9月の話題


2004年9月

 

<食文化> 「食の世界地図」(21世紀研究会編・文春新書)という冊子は駆け足で世界中の名だたる料理・食材をその歴史的な位置づけまで含めて紹介している。これは○○の世界地図という名に釣られて求めたのであって、私自身は恥ずかしいほどその方面の知識・関心が乏しく、その日その日の食事についても“あれを食べたい”という強い願望などないままに日常を過ごしている。嘗てイランへ旅行し、カスピ海の名物チョウザメの卵キャビアがどっさり食卓に出たときに生臭そうで食欲がわかずに、食わず嫌いで折角の料理を敬遠してしまった。そういう人間にこのテーマを語る資格はないようなものだが、それでも人々の重大関心事だけに興味はあるのでこの際本の概要を紹介してみる。
 巻末に“世界料理小事典”と称して国別に有名な料理を挙げているので、その数を調べてみた。以下アイウエオ順にアイルランド5、アメリカ9、イギリス10、イスエラエル7、イタリア27、イラン7、インド9、インドネシア9、エジプト3、エチオピア4、オーストラリア2、オーストリア4、オセアニア(島々)4、オランダ5、ガーナ2、カナダ2、韓国14、北アフリカ6、ギリシャ7、スイス5、スペイン15、スリランカ2、タイ9、チェコ3、中央アジア2、中国49、中東12、中南米5、ドイツ11、トルコ11、ニュージーランド1、ネパール3、ハンガリー7、東アフリカ6、フイリピン7、ブータン3、ブラジル4、フランス32、ベトナム8、ペルー4、ベルギー4、北欧9、ポーランド5、ポルトガル5、マレーシア8、ミャンマー2、メキシコ13、モンゴル2、ラオス2、ロシア12。

 世界三大料理というのは上記の料理の数の多さからも推し量られるように、フランス、中華(中国)、イタリアである。フランスは地域的にノルマンデイ、ブルターニュ、プロヴァンス、リヨンがそれぞれ○○風と呼ばれる特色ある料理を出す。中国は広大な領土に漢民族の他に55の少数民族が住むが、代表的なのは北京料理・四川料理・上海料理・広東料理の四つである。台湾にも独特の料理がある。イタリアは南北の地方ごとにさまざまな郷土食があり、イタリア料理とはその郷土食の集合である。このようにそれぞれいくつかの地方の料理の総称であることは興味深い。ただしイタリアではなくてトルコだという説もある。宮廷料理の流れを汲む手の込んだ料理やドルマとよばれる詰め物料理のほか、ピラフやヨーグルトがトルコ発祥と知らぬ人が多い。
 イギリス、韓国、スペイン、中東、ドイツ、メキシコ、ロシアはそれに比べれば種類は減るが、それぞれ浅からぬ歴史の中で特色ある料理を生んでいる。日本について記載がないのはひとつには文化の下流にあってすべての国の料理を取り込んでしまうからだろうか。鮨や京菓子など独自のものもあるのだが。外国人にも誇れる日本料理はもっとあるはずだが私にはすぐ思いつかない。アメリカは歴史が浅く、ファーストフードは生んだが、威張るべき料理はないに等しい。イスラエルも同様である。オーストラリア、ニュージーランドは論外である。
 大航海以前の大規模異文化交流が始まる前、世界は四つの主食文化圏に分かれていた。ムギ食、米食、雑穀食、根菜食である。ムギ食は地中海・欧州・中東とインド北部。米食はインド南部・東南アジア・日本。雑穀食(中米原産のトウモロコシ)は北米南部と南米北部およびアフリカの中南部。根菜食はジャガイモが南米原産だがオセアニアとアフリカの一部へ伝わり中米でも重宝されたがヨーロッパでは長らく顧みられなかった。サツマイモは北米原産で中南米へ伝わり、やがて喜望峰をめぐって東南アジアから日本に伝来した。
 ジャガイモは近世の西欧の歴史を変えた。16世紀にジャガイモはヨーロッパ北部一帯に伝わり18世紀にはアイルランドの主食になったが、立ち枯れ病が発生して大飢饉になった。食料を専ら一つの食品に頼っていたための悲劇だが、この時のイングランドの人々の冷たい対応は後々までアイルランドの人々に深い怨恨を残し、後のアイルランドの独立の誘因となったし、アイルランド共和軍は近年までイングランドに対してテロ行為を続けることになった。食の恨みは恐ろしい。この時大飢饉を逃れてアメリカに渡ったアイルランド農民の子孫に大統領ジョン・F・ケネデイがいる。

