2月の話題


2004年2月

 

<江戸を観察する> “江戸の町並み景観復元図”(内外地図)という冊子を入手した。2001年10月に江戸切絵図の感想を記したが、今度はもう少しだけ本格的だ。画法は“3点透視図”というもので、2002年7月に紹介した鳥瞰図(石原正氏)が無限遠方から一定の角度で都市を覗きこみ、どこまで行っても一定の尺度なのに対して、こちらは限られた高さの上空の一点から眺め下ろす形をとるので、遠くへ行くほど小さくなる作画法によっていて、実際に人が空中から見下ろす感覚にマッチしている。幕末期の1854〜1863年に焦点を当てて屋敷地・社寺・道路・空地・壕・川・土手・町屋などを色分けして詳細に描いている。主たる作成者は元グラフィックデザイナー立川博章氏(都市図画家)で、実に丹念に1棟ごとの建物や通り、堀割りを復元してある。
 景観図自体には文字・記号は一切記入せず、土地所有者名あるいは町名・通りや堀・橋の名を記したトレーシング紙を上に載せている。また図面の縁には100mごとに目盛が付せられている。遠近法の理として当然ながら手前より先の方が目が細かくなっている。基図作成の資料は安政年間に幕府が作成した実測江戸図と明治初期に参謀本部陸軍部測量局作成の1/5000、1/20000図となっている。また景観の復元は安政・文久年間幕府作成の「御府内沿革図書」の図帳を主要資料とした。また浮世絵師たちの“江戸名所絵”なども参考にしたようだ。立川氏は江戸時代の地図を紹介するBS放送の番組にも紹介され、実に楽しそうにこの景観図作成作業に従事していた。
 景観図は6区画に分けてあるが、全体としては江戸城(現宮城)を中心にそれを囲む二重の内堀と隅田川・神田川をも利用した外堀で西は四谷界隈までを取り込んでいて、この景観図の範囲においてはすべて完璧に近い都市空間をなし、未開発・未整備の林・沼沢・不規則な空き地などは見当たらない。そしてよく見るほどに江戸という都市が乱雑な形状のようでいて実は見事に江戸城をガッチリと取り囲む比較的に広い武家屋敷とその周辺の零細な民家群が規則的に仕切られた街路で整然と構成されていることがよく分かる。
 大藩の武家屋敷は周辺を包むように塀を兼ねた長く続く家屋が建てられ、その内部には林つきの池も含む庭園も見られる。長大な掘割の縁には等間隔で並木が植えられ整地された岸辺の形状とともに美しい景色を作り出している。主に東部の隅田川周辺は下町の民家がギッシリ建っていて、船蔵の立ち並びと水路の発達は盛んな水運を示している。 江戸城の周辺の掘割の形状は半蔵門、千鳥が淵のように現在もほぼ変わらぬ面影を残している区域と二重橋周辺のように現在の地図と重ねて見ると様子が大分変わっている区域とがある。本丸、二の丸はとにかくとして東照権現、秀忠公、家光公をはじめ歴代将軍の廟所らしいものがある内堀外側の西の丸地区と西御丸大奥は相当な面積を占めていたが、現在では全く実在しないはずだ。
 迂闊にも中央線が御茶ノ水から四谷付近まで沿って走っている水路が神田川であることを今まで知らなかった。こうして見ると江戸というのは均整のとれた美しい都市だ。現在の東京も同じ手法で描出してみれば近代都市としてそれなりの美しさがあるだろうが、何度もの大火を経て、関東大震災以前のこの時代の江戸中心部は高さ方向の発展こそないものの、水路を機能的に取り込んで道路と橋の組み合わせによる完成された美しさを見せてくれる。あちこちの並木に何を植えたのか、これも四季の変化で目を楽しませてくれたのだろう。隅田川を渡る両国橋は錦帯橋ほどではないが、中央が高く山を越える形になっていた。残念ながら新宿・渋谷はこの景観図には入っていない。当時明治神宮辺りは一面の畑地だったらしいから、目ぼしい建築物はなかったのかもしれない。

