
<科挙> 中国には古くから官僚を選任するための国家試験として“科挙”という制度があったことは承知していたが、その詳細は知らなかったので宮崎市定氏の著書(中公文庫)をひもどいた。中国の政治思想によると天子は天から委任を受けて天下の人民を統治する義務を負うが、天下は広くとても一人で統治することはできない。人民の中から助手を求めてその仕事の一部を委任しなければならないが、そのために万人の中から最も賢明な者を公平に採用する手段として科挙が始まった。
今から1400年ほど前に隋の文帝は地方にはびこる貴族の横暴を抑えるために、地方官衛の高等官はすべて中央政府が任命派遣することを決め、この官吏有資格者を製造するために科挙制を樹立した。このように科挙は天子が貴族と戦うための武器として案出され、隋の次の唐代300年の終りにはほぼ目的を達して、宋代には天子に刃向かうほど強力な貴族はいなくなり、科挙出身の政治家が自由に手腕を揮うことができるようになって、文治派の政治が完成された。モンゴル王朝の元はこの制度に冷淡だったが、明代になると復活し盛んになって清朝の終り近くの1904年まで継続した。
当然のことだが長年月の間に選抜方法は随分変わった。初期の隋の時代に比べると終期の清の時代には試験の回数も競争率も断然厳しくなってしまった。制度が完備した清の時代には予備試験としての学校試と本試験(科挙試)に分かれる。学校試は入学試験で第一が県試、第二が府試でここまでが地方、第三が院試でこれに合格すると国立学校に入学を許される。国立学校への入学は儒教を説く孔子に弟子入りしたことになる。
科挙は学校で養成した人材を試験で選りすぐって官吏に登用するのが目的で行なわれる。科挙は三段階をとり、まず地方で郷試(解試)を行い、合格者を中央に送る。中央政府は会試(貢試)を行い、最後に天子みずからが殿試で最終決定をする。
郷試は受験者(挙子という)を各省の首府に集めて3年に1回行なわれるが、受験者は貢院の独房のような狭い個室の中で3日2晩を過ごす。試験開始の前日筆記用具や土鍋など身の回りの品をかついで入場するが、1万ないし2万の受験者が厳重な身体検査を受けるので入場に1日かかる。こういった試験が続けて3回あり、全国一斉に8月9日から16日までかかる。合格者には捷報と称する合格通知が届き、合格者は挙人(マスター)の資格を終生にわたって獲得する。試験官たちは新挙人を集めて“鹿鳴の宴”という祝宴を開く。
郷試のあった翌年3月、全国の挙人を北京に集めて貢院で外部と一切の交通を絶って会試が行なわれる。会試は郷試と同様に3回連続で3月9日、12日、15日に始まり、3日2晩を独房で過ごす。合格者の数は官吏の需要に応じて400名乃至200名とした。礼部尚書は新合格者と60年前の合格者を招いて“瓊林の宴”という祝宴を開く。会試に合格すると殿試にも合格したも同然である。
殿試に赴く貢士は天子の客人なので鄭重に遇される。殿試では試験官は天子であるから、問題は勅語の形をとる。その答案は意見具申書であって、上奏文の形式をとる。特別な理由がない限り不合格者は出ないから、この試験で重要なのは天子の意思も含めた成績順位である。成績発表は学位授与式とでもいうべき“伝臚の式”で行なわれる。成績1位を状元、2位を榜眼、3位を探花と称し、この3人は天子から進士及第という学位を賜る。一般合格者は進士(ドクター)の資格を得、“恩栄の宴”という祝宴にあずかる。新進士らは太学にある孔子廟への参詣を命じられ、ここで釈褐の礼すなわち書生の身分から官僚の地位に上がった報告祭を行なう。数々の接待を受け、朋輩としての交際を始めた後に進士たちは人事院で指定された赴任地に赴くのである。
科挙の制度には批判も多かったが、1300年以上連綿として続いたのは利点が多かったからに違いない。それは誰でも受けられる開放的な制度だったこと、答案審査は座席番号だけで行なわれる概ね公正なものだったことに立脚しており、また武を抑えて文を進める精神―文治政策の根幹になっており、軍部大臣も文官をもって充てた。軍人の政治への容喙は現代の先進国でももてあましている問題だし、明治以後の日本もこの問題が破滅の誘因となった。軍部によるクーデターは中国では宋代以後見当たらない。
何事も初めてやった人間は偉いが、ローマ帝国の皇帝が歴代その務めを果たすために寿命を縮めるような苦労をしたのに比べ、また秦の始皇帝が官僚のできの悪さ・悪辣さに手を焼きながら思うに任せなかったことを思えば、隋の文帝が科挙の制度を創立した工夫は立派なものだ。アメリカの大学は入学してからよほど努力しないと卒業できないのに比して、日本の大学は受験地獄で入学してしまえば天国というのは科挙の悪いところを踏襲していると言える。これは中国の官吏が終身雇用制で、在来の日本社会もほぼ同様だったことと関係が深く、これからは状況が変わっていくだろう。
日本で科挙に相当するのは国家公務員試験だが競争率からすれば科挙よりはかなりやさしい。悪名高き官僚が生まれるのは個人の利得や狭い組織グループだけの利得をはかる動きに適当な防止策がないからだし、その幣は中国も同様だったはずだが、規律が乱れるよりはいいと目をつぶっているのだろう。司法試験はより厳しい難関で、これをパスする法律家を増やさなければいけないと各地で法科大学院設立の動きがある。私など素人はそれほど難しくしなくてもと思うのだが、当事者たちにはそれなりの理屈があるらしい。

<台湾> 文芸春秋12月号を読むと、台湾人に関する二つの記事が載っている。一つは「新幹線は中国の罠に落ちる」というテーマでジャーナリスト桜井よしこと対談している中華民国台湾総統陳水扁、もう一方は「台湾少年工、心の祖国に帰る」というテーマで紹介された台湾高座会のメンバーである。
