4月の話題


2004年4月

 

<碇矢長介の旅>   NHK“こころの旅”は碇矢長介(本名碇矢長一)が1999年にケニヤ・ナイロビを訪ねた旅を追った。彼は25年前にアフリカを訪ねた後、20回以上にわたってこの地を訪れている。彼に言わせると人を笑わす商売をしているが、どういう時に人は笑いまた笑わないか、言葉の通じにくいアフリカの人々と接して学びたかったのだという。素朴なアフリカの人々との交流に惚れこんだ。
 アフリカ一誇り高い民族というケニヤ・マサイ族を訪ね、旧知のルーカス・ムキウリに会う。過ぎ去った歳月をたちまち通り越して心を許しあった親愛の表情が双方に浮かぶ。忘れかかっていたスワヒリ語を思い出す。大人が心を許せば子供たちはたちまちそれを見抜き、ワアッと集まってきてじゃれかかる。目がキラキラして笑っている。なるほどこれは堪らない。
 碇矢氏は始めてこの地を訪れたときに英語がしゃべれて原住民との間で通訳をしてくれたサンタ少年に会いたいと長老たちに助力を依頼する。しかしマサイ族は家畜を連れて常時移動しているから中々所在が分からない。捜索の旅を続け、遂にルーカス氏が所在を聞き出した。ンゴング村だという。サンタ・レボイは中年の男子になっていたが、戸惑う碇矢氏を直ぐに見分けて嬉しそうな顔をした。氏はサンタの学校へ行きたいという希望を直接叶えられなかったことを詫びる。彼は子供ができたら“イカリヤ”と名を付けると宣言し、「俺みたいな顔になっちゃうぞ」と氏は相好をくずした。
 旅を更に続けて南北6000kmに達するというアフリカ大地溝帯(グレート・リフト・ヴァレー)の縁に立つ。前方遥かに低い山並みのような地形を見る。あれが引き裂かれた地溝帯の向こう側だという。その間は動物たちの走り回る平坦な谷。彼は「とんでもないものを見てしまった。ジワジワと溝は深く大きくなって1億年もすると海水が入ってきて鯨が泳ぐようになるそうだ。自分が如何にちっぽけな取るに足らない存在か知らされてしまった。もうじきに俺は死んでしまうから、勝手にやってくれ」と慨嘆した。
 年間降雨量4mmという乾燥地帯に生きるツルカナ族の家族に会う。彼らは移動の便のためにごく僅かな所帯道具しか所持していない。母親が彼にナツメの如き小さな果実を勧める。噛んでみると甘い水が出る。彼らにとってこれは貴重品で、旅人への最大級のもてなしだと碇矢氏が説明する。子供がちょっと羨ましそうな顔をしたし、後には3ヶほどの果実しか残っていなかったと目ざとく確かめた彼は感動していた。
 グローバー・キャッスルからキリマンジャロを望む。碇矢氏は本所に生まれ、戦時中父に連れられて静岡・富士市に疎開した。近傍の富士は仰ぎ見るような感じがしたという。知らない土地だが、皆と仲良くして頑張れよと親父が言った。もう死んでしまったが、このキリマンジャロを親父にみせてやりたかったなとポツンと言う。父の死後暫く何も手につかなかったそうで、それほど父親を深く愛していたのだろう。“碇矢”という苗字も珍しい。
 ドリフターズのリーダー、嘗て“8時だよ、全員集合”で高い視聴率を誇った碇矢長介はこの3月末にアフリカでなくあの世へ旅立った。加藤茶をはじめグループの面々が神妙に葬儀に参列する様がテレビ・ニュースに大きく報道された。厭味のないお笑いとしみじみとした人間愛のまなざしが懐かしい。また同時代のひとが一人去っていった。

<死に方について> これは年をとると決定的に関心の度合いが増えるテーマである。「死亡記事を読む」という本を見た。著者は“死亡記事アナリスト”師岡達一氏。本の帯に“眼光紙背に徹すればその一字一句が奥深い”と書いてある。この本を論評する資格は私にはない。白状すると新聞を開いて死亡記事にまず眼をやるという習慣がまだ私にはないからだ。反省しなければいけないのかもしれないが、身体が不自由になって大抵の葬儀は参列を失礼させてもらっている。昨年暮れに親しくしていた従兄と義兄が急死した。この時も日頃見ていないために新聞の死亡通知欄を見損なった。年齢からしてそろそろ自分も縁遠くはないはずだが、人の葬式に出ないことで多少寿命が延びているような気がする。申し訳ないことだ。
 死亡記事の基本構成を次のように書いている。氏名(ゴシック体)/読み仮名/死亡時の肩書き、縁故関係、専門、専攻科目など/死亡日時分/死因/死亡場所/年齢/出身地または本籍/自宅住所/葬儀・告別式の日取と場所/喪主。新聞記者にとって短時間で何行の扱いにするかを決めるのが極めて神経を使う作業らしい。