<漢字百話> 先月の“中国の神話”に続いて漢字そのものを話題にとりあげる。原典は同じ白川静氏の表題と同文の著書である。中国の最も古い土器文化である彩陶土器は黄河の屈曲部あたりで発見されたもので、西暦紀元前4000年頃のものとされる人面魚身像などの幾何模様が多い。やがて青銅器が制作されて文様が高度に発達する。大鐃は殷が南方系の諸異族と接したやや南方の高地頂上付近から出土した60〜70kgもする大器で、例の饕餮などを鼓面に配した異族神厭伏の呪器であった。これらの土器・青銅器に加えられた文様や刻文は文字以上に多くを語る意味的記号である。これが発展して文字となったが、その文字はことばの呪能をそこに定着するもので、書かれた文字は呪能をもつものとされた。
 このように漢字の誕生に関わった昔の人々が“死”に連なって神への畏れや呪術への思いが現代よりずっと深かったことが察せられる。声によることばの祈りは情念を高めるが、文字に封じ込められた呪能はいっそう持続的であり固定化された。ここに紹介する漢字は著書の中のごく一部だが、私が特に感銘を受けた部分で、上に記された時代背景の下で創作されたものであることを理解する必要がある。

 ○“医”は“醫”の最も古い字形で、昔は病気のよい治療方法がなかったので、匿れた秘密の場所に呪器としての矢をおいて、その呪能によって邪気を祓うことを意味した。呪能を刺激するために殴撃を加えた。これを“?”(えい)と言い、呪師・巫医の司るところだから“巫”を下につけて“?”とし、更に酒を百薬の長というので“醫”の字が生まれたが、当用漢字の採用でまた“医”に戻った。
 ○“道”とは恐るべき字で、異族の首を携えてゆくことを意味する。“導”は異族の首を呪具として敵地に赴く軍を先導するときに用いた。道路は外部の世界と連なる最も危険な場所であった。そのために要所には道祖神を祀った。地下に潜む呪霊を祓い清めたものが“途”である。
 ○“乏”とは屍体であり、貧乏とは貧苦の果てに死所も得ずに朽ち果てるのが本義である。泛ぶ(うかぶ)は屍体が川に浮かんでただよい流れるさまであり、ー穴の下に乏ーる(ほうむる)は路傍の穴の土をかけてうずめる意である。
 ○“亡”は乏と声義ともに近い字で、身を屈めている死者の象である。“荒”は死屍の横たわる原野を指すいかにも荒涼たる字で、“荒”の字から上の草かんむりを除いた字(パソコンで表示できない)は頭髪の僅かに残る死者を指す。“亡”に“勹”とのりとの“日”を加えた“曷”(なん)はきびしく訴え求める語で、その声である“喝”、“?”は鬼神をも動かす力をもつ。その他の曷から派生する字はすべて死霊の世界で成立する。
 ○“久”は尸(かばね)を後ろから支えている形で、それを納めるものが“柩”である。“遠”は死喪の礼における“袁”すなわち死者に旅立ちの装いをさせることから発して、久遠とはまさに死の世界である。
 ○“眞(真)”とは顛倒せる変死者の姿で、上部は既に“化”したるものでその下の“県”は倒さの首、頭髪が下になびく死者の頭である。顛倒の“顛”はまさに路傍の変死者を指す。不変の世界とされる“眞”は現象を存在の世界に転換し、相対を絶対に化する古代人の思惟の結果成就された驚くべき価値転換の概念である。
 ○“左”と“右”は元来手首を左や右に曲げた形だったが、これに神事に用いる呪具“工”とのりと“口”を加えた。この左右の両字を重ねて上下に“手”中に“工”と“口”を組み合わせると“尋”になる。これは隠れている神の所在を尋ねる意である。
 ○“止”は足首の象形で“足”は膝関節から下の形、止は休止に用いるが、一歩を前進するときはかかとの形を加えて“出”となり、左右の歩を進めると“歩”となる。
 ○“盜”というのは皿の中の余肉を盗むコソ泥“盗”とは違って、古代氏族社会の崩壊期に生まれた反体制者の暗殺者集団である。小点ひとつで大差になる。
 ○“婁”は女子の頭髪を高く重ねて結んだ形で、高きもの、なかの透けるもの、内実の衰え乱れたるものを意味する。樓、僂、?、瘻、縷、螻、髏などは皆その意を受ける。―この感じは私にもよく理解できる。

