8月の話題


2004年8月

 

<ユーモア> 遠藤周作の随筆「狐狸庵閑話」を読む。彼については先月のヨルダン渓谷のキリスト足跡探訪で紹介した。遠藤周作は阿川弘之、三浦朱門、吉行淳之介等と同年代の文士だが、私は彼らの作品をほとんど読んでいないので予備知識が若干不足している。だが文士というのは相当にひねくれた種族というのは確かだ。
 佃島を探訪する話が載っている。戦後の荒廃した東京でただ一つ江戸の面影を残している(筈の)佃島を探訪しようという発想が葛飾北斎の富士三十六景の内にある“佃島”から出たことは私にも理解できる。文士の間では俳画や連歌など江戸趣味が流行っていた。明石町から佃島を往復する有名な渡し舟が廃止になるので最後の機会ということだった。ここは江戸時代から佃煮だけでなく月と藤の名所として景勝の地だった。「藤は見、富士は眺める佃島」。提案者の三浦朱門、安岡章太郎らと秋も深まったころ清遊を試みたところ、そこは北斎の絵とは程遠く、憧れていた住吉神社の藤は消滅し、川からはドブ臭い臭気が漂っていた。江戸の人が隅田川の川面にめでたという白魚を探した。あれは白魚ではないかと胸をときめかすと、それはけしからんことにサックだった。皆うなだれて引き揚げようとした時に橋のたもとに寝ていたのは小利口な洋犬ではなく白い雑種の野良犬だった。「おお、これがまさしく江戸的だ!」と我々は粛然と眺めていたーとある。
 著者は柿生の里に狐狸庵なる庵を結んで隠棲したと書いている。庵は丘の中腹にあり庵を囲みて林あり、ブナ、栗、ウルシ、松、さまざまな雑木生い茂りて昼なお暗しと。岩清水ポトポト溜まる窪地から竹筒でこの流れを引き込んで京都・詩仙堂で見た鹿追(ししおい)を真似て作ってみた。詩仙堂のは竹に水が貯まると跳ね返って石に当たりコオンと爽やかな音を立てる。昼下がりの静寂の中でなんとも言えぬ心地がする。狐狸庵のそれは打つ石が駄石か、ボコツときたならしい響きだ。水洗便所に硬いウンコの落ちたような音だ。
 近所の悪ガキたちがやってきて「おっちゃん、これなんだ」と訊く。「お前ら洟垂れに風流などわかりはせん、あっちへ行け」というと悪口わめいて逃げていくが、翌日またやってくる。「お前ら、鳥笛を作ったことがあるか」「あるよ」「それを作ってきてこの縁の下で1時間吹いたら10円やるぞ」 翌日から縁の下で吹く。山鳩あり、ウグイスあり、メジロあり、それを庵で寝ころんで聞いていると深山幽谷に遊ぶ心地ぞすなるーと書いてある。
 人間時々妙な衝動にかられることがあり、貸衣装屋に行って70歳ぐらいの爺さまに化けたいと言い、茶の宗匠がかぶるような頭巾に茶色のモンペ、着物、羽織など借りて、それに白い付け眉、白い付け髭なども借り、庵に戻って着付けてみると水戸黄門のような姿になった。庭の樹木の枝を切りそれを杖に腰を曲げて歩いてみる。久し振りに銀座の酒場を覗いてみると、今夜も山口瞳、池田弥三郎などおなじみの連中が飲んでいる。「ごめんくだされ」と中に入ると狭いバーの中が一瞬シーンとした。諸先生もホステスもびっくり仰天している中で「お茶、あつーいお茶くだされ」、「すみませんけど、ここバーですの」、「バーに老人が来てはいけんか」 ジロリ。きびしい眼をしてホステスを見ると、向こうは畏れ入って黙ってしまう。茶を一杯頂いてなにがしかの金をおき、「釣りはチップ。とっておきなさい」 向こうは情けない顔をする。外に出たが愉快でたまらん。2先生とも我輩の顔を熟知しているはずが、ポカーンとしてこの老翁が誰か分からない。別の店に立ち寄ると、田村泰次郎氏がおられたがこれまた気が付かない。ヒソヒソ聞こえてきた会話は「あのご年配でまだバーに来られるのだから、僕たちも頑張らないかんな」。わしの実年齢は57だが、人間の心が衣服によって左右され、気分まで七十翁に変わることに我ながら驚いた。実名を挙げたのは本人が後でこの随筆を見て悔しがるのが楽しみだからだ。
 「狐狸庵閑話」にはこの種のとぼけた話がいやというほど書いてある。巻末でこの随筆について阿川佐和子とごく近年対談している北杜夫が題名の狐と狸だが、実は「こりゃあ、あかんわ」をもじったのだとばらしている。