 「知識人99人の死に方」(角川文庫)という本を読んだ。こちらの方は前者より興味深かった。死因は心不全・心筋梗塞・狭心症が27人、癌が24人、脳出血と脳梗塞が11人、肺炎が10人である。病はなく老衰によって眠るが如く亡くなったという幸せ(?)な人は一人だけだった。自殺と事故死が若干名。死亡年齢が現在の私(70)より若い人が多いのは妙だ。つい最近人の寿命が延びたということか。

 印象が強かったのは永井荷風。欧米に留学し“あめりか物語”、“ふらんす物語”を著し、代表作“ボク(シ+黒)東綺譚”で耽美派作家の先達とされた。几帳面に死ぬまで書き続けた日記からライフワーク“断腸亭日乗”をまとめ、日記文学の最高傑作と評された。生涯孤独を通し家庭というものに些かの幻想ももたなかった。浅草を愛し毎日のように楽屋に顔を出した。背が高いが寡黙で常に数百万円の貯金通帳を入れたボストンバッグを持ち歩く。晩年は歩行も困難になり、普通なら寝たきりになるほど心肺機能も低下していたが、唸り声を立てながら一歩一歩よろめくように歩いた。遂にいつも立ち寄る浅草の食堂前で倒れ、皆が駆け寄るが手を振りほどき自分でタクシーを拾い自宅へ戻る。日記には「3月1日 日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇ひ乗りて家にかへる」とある。以後浅草には行けなくなり、毎日の日記は日付と天候だけになる。気息奄々としてなお外出をやめられない荷風は1日1度になった食事を近くの食堂で取る。日記の最後は「4月29日。祭日。陰」。その日も駅前食堂でカツ丼と清酒を銚子で1本。自宅に戻った荷風は恐らく深夜に大吐血をする。窓の外と火鉢に吐き、コートを着てマフラーをした外出姿のままその場に動けなくなり、血が気管に詰まって窒息した。享年79歳。

 次は森鴎外の長女森茉莉。エッセイストだったが若くして離婚しずっと独り暮らし。永井荷風がひとり暮らしで孤独死したのを知り、荷風の孤独な生き方を敬愛していたが、脅えてあの死に方だけはしたくないと恐れた。借りた家を度々追い出された。ぼや騒ぎや水漏れ事件を起こすからで、小説を書き始めると集中のあまり茉莉はすべてを忘れてしまう。年をとって足がめっきり衰えたので二人の息子が心配して家政婦を薦めるが、大抵の人は気に入らない。何人も入れ代わった挙句、森茉莉の本を愛読し彼女の性質も把握していた高山峰子が御めがねに適った。「私は赤ちゃんみたいなものなの。そのつもりでね」と茉莉は言った。“貴族趣味的美”と評されたのが森茉莉文学で、三島由紀夫は女流作家は森茉莉しかいないと賛辞を送ったが、晩年は週刊新潮のテレビ批評を続けていて、目ぼしい番組は“ものすごい集中力(高山)”で見た。髪がほとんど抜け落ちてしまい栗色のかつらをかぶっていた。歯もなくなっていたが入れ歯は使わなかった。夏の数日をあけて高山が訪れるとベッドに横たわり電話に両手を伸ばした姿で硬直していた。食事類は揃ってテーブルにあった。享年84歳。死因は心不全と診断された。

