方がよかったが入手順がそうなってしまったので仕方がない。この人も日本人の宿命として漢字3要素の内“音”については詳しくないようで、その方面にはほとんど触れていない。漢字は表意文字だから文字の背景にある音声言語と切り離して、字形だけで本来の意味を伝えることが可能だから、漢字の意味を知るのに中国でどう発音するかを知っている必要はありませんと片付けている。
 漢字は3000年の歴史をもつ世界最古の文字で、その誕生の経緯は歴史のかなたに霞んでいる。だが“牛”、“羊”などという字が動物の角の特徴を捉えた象形文字としてスタートしたことは確かなようだ。漢字の次の特徴はいくつもの書体があることだが、古くは亀の甲羅や牛の肩甲骨に文字を刻み、これを甲骨文字と呼んでいる。次の時代には青銅器の表面に銘文が鋳込まれ、これを金文と呼んでいる。甲骨文字は硬い母材の表面にナイフで刻み付けたので鋭く細い直線を組み合わせた形になり、金文は柔らかい粘土に直接書いたので曲線が多く肉太で柔らかい形になった。このように初期の書体の相違は筆記用具と書写材料の差異によった。
 少し時代が移って秦の始皇帝の時には既に地域によって様々な書体が用いられていたが、統一国家が成立し中央で任命された官僚が各地に派遣されて文書によって行政を行なうようになると、書体の統一・標準化が必要になり丞相の李斯がこれを命じられて“小篆”という書体を定めた。始皇帝は併せて度量衡の基準を制定したが、その普及のために全国に配布した基準器(鋳造された分銅)の表面には小篆の文字が刻まれていた。
 書写材料は次第に入手の容易な石・竹・木になり、竹簡・木簡として現存しているが、後漢の蔡倫は各種の繊維を利用して紙を発明した。これは中国四大発明の一に挙げられている。ここに至って紙の製造を専ら行なう人が現れ、文字の書き手は書写材料を自ら製造する苦労から開放された。唐代には木版印刷も行なわれるようになり、当初は筆写本の方が尊重されたが次第に印刷技術も向上し普及するようになった。これも四大発明の一に属している。 印刷に使われた書体は楷書だったのでこれが漢字の標準書体になり、それ以外の書体 ―篆書・隷書・行書・草書などー は書道など芸術や装飾にしか使われなくなっていった。こうしてみると我々日本人は昔の中国から漢字にからんだ文明について実に多くの恩恵を受けていることを再認識する。阿辻氏はパソコン・ワープロによって戦後一時制限されてきた漢字の字数は増えるに違いないと主張している。私も同意見。

<性感染症> 10日ほど前のN.H.K.の企画で確か武内陶子アナの司会で、若い男女約20名を集めて“エイズ”をテーマに討論していた。これまではエイズは遠く離れたアフリカあたりでは由々しき大問題になっていても日本では関係ないと思われていたが、21世紀に入り日本国内でも急に感染者が増えてきた、皆は予備知識と対策をしっかりもっているかという主題だったと思う。懸念があれば躊躇わず速やかに検査をする。感染が分かったら今は薬があるから、正しく服用すれば致命的な結果にはならないが、一生治らないから薬は止められなくなるという。出席者の大半はほとんど予備知識がなく当惑気味だった。昔と異なり今は中学・高校生になれば、人におくれてはならじと皆性交渉の経験をもつという。
 ところでこのほど入手した本は「王様も文豪もみな苦しんだ性病の世界史」、著者はビルギット・アダムという1971年ドイツ生まれでまだ30そこそこのうら若き女性である。しかし男の専横を徒に断罪することなく、過去の西欧の中世・近代の状況を淡々と冷静にかつ憚ることなく描写していて、迫力のある著作になっている。まさに啓蒙されてしまった。
 中世の教会の聖職者は表向き独身主義を貫いていたが、娼家を経営して税金を徴収し、実態としてあらんかぎりの淫行を行なっていた。その結果教皇ユリウス2世までもが梅毒にむしばまれた。放蕩を尽くしたアレクサンデル6世の病は枢機卿に任じられた息子のチェザーレ・ボルジアにも引き継がれ、彼の顔には梅毒による膿疹ができていたという。
 王侯・貴族も皆被害を受けた。宮廷病といえば梅毒を意味した。16世紀の前半、ヨーロッパを代表する2人の君主、フランスのフランソア1世とイギリスのヘンリー8世はそろって性病に苦しんだ。ヘンリーは晩年狂気になり、ロンドン人口の3%を殺戮したと伝えられる。ロシア皇帝イワン4世は重い病気にかかり、残虐で気ままな暴君に豹変して何千という家臣の命が犠牲になった。これが梅毒のせいであることが後で分かった。