<女子バレー> 4回の逸機を経て20年振りに日本女子バレーが予選を1位通過してオリンピックに出場する。柳本監督の話を最近テレビ対談と文春とで見聞きした。彼はずっと男子バレーの世界にいたが、めぐり合わせで東洋紡の女子バレーの監督を勤めることになり、24人いた選手の内20人が前監督に追随してやめてしまったが、スカウトなど苦労して2年目に日本一を掴んだ。
 そこで彼が知ったのは女子選手と男子選手の差異だ。潜在能力を引き出すためにマンツーマンで特訓をすると遂に動けなくなる、男子の場合それは即体力の限界なのだが、女子の場合は練習をやめるとすぐにお喋りを始めるし窓のカーテンを閉めに行ったりする。なんだまだ体力が残っているのかと更に練習させようとすると強い反撥を食う。女性は同時に何種類もの行動ができ、男とは違う生きものだと悟ったという。
 彼は優勝2回準優勝1回と東洋紡を常勝軍団に育てたが、会社は廃部を決定しチームごとリストラされた。彼としては2度目のリストラだった。彼は選手の移籍先を求めて走り回り、その後燃え尽き症候群のようになってしまったと述懐する。だが見ている人はいて全日本の監督に推薦される。
 セッターには東洋紡時代からの159cmの竹下佳江を宛てた。彼女はシドニー・オリンピック最終予選で負けたときに戦犯扱いされ一旦引退したが、「自分の技を最大限に活かそうとせず、突出した技をオブラートに包み、チームメートを好きになれ」と説いて復活させた。彼女のトスは見違えるように柔らかくなった。若い選手はセッターによって成長する。新生全日本の武器はバック・アタックだ。これは従来男子チーム専用の攻撃方法だった。ネット間際からでなく、中盤からの強力スパイクである。長身の栗原恵186cm、大山加奈187cmが2本の大砲になる。進化する立体バレーなのだそうだ。
 柳本監督は在来の女子チーム監督がやったような“俺についてこい”式のやりかたはせず、選手の自主性を重んじる。主将の吉原知子は最年長だが朝4時に練習コートに現れる。東洋紡時代に細かいことを指示した柳本に吉原が「うるさい!」と怒鳴り返したことがあったという。選手の構成は特定の企業チームを主体にしたものではないが、工夫して監督の知らないことをドンドンやっているという。放任主義で細かいことに口を出さない。
 私は最近までバレーの試合などほとんど見たことがなかったが、最近予選通過後にオリンピックで当たるであろう外国チームとの練習試合をいくつかテレビで見た。勝つこともあるが結構負けている。しかし監督はここでの試合結果に一喜一憂しないでくれと言う。「負けの中に勝ちの芽がある」と口癖のように言う。相手チームの研究はぶつかって見なければ分からない。これでもしオリンピックに勝てれば柳本監督は男を上げるだろう。