前者では既に台湾の高速鉄道に新幹線技術を導入し、2005年には全線開通を目指すプロジェクトの推進者でもある総統が内政干渉にならないようにと慎重な物言いながら、民主的な法治国家である台湾と一党独裁の人治国家である中国の差異を指摘して、日本にくれぐれも注意しろと忠言している。台湾ではビジネスはあくまでビジネスで、契約が交わされればそれ以上の政治的な代償が払われることは決してないが、中国ではどんなビジネスもすぐに政治化して、さまざまな要求・条件付けをしてくる。中国ビジネスのリスクについては台湾より日本の方がよく知っているはずだと言いながら、台湾でうまく行った新幹線技術の移行が中国で同様にうまく行くとは限らないという警告である。
後者は昭和18年にB29邀撃用戦闘機“雷電”を製造のために神奈川県高座郡大和村の海軍工場に台湾から駆り出された嘗ての少年たちが58年ぶりに海軍工廠工員養成所見習科の課程終了の卒業証書を授与されるために来日した話である。会場には海軍出身の作家阿川弘之氏が出席した。氏は最近この台湾高座会の存在と元少年工の洪坤山さんの短歌「北に対(む)き年の始めの祈りなり 心の祖国に栄えあれかし」を読み、涙があふれて声が出なかったという。彼は8月号の随筆に「無謀な戦争をやって負け、彼らを見捨てた日本を“心の祖国”だなんて思ってくれている老人の大勢いる国が、世界中の何処にあるか」と書いた。慣れない冬の寒さや悪い食糧事情の中でお国のためにと頑張った嘗ての少年たち39名の出席者は様々な表情で“仰げば尊しわが師の恩”を歌ったという。
前者は政治家の発言だから政治的な配慮も当然入っていようが、後者は長い苦労を重ね人生を生き抜いた人の純粋な心情である。私もこの話を読んで涙が止まらなくなった。台湾統治時代に日本人が分け隔てなく献身的に台湾のために尽くしてくれ、“公に奉ずる精神”を植えつけてくれたと当時生きていた多くの人々が心から感じ、日本に対して一体感に近い親近感を保持しているようだ。
最近台湾の陳水扁総統が独立を問う住民投票の立法化について言及したのを受け、香港の中国系紙「文匯報」は中国政府関係者が「台湾当局が独立に向けて動けば、武力で解決せざるを得ない」と警告したと報じた。中国が台湾を中国の一部とし、独立国としての動きを徹底的に封じ込める政策を取っているのは今にはじまったことではないが、こうした台湾の人々の心情(日本への親近感)は裏返せば中国からの独立を保持したい欲求に繋がることは確かだ。先に“国際テロ”の記事として取り上げたチベットの悲劇で独立を保持したいチベット人民の悲願が押しつぶされてしまっているのと対比すると、米国の蔭の庇護があるほかに台湾が海峡によって中国本土と隔絶されているのが何といっても大きい。その点は元寇に脅えながら頑張った日本と立場が似ている。私自身はチベットと同様にここでも中国の覇権主義に強い反撥を覚える。
人騒がせなだけで弊害が多いから決して実施すべきではないが、仮に住民投票を実施すれば、中国からの独立派が勝利することは火を見るより明らかだし、必然性はないが日本と中国のいずれかへ何らかの形で従属するとすればどちらを選ぶかを問えば、日本が選ばれると思う。戦前および戦中に同じように統治したにも拘らず、朝鮮半島の人々は未だに日本への反感が消えず、一方で台湾の人々は日本に親近感をもつという差異はどこから来るのだろう。ひとえに中国の姿勢によるのだろうか。
<ヴェネツイア> もう10年近く前に故人になった政治学者高坂正尭が書いた「文明が衰亡するとき」(新潮選書)はローマ帝国、ヴェネツイア、米国を取り上げている。それぞれに興味ある叙述があるが、ここでは“通商国家ヴェネツイアの栄光と挫折”を取り上げる。私も含め大部分の日本人は中世ヨーロッパについて多くを知らない。ヴェニスというとゴンドラで周遊するイタリアの水上都市の観光地のイメージしかない。この地に嘗て相応の政治力を伴う傑出した文明が栄えたことを知り、現代にも通ずる真理があることに注意を向けたい。
一時期のヴェネツイアといえば長さ3km、巾2kmの人工の島リアルト島に限られていた。ローマ帝国滅亡後、北欧から侵攻した北欧のフン族、ゴート族を避けて人々が潟(ラグーン)に移り住んだ。西暦800年ごろ人々はカラマツ材の杭をラグーンの底の堅いカラント層(圧縮された粘土層)に無数に打ち込み、その上に石を積んで島を造った。人口10万人しかいなかったこの小国が11世紀に勢力を拡大し始め、12世紀にはアドリア海の重要な勢力になった。海運業で地中海の貿易の中心になり、ヴェネツイアは歴史上最小の面積と最少の人口の大国になっていった。
ヨーロッパの文明的な特徴と考えられるかなりのものを多様な領域でヴェネツイアは生み出した。血縁でも地縁でもない共同体:有限会社、常置外交使節制度、文化の領域では油絵、印刷術、商業演劇、企業としてのオペラ劇場などを創り出したのは特記すべきである。また最初に竜骨を置き次いで肋骨を繋ぐ骨組みを作った後で板を張る近代的な造船技術の創始者となった。従来はまず板と板を接合し水密にした上で肋骨と支柱で補強する困難な工作法によっていた。
当時のヨーロッパにはビザンチン帝国と神聖ローマ帝国という2つの勢力があった。またアドリア海の複雑な海岸線を利用して海賊が跋扈していた(瀬戸内海の村上水軍のようなものか)。ヴェネツイアはまず海軍力を強化しビザンチン帝国と水軍の制圧を前提に有利な通商条約を結んだ。裏返せばビザンチンの承認もしくは精神的支援のもとにアドリア海の制海権を手に入れた。次いで神聖ローマ帝国と友好な関係を作り、その領内でのヴェネツイア商人の商業活動の自由を保障してもらった。更にヴェネツイアの制海権確保80年後、ノルマン人のビザンチン帝国攻撃に対抗する代償として、ヴェネツイア商人は帝国内の一般関税を全額免除されることになった。
船には櫂を漕いで進むガレー船と帆船があった。多用されたガレー船は多くの漕ぎ手を乗せなければならないが、戦闘員にもなった上に風がなくても動けたので、軍事用・通商用を兼ねてコストを抑えることができた。かさばる商品の輸送には帆船も併用した。13世紀になるとねじを締めて引き絞るいし弓が発達して貫徹力が増し、重装騎兵の優位を奪ったし、海戦でも一層有力な兵器になった。船は一層進歩して大型化し遠洋航海に適するものになった。壁で囲まれた居住区ができ冬季の航海が可能になった。滑車や梃子を利用した強力な舵取り装置が開発された。15世紀にはヴェネツイアは4万人の兵士(傭兵)と100隻のガレー船と乗組員2万人を常備してまさしく大国になった。
