
<戦争の報道> 武田徹というジャーナリストが掲題のテーマを取り上げている(ちくま新書)。第一点は第2次大戦前後のわが国の同盟通信社。当時世界三大通信社の中でも抜きんでた規模で国際的に活動していた。1936年発足当初は正確公平・客観的なニュースの配信を目指したが、次第に軍部の圧力によって“思想戦”という表現で戦争に協力するようになり、“宣伝”によって政府や軍と利害を一致させ、ミッドウエイ海戦などを契機として中立性を失っていった。こういう同盟の姿勢は非難さるべきかも知れないが、第一次大戦後欧米各国ともプロパガンダ活動を行なっていた。
そんな同盟が唯一傑出した活躍をしたのは1945年8月9日皇居の防空壕で開かれた御前会議で天皇がボツダム宣言受諾を決した直後、外務省の同意を受けて同盟がこのニュースを軍の検閲なしで発信できるモールス信号で世界に打電、AP、UP通信社がこれを受けたので世界の知るところとなった。NHKはその内容をラジオ放送しようとして軍の差し止めを食っている。間一髪の隙を突いたわけである。また終戦直後には海外向けニュースとして原爆の悲惨さを報道し、そんな兵器を使った米国を非難する内容も含んでいたという。GHQは速やかに同盟の報道を事前検閲することにした。
次はベトナム戦の報道である。ここで取り上げているのはニューヨークタイムス従軍記者デイヴィッド・ハルバースタムで、赴任当初は戦争を“自由”を守るための正義の戦いと考えていたが、戦線で取材を続けるうちに“この介入は失敗する運命にあり、我々は歴史の流れに逆らっている”との結論に達したという。彼は戦争で活躍できるジャーナリストは世界史の中でその戦争がどのような意味をもつかを考える歴史家の視点をもたねばならぬとした。その頃日本のフォト・ジャーナリスト岡村昭彦も南ヴェトナム戦争に従軍して全く同じ所見を述べており、米軍と南ヴェトナム政府の顔色だけを窺っている記者仲間を“ジャーナリストの仮面をかぶった良識ぶった猿”と酷評している。
“地獄の黙示録”という映画が1979年カンヌ国際映画祭で公開されたとき、賛否両論に包まれたが、フランシス・コッポラ監督はその後苦闘を続け22年の時を経て一部を改作し、改めて“戦争をやめては繰り返す救いがたい人間の魂の奥深くに潜む化け物”として紹介した。立花隆は“これはベトナム戦争についての映画ではありません。本当にクレイジーなベトナム戦争そのものです。”と評した。これも報道の一形態であろう。こういったジャーナリズムの働きによって米政府は世論の支持を失い、惨めな敗退を余儀なくされた。
その後は湾岸戦争である。ベトナム戦争の反省として米政府当局は“情報操作”を重要な命題と考えるようになった。当時レーザー誘導によるスマート爆弾は投下した爆弾の7%に過ぎず残りは無差別爆撃だったが、繰り返しスマート爆弾の華麗な爆破映像をテレビで見せられて大衆はハイテク兵器による奇麗な戦争の時代の到来を信じた。“嘘も百遍繰り返すと真実になる”というわけだ。この時期には情報操作のプロであるP.R.会社が生まれ、売り上げを伸ばした。
湾岸戦争以後強力なメデイアとしてインターネットが出現した。現在は独立して活動し、毎週のように国際ニュースに関する解説記事を配信している田中(宇)は“現場に行って報道することこそがジャーナリズムだと言うがこういう日本のマスコミの単純な姿勢は間違っている、事前にロクに調べずに現地へ行って現場の人たちの話を原稿にするから本質が見えない記事になる。インターネットで2時間も調べれば随分事情がつかめるはずだ”と言う。私もこの半年ほど田中(宇)の国際ニュースを愛読している。
