
<気になる日本語>
昨今テレビの一般番組の会話の中で素直に聞き流せない言葉がある。一般的な慣用句になってしまっているらしいのだが、例えば「お名前を訊かせて頂いていいですか」という文句の後半部分である。何故“いいですか”というのか、なんとなく“いけません”と反撥したくなる。昔は(こういうと年寄りくさくて気がさすが)、「お名前を訊かせて頂けますか」と素直に言ったものだ。これをわざわざ取り上げるのは誰が言い出したか知らないが、多くの若いタレントやアナウンサまで流行り言葉のようにそういう口の利き方をするからだ。
もう一つは「わたし的に言えば」という“的”の使い方だ。これも若い人が意識的に用いている。つい最近では朝のテレビ・ドラマ“こころ”の主演女優中越典子が集録を終えた後のインタビューで使っていた。こちらの方は強調的な表現としては頭から否定する気はない。ただし容認するとしてもあくまで話し言葉の範囲に限るべきで、書き言葉にまでは決して使って欲しくない。また年寄りが使ったとすれば噴飯ものだ。
なるべく素直な日本語を使いたいものだ。細かいことのようだが、よい日本語を使い続ける意味で案外大事なことかもしれない。

<偉大なる田舎> 先月28日に“今日はとことん愛知県”のBS放送があり、自分にとって第二の故郷なこともあって関心深く視聴した。目新しいネタはあまりなかったが、改めて地元独特のことば(即ち方言だが)に強い引力を感じた。「来てみりんね」、「行ってみんさい」、「食べりん」から始まって「ドエリャーウメエデイカンワ」に至るまで、京ことばのような優雅さは決してないが、気のおけない何ともいえぬ親しみがある。このことばが決してすたれていないことを実感した。小学校5年から高校卒業までの8年間の生活は一生に比べると決して長いとはいえず、地元に戻っても自分では決して使えないが、共感をもって理解できるのは他所に育った人と違うところだ。
東京のスタジオに出演した愛知県人は竹下景子、琴光喜、浅井慎平の3人とも私には全く抵抗なく受け入れられる感性をもっていて、この人たちも郷里をよく理解し愛しているが郷里を離れて久しい自分と似た境遇だなと感じた。同じ愛知県でも尾張と三河は言葉も気性も若干差異があり、こういう特徴は他県にはあまりなさそうだ。戦国時代に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人を輩出したので、英傑を生む地盤があることも否めない。私は琴光喜と同じ岡崎の出なのでどうしても家康に加担したくなる。
地元の名物料理として推奨されたのは“味噌煮込みうどん”。味噌は大豆を原料とする赤味噌。これが岡崎特産である。決して高級料理でないが、この地方では近年ますます愛し続けられている。私の少年時代は戦後食料事情の悪かったこともあり、夜の屋台で味わったことがあるだけだ。類似の食品として味噌カツ、土手焼きがある。醤油も当地では“たまり”を使う。
東海道53次は広重の浮世絵によく描写されているが、あの風景が最も近い形で残されているのは愛知県だろう。有松あるいは本宿の辺りの旧街道筋。考えてみると愛知県人が日本でいちばん頑固に保守的なのかもしれない。今となってはこの気質は貴重だ。金箔を張り詰めた高価な仏壇が今でも少なからず売れているという。少年の頃、豊かとは決していえない農家の伯父の家に金ピカの仏壇が光り輝いているのが極めて印象的だったが、お蔭で今でもあれがないと胸を張って仏教徒とはいえない気がする。名古屋城天守閣に聳える一対の金の鯱にしても人々は光り物が好きだ。番組では愛知県に日本一が沢山あると次から次へと紹介があったし、一方で田圃はめっきり減ってきたが、それよりも昔からのことばを守り変に洗練されず泥臭さを気にしないこの気質が代表する偉大なる田舎に敬愛の念を覚える。