複式簿記と銀行という商業技術を発達させ、債権・債務が明白になる複式帳簿で財政を運用した。危機に際しては国家は兵士と武装した船隊を大量に雇い入れ、その費用を公債の発行でまかなった。平時になると公債を償還するという風で国家を商業会社のように運営した。ヴェネツイアの商人たちは銀行に口座を持っていたし、彼らと取引する相手の商人にも口座をもたせていたので、取引に金貨や銀貨を使わずに口座から口座へ商品の代価を移すことができた。このようにヴェネツイア人は近代商業文明の基礎をすべて導入していた。銀行が商取引の中心になった。
ヴェネツイアの強大化に伴い友好的だったビザンチン帝国も警戒するようになった。似たような都市国家ジェノヴァが商人の冒険的な行動力をバックにライヴァルとして出現した。ヴェネツイアの没宗教的な外交に対して法皇から種々の圧力が加わるようになった。このような国際的な軋轢の中を生き抜くためには強力な政府が必要になった。彼らは限定された統治階級の共同責任に基づいて強力かつ抑制された政治制度を創り上げた。終身制の元首には補佐官が付けられ何事も補佐官の同意なしには決定できなかった。別に一定の休職期間を経なければ再選できない10人の委員を設け、国家の緊急重要なテーマは委員10人と元首および6人の補佐官、合計17人から成る“10人委員会”で審議決定した。またこれを補佐する終身雇用制の官僚を置いた。共和国の国会議員は世襲で選ばれ(貴族)、この中から複雑なルールによって選挙とくじを何度も繰り返して(くじ5回、選挙4回)元首が選出される。非合理なようだがこれで事前工作は不可能になるし、信頼できる人が選ばれる仕組みも残っている。また貴族には政治に参加する以外は法的にも税制上からも私的特権を認められていなかった。英歴史家ピーター・バークはヴェネツイアの貴族について「彼らは勤倹、重厚さ、および深慮を特徴とし、彼らの支配的な精神は自制である」と書いた。14世紀の変革の後ヴェネツイア共和国が崩壊するまでの500年この政治体制がほとんど変革されなかったのはそれが優れた制度だったことの証明である。競争相手ジェノバはやがて政治体制の不備のために自壊してしまう。
ヴェネツイアの興隆に翳りが見られるようになるのには様々な要因がある。東方に強力なトルコ帝国が出現し、やがてヴェネツイアを上回る海軍力をもった。フランス、次いでドイツ、そしてスペインが相次いでイタリアに侵入し、これらヨーロッパの大国はいし弓に代えて大砲を持ち込むようになった。ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰をめぐる新航路発見の結果、香料貿易独占の便益は奪われた。西ヨーロッパの経済発展により、フランスのぶどう酒、イギリスの毛織物などが盛んになり、ヴェネツイアが商業上の利益を独占する余地がなくなってきた。
ヴェネツイアはこのような逆境に耐え、通商国家の地位を16世紀からなお1世紀の間辛くも保った。コストと輸送量の点で劣るガレー船を大砲つきの大型帆船に切り替えた。ヴェネツイア自身新たないくつかの工業を始めた。織物業と印刷業、更にはガラス細工・金属宝石類加工である。またポー河流域を灌漑して新たな農耕地を作り、食糧を増産した。
しかしヴェネツイアは嘗て地中海交易で成功したが故にそれにこだわって新事業に乗り出す冒険的精神を失い、柔軟性に欠ける保護主義に陥った。ヴェネツイアの生産体制は極めて硬直したもので、強力なギルド(職人組合)が布地の製造方法や労働体制について事細かに規制し、企業家が斬新な布地を作ることを妨げた。エリートの生き方は合理主義から教条主義へと変わっていった。快適な生活に慣れ、“海から陸へ、労働から遊びへ、勤倹から華美な消費へ、企業家から利子生活者へ”と変わっていった。冒険を避け、過去の蓄積によって生活を享受しようとする消極的な生活態度から、貴族の男子で結婚せず現在の生活水準を維持するために子孫を増やしたくない人が増えてきた。こういう退嬰的な精神がヴェネツイア衰亡の根本原因であろうと著書には書いてある。
新興時代のヴェネツイアはごく狭い国土で俗に西洋文明と称せられるものの少なからざる要素を開発し瞠目すべき勢いだったが、衰退期になると見る影もなくしてしまう。人の一生にも何か似通っている。現代日本にも似たような風潮があるのではなかろうか。敗戦直後の何もないところから立ち上がった気概はどこへやら、少子化で年金問題にもスッキリした解決策が見出せないのは国家衰亡の徴のような気さえする。
<頑迷な農水省> テレビ朝日のニュース・ステーションを見て暗然たる気分になったことがある。北高小長井町漁協など諫早湾内の関係団体は11月17日、タイラギ(二枚貝)の成育状況の一斉潜水調査を実施。同湾内40カ所の定点で72個を確認したが、水揚げ可能な成貝は5個しかなかった。タイラギという貝は美味で高値で取引されるが、近頃メッキリ減ったので漁協は申し合わせて収穫を控えていた。久しぶりに潜水服を着用して潜った漁民は「海がドンドン死滅していき、もう取り返しが付かない」と絶望的な表情を見せた。以前から騒がれている海苔は収量が減った上に変色して今年はもうよい値で売れる望みはないという。
まだ解決していないのかと詳しい事情を知るためにインターネットで“諫早湾”・“水門閉め切り”をキーワードに文献検索をすると、以下のような情報が手に入った。
諫早湾水門閉め切りによる沿岸漁業への被害 国民の大きな批判を無視して諫早湾の水門が閉め切られてから約3年半が経過した。当初、この事業は周辺の水域にはほとんど影響を与えないかのような説明が繰り返されてきたが、諫早湾が閉め切られて以降、明らかにその影響と見られる変化が特に有明海における漁業の水揚げ高に見られるようになっている。