 紹介する文字には私も始めて遭遇するものも多く、パソコン付属の“IMEパッドー手書き”ツールを使って呼び出すが、見当違いの多くの字が候補として現れ、マウスの操作が稚拙で何度も試みてやっと目指す文字に到達できる場合と、登録されていないらしくどうしても表示できない場合とがあった。しかし往時の科挙で試された漢字の知識はこんなたやすいものだけではなかったであろう。
 白川静氏の著書はそこらの三文小説などと違って読んでも簡単には理解できず、読み去りまた読み来たってようやく腑に落ちるという風で内容が濃く深い。ここまで紹介したのに、まだ全体の半分ほどしか理解が及ばぬ状況にあることを白状する。この人の漢字に対する情熱はなまじの中国人には真似ができない境地にある。

<鳥インフルエンザ> アジア全域に鳥インフルエンザが蔓延し出した。数日前には広西チワン族自治区でアヒルが大量死したという報道に対して一旦は感染の事実を否定し、改めて事実を認める不手際を演じた中国だが、今回はお膝元の上海で市の中心部から15kmしか離れていない南匯地区で鶏が大量死した。先にSARSに対して機敏に対応して蔓延を防ぎ点数をかせいだヴィエトナムだが、今回は軍を出動させて緊急事態としての対応を取っている。タイやカンボジアにも既にかなり蔓延している模様で、鶏肉の日本への輸入は中止されている。
 インターネットの解説によると、・トリインフルエンザ(鳥インフルエンザ:別名 家禽ペスト)は、インフルエンザ ウイルス(AIウイルス)の感染による家禽(かきん)類を含む鳥類の疾病であり、鶏(ニワトリ)では病勢から2つの型に分類される。「弱毒」病原性タイプと「強毒」病原性タイプである。「弱毒」のものは、鶏に対し低死亡率で、日本国内においては平成8年9月と12月に疑わしい事例が発生したがウイルスの分離(確認)はできなかった。「強毒」タイプは、鶏に対し高死亡率で「家禽ペスト」(Fowl Plague)と呼ばれ、法定伝染病に指定されているが、日本国内では過去78年間発生していない。鳥が感染する病気は、渡り鳥により伝播するため、輸入食品のように発生地域からの侵入を制限することができないことから、世界的な情報ネットワークでの監視、防疫活動が重要です。AIウイルスは、非常に多岐の鳥類にわたって感染する。普通には高病原性のものはあまり起きないが、ときおり非常に激しい伝染病として発生する。一番激しく高頻度に起こるのは(高病原性のものが野外で起こる場合の意)、鶏(ニワトリ)であり、次に七面鳥、ホロホロ鳥あるいは鶉(ウズラ)といわれている。−という。
 “インフルエンザ”と聞けば大したことはないような印象を受けるが、“家禽ペスト”と言われると容易ではない気がする。そして現に伝えられるケースはすべて「強毒」タイプらしく、発生箇所では全数死滅している上に“家禽”だけでなく、人への感染から死亡も伝えられている。予防措置としてはワクチンなどないから、徹底的な隔離しか具体策がないようだ。家禽への渡り鳥による空気感染など人々は考えたこともなかっただろう。
 冬に入ってSARSの再発生が懸念されていたが、この病気はそれとは違うらしい。恐牛病といい、鯉ヘルペスといい、ウイルスがらみの生命科学の分野は人間どもにはお手上げの事柄ばかりだ。前項の漢字の起源にからんで昔は神の呪いを恐れ、何とかそのお目こぼしを祈願するのが人類の最大の関心事だったことを知ったが、今も昔も大差ないのではなかろうか。深刻な事態にならない内に自然消滅してくれればいいが、そういう観測は楽観的過ぎると言われそうだ。たまに立ち寄るファーストフード店では、ハンバーガーを敬遠してチキン・ナゲットを選んでいたが、これも怪しくなってきた。
 このほど中国江蘇省では1万羽以上の渡り鳥が空からボトボト落ちてきてそのまま死に、見る見るうちに道路や農地は死骸で埋め尽くされたと報じられた。雀に似た首と翼が黄色で尾の長い小さな鳥だという。鳥を食べようという人もいたが、危ないと集めて地中に埋めた。ウイルスのせいとしても何故渡り鳥がこう一斉にやられてしまうのだろう。なまじな怪談より怖い話だ。この騒ぎはまだ拡大するだろう。

