
<ハローワーク> 今の世の中は昔のように漫然と有名な大学を出さえすればよいという時代ではない、一つの会社に入れば定年まで勤めることが期待できる時代でもない、何をやればよいか分からなくて取敢えずフリーターになる若者が増えている。最近刊行された“13歳のハローワーク”(村上 龍 幻冬社)はそんな子供たちに将来何をやればよいかを考えるヒントを与える資料を提供していると言う。
文芸春秋5月号でその村上 龍が「22歳のフリーター諸君へ」という題でまた一文を載せている。副題はー「何がやりたいか」を他人は教えてくれないー で、いい会社へ入ればよしという時代は終わったとハッキリ言い切り、社会に出る前に自分がやりたい仕事を見つけた人の方が人生を有利に生きるという意見を述べている。好奇心の先に”仕事”があるというふうにもっていくべきと村上は言い、「自分は何をしていいか分からない、何をしたらいいのでしょう」と訊く22歳の若者には答えようがないとも述べている。
その“13歳のハローワーク”を入手してみた。全体を通して著者の言いたいことは自分の好きなことに繋がる職業を選ぶのがよいというのだが、本をめくってみるとこれが素直に受け入れられるごく一部の方面と、とてもそうは思えないずっと多くの方面があることが分かった。例えば“算数・数学が好き”な子は金融業界で働くのがよいと書いているが、これはどうにもピンとこない。この業界の実務が算数・数学と結び付くと考える人が何%いるだろう。一方で“旅行が好き”だからツア・コンダクターなんて書いているがこれも違うだろう。個人旅行では自由行動によって自分の好奇心の満足を果たせるが、ツア・コンダクターは引率する人たちの安全責任を果たすためにそれらの大部分を犠牲にしなければならない。
自分の趣味が世間で歓迎され受け入れられる職業に直結するケースは滅多にない。“音楽が好き”だから音楽大学を出て管弦楽員になるというだけではまともに食っていけないだろう。毎日演奏会を開いても聴衆は集まらない。囲碁や将棋の棋士でトーナメント・プロとして生活ができるのは日本全国でせいぜい各50人程度と思われる。“虫が好き”だから養蚕家や養蜂家なんて書いているが、それなりの地盤と大変な苦労なしに生活できないし、そうなると当初の“虫が好き”なんていう呑気な話とは次元が違ってしまう。子供のころに農村で桑の葉を集める養蚕業の苦労を見聞きしているから余計にそう思う。
人間というのはそう単純なものではない。複眼思考ということが言われるが、そう難しい話ではなく職業と自由時間とでは好みを変えたいという欲望は自然発生的で無理からぬことと思う。著書自体の中の“エッセイ”の欄に坂本龍一を取り上げていて、彼が日常生活の中でほとんど音楽の話をしないし、音楽の話はうんざりだと何度も言っているのを聞いたと書いているではないか。
逆の言い方をすればある職業を選んだ後でどのように振舞えば世間にうまく受け入れられ、成功するかをジックリ考えて自分なりの工夫ができた時にはじめて天職といえる一生の仕事にありついたと言えるのだろう。それは自分の趣味などとは切り離して考えるべきものだ。作家である著者には自分以外の職業についての想像力の乏しい面が感じられる。例えば人が共同作業によって個人単独ではなし得ない成果をまとめることの喜び、人と人の関わりにおける苦労が曲折を経てまとまっていく満足感のようなものには触れられていない。
長年月をフリーターに甘んじがちになる若い人を何とか目覚めさせようとする著者の使命感はよく理解できるが、安易に自分の好きなことの先に一生の職業を見出そうとするのでは概ねうまくいかない。寧ろ多くの職業の中から自分なりの新工夫が発揮できそうな分野を見定めて、そこへ到達するための個人的な段取りを工夫するのが大事ではないか。このハローワークも世間のニーズの多い分野を中心に、そういう職業の特徴とそこに求められる工夫を詳しく説明する本に昇華する必要があると思う。私見を付け加えれば、その中で村上氏が避けているように見える製造業という分野もやり甲斐があり、まだまだ捨てたものではないはずだ。

