
<北斎の富士>
思いついて葛飾北斎の“富士三十六景”の画像をインターネットに求めたところ、限られたいくつかの絵だけを掲げたホームページが多い中で、全46枚をしかも約500kbの濃い画像密度で親切に取材地点の地図付で提示しているものに出会ったー“富嶽三十六景”(village.infoweb.ne.jp/~zhou/paintings/fuji36.htm)。絵葉書としてプリント・アウトしてみると仲々よろしい。
以前に広重の“東海道五十三次”に感心したが、この北斎の浮世絵はそれにも決してひけをとらない美しい作品群だ。風景の美麗さは言うまでもないが、登場人物の無駄のない身のこなしがいい。例えば“甲州石班沢”で岩頭に立って投げ網を絞る漁師、“駿州江尻”で突風に笠を取られまいと構える旅人、“遠州山中”で大きな角材を板に仕上げるために角材を斜めに支柱で支えてその上に立ち、慎重に鋸目を入れていく大工、“尾州不二見原“で丸い桶の内面を曲がり鉋で仕上げる桶屋、“本所立川”では小さめの角材をキチンと高く積み上げるために下から力いっぱい投げ上げる男とそれを上でしっかり受け止める男のペア。“江都駿河町”では同様に瓦葺き職人が下から瓦を精一杯の身振りで投げ上げている。
また”常州牛堀“ではそれなりに快適な生活が送れそうなよくできた苫舟が沼に浮かび、”上総の海路“では外洋航海もできそうな大型帆船が帆に風をはらみ、”東都浅草本願寺“では人身より大きい鬼瓦を屋根に取り付ける作業中だし、“江戸日本橋”では石垣を組んだ掘割に沿って整然と並んだ倉庫群が画かれているが、いずれも製作・建造に関わった職人の細工の腕を十分に理解した丹念な描きぶりである。版画師である北斎自身が一流の職人魂の持ち主だったに違いない。
当然2月冒頭に記した江戸時代末期の風景との対比に注意が行く。先の“江戸日本橋”の都市らしい流通センターに対比して“下目黒”の田舎くさい丘陵畑地。見渡す限り“武州玉川”は多摩川の川原、“隅田川関谷の里”は堤防だけで周辺に何もない。“武陽佃嶌”では家康が認めたという佃島の埋立地は規模がまだ小さく今にも海に没してしまうほどか細く見える。“本所立川”は住宅建設ラッシュ。 “相州江ノ島”には観光地としては未整備だが俤が残っている。“従千住花街眺望の不二”は農地の一角を塀で囲った吉原の街とその先の富士を眺めつつ、槍箱をかついで花のお江戸を引き揚げて郷里に戻って行く心なしか淋しげな家臣団の一行が秀逸である。
絵の構図として小さくても引き立つような富士の見せ方の様々な工夫が心憎い。“御厩川岸より両国橋夕陽見”では対岸に延びる両国橋の彼方に夕焼けをバックにくっきりとした姿の富士のシルエットを渡し舟の一同が眺めている、“深川万年橋下”では堀に渡る太鼓橋の下で2本の橋脚の間から雪を冠した富士を見せ、橋上には鈴なりの人々がこちらに背を向けてそれを見ている、“甲州犬目峠”では目近に聳える夏山の富士を横目に、眺望の利く尾根の長い坂道を登っていく旅人、有名な“神奈川沖浪裏”では不自然なまでに逆巻く波と翻弄される何艘もの舟の彼方に陸地としては富士だけが見える、“甲州伊沢暁”では夜明けとともに宿を立つ旅人たちを朝もやの彼方に立つ富士が見ている、“相州梅沢左”では近々と立つ青黒い富士山の斜面に沿って鶴が飛び立つという風で、遠近・季節・時刻などを変えて一つとして類似の構図は採用していないし、色も様々に変えている。
太宰治の“富嶽百景”という随筆の冒頭に富士の頂角が論じてあって、―広重(ひろしげ)の富士は八十五度、文晁(ぶんてう)の富士も八十四度くらい、けれども陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角百二十四度となり、南北は百十七度である。北斎に至ってはその頂角ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いてゐる。しかし現実の富士は決して秀抜のすらと高い山ではない。―とある。でも上記“従千住”の富士は120degぐらいに描かれていて実感と合致している。三十六景と言いながらつい46枚も画いてしまうほど北斎をはじめ日本人は富士を愛している。“富士見”と名の付く地名は一体いくつあるだろう。

