6月の話題


2004年6月

 

<国語教科書>
“サイタ サイタ サクラガサイタ”
“コイ コイ シロコイ“
“ススメ ススメ ヘイタイススメ”
 これは私が小学1年生に入学した時の国語の教科書1〜3ページの記述である。紙面には文章に対応するカラーの絵が併せて載っていた。当時幼稚園というのはまだ一般的ではなく、家から初めて集団教育を受ける“学校”という所に出向いて真っ先に出会ったのがこれだから強い印象を受けたのは間違いなく、現に70歳のオイボレになってもハッキリと憶えている。因みに" シロ" というのは犬の名である。1年生はカタカナだけを習って、2年生になるとひらがなを教わるという仕組みだった。
 翌年(1941年)になると戦時色が濃くなり学制が変わって小学校が国民学校になった。国語の教科書も改訂になって第1ページは “アカイ アカイ アサヒガアカイ”になった。第2ページ以降は当事者でないこともあって憶えていない。これはいつまで続いたのだろうか。
 戦後も60年代後半、前衛美術運動をやっていた赤瀬川原平(芥川賞作家 尾辻克彦)が“アサヒジャーナル”の“桜画報”というイラストページに “サイタ サイタ サクラガサイタ アカイ アカイ アサヒハアカイ”とやって朝日新聞の激怒を買い、即座に連載を打ち切られたという。以後赤瀬川は朝日新聞に載ってはならぬ文化人の一人となった。朝日の偏向は有名だが、ここで私が言いたいのは年代の異なる二つの記述をどうも赤瀬川氏はゴッチャにしているらしいことである。個人的な好みを言えば国語教科書の冒頭の記述としては“アサヒ”より“サクラ”の方がよい。当時教科書の記載内容が変わったのは大東亜共栄圏とやらで、国語普及地域を日本本土以外の桜の花の見られない地域まで拡げようという不遜な構想をもったためらしい。日章旗はもちろんだが、聖徳太子の“日いずる国”にも影響されたのだろう。
 ところで今朝のテレビの俳句の時間で挙げていたのが
あさおきてクシャミをひとつあきになる
 驚くことにこれがなんと小学校1年男子の作品だった。ひらがなとかたかなを使い分けている!冒頭の教科書の境地とは格段の差を感じる。現代のこどもは我々の時代よりも早熟なのだろうか。今の国語の教科書はどうなっているのだろう。でも昨今“ゆとり教育”とか、「まだ学校で習っていない」などと言うが、そんなことは重要ではない。知りたければ自分で進んで学べばいい。

<足利尊氏> これを書くまで私自身の日本史に対する認識は室町幕府の辺りだけポッカリ穴があいたようになっていた。小学校と高校で教師が熱心に教えてくれなかったこととも関係があるらしい。それをたまたま5月の話題の<切り通し>を書く中で気が付いた。何故自分の意を受けて活躍した新田義貞を討ち取ったのか。何故滅ぼした鎌倉幕府跡にまた戻ってくるのか。室町幕府の開祖である足利尊氏についてこの際少し調べてみることにした。すると俗に“逆賊”とも言われる尊氏の生涯は初代将軍としての実績も十分にあり、皇室との意に沿わぬ関わりにも止むを得ないものがあって、あの時期の日本を混乱と崩壊から救った英雄と見ることも過言ではないと思うようになった。以下に長くなるがその伝記を書き写す。編集にあたってもう少し文を省いて冗長さを防ごうとしたが、状勢の変化はめまぐるしく、下手に割愛すると事情を読み誤ることを悟った。

 (1)足利氏の系図は源義家の孫義康に始まる。義康の子義兼は北条時政の娘を娶った。以降代々の足利家当主は北条氏と縁戚関係を保ち北条一族に準じる扱いを受ける。しかし、北条氏にとっては御家人の秩序を保つためにも、そして後には自分達の独裁体制を築くためにも自分達に次いで強力な足利氏を抑える必要があった。それにつれて足利氏は圧迫され、更に有力御家人で次に潰されるのは自分達という不安を感じるようになる。そうした中で嘉元三年(1305)に貞氏・上杉清子の間に生まれた又太郎(尊氏)は元服の際に得宗北条高時から一字を貰い「高氏」、一つ下の弟(直義)は「高国」と名乗った。高氏はそれまでの例に倣い最後の執権となる赤橋守時の妹登子を娶る。祖父家時は三代の後に天下を取る事を悲願とし自刃(凄いことだ!)、次第に北条氏への不満、家門の誇り、それが高じての天下への野望が足利氏の内部で募っていく空気の中で高氏は育っていく。
 (2)当時北条氏の専制によって武士の不満は高まり、北条高時の無能と部下の専横がそれをより強めた。一方皇室が持明院統・大覚寺統に分裂して皇位の継承がややこしくなり、それに合わせて公家達も出世をかけて争い幕府の調停が不可欠な有様であった。鎌倉幕府を除いては絶対的な強者がなく、日本は幕府が消滅しようものなら際限なく争いが起こりそうな、さながら火薬庫のような状況であった。
 (3)両統分裂の中で“一世限りの主”として即位した後醍醐天皇は天皇親政を進め、自己の子孫による皇位継承と全国一元支配を目論み倒幕を志向。北条氏に不満を抱く御家人達に声を掛けると共に、朝廷と繋がり幕府の支配から外れた非農業民らの力を組織して対抗しようと図った。元弘元年(1331)に御所を脱出し笠置山に籠もり挙兵。天皇に呼応して楠木正成も河内赤坂城で挙兵する。その報せを受けた幕府は十万の軍勢を上洛させる。高氏も父の喪中ながら幕命を受け上洛。間もなく笠置は幕軍の夜襲により陥落、天皇らは捕らえられた。神器は持明院統の光厳天皇に譲られ、後醍醐は隠岐に遷幸となる。
 (4)後醍醐の流謫により鎮まるかと見えた反幕運動は、楠木正成が赤坂城を奪還し天王寺で六波羅軍を破って千早城に籠もり、護良親王が吉野を拠点に討幕の令旨を全国に発したのを切掛けに再燃した。幕軍が千早を落せない間に後醍醐も名和長年の助けで伯耆船上山に脱出、千種忠顕を大将として播磨の赤松円心と共に京に攻撃をかけていた。こうした中、病中の高氏に再び上京命令が下る。高氏はこの時、弟直義に討幕の決意を打明けたと言う。直義は無論賛成で、伯父の上杉憲房とともに反幕府の急先鋒であった。幕府の方でもそんな空気を察したのか高氏出陣に際し、妻子を人質とし誓書を提出するよう求めた。高氏がそれに応じた所、得宗高時は上機嫌で源氏の白旗を授け激励した。この辺高時は機微に疎かった。3月23日に鎌倉を出発した高氏は領地のある三河に入り一族の吉良貞義に決心を述べ、貞義は遅すぎたぐらいであると賛意を表した。細川和氏・上杉重能を船上山の後醍醐の元へ密使として派遣し、討幕の綸旨を得る。元来高氏の本領・足利荘は大覚寺統が支配する八条院領の一部であり、その関係で高氏は後醍醐とも当時主従関係にあったとも言える。