そもそも有明海は、干満の差が6メートル以上もあり、独特の干潟や粘土質のために希少な底生動物をはじめ特徴ある魚介類を育んでおり、周辺漁民は潜水漁業や海苔養殖などで生計を立てている。しかし長崎県境にある佐賀県太良町大浦の漁業関係者は、「諫早湾が閉め切られてから、潮の流れが変わった」「調整池に貯められている海水が河川から排出される汚水と混ざり、ヘドロのような泥水となって悪臭を放っていてこれが時折水門から放出されるため、魚介類が育ちにくくなっている」「諫早湾が閉め切られる前には、産卵のために数多くの魚が集まってきていたが、今では魚が寄りつかなくなった」「タイラギ(貝柱を食用とする貝)がようやく育ち始めたかと思っていると、海底でヘドロが貝を覆ってしまい、酸欠状態となるため育たない」「四代続けて潜水漁業をやってきたが、これでは後継者がいなくなってしまう」等と切実な声をあげ、水門の開放を強く要望していた。
現に同漁港の水揚げ高をみると、クルマエビは1990年の41トンから98年の36トンに減少、竹崎カニの名で知られるガザミは90年の326トンから98年の186トンに激減、アゲマキ貝は90年の500トンに対し95年以降は皆無の有様である。シタビラメやスズキ、コノシロなども同様に減少している。大浦、小長井、島原などの漁民は現在の段階で諫早湾の水門を開放すれば、およそ3年で有明海はもとのようによみがえると訴えている。有明海の漁業振興と環境保全、わが国の食料自給率の向上のためにも無謀な諫早湾干拓事業は中止し、水門を開放すべきと主張している。
一方で農水省側は重い腰を上げて諫早湾干拓水門の開門総合調査として、@短期(1ヶ月弱)の開門調査、A諫早干潟に類似した現存干潟における実証調査及びBこれらの調査により得られた情報も活用したコンピュータによる解析調査の三つの手法を総合的に組み合わせた手法を採用すると称し、また中・長期の開門調査の実施については、平成14年度中に設ける有明海の再生方策を総合的に検討する場での議論を経て農水省が改めて検討するとしていたが、最近になって委員会の結論としてコンピューターシミュレーションの結果長期的に水門閉鎖の漁業への影響はなく、その必要はないということになったらしい。更に従来から推進してきた干拓事業について今となっても次のように頑なな姿勢を崩そうとしない。
曰く“本事業は、平坦な農地が乏しい長崎県において、かんがい用水が確保された優良農地の造成を行うとともに、高潮、洪水、常時の排水不良等に対する防災機能の強化を図るものであり、地元から事業の促進を強く求められていることから、本事業を中止し、水門を開放することは考えていない。今後とも漁場を含めた周辺環境にも十分配慮しつつ、本事業の着実な推進に努めることとしている”と。
中長期の水門開放を行なえば、干拓事業は元の木阿弥になってしまうから、農水省は自分たちに都合のよい結論を出してくれるメンバーを委員会に選任してこの線は譲ろうとしないのだ。コンピューターシミュレーションなどというものは扱い方一つで望ましい結論に誘導できる。名称は農林水産省と言いながら、役所の大勢は後に合併した水産庁サイド、即ち漁民には肩入れしない体質が抜けないらしい。
中海干拓事業というのがあり、40年余にわたって莫大な国家予算を使って締め切り水門を建設しながら、最近になって遂にこの事業を中止することが決定し、この水門を撤去するために新たに相当な予算をかけるという。国全体の視野で見るときに中海で無駄とされた干拓事業が諫早湾では依然として必要という説得できる根拠があるとはどう見ても思えない。国家公務員というものは自分たちの先輩が立案実施しかけた事業はどんなに客観状勢が変わっても何とか継続しようとする本能に従って行動する。もう昔の豊かな海は戻らないと嘆く漁民たちの絶望的な表情が印象的だ。

<米国の牢獄> 比喩的な意味ではなくて、知らぬもの見たさに文字通りの社会の実態を本で覗いてみた「アメリカ重犯罪刑務所」(丸山隆三・二見書房)。著者は3年で商社を退社後渡米して自動車販売とレストラン開業したが、やがて商売上のつきあいの延長線上で麻薬のフィクサーになる。マネーロンダリングという言葉がある。末端の麻薬密売人が麻薬売買をして儲けた金は小額紙幣ばかりで疑われるのが怖いから銀行へは持っていけない。そこでそういう金で新車を買い、1週間もすると30%オフで売りにくる。彼らの手元には売買の証明書とともに16万ドルのきれいな金が残り、送金するなり自由に使える。これをマネーランドリー(金の洗濯)という。
麻薬のフィクサーというのは麻薬の売り手と買い手に場所を提供して売買の仲介をすることだ。扱ったのはコカイン。莫大な紹介料がもらえる。但し命がけの稼業だ。売り手・買い手とも隙があれば裏切り強奪したい輩だ。信用を基に長い付き合いをするなどという通常の商売の発想はない。その場その場が真剣勝負だ。取引場所は1回ごとに変えた。売り手と買い手にポンコツ車を用意し、現金と麻薬をトランクに詰めさせ、内容を確認して相手に車のキーを渡すシステムを考えた。イタリアン・マフィアをボデイーガードに雇った。彼らはファミリーの名にかけてゴッドファーザーの時代から仕事に忠実である。
麻薬は現金の直接取引きだから税金を払う必要はない。しかし日本に送金できないし、銀行にも預けられない。家の購入など表向きの金は車の販売で稼いだ金により、あとは使いまくるしかない。クレジット・カードは使えた。カードはすべてゴールドカードだが、アメリカン・エキスプレスはプラチナカードで、年収100万ドル以上の人に発行されるVIPカードだ。これはアンリミテッドで無制限の買い物ができた。但し翌月一括決済であるが現金はうなるほど持っていたので困ったことはない。
何度もラスベガスに豪遊した。ラスベガスは家にも置けず銀行にも預けられない金を唯一預かってくれる場所で、秘密厳守で警察も手出しできないし、本人でなければ絶対に金を渡さない。ラスベガスは一種のマネーランドリーになっていて、換金してくれと言えば綺麗な100ドル札でくれる。アメリカはチップの国なので、投げるようにチップをばらまいた。悪銭身につかずとはよく言ったものである。