<会社・過去と将来> 前項の職業選択にからめて、これから“会社”というものが社会の中でどういう地位を占めていくかというのは当然ながら重要なテーマである。村上氏が言うように「いい会社に入ればもう安心という時代は終わりました」という言葉に真髄の一端が覗けるものの、21世紀に入って会社の意義は下落したとは言えないのではないか。そういう疑問に答える本として“会社はこれからどうなるか”(岩井克人著・平凡社)を紹介する。この本には糸井重里が「中学生でもわかること。おたくの社長の知らないこと」と書いた帯が付いていた。
著者の主張を要約すると、嘗てチャーリー・チャップリンが風刺の対象にした機械設備を購入して流れ作業によって生産する産業資本主義は農村からの労働予備軍が枯渇し労働生産性と実質賃金率の差異がなくなった今、グローバル化・IT革命・金融革命の波を受けて存在意義を失った。新興中国でさえこれは時間の問題になっている。
先進諸国では産業資本主義がポスト産業資本主義へ転換していく中で、グローバル化・IT革命・金融革命は今や大きな歴史の流れの中の三つの側面に過ぎず、おカネの重要性が失われていくことに着目すべきという。この社会ではおカネで買えるモノよりおカネでは買えないヒトの中の知識や能力の方がはるかに高い価値をもつようになり、会社に対するおカネ(資本金)の究極的な提供者としての株主の地位が低下していく。
ポスト産業資本主義では利潤は差異性からしか生まれない。その差異性は常に新しさを要求する。情報化された社会の中でひとつの会社が継続的に利潤を生み出していくためには、オープン・アーキテクト化されることのない独自の差異性を確保していくことが必要になる。このようなほかの会社が容易に模倣できないような独自の差異性を創造し維持し拡大していく能力を“コア・コンピータンス”と呼ぶ。このコア・コンピータンスは個別の技術や製品ではなく、差異性のあるそれを継続的に生み出せる固有の人的な資産である。企業にとって重要なことは企業文化をできるかぎり個性的なものにして、組織特殊的な人材を機密情報もろともに囲い込むことである。
そのために企業に対する貢献度に応じて、組織の中における地位が高まり、企業内部の情報の中核的な部分まで共有できる権限を持つ仕組みが築かれる。そうした従業員は別の企業に移籍したり独立して企業を起こすよりは、これまで働いてきた企業が生み出す利潤の分け前にあずかる方が有利になり、企業内部の情報を持ち出すインセンテイブを低めることになる。逆の言い方をすればそういう囲い込みがうまくできなかった企業は一時的な繁栄の後で他社との差別化を持続できず、急速な没落の憂き目に会うだろう。
このコア・コンピータンスは言うべくして実現には困難も多い。企業にとって如何にやる気を起こさせる人間組織をデザインするかがその命運を決する。金銭的な報酬制度として長勤続年数を有利にする企業年金・退職金制度・従業員株主制度・株式オプション制度なども重要である。目下国会で騒がれている年金の一本化もこういう企業の思惑がからむから簡単には捌けない。また才能の豊かな社員ばかりではないから、従業員全体をどう処遇するかは簡単ではない。
著者も認めているが、ポスト産業資本主義の時代には企業にとって差異性の保持は従来よりは難しくなるから、平均的な会社の寿命は短くなるだろう。個々の従業員は企業自体の将来性と企業内での自分の地位を睨み合わせて、従来よりは将来の転進に有利な姿勢を取る場合が増えるだろうが、会社制度そのものが急激に衰退することは考えられない。但し経営者が前述のコア・コンピータンスの育成をどれほど強く追及するかは企業格差を生む決定的な要因になるだろうことを知った。今後はN.P.O.の役割も増えるだろうし、株主への配当などはあまり重視されない時代になるらしい。
<履き物> 忘れかけていた自分の履き物の変遷と関連する環境について思い返してみる。自分の生きてきた時代の変遷の影響もその中には否応なしに含まれている。但し日常生活で特に意識せずにやってきたことなので、記憶が細部に至るまで正確とは言いがたい。以下の記述にも思い込みによる誤りがないとは保障できない。