 (5)丹波篠村八幡宮において源家再興の願文を捧げて反旗をひるがえし、それを聞き近辺から多くの武者が味方に加わる。高氏は更に全国の武士に手紙を出し挙兵を呼掛け、鎌倉幕府の出先六波羅探題を滅ぼした。六波羅陥落の際にその実務官僚がほぼ無傷で高氏の手に入ったのは大きかったであろう。さて、六波羅滅亡が知れ渡って、正成の千早城を包囲していた幕軍も奈良に撤退して降伏した。後醍醐も船上山から京へ還幸する。これに応じて関東では新田義貞が蜂起、高氏の嫡男千寿王(後の義詮)が合流して大将となり、一族である義貞が代官を務めて鎌倉攻めをし、高時ら北条一門ならびに鎌倉幕府を滅亡させた。この時高氏の命で岩松経家が義貞と同格の指揮官として活動したが、義貞は新田家の長年にわたる不遇を一掃しようという望みを抱いて果敢に奮戦し、義貞一人の武勲が目立った。これを抑えるために高氏は細川和氏・頼春・師氏を千寿王の補佐役として派遣、義貞は足利と対決するだけの力はなく、千寿王に対し異心はない事を誓う誓書を出した。
 (6)“建武の新政”として天皇親政を再開し全国の支配権を手に入れた後醍醐天皇の最初にすべき事は倒幕に協力した人々への恩賞であった。終盤になると高氏の帰順をきっかけに多くの武士が後醍醐に寝返り九州・長門や奥州など北条氏の有力拠点を落とした。功績の大きな者は形勢逆転を決定付けた高氏、幕府の本拠を倒した義貞、倒幕への流れを作った正成、反幕運動を煽動した護良、京の幕府軍を揺さぶった円心、後醍醐を守護した長年などである。他にも無数の武士・寺社が功績を具申し恩賞を求めた。しかも天皇は己の実力基盤を確立する為に自身や近臣らに多くの旧北条氏領を付与していた。恩賞地不足、分配の公平性への不満は益々大きくなる。さて高氏は頼朝の先例に倣い武蔵・相模・伊豆の知行権、更に武蔵守護職、日向国国富荘・遠江国池田荘・尾張国玉江荘・三河国小山辺荘・武蔵国麻生郷・常陸国北郷などの地頭職を恩賞として受けた。天皇はその上、鎮守府将軍に任じ天皇の名「尊治」から一字を取り名を「高氏」から「尊氏」と改めさせた。尊氏の行動や誘いにより多くの武士が後醍醐方に身を投じ形勢が決定した。その効果・名声から考えれば勲功第一とせねばならぬがその野心・立場を考えると危険な人物ではある。そこで功績・武家最大の名門の面目を保ちつつ力を付け過ぎないようにせねばならぬという天皇の苦心の行賞であった。
 (7)ところで天皇は律令的太政官制・王朝的官職一家相伝・幕府政治のいずれでもない、新しい政治を構想していた。武士勢力の伸長・朝廷内の抗争で弱体化した王朝の危機的状況を脱出する為、自己の子孫に皇位を伝える為、そして自己の支配欲を満たす為に。中央では経済・警察など主要官職は近臣が就き天皇に全権力が直結するよう図り、地方では公領の徴税を司る国司と軍事・警察を担う守護の併置により分権・牽制をさせる。こうして天皇による中央集権、農業と非農業の均衡を取る近世的な専制政治を目論んでいた。勃興しつつある商業などを軍事・経済基盤にして政権を支えさせようとする。しかし激しい改革は常に混乱と不満を呼ぶ。国家存亡の危機が迫った場合などはそれでも人々はついて来るが、この時は王権の危機ではあっても別に日本の危機ではなかったのである。しかも商業の成熟がまだ不充分でこの政権は不満を抑えるだけの実力を付ける事が出来なかった。そして元寇以来得宗支配に入った非御家人と旧来の御家人の対立も解消されず、寧ろ御家人制度の廃止により誇りを傷つけられた御家人達の不満は深まる。おまけに強力な反対派の核が存在した。尊氏である。武家最大の名門であるのみならず京を占拠して以来奉行所を開き軍功を受付け、武士の信望を集めていた。更に新政権の役職に全く付かず距離を置いている。しかし建武元年8月以降は雑訴決断所に上杉憲房・師直・導誉を、窪所に師直を参画させるなど、政権維持上決して無視できない発言力を有していた。この情勢を危険視したのは護良親王である。天皇も尊氏が武士に担がれる事を警戒していた。義良親王を将軍とし北畠顕家に補佐させる陸奥将軍府を作って関東に勢力を持つ足利氏を牽制し、護良の尊氏打倒計画を密かに支援したと言われる。護良と結び付きの強い正成・尊氏に対抗心を持つ義貞もこれに参加した。これに脅威を感じた尊氏は護良と対立する天皇の寵妃阿野廉子と結び、天皇に迫って護良を流罪にさせた。1335年(建武2)護良は直義のいる鎌倉に幽せられた。護良は天皇を恨んだという。
 (8)一方で北条氏の勢力が完全に駆逐されたわけではなく各地で蜂起、信濃にいる高時の子時行の挙兵で北条軍は各地で勝利し鎌倉に迫った。鎌倉を治めていた直義も敗れ、7月22日鎌倉を脱出したが、この際監禁中の護良親王が敵の旗印となる事を恐れ部下の淵辺義博に命じて殺害した。25日に北条軍が鎌倉に入る。直義は三河に兵を留め京に報告。その報告を受け尊氏は時行追討のため全国の荘園公領の治安維持を受持つ総追捕使・全国的軍事指揮権を持つ征夷大将軍への任命を天皇に願い出る。しかし尊氏の力を以前から警戒していた後醍醐はこれを拒んだ。尊氏は結局、頼朝の奥州藤原氏討滅・義家の後三年役の前例に倣い勅命を待たず出陣。それを聞いた後醍醐は彼を征東将軍に任じてそれを追認した。8月2日に京を出発して、途中矢作で直義と合流、各地で北条軍を破った。この際、勇戦した家臣には領地をその場で与えた。この戦いで手柄にはすぐに褒美を出し降伏する敵は寛大に許すという尊氏の特徴が如実に出ている。尊氏のそうした性質は多くの味方を呼寄せる事になる。さて19日には京から414km離れた鎌倉に入る。一日23kmという速攻ぶりである。中国大返しの際の秀吉でさえ、備中高松から摂津富田までの165kmを10日、即ち一日16.5kmなのであるから恐らくこの時の尊氏は日本史上最大の速攻と考えてほぼ間違いない。因みに、少し後の義貞の尊氏追討は京から手越河原までの285kmを27日、一日14.2kmの速さであり、これが当時の標準の速さであったろう。さて、尊氏にこれほどの速さで迫られた北条軍は体勢を整える暇すら与えられず潰走した。
 (9)朝廷ではこれを賞し尊氏を従二位に昇進させ、その上で上洛を命じる。好人物の尊氏は応じようとするが、直義・師直らの反対で鎌倉に止まる事になった。京は義貞ら反尊氏派が依然多くその上天皇・公家も警戒しており危険で、一方足利氏が単独で占拠する関東に尊氏・直義兄弟共に滞在する今は武家政権を再興し先祖代々の悲願を実現する好機であった。尊氏は旧幕府跡に屋敷を設けて独自に論功行賞を行った。更に独自政権を作る事を決意し護良も亡い今最大の対抗馬である義貞を追討しようと兵を集める。武家政権を認められるには朝廷の了解の下“朝敵”を討つ“武功”を挙げる必要があり、その相手として義貞が選ばれたわけだ。そうなると固有武力を持たぬ朝廷は要求を飲まざるを得ない、これが尊氏の読みであった。

 (10)しかし商業勢力を組入れて曲りなりの武力を朝廷は当時有し、加えて後醍醐は圧力に屈するのを嫌う人柄であった。そこに尊氏の誤算があったといえる。朝廷では事態を尊氏の反逆と捉える。そこへ義貞追討の上表が京に届き護良暗殺の様子も報告されたので天皇は遂に義貞を大将として尊氏を討つ事に踏み切り、尊氏の官職を剥奪した。尊良親王を名目上の総大将とし新田軍は11月19日に京を出発。三河に着く頃には二万余になっていた。尊氏は当初天皇その人に刃向かう意志は持たなかった。義貞の進軍に対しても矢作川より西に進むことを味方に厳禁し、指揮を直義に委ねて自身は寺に籠もり出家しようと図った。大将がこの有様で足利軍の士気が奮う筈もなく、矢作で新田方の堀口貞満に敗れ、12月2日、手越河原でも多くの兵が寝返って壊走した。しかし義貞は箱根で進軍を止める。親王や公家を大将に奉じているため戦陣生活に慣れぬ彼らに配慮する必要があったのと、奥州の北畠顕家と連絡して挟撃しようとしたためである。
 (11)さて尊氏は一族の危機が迫っていることを知り出陣を決意した。自身の恭順を足利家や直義の存亡と引換える気は流石に無かったのであろう。8日に尊氏は二千騎で鎌倉を出立。この時、尊氏は既に髻を切っていたので、家臣達はそれが敵の目印とならぬよう皆尊氏と同じように“一束切”の髪型にしたという。直義とただ合流しても守勢に追遣られるばかりであるからと11日朝箱根山を越えて足柄明神の南に出、主力どうしの激突を避けて敵の側部を突き、尊良親王を奉じる脇屋義助の軍勢に奇襲を掛けた。驚いた新田勢は敗走。尊氏はこの時にも常に手柄を立てた味方に下文を出し功に報いている。箱根で直義と対峙していた義貞もこれを受けて撤退。翌日足利軍は佐野山で陣を立て直した新田軍と激戦を演じ、大友貞載の寝返りで勝利を得た。その勢いを見て多くの兵が尊氏の下に集まり、義貞は敗走する。東で足元を固めるか勢いに乗じて上洛するか議論があったが、勢いあって初めて大軍が指揮下に入るものであったので京へ向かうこととなる。足利軍は勢いに乗り、叡山の僧兵らの籠もる伊岐山城を師直の手で落し京に迫った。
 (12)翌年正月3日から瀬田で矢による攻防が始まる。10日に山崎で大軍に物を言わせ攻撃。四国から駆け付けた細川定禅・播磨の赤松円心が敵陣を突破し久我に攻入り洛中に火をつけた。義貞らも慌てて引返し応戦するがこうなっては如何ともし難い。夜、天皇は叡山へ避難した。この時結城親光が尊氏に投降するとみせて尊氏暗殺を図ったが大友貞載に見破られ殺害され、重傷を負った大友も翌日死亡。13日に宮方待望の北畠顕家が奥州の兵を引連れ坂本で義貞・正成らと合流した。16日、細川定禅率いる足利軍は叡山と対立する三井寺に進出。しかし顕家の到着が予想より早く備えが出来ておらず宮方に敗れる。義貞が前もって尊氏本陣近くに埋伏させていた新田兵が動き、それにより足利軍は同士討ちを起こし京から敗走。一時は尊氏も追撃を受け危うく、三度自害を計った程であったが幸運にも日が暮れて見通しが悪くなり新田軍は撤収、尊氏は命拾いした。新田軍は京から足利軍を追払ったものの京を守れるだけの力は無く坂本へ引揚げ、足利軍は再入京。27日にも激戦があり上杉憲房らが討死。正成が楯を繋ぎ動く城壁を作って足利軍を悩ませたのもこの時の事である。兵力で劣る新田軍が勝利するには敵の総帥をし止める外ないと考え、義貞は尊氏を求めて自ら敵中に攻入る。しかし尊氏の運が強かったのか姿を見付ける事はなかった。
 (13)数日後正成は義貞・顕家・正成らが乱戦の中討死したとの噂を流し、それを信じた尊氏はこの機に敵を殲滅しようと軍勢を各地へ差向け、洛中が手薄になった隙を突いた宮方の攻撃に尊氏は敗れ2月3日に兵庫に退き、この際多くの兵が新田軍に降伏した。この頃、尊氏は鎌倉幕府滅亡以降に没収された領地はこれを味方に返却するとの布令を出している。鎌倉幕府の系譜に沿った政権を構想している事を全国に宣言したわけである。所領について不満を持つ武士は全国に数多くおり、後にそうした武士がこれを受けて次々に尊氏の下に馳参じる事になる。この日豊島河原で北畠・新田軍と再び激戦、正成が後方の神崎に廻ったので退路を絶たれるのを恐れ足利軍は退却。足利軍と宮方とではこの時士気・勢いが違った。尊氏は一旦九州へ退いて軍を立直すことにしたが、途中室津で要地に味方を配置し新田軍の追撃に備えている。朝敵であることの不利を悟った尊氏は院宣入手のため密使を派遣、備後鞆に到着した時光厳院の院宣と錦旗を受領して足利軍は意気を揚げて船で西下した。