<虫> 「当世虫のゐどころ」という随筆を読む。著者は岡本大三郎という大学教授だが、その感性に共感する。この人は農地に埋め込まれた農業水路用コンクリート製のU字溝を憎んでいる。大型の農業機械が使いやすいように圃場整備がされていて、おまけに農薬の多用ということもあり、日本の田園地帯からタガメもタイコウチもゲンゴロウもほとんど姿を消してしまったと嘆く。溜め池は埋め立てられて宅地になり、悠々と巡回飛行をしていたギンヤンマの雄姿は見られない。雑木林でカブト、クワガタを捕る興奮はこども達から奪われてしまった。自然を改変し万事効率よく清潔にと努力を重ねた我々は、自然を食いつぶし一番大切なものを失ってしまったと嘆いている。
 著者は都会の公園の片隅にダイコンとかキャベツの畑を作ってくれないかと願う。薬は一切散布しない。アオムシがたかってもそのままにしておく。アシナガバチが来てアオムシを噛み殺し肉団子にしても、寄生蜂が卵を産みつけても放っておく。公園にナツミカンやカラスザンショウを植えて幼虫の食糧を確保し、アゲハの仲間も発生するように計画する。公園の落ち葉はゴミとして処理せず、穴を掘って放り込み土をかぶせて肥料にする。その堆肥にハナムグリやうまくするとカブトムシの幼虫も発生するであろう。小さいときから隅から隅まで清潔にと育ってきたお母さんたちは“虫が湧く”など耐えられないかもしれないが、そこを考え直してほしいと言う。
 イタリア半島の南端、長靴のつま先に位置するシチリア島は東西文明の十字路といわれ、昔からいろいろな人種が次々にやってきて住みついた。蝶にもカブトムシにも南フランスやスペイン、北アフリカのモロッコ、チュニジアそしてトルコと共通種が沢山いる。虫たちも来たのである。人も虫も同じことをする。著者はこの島の山道でフンコロガシが羊の糞を切り取り、見事な球形にして山路の坂を一生懸命に押していくのを観察する。ファーブルの昆虫記そのままの状景を見た。

 本題とはずれるが松茸の話が載っている。今の若い人はあんなものどこが旨いのだろうと思っているらしいが、中高年の我々にとって吸い物などに松茸が入っていると何となく有難い気がするのは、要するに松茸の想い出なりイメージを食べているからだと言う。また昭和30年代の初めまで松茸はそれほど高級品ではなかったと思うと言っている。私は前半には同意しない、今でも松茸は本当に旨いと思うが、後半には同意する。あの頃は松茸は豊富に出回っていて、食糧事情全般の厳しさに反比例して大いに松茸を食した記憶がある。アカマツ林が減ったのか、何らかの事情で需要と供給の関係が激変したに違いない。
 昔母が「鋏知らへんか」、「使うたらチャンともとへ戻しておいてくれんと困るがな」と怒っていたのを覚えている。私も鋏などは家族共通の道具と考えて同じように言っていたが、ある時鋏などというものは実に安いということを発見したと書いている。“百円ショップ”というのを若い友人に教えてもらい、新聞記事を切り抜くのに適した長い鋏や蟹が解体できるような鋏まで全部百円なのである。製造者は一体いくらで売ったのであろう。他に箒と塵取りがセットになった掃除道具があって、便利なので10個ほど買って家の中の至る所、3メートルおきに置いた。今ではほこりを見つけるのが楽しみであるなんて書いている。かっては安物買いの銭失いなどと戒めたものだが、それはちっとも当たらない。何だか相対的に金持ちになった気分である(同感)。

 中学や小学生が夏休みに昆虫の標本を作って学校に持っていくと、理科の先生が「キャー」と叫び、「こんな可哀想なことしていいと思っているの!」と叱られたり、標本箱に“殺人鬼”などと紙が貼られる事件があった。ギフチョウやオオムラサキを一頭採るのとパンダやトキを一頭または一羽取るのとでは意味が違う。繁殖力がまるで違うのである。因みに著者は日本昆虫協会会長である。教育の現場で「虫に手を触れないで観察しましょうなどと偽善的なことをいう先生が多い。虫は掴まえて手にとって詳しく見なければハッキリしたことは分からない。息を殺して蝶に近づき、首尾よく捕虫網に収めた時の心臓が口から飛び出すような興奮が学問への第一歩になるーと著者は説いている。

<佃島> 先月の遠藤周作の随筆「狐狸庵閑話」に端を発して、佃島のことをもう少し知りたくなった。足が不自由でなければ直接探訪するのだが、代わりにインターネット探索を試みた。地図も風景写真も歴史も居ながらにして無料で入手できる。便利な時代になった。佃島の歴史については次のような記述があった。
 ―江戸時代より前、いまの佃島は向島、石川島は森島あるいは鎧島と呼ばれ、隅田川河口の海の中に点在する小さな干潟に過ぎませんでした。