<生きものエッセイ> 世の中には変わった人がいる。私より2年年長で筑波大学名誉教授の生物学者 柳沢嘉一郎氏。「ヒトの未来を思うと、今日も心配で眠れないのです」という本の帯に釣られて“ヒトという生きもの”という題の氏の著書を読む。元はといえば草思社という出版社が有料で発行している月刊誌“草思”に2年間載せた随筆を単行本にしたものだという。氏の緻密な分析力に納得するとともに深い敬意を表し、その一部を紹介させてもらう。
冒頭のテーマは“ヒトは生き残れるか”という著者の最大の懸念に関するもので、一つの事例として米国アリゾナ州の高原に生息したクロシカを挙げる。長い間その生息数は約4000頭で安定していたが、1800年代末に人間がやってきて牛を飼い始めた。すると今までクロシカを獲物としていたオオカミやピューマたちが牧場の牛を襲い始めた。牧場主たちは猟銃やワナで瞬く間にこの獣たちをほぼ絶滅させてしまった。天敵がいなくなったクロシカは1910〜1920年にかけて一気に10万頭近くまで増えた。4万頭ほどに増えた頃から草原が荒れはじめ、餌場が破壊されて10万頭いたシカは大量餓死によってほぼ絶滅してしまった。
動物種によってはこういう群の崩壊を防ぐための社会的抑制システムを持つものがある。地域の縄張りの中の野ネズミは繁殖に参加できる数が限られていて、地域のネズミが崩壊するほどの数に繁殖しないように抑えられている。これに関して2.4m四方の巣箱を作り排泄物は床の金網を通して下へ落ちるようにして水と餌を十分に与える実験をした。最初に8匹のつがいのマウスは1年半後に2200匹になったがこれを上限に減り始めた。マウスは自閉的・非活動的になり、一方で雄は攻撃的になり喧嘩が頻繁になった。種存続の本能が失われて交尾をせず、たまに子を産んでも雌は育児をしなくなった。数が減ってきてもこれが改まることはなく開始4年半後にはマウスの子孫たちはすべて死に絶えた。
ヒトがアリゾナ高原のクロシカのように急激に増え始めたのはその長い歴史の中ではごく近年のことである。1万年ほど前世界の人口は約400万人だったという。農耕牧畜によって西暦0年頃の人口は1億8000万人になったと推定され、17世紀半ばには約7億人、1930年頃には約20億人、それが現在は約60億人に増えている。これをグラフにしてみればJの字のカーブになる。食糧生産の限界もあるが人口の過密によるストレスの懸念はなお強い。近年若い人の衝動的な犯罪が激増しているし、フリーターの増加には生きていくためのエネルギーが感じられない。絶滅前のマウスの過密社会に似ている。著者はこういう様子をテレビで見て眠り薬を飲んで寝たと記している。
話が変わって“記憶を映すスクリーン”というテーマで、結婚後20年経って著者の奥さんが「そろそろ住所録を作らないと・・」と言った。彼女に今まで住所録なしでどうしていたのかと訊くと「手紙を貰った時に差出人の住所と名前を一度見ておく。手紙を書くときはそれが目の前に見えてくるから、それをただ写して書いていた」と。そして皆そうして記憶しているのですと語ったという。また彼女は中学生のころ英語の先生から教科書の暗記の宿題をもらうと、家に帰って一度だけ教科書に目を通す。翌日授業で指名されると、そのページが目の前に見えるから、それをただ読めばよかった、ページが終われば次をめくればよいのだという。こういう映像の記憶方法は著者には(もちろん私もだが)縁遠いものである。郵便番号もそうして憶えているのだろうか。