 (14)菊池武敏が博多に迫っているとの報せがあったので尊氏は宗像社に陣を置く。3月2日、菊池勢が大宰府から出撃するとの報せを受け尊氏らは出陣。少し先の多々良浜という干潟の南の外れにある小川の南岸に菊池勢は布陣していた。その数は七千。一方尊氏軍は正面に三百騎余、東側に少弐頼尚の五百騎余、歩兵も合わせるとそれぞれ千余・千五百余であったろうか。尊氏は余りの兵力差に落胆し切腹を口にするが、直義らに止められて気を取直し、全滅を避けるためまず直義・少弐勢を先陣として出撃させた。菊池勢は正面から攻掛かるが足利軍は歩兵が矢を射掛け敵が怯むのを見て決死の勢いで突撃。折り良く北風が吹き砂や塵を巻上げ、それが菊池軍の兵達の目に入ったため菊池軍は動揺、直義らは追風に乗って打向かう。ただでさえ菊池軍は制圧された豪族達の寄集まりで、内心は後醍醐政権に不満を抱き尊氏に好意を抱く者が多かった。それに対し菊池直属の兵は千人に満たなかったのであるから、大軍といえども戦意は低い烏合の衆で実際に戦闘に加わる者は多くなかった。そこへの風や足利軍の猛撃であるから菊池勢は浮足立つ。勢いに乗った直義は追撃し松原を過ぎる。そこで武敏は大軍に物を言わせて松原の方面と東の2方向に軍勢を分け直義を挟み討とうとした。直義は討死を覚悟し、直垂の片袖を形見として尊氏に届けさせ、兵達はこれを見て感嘆した。その時千ほどの敵が小川を渡ろうとし、千葉大隈守が一騎でそれを防ごうとした。それに敵が気を取られた一瞬、尊氏は自ら手勢を率いて突撃し打ち破った。こうして足利軍が有利に戦いを進めるうち、元来烏合の衆であった菊池勢の中で松浦党らが寝返り、更に直義・少弐勢が息を吹返したので菊池本隊の奮戦も空しく勝敗は決し、武敏は辛うじて逃れた。尊氏は味方の団結と的確な指揮に加え、敵のまとまりの悪さと幸運に助けられ、劣勢をはね除けて勝利したのである。この時に限らず指揮における大局観と果敢さに加え、不思議な強運が尊氏には常に備わっていて、将兵に最終的勝利への信仰を抱かせるに足るものであった。このような尊氏を名将と呼んで差支えあるまい。尊氏は播磨で新田の大軍相手に篭城する赤松円心の救援の為にも上洛を急ぐことにした。
 (15)この頃、宮方の行動は極めて鈍かった。まず兵力不足を補う為にも先頃の合戦での大量の降伏者の軍勢組入・処遇決定の必要があり、動くに動けなかった。次に朝廷が勝利に酔って油断し義貞らに出陣の命令を出さなかった。更に政権方の武力を欠き足利の息も強くかかっていた奥州の治安が不安定となり反政府方の手に落ちる危険すら出てきたので3月10日に顕家が帰還し、そのため一層の兵力不足を来した。瀬戸内での尊氏方の備えは前述の様にかなり堅い。案外時間がかかる危険がありその間に奥州が反政府軍(敢えて足利方とは限定しない)に奪われその勢力基盤となったなら、奪還が難しくなる。顕家を奥州に帰したのは当時としてはやむを得ないといえよう。そもそも朝廷は尊氏が西国を押えようとしているのに対抗し敵の本拠である東国の調略に熱心で、その実力的裏付としての必要性もあった。さて義貞はようやく出陣できたが播磨白旗城の赤松円心を攻撃している間に時間を取られた。義貞としては播磨は自身の知行国・守護国であり制圧しておかねば威信低下を来す。それに不足しがちな兵糧を確保する必要もあった。こうした遅れが尊氏再挙を助ける結果になった。
 (16)さて足利軍は尊氏が海路を直義が陸路を進む事に決め5月10日に博多を出発。17日には足利軍接近を知り福山に篭る江田行義、三石を攻める義助を破り前進。赤松軍と合流し円心から、寄手から分捕った嘗ての味方だった者の旗を見せられ尊氏は彼等の無節操を咎めず生延びる為に主を替えねばならぬ彼等は不憫だと述べ、家臣達はその寛大さに打たれた。一方大軍を迎撃つに不利な兵庫での決戦を命じられた義貞・正成は死を覚悟しその夜歓談した。翌日、両軍は激突。直義は二万の陸軍を三つに分け自身が大手を率い、山手を斯波氏、浜手を少弐頼尚に任せ会下山の正成を攻撃。尊氏・細川定禅率いる三万の水軍は和田岬より先に進み義貞の背後に回る構えを見せる。挟撃を恐れて義貞は細川勢を追う。しかしこれで正成との距離が開き、直義らは楠木軍を包囲、更に吉良氏らの援軍が上陸。正成は驚異的激闘を見せるが力尽き自害。尊氏を始め足利軍はその死を惜しんだと言う。一方義貞も必死で防戦するが衆寡敵せず敗退、京へ逃れた。
 (17)敗戦の報せを受けた後醍醐は再び叡山へ避難。足利軍は6月5日から直義を中心として叡山攻撃に入る。尊氏は東寺に、直義は三条坊門に本陣を置き今路方面は三井寺、大手の雲母坂は細川勢、横川は少弐勢が受持つ。6月30日、義貞と名和長年が洛中の各所に放火して敵を混乱させ、大宮から義貞が猪熊から長年が尊氏の本陣東寺に突撃。苦しい戦況の中で打開を図る宮方の博打であったが仁木・上杉重能の奮戦で叶わず、長年は討死。それ以後も長く激戦が続く。こうした中8月15日に光厳院政の下でその弟豊仁親王が天皇に擁立された。光明天皇である。翌日、尊氏は清水寺に願文を納めている。そこには、この世は大層儚い物なので隠遁して来世の幸福・魂の安楽を求めたい、現世の幸せは自分の分も直義に与えて欲しいとあった。これまで後醍醐・正成ら敬愛すらしていた面々とも血腥い争いをしてきた事に嫌気がさし、更に自身の勢力基盤の心許無さに気付き将来が不安だったのであろう。しかし気紛れな一面のある尊氏はこうした思いにも徹し切れなかった。彼を頼る多くの一族・武士達を捨てる事も出来ず、また彼自身武家の棟梁への望みを遂に捨てられなかったのである。さてこの月28日、叡山の糧道を絶ち、後醍醐の元へ尊氏は和睦を打診した。敬愛する天皇とこれ以上戦いたくなかったのと、円滑に神器を譲り受けて光明即位を名実共に整える為であった。後醍醐の譲位・両統迭立・後醍醐方の公家を処罰しない事が条件だった。これで和睦は成立したが、捨てられる事になる新田軍が抗議した結果、恒良親王に譲位した上で桐院実世・義貞を北陸に下す事にしてから後醍醐は下山。一方義貞は敵の手の回らない木芽峠を異例の大寒気で大きな犠牲を払いながらも越え、越前金崎に辿り着いた。11月2日、後醍醐から光明へ神器は手渡された。この時皇太子として成良親王が立てられた。両統迭立の約束を尊氏は果たす気だったのである。
 (18)さて後醍醐は直義により花山院に入れられたが、尊氏の調停を受け入れる気はなく21日に脱出、楠木氏の案内で吉野に入り正統の帝位を宣言した。南朝である(光明天皇の朝廷は北朝と言われる)。尊氏はそれを聞き「実は先帝をこの先警護するのが大変な事だと思っていた。北条氏のように遠国に流すわけにもいかぬし困っていたのだ。この度御自身の意志で京を出られたので責任は解かれた。天の計らいで結局落着く所に落付くだろう。」と述懐した。一方後醍醐は越前金崎に拠る義貞、吉野を中心に畿内の味方を糾合する楠木氏、伊勢玉丸を拠点に海上交通の要地大湊を押える北畠親房、奥州で勢力を再建する顕家を頼りに捲土重来を期した。