<老年について> 著名な英文学者・中野好夫(故人)の「人間の死に方」という雑文集の中に少し気を惹く挿話があった。それは“ガリヴァーの作者の死”という箇所である。“ガリヴァー旅行記”は2003年8月に取り上げたが、その第3話後半にラグナム国の不死人間の話があるのを読者は覚えているだろうか。
 著者ジョナサン・スイフトはここでストラルドブルグと呼ばれる不死の幸福(?)を得たが、不老を得そこなった何人かの人間の悲劇を書いている。年とともに気力がなえてきて、80歳になると頑固で依怙地で貪欲で気難しく、若いときに見聞したことしか記憶がなく、信用・利害に関しては無能力者となって法律上は死んだも同然の扱いになり、90歳になると歯も頭髪も脱け落ち、日常の物の名・親しい人の名も忘れる。本を読んでも一向に面白くない、肝心の記憶が文章の途中で消えてしまい、文の終わりまで持続しないからだ。200年も経つと他の人間と会話らしい会話をかわすこともできなくなり、名状すべからざる凄惨さをただよわせるようになる。この人たちを見たガリヴァーは不老長寿に完全な幻滅を感じた。
 スイフトはこの作品を50台半ばで書いたが、恐るべきことにここでの描写が瑣末的な相違を除けばぴったり20年後のスイフト自身にあてはまることになった。彼は20年後の彼自身を薄気味悪いまでに予見していたのだろうかと中野は書いている。スイフトは若いころから難聴と眩暈に悩まされていたが、50歳のころ前方のエルムの老木を見上げ、梢のあたりの既に枯れきった大枝を指して、「あの樹、あれがきっと僕だ。頭のほうから死んでいくのだ」と呟いたという。晩年は完全な聾者になり、彼の記憶喪失を早め、厭人癖を強めた。
 “ガリヴァー”は彼の人間嫌いが最後に沸騰した奇書である。その人間憎悪は中野に言わせれば、作品自体の芸術的完成をさえ犠牲にするほど異常な情熱にまで高まっている。第4話で馬フウイヌムの国から英国へ帰り着いたガリヴァーは人間すなわちヤフーについて「およそこれほど教育の見込みのない動物もない。狡猾で腹黒で不信でしかも復讐心が強い。身体は逞しく頑丈だが性根は臆病者である。また傲慢、卑劣、残忍でもある。ことに赤毛のものは牝牡ともに一段と好色、奸侫」だと言う。だが、彼の一生に2乃至3人の女性をめぐって世にも奇怪な愛情の葛藤があり、その場合にこのヤフーへの評語がそのままスイフト本人への評ともなるのも妙である。おのれの姿を鏡に映し、そのあまりの醜さに油汗をタラリタラリと流すガマを想起する。
 晩年に近づくほど記憶喪失への自覚が耐え難い焦燥感を募らせた。はっきり剣のような鋭い意識でどうしようもない自己の精神崩壊を見つめていなければならなかった彼の悲劇は悲痛だった。病勢の進んだ彼は訪問者を送り出す度に「もう2度とお目にかかることはないでしょう」と言ったという。嘗て強靭・明晰な知性だけを武器に生きてきたスイフトは完全な痴呆の中で、苦痛も喜びもなく、さながら朽木の崩れ落ちるように死んだ。死亡後の解剖と専門医学者による詳細な研究の結果、彼の死因は脳血栓による麻痺と老耄で、狂気の遺伝や梅毒の形跡は認められなかったという。しかしスイフトは早くからアイルランドに“痴呆と狂人を収容する”完備した精神病院の建設を提唱しており、遺書には遺産の大きな部分をその目的に指定している。

