
<環境危機>
“地球にやさしい”という言葉がある。地球上の環境汚染を防ぐあらゆる努力に対して賦与されることばのようだが、正直に言えば地球の上でのさばる人類が当面どう振舞おうが、物理的に地球はビクともしない。環境汚染によって苦しむのはそれをもたらした人類自体であって自業自得である。化学的な汚染にせよ、放射能汚染にせよ、あるいは森林資源に始まり原油・石炭など諸資源の枯渇にせよ、その影響は早ければ十年、遅くとも百年乃至は数百年で人類と他の生物種を決定的な苦境に追い込むだろう。1万年先の安泰など愚かな人類には望むべくもない。一方地球の歴史でいえば1億年などは気候変動の何回かの波に相当するだけで人類のもたらす環境汚染などは十分に呑み込んでしまうだろう。その時点で改めて人類が誕生すれば暫くは存続可能だろうが、万一それまで人類が生き残っていればそれは僥倖である。そうなれば“地球が人類にやさしかった”ということになるのだろう。
マーク・ハーツガードの現場報告“世界の環境危機地帯を往く”を読む。彼の報告によれば深刻な環境悪化として1)バンコックなど都市における自動車排気ガス汚染、2)重慶など中国内陸部の石炭燃焼ガス汚染、3)ロシア・チェリヤビンスク周辺の放射能被爆、4)アマゾン流域などに代表される地球規模の森林伐採などを指摘している。それぞれ現場報告は相当に深刻だが、中でも3)に代表される放射能公害はその害の大きさと持続性において、まだあまり注目されていないが人類に対するダメージが比べものにならないぐらい大きいことを教えられた。
コード名“マヤーク”で呼ばれ、現在もその実態がチェルノブイリと異なりソ連政府当局および引き継いだ政権によって公表を抑えられたままだが、チェルノブイリよりずっと深刻な被害が生じているという。マヤークではこれまで3回の核災害が起こっているが、それは事故というよりは意図的な政策が招いた結果だった。1949年にマヤークの生産コンビナートが最初の核兵器を製造した時から1956年まで当局は放射性廃棄物を近くのテチャ川に直接流した。次に1957年9月29日放射性廃棄物の投棄場が爆発し、70〜80トンの廃棄物が空中に放出された。放出された放射能の総量は2000万キューリー、テチャ川に投棄された量の10倍である。更に当局者は2番目の事故に先立って廃棄物をテチャ川の代りに天然の湖カラチャイ湖に流し始めた。この湖には出口がないから下流の汚染はないと考えた。ところが1967年旱魃でむき出しになったカラチャイ湖の湖岸を大竜巻が通過し、死を招く汚泥を空高く巻き上げ、周辺地域に撒き散らした。
ゴルバチョフのグラスノスチ政策によってチェルノブイリ事故は明るみに出たが、チェリヤビンスクの事故の影響と被害はそれよりはるかに長い年月続いたにも関わらず、1989年まで最高機密として伏せられていた。従って被害の全体像は今でも明らかではないが、チェリヤビンスクはゴルバチョフ・レポートによればソ連で最もガンの発生が多い地域とされており、カラチャイ湖の1億キューリーの放射能は今もなすすべなく放置されている。放射能は目に見えないので被害の惨状が映像で伝えられない。
また旧ソ連圏では1986年にチェルノブイリで爆発を起こしたものと同型かそれ以上に危険な黒鉛型原子炉がまだ15基も稼動中である。それらの発電所には原子炉のメルトダウンを阻止できる緊急炉心冷却装置を欠く上に、メルトダウンを起こした場合に放射性廃棄物が大気に達するのを防ぐ炉心完全格納容器もない。米国はじめ西欧諸国は原子炉の閉鎖を迫ったが、ロシアは電力の埋め合わせが利かないという理由でこれを拒否した。
一つの原子力災害地帯がロシア北西部のコラ半島にある。何十年も前からソ連当局はコラ半島周辺の海をゴミ捨て場にして使い古しの潜水艦用原子炉や使用済み核燃料などを投げ入れた。この豊かな漁場は世界のすべての放射性廃棄物の三分の二を呑み込んだ。更に70隻の大量の濃縮ウランを収容した原子力潜水艦が退役を待っている。
旧ソ連だけでなく米国も含めて人類はこれまでにおよそ7万の核兵器を製造した。その結果当の核兵器だけでなく、推定40万トンの劣化ウラン、30億キューリーの高レベルのプルトニューム関連廃棄物、1〜2億トンのウラン選鉱滓を安全な場所に貯蔵・管理しなければならない。放射性廃棄物は核兵器の製造が始まった当初から“泣き所”だったが、それはもっと差し迫った問題(軍拡競争に負けない見通しが立つこと)が達成されてから処理すべきものとされた。この問題の解決の難しさは放射性核種(主としてプルトニューム)が極めて有毒な上に何千年もの半減期を有していることである。これは既知の人類文明の長さに匹敵する。他の公害に比してはるかに深刻なこの性質を当事者たちが不当に軽視してきたことは特筆に価する。