次は“タフな遺伝子”という話。著者は内気でシャイな人に会うと気持ちが和み親近感が湧いてくるが、多くの米人のようにタフな人に会うと圧倒され一緒にいると居心地が悪くなってくると書いている。無鉄砲な人たちの冒険心・探検心・新奇探索性という性向や隠遁家の内向癖は遺伝的な影響が強い。イスラエルのR・エプシュタインは新奇探索性・挑戦意欲・積極性・攻撃性・タフさの性格を支配する遺伝子のありようを具体的に明らかにした。この遺伝子は23対の染色体の内第11番目の染色体にあり、五つのうちのD4受容体の遺伝子に関係があって、そのDNA分子の塩基配列の中で同じ配列が繰り返される回数が多いほど新奇探索性が強いのだという。著者に言わせるとー国の成り立ちからしてアメリカ人にはこのタフな遺伝子をもった人が多く、グローバリゼーションと言って彼らの考え方やルールを繊細な遺伝子の人たちに厚かましく押し付けようとしている。迷惑な話だし、暮らしにくい世の中になってきたーと。
また別の話で“老いについて”。記憶には重なり合った山なみのように濃淡がある。遠い記憶はうっすらと淡く、近い記憶は鮮明で濃い。その濃淡が時間の経緯を示していて先週のできごとか昨年のできごとかを教えてくれる。ところがそれが同じ濃淡になってしまったと著者は述懐する。一晩寝ると親しい友人に会ったのが昨日のことか一ヶ月前のことかはっきりしなくなった。また記憶の輪郭がぼけてきて、中心部ははっきりしていても周辺部はほかの記憶の周辺部と重なってどちらの記憶かはっきりしなくなった。これが老いるということだろう。最近老化が遺伝子の突然変異によって起こることが分かり、老化の生物学的な研究がされはじめたという。突然変異なら人によって老化の進行が違うのも理解しやすい。最近同窓会の旧友たちの写真を見るとその差が大きいことを実感させられる。
<オウム裁判> 麻原彰晃こと松本智津夫の一審がようやく結審した。東京地裁は26人の殺害など13事件すべてについて首謀者と認定し、“教団の武装化を図り多数の生命を奪い傷つけた犯罪は愚かで浅ましく極限の非難に値する”と死刑を言い渡した。公判回数は257回で判決までに7年10ヶ月を要した。弁護団は控訴し、且つ全員が控訴審の弁護は受任しない方針を表明した。裁判長は“布施名目で信者の資産を根こそぎ吸い上げる一方で、その資金で無差別大量殺人を目的とする化学兵器の製造や武器の調達を進め、自らを神仏にも等しい絶対的な存在だと空想を膨らませた被告は殺人を肯定する身勝手な教義の解釈で妨げになるものを排除しようとした”と述べている。
麻原は裁判の進行に伴い犯行は弟子たちが教祖に無断で暴走したと宗教者にあるまじく一切の罪を弟子たちにかぶせ、不遜な態度で反省や被害者に対する謝罪を一切行なわない見るも不快極まりない姿勢に終始している。弟子や外部の人間に対する過去の言動は聞く限りでは宗教に事寄せた詐欺行為以外の何物でもなく、教祖らしく尊崇の対象となるような要素は私には一切感じられない。
もし裁判というものが刑の重さを正しく計量斟酌するために調査・審議に時間をかけることが重要ということであれば、麻原の場合関与したすべての事件を綿密に調べなくても、例えば坂本弁護士一家殺害だけに限ってもその勝手さ・残虐さから死刑にする十分な根拠がある。罪が重ければそれに応じて単なる死刑にとどまらず何回も死刑にするとか、八つ裂きなどの残虐な刑に処するわけにはいかないのだから、すべての事件への関与の度合いを詳しく吟味するまでもない。本来であれば控訴審も含めた裁判の徒な長期化を容認している司法当局者たちを断然非難したいところである。多くの関係者の迷惑が長引き、国の経費もばかにならないし、現今問題になっている法曹人の不足に拍車をかけている。
しかしオウム教団が名を変えた“アーレフ”が麻原教祖不在の現在も出家信者が嘗ての1400人から減ってはいても650人を擁し、また在家信者が1000人もいて、日本各地に拠点を保持しているというのは軽視できない事実である。この裁判の結果は既に予測・折込済みで、この教団は近隣の人たちから忌避されていても近い将来消滅する見込みはないという。逮捕後8年経った今でも内部の会合で麻原の説法の録音が流されている模様だし、早々と麻原が処刑されれば神格化されるかもしれない。だから裁判の長期化で故意に処刑を引き延ばしているのではという憶測まで出てくる。我々外部の人間から見ると容易に信じにくいことだが、これが事実なのだ。