<電動回転ドア> 六本木ヒルズの森ビルで小学入学直前の男子が回転ドアに頭を挟まれて死亡する事故が発生してから、俄然このドアの危険性と事故・トラブルの多さが脚光を浴びている。この関係のニュースは事故発生後耳にタコができるほどくどくどと報道されているが、ひとつ気に入らないのはマスコミが管理者が“ドアを非常停止させる限界の障害物(実は人間)の感知限界高さを上げて作動頻度を減らそうとしていた”点を指して、“回転ドアの感度を落としていた”と表現していることで、表現としては不正確で誤解を生みやすいと思う。
 もう一点センサーが作動してからドアが停止するまでの制動距離が25cmと長いことを問題にしている。これはドアの回転速度とも関係があるが、健常者が苛立たないように最高速度に設定してあったようだ。この辺を素人は独立に論じようとする。また電動であれば制動距離をゼロにできないことは当然だ。 議論に耳を傾けると人々はこの回転ドアの危険性についてこれまで全く無関心に過ごしてきたことが分かる。一方で報道されない小事故が従来も数十件発生していたことが明らかにされた。中でも足の不自由な老婦人がドアの回転についていけず、ドアに押されて転倒し骨折した事故があったことを知り、身につまされる思いがした。雨で床が濡れて滑って転倒したケースもあったという。
 私は回転ドアといっても手で押す素朴で旧式のタイプしか知らなかったが、電動だセンサーだと近代ビルの装置は当然の如く高度化している。慣性重量も大きくなるし、風の吹き抜けを嫌って固定壁との隙間も詰め、容易に変形しないように部材の剛性を高めているので、万一はさまれたら生身の人体の被害は大きくなるのは当然だ。
 考えてみると電動回転ドアなど必要があるのか。格好よく見えるという建築家や建物の所有者の単なる見栄に過ぎないのではないか。人が前に立つと左右に開くドアでよいではないか。風が内部に吹き込むのをどうしても防ぎたければ、二重にすればよい。それでも多分設備費は回転ドアより安価で済むだろう。
 人間工学の観点からは、様々な身体のサイズで大幅に運動能力に差異のある人々が通過する装置の設計はエスカレータよりよほど難しい。こういう事故に鑑みて今後安全面に十分配慮すると、優れた運動能力の人には通過がまだるこしくなって、脇の非常口から出入りするようなことになってしまうかもしれない。外国でのトラブルをあまり聞かなかったが、電動回転ドアについて多分日本が先走りしているのだろう。横浜ランドマークタワーの管理者三菱地所は今後新築ビルに回転ドアはつけないと宣言した。多分これを機に回転ドアは急速にすたれていくと思われる。

<裁判所の判決> 先に東京地裁の一裁判官は訴えに応じて田中真紀子衆議院議員の長女の記事に関して発売直前の“週刊文春”に対して3月16日出版禁止の仮処分命令を出した。週刊文春側は“通知を受けたのが深夜で、直ちに出荷中止の指示を出したが、74万部は出荷済みで間に合わず未出荷分2万7000部のみ出荷・販売を中止した。販売店に対しては当社側から発売の可否について特段の指示はせず、個別の判断に任せる”旨言明した。ニュースを聞いた販売店側の対応も分かれてJ.R.のキオスクでは販売を中止したが、一般の書籍店などは概ね販売を実施した。
 この一連の措置に対してN.H.K.や諸新聞など大方のマスコミは言論の自由を脅かす不当な弾圧で、先に北方ジャーナル事件で最高裁の判例にあったようにこの種の出版差し止めは“内容が公益目的でないことが明白な”場合に限るべきだと一斉に反論した。文春の編集長は「裁判所が事前に記事を事実上『検閲』し、名誉棄損やプライバシーの保護等を理由に発売を禁止するようになると、今まで報じてきた独自の調査報道が今後、読者に提供できなくなるのではないか、と大きな不安に襲われた」とし、「証人も傍聴人もいない民事保全法の仮処分は、憲法上の議論や判断をともなう雑誌の販売差し止め等にはもともとなじまない制度ではないか」と疑問を呈している。文春側は直ちに地裁に抗告したが、3月19日に地裁は改めて文春側に対して「当該記事が名誉毀損とは別にプライバシーを侵害する」という理由で出版禁止の仮処分を妥当とする判決を出した。
 文春側はこの判決を受けて直ちに上告した。仮処分を巡る保全抗告審で3月31日東京高裁は発行元文芸春秋の保全抗告を認め、「記事が回復不能なほどプライバシーを侵害しているわけではない。」と差し止め命令を取り消す決定を下した。これに対して長女側は期限となる5日までに最高裁へ抗告せず、東京高裁の決定が確定した。またそれとは別に文春側を相手に損害賠償などを求める訴訟を起こすという。なお記事は長女の離婚に関する情報らしいが、いわゆるミーハーが喜ぶ内容のようで、私個人は興味を持たない。
 国内に多数の裁判所と多数の裁判官がいて、異なる時点で異なる司法上の判断を下すことを皆無にすることは無理かもしれないが、文春のケースは従来の判例からしても、また判決の結果に対するマスコミの反応にしても予め推測が困難ではないにも関わらず、二度にわたり十分に説得的でない司法上の決定をやってのけるとは、専門的にその責に任ずる立場として思慮が足りないと言わざるを得ない。
 日本の国内で一般に裁判に時間がかかり過ぎると難じられる原因に従来の判例調査があるだろうことは理解できるとして、その司法当局がかかる混乱を国民の前に曝すとは、突然の事態で時間が足りなかったという弁明では通るまい。この事例に限らず昨今司法の判断がむやみに揺れて、国民の裁判不信を招きかねない感を抱くことが少なくない。素人が口出しをして不遜とは思うが、難関と言われる司法試験はそのような不具合防止のためにあるのではないだろうか。矢鱈に法律上の詳しい知識を義務付けても、根本の常識判断を誤っては何にもならない。