軍拡競争に歯止めがかかったのは1993年に第2次戦略兵器削減条約(STARTU)が調印された時である。この条項によればどちらの国も2003年までに長距離核弾頭およそ3500発(1980年代後半までに両国が保有していた数の約三分の一)を減らさなければならなくなった。更に1997年にエリツイン、クリントン両大統領はSTART Vとして2007年までに長距離ミサイルをどちらの国も2500基未満にまで削減することに原則的に合意した。START Vはロシア議会がSTARTUを批准しない限り具体的な協議もできないのだが、そのSTARTUはアメリカ上院でも1996年まで批准ず、ロシアは2002年STARTUからの脱退を表明した。しかし別に行なわれた米露首脳会議もあって、現在の両国の戦略核兵器の削減状況は米国が11906発から5948発へ、ロシアは10830発から4852発となっている。
“地球最後の日の時計”というのが騒がれた。軍拡競争のさなかには時計の針は11時59分まで進んだなどといわれた。ところがSTARTの発足で多くの市民や政策立案者は心地よい自己満足に陥った。軍拡競争の激しかったあの時代は一種の悪夢とみなされ、新しい朝の活気と可能性の中に忘れてしまうのが一番だと考えられた。ロスアラモス国立研究所の元核兵器設計者シオドア・テイラーは“地球最後の日の時計”の適正な針の位置づけについて、“最後の日”をどう定義するかによって決まると述べている。それが第3次世界大戦を意味するのなら午後11時30分を選ぶ。しかしもし“最後の日”を“核テロリストが10万人を超える人々を殺すまでに残された日とするのなら、私は0時2分前にセットするだろうと述べた。旧ソ連の核兵器・核物質の管理は杜撰になっており、一方でテロリストの脅威は年とともに増しているからだ。
こうしてみると日本における原発の管理状態もどこまで当事者たちを信頼できるか、重要な情報をごく一部の人間だけが握っていて、且つ不測の事態への対応をどこまで考慮しているのか情報開示はなされていない。人間の浅はかさをアチコチでいやというほど見せ付けられているだけに心配になる。フランスを含めてヨーロッパ諸国が一斉に原発中止を決意したのも尤もだ。総じて核兵器の開発と原子力発電所の運用は先に指摘したプルトニューム放射能の半減期を考えると、その実態と将来の危険性の発展を併せて公害の最たるもので、人類の滅亡を脅かす恐れが最も大きい。今から始めようとする国もあるようだが、それが愚の骨頂だと悟るのに長い日時は要しないだろう。

<古事記雑感> 目新しいテーマではないが、古事記の世界に改めて触れたくなり、次の2冊に目を通した。“古事記の読み方”(坂本勝)と“古事記の世界”(西郷信綱)いずれも岩波新書である。前者が平易な解説書であるのに対して後者はこの古典の生まれた背景にも言及している。
6〜7世紀に大陸文化は大波のように日本列島に押し寄せ、それまでの日本の神話的な伝統を激しく突き崩そうとした。このゆさぶりの結果が大化の改新による官僚国家の成立を促したが、この際に今までの神話伝承をまとめておこうという動きが生まれて、古事記と日本書紀はほぼ同時期に編纂された(日本書紀の方が8年後)が、前者が和文であるのに対して後者は漢文で書かれた。主たる内容はいずれも天皇家の祖先が地上に降りてきて天下を統治するに至った経緯であるが、後者はアジア世界の共通語である漢文によってヤマト朝廷成立の事情を周辺諸国に報せる意図があったと思われる。一方古事記は表記文字としてまだカナ文字はなかったから漢字を用いたが、母語の文字化を目指して得られた変体漢文体、すなわち漢字による和文である。ただしすべての漢字を表音文字として使ったのではなく、“山”・“海”などよく意味の知られた漢字は訓として使った。表音文字としての漢字も同音に対していくつも使われていて読みにくいが、我々の先祖(宮廷巫女・稗田阿礼の誦習を学者官僚・太安万侶が編纂したと言われる)が自前のことばを表記する生みの苦しみだった。先月記した<日本語の特殊性>はここに発端がある。
古事記に現れる地勢はまず高天原と葦原の中つ国および黄泉の国という三重層の世界像から出発する。葦原の中つ国は人の生活する中心部で王権を建てた大和に代表され、黄泉の国は死したイザナミがイザナギを黄泉比良坂(伊賦夜坂)まで追いかけてきたという死者たちの世界の入り口出雲を表す。東の大和から見ると出雲は海に日の没する西の辺地であった。大和の天の香具山は高天原に至る天への昇り口であって、香具山の界隈に位置する大和の朝廷は垂直に高天の原に連なる聖なる中心点と考えられていた。しかし宮廷の力が強まるにつれて容易に手の届かぬ高天原ではなくて地上に天照大神をまつる聖所の創建が求められるようになり、香具山の真東、日出ずる海に接した伊勢の地に伊勢神宮が設けられ天照大神が遷座された。このような位置関係を重要視する考え方は遠いペルーの人たちと共通性がある。