<ユビキタス> 流行に背を向けることもないと坂村健東大教授の「ユビキタス・コンピュータ革命」を読む。“ユビキタス”は今や流行語になった感があるが、ラテン語で“遍在”を意味し、坂村健に言わせると一神教の神ではなく日本的な八百万の神がアチコチ至るところにいて裏のネットワークで話し合っている環境だという。
いつの間にかテレビ・洗濯機・冷蔵庫といった家電製品にはコンピュータが入っていて複雑な制御をやってのけている。家庭に入っているコンピュータはパソコンばかりではなくなっている。これからはあらゆる日常品にコンピュータが組み込まれ、それらがネットワークで相互につながるようになる。パソコンは汎用的であるがために大衆には分かりにくくかつ使いにくくなっている。パソコンに関わっている人は画面ばかり見つめていて、社会性をなくしている。人々を仮想世界から現実世界に引き戻そう(Back to Real World)というのがユビキタス・コンピューテイングの標語なのだそうだ。1台のマシンにあらゆる機能を組み込むパソコンではなく、個々の専用機がインテリジェント化して、それがネットワークに有機的につながる使いやすいシステムが目標である。この世界では定常的に相互関係をもつコンピュータが1部屋だけでも100を超え、ビル全体では数千から数億にまで及ぶという。
最近出先から自宅の電子機器に指令を出して炊飯器や浴槽の湯沸しのスイッチを入れるとかあらかじめ暖冷房のスイッチを入れて帰り着いた時に便利なようにするなどの設備を宣伝している。しかしこんなことがどれほど便利になるだろうか。炊飯器に予めといだ米を入れておかなければいけないし、浴槽は洗って水を取り替えておかなければいけない。帰ってから順序良くテキパキ片付ければ夕刊でも読み、テレビのニュースでも視聴している内にご飯も炊けるし、食べているうちに風呂も沸く。こんな程度の電子化がブームになって景気回復の旗手になるとは信じられない。
私は本屋で本を購入するときにバーコード・リーダーが中々コードを読み取れず、本屋のおかみさんが首をかしげながら何度も試みる不便さを毎回のように目にしている。RF-IDチップという無線タグがある。あらゆる商品にこのタグを付ければ非接触で識別可能で、現行のバーコードに替えて利用できる。現在このタグは一つ1ドルするが、これが100億個売れるようになれば一つ5セントに値が下がるという。しかし電波を利用するのでバーコード以上に誤動作が多いらしい。またISO標準が制定されておらず、各社が勝手なチップ(形態・コードとも)を使っているのが現状である。
ユビキタス・コンピューテイングを社会全般にうまく普及させることができれば、先の限られた電子機器の遠隔操作などとは比べ物にならぬ利便性が生まれるだろうが、その道は遠いようだ。まず標準規格の開発という技術的課題とその標準規格の策定の基盤づくりという社会的な課題を平行して解決しなければならない。しかも商品がこれだけ広く国際的に流通しているのだから、その実現は国際的な舞台でなされなければならない。更にもっと難しい問題が控えている。ユビキタス・コンピューテイングは生活密着型であるが、世界の人々の生活は決して一様化できないのでその運用方法は多様化せざるを得ない。同じ国の中でも人の生き様は千差万別である。昨今介護保険制度がスタートしたが、身体障害者の事情は人毎に異なり、決して誰にも通用する一般解などはない。いくら設定が大変でもそういう個別事情に柔軟に適応できなければシステムは成功しないだろう。