遂に相棒が警察からマークされ、囮捜査から取引の現場に警察に踏み込まれた。フェラーリを急発進させ、一方通行路を逆送して追い手をまいたが、ヘリコプターで追跡され警官に銃撃された。本能的に拳銃で応戦したからカーチェイスの銃撃戦になり、テレビで全米に放映された。最後はエンジンが壊れ、麻薬や拳銃を載せた車上で逮捕された。麻薬取締り法違反と銃刀法違反である。手錠をかけられた後、興奮した警官たちに集団リンチを受けて気を失った。
提示された保釈金は200万ドル、無理して払い後で隠し金と分かると追徴金を取られ、更には脱税の罪が加わるので断念した。未決囚は拘置所に入れられ、半年かかったカリフォルニア地裁での裁判の結果、刑(麻薬運搬で5年、麻薬所持で3年、銃刀法違反で5年、計13年の懲役)が確定すると、まず収容所に入れられて身体検査データ・個人履歴・写真・指紋・掌紋を取られ、次いで刑務所送りとなる。刑務所はレベル1から4まであり、彼は極凶悪犯としてレベル4の重犯罪刑務所送りになった。手錠・足錠をかけられ護送車で10時間揺られた先は険しい山の渓谷を抜け、広大な砂漠を突っ切り、周囲に遮る物のない平地に建てられた高圧電流の流れる二重のフェンスに囲まれた建物だった。彼は終身刑の老囚人に注意される。「ここには看守側の“ルール”と囚人側の“掟”がある。それに従わなければここでは生きていけない。新しい人間は古い人間に何も訊けないのだ。 Don’t trust nobody.」と。
彼は3ヶ月間何もしゃべらず、じっと観察することに徹した。刑務所内では規則違反をした囚人は警告なしで撃たれることがある。緊急事態を報せるブザーが鳴ったら泥土の上でも直ぐに伏せなければいけない。警告なしで毎日1回は誰かが撃たれ、死傷していた。射撃専門の看守たちは勤務時間の半分以上を射撃訓練に充てている。彼は3ヶ月間押し黙ることに徹していたら、声が出なくなってしまった。いざと言うときに声が出ないと死につながるので、それからは努めて他の囚人に話しかけるようにしたと述懐している。
主に人種間の抗争になることが多いが、囚人の間で集団抗争が発生したときは進んで参加した。当事者以外はお付き合いの喧嘩だから適当に殴り合っていればよいし、ガンタワーの看守がライフルを向ける前に止めなければいけない。しかし参加しないと仲間外れにされ、四六時中後ろから襲われる恐怖に怯えていなければならなくなる。レベル4ではほとんどの囚人がナイフをもっている。暇があるから大抵のナイフは作る器用な男が所内にはいる。
彼はオフィスワークのできる数少ない囚人だったのでやがて認められてウオッチオフィス勤務を命じられ、所内の許可証や身分証明書発行などのデスクワークに就いた。やがて有能さを認められてウオッチオフィスのリーダーを命じられた。こうなると部下が付くし、他の囚人たちから頼りにされ、看守にも一目おかれるようになる。3年弱のレベル4暮らしで彼はひとつの哲学を学んだ。それは“PEACE=RESPECT+APPRECIATION”すなわち“平和は相手への思いやりと感謝”だという。
受刑者はまじめでおとなしくしているとセキュリテイのゆるやかな刑務所に送られる。彼は2年8ヶ月でレベル2のC.R.C.(ホテル・カリフォルニア)刑務所に移送された。塀に高圧電流の通る有刺鉄線はない。緑の連なる地域にあり、管理がゆるやかで何もかも自由で気ままだった。レベル4に比べると地獄と天国の相違だった。物価も安く商品は充実していた。電話はレベル4では相手の都合に関わらず15分で切られたが、ここでは実質無制限だった。米国の受刑システムは真面目にやっていると半分くらいに刑期が短縮される。仕事か勉学かを選ばされて、彼は仕事を選び金と権力を手に入れようとした。彼はコントロールセンターの管理塔に配属され、要領のよい仕事振りのために次第に重要な仕事を任されるようになって、数々の特典も手に入れた。
彼は従順でない囚人に対して衆人の前で体力差も考えてシメシを付け、なめられないように図った。刑務所の中でのリーダーには三つの要件があると彼は言う。第1にリーダーは信頼されなければならない。第2にリーダーは公平でなければならない。第3にリーダーは駆け引きがうまくなくてはならない。−と。また彼は言う。威厳を保つことは結構たいへんなことだ。金もかかるしそれなりの苦労もすると。刑務所内で彼はゴッドファーザーと呼ばれるようになった。彼は表の経験で“よいことには必ず終わりがある”ことを学び、塀の中の経験で“悪い時が来ても次に必ずいいことがある”ことを学んだ。
彼は6年半で出所することになった。100名を超す受刑者と看守による大送別会が開かれた。一旦レベル4の刑務所に仮収容され、余罪がないか改めて尋問された上で、入国管理センターに送られた。連邦裁判の結果、入国管理法違反で“国外追放”の判決が出た。これは退去期間の定められた“強制送還”より刑が重く、二度とアメリカの土は踏めない。彼はこの処分に服することにした。「この判決に感謝しよう。アメリカに残って昔の仲間に会えば、またフィクサー生活に戻るに決まっている。」彼は収容所の歴史の中で日本への国外追放第1号として、日本領事館でパスポートを発行してもらい、1回限りの片道航空券を支給されてロスアンジェルス空港から日本への直行便に乗せられた。
著者は親兄弟に温かく迎えられた。当初は漢字をはじめ、カタカナそしてひらがなさえも忘れてしまった状態で戸惑ったが、やがて日本の環境にも慣れて今では人生の第2ステージとして小物商品の輸入業務を始めている。フィクサーとして彼とパートナーを組み同時に逮捕された米人は後に殺害されたらしい。こういう話は自分では決して実体験できない内容を短時間に教えてくれるからバカにできない。著書に載せられたIDカードの写真を見ると実に精悍な顔をしている。レポートを読んで犯罪行為は棚に上げて日本人は有能だと感心した。