 話は天正10年・1582年6月4日に遡ります。明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れたのが、その2日前6月2日の早朝。その時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺の地にいました。見つかれば、信長の盟友である家康が無事なわけがありません。家康は岡崎城へもどることができるか狼狽しました。その時、いち早く堺の商人・茶屋四郎次郎からの知らせで、直接の退路が阻まれていることを知らされた一行は、異変を知らぬふりをして住吉神社参拝というふれこみで、逆の方向へ迂回しての脱出奇策をとりました。
 一行が、今の大阪市住吉区の神崎川にさしかかった時、渡る舟がなかったので焦りました。その時、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門は、手持ちの漁船と不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食・兵糧として用意しました。気候の悪い時期に人里離れた海路や山道を通って必死に脱出しなければならない一行にとって、佃煮の始まりともいえる佃村の人達から受けた小魚煮は、日持ちも良く、体力維持にも素晴らしい効果を発揮しました。服部半蔵を頭とする伊賀の忍者部隊に助けられながら山越えし、やっとのことで岡崎城ヘたどりついたのです。佃煮の祖形ともいえる貝や小魚を塩ゆでし干物にした忍者食も伊賀衆と一緒に食べた家康は、佃煮のありがたさを身にしみて感じたようです。その後、伊賀の地侍は江戸に召し抱えられ江戸城の警護役をつとめます。半蔵門の名もそのよすがをのこしています。

 以来家康の佃村の人達への信任は、特別強いものになったのです。その後大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りのできる特権を与え、家康が伏見在城のときも、大阪夏・冬両陣のときも、食料としての鮮魚の供給や密使の役を勤めました。その後、慶長17年7月、二代将軍秀忠の時代になって、摂津国西成郡佃村の庄屋森孫右衛門と佃村、大和田村の漁師ら33人は、家康に呼びよせられ、江戸に移住しました。 漁民一同は、日本橋小網町安藤対馬守屋敷内に居住して江戸湾で漁業を営み、白魚をはじめとして将軍家の御采魚を献上していました。そして、寛永年間、鉄砲州の東の干潟百間四方の地を幕府より賜りました。漁師達自らの手で島を築き、正保元年(1644年)、ついに築島を完成し、ここに漁夫一同引き移りました。そして、本国佃村の名をとって、佃島と名付けたのです(左は葛飾北斎の富士三十六景・武陽佃島)。
 佃の渡しは、佃島ができた次の年の正保2年(1645年)に始まりました。正保三年(1646年)には、故郷摂州(大阪市住吉区)の氏神・住吉神社を分社して、佃島住吉神社の社殿を建てて遷座しました。佃村の漁夫たちがとった魚類は幕府に献上してもなお余り、幕府に願い出て、日本橋のたもと、本小田原町に店を出すことを許されました。このようにして、魚市場がたち、漁民のほかに魚卸業が初めて誕生。これが「魚河岸」へと発展していったのです。ー

 幕府から使用許可されたのは百間(180m)四方で、人々は石垣を積んで築島作業に励んだ。今やその佃島は隅田川の最下流とは決して言えない三角州の上流端の一角(東京都中央区)に位置し、東京駅からもごく近いまさに都心に取り込まれていて、この界隈に最近続々と建設された高層ビル群の谷間に残っている。地図で探すのなら佃大橋で隅田川を渡った直後の左側、目安は住吉神社である。住吉神社の藤は健在のようだ(左の写真)。住吉神社は船の安全の神様として漁民の篤い信仰を受けた。この界隈は奇跡的にも関東大震災と東京大空襲にも焼けずに、狭い路地裏などに昔の俤を残している。
 佃煮の老舗(昔は3軒あってその味を競いあっていた)、狭い水路を渡ってこの界隈に入る小粋な赤い欄干の佃小橋、佃の渡しの跡の石碑、白魚漁に出かけた小さな漁船の港(掘割である)などが今に残っているし、夏には佃祭りが行なわれるし、伝統的な盆踊りは有名である。付近にある佃島小学校は113年の伝統を誇る。今では遊覧船に乗って隅田川の川面から眺めると全体的な位置関係がよく認識できるかもしれない。その場合は石川島の灯台が位置の目安になるだろう。
 江戸前の生鮮魚介類を江戸城をはじめとして多くの大名屋敷に届ける上での地の利もよく、徳川家ご用達という看板を得たこの島の人たちの江戸時代の権勢は大したものだったに違いない。また佃煮は海が荒れて漁業ができないときに備えて雑魚を醤油炊きした保存食だが、日が経つにつれておいしくなると評判になった。東京湾に昔から依存していた漁民とは異なる能率的な漁法を採用したといわれ、急拡大した江戸の台所需要を満たした。彼らを招致した家康は昔からの縁があってその功に報いたかったことも勿論だが、これによって優れた行政能力を発揮したことにもなる。