1月に<葬式仏教>を取り上げた。あれでよいのだという人もいるようだが、企業や政治が個々人をないがしろにし、心ならずもフリーターに甘んじる若い人が増える現在、宗教に心の救済を求める人が有名大学卒業者にまで増えても、現今の日本には仏教をはじめとしてそれに積極的に応じる既存宗教の動きが乏しい。あの人についていけばよいという高僧・名僧が現れない世の中で、ただ“アーレフ”にケチをつけているだけでは問題は解決しない。ほかにも白い衣服をまとって集団行動する団体が最近問題になった。この際大乗仏教の復活を望むのは無理だろうか。
<パソコンのウイルス> 3月4日夕刻、いつものようにメールボックスを開くと、おなじみのジャンク・メールの他に、表題が”Re:Here is the document”という尤もらしいメールがあって差出人名を憶えていないが英文だったのでちょっと怪しいなとは思ったが、何かこのホームページの文章にコメントでも付いたかとつい開いてしまった。簡単なメッセージと共に”program”というファイルが添付されていたので、ついそれを自分のハードデイスク内に取り込み、ご丁寧にも改めて取り込んだファイルを開くべくダブル・クリックした。
途端に”Norton Antivirus”の作動表示が出た。人にメールを発信すると直後に出る表示だが、いつもなら一瞬出て直ぐに消えるのに今回はいつまで経っても消えない。“何%終了”の作業量表示が途中で停止する。その内に表示が消えたと思ったら再び現れ、前と同様に中々消えない。その内に“メールサーバーへの接続ができませんでした”というのと“電子メール・メッセージが発信できませんでした”という2種類のエラーメッセージが現れ、暫く放置しておくと作動表示とエラーメッセージが交互に下方に続々と現れると共に次々と警報音が出て只ならぬ状況になってしまった。
画面の右下方の帯の領域には2種類の見慣れぬマークが不規則に並び、それがピコピコ変化するとともに増えていった。もう通常のパソコン画面上での作業は途切れ途切れにしかできないし、エラー・メッセージが上へ上へと重なってくるので、仕事にならない。どうしてよいのか分からぬままに、ズラッと並んだエラーメッセージの”OK”の確認ボタンを下の方から躍起になって押していった。次第に画面上のエラーメッセージが片付いていき、”Norton Antivirus”の作動表示も発生頻度が減っていって、遂に両者とも現れなくなった。右下を見ると変てこなマーク群もいつの間にか消滅していた。
一時はデータ・プログラムの回避とパソコンの中身を空にして新たに入れなおす作業を専門家と相談しながらやらなければならないか(O.S.も再インストールとなると自分の手には負えない)と覚悟して暗然たる気分になったが、案に相違して比較的容易に解決したので、一旦はほっと胸をなでおろした。通常の手続きでパソコンを終了しようとすると、途中で引っかかって先へ進まないので、強制終了した。翌日起動すると始めは何事もなく通常と同じ過程を経て進行するが、最後にまた”Norton Antivirus”の作動表示が出て消えなくなり、前夜と同じ現象が現れた。今度は慌てずにエラーメッセージの”OK”の確認ボタンを押していると10分経たぬ内に作動表示が消えた。右下のマーク群も消えた。
軽率にも取り込んだ添付ファイルがそのままになっているのに気が付いて、これを削除してゴミ箱も空にした。確認のために停止・再起動を試みると今度は通常停止が可能になったが、案に相違して起動後に”Norton Antivirus”の作動表示が矢張り消えず、警告の確認ボタンを押す作業をしばらくし続けなければならないことが分かった。右下のマーク群も再び出現し、しかも画面が落ち着いても容易には消えない。添付ファイルを除去してもO.S.のどこかにウイルスが食いついてしまっていて、面倒でも起動の度ごとに最小5分の警告メッセージの鎮圧作業を繰り返さなければならないらしい。