<気象の偏り> 昨年の今頃は<長梅雨>と題して8月になったがまだいつ梅雨が明けるのか分からないと書いている。更に同じ8月の半ばに<異常気象>と題して一向に梅雨が終わらず気象庁の予測が当てにならないと愚痴を並べていて、遂に立秋を迎えて気象庁は梅雨明け宣言を止めてしまったことを思い出した。人間(というか、私は)忘れっぽいもので、こういう記録でも残しておかないとすべていい加減になってしまうが、今年の気象は同じ異常でも内容は大差である。
 7月に入るや関東地方は早々と梅雨明けしてしまったが、梅雨前線が北陸に残って新潟に、次いで福井に集中豪雨をもたらした。その後太平洋東南方近海海上に発生した台風10号が常識に従えば位置から推して日本列島に関係なく北東に去ってしまうはずなのに、日本列島に沿うように西に西に動いて関東・中部を外して四国・中国地方に上陸通過した。台風が北方に去った後それを追うように次々と分厚い雨雲がその通過ルートを何日も襲い、高知・徳島・愛媛に集中豪雨を見舞った。“台風一過”という言葉はこの事態には全く不適当になった。こういう豪雨では局地的に年間の総雨量に近い雨が数日間で降ってしまう。被災地の老人たちは口を揃えてこのような出水は生まれて初めてだと言っている。
 一方で関東地方を含めて列島全般を包む炎暑は記録的なもので、7月下旬都心は昼間39.5degC夜間最低29.5degCを記録し、真夏日が30日続きなお継続中で7月の平均気温は平年を3.1degC上回った。熱中症で倒れ病院に運ばれた人は都内だけで600人を超える新記録になった。私の述べた5月末の予感は当たってしまった。体調維持のための散歩は日中の暑さを避けて早朝にしているが、それでも顔面から流れる汗が視界を邪魔するので眼鏡を外して歩いている。
 こういう長期・短期的な気象の偏りは世界的なものらしく、ヨーロッパでも至る所猛暑と集中豪雨に見舞われているようだが、南ドイツでは季節外れの雪が降ったと報じられた。前記新潟・福井そして徳島の集中豪雨でテレビ画面に写される雨雲の厚さ(即ち降雨強度)の時間推移を見ると、濃い密度の赤が次々にほぼ同じコースを移動していくのが認められる。まるで空中に一時的に谷間が生じてそこを雨水が流れていくような錯覚を覚える。気象庁はこのような現象の説明として、高気圧団が日本列島全般を包まず例えば東に偏るから、その裾野を巡るように雨雲が同じコースを移動するのだと言ったりするが、どうも納得しにくい。また全世界的な異常気象の説明として北極を中心にして周回している偏西風の蛇行が大きくなっているなどというが、その原因は何なのかその影響がどう及ぶのか、もっと突っ込んだ分析が欲しい。
 長期的に見てこのような時間・空間的な気象の偏りは今後減少するよりは益々増大しそうな気がする。気象予測といえばこのような大局的な観測がまず前提にあるべきではないか。この頃女性の気象予報士が増えたらしく、何人もそれらしい人がテレビ画面に現れて勝手なことを言っているが、どこまでが客観的に裏付けられた根拠によっていて、どこからは個人的な推論なのかハッキリしてもらいたい。定めし気象庁の中で有象無象がワイワイガヤガヤ指導者もなく話し合っている空気をテレビという媒体を通して無責任にお茶の間にもちこんでいるようにも感ずる。専門家として給料をもらっているのなら、的確な集中豪雨の予測が事前に流されないために、退避が遅れて何人も死人が出ているのに少しは責任を感じ、無力を恥じてその旨表明してくれないとバチが当たるぞ。

<黒柳徹子> 以前にいた会社の社長だった畠山清二氏(創業者・畠山一清の次男・故人)が何かの会合の後で黒柳徹子を車で送ったときのことである。車外は雪が降っていて路面に少し積もっていた。足元が覚束なくてすべって転びかけた女がいた。その人がまた辷った。それを見ていた徹子があの女性はバカだと笑ったという。清二氏は彼女が言いたかったのは“一度目は仕方がないが、二度同じ失敗するのは愚かだ”という意味で、彼女の意見のユニークさに感心していた。多分40年ぐらい昔の話である。
 “徹子の部屋”は昭和51年にスタートし、今年は29年目に入り近く通算7000回を迎える。有名人を招いてはその人のユニークな逸話を本人の口から抽き出している。当人が公表したくない話題は巧みに避ける司会術で誰の恨みも買わず、この番組に招かれることを皆が歓迎し、新たに招かれる人は名誉に思うようになっている。番組終了の音楽に合わせて招待者を巻き込んで早口で話をまとめる手腕にはいつも感心している。ユニセフ国連親善大使として時折海外にでかけたりするが、録画で採り貯めしているのであろう、決して番組に穴を開けない。
 本人は人知れず節制をしているのだろうが、その健康振りに感心する。誕生日は1933/08/09で私より僅かに年長なのだが、生まれて以来病気らしい病気をしたことはないのではないか。よく知らないが、女優として劇団の公演に連続出演している。ユニセフの仕事で訪問先のアフリカだったか、50degCに達する猛暑の中で突然今気が付いたように「暑いじゃありません?」と言ってお付きの人たちを呆れさせたという。環境の変化にも体調を崩すことはなかったようである。今年の夏の暑さなど歯牙にもかけないらしい。
 博識と記憶力の良さは常人の遠く及ばぬところで、毎週土曜夜の“世界不思議発見”では出演者の中で抜群の解答率を誇っている。最近同様に常時出演の板東氏が大分迫ってきたが、まだまだ及ばない。何でも知っているかと思うと、スポーツ方面では野球にしろサッカーにしろファンなら常識に属するような基礎知識を全く知らぬ音痴ぶりを発揮して人を呆れさせたりする。先日の“徹子の部屋”では誰か忘れたが若いスポーツ選手がサッカーのゴールキーパーは苦手と言ったのに合わせて、徹子はゴールキーパーは小錦のような身体の大きい人がいいと言い出し、その男がでも動きが俊敏でなければと言うと、でも小錦さんぐらい大きければと頑張って、その男に小さい声で「でもゴールは小錦の4倍以上の幅がありますよ」と言われて、「えー、そんなに大きいの!」と返事していたのはご愛嬌だった。
 動物が好きである。特に子供の時からパンダが好きだった徹子は別に誰も公式に委嘱したわけではないと思うが、日本パンダ保護協会会長になっている。“世界不思議発見”で珍しい動物が話題になると、大きい声でその動物の鳴き声を真似する。若い女性の出演者などはビックリしているが、彼女は年甲斐など無関係に邪心なしにやっているのだ。“窓際のトットちゃん”と言われた所以でもある。
 誰だったか、話の中で「もう私もダメになったが・・」と言うと、徹子さんが「ウフフン」と低く応じた。同情するようでもあり、“ご尤も当然”と言っているようでもある。往々にして出てくる昔の“徹子の部屋”の録画シーンの彼女に比べると、におうような色気は流石に少しあせたが、まだまだ老いを感じさせない。甲高い声の早口は昔のままである。
 私はその方面には全く疎いので話す資格がないようなものだが、“徹子の部屋”に登場する彼女の衣装は毎回変わっているように見える。招待者とその日の話題に合わせて特別な衣装をあつらえることも少なくないようだ。見せてもらう機会などありっこないが、彼女の家の衣装棚は幅が10mなどではとても足りないだろう。それとも気前よくドンドン人に呉れてやっているのだろうか。
 昨今は番組“徹子の部屋”の嘗ての出演者が続々と鬼籍に入り、度々その追悼番組をやっている。出演当時の元気な表情や声が今や決して呼び戻せないことが一番堪えているのは彼女だろう。彼女自身もこの9日に71歳を迎える。いつも快活に笑い、好奇心満々で変わった話を求め続ける毎日で、この企画は半永久的に終わらぬように錯覚するが、いずれ終焉を迎えるのは人の宿命である。私のこの随筆とどちらが長続きするだろうか。