<経営とは> 祖父はレバノン人、父母はレバノンで結婚、本人はブラジルで生まれたがフランス式の教育を受け、最終学歴はフランスきってのエリート教育機関グランド・ゼコール。タイヤ・メーカーのミシュランに就職し、社主フランソワ・ミシュランの薫陶を受けて工場経営を実地に経験し、ミシュランの企業文化をバックに会長ルイ・シュヴィツアーに認められて自動車メーカーのルノー再建に乗り込んでこれを立ち直らせることに成功、企業合同の波を受けて始まった日産・ルノーの提携話を実らせるために日産再建に乗り込んで見事にその経営を建直した。その人の名は今や知らぬ人の少ない日産社長カルロス・ゴーン。彼にインタヴューの上でまとめた著書「カルロス・ゴーン経営を語る」(日本経済新聞社)は会社経営は如何にあるべきかという本質を見事に提示してくれていて、感銘を受けた。以下に紹介する。
彼の祖父はレバノン杉で有名なレバノン山ケスルーアン出身で、移民先でも故郷に対する忠誠心を忘れぬとともに歴史的に東方のカトリック教徒を保護してきたフランスにも忠誠心をもっていた。カルロス・ゴーンは裸一貫でブラジルに渡り、さまざまな困難を乗り越えて事業を成功させたこの祖父に強い影響を受け、尊敬している。母は親仏家で一家にはフランス文化が深く根付いていた。健康上の理由で幼くしてレバノン・ベイルートに戻ったカルロスは多国籍のイエズス会に入り、よい教師たちから様々な言語をはじめ多くを学ぶことができた。彼は“物事を複雑にしてしまうのは、実はそのことについて自分が何も分かっていないからだ”ということや国境なき世界で生きるための貴重な知恵を教わった。
彼は環境に応じてポルトガル語、アラビヤ語、フランス語、そして英語を使うようになった。今では日本語を習得しようとしている。彼はイエズス会のコレージュ・ノートルダム(高校)で完璧なフランス語を身につけた。グランド・ゼコール受験のための数学準備学級では最初は惨憺たる成績だったが、努力してトップレベルに登った。彼は高い席次を得たエコール・ポリテクニークから高級官僚になれるエコール・デ・ミーヌ+に進んだ。彼は述懐している。―フランスの教育システムは“競争”と“選抜”と“知性”を重んじて、チームワークやコミュニケーションは全く軽視されていた。民間企業に就職した後で学校+で習った知識が役立ったことなど一度もなかった。学歴は就職に有利だったけれども企業の現場では一から学び直さなければならなかったーと。
ヘッドハンテイングのかかったミシュランに応じたきっかけは父たち親兄弟のいるブラジルに会社として重要な仕事があるという話だった。ミシュランでは幹部候補生として、会社が直面している問題を課題として研修生に解決させようという実践的な訓練も行なわれた。このやり方は研修生と会社が双方を知り合うよい機会を与える。ミシュランは外から見るよりずっと先進的な企業であることが分かった。彼は研修を通じて会社にコミニュケーション能力の高さを認められ、建設土木機械用の大型タイヤ工場の製造部門での実地訓練を命じられた。
彼は作業係長、別工場の生産部長を勤めた2年半後、27歳でル・ピュイの工場長を命じられる。この時代に彼は直面する課題解決のためにチームを作る重要性を知った。彼は社主の諮問に応じて関連企業建て直しのためにクロスマニュファクチュアリング(別のブランド名で販売する製品を同一の設備で製造する)を提案した。彼は1年間研究所長として研究開発に関わった後、当初に話のあったブラジルに南米事業を統括する最高執行責任者として赴任する。ブラジルは危機的な状況にあり、彼は企業における財務管理が如何に大事なものかを学んでいた。
着任すると彼はまず経営状態についての診断書作成にかかった。ブラジル経済は年率1000%を越えるハイパー・インフレにあり、名目金利は1035%に達していた。資金調達を本社から任されていたブラジル事業部は本社のやりかたをそのまま踏襲し、インフレの下で負債は雪だるま式にふくれ上がっていた。彼は的外れが多い本社の口出しを封じ、経営会議を開いてばらばらに動いていた各部門の意思統一をした上で、納品したタイヤの支払期日が2ヵ月後というような非常識を改め、政府に対して価額交渉を週ごとに行なうなどキャッシュフローの適正化に努めた。投資を必要最低限に抑え、不要になった土地建物を売却した。労働者と話し合って賃金交渉に応じ3週間にわたったストライキを収束させた。政府は経済立て直しのために次々と政策を変えるがいずれもうまく行かず、これに対応するためゴーンは“まるでスポーツをしているようだった”と語る。2年後事業部は黒字に転じ、4年後グループの中で最大の売り上げ利益を出すに至った。
ゴーンは米国に赴任し、米国のタイヤメーカー、ユニロイヤル・グッドリッチ社を買収して北米ミシュランに統合する仕事にかかった。ユニロイヤル・グッドリッチは必要なところより投資しやすいところに投資していた。彼は米国とカナダにある3工場の閉鎖を決めた。彼は新しい経営執行委員会を組織するに当たり、文化の全く異なる二つの企業を統合するのに最良の人材を選ぶ必要があった。彼は過去の経験を生かして政策を立案した。一つはクロスマニュファクチュアリングとクロスファンクション(異部門の責任者を集めて問題を総合的に解決する)手法の採用であり、もう一つは北米ミシュラン(ミシュラン総売上の1/3強を占める)のミシュラン本社に対する自主性と介入の条件を具体的に定めることだった。この数年を通じて彼は二つの会社を販売組織も含めて一つに統合するための再編成(リストラクチュアリング)に関する米国流の経営手法を学ぶことができた。92〜94年は欧州をも巻き込む不況に会って困難な時期を過ごしたが、96〜97年に実りある成果を得ることができた。