 話は変わって小泉首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反すると主張し、九州・山口県などに住む戦没者遺族・宗教関係者など211人が小泉首相と国を相手に精神的苦痛を受けたとして慰謝料として一人10万円の損害賠償を求めた訴訟に対して、福岡地裁は4月7日「社会通念に従って客観的に判断すると、憲法で禁止されている宗教的活動に当たる」と述べ違憲判断を示した。その上で、「参拝により原告らが憤りなどを抱いたとしても、法的利益の侵害があったとは言えない」と述べ、請求は棄却した。小泉首相の靖国神社参拝をめぐっては、全国6地裁で違憲訴訟が起こされ、判決は大阪、松山地裁に次いで3件目。いずれも参拝が違憲かどうかの判断に踏み込まず、請求を棄却していた。
 判決は公用車を使用し“内閣総理大臣”と署名するなど参拝が公人として行なわれたことは明らかだとして、本人の“私人として参拝した”という弁明の根拠を否定した。なお小泉首相および政府側にとって判決は形の上では“勝訴”であるために上告はできないし、原告も“違憲”の判断を引き出したことに満足して上告をしない意向のために、この判決は確定した。小泉首相は「私は個人としての信条で参拝を行なってきたし、今後も参拝は続ける」と述べた上で、「伊勢神宮参拝は問題にならないのか」と納得できない態度を示した。
 この判決は周知の如く中国が靖国参拝を理由に事実上小泉首相の中国訪問を拒んでおり、従って中国首脳の訪日も実現できない現状があるだけに高度に政治的である。しかも首相の靖国参拝をあくまで日本国内の事情として中国・韓国など外部の口出しを諦めさせ自然消滅させようという日本有識者の思惑に正面から挑戦した。訴訟が表向き賠償要求であり、それ自体は不当なものとして退けているのだから、裁判官は前例の如く参拝の合憲・違憲の判断公表は避けることができたはずだ。日本独自の神道を他の宗教と同じように扱うことは望ましからざる迷路に国民ならびに近隣諸国まで巻き込むことを承知で、当該裁判官はこのような判決を下したのだろうか。しかも総理の言うように問題にするのであれば、伊勢神宮参拝も政教分離に反するのだから同様に扱うべきで、中国などが難ずるA級戦犯合祀の靖国だけが違憲とは言えないだろう。

 週刊文春問題にしろ靖国参拝問題にしろ、何か目立ちたがり屋さん裁判官の脱線行為のように感ずるのは私だけだろうか。三権分立の中で行政・立法に関してはマスコミはかまびすしいまでの批判・論評を躊躇しないが、この司法の領域については借りてきた猫のようにおとなしく口出しを控えているし、国民もそれが当然と思っている風がある。近く裁判に法律に素人の一般国民も参加する制度が発足するらしいが、そのようになるのなら尚更のことこの方面の議論を活発にすべきだろう。