<美浜原発の事故> 8月9日午後関西電力美浜で日本が原子力発電事業を始めて以来最大の人身事故が発生した。その直接原因は3号発電所運転中の2次循環系配管の断裂で、折から現場で数日後に控えた定期点検準備作業中の作業員4名が熱湯含みの蒸気を浴びて即死、7名が火傷による重軽傷(重体も含む)を負った。破断箇所はタービン下流、オリフィス流量計直下流の蒸気配管で、本来10mmの肉厚が1.4mmまで減肉していたと報じられた。この著しい減肉は流量計測用のオリフィス下流での激しい流れの乱れによって局所的に生じていたと理解されている。
 これだけの事実が公表されるまでに半日以上かかり、事故直後は“美浜原発で運転中の3号機に蒸気が漏洩する事故が発生したが、放射能漏洩の危険はなく、周辺住民への避難勧告も行なわれていない”という報道だけが繰り返し行なわれた。我々一般国民でさえ苛立たしい思いをしたほどだから、救急車のサイレンが鳴り響く中で周辺住民の不安は一通りではなかっただろう。情報公開の遅さは相変わらずである。
 運転中の2次循環系配管の破断事故発生後、3号原子炉が無事に停止するまでには1次循環水の過熱・蒸発など最悪の場合原子炉メルトダウンの危険さえ想到される危機があったはずだが、温度履歴などその過程の詳細は公表されていない。インターネットを“美浜・事故”で調べても、平成3年2月2号機での蒸気発生器伝熱管破断事故の報告書があるだけで、今回の事故に言及した情報は8月11日現在まだ見出せない。
 事故発生直後に現場責任者が思い浮かべたのが平成3年の事故で、この時は美浜2号蒸気発生器伝熱管の破断で空中に放射能が漏れ出し、ECCS系ポンプが起動した。それに比較すると今回は破断箇所が放射能と関係なかったのと原子炉が自動停止したので、ひとまず安堵してその旨が事故直後の報道となった。しかし危険という感覚がないままに事故当時200人を超える作業員を2階のタービン機側に運転中の状態で入れていたことが惨事を拡大した。前提には定検修理期間を極力短縮したいという下心があった。