<喫茶店> 朝のBS放送に“こころの旅”という45分のテレビ番組があり、著名な一人の日本人が訪れる世界各地の独特の風景と民情の紹介を楽しみにしている。今日は五木寛之がイスタンブールを訪れた。ここはトルコだからもちろんトルコ人が圧倒的に多いが、ロシア人をはじめとして世界の多くの人種が入り込んでいて人口はなんと1300万人という。アフガニスタンとかあちこちで聞く言葉ではあるが、ここは東洋と西洋をつなぐ陸路と黒海と地中海を南北につなぐボスボラス海峡の交差点で、文字通りの“文明の十字路”である。嘗て西ローマ帝国がオスマン・トルコに攻められてここで終焉を迎え、コンスタンチノーブルという都市名さえ変えられてしまった。古い歴史のある土地には一口では評せない複雑な趣がある。
 16世紀にエチオピアのコーヒー豆がイスタンブールに伝わり、やがてトルコからコーヒーとしてヨーロッパに紹介された。1554年この都市に世界最初のコーヒーショップ=カフェができたという。西洋流喫茶店の発祥地である。今やイスタンブールの街の到るところにオープン・カフェがあり、多くは料理も提供する。因みに日本の主要都市にも“カフェ・イスタンブール”という店ができていて、トルコ料理が出される。1672年にパリで始めてのカフェが開かれたが、当座は流行らずじきに閉店してしまった。しかし今や歩道まで突出したテラスをもつカフェがパリの街の特徴の一部になっている。少し遅れてロンドンでもコーヒーハウスが乱立して情報交換の場になったようだが、またすたれてしまった。
 一方コーヒー文化の元祖でありながら、トルコの日常生活は圧倒的に紅茶が飲用される。トルコは世界第5位の紅茶生産国なのである。その場所は屋外にテーブルと椅子を並べたチャイハネである。人々は何杯もお代りをしてゆっくりとくつろいでいる。これはイスタンブールに限らない、中央アジア一帯の茶店のことで、チャイハナとも称される。むしろこちらの方が一般的な名称のようだ。チャイは茶、ハナは家。シルクロードに沿った各国で人家のまばらな街道沿いにやや侘びしい感じで店を開いている。これが伝統的な東洋流の喫茶店。私も昔イランでテヘランから遠く離れた土地で運転手の休息を兼ねて立ち寄った覚えがある。バタバタ急いでいるのは我々一行だけで、他の人たちは時間の過ぎるのを一向に気にする様子もなく落ち着いて茶を喫していた。日本のような黄色い茶ではなく、あくまでも紅茶である。
 昔米国に滞在した時に都会へ出ると、どこかに喫茶店がないかと目を皿にして探したが、ステイキハウスやマクドナルドはあっても、どこにも喫茶店に相当するような落ち着いて茶を喫することのできる店はなかった。これはまさしく文化の相違だと悟った。米国がいまひとつ好きになれない理由でもある。ブラジルでは小さいポットの底に砂糖を敷き詰めて、その上からごく濃いコーヒーを注ぐ。中国を訪れる機会はなかったが、この国には実に多様な茶が好んで飲用されていることは承知している。但し一般家庭でなく、大勢の人が立ち寄る店としてのチャイハナが一般化されているのかどうかは知らない。中学で教わった漢詩に「千里鶯鳴いて緑紅に映ず、水村山郭酒旗の風」という一節があったが、これは喫茶店とは大違いだろうか。