ところで小泉首相はブッシュ大統領との会談後、国会を延長して自衛隊のイラク派遣を合法化する法案を成立させようとしているが、米国のイラク攻撃の大義だった大量破壊兵器が発見できず、また非人道的な爆撃・破壊の修復もできぬままに治安の回復に手が付かず、駐在する米軍がイラク国民の反感を買い、散発的な攻撃まで受けている現状では、よほど派遣の方針と事前のP.R.活動をうまく調整しておかないとジャーナリズムからの一斉射撃を受けかねない。徒に米国に追随しないでくれ。
<原子力発電> 昨年9月に“原発行政”という題で私は言いたいことを言った。その後一向に根本的な施策は実施されぬままに時が経過し、夏が近づいた最近になって行政側は平沼赳夫経済産業相が新潟県を訪問、謝罪(何を謝罪したのか詳しく報道されていない)して柏崎刈羽6号、7号の運転再開が決まった。これだけではまだ真夏の最盛期の需要は乗り切れないということで、冷房の設定温度を上げるなどの節電対策を政府は呼びかけている。
それはそれでよいとして東京電力ならびに当局は一向にエネルギー需給の根本方針を示さない。東電福島にはズラッと原発が並んでいるが、これらは軒並みシュラウドや配管にクラックが発生していて、1)そのまま放置して廃棄やむなしというのか、2)部分的に修復あるいは徹底検査によって使用再開するのか、3)懸念されている部材を新品に取替えて再スタートしようというのか一向に意図が分からない。情報開示しないのは犯罪的ですらある。
2)についてはクラックの発生した部材の溶接補修という方策は技術的には困難というのが常識で、せめて徹底検査によってクラックが致命的な深さに達していないことを確認するしかないが、3次元的なクラックの進行を視覚的に的確に捉えるよい方法はないようだ。そうなれば3)の思い切って怪しい部材はすべて新品に取り替える方法しかないが、作業中および廃材から発生する放射能対策は可能なのか。ロボットを利用して作業者が被曝しないような方策は工夫できないのか。
この頃N.H.K.が“プロジェクトX”で至難とも思われる事業に取り組み成功させた事例を毎週放映するのでその気にもなるのだが、若い人たちに任せたら何とかするのではないか。問題は経済産業省の役人たちが責任を取ることを恐れて退嬰的になり、一向に積極策を許さないことが懸念される。
予想される最悪のシナリオは的確にクラックの現状を捉えないままに政治的に妥協してウヤムヤのうちに福島原発群を再スタートさせ、チェルノブイリ並みの大規模な破断事故を発生させることだ。東京電力といえども近頃の行状を見ていると技術屋不在の役所みたいな感が強く、黙って任せておくとこんな大失態を演じかねない。これこそ無責任体制の最たるもので、日本の人口密度はチェルノブイリの比ではないから甚大な被害を発生するだろう。
もう思い切って原子力を諦めるのなら代案としては今のような小さい規模の風力発電でなく、南極近くの海上にズラリと風車を並べて吹きまくっている偏西風を受け止める。地球の自転エネルギなら相当長期間利用できるだろう。解決すべき課題は海上に浮かべた風車ステーションの固定と発生した電力エネルギの日本への輸送(送電)だ。ちまちました問題に憂き身をやつすぐらいならこういった大きいテーマを国中で取り組んでくれないか。熱意と知恵があれば不可能なことではない。

<墓> “電脳墓”というのがあるという。インターネット上で死者を哀悼したり、死者の経歴を保存した墓だという。中国のサイト「思念」は、「電脳墓」という言葉の通り、故人の名前で検索すれば、その経歴や写真が現れる。ほかにも名文といわれる哀悼文が集められたページや、故人やその家族に追悼の言葉を送るサービス「留言簿」もある。「電脳墓」は、欧米ではサイバーストーンと呼ばれ、特にイギリスなどでは普及が進んでいる。ウェブサイトで故人の経歴やメッセージ、写真や絵、音声などを保管しており、それを葬儀社などが管理することで、死後も記録を残すことができるのが特徴だ。