イザナギが亡妻を忘れられず黄泉の国まで追っていき、イザナミの腐乱死体を見て逃げ帰る話は印象的で、古代人は火葬にしなかったらしく死を忌み嫌う感情が今より強かったのだろう。イザナギが黄泉比良坂を岩でふさぎこの世に逃れたが、この岩を塞(さえ)の大神と呼び、民間の道祖神信仰に繋がったことは知らなかった。道祖神は外から襲ってくる悪霊や疫神を村境や峠や辻で防ぎ守る石神で、あの世とこの世の境をつかさどる神である。こういうのが日本古来の多神教の原点らしい。
出雲を代表する大黒主神は高天の原で悪業をはたらき根の国(黄泉の国)に追放されたスサノオの子として登場する。彼はオホナムジと名乗り因幡の白兎を助けるが、兄弟の八十神たちにいじめられ数多の苦難を受け、何度も死にかけるがその都度救い出される。詳細は省くがやがてスサノオのいる根の国に逃げ、更なる試練を受ける。最後にスサノオの頭のシラミならぬムカデを取らされるが、スサノオが眠ったすきに頭髪をあちこちの柱に結びつけ、須勢理姫を背負い大神の生太刀と生弓と天の詔琴を持って逃げ出した。スサノオは黄泉比良坂まで追いかけてきて、「娘は呉れてやる、太刀と弓を持ち、以後大黒主神と名乗れ」と呼ばわった。生太刀以下は現皇室に伝わる三種の神器の原型で、王たるの資格を証する呪器である。
大黒主は以後八十神たちを退治し、スクナビコナの助力を得て国作りに励む。国作りとは民衆の農の生活を開くことで、もろもろの国主たちが出雲の大黒主へ収斂統合され、彼が葦原の中つ国の棟梁に仕立てられていく政治的・神話的な過程を“国作り”と称している。大黒主の魂は地方全国の神(神社)に分ち配られ、この過程が国作りの実態であり、俗に神無月には全国の神々が出雲に集まるというのもこの統合過程の俗信化したものであるといわれる。
<早打ち> 息抜きによその国のニュースを紹介する。シンガポールで6月27日(現地時間)、携帯電話のメール早打ちコンテストが開かれ、23歳の女性が160文字の英文を43.24秒で入力して優勝した。ギネスブックによると、従来の最短記録は67秒で、新たな王者として認定されるのは確実だ。
優勝したのは、経営学を専攻する学生のキンバリー・ヨーさん。課題文は「Therazor-toothed piranhas of the genera Serrasalmus and Pygocentrus are the most ferocious freshwater fish in the world. In reality they seldom attack ahuman.」で、和訳すると「鋭い歯を持つピゴケントルス属とセルラサルムス属のピラニアは、世界で最もどう猛な淡水魚だ。実は人間を襲うことはめったにない」という意味の文章だ。
従来の王者は英国男性で、03年9月に同じ文章で記録を達成した。もちろん入力支援機能などは使わないことが条件。コンテストは、同国の大手通信会社、シングテルが、開業125周年を記念して開催した。目抜き通りのショッピングセンターが会場となり、参加したのは125人。ヨーさんは8回挑戦し、うち4回が44秒を切った。月に平均1500通のメールを送るため、鍛えられたとか。賞品として現金1万7500シンガポール・ドル(約100万円)や最新式携帯電話などを獲得した。準優勝は18歳の男子短大生で、43.66秒だった。
記録というのは人々がその気になって挑戦するようになると続けて破られるが次第に更新の度合いが減っていくものだが、このテーマはまだ熟していなかったのだろう。従来記録の64.5%にまで一気に短縮された。でも準優勝の学生も似た記録だからこの辺が人の能力限界に近いのだろう。近頃の小中学生は皆携帯端末を持っていて、右手だけで目にも留まらぬ速さで入力するそうだから、日本の若者も負けないだろうと思う。但し英語は苦手かもしれない。大文字・小文字の切り替えも必要だ。日本語の適当な文章を選んで同様なコンテストを開催したら面白いかもしれない。日本語の場合は漢字変換のテクニックが鍵になりそうだ。誤字があれば当然失格になる。チャンピオンになるのは何歳か興味がある。また日本語と英語ではどの程度の差が出るだろうか。
<波長が合う> 京セラの名誉会長・稲盛和夫と作家・五木寛之の対談を読む。二人とも昭和7年生まれだから1年年長である。この二人が対談の冒頭でお互いに“波長が合う”と言い出し、稲盛氏は二人は前世でずっと親密な間柄ではなかったかなどとさえ言った。世の中にはすれ違っただけでも心の通じ合う人がいる。かと思うと顔を見ただけで反発を感ずる異な思いの人がいる。五木氏も世には情報が氾濫しているけれども、最初に直感的に感じたことをもっと大事にすべきだと強調した。