小学4年までは都会で暮らし通学は運動靴(いわゆるズック)を履いていた。冬の寒い時期には足のしもやけで悩んだ覚えがある。家では下駄を履いていた。竹馬にも乗った。最近テレビの番組でタレントが靴を履いて竹馬に乗ることを競うが、巧くいかぬ人が多かった。竹馬というのは本来ハダシで親指と人差し指の間に竹を差し込んでしっかり掴まないと滑りやすくうまくいかないだろう。この頃は下駄を履く機会も減っているから、足指の機能が落ちている人が多いかもしれない。
小学5年から疎開で農村暮らしになり、革命的に生活環境が変わった。通学も家でも履き物は藁(わら)ぞうりだった。農作業は水田や畑地に入るが、ずぶぬれになったり泥まみれなっても洗って乾かせば元通りになる。使い古して鼻緒が切れれば、田に戻せば原材料は藁だから自然に土に帰る。現代都会とは異なり、当時の農村では完全なリサイクルが実行されていた。はだしと似ているが、稲の切り株に乗っても痛くない。でも足の裏の皮膚は強靭になり、しもやけもふっとんだ。稲稈(いねわら)を木槌で叩き縄を綯いぞうりを製作する工程を農夫の伯父の傍で見ていたが、自分でやるまでには至らなかった。私の近所の小学生は皆雨の日もわらぞうりだった。雪の日は困った筈だが、藁沓を履いた覚えはない。但し近くに日清紡の工場があって、そこから通ってくる子供たちは運動靴だった。我々は彼らを“レーヨンの子”と呼んでかすかに侮蔑の感情を抱いていた。
近くの小都会にある岡崎中学(旧制)への入試に合格し電車で通学するようになって、農村に住んでいながら小学時代の友人とも農村の生活とも実質的に訣別してしまった。敗戦の翌年の入学で戦災を受けた校舎はまばらに教室が残っていて、授業が終わるたびに防火壁ごとにブツンと切れた廊下から地表に飛び降りて次の教室に移動した。併設中学から高校卒業までの6年間を同じ校舎に通ったが次第に教室が増築されていった。
入学直後からだったかどうかは定かでないが、朴歯の高下駄を履いた。旧制高校のバンカラの気風を真似たと思うが、正直に言えば物不足で革靴など入手できなかった。遠足もそのまま高下駄で行った。体操の時間はハダシだったと思う。朴の歯は地面との接面が磨耗してくるが、下駄の台の切り欠きに嵌め込む構造で取替えが利いた。一枚歯でもよいような気がするが、二枚歯だった。高下駄や朴の歯は下駄屋で入手したはずだが、その辺の記憶はない。鼻緒の色は白だった。必要があれば構わず全速で走った。他の履き物との選択で悩んだ記憶はない。要するに男子学生は皆高下駄だった。併設中学からは共学になったが、女子が何を履いていたかはろくに見ていなかったので憶えがない。多分運動靴だったのだろう。
大学へ入ると流石に革靴を手に入れた。然し前期の教養学部の時代は大学構内の学生寮に住んでいて、教室と寮との往復は専らゴム草履だった。雨の日も長靴を履いたことはなかった。通学の学生とは異なり、角帽はほとんどかぶったことがなく、革靴も構外への外出時に限っていた。後期の本郷へ行ってからは少し離れた学生寮へ入り、革靴で通学するようになった。近所の銭湯へ行くときは下駄だった。大学入学以後は高下駄を履いたことはない。
会社へ入ってからはほとんど革靴で通したし、下駄を履く機会もほとんどなかった。独身時代夏はほとんど隔週キャラバン・シューズを履いて登山をした。当時は登り以外は走るのだという過激な登山が流行った。自分でもそれを試みるぐらい健脚だったと思う。今から考えれば安手な靴だったが、沢登りなどをしても耐久性は十分にあった。米国駐在の時期ポンプ場建設現場に通うときは編み上げ靴を履いた。
ここまでが五体満足な時の履歴で、後半生は身体障害者の人生になってしまったが、頚椎腫瘍の後遺症で特に左足に麻痺が残り左足先が上がらなくなって躓く恐れがあったので、革靴の先端にフックを付けてバンドで膝下から吊り上げるようにした。退職後はリハビリテーション・センターで誂えの編み上げ靴を作ってもらい、上記のフックなしでも足先が垂れぬようにした。目下外出は専らこの靴に依っている。なお後遺症による筋肉の硬直対策として、杖は3点支持を継続して体重移動の際のバランス保持するために欠かすことができない。