こう見てくるとユビキタス・コンピューテイングの将来は決して手放しで期待できる世界ではない。坂本氏が著書で説くようにバラ色にはまだ見えない。やむを得ないことかもしれないが、今のマイクロソフトの最新のパソコンO.S.であるWINDOWS-XPや付随ソフトMS-WORD、Internet Explorerなどの使いにくさに辟易しているようなことが起こることは想像に難くない。世の中は善意の人ばかりではない。コードが公開されれば尚更システムの不備を研究して思いもかけぬトラブルを巻き起こす輩が出てくるだろう。
一方、マイクロソフトの専横を非難していた坂本健氏が開発中のT-Engineフォーラムへのマイクロソフト社の参画を認めた旨報じられた。共同開発するT-Engineプラットフォーム上でリアルタイムO.S.である従来からのT-Kernelと機器組み込み用のマイクロソフト社のWindows CE.NETという二つのO.Sが稼動する。デジタルビデオカメラを開発する場合、カメラのオートフォーカスなどハードの高い応答性が求められる制御にはT-Engineを用い、ユーザーインターフェイスやマルチメディア機能、PCとの連携にはWindows CE .NETを利用する、というイメージだ。T-Engineのデータ連携機能、T-Busを使ってT-kernelとWindows CE .NETを連携させることもできる。デジタルカメラや多機能プリンタ、ハードディスクレコーダ、デジタルテレビなどに応用できるとしている。
T-Engine開発は250社が参加しており、今後ともオープンに行なわれる。ユビキタス・コンピューテイング世界実現のために、氏が開発し本来そのベースともなるべきO.S.であるTRON(The Realtime Operating-system Nucleus)にはこだわらず、自社開発とソースコード非公開に執着していたマイクロソフトをも巻き込むことに成功した。マイクロソフトは坂村氏が主導する「ユビキタスIDセンター」に参加することも検討していて、業界コミュニティへの接近をさらに続けるようだ。こうしてみると時間はかかっているが、ユビキタス・コンピューテイングが世界を席捲する日が遠くないのかもしれない。だが目下の私はその実効性について半信半疑である。
<隋の煬帝> 中国の歴史には国が栄えた漢と唐の時代にはさまれて南北朝の混迷の後を受けて一旦は全国制覇を取り戻した隋という国があった。この時代のことは詳しく知らなかったので解説書をひもどいてみる。楊堅という武将が運と才に恵まれて北周の王室を乗っ取り、朝廷の実権を握ると王家一族(宇文肱の子孫)を一人残らず殺害した。簒奪を果たすと楊堅は隋の文帝を名乗り、やがて江南に残存していた南朝政権・陳王朝を攻めてこれを滅ぼした。南朝の皇帝は優れた先祖たちと異なり軟派の放蕩児で、隋の南進の報せにも遊蕩を止めなかった。これで300年近い中国の南北分裂が終わった。
先立って楊堅は名族独孤児信の娘を娶った。夫に簒奪を勧めたのはこの妻である。家庭の不和は婦人問題が原因になるので、この夫婦は妾を一切置かぬことを誓い合い、女子5人、男子5人の子をもうけた。親子12人水入らずの仲であるから家庭生活は永遠に続きそうに見えたが、期待に反して最後は支離滅裂な不和家庭の見本のようになる。
先の南進の最高指揮官は次男晋王の楊広で、勝利の実を掴んだのはすべて部下の武将の功だったが凱旋を迎えた母独孤皇后は殊の外喜んだ。長男皇太子は女色を好み、母皇后の反感を買った。次男楊広は正妻のほかには婦人を近づけぬふりをして独孤后の信用を得た。文帝や皇后から使者が来ると下へもおかぬもてなしをした。三男楊俊は秦王に封ぜられたが、遊興に身をやつし腹立ち紛れの王妃に毒薬を盛られ不治の病に冒された。四男楊秀は蜀王に封ぜられた。才能に恵まれ武芸に長じたが側近に人を得ず奢侈を極めた生活を送るようになった。五男楊諒は漢王に封じられたが末子ゆえに両親から溺愛された。