若い読者が稲盛氏の本を読んだ瞬間に故郷へ帰ったような気になったと共感の手紙を寄こすのを五木氏は書かれている思想とか内容はもちろんだがそれより先に何か心の中に感じるものがあるからだと言う。気が合うということで、書店の店頭で本の表紙を見ただけでこの本は自分の読むべき本だという感じのすることとも通ずるという。“情報”とは情を報ずることで、本当の情報というのは統計とかデータではなく、人間の心の中の感情をきちんと把握してそれを伝えることだと五木氏は主張している。
20世紀は知の文化を大事にしていきおい情の文化をおろそかにしてきた。幼児教育も乾いた環境で問題が表面化してきている。両氏はこの際日本伝来の信仰や風習を大事に思い、取り戻すべきだと主張する。そういえば私自身も日常生活の中で反省が足らない。稲盛氏の目下の最大の関心事は死を迎えるときに自分の魂が汚れているのか、磨かれて美しくなっているのかだと言い、そのために残る人生を努めていきたいと言われる。こういう人に波長を合わせたい。

<野の花> “定年後をパソコンと暮らす”(文春新書)という小冊子を入手して、現在の自分と似た境遇の人たちの生き様を覗いてみた。22人ほど紹介しているが、中でも“ホームページ作成の達人”と呼ばれている人に興味を覚えた。商業高校からトヨタへ入社し、技術屋のような事務屋さんと言われて生産管理を担当、やがて系列企業に移って役員まで勤めた人である。トヨタではOA化のリーダーを務め、社内のプログラム・コンテストに優勝したこともある。62歳で退職後は本格的に“還暦QPON”というホームページを立ち上げた。これを覗いてみると整然と並んではいるが厖大な目次がある。その中には各種のゲームをはじめ多数の自作ツールが並んでいる。ご本人の了解を得てデジタル時計つきのカレンダーを私のホームページに取り込ませてもらった。
私が感心したのは“野の花”シリーズ(http://qpon.cool.ne.jp/nobana/)で、自宅の裏山や付近の散歩道で野花をデジタルカメラで撮りまくったというが、事典で丹念に野草の名を調べ上げその数は300種を超えている。画像はすべて235KBで印刷に耐える画素数である。子供の頃から見知った雑草類がほとんど網羅されていてそれにキチンと名が入っており、ああこういう名だったかと改めて認識させてもらった。こういう機会でもなければこれらの名は憶えずに終わっただろう。人にはあまり冴えないように見える花でもそれなりに好みの虫がいて、ちゃんと交配の役を果たすのだろう。
その中の20種ほどは野の花とは言い条、実に美しい。花屋で売られているものとは異なる、整わないが見飽きない美と野生の逞しさがある。その名を挙げるとイモカタバミ、ガガイモ、キキョウ、キキョウソウ、キチジョウソウ、クサギ、クズ、コオニユリ、サワヒヨドリ、ジャノヒゲ、スイカズラ、ゼニアオイ、タチツボスミレ、ネジバナ、ハルリンドウ、ホトケノザ、マルバルコウ、ムラサキカタバミ、ヤブカンゾウ、ヤマラッキョウ。無理にひとつだけ選んで左上に掲げるのはネジバナ。素朴な美しさはなんともいえない。
世の中にはこの種の多くの画像を表示しているホームページがあるが、大抵は気紛れで中途半端だ。この人のように丹念な仕事をする人は少ない。もちろん豊田地方にない植物はなくて当然だが、私の見知っている草花類はほとんど集録されているように思う。ほとんどすべての草の種は空中を浮遊してか昆虫の媒介によって関東・近畿など気候の似通った地方では共通に繁殖しているのだろう。人の手で保護・管理されたわけではなく、長年月を生存競争を生き抜いてきた成果だから、考えてみればそれぞれがいとおしく思われる。雑草などと呼び捨てては申し訳ない。

<ヨルダン渓谷> ゴラン高原の西に位置するガリラヤ湖は南北20km・東西12kmあり、海抜-210m。塩分濃度は高くない。その北東に9000人のユダヤ人が滅ぼされたガマラの遺跡がある。イスラエルの最北端に位置するヘルモン山は標高2800mで頂上には年を通じて冠雪がある。ヨルダン川はガリラヤ湖に発する比較的に小さい川で川幅5〜20m、全長120kmで南下して死海に注ぐ。死海はイスラエルとヨルダンの国境に位置して幅17km、長さ60kmの大きさがあり、その湖面は海面下400mの低さにある。流れ出る先のないその湖水は蒸発によって塩分が海水の凡そ10倍に濃縮され、特にマグネシュウムが多い。比重は1.2。死海のほとりには400mの高さに聳え立つマサダ砦があり、ローマ軍に攻められたユダヤ人967名が3年の死闘の結果全員自刃した遺跡になっている。砦の頂上にはイスラエル国旗がはためいていて、イスラエルで徴兵された青年全員が“ノーモア・マサダ”を誓う結団式が毎年ここで行なわれる。