 (19)この頃から足利氏主導の武家連合政権の形が整い始めた。但し鎌倉以来尊氏は政務に関しては全て直義に委ねている。従ってこの機構整備も直義主導で行われたのである。11月7日、是円らに諮問した上での答申を公布。これが建武式目である。まずその中で政権の拠点としては鎌倉が望ましいが異なる意見が多ければそれに固執しないと述べ、以下17条で庶民の生計が成立つよう計らい土倉を復興させ商人・旅人を悩ませないようにと定めている。明らかに洛中施政を意識した取決めである。京周辺の情勢が油断できない事、同様に地盤が不充分で商業からの収入も必要としている事から拠点を京に置かざるを得ない現実と鎌倉への未練とを如実に表している。これは足利氏による朝廷公認の下での幕府成立宣言で、この政権は室町幕府と呼ばれる。この幕府は初期において尊氏が武士動員・恩賞給付という“主従権”を、直義が訴訟処理・行政・一般賞罰という“政務権”を受持つ二頭体制を取った。鎌倉幕府でも主従権を将軍、政務権を執権という体制になっており、それが争いの元にもなったが反幕府勢力はなく主従権が強く発動されて大乱に至る事はなかった。一方、室町幕府の方は宮方という大敵が存在した。その為主従権が重要な意味を持ちやがて政務権と激突する事になる。さて鎌倉幕府はまだ充分な実力を持ちながら非主流勢力から総スカンを食う形で滅んだ。特に畿内は既に鎌倉幕府の様な地方領主連合だけでは抑えられなくなっていた。室町幕府はそうならぬよう彼らをも可能な限り取込み味方にする必要があった。その結果として同床異夢・その場凌ぎの性格を持つ、その点では建武政権と異ならないが未だ強い力を持つ農業社会を主力としてこれに寛大な政策を取りその欲望を叶えた為割合広く支持される事となった。しかしそれ故に幕府基盤の脆弱さを宿命的に有する事になる。直義の厳格さ・公平さはこれに枠を与え秩序を作る上で不可欠であった。
 (20)南朝との戦いは幕府軍優勢に進んでいた。建武四年(1337)8月、北畠顕家は陸奥霊山を出立して鎌倉を落して足利方の斯波家長を滅ぼし、青野原で高師冬・土岐頼遠らを破ったが、奈良次いで石津で再度師直と戦い遂に敗死した。この頃北陸の義貞は金崎城を兵糧不足から落され、帝として仰いだ恒良や尊良親王、子の義顕ら挙兵以来の味方を失い瓜生氏の辿山城に逃れる。そこで再び加賀の豪族を中心に兵を集め越前の大部分を制圧し幕府の守護斯波高経を黒丸城に追詰めた。越後の新田一族も呼応し一時北陸をかなり制圧した。戦力の殆どを失ってから練度・忠誠に不安のある新規の軍勢を率いてここまで巻返したのだから義貞はやはり凡庸ではない。全国ではこの戦いを足利と新田の覇権争いと見るのが一般であった。義貞も途中からは御教書を発布し武士の棟梁として振舞っていたし南朝も義貞を武士を誘う際の看板としていた。しかし暦応元年(1338)閏7月、少数の兵で黒丸城を奇襲しようとした際、流れ矢にあたり戦死した。

 (21)これで武士の棟梁となるべき人物は尊氏に絞られ、翌月に尊氏が征夷大将軍に任官した。“朝敵”を討つと言う武功を挙げた事にもなる。さて、この様に全国規模で戦乱が続くと各地を転戦する必要が生じ、兵糧の輸送が難しくなり現地調達をする事になる。前述の顕家の西上で激しい略奪が繰広げられたのはその一例だ。そこで幕府は守護に荘園・公領から年貢の半分を兵糧として徴収する権限を与えた。これが半済である。承久以来荘園の20分の1が地頭領となり更に後に半分が地頭の取分に拡大したが、これで少なくとも徴税権の4分の3が武士方の手に移ったことになる。これにより守護が在地武士を養うことが出来るようになり守護が一層強力になった。こうした中、南朝方も親房・顕信・宗良親王らを海路で東国・奥州・信濃に派遣し地方の拠点建設を図った。翌延元四年(1339)8月16日、後醍醐は吉野で崩御。その報せに尊氏・直義ともに深く心を動かされ、禅僧夢窓疎石の勧めで天龍寺を建立してその霊を慰めることとした。この頃戦乱での使者の菩提を弔うとの名目で各国に安国寺が指定され利生塔が建てられ始めた。各地の寺院を支配下に収めるための宗教政策と見て良いであろう。それまで独立政権であった宗教勢力を再び中央の支配下に置く試みが建武政権に引続き為されたといえる。こうした政策面での動きは前述のように直義が取仕切っており尊氏は専ら動員や守護・地頭の任免などを行っていた。政治に関する限り尊氏は“真空”であった。直木三十五は尊氏を“成功した西郷隆盛”と評している。
 (22)この頃政策を担当した直義は、“政道私わたらせ”ず、誠実・厳格をもって通り恐れられた。名門足利の世継として育ち総領甚六の尊氏とは異なり、代々の婚姻政策により深く入込んだ北条氏の質素を好むそして実利的な血がこの弟には強く流れていたようだ。一方、未だに南朝方の抵抗は根強く、それに対処するため軍事的動員が度々成された。それに当たったのは主従権を有する将軍尊氏であったので、直義の担う平時の政務と次第に摩擦を生じるようになった。この頃、尊氏の命の実行を補佐したのが高師直である。師直は鎌倉時代以来の足利氏の家宰であったが足利氏の当主が政権を掌握するに伴い中央に進出、将軍の親衛隊長として中央軍を指揮するようになった。指揮官としても傑出しており前述の北畠顕家を討つなど度々武功を立てる。特に四条畷合戦で楠木正行率いる南朝主力を壊滅させ吉野を焼討して以来、功を誇り実力のみを信じる傾向が強くなった。直義はその師直と対立を深めるようになった。これは主従権と政務権の対立であると同時に実力第一主義と秩序第一主義の対立でもあった。そこへ建武政権以来中央内部に存在した複数の分子が分裂、更に非主流派と主流派の対立が重なっていく。貞和四年(1348)、直義の長男直冬(養子。実父は尊氏)を中国探題として備後・備中・安芸・周防・長門・出雲・因幡・伯耆を管轄させたのも、直義による師直牽制と見る事が可能である。さて専制攻撃に出たのは直義であった。翌五年閏6月、師直を執事から罷免、甥の師世に交替させた。更に光厳院の院宣で師直を討とうとした。一方師直も黙ってはいず、8月に挙兵して直義を襲撃した。直義は尊氏邸に逃れたが師直はそれを包囲し直義側近の上杉重能・畠山直宗・妙佶の引渡しを求めた。尊氏は両者を調停する立場に立ち、和談を進めさせた。重能・直宗の流罪、直義は政務権を尊氏の長男義詮に譲り補佐に回ること、師直は執事に返咲く事で話は一旦まとまる。しかし間もなく直義と師直の争いは調停不能な戦いに発展し収拾不能になっていった。2月20日に尊氏は直義に使者を送り和睦を打診した。実はこの頃尊氏は旗印を欲する師直兄弟により人質同然の状態になっており、命の危険さえ感じて直義と連絡し師直らを除こうと考えたとも言われる。かくして和議が成立し26日、尊氏一行が兵庫を出たところ上杉能憲の手勢が混り込み師直一族を殺害。権勢を誇った執事としては実に無残な最期であった。
 (23)尊氏・直義兄弟は入京し、この度の合戦(直義と師直の内紛)の賞罰について話合う。その席で尊氏は自分に従った将兵への恩賞を優先させるよう主張し直義を困らせた。直義は味方を集めるに当り恩賞の約束をしていたので、これを容れると味方への約束が不可能になる。しかし尊氏が将軍である以上恩賞の権限を行使できるのは尊氏だけなのであった。結局将軍に最後まで付従った武士の恩賞をまず行い他の賞罰はそれから行う事となった。更に尊氏は師直を殺した能憲を処刑する様求めたが、直義の取成しで流罪と決まった。尊氏は身の危険から師直を除こうと考えた事はあったが、実際の暗殺にはどうやら了解していなかったらしい。この日、直義の勝利に貢献した細川顕氏が尊氏を訪れた際、尊氏は降参人の分際で将軍に面会を求めるとは何事かと一喝し顕氏は引下ったという。どうやら尊氏は、争ったのは直義と師直であり自分は積極的には関わっておらず従って負けてもいないと考えていた様だ。何とも夢想的・御都合主義的である。尤も面白い事に周囲もそれをある程度認めていた様である。しかし実際の幕府政治運営となると話は別であった。執政には義詮が引続き就き直義が補佐という形になったが引付は直義派で固められ直冬は鎮西探題となった。完全な直義の勝利である。一方、直義は今回の事を機に南朝との和平交渉を始めたが、直義が時代は武家支配を求めている事を説き幕府存続を前提として持明院・大覚寺両統の迭立を条件としたのに対し、南朝はとにかく南朝方による皇位継承・天下一統が大前提としたため議論が噛合わない。更に所領問題も絡んで紛糾化し、結局決裂。この際双方を取持った楠木正儀は固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走っている。さて直義は対南朝だけでなく尊氏との関係も破綻を迎えつつあった。先の武力衝突で尊氏直義間の感情・利害の対立が顕在化つつあったのだ。中でも義詮の処遇問題がそれに拍車をかける。権力の相続問題において兄弟は最大の競争相手であり争いは苛烈を極める物になるのが常ではあるが、この仲の良かった兄弟ですら例外では有得なかったのかとの感がある。尊氏は自分の後継者としてはっきり三男義詮を選んだ。直義と尊氏の長い争闘は直義の降伏で終わりを告げ、尊氏と共に鎌倉に入った。やがて師直兄弟の命日2月26日に直義は急死。尊氏により毒殺されたとも言う。真偽の程は不明だがこれがその後の尊氏に暗い陰を落したのは疑い得ない。直義派はこの後直冬を奉じて戦う事になり天下三分の形勢は続くことになる。