文帝は頼りにしていた男の子が成長するにつれてぐれだしたので言い知れぬ淋しさを覚えたが、つい美女の下婢を寵愛して留守中怒った皇后に殺害されただけでなく気まずい仲になった。晋王は謀臣楊素を抱きこみ兄太子の悪事を言い立てたばかりでなく、クーデタを企てたとして、遂に文帝をして長男を廃太子とし次男楊広を皇太子とさせた。皇后の意見は大体において肯綮に当たっていたから賢婦人だっただろうし、文帝は恐妻家で何でも言うことを聞いたが、子を偏愛して家庭内の不和を激成したのは皇后の罪である。やがて皇后は病死する。次男の太子は四男蜀王とも仲が悪く、楊堅と楊諒を呪い殺す呪文を偽造して文帝に蜀王の官爵一切を剥奪させた。
文帝は多くの長所をもつ名君であり、混乱を重ねた南北朝分裂の最後に出て中国全土を統一し、歴代の君主が自己の快楽に溺れた中で自身の勤労を度外におき、孜々として政治を人民のためにあるべき姿に帰そうとした。しかし文帝は短所も多く特に猜疑心の深いことが最大の弱点だった。独孤皇后の死によっていよいよ孤独感を深め、騙されまいとする警戒心から多くの功臣までもつまらぬ嫌疑で免職したり誅殺した。先に文帝は帝位についた後に前王朝の一族に無慈悲極まる殺戮を加えた代わりに、旧家を避けて新たに何人も登用したが、心から信用できずやがて権力の座から遠ざけた。不信感が嵩じてノイローゼ気味になり、家来に対して囮捜査まで行なって人心を動揺させた。やがて病が重くなりこの世を去るが、皇太子が部下に命じて父の死期を早めたという説もある。
父皇帝の死後皇太子は詔勅と偽って廃太子(兄)を扼殺させ、その後に喪を発した。この際廃太子を改めて擁立しようとした高官は官爵剥奪の上で流罪にされた。五男漢王は万里の長城線の防衛基地にいた。喪の発せられる前に皇太子の偽造した詔勅を受け取った漢王は兄たちと同様にだまし討ちに遭うと悟り、独自に都の状勢を探って皇帝の死を知り、皇太子に反旗をひるがえした。しかし優柔不断で長安攻略をためらっているうちに、軍勢を整えて迫った皇太子軍に捕らえられて庶民の資格に落とされ終身幽囚の身になった。先に三男秦王は妻に毒殺され、四男蜀王は文帝の怒りにふれて庶民に落とされている。
文帝の死後9日で皇太子は即位し、煬帝が誕生した。文帝は天下の騒乱が収まったばかりだったので消極政策を取り人民に休息を与え、莫大な黒字財政の結果国庫は富に満ちた。煬帝は一変して積極政策を取り出した。元来中国の地形は西に高く東に低いので何本もの大河がいずれも西から東へ流れ、東西の交通の便には供せても南北の交通の役に立たない。そこで大運河の開削に着手し、当初は揚子江から黄河まで、更に北は北京に近い?郡までまた南は杭州で銭塘江に接続し、揚子江から黄河までの幅員は60m、全長およそ1500kmに達した。運河の岸には平行して道路を設け、人力で船を曳く。
この運河は現代まで存続しその交通・経済上の意義はまことに大きいが、その大工事実施のための犠牲は甚大だった。男子だけでは足らずに婦人をも労役に駆り出した。健康管理・食料も行き届かず、死体を捨てに行く車が道路にひきもきらなかった。徴発されたら二人に一人は帰ってこれなかったという。煬帝は万里の長城にも手をつけ、全長3000kmの中央部を修築した。大運河も長城も工事の終りには仰々しい大行列による巡幸を催し、その勢威を喧伝したが一方人民の辛苦は並大抵ではなかった。