朝になってテレビのニュースが新たなウイルスが流行っているので、怪しいメールは開かないようにと警告した。半日遅かった。尤もこんな心掛けは以前から繰り返し注意されていたことなのだから自分が悪い。今回たまたま” document”という語句に迷ってしまった。またメールボックスを覗くと3通の怪しいメールが新たに入っていた。今度はメールを開くことなく、控えのメモだけ取って他のジャンク・メールとともに早速削除した。テレビ・ニュースがわざわざ言うだけあってこの度影響力の強いウイルスが撒かれたに違いない。
後の参考にそのメールの表題名を挙げておくと@”Re:Your document”A”Re:Thanks!”B”Re:Here”。そして@の発信者名は2934.54671.send 2、またAとBは過去に私にメールをくれたことがある遠い知り合いで、ウイルスの感染被害者と思われる。特徴として”Re:”がつくのだから外形上は返信の形をとっているメールで、自分に出した憶えがない原題にからむメールが要注意と分かった。私も同様に他人に心ならずもウイルス付のメールを発信していたのではないかと自分のメールの発信控えを調べてみたが、ここを見る限りでは無差別なメール発信はしていないようだ。経緯を考えると私のパソコンの”Norton Antivirus”ソフトは最近のヴァージョン・アップによって不完全ながらウイルスが思うままに活動するのはなんとか食い止めたらしい。なお削除済みの元凶となったメールの差出人名を削除済みリストで調べたら、“0000692197@dns.ya・”というものだった。
昨今鶏を始めとして食用の動物に深刻な被害が発生している原因もウイルスで、こちらの方は人の能力では未だに解明が及ばないが、コンピュータ・ウイルスの方は犯人と防禦するシステム側との絶えざる知恵比べである。生産的な仕事では決してないが、及ぼす影響の大きさが犯人の犯行意欲を誘うのだろう。この手の犯行を実証して犯人を検挙するのは偶然以外無理なのだろうか。
追記―日を追うに従い自然消滅するかと思っていたら、案に相違して起動後素直にウイルスが退散しなくなり、収束しそうになるが暫くするとまた”Norton Antivirus”の作動表示が出て、その内に表示枠の中が真っ白のままになり右下には例のマークがずらりと並んで動き回り本来のパソコン操作をごくたまにしか受け付けない状態が続くようになった。大体画面中央に作動表示枠が他のウインドウの上に載る形でのさばられては仕事にならない。たまたま隙を見てインターネットに入ってみたら不意に邪魔が消えたが、理由はよく分からない。これに懲りて夜就寝する時もパソコンを終了させず、一時休止で過ごすことで様子をみることにした。いささか辟易しています。

<神田川> 2月の江戸紹介を読んだ一人の読者から神田川について、知るべきことをよく知らなかった旨感想が寄せられた。言われてみると自分もあの文を書くまで神田川もしくは東京地区の水理状況についてほとんど知らなかった。小林清親の浮世絵「御茶水蛍」で屋形船の周囲の闇を飛び交う蛍の光を見たが、これが江戸期の神田川だった。鄙びた田園地帯の雪道にかかった木橋を着飾った女たちが渡っていく「姿見橋」という絵もある。風流な風景だったようだ。この際もう少し知っておこうとインターネットで“神田川”を調べてみた。
現在の“神田川流域図”を見ると、三鷹市の井の頭公園に発した神田川は東へ流れて環状7号線を潜った後に善福寺川と合し、一方で妙正寺川と江古田川と合流したものが山手線直前で神田川に合流して東へ東へと流れて隅田川に直角に流入している。この流域は南北に短く東西に長く東京主要部北部の13区2市を含んでいる東京区部最大の河川である。全長23km。ぼんやり地図を眺めていても川の経路が分からないのだが、雨水は緩やかな勾配で東京をほぼ横断して東へ流れているのだ。