 (24)新田義宗・義興、脇屋義治が蜂起。鎌倉へ向かい進軍するうち九千に達した。この時鎌倉の尊氏の下には千余の兵しかおらず、安房・上総に逃れる様進言する者もいたが、それでは関東各地の味方と合流できないとして、武蔵へ出撃しながら兵を増やす事にした。案の定進むうち兵が集まり、数日で八千に。石塔義房が、本陣に入込み乱戦に紛れて尊氏を暗殺しようと目論み、息子頼房に打明けるが、頼房は同意せず尊氏に通告。義房は断念して立去った。閏2月20日に新田勢と衝突する際には尊氏軍は一万余になっていた。双方軍を五つに分けて合戦したが、3番目の花一揆の戦いぶりが無謀で打破られ、意気阻喪した尊氏軍は敗走。尊氏は追撃を受け切腹を覚悟し鎧を脱ぎかけるが、またも日没のため敵が退散した。尊氏は相変わらず決定的敗戦はしない。「太平記」も義宗らが“将軍の御運”に妨げられたと記す位である。尊氏は石渡で落付き充分な兵力が貯まるのを待ち、義宗は笛吹峠へ向かい軍を集める。石渡の尊氏の下にも千葉氏・小山氏政・宇都宮氏・佐竹氏・常陸大掾氏など関東の大族が駆付け八万に達した。2月28日に両軍が激突し南朝方は山を背、両脇を川にして挟撃されない様にし勇戦するが、尊氏が兵力に物を言わせ勝利。宗良親王や憲顕は信濃へ、義宗は越後へ逃れた。鎌倉の義興らも兵力が少なかったため撤退し足柄に隠れた。この時上杉軍の長尾弾正らが大将首を討取った味方を装い尊氏本陣に紛れ尊氏を暗殺しようと図ったが、彼らの顔を知る者がおり失敗、長尾らは脱出し「あはれ運強き足利殿や」と言うよりなかった。
 (25)この頃、義詮の守る京に南朝方の兵馬が殺到。それまでも南朝方の要求は厳しく、ともすればこれまでの武士の権限も否定されかねないので遅まきながら事の深刻さに気付いた義詮は抗議していたのだが遂に決定的な事態となったのである。正平七年(1352)2月26日に後村上は賀名生を発し閏2月19日に八幡に進駐。翌日に京に攻撃をかける。義詮も以前から必死で軍勢を集めてはいたが充分な兵力を得る事は出来なかった。更に守り難い京が戦場となり大敗して近江の佐々木導誉の下に逃れた。しかしこの時、何と北朝の光厳・光明の両上皇と崇光天皇の身柄を確保するのを忘れ、三人は南朝方の手に落ち河内に連行された。義詮は正平の年号を放棄し再び観応に戻し、各地に動員を発した。佐々木・土岐・赤松や旧直義派の山名もこれに応じて京を包囲。南朝は幕府の分裂に乗じて成功を収める事が出来たが、自身の戦力が余りにも弱すぎ更にその政策が現実離れし過ぎて人々を味方に留める事が出来なかったのだ。更に南朝方を悩ませたのは兵糧の欠乏であった。現地調達もままならぬ状況で次々に寝返る者が増え、5月11日に幕府軍の攻撃で八幡は陥落。四条隆資の討死など大きな犠牲を払いながら後村上はようやく賀名生に逃れた。幕府方も奉ずべき朝廷を失い困惑していた。結局崇光天皇の弟弥仁親王を天皇にすることにしたが神器もなく皇位を保証する「治天の君」(天皇家の惣領)もいない。そこで止む無く唐櫃(神鏡の容器)を神器の代用とし、親王の祖母広義門院を「治天の君」に見立てることにした。継体天皇を先例として弥仁擁立は強行された。後光厳天皇である。この経緯のためこれ以後の北朝はその正統性に問題が残る。幕府が南朝に対し一種の引目を感じる所以であり義満時代の「両朝御合体」までこの問題を引摺る事になる。
 (26)直義と師直との対立以来、幕府内での利益争いが露になり多くの武士達が尊氏から簡単に離反するようになっていた(その代り尊氏の寛大さや状況変化から簡単に帰参する)。文和二年、佐々木導誉と対立した山名時氏が南朝に降り、義詮を破って入京。義詮は後光厳天皇を擁して近江に逃れる。前回で懲りたのかこれ以後、幕府は後光厳の身柄確保に気を配る事になる。一方時氏は京都支配が四条隆俊ら南朝方に握られ不快なのと兵の脱落とからやがて京を明渡した。翌年には関東を平定しようやく尊氏が帰京。一方時氏は直冬と手を組み、南朝の綸旨を受け上洛。直冬に実父と戦う後ろめたさがあったのは確かで、暫く南朝に拠って尊氏に逆らったが遂に帰順しこの後は暫く小康状態が続く。降伏すれば本領を安堵する尊氏の寛大さから、背いた武士達も大概は帰参したりするので不安定ながら幕府の優位は一貫して保たれていた。南朝との和解工作も行われたらしい。そのためか南朝に捕われていた光厳・光明・崇光の三上皇も解放された。この頃、義詮を直義の後釜に据え尊氏がそれを後見する体制に変化している。そして訴訟を審議する引付が五局から三局になり、義詮自らの判断で採決する部分が多くなった。幕府内乱を経て嘗ての二頭政治から将軍専制体制へと変化を遂げたのである。そしてそれは農業と商業両勢力を取持つのに適した近世的体制ともいえる。さて九州の方では尊氏・直冬・南朝の三つ巴の結果、懐良親王を擁する菊池武光が力を強めておりこれを討つ必要があった。しかしその準備に入った延文三年、尊氏は背中に癰ができて病床につく。2月13日、幕府は急に直義に従二位を追贈するよう朝廷に求めている。こうした中、後醍醐のみならず直義の怨霊も恐れられたのであろう。結局、4月30日に尊氏は癰で没した。54歳であった。等持院殿仁山妙義居士と戒名が贈られ、従一位左大臣を追贈された。長禄年間には太政大臣を贈られている。

 (27)尊氏の没後、後を継いだ義詮は苦しみながらも父の築いた相対的優位を保ち有力大名を帰順させることでそれを拡大するのに成功。その子義満の代に至り、有力者の相次ぐ死・「よはきものは罪少けれども御不審をかうぶり可失面目。つよきものは雖背上意、さしおかれ申べき」と評される卑屈さと傲岸さを併持つ悪辣なまでの義満自身の手腕により相対的優位は相対的安定へと発展を遂げる。しかし所領が少なく、収入の多くを商工業者からの税・貿易収入といったまだ国家を支える程には成長していなかった貨幣経済に依存せざるを得ない将軍家の実力基盤は不安定なままであった。義満の死後、再び有力武士達の間で領地・権力争いが起こり、それをまとめきれない将軍家は応仁の乱で形骸化した。もはや相対的優位すら失い戦国の世を迎えるが、室町幕府は曲がりなりにも15代将軍足利義昭まで続いた。結局日本に安定した権力が回復するのは織豊時代を待たねばならなかった。

 以上読み終わっての感想 戦場で勇猛、慈悲深く人を憎まず、気前が良く物に執着しない性格、寛大さ・気前の良さ・気配りの良さ・大らかさ・といった美点が挙げられる。但し甘さ・夢想性・小心さ・迷信深さ・投遣り・内弁慶といった弱点も持っている。この点で長所と欠点を併せ持つ人間らしく多くの日本人に親しみと好感をもたれる。運が強く数多い戦いにおいて何度となくもうこれまでかと覚悟するが、その都度状勢が好転して僥倖を得る。何度かのテロの企みも運よく切り抜ける。戦いに明け暮れる生涯はドラマチックで徳川家康にも匹敵するし、生死の竿頭に立つ度合いは源頼朝の比ではなかった。また直義という緻密で厳正な性格の弟の補佐を得て、政治が放埓に流れるのが防がれた。戦線拡大時に師直という部将の戦強さに助けられた。後醍醐天皇の頭でっかちな官僚主導の理想政治をやんわりと抑え込んだが、決して皇室崇敬を軽んじたわけではなく不敬を働こうとはしなかった。日本史でも例の少ない天皇親政を尊氏が放任したら、時を経ずして瓦解と混乱が日本を包んだだろう。やがて信長・秀吉・家康と続く武家政治を導入する戦国時代の幕開けに足利尊氏が果たした役割は小さくない。
 “新田の末裔”徳川家は“先祖”顕彰のため南朝を正統化した。その結果として正成が浮かび上ってくる。やがて明治になり国家の自我を体現する者として天皇が擁立されるようになるとそのモデルとして建武新政が求められ、楠木正成はそこでもその守護神として祭り上げられ、教育で“最も正しき日本人の典型”として植付けられた。その対比として尊氏は“憎むべき逆賊”としてスケープゴートを担う事となる。しかし具体的“悪行”は希薄で、尊氏の人物像を具体的に見るとそこに悪人の姿を見出すのは困難であろう、と言うより後醍醐天皇の立場を絶対視しない限り悪人呼ばわりが不可能なのだ。