本来は言うまでもないことだが普段あまり人の通らぬ小径を辿ってまばらに樹木の生えた墓地を歩いて目当ての墓に行き着き、墓石を清掃し花と線香を手向けてやおら故人を偲ぶのが墓に参るということだ。静寂の中で物言わぬ墓石に向かい合うことで日常の些事から解放され、故人との関わりの想い出を辿ることができる。いつの間にか日が翳り、遠くで鳥が鳴き、人生の来し方行く末を考える一時をもつのは趣のあることだ。
残念ながら脚の不自由さが著しくなり、考えてみると親しくしていた知人であの世へ逝った数が増えてしまったが、心ならずもそのような人たちの墓参りをしたことがない。自分の父も墓を立てはしたもののその後の墓参りは欠かし続けている。こういう状況では無粋だと一概にけなさず、自分のパソコンの中に少しづつでも故人たちの思い出話を記し、蓄えていきたいと思っている。
村上文祥、鈴木昭、山本信明、山田耕一、荻野芳朗、山内隆、佐藤主計、吉川巌、長谷川正平、岡本邦彦。それから会社の上司に属しかわいがってくれた何人か、畠山一清、畠山清二、松波直秀、池野一寛、坂本秋、石川成坦、真野一徳。またそれぞれ個性豊かな何人かの中学・高校時代の教師たち。自分の心の中に人知れず彼らの墓を立てることにする。
一方で自宅にいるようになって知らぬ人からかかってくる電話で墓地の勧誘が多い。家内が早々に手配してしまったのでその都度断っているが、老齢の婦人の礼儀正しくはあるが魅力のない声で同じ霊園から何度でも掛けてくるような気がする。自分の墓には全く関心がない。但し父の墓を預けてある岡崎・美合の小学校同級生の住職には自分はそこへは入らないだろうと告げておいた。
<少年の犯罪> 長崎で12歳の少年が4歳の駿ちゃんを立体駐車場の屋上から突き落とした。詳しい報道が抑えられているが、駿ちゃんの衣服を脱がせていたずらしようとして抵抗されカッとなって我を忘れ柵越えに駿ちゃんを投げ落としたと推測される。12歳の少年は一見悪気のないおにいちゃんに見えたので駿ちゃんは信用して付いていったようだ。少年は学業成績が極めてよく、身長は170cmに達しているという。
この事件が報道され始めて間もなく当日の街路監視カメラに若い男に手を引かれて歩く駿ちゃんが写っていると報じられた。犯人特定と逮捕のためにマスコミに映像を流せばよいのにと思ったが、それをしなかったので何か裏にあるなとは感づいた。やがて犯人は長崎市内の中学1年生と報じられ、それからまた1日余経って捜査当局が本人を拘束した。少年法によれば14歳未満の少年が事件を起こした場合、少年も含めて誰も刑事責任が問われず、従って“逮捕”もできない。少年の氏名・顔写真も公表できない。本人の身柄は長崎県中央児童相談所の決定で長崎家裁に送致された。家裁は拘置にあたる観護措置を決め、少年を市内の少年鑑別所に移した。
本件に関して森山法相は当面法律の改正は考えていない旨言明した。鴻池祥肇構造特区・防災担当相は「これは親の責任だ。信賞必罰・勧善懲悪の思想が戦後教育に欠如している。親なんか市中引き回しの上、打ち首にすればいい」と発言した。氏は政府の青少年育成推進本部の副本部長でもあり、“青少年育成大綱”の取りまとめ責任者でもあって、事件を受けて民間有識者が作った“スローガンばかりで冷えたスープのような”大綱原案を却下したばかりだった。これを受けて国会をはじめ世に賛否両論が渦巻いたが、氏の地元の事務所には8割以上の“よく言ってくれた”と発言を支持するメールが寄せられたという。