当時北ベトナムまでが中国領で交州と呼ばれたが、煬帝は林邑と称する独立国(今の南ベトナム)を攻めさせ、象隊で反撃する林邑軍を大いに破ったが、慣れぬ気候のため大将以下隋軍の半数が病死した。それでも林邑は隋の朝貢国となった。煬帝は周辺諸国に使節を送って隋への朝貢を勧め、日本も放置しておいてはまずいと聖徳太子の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という有名な国書を小野妹子に持たせた。煬帝は感情を害したらしいがそれ以上のことはなく、一方日本は遣隋使によって中国の文化を精一杯吸収した。
朝鮮半島では高句麗・百済・新羅三国に分裂していたが、鴨緑江を越え遼東半島も併呑して圧倒的に広大な領土をもつ北方の高句麗は容易に隋に従属しようとしなかった。隋は文帝時代にも攻めて失敗している。煬帝は大軍をもって高句麗を攻めたが、戦線の不統一や兵站の失敗で勝利が得られず空しく引き揚げた。今の北朝鮮も韓国よりふてぶてしく、朝鮮戦争を持ちこたえた戦歴をもっているのは偶然ではないようだ。煬帝は改めて軍容を整え自ら戦線に進出して高句麗を攻めたが、今度は嘗ての重臣楊素の長男楊玄感が後方で兵站を受け持っていて反乱を起こした。このような反乱の芽は早くから醸成されていた。天子の権力確立のためにはひとりの大臣を重く用いてはならぬというのが隋の天子の方針であった。文帝以来すべての官僚は努力して頂点まで上り詰めると例外なく急転直下の没落が待っていた。楊素もその一人だった。折りしも天災で人民が苦しんでいるのに、民衆の苦しみなど微塵も気にかけない横暴な天子は許せないと立ち上がった。戦略のまずさから楊玄感は捕らえられ処刑されたが、高句麗出征は頓挫した。煬帝は懲りずに3度目の遠征を試みるが、出征軍士に厭戦気分が満ちて竜頭蛇尾に終わる。
文帝と同様に煬帝はノイローゼに苦しみだした。煬帝の虐政に対する民衆の反感が強まり治安がメッキリ悪化した。天下の形勢が険悪になっても朝廷の官僚はなるべく真相を皇帝に報せぬようにした。突厥軍の突然の侵攻を受けた皇帝は褒美を約して守備軍を奮起させ撃退を果たすが、その後で賞与が惜しくなり約束を反古にしてしまう。反乱は日増しに激化し、直属の軍隊さえ信用できなくなってしまう。遂に皇帝は難をのがれるために洛陽を出て運河で江都へ向かう。洛陽は群雄争奪の的になり治安は地に落ちた。煬帝は都落ちしても身に付いた奢侈・荒淫の生活が改められなかった。江都でもクーデタが勃発し、皇帝は最愛の末子趙王とともに反乱兵士によって殺害された。煬帝は古いやり方で権力を握り、それをもてあそび、その古いやり方で殺された。
中国史上最大の悪名を残した男と評されるのも尤もだが、生まれ育ちから形成される性格の宿命と良き相談相手のない君主の孤独が察せられ、多くの専制君主にとっての反面教師になったはずだ。徳川家康が尾張・紀州・水戸の御三家と将軍を守護する統制のとれた家臣団を残したのは当事として最大限の配慮だろう。民主主義というものが“またか、いい加減にしてくれ”とぼやく妥協の連続であっても、専制暴虐の君主や有無を言わせぬ軍部の圧政に苦しむよりはましであることは認めざるを得ない。

<時の流れ> 肩のこる話が続いたので目を庭に転ずると、久しぶりの雨で残暑の間を咲き誇っていたピンク色のサルスベリの花が終わった。おくればせに咲いたマンジュシャゲの紅色が消えた。白い萩の花もおおかた散ってしまった。熱帯性低気圧による激しい風雨のせいもあるらしい。あとには名を知らぬ薄紫と桃色の小さな秋の花が儚げに咲いている。ついこの間猛暑で多数の死人まで出たヨーロッパでは早くも雪が降ったと報じられている。突風で岸壁のガントリー・クレーンが暴走したり、異常気象も目立つ中で季節は確実に秋から冬へと向かっている。