<大久保彦左衛門> 戦国時代の話が続くが、徳川家康の三河時代からの家臣(正確に言うと直参長兄忠世の幕下だったから陪臣)だった大久保彦左衛門について論じたい。取材源は津本陽の同人に関する論説(光文社)である。彼は後年“三河物語”を著し、徳川家の出自と初代親氏以来、九代家康までの家系の来歴と大久保一族の家筋を述べて、徳川氏の隆盛が譜代諸侍の血であがなわれた経緯を記していて、津本陽の著書も三河物語の紹介に多くの頁を割いているが、ここで取り上げるのはご本人と家康の数少ない直接の関わりについてである。
 1615年5月7日大阪夏の陣最後の決戦が始まろうとしていた。前日の敗戦で甚大な被害を受けた城方は総勢5万、茶臼山の南谷から天王寺南門に陣を連ねた。寄せ手の東軍は15万。家康は越前隊に続き、2万の旗本勢を率いていた。御旗奉行は庄田三太夫と保阪金右衛門尉。御槍奉行は若林和泉と大久保彦左衛門尉。彦左衛門は千石の旗本で、彼らより格式が上の御旗奉行が威張るのが気に食わなかった。保阪も庄田も武芸は苦手で戦場慣れしていなかった。幼少の時から戦場を駆け巡っていた彦左衛門とは大差である。
 悪鬼のように攻めかかる城方を東軍が辛うじて受け止めた時、頃合を見計らった真田幸村が采配をあげると、真田勢は数倍の越前勢を切り崩し家康を守る旗本勢に肉迫した。東軍は浮き足立ち本陣に馬標・旌旗を残して逃げ走った。家康は狼狽して腹を切ろうとし、周囲に押しとどめられて小袖のまま馬に乗り30町ほど逃げて谷間に身を隠した。旗奉行は早くに逃げ失せ、持ち場を離れなかったのは彦左衛門ひとりであった。戦いは目標を失った真田勢の意気沮喪に伴う壊滅で終了した。
 その後家康は京都で大阪陣での賞罰を決めるために調査をした。広間で控えていると御座の間から杖を突いてこられ、前後3回にわたって彦左衛門に直接問いただした。細かい遣り取りの言葉は省くが1回目は旗奉行は誰だったか、次いで事後に淀で骨休めをしようと言い出したのは誰か。旗奉行の氏名は明らかにしたが後の問いには庄田たちの名を挙げずにかばった。2回目は真田勢の進撃に対応した自軍についての目撃情報を求めたもので、問答の中で誰も他に答える者がないことから家康は彦左衛門が現場に踏みとどまった数少ない侍であり、ほとんどが他人の槍かどうかも確かめずにもぎとり槍を切り折って見苦しく逃げ散ったさまを知る。
 控の間での語らいで重臣松平平右衛門は御旗は見えなかったと云い、侍たちは口々に旗は見なかったと同調したので、平右衛門は「かく皆が言うならば旗は立たざりしが必定なり」と言った。事実旗は7本とも地上に立ってはいなかった。厭離穢土欣求浄土の旗もなかった。彦左衛門はこれで臆病者の保阪と庄田が罰せられるのは小気味よいが、御旗が合戦の最中に行方も知れなくなるなどは家康に恥をかかせることだと考え、あくまで旗は立っていたと強弁した。皆は早々に逃げてしまった弱みがあって敢えて抗弁できなかった。
 3度目家康は明らかに彦左衛門を意識して「槍につきたるもの参れ」と言う。尋問は「汝は何とて儂に付かざるぞ」というもので、彼の答えは自分の役目は千本に及ぶ槍を保持することで、御旗に付くべき道具だから旗のところにいたと答える。旗はどうだったか、旗は立っていた。家康は怒って旗は立っていなかった、皆がそう云っていると言うと何と言われても御旗は立っていましたと言い張る。遂に家康は彦左衛門の頭に埃のかかるほど激しく畳を杖で突きながら言い放つ「儂も見ざるほどに、とにもかくにも立ってはおらぬだぎゃ」。彦左衛門は屈しない「なんと御錠なれど、御旗は立ち申す」。家康は相手が命がけで抗弁しているのを悟り、語調を変えてそれでどうなったかと訊く。茶臼山から崩れてきた者たち(真田勢)が旗、槍を踏み崩して行きました、それからどうなったか、真田勢は御本陣へ向かい、御本陣が崩れましたと。
 家康は逆上して城内に響き渡る高声で叫ぶ「弓矢八幡、天道にかけてわが一代逃げたることもなきを、あれめが儂を逃げたるという。―ここで大久保兄弟(忠世、忠佐、忠隣)の名を挙げー一族皆全く強情な奴たちだ!」と。傍に控えていたものたちは何事が起きたかと肝を潰した。本田正純が彦左衛門を退席させ、永井直勝が「お怒りになるのは尤もで、強情で手がつけられぬ者です」となだめて取りあえず事を収めた。
 翌日彦左衛門は小栗又一郎と語らい、上様としつこく口論したるわがまま者、腹切らすべしと言う者もあると聞くが、覚悟して登城すべしと裃をつけて二条城に赴く。諸侍が彦左衛門め、ぬけぬけと出てきたかと興醒め顔でいるところに家康が出てきて二人を眺め、黙って通り過ぎていったので又一郎は「上様は御身に腹を切らすおつもりはないのだわ」と安心した。

 家康は当初事情聴取を冷静に行なうつもりでいたが、聞きただしていくうちに浮き足立って全員が逃げ去ったと思っていた現場にどうやら大久保彦左衛門だけが踏みとどまっていて、ただ一人残った小栗忠左衛門の助けを借りて馬に乗りほうほうの態で逃げていく自分の醜態を見ていたらしいと悟り、心穏やかでなくなった。3回目の聴取は明らかにそれを確かめるためで、思いもかけず彦左衛門が家康の後の名誉のために何としても旗は立っていたとしなければならぬと思う執念と衝突して衆目の前で自分の逃亡を間接的に証言される破目になって、計らずも逆上してしまった。
 家康にしてみれば旗奉行が逃げ去り旗が立っていなかったことなどより、自分が逃げたことを皆に知られる方が何層倍か不名誉に違いない。それをわざわざ公言するとは何というバカな奴だといきりたった。しかし家臣になだめられた時に、こういう気の利かぬバカ正直な男がこれまでの数多い戦いで自分を支えてくれたのだと思い返して冷静さを取り戻した。
 一方で彦左衛門はそんな家康の心情を察することはなく、後々まで現場に居残った自分の証言で旗は立っていたということになり、御旗の名誉は後世まで保持されたのだと誇っている。こういう食い違いが増幅して“三河物語”の中で二心なく忠誠を尽くした三河時代からの家臣が隆盛になった徳川家の中で次第に遇せられなくなっていく不満を繰り返し述べている。
 平和な時代を迎えると戦いに命を懸けた侍たちよりも事務能力に優れた官僚たちが勢力を伸ばすのが必然になる。現代でも創業期の会社と隆盛期を迎えた会社では重点の置き方が相違するので、嘗ての功労者が次第に疎んぜられる例は枚挙に暇がない。そういう環境の変化に対応できない彦左衛門のような人は落ちこぼれの筆頭になる。しかし彦左衛門の場合は仮に戦国時代が続いても、これだけ上司および同僚から離反した心情でいてはうまくやっていけなかっただろう。自分を客観的に離れた立場から見られない人の宿命である。

<日本語の特殊性> 2002-3月に<漢字>という表題で高島俊夫氏の著書“漢字と日本人”の論説を紹介したが、同書を改めて読み返してみるとその後半に現代日本語のもつ欠点と課題が載っていて、迂闊にも読み過ごしていたので改めて採り上げたい。
 著書の冒頭に幼児を殺害した中学生の通っていた中学の校長が記者会見で、中学生へのある質問に対して「それは仮定の問題でしょう」と答えたのを“校長は家庭の問題と語った”と報じられて校長が迷惑した話が紹介されている。日本語には同じ発音で意味の全く異なる熟語が無数に存在する。国語辞典を引くまでもなく手っ取り早くワープロ・ソフトを使っても例えば“センコウ”と入力すると、“選考”・“専攻”・“先行”・“潜行”・“穿孔”・“線香”・“潜航”・“閃光”・“専行”・“選好”・“鮮紅”・“戦功”・“先攻”・“選鉱”・“銑鋼”・“遷幸”その他“千”に多くの“コウ”の字が結合したものなどがズラリと候補として並ぶ。日本人は相手の話の中に“センコウ”という発音を聞いた瞬間にこれらの文字を頭に思い浮かべ、その中からこの際正しいと思う熟語を選択する。相手の話はどんどん進行しているのだから、この想起と選択は瞬間的に行なわれる。こういう神業のようなことを日本人は日常不断に行なっていて、自身はそれに気がつかない。日本語ができるということはこういうことである。