<年金未納騒ぎ> 日本で政府閣僚や国会議員などの政治家が国民年金納付を怠ったことが連日政治問題化していることは、西欧はもちろん近隣の中国・韓国の人々にとって甚だ理解困難なことに違いない。混乱の真因が分かりやすく説明されないからで、私にも問題の実情がよく分からない。この混乱は年金財政の矛盾を解決するために年金制度改正法案が国会に上程され、それに関連した政府の年金コマーシャルに登用された女優江角マキコさん自身に国民年金未納があったことが発覚して始まった。
菅民主党首が彼女を国会委員会に召集すると騒ぎ始め、次いで3閣僚に年金未納時期があったことが発覚すると“年金未納三兄弟”と揶揄して責任を取って退任しろと言っているうちに、菅氏自身の未納問題が発覚した。彼は記者会見で「自分には何もやましいことはない、行政側の不手際だろう」などと抵抗したが、弱みの生じた菅党首と“三党合意”を取り付け年金法案の衆議院通過に道筋を付けた福田官房長官は法案の提出責任者として混乱を招いた自身の未納問題の責任を取ると言って、首相の慰留にも関わらずさっさと辞任してしまった。
このままでは来る参院選挙を戦えないという民主党内部の声が大きくなった。テレビは何度となく菅氏の発覚前と発覚後の明暗の表情を放映した。公明党の神崎代表は「ひとのことを言うのなら自分のことを確かめてからにすべきだった」と言明した。再三辞める気はないと抵抗した菅氏だが、政争の具が自らにはね返り拡大するばかりの党内の不支持の声に引きずりおろされる結果を招いた。
そうこうする内に目ぼしい政治家の大半が国民年金に未納時期があったことが次々に明らかになった。鳩山前民主党首、橋本、羽田元総理、土井社民党首、そしてひとのことを言った神崎公明党代表と冬柴同党幹事長。閣僚は7人。この度は遂に小泉首相(昭和61年以前の任意加入の時期)と二人の厚生労働副大臣。また石原都知事はじめ17人と伝えられる県知事と何人もの著名な市長。小泉首相は制度が分かりにくいと未納者をかばい、閣僚の続く辞任を抑止した。テレビ朝日の新設“情報ステーション”(古舘伊知郎)は国会議員未納者名簿を作っているが140人を超えた。自己申告だから一度に分からず日時とともに次第に増えてくるのは妙な具合だ。
菅氏にしろ神崎氏にしろ、発言した時点では他人はとにかく自分には絶対に未納問題はないと固く信じていたらしい。今となれば事前に社会保険庁に確認すべきだったが、よほど誤解されやすい制度に違いない。社会保険庁側もこれだけ騒がれているのに、本人宛の通知システムとか分かりやすいガイダンスを出すとか少しは工夫があってしかるべきだ。役所の頭の固さが冒頭に記したように一体日本はどうなっているのだと世界を疑わせる事態を招いた。小泉首相はこの際国民年金を軽視させる原因になっている議員年金は廃止すべきと言明したが、ほぼ全議員の無言の抵抗にあって提案は竜頭蛇尾に終わったようだ。
騒ぎの真因を理解する一助にしようとインターネットを探してみた。簡明な状況解説は見つからず、1959年に作成された“国民年金法”が出てきた。長文で要点把握が楽ではないが、私の捉えたポイントは以下の通り。納付期間は20歳以上60歳未満で保険料は11700円/月。老齢年金の受給は65歳からで78万円。但し納付金と受給額は物価指数に応じて改定される。納付期間が480月未満ではそれに比例して減額され、25年未満では支給されない。納付について前納が認められ、滞納については督促状を発行し、滞納処分は国税に準じ延滞金14.6%/年。なお被保険者の資格には1号から3号まであり、2号は政府、国家公務員、地方公務員、農漁業、私立学校の各共済組合加入者、3号は2号保険者の配偶者で別収入のない者、1号は2、3号に該当しない者となっている。