<集団行動> 以前からそれとなく私も感じていたことだが、動物には集団行動の本能があり、いくつかの群が異なる状況において人間には欠落している能力を発揮して驚嘆するような実演を見せる。それは多くの場合彼らが定期的に大移動する際に顕著になる。
 逆X字形の編隊を組んで8000mを越すヒマラヤの山脈を越えていくツルの姿は感動的でさえある。大気は希薄でなおかつ寒冷、山を越す気流は時に早く変動している中でそれをうまく利用して、まさに命をかけて彼らの能力ギリギリのところで長距離の飛行を続けていく。激しい運動のために必要なエネルギの蓄積と体重の調整をあらかじめ集団で脱落者が出ぬように心を合わせて行なっておき、天候・気候・時刻を見計らってあるとき一斉に飛び立ち、上昇気流を利用してはるか高空へまで上昇していくのである。こんな知恵・能力は人間には全く欠けている。多くの鳥類が行なう逆X字編隊は気流を乱れないようにする上で有効だし、方向や経路変更をグループとして混乱なく行なう上でも仲間に頼って飛行中の心理的な不安を除く上でも有効に違いない。航空機の編隊飛行もまさに鳥の真似である。
 魚類はしばしば群れてその群全体が巨大なひとつの生き物の如く群を崩さず、一斉に俊敏に魚群の形と泳ぐ方向を変える。ニシンなど弱小な魚にとってはそのような生態が強い外敵から身を守るための有力な手段になる。群を作って泳ぐ方が単独で泳ぐよりエネルギがずっと少なくて済む。群の中の流体が群と一緒に動き、個々の魚にとって流体抵抗が激減するからだ。個々の魚が同一の意思をもって一斉に泳ぐ速度や方向を変えるように見えるのは、浮き袋の中に流体の振動を測る機能があり、それによって仲間の魚との間隔を一定に保つことができるのだという。それでも群れ全体がくねくねと動く巨大な魚に見える理由は分からない。
 アフリカ大陸南端喜望峰を巡る海でこの習性を発揮した鰯の大群が見つかった。年に一度なんと10kmの長さにも達し何億匹かというマイワシの2歳魚の群れが喜望峰を離れて東に向かう。冷たい海流が季節風に乗って東に向かい、これに乗ってプランクトンが移動するのを追っているのだという。かれら鰯は口を開けたまま海水ごとプランクトンを飲み込む能力をもっている。航空機から見下ろすと魚影が海の色を変えてこの大魚群の移動が確認できる。これを追ってマイルカ、オットセイ、カツオ鳥の追跡劇が始まる。オットセイは上空を見上げカツオ鳥の群れ飛ぶ方向を見定める。ようやく追いつかれて襲われるが、何しろ数の多いイワシが食べつくされることは決してない。300km移動の挙句プランクトンを堪能するほど食べたイワシの群の姿が突然消える。一説によれば深く潜って喜望峰に戻り産卵するのだという。
 アフリカでもバッファローの大移動が有名だ。途中の川を渡る時に要領の悪いのが溺死するが、後から続く大群はその死骸を乗り越えて猛進する。私は彼らの移動の理由を知らないが、もちろん彼らなりの食糧事情などがあるのだろう。集団で休まず全速力で走るのもそれが最もよい理由があるのに違いない。よく息が切れないものだ。我々人間には動物の事情についても知らぬことがあまりにも多い。