私はここ10年ほどの少年犯罪とその処遇を見ていて、少年法或いはその関連法令そのものに対する違和感を強くしている。少年犯罪を大人並みに裁き罰して何故悪いのか。身体の成長に精神の成長が追いつかないことを情状酌量し、世間に対して少年を完全に保護して罪を免除し公表を避けて完たき更正の機会を与えることは害多く益は少ないと思う。最近の子供はゲームに夢中になる。ゲームの世界は失敗すればリセットできる。つい現実の世界をゲームと混同する危険がある。そこへきて実刑や世間の冷たい目を免除するのではゲームのリセットと相違なくなる。アフガンやイラクなど紛争の絶えない世界で生き抜く人々にとってはそんな配慮は笑止に違いない。
教育では身体能力が高まればそれに応じて年齢に関係なく社会的な責任が高まることを小学校の低学年から子供の頭に叩き込まなければならない。生きていくことの厳しさを教えるのは若いうちから必要だ。こどもを甘やかすからいくつになっても自立できない子供が増える。難しい理屈は要らないが、世間さまに顔向けならないことだけはするなという事をひたすら教え込む必要がある。誤りを犯せば親の責任追及以上に子供本人を責めるべきだ。修身という教科をなくしてしまったのは全くおかしい。小学高学年になると丁稚奉公に行かされた昔の方が皆の心構えがしっかりしていたと思う。こうしてみると人間社会の制度は退歩しているように見える。
少年どうしの会話の中で少年法による保護の知識は周知徹底しているに違いない。半分は冗談にせよやるなら今のうちだぞと言い交わすこともあるだろう。今日の週刊こどもニュースで14歳未満は人殺しをしても罪にならないという説明を受け、賢そうな聞き手のこどもたちは目を丸くしていた。鴻池さんも現職の大臣として現行法に直接盾突くわけにいかないからああ言ったので、本来現行の制度は少年を甘やかす悪法である。酒鬼薔薇聖斗と名乗り年下の子供を殺害してその首を切断し、自分の通う学校校門門柱に載せた男が今年少年院を放免されて社会復帰するそうである。どういう悔悟をしたかは別として娑婆に出てくればどこかで聞き込んだ人によってあの男は酒鬼薔薇聖斗だと風評を立てられることは避けられない。今回の少年も氏名と顔写真が携帯のメールで既に世に出回っているそうだ。法律でマスコミは抑えられても、人の口に戸は立てられない。
事のついでに自民党の次期総裁候補を自称する亀井静香議員は死刑廃止論者だというし、ヨーロッパでは死刑廃止が主流になっているというが、私はこの際死刑廃止反対を申し述べたい。前年神戸の名門池田小学校に乱入し無差別に幼い児童を殺害した男(成年)は裁判で死刑を求刑されたが反省の様子は見えず、「幼稚園ならもっと多く殺せたのに」とうそぶいたという。こんな男を死刑にせず度重なる恩赦があればいずれ放免されるなど考えたくもない。人間の本性は度し難いものであり、懲罰とその恐怖で暴走を抑え込むのはやむを得ない事と歴史は教えている。
<文明の盛衰> やや古い本だが、高坂正尭の「文明が衰亡するとき」(新潮選書)という小冊子を読んでいる。第1部はローマ帝国、第2部はヴェネツイア通商国家、第3部はアメリカ合衆国を採りあげている。第3部に関しては実は未読なのと著書が1981年発行でソ連崩壊後の最近の状況をふまえていないために、ここでは取り上げない。
第1部は以前にも触れたことがあるが塩野七生が1年に1冊出している「ローマ人の物語」がまさにその主題としている事柄だが、まだ数冊残す現在は結論にまでは至っていない。著書では諸家の説として1)北方蛮族の侵入、2)人種混淆による構成人員の変質、3)森林破壊と気候の変化・農業の衰退と牧畜への転換、4)共和制が帝政に変わった政治的な要因と軍隊の変質などが挙げられているが十分に説得的ではない。ローマ帝国の極めて発達した交通網と統一的な法体系は後世に範となる優れたものだった。