次いで“国民年金ガイダンス”が見つかった。1号被保険者というのは国民年金だけの受給者で、学生・農漁業・フリーター・無職の人。納付額は13300円/月(平成15年度)。老齢基礎年金は797000円。2号被保険者というのは厚生年金保険・共済組合に加入している会社員・公務員など。保険料は国民年金分と合わせて給料から天引きされる。3号被保険者というのは扶養されている妻または夫。届出を要するのは20歳になった時、就職・退職した時、被保険者の配偶者になった時である。この制度は昭和61年新法として施行されたもので、2号被保険者に対して従来は任意だった国民保険が強制加入になった。支給は国民年金が65歳から、また厚生年金は60歳から。
よく納得できないのは納付が25年未満では全く給付がなされない(納入丸損)点と、いつの間にか法律が変わってしまっているらしく、法律(国民年金法)に記されていた滞納への督促や延滞金の徴収が現実にはなされていないことと、未納時期があっても後から延滞金を払って未納分を納入することはできないようになっていることだ。未納を本人が知らないのは通知もないからだ。サラリーマンと違って自由業の人(国会議員・閣僚などを含む)は天引きされないので役所に赴いて納入手続きを取る必要がある。強制加入といいながら納入しない者への警告や罰則はない。その点で税金納入とは差がある。無収入の学生にまで対象を拡げたために、税金徴収のように強制できず当局(社会保険庁)が腰砕けになってしまったらしい。この辺が政治家たちの未納の遠因になっている。
もうひとつは国民年金だけで給付金が年80万では都会ではろくに食っていけない。そんな小額の上に納付額だけ給付される保証がないとあっては、自由業やフリーターが昨今ろくに加入しないのも尤もだ。今回国会に上程されている法案では少子高齢化対策として経年的に現状より更に納付金額が増え、給付金額が減るようだ。1号、2号、3号と分かれている年金制度一元化の構想があるというが、従来の経緯をふまえ多くの人々の異なる思惑があって実現は容易でないと思われる。今回の法案の内容が国民の大勢を納得させるものでないだけに、今回の一連の事件は年金がらみの政治不信を増大した。永続的に有効に機能すベき制度だが、先に<<経済問題>>欄で指摘したように当局が社会情勢の変化への適正なフォローを怠ったツケが来ている。未納騒ぎはその余波に過ぎない。今まであまり関心のなかった年金問題について、この際私も不十分ながら勉強させてもらったが、まだ記述の一部に不正確な点があるかもしれないことをお断りする。

<片岡球子> 日本にこんな個性的な女流画家がいることを教育テレビの紹介でこのほどはじめて知った。経歴は以下の通り。
1905年 札幌市に生まれる。
1923年 北海道庁立札幌高等女学校師範科卒。日本画家を志す。
1926年 女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科卒。
横浜市立大岡尋常小学校教論になる。
1930年 第17回日本美術院展に「枇杷」が初入選する。
1952年 第37回院展で「美術部にて」が日本美術院賞、大観賞を受賞する。
院展同人に推挙される。
1955年 大岡小学校を退職する。女子美術大学講師になる。その後、助教授をへて教授となる。
1961年 「渇仰」が昭和35年度文部省買上げ作品となる。
第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞する。日本美術院評議員に推される。
1966年 愛知県立芸術大学が開発し、日本画科の主任教授に迎えられる。
第51回院展に「面構 足利尊氏、義満、義政」を出品する。「面構」シリーズを始める。
1972年 個展「富嶽三十六景」がパリで開催され、1ヶ月ほどパリに滞在する。
1976年 勲三等端宝章を受章する。
1982年 日本芸術院会員となる。
1986年 文化功労者に叙せられる。
1989年 文化勲章を受章する。
2002年 画行70年片岡球子展が日本橋三越とパリで開催される。