<チェルノブイリ> エレナというウクライナの女性がチェルノブイリ原発の廃墟をバイクで訪れた写真付きの旅行記サイトが公開された。同原発の爆発事故はソ連崩壊前の1986年に発生し、以後チェルノブイリの市街全体が無人化して廃墟と化しており、現在も居住禁止区域になっている。原子炉の形式はソ連独自の黒鉛減速軽水冷却沸騰水型で、所在は(旧ソ連)ウクライナ共和国。ソ連共産党の情報隠蔽体質が事故後の人的被害を著しく増加させることになったと言われている。
 エレナの父親は当時核物理学者として同原発に勤務しており、学生だった彼女と母親を電車に乗せて緊急避難したという。事故から18年経った現在、エレナはカワサキモータース製大型バイク「ニンジャ」に乗り、カメラとガイガーカウンターを携帯して、「ゴーストタウン」と化したチェルノブイリ周辺地域を旅している。サイトには、閉鎖された発電所を遠くに望み、無人の集合住宅が並ぶ街の風景、廃屋に残る焼けただれた家具や人形などの写真とともに、エッセイ風の旅行記がつづられている(エレナのサイト http://www.angelfire.com/extreme4/kiddofspeed/index.html)。
 事故についての彼女の説明は次のようなものだ。
 1986年4月25日金曜日の夕刻、チェルノブイリ4号原子炉の係員は電力供給ラインが遮断された場合にタービンがどれほど長く運転を続け動力を発生できるか(意味がよく理解できない)を翌日テストするための準備にかかった。これは危険な試験だが、それまでにも行なわれたことがあった。準備作業の一環として彼らは自動停止安全機構を含む非常制御システムの一部を作動しないようにした。4月26日午前1時僅か過ぎに冷却水量が低下し出力が上昇し始めた。午前1時23分、運転員は原子炉を低出力モードで停止操作を行なったが、それに先立つエラーのドミノ効果(具体的な意味不明)のために出力の急上昇が発生し、それが引き金となってすさまじい蒸気爆発が起こり核収納容器の1000トンのキャップを粉微塵に吹き飛ばした。211本の制御棒の一部が溶融し次にその原因について専門家の間でも意見が分かれている第2の爆発が起こって、燃え盛る放射性燃料芯の破片を吹き飛ばし大量の空気を誘引して数トンに及ぶ黒鉛絶縁ブロックに火を点けた。黒鉛が燃え始めると消火は困難で、鎮火には9日とヘリコプターから投下する5000トンに及ぶ砂、ホウ素、ドロマイト、粘土、鉛を必要とした。放射能は極めて強かったので作業に従事した勇敢な操縦士たちは全員死亡した。この黒鉛火災は大量の放射性物質を大気中に放散し、数千マイル離れたスエーデンでも大気の放射能が検知された。事故は一連の人の過失と技術の不完全さが原因とされる。ソ連司法の伝統に従って当局は当該原子炉の関係者全員を罪の有無に関わらず収監した。連鎖反応による炉心溶融という最悪事態を押しとどめるために最後の絶望的な努力を果たした男は14年の刑に処せられたが、3週後に死亡した。
 放射能はチェルノブイリ地域に48000年残ると言われるが、専門家は危険な物質は次第に大気や土壌や水に溶け込んで希釈されるから、楽観的に見れば300年、悲観的に見ても900年で居住可能になるだろうという。
 旅行記の中で彼女は言う。一体何人がこの事故で被曝死しただろうか。誰も知らない。概数でさえも。公式報告では300人から30万人の範囲に及んでおり、非公式の情報では40万人を超えるともされている。夥しい数の放置されたトラック類、ヘリコプター、舟艇の写真の後にはーこれらの物質的な損害はむしろ容易に把握できる。壊滅的な影響を地域経済に与えたーと記している。ヘリコプターは消火活動に参加したものだろう。放置された消防車の写真にはー消防車は車庫に戻らず、消防士は帰宅しなかった。消防士は通常の火災と考えて真っ先に現場に赴き、誰も彼らが扱おうとしたものの実態を教えなかった。この消防車は放射能被爆の最も激しいものとなっているーと説明している。
 現場からの距離に応じた様々な写真はサイトで閲覧できる。印象的なのは事故当時のソ連という政治体制の閉鎖性のために、真相が極めて限られた人にしか知られていなかったらしく、広報不足による犠牲者が想像を絶するほど多かったのは避難が遅れた近隣住民はもちろんだが、復旧作業に携わった軍人たち60万〜80万人もが被爆したこと、更に彼女の如き現地レポートがこれまでほとんどなされていないらしいことである。。
 技術者でない彼女の報告にこれ以上を求めるのは無理と思うが、事故の真相と反省点をもっと詳しく知っておく必要があると感じて別のサイトにチェルノブイリの情報を求めたところ、次のような記載があった。
1 この事故は1986年4月26日未明に「発電機が完全に停止するまでの間、発電機が慣性で回っている事を利用して非常電源としてどの程度利用できるかを確認する。」という実験の最中に起きました。低出力で実験を行った結果、発電機の回転数の減少にともない、原子力冷却用のポンプの回転数も落ち、原子力冷却水の量が減りました。冷却水の減少により冷却水の温度が上昇し、沸騰が進みました。そしてこの原子炉固有の特性および緊急炉心停止系の設計上の欠陥により核反応が急増し、原子炉の出力が暴走状態となりました。−なお減速材としての黒鉛と制御棒には運転員もよく知らされていない異常な設計がなされていた模様であるー
2 事故の後遺症として最も懸念されるのは空中高くまきあげられ広範に降り注いだ放射性ヨードが人体咽喉部リンパ腺に蓄積するために、小児甲状腺ガンの発生率が例えばベラルーシで40%、ウクライナで30%にも達していることであろう。