ミシュラン一族でない以上トップにのぼりつめることのできなかったゴーンはヘッドハンターを通じて自動車メーカー・ルノーの会長ルイ・シュヴァイツアーの誘いに応じる。ルノーという会社はパリに腰を据えて中央集権化していたし、政府の庇護を離れたばかりの特殊な体質で、ここに入った私は白い羊の群に入り込んだ黒い羊のようなものだったと述懐している。彼はルノーの二つの問題点を指摘した。@社内に相互に独立したグループ化が進んで勝手にやっているークロスファンクショナリテイが必要。 A新車開発に失敗して社内の士気が落ちているー会して議せずで何も決まらない。
彼は96年12月副社長に任ぜられると早速行動に着手した。既に経営陣が掲げていた1台3000フランのコスト削減計画を拡張した“200億フラン*削減計画”によるルノーの再建計画である。日程計画を建てこれを遵守した。始めは多くの人が懐疑的だったが、結果が少しづつ出始めると皆が心から協力するようになってきた。違う部門の社員同士が協力するようにクロスファンクショナル・チームを作った。各部門に大御所が君臨していたのをシュヴァイツアーの後押しを得て経営陣の再編成を行なった。目標*が高すぎると評する人が大勢だったが、会長の承認を得てすべての経費を徹底的に見直した。すべてのサプライヤーを集めて協力を要請した。ゴーン自身がサプライヤー出身だったことで説得力があった。
生産設備に余剰があり、それを絞り込む必要があった。ビルボールド工場の閉鎖を決め、政府にそれを通知した。政府はこれを公表し、人々はまだ赤字転落前だったルノーに問題があることを知った。過去に国有化されたルノーは利益を生むための企業というよりも、労働者の砦と見なされていて、普通の企業に生まれ変えようとした社長ジョルジュ・ブッシュが86年左翼テロリストに殺害された不幸な歴史をもつ。歴代の工場長は生産性を高めるより、労働問題をどう捌くかに頭を悩ましてきた。従ってこの決定はルノーの体質を変える以上の意味をもった。98年には業績回復は確かなものとなった。
自動車業界に合併・再編成の嵐が見舞った。ダイムラー・ベンツとクライスラーが対等合併を発表し、従業員44万人、GM、フォードと並ぶ世界のトップスリーに躍り出た。役員会の席上でルイ・シュヴァイツアー会長は他社との統合を真剣に考えなければならない時がきたと発言した。バランスの取れた提携相手として候補に残ったのは日本の企業―日産か三菱、そして韓国企業だった。一方で毎年赤字決算を続けていた日産も海外企業との提携を模索していて、日本人のメルセデス好きもありダイムラー・クライスラーが乗り出せばルノーに勝ち目はないと思われていたが、予想に反してダイムラー・クライスラーはこの件から降り、日産の選択肢はルノーに単純化された。ルイ・シュヴァイツアーは決断し、ゴーンを君しかいないと言って日本に送る代表者に決めた。
ゴーンは“コストカッター”の異名とともに日産にやってきた。彼の日産に対するイメージは技術力はあるが、深い考えもなければ、戦略もない、いろいろな要素を寄せ集めただけの、個性のはっきりしない会社であった。彼が向き合った日産の社員を包む雰囲気は集団の中でなるべくその規範に従おうとする体制順応主義であり、寡黙な人々で沈黙の中に懐疑心や否定的な意見を押し隠していると見たが、表立って否定的なコメントを言われずに済んだのは有難かったと述べている。
ルノーから日本に連れていくメンバーの人選は会長から一任された。それはエンジニアリング部門と生産部門を除き、市場調査・財務・商品企画・人事・購買・マーケッテイング・広告・宣伝といった部門で総勢30人になった。中でも商品企画・デザイン部門担当のパトリック・ペラタと財務の専門家テイエリー・ムロンゲは重要人物だった。他の人々の選抜は情熱と開かれた精神の持ち主を基準にした。研修を実施し、彼らの役割は宣教師ではなく、日本人を手助けして問題を解決する人だと繰り返して説いた。
彼は日産のサプライヤーたちをよく訪問した。サプライヤーたちは問題点を包み隠さず話してくれた。発注が細かすぎ、先の見通しが立たない、日産のヴィジョンや戦略が伝わっておらず、日産が何を最も重要な課題として考えているか、サプライヤーが理解していないことに彼は気付いた。日産の目標に沿って仕事を進めようとすると、3ケ月後にその目標が変わっているという。組合の人たちにも会った。彼らは過去に会社が提案した成功しない“計画”にうんざりしている、会社のことを心配し、もし彼が日産の再建のために真剣に尽くすのなら協力しようという人たちだった。最初の数ヶ月間、役員たちよりはるかに多くの時間を日産の現場の人たちと過ごした。
この時点における日産のイメージは“すべてがバラバラで、混乱している”というもので、“誰もが自分の周りに小さな囲いを作ってその中に閉じこもっていて、ヴィジョンもなければ戦略もない、優先順位もなければ、そもそも何が大切かを決める尺度もない、あるのは縄張り意識だけで、組織としてバラバラでまとまりがなく、段階を踏んでいくことができない”という状態だった。彼は日産の問題点**を次のように分析した。@日産は利益を大切にしていない。経営陣はそのための重要な数字を掴んでいない。Aユーザーについて考えていない。何故ユーザーはライヴァル会社の製品でなく、自社のモデルを買ってくれるのか考えていない。B危機感がない。面目にこだわり、問題を正面から見つめる姿勢が欠けている。C社内にセクショナリズムが横行し、部門横断的なやり方が欠如している。Dヴィジョンがなく、戦略がない。日産を5年後にどうしたいのか誰にも分からない。
99年6月末に彼は正式に日産の役員になり、最高執行責任者になった。彼はまず社内を横断する九つのクロス・ファンクショナルチーム(CFT)を作らせた。各チームはそれぞれ“事業の発展”・“購買”・“製造”・“研究開発”・“販売とマーケテイング”・“一般管理費部門”・“財務コスト”・“車種削減”・“組織と意思決定プロセス”を担当し、エグゼクテイブ・コミッテイのうち二人がリーダーとしてチームを束ねる。メンバーは他の分野のリーダーも兼ねることにした。各チームにはパイロットとして部下から信頼されている中堅クラスの管理職を一人指名した。またチーム・メンバーは社内のさまざまな部門の中間管理職から横断的に選ばれた。こうして日産の再建計画のたたき台を立てるためにCFTに加わった人は99年7〜9月の間に500人に及んだ。