<切り通し> 鎌倉周辺の散策を語る場合に“切り通し”に触れないわけにはいかない。源頼朝は防衛上の配慮から幕府を鎌倉の地に設営した。鎌倉は海に面している他は三方を険阻な山に囲まれていて、海岸線にまで山が迫っているので天然の要害であって外敵の侵入は容易でない。それはこの地に居をふまえた人々にも外部との交通の上で不都合だったために、幕府は山を開削して外部との最小限の交通路を整備した。それは七つの切り通しで鎌倉七口とよばれた。極楽寺・大仏坂・化粧(けはい)坂・亀ヶ谷坂・巨福呂(小袋)坂・朝比奈・名越の各切通しで、ほかに鎌倉内部の連絡路として釈迦堂切通しがある。今では亀ヶ谷切通しは横須賀線(これは山塊をトンネルで抜けている)に沿って北鎌倉から鎌倉へ入る舗装道路になっているし、朝比奈切通しには鎌倉と横横高速道路を繋ぐ舗装道路が平行に設けられている。七里ヶ浜から鎌倉へ入る海岸沿いの自動車道路は海へ突き出た稲村ケ崎の山塊を開削してしまった。
最近はマウンテン・バイクが流行るのでそれで切通しを通過しようと考える不心得者もいるようだが、極めて狭い山道なので歩行者の顰蹙を買うこと必定である。今でも鎌倉の街から周辺の山にハイキングに出かけるにはこれらの道を利用することが多い。昔の人がふるった鑿の跡が切り開いた岩肌に残っているという。樹木の覆いかぶさって狭い坂道や苔に覆われた石畳などには歴史を語るそれぞれの風情がある。釈迦堂切通しは狭い未整型のトンネルになっている。
後醍醐天皇の討幕運動に参じた新田義貞は1333年5月2万騎を率いて攻撃を開始した。義貞は兵を三手に分けて切通しから攻め込もうとしたが、各所で幕府軍の反撃は激しく化粧坂と極楽寺坂の戦いでは新田軍に多くの犠牲者が出たし、19日から22日まで巨福呂坂の戦いでの両軍の激突は物凄く烈しい攻防戦が展開されたのであった。遂に義貞は切通しからの侵入を断念し、21日夜半から干潮時に稲村ケ崎の岸壁を迂回し海伝いで鎌倉に突入した。激しい戦いの後北条幕府軍は東勝寺に追い込まれ、ここに立て篭もった北条高時以下一族郎党870名余りは寺に火をかけ自害して最後を遂げた。ここに150年にわたる鎌倉幕府は滅亡した。
壇ノ浦の源平戦といい、この時代の武士団の戦いには降伏という終結は考えられなかったらしい。東勝寺はその後まもなく再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となったが、戦国時代に廃絶した。裏手に山肌をくり抜いた高時の腹切りやぐらと裏山に自害した一族の墓がある。地下の幽魂は今も標榜と樹の陰に漂うと人は言う。切通しの付近の山地からは時たま人骨が出るそうである。戦いに勝った新田義貞は後醍醐天皇に抗した足利高氏を討たんとして敗れ、北陸へ走って越前藤島で高氏軍と戦い無残に戦死し、高氏は名を尊氏と改め足利幕府を建てるが、その尊氏も政治が意に反して鎌倉へ戻ってきてしまい、やがて南北朝の騒乱が始まる。人の盛衰は儚い。頼朝以後数多くの人の命が非業に奪われ、その回向もあって鎌倉には続々と寺が建つ。
<猛暑の予感>
雨または曇りという気象予報に反して5月30日は雲のない快晴で蒸し暑く、昼前には気温が30degを超えた。最近の気象予報は外れが多く、しばしば事後に聞き苦しい弁明を繰り返す。後で弁明するぐらいなら確信的な表現を引っ込めて、もっと謙虚に予想の幅を拡げるのがよいのだ。コンピュータ予測に頼り過ぎて、人の生(なま)の判断の介入を許さないシステムになっているのではないか。そのコンピュータのアルゴリズムが相当に不正確・独断的なのだ。前にも述べたが、こういい加減では中期予報、長期予報などは止めた方がいい。
それにしても5月のこの暑さには参った。遂に昼間だけだが冷房のスイッチを入れてしまった。多分この時期としては記録的な暑さだろう。米国、ロシアはもちろん、日本も地球温暖化対策の京都議定書を守ることは絶望的になったようだ。まだその期限には間があるが、私の勘ではこの夏は記録的な猛暑になる気がする。気象庁と違ってコンピュータ予測などできないから、あくまでこの5月の暑さをくぐった者のヤマ勘である。