<反日の中国> 1989年4月25日、ケ小平は楊尚昆に向かって政治思想工作が中途半端だったと後悔の言葉を洩らしたと伝えられる。1987年日中関係の親密化を推進していた胡耀邦は総書記の座を追われた。その2年後ポーランド共産党は連帯運動を承認し、東欧共産圏に民主化の動きが芽生え始めた。丁度この時期に中国民主化の推進者だった胡耀邦は死去し、北京の大学内で始まった胡の追悼集会はデモ隊の天安門広場集結へと発展する。1989年6月4日の未明、天安門広場で,民主化を要求してすわりこみをつづけていた学生と市民を人民解放軍の戦車・装甲車が実力で排除した。人民解放軍は学生と市民に対して無差別に発砲し、多数の死傷者をだす悲劇となった。事件後民主化を要求する運動は反革命暴動とされ、中国政府による徹底的なひきしめが行われた。
 毛沢東は共産党による全国制覇をなしとげた後、共産党に君臨して世界に類例のない社会を中国に実現しようとして、後から考えれば決して思慮深いとは言えず有害無益な数々の独創的な政策を大々的に実施して国民を大いに苦しめた。後継者たちは反面教師として彼に学びながらも、後に記すように彼のやりかたを全面的に廃棄したわけではなかった。
 1958年9月5日毛は「我々の隊列の外にはなお“地主、富農、反革命分子、右派分子”がおり、これはすべて対立面である」と演説して、全くたたきのめされていた元地主たちに追い討ちをかけ、目に見える少数の敵を作ることで大多数のほかの者たちを団結させるやりかたを保持した。

 毛沢東の没後2年でケ小平が完全に権力を握ると、文革中に迫害された党幹部の名誉回復が行なわれ、更に反革命分子・右派分子と断罪された人々の名誉は回復された。文革の中で階級闘争の荒唐無稽さと恐ろしさを実感した新幹部たちは階級闘争を綺麗さっぱりと捨ててしまった。ケ小平は“改革・開放”のスローガンを掲げ、実質的に私営経済を認めて地方党書記や親族が土地の所有権を得て私腹を肥やすのに目をつぶり、その代替にマルクス・レーニン主義と毛沢東思想とを捨てさせて、中央委員の大多数を心服させてしまった。
 しかしこれを資本主義の復活・党の堕落と非難する党長老などによってケのお先棒をかついだ胡耀邦は失脚させられ、ケはなお迷う国民を抑え込むために“階級苦”に代えて“民族苦”を使うことを考えた。愛国主義教育が始まり、高校生・大学生はアヘン戦争以来の列強諸国に侵食された中国近代史を教え込まれるようになった。だがこれが中途半端だったというこの項の冒頭のケの述懐になったと解説するのが「反日で生きのびる中国」(鳥居民著・草思社)である。本項はこの本から引用している。
 天安門事件の後、党の幹部たちは私有化、分権化、西洋化は危険で“改革・開放”にブレーキをかけろと言い始めた。中国の知識人は“蘇東波”と口にし、蘇はソ連、東は東欧で宋代の詩人蘇東坡の名を借りてソ連と東欧から民主化の大波がやってくるぞと騒いだ。総書記になっていた江沢民も動揺した。この時期(1992年1月)に88歳のケ小平は請われて広州、深?、珠海を見て回った。彼は生産急上昇の気運に喜び、“改革・開放”を一層進めよと説いて「纏足をした女のように」*ヨチヨチしてはならないと口にした。この言葉*は嘗て毛沢東が農業集団化に抵抗する人々を叱責して言ったものだったので、幹部たちは古い記憶を蘇らせてビクッとしたはずである。彼の行く先々での発言は“南巡講話”にまとめられた。これは中国の高度成長に火をつけることになり、右顧左眄していた江沢民を立ち直らせた。

 江沢民はもはや階級闘争には頼らず、愛国主義を軸に国民を団結させることを中国共産党の基本路線とした。1994年8月に定められた“愛国主義教育実施要綱”の実態は“日本憎悪教育実施要綱”だった。幼稚園から大学までの授業で愛国主義を徹底して貫かなければならないとし、盧溝橋近くの“中国人民抗日戦争記念館”や南京の“南京虐殺記念館”などを“愛国主義教育基地”としてその積極的な利用を求めている。これはまさしく“目に見える敵を身近におく”という毛沢東の闘争方式の再現であった。
 愛国主義の内容を際立たせるべく新たに設けられた記念日は77、815、93、915である。77は盧溝橋事件の日で抗日戦争記念日、93はミズーリ号で日本が降伏文書に署名した翌日で抗日戦争勝利記念日、915は満州事変勃発日。アヘン戦争の後理不尽な戦いの費用を英国に賠償させられた話に始まって、日本はただの一度も謝罪したこともなければ、びた一文賠償金を払おうとしない。ところが甲午戦争(日清戦争)の後には多額の賠償金をせしめたのだと説いて小学生から大人まで憤激させる。当然の権利である筈の戦後賠償に比べれば無償援助や円借款ははるかに不十分だということになる。
 先の著書はこのような事実を日本外務省はもちろんマスコミも熟知していても日本国内に広報していないと指摘し、従って大部分の日本人がこの教育の結果若い中国人が日本に対して抱いている強い敵意に気が付いていないことは重大だと述べている。江沢民は“民族苦”を思い起こさせ、共産党こそが国民を救ったのだと教え込む、戦争にも似た日本を憎む大運動を展開した。彼はこれが共産党による支配を続けながら資本主義に移行する唯一の道と考えた。彼はこの方法で落ちようとする党の威信を確保し、彼の言う“小康状態”を得たとしてこのほど13年の統治から引退した。