 今回の事故発生箇所は通常の火力発電所にも存在する蒸気タービン駆動用の蒸気配管であって、在来火力発電所でこの種の事故は聞いていないことからすれば、美浜原発では放射能を帯びた流体の配管には注意していても、放射能のない2次循環系配管には通常火力ほどの保守点検努力さえ怠っていたという事情が明らかである。事実当該箇所を含めた2次循環系配管は創業以来28年間一度も点検を行なったことがなく、昨年11月メンテナンスを行なう下請け業者から関電宛に点検作業対象から洩れている旨注意を促す書類が提出されていたという。
 オリフィスやベンチュリ管などの流量計測装置の下流に流れの乱れがあることは知られているが、それが配管内面の磨耗をどの程度助長するか、定量的なデータはあまりないかもしれない。しかしオリフィスがベンチュリ管よりその影響が著しく大きいことは間違いないし、またその効果は平均流速の2乗以上に及ぶだろうから、当該箇所の設計流速が他の発電所より大きくなかったか調査の必要がある。それよりオリフィスやベンチュリ管などの純機械的装置に流量計測を頼るのは古い思想で、超音波流量計や電磁流量計など流れに擾乱を与えない装置が現代では信頼性が高くなっているので好ましい。
 2003-8の<原子力発電>に記したように私が懸念していたのはステンレス配管におけるクラックの進行で、これを外部から非破壊検査で危険な深さまで進行しているか否か認知するのは容易ではなかろうと考えられ、この面から原子力発電所の寿命の延長は軽々には論じられないと主張している。それに比べれば今回のような配管の肉厚の減耗は測定する気にさえなれば、適当な計測器はない筈がない。使いにくい点があれば現代技術で新規開発してもよい。そういう点から今回の事故は技術の限界とは程遠く、怠慢のツケがまわったのであって、当事者の心構えーひいて言えば電力会社(関電だけではない!)の経営姿勢に連なるーがお粗末過ぎる。
 関電の社長が犠牲者の通夜の日に詫びに訪れて玄関先で土下座している姿が放映された。もちろん経営責任は重大だが、技術管理を行なっている日本全国の電力会社の社員たちはこの際従来のマンネリ思考を猛省すべきだ。逆の発想になるが、この際全国の原発の1次循環系のステンレス配管を肉厚の炭素鋼管に替えてしまったらどうだろう。今回の事故で肉厚が10mm から1.4mmに減肉するまで破断せずにもつことが実証された。肉厚検査さえ励行すればクラックの進行の懸念からは解放されるのではないか。こんなことは原発事業の抱える問題解決策の一端に過ぎないが、今までやっていたのだからという保守・退嬰的な心理から関係者が脱け出さないと、原子力の明日は危ない。

<米国はどこへ向かうのか>  “文明の衝突”の著者サミュエル・ハンテイントン教授が21世紀を迎えた米国の状況について、題名"分断されるアメリカ"(原題”Who Are We?”)で米国民と世界に問いかける新著を出版した。嘗て豊かさの象徴でありすべてが輝いて見えたアメリカは同時多発テロの前後から急速に変貌している。それはブッシュ政権のネオコン勢力のせいだろうか。著者によればそれはもっと深いところに原因があるという。日本のようにほぼ同質の民族から構成され、日本語という独自の言語を話し、神話を含めて国としての独自の長い歴史をもち、他の国々からは海によって隔絶されて、殊更努力しなくても統一が保たれる国とは異なり、米国は目的を持って意図的に建設された国であり、存続するためには明確な方向性とそれを支える国民の強い意志が求められる。
 ハンテイントンは17世紀の入植者の子孫であり、同姓同名の祖先が独立宣言に署名しているほど由緒ある家柄の出自である。祖先が築いてきた国を守りたいという著者が国の行く末を案じ、内外のさまざまな要因によって国が大きく変化している現在、今後進むべき方向を見定めようとして、多岐にわたる問題を考察している。
 アメリカ人はその歴史を通じてきわめて宗教心が篤く、キリスト教徒が圧倒的に多数を占める国民だった。現在84%の人々は“特定の宗教”を明示しないかぎり、学校と官公庁の建物内を含め、公共の場で神について言及することを認めている。”God bless America”である。フランスでは宗教と自由は相反するものだが、アメリカ人は宗教の精神と自由の精神をみごとに結びつけることに成功した。アメリカ人はキリスト教を非公式に国教とみなしている一方で、どんな宗教にも寛容ではあるが、無神論者を容認せず、多くのマイノリテイ以上に好ましくないと見ている。アメリカの政治制度は“神を前提”としていて、アメリカの市民宗教はキリスト抜きのキリスト教である。