 わが喫茶室とも縁があるので、早速中国事情を調べてみると、有名な景勝地の景色のよいスポットには堂々たる構えの“飲茶楼”(左の写真)があり、料理などは出さず専ら茶を出す、それも30種類ぐらいあるという。一旦席に着くと1時間はいて、3杯ぐらいは御代わりをする。デパートでも結構広い面積を喫茶店が占有している。コーヒーを注文したら結構高い料金をとられたと報じている。また注文しても大分待たされるのが常態らしい。但し大都会は別として地方の都市では探しても中々喫茶店が見当たらないというのも事実のようだ。
 次のような報告もあった。−北京にはほとんど見られないちゃんとした喫茶店がこの成都にはあるのには感心しました。喫茶店は上海、南京はごく普通に存在するのに、西安や済南にはない。どうやら中国における喫茶店の分布は、黄河と長江の間、かの有名な淮河ライン(降水量750ミリのラインで中国を稲作地帯と畑作地帯に分かつ)で二分されているらしいのですー 要は広い中国では地域によって喫茶店事情は大違いということらしい。10年もすればまた事情は変わるだろうが。

<キリスト教の侵食> 塩野七生の“ローマ人の物語”は第XII巻になって、繁栄を極めたローマ帝国が如何に衰退していったかを著者は如実に語っている。3世紀の73年間に実に22人の皇帝が次々と死んで(大半は謀殺された)交代した。個々の皇帝は総じてその務めを身命を賭しても果たそうとするが、軍隊の最高司令官として遠征し重要な戦闘の第一線に立つことを始めとして外交交渉・内政として制度の改変、元老院(議会)への報告、人事、公共設備の建設や補修、様々な不具合の処理など、広大な帝国を保持するための皇帝の責務はあまりにも多大だった。不意の交代が多いことと政情の緊迫度に応じて皇帝の出身は次第に属州に移り更に軍人となって、十分な事前の経験や教育も受けていない人になっていく。政策の継承も不十分になるし、先人の知恵も活かされない。国民や軍隊への説得力や統率力とそれに応じて彼らから受ける筈の敬崇も不十分になっていき、成果があがらぬことへの批判だけは誰言うとなく高まっていく。
 ローマ人の伝統的な宗教観は個人的には何を信じようと自由だが、多民族国家であるローマを精神的に統合している“我々の神々”を祭るときは全員が参加することであった。だがユダヤ教およびそれを母胎として生まれたキリスト教は排他的な一神教で、本来ローマ帝国の多神教とは決して相容れないものだった。繁栄期の帝国内ではこのような非協調的な宗教が民衆の支持を得ることは考えられなかった。しかし度重なる蛮族の来襲による殺戮と略奪と焼打ち、その結果としての農耕地帯の荒廃と過疎化、防衛費増大をまかなうための度重なる特別税課税、住み慣れた土地を放棄して都市へ流入した人々の窮乏、これらの結果としての希望の喪失。このようなローマの弱体化と疲弊がキリスト教の救済に民衆の顔を向けさせた。
 ローマの神々は生きる道を自分で見つける人間を傍らで助ける神々であり、キリストの神は人間に生きる道を指し示す。自分の生き方に確たる自信を喪失してしまった人々は次第に後者に頼る方向に変質していった。こうしてローマ帝国の衰退が在来の多神教に代わって一神教であるキリスト教の繁栄を助けたことになる。しかし同じように混迷の戦乱の世を生きた我々の先輩日本人はいくつかの宗派の仏教に頼った。これは当時それに代わる宗教が日本には到来していなかったことと、頼りにした仏教の排他性が強くなかった偶然によるので、多神教の強さを証明するものではない。現代の欧米諸国でも国際テロなど不安はなくなってはいないものの、往時ほどの不安な世情ではなくなっていても一旦頼ったキリスト教を捨てる気配は見当たらない。
 ユダヤ教では神自身が私は嫉妬深いと公言して改宗を禁ずるなど人間臭紛々であり、宗教の比較研究は究極の人間研究になると思う。インドでは何故釈迦の仏教が廃れたのだろうか。多神教は他宗教に対して寛容であるが故に、他教によって侵食されやすいのかもしれない。イスラム教の教義はよく知らないが、他教に不寛容である点ではキリスト教以上なのだろう。私は個人的に不寛容な宗教に反感をもつし、常に改宗の自由は確保しておきたいと思うが、食物の好みなどとは違って当事者としてはそう気安く考えるわけにはいかないのだろう。
 いろいろな理由が複雑にからまっているものの、皇帝という政治制度の不備が遂に多神教ローマ帝国の命取りになり、政治への不信が一神教キリスト教の繁栄を欧米に、一神教イスラム教をアラブやアジア諸国にもたらし、現在に連なる民族抗争の大きな要因になってしまったことを残念に思う。