この時期は北海道と南九州とでは随分気温に差がついて服装が話題になりやすい。気象庁の人は早くから長袖を勧めるが、私は発熱量が多いせいかギリギリまで半袖シャツで過ごしたい。ネクタイを締めないでよい身分になったのはまことに有難い。不器用なものだから、左右2本の長さの調整がピタリと決まらぬことが多くて毎朝いらだたしい思いをしていた。
あと何年生きられるか分からぬが、身障者としてままならぬ人生を送った割にはここ数年落ち着いた生活を過ごせて有り難いことと思っている。先のことは思い悩まぬことにしているが、なるべく人の余計な世話にはなりたくない思いは人と同じだ。
同年輩の人たちの多くが第一線から退いて暇になるから同窓会流行りで小学校から中学、高校、大学まで毎年のように声がかかる。その中で大学の専門課程に行く前の教養学部のクラスだけは抜けていたが、篤志家がいて大学の事務局に調べさせて名簿を作り同窓会の声をかけてくれた。理科1類9Bというクラス一同の在学中の写真を送ってもらった(自分ではとってなかった)が、専門課程のクラスと違って卒業後ほとんど交流がなかったのですっかり忘れてしまい数人しか識別できない。連絡を受けた同級生間で50年ぶりに写真識別確認のメール交換があって少しづつ思い出してきた。
そのような経緯で開催された同窓会に私は足が不自由なので欠席したが、幹事さんがメールで送ってくれたご一同の写真を眺めてまた驚いた。当然のこととは言え、見知らぬ老人ばかりがズラリと並んでいる。クラスに一人だけ女性がいて、在学中口をきく機会もなかったがその人だけ見当が付く有様だった。出席者は名札を付けていたが、写真では文字までは読み取れない。皆さんご同様だったようで、幹事さんはご苦労にも在学中および現在の写真双方に名を入れて改めて郵送してくださり、ようやく状況がつかめてきた。50年の歳月の洗礼の凄さに久々の感動を受けた次第。
<計算尺> はたと思い出したが、計算尺を使わなくなってから久しい。昔大学の学期試験では計算尺の使用が許されていた筈だし、企業に入ってから三角関数やその拡張関数まで使える大型の計算尺を購入した。ソロバンは会社が支給してくれ、足し算引き算用に使用した。そしてひと時は盛んにそれらを使ったはずだが、いつの間にか卓上計算機に置き換わってしまった。愛着を持っているその計算尺だから決して捨てた覚えはないのだが、現在どこにあるのか身の回りを探しても容易には見つからない。
技術計算では9割以上が乗算でありまた計算で求める数の有効桁数は3桁あれば必要十分で、そのニーズと精度を計算尺はピタリと満たしてくれた。一方で電卓は四則演算ができる点は便利だが、数の有効桁数・精度という概念がどこかへ行ってしまって、演算を繰り返すにつれてズラズラと無節操に長い数列が表示される。こういう問題に関して高級な電卓ならしかるべき操作をすれば有効精度が表示できるのかもしれないが、一般の電卓ではそれは望めない。
そんなことにはお構いなしに洋の東西を問わず計算尺はすたれてしまったようだ。まだ僅かに年配の人たちの記憶に残っているが、あと50年もして計算尺を手にした人は一体それが何で、昔どういう目的で使われたのか分からなくなるに違いない。こういうのも文明の発達に伴う現象と言いきれるのだろうか。
CADという言葉は知っていてもその技術の実態については知らないうちに私は設計の現場を離れてしまった。製図についてはT-定規と2種類の三角定規、それに大型・小型のコンパスで鉛筆を削りながら製図板に取り組んでいた時代の人間だ。まさしく計算尺時代の道具立てである。スパイラル・ケーシングの形状を有限の数の円弧で接線を共有するように繋いでいった。今はもっと器用な方法があるのだろう。しかし電卓と同様に使い手によって陥る落とし穴も多いに違いない。中小企業では別かもしれないが、定規類も計算尺と似た運命を辿った。