詰まるところ著者はローマ衰亡の原因は経済に求めるべきという。対外的な膨張が終わり軍事的な勝利による富の流入がなくなった。官僚制の発達によって国家支出は増え続けた。財政支出の増大に応じて通貨を増発しインフレを招いた。重税と特例措置の乱用が悪循環を生んだ。興隆期には取るに足らない外敵の侵入を撃退する軍事力のまとめが困難になっていた。ギボンは次の言葉を残している「この構造物はそれ自身の重みに圧せられてついえたのである」。また強力な敵カルタゴを滅ぼしたローマ軍司令官スキピオの「勝ち誇るローマもいつかは同じ運命に見舞われるだろう」という予言が現実になった。
ヴェネツイアは西ローマ帝国崩壊後、蛮族の襲撃を避けて人工島上に築かれた最小面積・最小人口でなおかつ13〜16世紀にかけては地中海最強の通商国家であった。ヴェネツイアは近代的な造船技術を創始し、また巧みな外交によってビザンチン帝国と神聖ローマ帝国の間を泳ぎ、地中海世界の海洋国家になっていった。この国は複式簿記や銀行といった商業技術を創りあげ、近代の商業文明の基礎となったすべての制度を取り入れ発展させていった。
共和国の元首を選出するにはくじ5回、選挙4回で選挙人を選び、その人々が元首を選ぶという、個人の野心と大衆の専横の結びつきを徹底的に排除する周到な方法を用いた。貴族にも私的特権を認めず、節制の精神が貴族制を支える徳性だった。このようにしてヴェネツイアは安定し腐敗しない政治を確保し際立つ社会組織能力をもって周辺国との抗争に打ち勝っていった。
このように周到に図って手に入れたヴェネツイアの繁栄もやがて試練を受ける。それはまず強力なトルコ帝国の出現であり、次にフランス・ドイツ・スペインなど西欧諸国のイタリアへの侵攻だった。次いで喜望峰を回る新航路の開設で、東方からの香料貿易独占の利を失った。更にはフランスのブドウ酒などに代表される西ヨーロッパ経済の発展である。
16世紀そのような逆境の中でヴェネツイアはガレー船を帆船に切り替えて東方交易における地中海航路を大西洋航路に負けずに存続させ、また毛織物生産、印刷業や加工業などの工業を発展させ、内陸部に農耕地を増やして農業生産を増大させた。しかし地中海地方の森林濫伐と船価上昇による造船能力の減退で海軍力は低下し制海権を失っていった。やがて賃金の上昇と重い税金が競争力を減退させ、新事業に乗り出す活力が消え、守旧・保護の体制へ移行していった。商業の発展に遅れて15世紀末に美術が興隆してルネッサンス文化の中核になりその中心はパドヴァ大学だったが、その自由闊達な精神はスペイン教皇庁の不寛容な教条主義に次第に抑え込まれていった。
過去の蓄積によって生活を享受しようという消極的な生活態度はヴェネツイア人貴族の男子で結婚しない人が増え17世紀に60%に達したことに象徴される。経済が発展を止め収縮する中で生活水準を維持するために子孫を増やしたくないと考えたのだろう。全体としてヴェネツイアは変化に恐れずついていく気力を失った。残念ながら今の日本にもこれに類似した状況がないとはいえない。
こうしてみると如何に優れかつ数世紀にわたって栄華を極める文明も必然的に衰退していく。あたかも人の死が免れ得ないものに似ている。それとは別に現代“イタ公”などとざれ口をきく人もいるイタリアだが、過去に二度も他の国が及びもつかない文明を生んだことは改めて見直すべきと思う。米国については改めて後日論じたい。

<迎撃ミサイル> 今週の小泉内閣のメール・マガジン中に次のような記事が載っていた。
[大臣のほんねとーく]● 弾道ミサイル防衛について考える(防衛庁長官 石破茂)
ミサイル防衛(MD)には、弾道ミサイル打ち上げ直後の上昇段階で撃ち落とすブーストフェーズ対応型、中間段階で撃ち落とすミッドコース対応型、落下段階で撃ち落とすターミナルフェーズ対応型があります。