昔の東京の地形では東京湾が今よりも内陸部に深く食い込んでいたが、河川は隅田川と平行して南へ流れ、短いが居住可能地域を貫いていた。これが南部の隆起した台地を迂回して東へ流れるように変わった。大田道潅が土地を整備するにあたって川を西から東へ導いたという説もあるが、最下流は日本橋川へつながりこれがほぼ現在の神田川の特徴ある経路になっている。
徳川家康と以後の幕府は先に記したように江戸城の外堀としてこの神田川を利用することにして整備を進め、仙台伊達藩が担当して御茶ノ水台地を掘削して(左上 聖橋の写真参照)隅田川に流入させるようにし、日本橋川は水流の少ない内堀化した。初期の江戸城は海に突き出た台地上に築かれ、台地周囲の海がそのまま内堀になり、次第にその周辺および南の海が埋め立てられていった。
今や川は都会の狭い断面の水路になってしまったので、遠くの住人は知らぬが仏だが沿岸の人は大雨が降ると出水を懸念する。水道橋付近で分岐している日本橋川はそういう際に役立つし、環状7号線地下に内径13m近い巨大な遊水地トンネルが設けられ、また御茶ノ水付近には水路に沿った地下に全長760m、内径8.8mの分水路トンネルが掘削された。
水路の水は次第に汚れを増し昭和40年ごろにはドブ川として最悪の状況となったが、その後沿岸の人々の努力があって、蛍はとにかく中流には鯉が泳ぎ白鷺が訪れるようになっている。沿岸の歩道も大分整備され、桜の樹が多いので春は豪華な景色になるし、緑も多い。水源地井の頭公園から隅田川への合流地点まで歩こうと試みる人もいるようだが、川に沿った道がない地点もあるし意外に時間がかかる。川の全容を知っている人は少ないようだ。
喜多条忠作詞・南こうせつ作曲の“神田川”という歌が流行った。―貴方はもう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーにして 二人で行った横丁の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて 小さな石鹸カタカタ鳴った (中略) 窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿 (後略)― 今は昔の戦後しばらくの状景であるが、川沿いの住宅街にはどこでもこのような都会の庶民的な生活があった。川のほとりにこの歌詞を刻んだ石碑がある。私も学生時代の冬、寮から一丁ほど離れた銭湯の帰りにぶらさげた手ぬぐいが凍って棒のようになった覚えがある。神田川からは3kmほど離れていた。

<青色発光ダイオード> 東京地裁は1月30日中村修二氏が発明し、日亜化学工業が量産化した青色発光ダイオードの生産技術に関して、中村氏(現カリフォルニア大サンタバーバラ校教授)が同社に200億円の対価を請求した訴訟で、特許の効力が切れる2010年までに日亜化学が得べき利益を1208億円と推定、また中村氏は独力でまた独自の発想に基づいて本件特許を発明したとして、その発明の対価はその半額の604億円と認定、請求通り全額200億円の支払いを命じる判決を下した。
日亜化学工業が1994年に青色LEDを商品化したことによって、赤と緑に対して遅れていた青と三原色を揃えたことになり、液晶画面のフルカラー化を可能にし携帯電話にも用いられて、市場規模は年間3000億円、2010年には1兆円規模に達するだろうとされている。従来テレビ受像機やパソコンには奥行きの長いブラウン管が使用されていたが、この発明を契機に日本だけでなく全世界で液晶画面が用いられることになった。
従来の信号機は電球式で朝日や夕日など水平方向から強い光が当たると電球の後ろ側にある反射板が光って三色すべてが点灯しているように見えるが、LED式は直接発光するため反射板を必要とせず擬似点灯現象は起きない。価額は電球式の約2.6倍と高価だが、消費電力は15Wと電球式(70W)の1/4以下。電球の耐用時間は約1年なのに対してLED式は10年と寿命が長く保守の手間も大幅に減るという。タングステンフィラメントの電球や蛍光灯に比べて格段に寿命が長く且つ電力消費量が少ないLEDの出現によって、白色光も含めた世の中の照明に必要な電力消費が減少し、地球温暖化防止にも貢献するだろう。