 18世紀末に独立を勝ち取ったアメリカ人はWASP(White Anglo Saxon Protestantの略)と称される少数の同質の人々だった。先住民と黒人はアメリカ国民から除外されていた。20世紀の終わりになると米国の人口は凡そ100倍に増え、米国は多人種(白人69%、ヒスパニック12%、黒人12%、アジア系および太平洋島民4%、その他3%)で多民族、プロテスタント63%、カトリック23%、その他の宗教8%、無宗教6%の国となった。
 20世紀末にアメリカの中心となるアングロ・プロテスタントの文化と自由と民主主義を謳う政治的信条とは次の四つの難題に直面した。@ソ連の崩壊によってアメリカの安全保障に対する脅威がなくなり、ナショナル・アイデンテイテイの立脚根拠がゆらいだ。A多文化主義と多様性のイデオロギーによって、文化的な中核と米国の信条の正当性が蝕まれた。B移民の大波が中南米とアジアからやってきて、その同化は容易ではない。Cスペイン語を話す移民の増大によって単一言語の原則は崩れた。
 1900年には同化はアメリカ化を意味した。2000年になるとアメリカのエリートは自分たちの本流をなす文化の美徳に自信をなくし、代わりに多様性の原則とアメリカ国内にあるすべての文化の同等な有効性を説くようになった。メアリー・ウオーターズは言う。「移民は画一的な一枚岩のアメリカ文化を奉じる世界に入るのではない。むしろそれは意識的に多元的な社会であり、そこではさまざまなサブカルチャーと人種や民族ごとのアイデンテイテイが共存している」と。今やアメリカ政府ほど移民が出身国の言語と文化とアイデンテイテイを保持し続けることを奨励する政府は世界にまず存在しないだろうと著者は指摘する。
 メキシコの人口はアメリカの1/3を上回り、人々は3200kmを超える国境を越えて陸続きに流入してくる。メキシコからの移民はアメリカが1830〜1840年台にメキシコから武力で収奪した土地を人口学的に再征服(リ・コンキスタ)する方向へ進んでいる。メキシコ移民はヒスパニック化を推進し、アメリカのナショナル・アイデンテイテイの中心だった英語にスペイン語を加える二言語教育を促した。米国は英語を話す人々の国という概念は崩れつつある。

 著者は説く。自らを定義するために人は他者を必要とし、ある場合は敵を必要とすると。アルバート・アインシュタインは「戦争を排除しようとするあらゆる試みは残念ながら頓挫した。人間は憎しみと破壊に対する欲望を心のうちにもっている。」と述べた。フロイトはそれに同意し、「人間には二つの本能しかない。保護し一体化しようとする本能と破壊し殺そうとする本能だ」と主張する。歴史家マイケル・ハワードは「意識的に作られた共同体で、武力紛争または武力による威嚇を伴わずに、世界を舞台に新しい役者としての独立した地位を築いた国はどこにもない」と言明する。
 「戦争が人々を国民に変える」とハインリヒ・フォン・トライチュケは言った。外部の敵ないしは他者の不在は内部の不統一を助長する。9.11以後“対テロ戦争”がイスラム勢力を21世紀におけるアメリカの最初の敵に仕立てた。こうしてみると現在のイラクにおける戦闘継続は分裂・崩壊のきざしのある米国の統一を支える必要悪ということになる。ハンテイントン教授はそこまで言及していないが、米国は今後も理由をつけては親しからざる国を威嚇し、ほどほどの戦争をしかける姿勢を継続するだろう。分断の波の中で他にアメリカのアイデンテイテイを支えるものは、その象徴としての国旗と国歌しかなくなったのかもしれない。