北方ヘルモン山から流れ下った水を湛え緑豊かな丘陵地に囲まれた美しいガリラヤ湖とその下流になるヨルダン川西岸および死海周辺の荒涼たる砂漠や一木一草も生えぬ禿山地帯は風景としても気候的にも対照的である。そしてこの地域は嘗て迫害を受けたユダヤ民族がモーゼに率いられエジプトを脱出してたどり着いた地であり、またイエス・キリストがエホバの神の定めた律法を無視して病者や弱い老人を励まして巡回した地でもある。その直後にユダヤの民はローマ軍によってこの地を追われ、民族離散状態になって永らく故郷を失った。
エルサレムはイエスの受難・死去・復活の舞台であり、なおかつローマ軍によって破壊された神殿の跡(嘆きの壁)でもある。キリスト教に改宗したローマ帝国皇帝に支配されるが、その後マホメッド死後のアラブ人は十字軍によって一旦征服されるまでの600年ほどこの地を支配し、更にその十字軍は回教徒とオスマン・トルコによって駆逐され、第2次大戦後の1948年イスラエルが建国されるまでアラブ民族がこの地を支配した。この建国時にはエルサレムの西半分がイスラエル領、東半分はヨルダン領とされたが、第3次中東戦争でイスラエルはこの東半分をも軍事制圧した。イスラエルはその首都を西エルサレムに移したが、国際社会はこれを認めず、各国大使館はテル・アヴィヴに置かれたままである。エルサレムはイエスの死後何度も破壊され、再建された。ローマ軍が壊し、十字軍やイスラム軍が砕き、廃墟になった街の上に新しい街を作ったので丘のようになった。考古学ではこれをテルという。かくてエルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3大宗教の聖地という複雑極まる歴史の舞台になっていて、現在も続くイスラエルとパレステイナのヨルダン渓谷全般に及ぶ深刻な紛争の象徴になっている。
第3次中東戦争の結果イスラエルは更にガザ地区を含むシナイ半島全域、ヨルダン領であったパレステイナ(ヨルダン川西岸地域)、シリア領のゴラン高原を入手して建国直後の領域を倍増させてしまった。但し後にシナイ半島はガザ地区を残してエジプトに返還、ガザとヨルダン川西岸のエリコにパレステイナ人の自治を認めた。21世紀に入ってイスラエル軍は自爆テロを防ぐためという理由でそのパレステイナ自治区に侵攻、パレステイナ側に食い込んだ360kmにも及ぶ隔離壁を建設している。2004年7月国際司法裁判所はこの隔離壁を国際人権法に違反しているとその撤去を裁定した。
地形にも象徴されているが歴史的にこれほどややこしい地域は世界にも稀である。しかし距離的にも思想的にも隔絶された日本では知る人が少ないようである。日本だけでなく中国や朝鮮、インドネシアなどアジアの民衆も同様であろう。知っていても他人事になる。それが不人情とも言い切れない。元来独善的なユダヤ教の教義に絶えざる争いの根本原因があって、事情を知悉している人たちも紛争解決はお手上げなのである。
作家遠藤周作がこの地に滞在する友を訪ね、イエスの足跡を求める「死海のほとり」という小説を読む。故郷のナザレで大工をしていたイエスはやがて故郷を離れて長くガリラヤ湖の周辺をさまよい、最後に過ぎ越しの祭りを祝うために集まるユダヤ人とともにエルサレムにやってきて捕えられ処刑される。彼らの調べた範囲で明らかになったのはイエスはライ病患者と一緒に寝てやったり熱病患者を看病したが彼らの病を治せなかったし、子供を亡くした母親や死にかけた老人の手を握ってやったが何一つ奇跡は起こせなかった。自分は救い主(メシア)ではないと言い、長い旅に疲れた足取りで貧しい身なりをしていた。救い主ではないかと噂が立ち、民衆が彼を追い始めたが、やがて説教もせず奇跡も起こせぬことを知って皆彼から離れていった。彼は安息日を無視して病人や老人を訪ねまわり、ガリラヤの教師(ラビ)はイエスが神殿や律法を冒涜したと非難した。彼は神殿よりも律法よりももっと大事なものは“愛”だと教師たちに言い続け、彼らの怒りを買った。ガリラヤを追われたイエスはあちこちさまよった挙句エルサレムに辿り着いた。一時は数十人いた弟子たちからも見放された。
エルサレムで捕えられたイエスの処遇はユダヤ知事ピラトに委ねられた。彼はユダヤ人ではなく、宗教など信じる気はなかったが、毎年2回ローマ帝国のシリヤ総督から送られてきている監察官の心証を気にしていた。捕らえられたイエスにユダヤ人たち群衆は嘲笑と罵声を浴びせた。ユダヤ人の衆議会はイエスを政治犯とし、死刑を要求してきた。これを断れば面倒なことになると部下は報告してきたし、知事は過越しの祭を無難に過ごして郷里に帰還したかったので監察官の耳に入れる騒ぎを起こしたくなかった。この十年間のローマとユダヤ人との約束に従って過越しの祭の間に死刑囚一人を恩赦にし、代わりに特段の罪科のないことを承知の上でイエスの死刑執行書に署名した。イエスは十字架を背負わされ、処刑場のゴルゴタの丘までの長い道を群衆の嘲罵の中を歩かされた。