一方で北城恪太郎経済同友会幹事は一審判決を批判し「研究者は給与が保障されており、対価はボーナス程度でよい。過大な企業の負担は開発拠点としての日本の魅力を失わせる」と述べた(私はこれは経営者側に偏した極論でもう少し技術屋に夢を与えるべきと思う)。日亜化学工業は一審判決を不服として控訴に踏み切るに際して、一審に関わった弁護士全員を入れ替えることにした。また同社は判決の仮執行停止を求めて100億円を東京法務局に供託した。
判決に対して次のような意見も寄せられている。
―この判決には色々と検討されなければならない多くの問題点を含んでいると考える。
1 一人の発明者だけに焦点が当たりすぎていないか。
2 企業が研究開発にかけた諸費用は考慮されているか(人件費も含む)。
3 発明を製品化するまでの費用・貢献者等が考慮されているか。
日本の社会は和を尊ぶ社会で、戦後の発展も多くの人々がその恩恵を比較的平等に享受できた珍しい国なのである。これまで発明者が報われない面があったことは認めるが、それをお金だけで解決しようとする考え方は如何なものであろうか。特定の発明者のみに高額報酬が支払われるような社会が皆にとって過ごしやすい社会と言えるだろうか。―
60年代に赤色LEDが開発された後青色LED実用化の機運が世界中で高まったが、それは容易には実現しなかった。青色LED用半導体材料には窒化ガリウムとセレン化亜鉛があった。名大の赤崎教授と天野氏は世界の趨勢に逆らい、窒化ガリウムにこだわって遂に窒化アルミニューム・バッファー層技術と電子ビーム照射法の特許申請を行ない、1988年輝度の高い青色LEDの開発に世界で始めて成功した。その後NTTの松岡氏はLEDの発光が紫外線の方向にずれるのを防ぐために窒化ガリウムと窒化インジュームの混晶を作ることに成功した。ところがNTTは松岡氏に研究中止命令を出し、セレン化亜鉛に研究を集約するという経営判断により開発の迷路に入り込んでしまった。
一方で日亜化学の中村氏は1989年社長に直訴して5億円の研究費とフロリダ大学への留学を得てこれら先人の業績を学習し、わずか1年で“2フロー法”と呼ぶ独自のやり方で高品質の窒化ガリウムの結晶を作ることに成功した。混晶の製造については前記の松岡氏に教えを乞い、松岡氏も度量が大きく快くこれに応じてくれたので、1992年在来よりはるかに輝度の高い実用レベルの青色LEDの開発に成功した。前記3人が20年かかった道筋をわずか3年で追い越した中村氏の才能は非凡である。
日亜化学の小川英治社長は93年に他の役員の反対を押し切って青色LEDの事業化を決断、94年の21億円を皮切りに積極的な設備投資を継続した。また青色LEDの直上に蛍光体を塗布して白色光を出す発明を別の若手チームがなしとげ96年に白色LEDの製品化に成功して独走、2003年現在のLED部門の売上高1508億円と二位のドイツ・オスラムオプト社(400億円)を大きく引き離して世界一位である。赤崎・天野両氏の技術供与を受けた豊田合成だが、事業化で常に日亜の後手に回り、現在日亜化学の五分の一程度の売上高(315億円)になっている。
中村氏は東京地裁への上申書(2001年10月)の中で「初代社長は直訴に応じて研究予算を出してくれたが、2代目小川英治社長は青色発光ダイオードの研究開発を禁止し、別の開発をやるように口頭および文書で指示してきた。氏はこれを無視し別名目で実験資材購入を行なって研究開発を続けた。会社は蛍光体製造の化学会社で、半導体の技術はほぼゼロで自分が大学院時代に習得した技術を会社にもちこんだものであり、特許申請は独力で会社規則に反して行なった」と述べている。社長命令に反抗して永らく研究を続けることができたというのは、中小規模の会社にあり得ることで興味深いが、当初会社は随分氏を優遇しており、氏も100%会社の世話になっていないとは言いにくいのではないか。