日米共同研究を行っているのはミッドコース対応型における先進的な海上配備型のものです。昨年米国が発表し2004年度から配備するシステムはミッドコースとターミナルフェーズを組み合わせたものですが、日米共同研究の成果がすぐ配備されるわけではありません。これを日本で導入するか否かは、今後安全保障会議において決定されることになります。その際検討されねばならないのは、(1)そのシステムの確実性、(2)費用、(3)わが国の装備体系への影響、(4)運用する際の法律、等の点です。先日の日米首脳会談で、小泉総理はMDにつき検討を加速していくことを表明致しました。防衛庁として、その判断に必要な材料を適切に提供できるよう、努力していきたいと考えています。
MD導入についての主な批判として、(1)マッハ10で飛ぶミサイルを撃ち落とすことなどできない、(2)費用が多額で納税者の負担に耐えられない、(3)MDに多額の費用を要する位ならわが国も対抗できるミサイルを持つべきだ、(4)MDを備えれば相手国はそれを超える量と質を備えたミサイルを保有するようになり軍拡を招く、等があります。
(1)につき、既に相当に高い確率で撃ち落とせる技術が完成しつつあります。(2)につき、現在費用について精査を行っており、多年度に分けて配備するため単年度の負担額まで提示する予定です。(3)につき、そもそも兵器の拡散を阻止するというわが国の方針になじまず、このような政策を採った場合わが国は自ら軍縮の努力を放棄することになります。(4)につき、MDは「相手がミサイルを10発持てばこちらも10発持つ」というような対称的なものと異なり純粋に防御的なものであるため、軍拡を招くという議論は論理的に誤りと考えられ、むしろ軍縮をもたらすものだと考えるべきです。(以下 略)
この論説を技術的な観点に絞って取り上げてみる。ミサイルには積載した燃料の続く限り遠方へ飛ばそうという単純なものと“巡航型”と称して余力をもって比較的に低高度を飛行し、G.P.S.によって標的に誘導するものとがある。前者では発射前にミサイルの方向と距離をセットするから命中精度は高くならないし、発射後の飛行軌道は単純で予測しやすいだろう。一方で巡航型では同様に発射前にコースを設定するにしても必ずしも最短距離を選ばず、自在に複雑な曲がりくねった経路を選ぶことができる。
防衛庁長官は一度工業専門学校の国際ロボット・コンテストを見学するといい。彼らは予め定められたルールに従って知恵を絞って相手のロボットの動きを妨害し、自分のチームが高い得点を得るようにロボットを操作する。ここではミサイルと違って行動範囲は平面的だし、目標物およびその攻め方(得点方法)は予め定められている。
迎撃ミサイルは飛行中の相手ミサイルに直接命中させるのか、それとも至近距離で爆発しそのエネルギで相手ミサイルを破砕するのかのいずれかだろうがどちらにしても容易ではない。迎撃ミサイルの存在を知れば攻撃側はこれを避ける方策を必ずや考えるからだ。核弾頭など塔載しない偽のミサイルを先行して飛ばすことも考えられる。前記のコンテストに出場している学生に試しにこのミサイル防衛問題を話して攻める側と守る側とどちらが有利か尋ねてみるといい。恐らく10対1以上の比で攻撃側を選ぶに違いない。
昔の戦で城砦を固めればよかったのと異なり、攻める側はどこをどう攻めてもいいのだ。これを専守防衛で防ごうとすれば、攻撃側より1次元高度の技術とより多額の予算を必要とするだろう。更に迎撃に成功したとしても自国領土内なら核爆発を招かずとも付随的な被害の発生が懸念される。防衛庁長官は多額の予算を米国に追随する技術研究と設備の導入に投ずることをやめ、政治的にミサイル攻撃を防ぐ方策を講ずるべきだ。さもなくば憲法を改正して目には目を、歯には歯をとこちらもミサイル攻撃を準備すべきだ。断っておくがこれはあくまで技術的な観点からの議論である。