 昔から詩人、音楽家、画家といった芸術家たちの多くはその放埓な生活故に梅毒などの性病に苦しんだ。著書によるとボードレール、ベートーヴェン、デユーラー、ゴーギャン、ハイネ、キーツ、モネ、モーパッサン、ミルトン、ニーチェ、ショーペンハウエル、シューベルト、スメタナ、スウイフト、ロートレック、オスカー・ワイルドなどは皆梅毒患者だったと言う。ハイネもゲーテもフーゴー・ヴォルフも性病で苦しんだ。
 ベートーヴェンが難聴になったことは有名で、これもまた後に致命症となる肝硬変による水腫と黄疸も共に先天性の梅毒が原因だったことが推測されるが、楽聖の名声を汚さぬために証拠となる資料はすべて抹殺された。詩人ハイネは恐らく学生時代に感染し、彼が梅毒の末期症状である脊髄癆で死亡するまでの経緯は友人宛の多くの手紙でよく分かっている。彼は「頭は自由闊達に動いていますが、この肉体はすっかりしびれてしまって、もうごみくず同然です」と述懐している。それでも世を去るまで更に8年渾身の努力で詩作を続けた。
 作曲家フーゴー・ヴォルフや詩人ボードレール、作家モーパッサン、哲学者フリードリッヒ・ニーチェ、画家ロートレックの晩年は精神錯乱状態だったが、これは梅毒によってもたらされる典型的な麻痺症状だった。伝記作家たちはこれら有名人の業績を傷つけるのを避けるためにそのような事実の公表を抑えるようにした。芸術家の場合症状進行(麻痺)の初期には異常なまでの創作意欲の高まりが生じて患者の能力を著しく高め、さんざん高揚感を味あわせた上で最終的には精神の退廃へ向かうようである。
 中世まで人々は病気を犯した罪に対する神罰と考えていたが、イタリアの外科医フラカストロは1546年に著書を出し病気が性交渉によって感染するとした。1838年にフランス人医師フィリップ・リコールは梅毒と淋病が2つの別な病気であることを証明し、1879年ドイツの皮膚病学者アルベルト・ナイセルは淋病の病原体を発見した。1905年ドイツの動物学者フリッツ・シャウデインは梅毒患者の体内に病原体スピロヘータ・バリーダを発見した。
 原因はようやく突き止めたが、治療法の開発は更に日時を要した。皮膚に生ずる発疹や潰瘍を抑えようと中世の時代から水銀の軟膏が用いられたが、これは有毒なだけで何の治療効果もなかった。近代になって砒素を用いたサルバルサンが用いられ、ある程度の効果もあったが副作用もあり、1929年に至ってアオカビを基にしたペニシリンが発見されると、淋病にも梅毒にも有効なことが分かって在来療法を駆逐した。
 1980年代半ばに新たに世界中に不安と恐怖を呼び起こしたのは後天性免疫不全症候群、いわゆるエイズである。当初先進国でこの病気の症例がいくつか報告された時、罹患者がいずれもホモセクシュアルだったので、医師を含めた人々はこれをホモ同士の伝染病と見なし一般の人たちは大丈夫だとしたが、やがて病気はアフリカで発生し世界各地に撒き散らされた異性間セックスで感染するものと分かってパニックになった。
 セックス産業に支えられた国がエイズ禍を免れるはずはない。タイでは娼婦の50%がエイズに感染していて、ツアー客にとってコンドームなしのセックスはロシアン・ルーレットのようなものだと著者は書いている。またドイツとチェコの国境地帯(森林地区)はヨーロッパ有数の売春地帯なのだそうだ。路上には愛の奉仕者たちが待ち受ける。こうしてみると人間は昔も今も変わらない。

<職人志向> テレビで若者の間に生まれている新たな生き方が紹介された。サラリーマンを辞めて伝統工芸の道に入るべく親方に弟子入りして修行に励んでいる。経師屋のような仕事だったが、親方ももう後継者もできず自分の一代限りとすっかり諦めていたところだったがと目を細めている。若い女性も参加している。これも脱サラである。会社の仕事は自分でなくても誰でもできる。ここでは自分しかできない仕事がある。もちろん一人前になるまでには長い道のりだが、遣り甲斐はあると目を輝かせる。
 以前に(2000年4月)梅原猛氏が初代学長を勤める“ものつくり大学”を紹介した。これもそれなりに進んではいるだろうが、本当の職人というものは昔ながらに親方に弟子入りして伝統的な環境で自ら学び、技術を見よう見まねで身に付けていくのが当たり前でなければならない。その番組には永六輔氏が出演して情熱的にこの新しい風潮を歓迎していた。鯨尺の竹の物差しを未だに大事にしているという氏のことだから、まさに我が意を得たりという心境だろう。