 こういうことになったのには経緯がある。昔の日本語にはそれを表記する適当な文字がなかった。中国との文化交流で漢字がまず表音文字として次いで表意文字として導入された。元来漢字には四声という四つの発音モードがあるが、日本語にはこのような発音変化がなかったので、導入にあたってそういう声調(音の上下の変化)は無視された。尤も中世の日本語では表音文字としての漢字の使用は仏教関係以外は限られていたし、表意文字(訓)としては元来やまとことばだからさして混乱は生じなかった。
 明治になって西欧文明が導入されるや、西洋文化に関わるあらゆる名称や用語を片っ端から日本語に訳すために漢字が動員され、数千数万語に及ぶ和製漢語が作られた。具体的に誰と誰がどのような形でこの作業を進めたのかは詳らかではない。福沢諭吉あたりは大いに関与したらしい。日本語は音韻組織が簡単なために漢語で異なる音が同じ音になり、同音意義語が激増した。世界で多くの言語がまだ文字をもたずにその機能を果たしているが、日本語だけはかくしてことばが文字の裏づけを待たなければ、発音だけでは意味を確定できない、世界で唯一の特殊な言語になった。必然的に冒頭の記者会見の如き混乱が生ずる。この問題は今となっては根本的な解決の方法はない。
 もう一点のテーマは使用する漢字に関するもので、明治初頭に漢字を制限し究極的に廃止する運動が始まったが実効は上がらなかった。昭和の敗戦後、戦いに敗れたのは軍事力・経済力だけでなく文化の敗北だと識者は言い、読売新聞は漢字の廃止と音標文字の採用を社説に掲げた。結果として国語審議会が設けられ、当用漢字1850字と人名用漢字を定めて使用する漢字を制限し、究極的には漢字全廃に至る一里塚としたが、運動はここで頓挫してしまった。結果としては多くの日本人がこのくらいの数がちょうどよいと考え、以後少し増えて現在に至っている。昨今人名漢字として約600字を増やす提案が法務省からなされている。
 字体に関しても戦後間もなく能率上従来より画数を減らす字体を文部省と国語審議会がかなりの数採用した。“體”を“体”、“獨”を”独”、“假”を“仮”の如くである。同様な略字推進の措置は中国においてもほぼ同じ時期に、より大きい規模で実施された。一部の識者(高島俊夫氏など)は文字を過去の日本人と現在の日本人とつなぐ手段と考えて安易に字体を変えることに反対している。高島氏は敢えて“假定”と書く。またワープロが普及した現代では手書き文字とコンピュータで管理する文字とでは扱いを変えてしかるべきという思惑がある。手書きでは勘弁願いたい複雑で画数の多い字も、ワープロの文章では簡単に呼び出せるのなら使ってみたい。だが一旦修正した内容は容易に元へは戻らない。今のパソコンO.S.(WINDOWS XP)では“假定”という字は呼び出せない。尤も今までもそうだが、不合理性を感じて反対の声が大きくなると改変の動きは止まる。もうこれ以上字体の簡略化は進行しないだろう。
 著者は再三にわたり漢字を経済産業省の工業規格関係者がJISの工業規格として仕切っていることを難じているし、TRONの開発者として有名な東大の坂村健教授も「文字は文化規格で決して工業規格ではない。どこかで誰かが一方的に仕切るのはよくない」と批判している。尤もであるが既述の法務省の話はどうなるのか。大局的に見ると明治以来の漢字に関連する日本語改変の歴史は決して首尾一貫して整然と合理的に行なわれたわけではない。でも結果的には万人が概ね許容する枠の中に収まっている。そしてその長所・欠点は総体としてすべての改変を追認してきた日本人全員が責を負わなければならない。

<三菱自動車> ここへきて三菱自動車の製品欠陥隠匿が連日ニュースになっている。日頃関わりがない分野なので事態の本質がよく理解できなかった。三菱ふそうトラックが死傷事故を発生した顕著な事由は二つあって、後輪ハブとクラッチハウジングの2ヶ所いずれも強度不足によるものという。消耗部品でもない箇所の破損が整備不良(企業側の事故に対する当初の弁明)によるというのは本来理解しにくいことだが、マスコミの報道は企業の隠蔽体質を指摘するだけで、これだけの騒ぎになっても詳細が開示されていない。私なりに問題を理解しようとインターネットで検索してみた。すると“酔うぞの遠めがね”というページがあり、“ハブ”について次のような記述を見つけた。
 90年9月20日三菱自動車製のカーゴで後輪ハブが破損するトラブルがあった。この車を回収してハブを調べたところ、本来とは異なる場所に丸みがつけられていた。旋盤を動かすプログラムにミスがあったのが原因で、遅くとも89年12月に設計を変更して以降のハブは不良加工だった可能性が高い。同社は90年10月26日にプログラムを修正したが、それより前の車は回収せず問題が起こった時にのみ処置することにしたという。今年に入り三菱ふそうがこの不良加工の度合いをコンピュータで解析したところ、当初予想より影響が大きいという結果が3月に得られたという。更に設計通りでも肉厚が薄く強度が不足しており、旋回を繰り返すと亀裂が発生し走行不能になるとも判断した。同社幹部は「加工不良と肉厚不足と過積載の三つが重なって破損は起きる。一つでも欠けていればこうはならない。90年当時は解析をせず、過積載が破損の原因と考えていた」と話している。

 これに対する“遠めがね”の評価は ―根本的にバカである。製造業界の恥と言わざる得ない。形状の違うもの作ってしまうことは、加工だからあり得る。問題はそれを出荷してしまう体制にあるし、さらに「問題が起きたら対処する」とはどういう意味なのか?ハブという極めて重要ではあるが、さほど高機能ではない部品の問題と言えば破損ぐらいしかあるまい。つまり、問題とは良くて走行不能、悪くすると車輪脱落しか無いのである。高速道路で走行不能になれば問答無用の大事件だろう。走行不能になっても構わないということで出荷したことになる。
 さらに、確かに過積載は破損を引き起こすだろうが、車輪が取れるといった可能性があるような部分が壊れるのは、設計思想としてあまりに危険である。機械の設計では過荷重の時に他に致命的な影響を及ぼさないために、わざと先に壊れる部分を組み込むが常識である。自動車であればクラッチやミッションの内部機構が壊れるというのが普通であろう。この幹部なる人物は技術上の責任ある発言の出来る人物なのか?関係した人間を全員懲戒解雇でちょうど良いぐらいの問題である。―
 別に読者の一人のコメントとして ―三菱の車は25年以上前から買わないことにしています。25年前に初めて三菱ミニカを購入した。
@最初の頃、運転中にお尻がチクチク痛いのでシートを調べたらバネの先が突き出ていた。・・・販売店でシートを交換。
Aルームミラーを調整していたらルームミラーが外れた。・・・販売店曰く、衝撃で取れる設計ということであるが、手で調整しただけなのに・・・・何とか無料で修理。
Bハンドルの継ぎ目からヒビが入り隙間が出来た。・・・販売店で無償交換。
Cエンジンからオイルが染み出して来た。・・・町の修理屋で部品交換したが直らず、部品代と工賃で大損した。
 2年で大損覚悟で、T社の大衆車を購入したが、これは故障はせずに良かった。 三菱の再建策を検討しているが、日本に三菱は必要がなく存在価値がない。三菱マークを付けた車を見ると、@三菱の関係者かA大幅値引きで購入したかB車に無知な人かと何時も見ながら思っている。三菱の車とS電気の商品は、二度と買わないと決めています。―