<中曽根康弘> 1980年代に5年余にわたる長期政権を維持した中曽根康弘元首相がこのほど「自省録―歴史法廷の被告としてー」(新潮社)という冊子を出した。それを一読しての自分なりの要約と感想を述べる。
 ○彼は何をやり、何をやらなかったか。原子力法案の成立に尽力し、原子力合同委員会を作って原発の推進母体とした(1950年代)。首相になって(1980年代)行政改革を唱え、最大の仕事として国鉄の分割・民営化を抵抗勢力を排除して実現。次いで専売公社・電電公社の民営化を実現。予算編成権を大蔵省から臨調に移して初年度ゼロ・シーリング、翌年から毎年マイナス5%シーリングで4年間継続。一方、税制改革(消費税の実現)と教育改革(教育基本法の改正)には失敗した。前者は国民の説得に失敗、後者は文部省と日教組の抵抗で実現できなかったと述懐する。前者は後に竹下登が実現するが、教育現場の混乱は益々ひどくなって現在に及んでいる。
 ○政治家として誰を評価しているか。国内では戦後官僚派政治家元祖の吉田茂。先輩として沖縄返還に賭けた佐藤栄作。競争相手として日本列島改造論(中曽根自身はこの政策に全く組みしなかったと言い切っている)の田中角栄。欧米ではグレイト・コミュニケーターと言われた米国のレーガン大統領。彼と組んで日米親密路線を設けた。サッチャー(英)・ミッテラン(仏)・コール(独)はほどほどに評価している。中国では周恩来・ケ小平・胡耀邦の三人。ケ小平の死後親日路線の胡耀邦が迫害されたのを残念がる。4月に<反日の中国>で採りあげた江沢民は登場が遅かったせいもあるが、おくびにも出さない。
 ○政権獲得のための努力について。佐藤栄作政権の下で競合相手だった田中角栄に先行される。小派閥だった中曽根は対抗する福田赳夫でなく、日中国交回復推進の名目で田中に従いてその政権成立に力を貸して恩を売る。このころ風見鶏と諷されたと本人が述懐する。1982年鈴木善幸首相が失速して退陣の腹を固めたために中曽根にチャンスが訪れた。裁判で係争中の田中角栄に会い、支援を取り付ける。中曽根は総理大臣になるためには心中できるくらいの親交をもつ何人もの味方が必要だという。この前後には田中六助・瀬島龍三・読売新聞の渡辺恒雄氏などが田中角栄と会ったり根回しや綿密な情勢分析をしてくれた。政治的な妥協を余儀なくされる総理・総裁分離案を蹴り、党員による予備選に勝利して制約のない総裁に就任した。
 ○政治手法について。総理大臣の一念は一種の狂気であり、従来変えられないと思われていた政治的慣習や政治課題を変えることができたと述べている。彼の政治手法は“指令政治”で半年前に大筋の構想を紙に書いて担当大臣や党幹部に示し、時期が来たらトップダウンで懸案に当たる。ポイントは予めさまざまなスタッフと相談してやるべきことを掴み出して置くことだという。彼の政治哲学は“政治家は実績であり、内閣は仕事である”に尽きるという。彼は行財政改革のバックボーンとして土光敏夫の清廉・公正な政治哲学に頼り、第2次臨調で目標の実現を果たした。
 ○小泉政治について。著書の冒頭で中曽根は1996年の“終身比例代表1位”という党の公約を挙げて小泉首相の引退(国会議員としての)勧告を非礼であると改めて非難している。次いで“自民党を壊す”と言って登場した小泉首相が中曽根の目指した戦後政治の総決算を更に推し進めてくれると期待したが、大黒柱に当たる背骨を組み立ててから手や足を作るという手順を踏んでいない、即ち憲法・教育基本法改正、財政10ヵ年計画に手をつけず道路・郵政を先に始めた、それも具体的な内容については党の言うことを聞いてしまったので中途半端なものになったと指摘し、目前の臨床的な反応はあるが長期的体系的基本線がないと批判している。

 確かに中曽根のいう諸問題が短期に解決できれば稀代の名総理になっただろう。中曽根も手をつけられずに終わった課題だからだ。しかし構造改革の旗印を掲げ続け、官から民へ、中央から地方への流れをやっと動かし始めることができたのは目先を変えず方針を継続したからで、小泉にも中曽根にない政治のリーダーシップがあることは暗に認めているようだ。只管なる米国への追随外交は中曽根が始め、小泉が倣った。橋本元総理の旧田中派に代表される自民党の派閥政治が実質的に崩壊したのは中曽根にはできなかったことだ。
 年をとって自分でも言っているような強力・精力的な味方もいなくなった現在、冒頭に書いている現役議員へのこだわりはもう捨てたほうがいい。政治への的確なアドバイスならやろうと思えばできるはずだ。この人も自分でなければという思い上がりが人一倍強く、よいアドバイザーに徹する気などさらさらないようだ。改めてこの人の国鉄民営化の難事業実現はよい仕事をされたと敬意を表しておく。

<アテネ> オリンピックはまだ日程の半分をこなしていないが、久しぶりに日本は連日メダル・ブームで大騒ぎになっていて、獲得した金メダルは既に12ケに達した。特に柔道は女子選手を中心に名も知らなかった人が次々に優勝している。だが全体を見れば体操総合の団体・個人にもみられるように“禍福はあざなえる縄の如し”という格言が実力を超えて勝負を支配しているようにも見える。またオリンピックの場という環境がもたらす出場者への緊張は、よきにつけあしきにつけ思いもかけぬ結果をもたらすことが我々全くの部外者にも眼を離せぬ関心を呼び起こしてくれる。格段の実力差がないと勝負はどうなるか分からない。
 女子競泳800mは柴田亜衣という事前にはマスコミも全くマークしていなかった選手の優勝で日本中を驚かせた。女子自由形では史上初である。しかしインタビューで尋ねられると練習は毎日800m 10本を2回、従って1日16km泳いでいるという。走るのでさえ容易でない距離だ。決勝戦では隣コースの優勝候補の足先が視界から消えぬように辛抱強く追いすがり、600mで接近して750mで追いつき最後の50mで逆転した。冷静な戦略で戦前呼び声の高かった優勝候補マナドウ(仏)を恐らく焦らせ慌てさせたと思われる。
 月の初めに書いた女子バレーは柳本監督に期待し過ぎた。他国のチームには有無を言わせずスパイクを決める破壊力のある選手が必ずいるが、日本の二人は強力でなかった、或いはそうさせる巧みなトスのサポートがなかった。漫然と見ていて思わず目を見張る巧みなチームワークがないのである。正直に言って相手チームの弱みを突く工夫もないし、なんて下手なのだろうと思った。我々観衆に口を出させぬ阿吽の呼吸のチームプレイが見られなかったことは、月並みになるが矢張りチームとしての練習不足と監督の指導不足が原因なのだろう。
 驚いたのは柔道女子78kg超級決勝戦の塚田真希。投げられて技ありを取られ、そのまま相手が抑え込みに来るのを、クルッと反転して仰向けの姿勢のまま同じく仰向けの相手を背中で抑え込んでそのまま逃さず一本を取った。逆エビ反り固めというのだそうで、本人は死んでも離すものかと思ったと言った。堂々たる体重で大抵の男だってああやられたら動けないだろうと思ったが、あれほど切れ味悪い勝ち方は初めて見た。「泥くさく自分なりに勝った」という。体重とバカ力の金メダルである。
 史上はじめて日本は女子選手の数が男子選手を上回ったそうだが、日本社会でも見られる女性の元気のよさがここにも表れたか。出場選手中最年少という卓球の福原愛は可愛らしい風貌で人気があったが、度々のインタビューに落ち着いた応対とユニークな表現で皆の好感を呼んだ。3回戦で破れメダルにはまだ遠かったが、このオリンピックで一番精神的に成長したのではないか。勝つ度に間髪を入れず発する“タア!”という鋭い掛け声は応援する日本人には悪くないし少女としてはかわいいが、国際試合のマナーとしては大人になったらそろそろ控えた方がよいかもしれない。