遠藤周作が友人とともに巡礼団に加わってガリラヤ湖を訪れると、案内人は聖書を引用しながら湖の周辺のあちこちでイエスが起こした奇跡の物語を紹介した。友人は遠藤にイエスは決して奇跡など起こさなかったが、ガリラヤの人々はイエスに奇跡を求めていたのだと語った。彼らはイエスを見捨てた弟子たちが死後にあの見すぼらしかったイエスを何故見直し、復活させ、神の子としたのか謎だと語り合った。荒野にいたあまたの強い預言者たちが一人として信仰の対象にならず、皆に見捨てられたイエスだけが弟子たちの信仰の対象になったわけは彼らに説明できなかった。
私はキリスト教のよき理解者ではないが、イエスに迫害を加えたユダヤ教に対する近親憎悪的な反発がキリスト教誕生の母体になったのだと思う。ただし信者から見ればこの欄の記述には不適切な点が多々あるだろう。だが少なくとも仏教の創始者ブッダや日本におけるその後継者の一人である空海などのように皆に崇敬され惜しまれて逝ったのではなかったという差異が明らかだし、日本やアジアには原則的にはこの地のような激しい宗教闘争はなかったので、イエスの死後造られた彼のさまざまな奇跡や説法に共感はもちにくい。冒頭に記したようなこの渓谷の特異な地理的条件が恐らく今に至るまで続く宗教・民族間の紛争を助長したのだろう。

<支那> 高島俊男の随筆で「本が好き、悪口言うのはもっと好き」という本がある。この人の論説は2002-3<漢字>と2004-6<日本語の特殊性>の2回にわたって紹介した。今度の随筆は自ら“重箱の隅をつつく”と称して日常遭遇する気になる日本語の表現を槍玉にあげたり、最近読んだ本の書評を載せたりしている。それとは別に表題のテーマは日常気になっていたことだし、氏の所説に同感なので、紹介しておく。
シナという言葉は1500年以上前のインドで現在の中国あたりを“シナ”あるいは“シナスタン”と呼んでいたのが起源である。“スタン”というのは “地方”の意でパキスタン、アフガニスタン、トルキスタン、カザフスタンなども同類である。シナの語源は初の統一帝国・秦であろうというのが諸説の一致するところである。これが西方へ伝えられてギリシャ語のシニカ、フランス語のシーヌ、イタリア語のチーナ、ドイツ語のヒナ、英語のチャイナになった。もともとこの国には政権、時代を超えて通して呼ぶ名称がなかった。革命によって秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清と変わってきたが、他国にとってはそれでは不便なので前記のような呼び名になった。
日本に“支那”という語が入ってきたのは平安末期だったが、これは仏教と関係していてインドは釈迦のいるところ、支那は文殊のいるところということで一般にはほとんど知られていない。江戸時代中期までもこの語はほとんど用いられておらず、“からのくに”などと呼んだ。江戸末期に至って洋語“China”の訳語として“支那”が広く用いられるようになった。江戸末期および明治を通じて現在の国家を呼ぶ際にはもちろん“清”と言ったが、通時的には洋学者の用いる支那はハイカラな語となり、古代支那、日支交通史などというようになった。“中国”というのはかのくにの人が低文化の辺境に対して自ら中央の高みを中国と称するのであるから、対等の関係にある他の国が相手を中国と呼ぶのはあり得ないことである。
明治45年辛亥革命によって清国は消滅し、中華民国が建国されたが、日本政府はこれを支那共和国と称することが多かった。昭和5年5月中華民国政府は日本政府に対して“中華民国”という国号を称することを求め、“支那”の文字を使用した公式文書は受け取りをを拒絶すると通告してきた。これに応じて日本政府は同年10月「支那を中華民国と呼称の旨」閣議決定した。これは日本への留学生が受けた感情に基づくものらしい。留学生たちは日本へ来るまで“支那”という語は本国では全く見聞きしていなかったが、漢字の本家であると自認する彼らが日本語は自国の言語の一変種で日本は中国文化圏の一部分と考えていたのに、“支那”という妙な字を用いて自分たちを呼び、少なからざる日本人が自分らを軽侮し相応の敬意を払わないことに憤激した。帰国すれば国の幹部となった留学生たちは“支那”という文字そのものを邪悪なものと感じ、敵意を抱いたに違いない。
日清・日露戦争後の大正・昭和の初期において日本の一般大衆において中国人に対する軽侮の念が強くなったことは事実である。しかし高島氏はこれは“支那”という呼称の問題ではなく、当時別の呼称を日本人が用いていても事態は同じだったはずと指摘している。そういえば子供の我々でさえ当時“チャンコロ”とばかにした。閣議決定後外交文書は“中華民国”に改めたが、国内では依然として“支那”を用い、その7年後に始まった軍事衝突を“北支事変”・“支那事変”と命名した。