 江沢民の後を継いだ胡錦濤はこの問題をやや異なる立場から扱おうとしているようにも見える。何といっても日中間の経済的な結びつきは従来になく強くなっている。しかし膨大な人口を抱える中国の未来は日本以上に多難である。急速な都市化の歪みはこの国の独自の政治体制を脅かすだろう。国民感情をどう操っていくのか、中国政府の今後の姿勢はまだよく見えない。
 この項で取り上げた江沢民の政策は我々日本人にとってはまことに不愉快なものである。我々日本人に全く責任がないとは言わないが、話を針小棒大に誇張し故意に憎悪感情を煽る教育を執念深く行なった。田中角栄が訪中した日中国交回復に際して周恩来が日本に賠償を要求しないと言明し、当時の日本人は中国の度量の大きさに感銘したものだ。そのように決着済みなのであからさまには言わないが、彼には大いに不満だったのだろう。O.D.A.を止めるとはとんでもないと叱られるのもこの辺から来ている。自国の政治体制安泰のためとはいえ、脛に瑕持つ隣国をいつまでもチクチクいじめて利用するのは狡猾不遜である。引退したとは言え、まだ多分に影響力を残していて、小泉首相の靖国参拝は彼にとって思う壺なのだろう。小泉も前記の事情を知らぬはずはないが、こうなれば意地の張り合いだ。何しろ先方には中国共産党の浮沈がかかっている。お互いに時間をかけて頭を冷やすしかないのだろうか。

<秋田県> 4月25日の衛星放送は“おおい日本、今日はトコトン秋田県”として、日本全国を巡る2巡目の企画をスタートした。折から桜前線が到来して角館武家屋敷の枝垂桜など花見の季節になったが、当日は生憎の寒さで番組出演者たちは気の毒にも震えていた。本来は8月に行なう竿灯祭りを実施するとのことで、県内主要な市町村(村はなかったか)を文字と特徴を表わす絵で飾る提灯作りの合間に紹介する企画でスタートした。
 横手のカマクラ、男鹿のナマハゲ、仁賀保の風車などは私製絵葉書作成を通じて多少知っていたが、秋田内陸縦貫鉄道の存在については全く知らなかった。北端は奥羽本線に繋がる鷹巣からJR田沢湖線に接続する南端の角館までの94km(単線)を第3セクター方式で運営している通称“内陸線”で、長らく中間の急峻な山岳地帯(松葉―比立内間)が未着工だったが平成元年4月に全線開通した。掘りごたつや畳をフレキシブルに設置できる“お座敷車両”というのもあり、人口の少ない田や山中を走る鉄道の経営の困難さを何とか克服しようとしている。都市も目ぼしい産業もない地域で、日本列島横断ならとにかく長い列島の長手方向に海岸線を離れた山中を局部的に走る鉄道にその意義を見出すのは易しくはないが、秋田県民がこぞってこの鉄道の存続のために何か役立ちたいと思っているようだ(左上は沿線風景)。
 番組では座敷電車に昔話をする女性が乗り込んで、輪になって座るこどもたちに語り聞かせていた。昔からなじんでいると錯覚する語調だったが、話は何も聞き取れなかった。あれが秋田弁なのだろう。分かりにくいと聞いてはいたが予想以上だった。しかしまぎれもない日本語だ。窓の白いカーテンを通して風景が流れていた。
 “どじょっこふなっこ”など少なからぬ童謡がこの土地に発祥しているし、民謡を歌い継ぐ若い人たちの純真な表情に都会では決して見られなくなった伝統的な日本を改めて発見したような気がして、秋田にこそ古きよき日本がまだ残っていると嬉しくなる。この企画のために現地を訪れたレポーターたちも勘定抜きで訪問者を歓迎しようとする土地の人たちの真情に感動して声を詰まらせていた。雨天になって折角用意した竿灯は当日活躍の機がなかったが、秋田市の花火は雨空を美しく新工夫の模様で飾っていた。


 


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