<少女作家> 平成15年度下半期の芥川賞は19、20歳という二人の少女が受賞した。文春3月号に載ったので一応チェックする。3月号は売れ行きが段違いによかったそうだ。20歳の金原ひとみは「蛇にピアス」、19歳の綿矢りさは「蹴りたい背中」で、前者は大学教授で翻訳家の娘だが、小学4年から不登校になって盛り場を遊びまわり、リストカットをするような少女だった。但し父親が買い集めた小説を片っ端から読みふけり、また文章を書くとメールで父親に送って見てもらっていた。後者は高校時代に史上最年少で“文芸賞”を受賞した学校成績もよいらしい大学生で、太宰治をはじめとして村上龍、田辺聖子などいろいろ読んでいるが、“世界が狭い”という評は自認している。
 「蛇にピアス」はピアスをする男と刺青をする二人の男と付き合う少女が自分も舌にピアスで穴をあけ背中に刺青をしていく話で、その方面に全く経験がなければ書けない小説である。「蹴りたい背中」は一人のモデルに夢中になっている暗い男の同級生と付き合う女子中学生の話で、意の如くならない男を痛めつけたい気分を描写している。共に小品であり、ああこれだけのものかという読後に宿題の残らぬ作品である。流石に現代の若者らしい会話や心理表現の巧みさにはケチのつけようがないが。
 審査員の一人である石原慎太郎の評が正鵠を得ているようだ。曰く「現代における青春とはなんと閉塞的なものだろうか。誰しもが周りに背を向け、孤独や無関心、あるいは無為の内に自分を置いてどうにか生きているに過ぎない。作品はスムースに読めるが、軽すぎて読後に滞り残るものがほとんどない。」と。受賞した二人は人生経験の浅い少女だから、書いている世界が限定されたものになるのは止むを得ないと思うが、広い日本でこの程度の小説しか出てこないという状況がどうにも情けない。
 私が最近読むのはほとんどが報告書などのドキュメントもので、架空の題材を扱う小説とは普段縁が遠いが、それでも小説というものに対する無意識の要求みたいなものはある。それは作品が容易に割り切れず消化困難な何かを読者にぶつけるべきだというものだ。人生は割り切れないものだという慨嘆が漂わないようでは芸術に値する文学作品とは言えないような気がする。史上最年少の受賞と騒がれているが、同じ受賞者でも玄侑宗久氏の作品なら読みたいと思うが、彼女らの作品は当分読む気にならない。




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