 昨今のデフレ市況、縮み指向の世の中で従来からの慣性で会社勤めをすることの空しさを感じている若者は実に多いと思うが、さりとて転進の方向を掴めぬままに大半の人たちが悶々と時を過ごしているのではなかろうか。私だってもし若ければ大いに悩むに違いない。生き甲斐をどう求めるか難しい時代だ。
 手入れをする人のいないままに衰退していく森林事業や先祖が営々と築いてきた斜面の棚田の復活に参加しようとする人も現れていると耳にする。こちらの方は先に挙げた技を誇る職人の世界より一段と厳しいだろうことは想像に難くない。だが今の世相は人の生き方を改めて考え直すよい機会を与えてくれるかもしれない。何も昔の人たちと一から十まで同じやり方をすることはないのだ。現代産業の成果をうまく取り入れる工夫をすれば、日本人の新しい生き方として胸を張れる状況が創りだせるのではないだろうか。

<仏教について> 石原慎太郎著「法華経を生きる」を読む。作家であり政治家でもある著者が宗教者としてどこまで仏教を体得しているのか、実態はよく分からないが我々凡俗にその奥義を普通の言葉で伝えようとしている努力は感じ取った。一神教を奉ずる欧米中近東諸国の相も変らぬいさかいにつくづく嫌気が差していることが前提にある。以下受け売りだが自分なりに受け取ったものを要約してみよう。
 釈迦は宇宙の中に人間が存在する意味を考えつめ、身体を責め抜く苛酷な行を経て、悟りを開き仏教哲学として結実させた。それは多くの弟子たちによって様々な経典として今に伝えられているが、その真髄は何か。ここでは言葉だけになってしまうが暫くそれを追ってみよう。
 釈迦が示した人間としての極限最高の境地は、戒・定・慧・解・知見から生じ、更に三昧(心の集中)・六通(六つの特異な能力)・道品(悟りを得るに必要な37の心のもちかた)より発するものという。次いで慈悲(相手の幸せを願い、足らざるを補う心遣い)・十力(知恵の十の力)・無畏(憚りなく行動する)の心をもつ。即ち人として最高の手本だった。更には悟りを得る要諦として四諦(苦労・悩みへの対処法即ち苦諦・集諦・減諦・道諦)と六度あるいは六波羅蜜(なすべき日常の行い即ち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)、また苦悩を消滅させるための八道(正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定)によって執着心を去ることを説く。
 ところで仏教哲学の真髄である“実相”とは何か。般若心経に「色不異空、空不異色、色則是空、空則是色」とある。この世の中で常に移り変わる現象に実体はない。空なのだ。そして実体がないと見るものがかりそめの事物であってこの我々が生きる世界の本質なのだ。キーワードは“空”であって、智慧とは“空”について知ることであり、勇気とはものごとの本質は変化だという真理を心得、無常に耐えることだとなる。こうした覚悟ができれば何も恐れることはない。
 更に法華経で説くところの“実相”ではこの世、現象世界は先差万別であり変化して止まるところがないように見えるが、その奥の奥では常に大きな調和を保っている永遠の存在がある。アインシュタインや湯川秀樹は現代科学の分野で究極の真理の存在を実感していて、法華経の説くところと通ずる。現在NHKの教育テレビの日曜の番組で丁度この法華経を連続講座として採り上げている。
 法華経は人間の存在の根源的な意味とその永遠性を説いた釈迦の教えを採りあげ、“如来寿量本”として仏の姿を借りて人間の生命は永遠不滅に循環するのだと説く絶対肯定の思想である。こういった点は私の先祖の属する浄土真宗(ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えて只管救済を求める)より積極性があり、それ故に石原氏が生活態度の指針として仏教の中でも法華経を推したいのだろう。絶対神としてはるか届かぬところに仏がいるのではなく、人は在家出家に関わらず悟ることによって自らも仏になり永遠の存在になるのである。




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