将来の目標を立てる上でルノーとの提携が役立ち、ルノーという会社がベンチマーク(理想に近い目標あるいは客観的な基準)になった。日産の購買コストがルノーより20〜25%高いことが分かってきた。その原因はスケールメリットを得るためにはサプライヤーの数が多すぎることと自動車業界の標準を考慮しない贅沢なスペックを要求していることが明らかになった。これを購買が技術・開発部門に伝えても従来エンジニアたちは断固として耳を傾けなかった、これは技術・開発部門が会社全体を考える視点に欠けていたと指摘する。
具体的な意思決定の方法として、全員が同意しない限り先に進まないという日本式のコンセンサスでは何も決まらないことが多い。その代わりに“積極的なコンセンサス”を採った。同意しない人が出たら徹底的に話し合わせる。まず目標が同一か確かめ、そうであれば同意しない人間には代案を出させ、両案を比較して納得するまで討論する。この手法によって原案が改善されることも多いし、全員が納得して計画の実行に移れば問題解決も早くなる。そのためにも参加者が問題を積極的に考えていく積極関与が求められる。ゴーンはこの手法でトップダウンとボトムアップをうまく組み合わせてリヴァイバル・プランを作り上げた。信じられないことだが、社内に抵抗の動きは出なかったという。目標とスケジュールは譲れなかったが、実施の方法については誰にでも議論は開かれていた。
ゴーンは99年10月18日リヴァイバル・プランを公表した。発表ではまず日産の業績不振を示す三つの指標が挙げられた。@グローバル・マーケットでのシェアと販売台数の低下状況 A99年度も含めて過去10年間の収益(赤字)状況 B過去からの累積負債(これは日産の純資産の2倍に達していた)。
次にこの業績不振の理由(既述**)、次いで日産の長所を@国際的に認知されていて海外への事業展開も行なっている、A世界でもトップレベルの生産システム、B特定の分野で最先端の技術を所有、Cルノーとの提携 と指摘した。
計画発表はCFTの紹介に始まり、“事業の発展”という目標に向けてブランドイメージを上げる積極的な新車投入方針を示した。次いで痛みを伴う再建案として、3年間で20%の購買コスト削減のために、サプライヤーの数を1145から600に減らし設備とサービスは6900社を3400以下にする、工場稼働率が53%まで下がっているため年間生産能力240万台を165万台に下げ5工場を閉鎖する、販売・一般管理費20%削減のために直営デイーラー数を20%、営業所数を10%削減する、系列会社株式のほとんどを売却し負債を削減する、正規従業員数12万7000人を14%2万1000人削減する、但し開発人員は500人増員する。結果として、2000年度に黒字転換、2002年度売上に対する営業利益率4.5%以上、現在負債額の50%削減の数値目標を掲げた。
発表前には機密保持に努め、全体像を掴めるように計画は一度に完全な形で見せるようにした。また三つの数値目標が達成できなければ社長はじめ取締役全員が退任すると約した。このような大規模で詳細な経営計画が発表されたのは日本では初めてで、特に外国のメデイアが注目し発表会場には拍手が巻き起こった。日本国内にも衝撃とともに受け入れられた。この発表は日本経済にとって一種の革命であり、ここ数十年来真偽合わせて“日本的経済モデルの成功”に結び付けて論じられた様々な規範を根本から問い直した。そして経済活動においては勝者と敗者が生まれることを如実に納得させた。
ゴーンは語っている。経営への信頼とは“成果”と“透明性”であると。そしてマスコミを含めた社会へのコミュニケーションの重要性を説く。その場合外に向けて発信した言葉と内に向けた言葉に落差があってはならないと。

<狂牛病米国へ> 23日に米農務省は最西北部ワシントン州で飼育されていた牛1頭にBSE(牛海綿脳症)感染が確認されたと発表した。嘗てヨーロッパで狂牛病が始めて発見された時に、これが米国だったらさぞ大騒ぎになるだろうなと思ったが、ついにそれが現実化した。
もう35年前になるが、米国西部の田舎町に駐在した時、生活習慣上最も差異を感じショックだったのは、端的に言うと主食が(牛)肉だったことだった。田舎のレストランの宣伝メニュはキングステイキとクイーンステイキで、果物や野菜も豊富に摂るがこれがおかずに相当するということが分かった。牛のどの部分を食するかでその日がご馳走かどうかが決まる。淋しかったのは日本食なら欠かせない米はもちろん魚類や鍋料理がメニューにないことだった。都会人は別として、アメリカ人の大勢はなんと単調で貧弱(食物の種類が限定されている意味で)な食事をしているのだろうと感じた。週末には折々60マイル離れた小都市フレズノへ行き、日本人街の食堂で日本食を味わってバランスをとった。
その帰途のある夕方、自動車道路の行く先に1箇所だけ白いモヤが立ちこめているのを見た。近づいてみると道路わきに牧場があり、柵の向こうに群れている牛の大群の身体から薄ら寒くなった秋の夕暮れの大気に水蒸気が盛んに立ち上っていて、何千頭という食肉牛をまとめて飼っていたのだった。これは日本の稲田の代りだなと思ったことを思い出す。あの牧場がまだあるとすれば、今後どういう運命になるだろうか。
日本政府も早速米国産牛肉やその加工品の輸入禁止措置をとり、ファーストフード店などは打撃が大きいと思うが、それ以上に米国人にとってこのニュースのもたらす打撃はずっと大きいに違いない。想像してみてほしい。日本国内でご飯は危険だから食すべきではないと突然告げられたのに匹敵する話だ。まじめにこのニュースを受け取れば、明日から何を食べればよいのかと呆然とするだろう。ハンバーガーは当然危ない。この騒動は短期的に収まりそうもない。遂に文明が牙を剥いたと言っても過言ではなさそうだ。