昭和20年日本が敗北すると中華民国は連合国の一員として来日し、日本政府に対して“支那”をやめて“中華民国”の国号を用いるよう厳しく要求した。昭和21年6月外務省は「先方が極度に嫌がる支那という文字は理屈を抜きにして使わぬようにしたい」と各省次官宛に戦敗国の悔しさをにじませた通牒を発した。1949年には中華人民共和国が建設された。それ以後“中国”が中華人民共和国の略称になり、戦後約60年日本から見た自卑他尊称が定着してしまった。狂瀾を既倒に帰すことはできぬと高島氏は言う。しかし氏は“支那”という語に愛着を感じるし、それは民族文化圏を指しモンゴル・ウイグル・チベットなどの北・西・南の広大な地域を除いたいわゆる“中華”地域を意味するし時代を超えて通して呼ぶ名称としても使えるということで、せめて中国と使い分ければ分かりやすく便利だと言う。
だが“支那”を卑語で中国に対する蔑称だとする国語辞典まで現れたことについては無知も甚だしいと氏は慨嘆する。“China”の日本語訳であって、蔑称などと言うのは日本人だけだ。ところでこの項を編集中に気が付いたが、今のM.S.WORDでは“しな”と入力して漢字変換しても“支那”は現れない。死語になってしまった具合だ。

<紀伊山地霊場> 三重・奈良・和歌山の三県にまたがり、紀伊山地の熊野三山、高野山、吉野・大峯とそれらを繋ぐ参詣道がこのほど世界遺産(World Heritage)に登録された。日本列島の本州最南端、東経136度線に沿って北から太平洋に張り出す紀伊半島の大部分は紀伊山地と呼ばれている。そこは標高1000〜2000m級の山脈が縦横に走り、年間3000mmを超える豊かな降水量が深い森林を育む山岳地帯である。まず、以下にその概要を紹介するホームページの記事を転載する(左は那智大滝)。
熊野三山は紀伊山地の南東部にあり、相互に20〜40キロメートルの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二寺からなり、「熊野参詣道中辺路」によって相互に結ばれている。仏が衆生を救済するために姿を現したのが神だとする「本地垂迹説」により、主祭神がそれぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音とみなされたことからも信仰を集め、これらを巡礼する「熊野詣」の目的地として繁栄した。那智では滝自体がご神体になっている。熊野三山の社殿は他の神社建築に類例をみない独特の形式を持ち、全国各地に勧請された約3,000社以上の熊野神社における社殿の規範となっている。青岸渡寺と補陀洛山寺は、神仏習合の過程で熊野那智大社と密接な関係を持つようになった寺院で、特に補陀洛山寺は南の洋上に補陀落浄土を求め死を賭して漕ぎ出す「補陀落渡海」信仰で知られた寺院である。
高野山は標高800メートルの山上盆地に、真言密教の根本道場として空海(774-835)が816年に創建した「金剛峯寺」をはじめ、金剛峰寺の建設と運営の便を図るため政所として山下に建立された「慈尊院」、金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守社として建立された「丹生官省符神社」などがある。高野山は、現在もなお117もの寺院が密集し、およそ1200年の信仰の山の歴史を秘めた山上の宗教都市で、峻険な山嶺と深遠なる樹叢とが一体となった信仰に関連する文化的景観を形成している。特に、空海が「即身成仏」を果たし、今なお生き続けていると信じられている奥院は、「大師信仰」と相まって今でも多くの人々により墓石の建立が続けられている。
吉野・大峯は標高千数百メートル級の急峻な山々が続く修験道の聖地で、北部を「吉野」、南部を「大峯」と呼ぶ。既に10世紀中頃には、日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどの崇敬を集めた。「吉野」は修験の隆盛に伴い、開祖とされる「役行者」(7〜8世紀頃)ゆかりの聖地として重視された。また、「大峯」は吉野と「熊野三山」とを結ぶ大峰山脈の総称であり、山岳での実践行を重んじる修験道では、山に入って苦行を重ねながら踏破することを「奥駈」あるいは「峰入」と称して最も重視された。大峯はこの「奥駈」の舞台であり、日本各地から多くの修験者が訪れるところとなり、「吉野・大峯」をモデルに全国各地に山岳霊場が形成された。冬季は氷雪に閉ざされる険しい峰々が信仰の対象とされ、数多くの行場や、拠点となる寺院・神社を結んで尾根筋をつたう「大峯奥駈道」が走る。また、吉野は桜の名所として名高いが、これは霊木である桜を献木するという宗教行為によって植え続けられてきたもので、わが国でも他に例をみない文化的景観となっている。