以上の如き状況を同志社大山口教授が文春4月号に開陳、日亜化学の著しい業績の向上は中村氏の発明が契機になったことは否めないが、経営側の積極姿勢によるところが大きいと指摘し、その上中村氏の“2フロー法”はガスの安定を保つことが困難で量産に向かないことから日亜社は独自の方法を開発、97年5月に“2フロー法”を完全に捨てているという。大体中村氏に青色LEDの研究開発を禁じた一方で小川英治社長が他の役員の逡巡を押し切って青色LEDの事業化を決断したというのも変な話で、99年まで同社にいた中村氏は会社が“2フロー法”を捨てたことを知らないはずがない。勘ぐると何か公表されてない事情があるのだろうが、93年以降中村氏は尊大になって会社の開発方針に協力せず勝手なことをやっており、会社は彼のそれまでの貢献に免じて、社長指示を無視する彼を見て見ぬ振りをしていたのではあるまいか。こうなると冒頭に掲げた地裁の発明の対価を604億円と認定したのは過大に思われるし、会社が躍起になって裁判を巻き返そうとしているのも分かるような気がする。地裁の判決を見てマスコミが中村氏を英雄化するような評論が横行しているが、諸般の事情を知るとどうも評価が過大で、現状における発明の対価は数億円なのかもしれない。
ノーベル賞という話まで出ているが、実際にノーベル賞を授与された島津製作所の田中耕一氏の場合はあくまで謙虚だし、会社に逆らうどころか受賞後会社の用意する特別待遇を特に経営に関わるものについては適任にあらずと固辞したようで、会社と協調しない中村氏とは対照的な感じを受ける。当然要求すべきものなら遠慮する必要はないが、今回の一審判決は地裁が中村氏の誇大で一方的な言い分に騙された印象を受ける。
<久米宏 引退> 18年半続いたテレビ朝日の久米宏・ニュースステーションが3月27日をもって終了した(通算4795回)。毎年その予算を国会で承認され政府に近い立場にいるN.H.K.に対して、反権力を標榜するジャーナリズムを代表するように見られたが、キャスターとして時々のニュースを個人の意見を織り交ぜながら料理してみせ、視聴者をかなりの程度に満足させる実績を挙げたと思う。
公正無色の報道ではなく、常に批判精神を前面に出していたから、既に他で聞いたニュースでも久米宏がどう言うか改めて聞いてみたくなって時間になるとチャンネルを合わせた。彼の意見に全面的に賛成するわけではなかったが、決してその意見を聞きたくないと思ったことはなかった。茶目っ気のある独特の表情が憎めないし、適当に身の動きがあって飽きが来ない。その男が昨年秋あたりからこの3月で番組を降りると言い出した。どういう心境なのか本音はよく分からない。引退は余力を残してするものだという信念なのかもしれない。
政治家たちに歯に絹を着せずものを言っていたから、相当警戒されたし決して心を許して対談に応じる人はいなかったが、国民の前で逃げ隠れるわけにはいかないから、皆ニコヤカに振舞ってはいた。内心ではこの野郎と思っていただろう。それが見ていて面白かった。
以上のような前提があって最終日は初めから終わりまで見た。本人は番組構成の隅々まで気を使う毎日に相当の気疲れがあったようで、「番組がいつ終わるか分からなかった」と悩みが続いたことを述懐した。従って最終日に未練など感じられず、サッパリとした笑顔に終始した。上山千穂の天気予報を載せた六本木ヒルズの桜の花の風景とともに淡々と番組が進み、終わりごろの“できるだけニュース”の追加ニュースもいつも通り流した。渡辺真理が「ひとりだけで!」と憤慨するのに構わずビールの小瓶を取り出して乾杯した。時間は冷酷に去っていくことをつくづくと実感した。
後任は古舘伊知郎という噂がある。久米は彼へのバトンタッチを拒んだという。さもありなん。役者が違うのである。私が知る限り古舘氏はアナウンサーであってもニュースキャスターではない。渡辺真理と上山千穂も取り合えず失職だな。