 “クラッチハウジング”については情報公開がないらしく、“酔うぞの遠めがね”もー75000台のリコールがこのほど発表された。“ハブ”と違って回転もしない部品で、これが破損するのは振動強度が不足しているとしかいえないが、常識では考えられないー以上には突っ込んでいない。別の情報では ークラッチハウジングの剛性が不足しているため、走行時に亀裂が発生。クラッチハウジングが破断して、トランスミッションまたはプロペラシャフトが脱落するほか、ブレーキ系統や燃料系統など周辺部品を破損させる可能性があるーとしている。“ハブ”以上にお粗末な内情で、恥ずかしくて具体的にこれ以上公開できないのが本音ではなかろうか。
 前記の“ハブ”での対応の仕方に三菱自動車という会社に内在する問題の深刻さをうかがい知ることができる。以前にも述べたが私はCADとCAM導入以前の機械屋だが、報告されたような実情であれば、CADとCAMの安易な導入が技術を退歩させているといっても過言ではない。“遠めがね”氏がこちらの言いたいことを概ね言ってくれているから、同じ事を繰り返す気はないが、記事は機械部品の形状の応力集中と疲労強度に対する関係技術者の鈍感さを感じさせるし、同社幹部の宣言は設計・製造・品質管理・販売にわたって技術に取り組む真摯な姿勢の欠如とコンピュータに頼り謙虚な内省を怠り傲慢で官僚的・事務的な経営姿勢が全社に蔓延している内情を窺わせる。
 もう一つの読者の一人のコメントについては 内容は今回の深刻なクレーム隠しとは直接結びつかないが、会社の体質が長年月を経て醸成されることを如実に示し、私が嘗て35年前に米国で常時悩まされたフォード社のレンタカー車の借り替える度のマイナー・トラブルの経験とリンクする。このようなトラブルを300件タレ流しにすると1件の重大な事故が起こると言われている。
 最近三菱重工から乗り込んだ岡崎会長兼社長が隠蔽体質の除去と再建計画(再度修正した)を記者会見で表明しているが、役員の総入れ替えぐらいでこの会社の体質が根本的に改まるとは決して信じられない。マスコミは専らトップによる情報隠蔽を糾弾しているが、顧客を大切にせず技術を軽んじる退嬰的な風潮は全社に満ちている。今後トラックも乗用車も続々と遅れていたクレームが公表され、無償修理が行なわれるようだが、究明が進めば先の二つの欠陥は氷山の一角だったことがハッキリしてくるだろう。
 この際三菱グループ全体でダイムラークライスラーに見捨てられた三菱自動車を経営的に支援する気らしいが、私はロケット打ち上げ失敗で露呈されたように官僚的な腐敗が今や三菱グループ全体を蔽っており、日本全体の技術の足を引っ張っているような気がする。これが杞憂であればよいが。トヨタの“カイゼン”精神とは大差ではないか。いずれにせよ三菱自動車が顧客の信用を取り戻すのは絶望的に見える。

<溶接> 機会学会誌をめくっていると“ロケットタンク製造の新技術”という記事が目に止まった。久しく新工業技術から遠ざかっていたので興味を覚える。ロケットというのはその主体となる大部分が円筒形の燃料タンクで、先端の僅かの部分に頭脳部たる肝心の積荷を載せ、末端にエンジンを装着している。内部に20万l・-253degCの液体水素燃料を収納し、500t以上の推力に耐える最小板厚2mm、直径4m、長さ10数mのアルミニューム合金製タンクは溶接ひずみ・溶接欠陥に対する要求が極めて厳しい。
 こういう製品の製造に適した溶接技術が開発された。1991年TWI社(英)の摩擦かくはん接合(FSW: Friction Stir Welding)である。最大の特徴は溶接棒を使わず、従って接合部に異種金属を介在させないで溶かさずに接合する。上図のように被接合材より硬くて高温に強い段付きの円柱状工具を回転しながら接合部に圧入する。摩擦熱により温度が上がり被接合材は溶融しないものの、ミルクセーキのようにやわらかくなり挿入されたピンが軟化した材料を撹拌し混ぜる。工具を接合する線に沿って移動させると、ピン前面の金属が塑性流動しながらピン後方に移動し,接合組織が形成されて一体化する。
 しかし通常のFSWでは回転工具の反対側には押し付け荷重を受ける強靭な裏当て板が必要になる。ところがタンク組み立てのような閉空間ではこの裏当て板の実用化が困難になる。またピン先端部では撹拌性不足によるキッシング・ボンドと呼ばれる欠陥が発生する恐れがある。この欠陥はX線撮影でも発見が容易ではない。

 このような問題を解決するために開発されたボビンツール・タイプのFSWではショルダーが表裏両面に存在し、部材を挟み込んで接合することで荷重が両ショルダー間で相殺されて、裏当て板が必要なくかつピン先端部がないので、欠陥の発生が防止できる。接合後の変形もアーク溶接の1/10以下と極めて小さく、かつ接合欠陥が極めて小さいため、製品の低コスト化と高品質化を実現できるという。
 高強度のアルミニューム合金(いわゆるジュラルミン)では溶融溶接ができないのでリベット結合が用いられてきたが、この技術によって直接接合が可能になる。米国など各国で開発が進められているがまだ実用化に至っていないという。その障害の詳細は学会誌には述べられていないが、読んだ限りにおいて何点かの疑問と興味が生まれた。
1)まず接合作業の終端でどういうふうに工具を引き揚げるのかよく分からない。ボビンツール・タイプの場合裏側のショルダーからピンを引き抜かなければならないだろう。それを可能にする工具の構造はどうあるべきか。また引き抜いた後には円孔が残るのでそれを欠陥の残らぬようにうまく埋めなければならない。これはなかなかの難題であろう。
2)先に述べたようにボビンツール・タイプのFSWの方が裏当て板の必要な一方から押しつけるタイプのFSWより優れているのなら、何故後者も捨てられずに残っているのか。インターネット検索の結果はこの後者のタイプで工具形状に秘密がある(特許でもあるのだろう)と記されている。
3)この工法はアルミ合金にしか適用できないのだろうか。一般の鉄鋼製品、特にステンレス鋼全般にもし適用が可能ならば、原子力産業をはじめとして応用範囲が大幅に拡大されるに違いない。原発で問題になっているあらゆる構造物の溶接欠陥、残留応力、クラックの発生がこの工法で改善されれば貢献度は絶大になる。品質管理の手法も変わるに違いない。自分は金属材料の知識に疎いので、こうした期待は無謀かもしれないし自信はないが、施工条件を工夫してもし実現できれば革命的なことだ。
 昨今の学会誌は個々の論文をその重要度の違いに関わらず、ページ数を絞りかつ揃えることを大事にしていて、実質的に興味を惹く記事が不当に割愛されているし、ましてやその記事に関して読者の意見や質問を誘って論議を継続するような活きた企画が乏しく、お体裁ぶっている。このような論文を契機に編集方針を変えてくれると、読み甲斐が生まれてよい意味で学会誌も変貌を遂げると思うのだが。

<一筆書き旅行> “日本最長12000km片道切符の旅”と称して前月6日から今月23日まで北海道の稚内駅を発して佐賀の肥前山口駅までNHKの協賛で関口知宏氏がJRの一筆書き鉄道旅行を実行した。延べ42日間、105本の支線、178回の乗り換えだったという。以前に宮脇俊三(故人になった)が同様の鉄道旅行をしたのを紹介した(2000-10<鉄道狂>)。その際のコメント通りに廃線などで事情が変わり、今回は宮脇氏の記録13320kmより総延長距離は1割ほど減らざるを得なかった。

 それでも出発の日車窓の右側に見える利尻富士はまだ麓近くまで雪を冠っていたしまだ冬の装備だったのが、旅の終盤九州へ入る頃には半袖の完全な夏姿に変じて季節の移り変わりを明らかにした。こちらはテレビの番組表を見て、忘れなければ今日はどこまで行ったかなとその時刻に15分ほどチャンネルを合わせるだけだが、本人は朝から晩まで日本全国を太平洋岸から日本海側まで何度も行ったり来たりし途中下車で珍しい沿線の人情を紹介しつつ、時刻表と首っ引きで多くの車両を誤たずに乗り継いでいくのだから身も心も疲れたに違いない。毎日が異なる環境に身を委ねるのだから慣れるということはないし、視聴者への紹介のためにポイントを逃すわけに行かない。詳しい紹介はなかったが毎日泊る宿が変わるだけでも気が疲れただろう。日曜を除いては決して寝過ごすわけにはいかなかった。
 東北での温泉のはしご、山陰での棚田での田植え、東京近郊の谷間の駅から長大なエスカレータで丘の上に開発された住宅街への訪問などいくつも変わった経験をした。印象が強かったのは全国的に鄙びた地域では単線区間が結構多く、1両だけの車両もあったことと、それにも関わらず登場する鉄道車両が美麗で新しいものが多いことだった。戦後長く都心でも見られたくたびれたような茶色の電車(私は国電というとこのイメージが脱けない)など今ではどんな地方へ行っても見られない。代わってこどもに好かれる綺麗な絵を側面に描いた車両が増えた。
 関口氏は強い使命感をもってスタートしたと思うが、日を重ねている内にまた近いところに戻ってきたりして「一体俺は何をやっているのだ」と送る日々に疑問を感じたことがあったに違いない。一直線に事態が進行しないことに苛立つのが人間の性だからだ。それにも関わらず旅行をしている本人にとっても、観ている視聴者にとっても、こういう企画は帰らざる時の流れを感じさせてくれる。どうあがいても決して元へ帰ることはあり得ないのだ。人生そのものもまあこんなものだろう。顧みて大した企画ではないという気もする一方で、折々の二度と再現できないいくつかの風景を想い出させてくれる。北海道の沿線にいた一羽の丹頂鶴。山陰本線で見た宍道湖の美しい夕焼け。

 ご本人は脇道として通過した四国周遊(四国は鳴門鉄道橋1本のために一筆書きが成立しない)でこの旅はご遍路に似ていると述べたし、地方の旅の中での数多い人との出会いと別れに強く魅せられた。こういう機会を与えられなければ決して訪れることのない全国の鄙びた里の魅力を駆け足通過であるがためにジックリ味わえなかったことを残念がり、旅の終着点でこれで旅は終わったが、新たな旅をまた明日から自由気ままに始めたいと言った。そう言えばこの番組を通して「旅の終わりがここなら、旅の始めもここから」という歌が流れていた。




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