<アテネその2> 夜中の観戦は勘弁蒙って、朝起き抜けのテレビ・ニュースでの女子マラソンで野口みずきが優勝のインタビューを見たら、「日本女子選手3人とも完走・入賞でよかったですね」というアナウンサーの話しかけに対して「ええ、これで皆無事に生きて帰れます」というのが野口の答えだった。“何と大袈裟な”と思ったが、これは肝心な時に寝ている怠け者の迂闊さで、後でマラソンのフルコース録画を見て、なるほどあれが正直な感想だったのだと思い知らされた。身長150cm体重40kgのきゃしゃな身体が死力を尽くす戦いに勝ったのだと知り、感動した。
 レースは夕刻6時スタートだったが、夕陽は暑く差し続け35degCに達する高気温と高低差の大きいコースの激しい上り下りで、参加者82人中26人と脱落者が相次いだ。通常のマラソン環境に比して極めて苛酷だったことは間違いない。最近世界最高記録を出し優勝候補筆頭のラドクリフ(英)は25kmで野口が飛び出すまでは10人ほどの先頭集団を一貫して先頭で引っ張っていた大女だが、次第にトップから引き離され4位に下がった36kmで足を止めると泣き出して道路の縁石に座り込んでしまった。終盤野口に追いすがり、10秒差にまで迫って日本人をハラハラさせた2位のヌレデバ(ケニア)は感情を表に出さず黙々と走っていたが、ゴール後うつ伏せになって完全に倒れこんでしまった。何人もが立ち止まり嘔吐する姿が映された。野口自身もゴールの興奮が収まると立っていられなくなって医務室に担ぎこまれるほどで、翌日も点滴を受けたという体力の消耗ぶりだった。
 ゲームの序盤、解説者有森裕子はこのような厳しい状況では先頭グループからの脱落は即勝負からの脱落を意味すると断定した。先頭集団は12kmで16人、20kmで10人が25kmには7人に減っていた。サバイバル・ゲームである。この状況で出走前に下り坂に強くない野口に、まだ7kmほど上り坂が続く25kmで飛び出すように指示したという藤田監督の好判断が勝負のカギになった。土佐(5位)、坂本(7位)両日本選手もこの作戦を知らされてはいなかった。他の選手がこれから迫ってくる胸突き八町の上り坂にサバイバルのための我慢の覚悟に徹して走っている中を、野口は大いに前途に不安があっただろうが指示通りにスパートした。従いてくるのはアレム(エチオピア)だけと一気に先頭集団はバラバラになった。やがてアレムも追いきれずに後退し、その後の長い下りでは嘗て世界選手権パリ大会で破れたヌレデバにジワジワと追いつかれかけたが、ペースを落さず辛うじて逃げ切った。
 野口は給水ポイント(5kmごとの)での給水確保がうまくいったと述べたし、腹部を開けた涼しい軽装も成功したようだ。スパート後はサン・グラスも外した。野口みずきは周到な作戦と強運と思い切った賭けと強い意志とで狭い勝利への道(narrow victory road)を掴むことができた。とにかく歴史に残る凄いゲームだった。炎熱下のマラソンは危険でさえある。




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