参詣道としての伊勢路は紀伊半島東岸を南下する、主に東国から熊野三山を目指す参詣者が歩いた道。伊勢神宮と熊野三山を結ぶ険阻な山坂の多い道で、随所に石畳が遺されている。平安時代中頃には利用されていたが、参詣者が増えるのは、伊勢神宮への参詣と青岸渡寺を出発点とする西国巡礼が盛んとなる江戸時代からのことである。伊勢神宮への参詣道である伊勢本街道からの分岐点・田丸を起点とし、途中の「花の窟」から海岸沿いに七里御浜を通り熊野速玉大社に至る「七里御浜道」と、内陸部を熊野本宮大社へ向かう「本宮道」に分かれる。「七里御浜道」は「浜街道」とも呼ばれ、熊野市木本から新宮市までの砂礫の海岸線「七里御浜」沿いを行く経路で、沿道には景勝の地として参詣者に知られた「鬼ヶ城」や「獅子岩」がある。「本宮道」は、神話に登場する伊弉冉尊の葬地という伝承を持つ熊野市の「花の窟」で七里御浜道と分かれ山間を進み、熊野川を渡り、熊野本宮大社に至る道である。
神仏習合 南九州の隼人との戦いで殺生の罪を悔いた八幡神が仏教に救いを求めたのを契機に宇佐で神と仏が習合したのが始まりといわれ、平安時代に入ると仏教の仏を本地(ほんじ)すなわち本源とし、神道の神をその垂迹(すいじゃく)すなわち衆生を救済するための具体的な姿・権現とする本地垂迹思想が熊野を中心に盛んになり、神と仏の融合は明治維新に神仏分離政策(廃仏毀釈)が取られるまでこの地方も含めてわが国の主流の思想になる。
熊野三山への参詣は11世紀に皇族と貴族が末法の世の救済を求めて盛んになった。平安時代京からの熊野詣は630km、20日の長旅で参詣の道は熊野古道と呼ばれるが中辺路が多く使われた。後鳥羽上皇は生涯に28回熊野詣をしたといわれ、藤原定家は明月記に熊野御幸の苦労辛酸を記した。平安末期には熊野権現に救いと安らぎを求める熊野詣は庶民にまで広がった。
補陀洛山寺には海の果てにある観音浄土を求めて、住職が61歳になると1週間寺に籠って断食をした上で死の船出をする“補陀洛渡海”の慣習が850年続いた。金光坊は船出しても覚悟が定まらず、舟の棺を押し開いて無人島に泳ぎ着き、漁船に助けられて帰還したが、やがて人々は改めて坊を舟の棺に閉じ込めて海へ押し出したという。これでは殺人である。伝統の行事とはいえ人々は流石に気がさしたのだろう、金光坊非業の死でこの慣習は中止になったが、今でも次の渡海の舟は保管されている。
高野奥の院の墓地は秀吉・光秀・徳川将軍家などの仇敵どうしを始め現在の多数の庶民や更にはキリスト教関係者まで、空海の寛容の精神によって来る者は拒まずと受け入れているので現代も拡大を続けているが、一旦来たら出て行ってはならぬということになっている。
N.H.K.の“その時歴史が動いた”では明治の半ばに“神社合祀令”によって3年で5万の神社が廃止され、多くの鎮守の森が失われてしまった事件を取り上げた。国策であると便乗した事業者たちが次々と森の大木を伐採した。これに真っ向から反対して立ち上がったのが南方熊楠(1867-1941)だった。彼は生物学者で粘菌の研究などで日本国内より海外で有名だったが、俗世間と離れて熊野の森に入り込んで自然相手の研究に没頭していた風変わりな学者とばかり思っていて、このような重要な政治運動をほとんど独力でやってのけたことを私は知らなかった。
彼は神社合祀が生態系(エコロジー)を破壊し、更には地域住民の暮らしや地域社会、地域に暮らす人間の心性を破壊し、農林・漁業に基づく地域の破壊、ひいては国家の破壊をもたらすものと断罪した。最近でこそもてはやされるようになったエコロジーという概念を始めて日本に持ち込んだのが南方である。森林伐採に反対した南方は国家権力に反抗した罪で一旦は逮捕される。獄中の彼に著書を差し入れて励ましたのは南方を敬愛していた民俗学者の柳田国男(中央官庁に勤めていた)で、釈放後の南方は柳田を動かして三重県知事にまず阿田和の大楠の伐採を止めさせた。柳田が南方を応援して政治的に動いた事実も驚きである。
森林の伐採が雨水による山の表土の流出と再生困難な荒れ果てた自然破壊を招いている実態を現場で精力的に写真撮影させて全国を歩いた。熊楠の訴えはやがて、故郷の山河が失われつつあった日本各地からの共感を得ていく。遂に明治45年3月12日国会は合祀令廃止を圧倒的な多数で可決する。嘗て合祀令に賛成した多くの議員が反対に回ったのである。南方熊楠がほとんど独力で実行した日本初の自然保護運動の成果である。これがなければ紀伊山地の森林の温存は不可能だったはずで、今回の世界遺産登録も実現できなかったであろう。この話を知って学者としての南方の業績とも比べものにならぬ恩義を我々日本人は彼に負っていることを悟った。