<ボスポラス海峡> (黒海の写真は宇宙衛星撮影の画像:上方にアゾレフ海とケルチ海峡、左下方にマルマラ海。画面でははっきり見えないが黒海との間はボスポラス海峡で繋がれている)
 ウイリアム・ライアン、ウオルター・ビットマンという地質学者の説話を紹介する(「ノアの洪水」集英社)。話は古代バビロニア、シュメール王国のギルガメッシュ叙事詩の解読から始まる。古代ニネヴェの粘土板にはセム系の言語であるアッカド語で物語が記されていた。解読者は破片を寄せ集めて、“舟がニジルの山脈に休んだ”という一節とその後に“鳩を飛ばしたが、それはどこにも休息の場所を見つけられずに戻ってきた”という記述を見付け、小さな楔形文字が馴染みのある大洪水の物語を刻んだものであることを知った。
 物語には“選ばれた者たちは神の与えた試練に負けずに洪水を生き延びたこと、あらかじめ警告が与えられ、そのお陰で木造船を造る時間的な余裕があったこと、あらゆる種類の動物、鳥、爬虫類がその舟に乗って避難したこと、舟が山腹に着陸したこと、燕、烏、鳩を飛ばして陸地を探させたこと、生贄を捧げたこと、神々が二度とこの世界に太古の水の混乱をもたらさないと約束したこと”が記されていた。

(右は藤城清治の絵)
 神が著したはずの侵すべからざる聖書(旧約)の中の洪水の物語が、もっと古い異民族の神話に記録されたもう一つの物語とこうも酷似しているのは何故だろうか。また碑文と聖書の間の差異も注目された。碑文では舟は方舟ではなく普通の舟で、水夫たちが操って海へ出たことになっていた。
 地質学者たちは1970年調査船を用いて地中海の海底を掘削して回った。その結果500〜700万年前には地中海海底に礁湖と塩湖があり、地中海の広い範囲が干上がっていたと推論した。凡そ700万年前に地中海と大西洋をつなぐジブラルタル海峡(現在のポルトガルに位置する)で地殻変動があり、大西洋の水と地中海を隔て続けた堰ができて地中海は内海になった。強い陽光と乾燥した気候で海は半ば干上がった。ナイルはグランドキャニオンのように深い峡谷を穿って現在より5000フィート低い海面に向かって注いでいた。約500万年前のある時にジブラルタルの堰が大規模かつ劇的に崩壊して、激流がかっての障壁を浸食し、現在のジブラルタル海峡の海面下1000フィートの谷を作った。ナイルの峡谷は深い入り江になった。今でもナイル川沖の海底に深く刻まれた峡谷の跡がある。500万年前にはまだ人類は存在せず、地中海の砂漠が海の底に永久に沈むドラマの目撃者はいなかった。
 地質学者たちはノアの洪水が事実ではないかと考え、それがどこであったかを調査し始めたが、地中海を満たした洪水は先史時代のできごとなので候補から外した。しかし原因が大雨によったのではなく、地堰の崩壊によって地中海を満たしたような洪水が近年になってほかにもあったのではないかと考えた。


 地質学者たちは調査船をボスポラス海峡に進めた。水深グラフは水面下の渓谷の深さが350フィート以上あることを示した。黒海へ出ても海底に海峡の谷は続いていた。改めて黒海の沖から海峡の方へ引き返したときに海底の水深は海峡が嘗てまっさらな峡谷であったことを示していた。自分らの真下に隠れた川が黒海に流れ込んでいたのだ。更に地質学者たちは黒海の北岸側でアゾレフ海と黒海をつなぐケルチ海峡付近の海底調査を行なった。この海峡を貫いて古代ドン川が北から南へ流れていて、海峡の南、海面下450フィートにデルタ地帯を形成していることが分かった。また付近一帯の海底に砂丘があって、その驚くべき保存状態は非常に急激な水没が起こったとしか考えられなかった。一番低い岸は現在の海面から520〜550フィート下にあった。

 専門家たちによる多くの調査・推論の結果、黒海周辺に起こった変動は概ね次のようなものだったとされる。
1)BC12500年頃最後の氷河期が終焉を迎え、北ヨーロッパとアジアを覆っていた広大な氷床が解け始めた。大量の融水がアラル海、カスピ海、そして黒海に流れ込み、それらをほとんど淡水化してしまった。黒海の淡水はボスポラス海峡(当時は小さな峡谷だった)より東に位置するサカリヤ川を介してマルマラ海(当時は淡水湖だった)に流入し、更にダーダネルス川を通り地中海のエーゲ海に注いでいた。
2)BC9400年頃二回目の融水が始まったが、今回は黒海への流入は起こらず、独立している湖は乾燥によって水位が下がっていった。水位がサカリヤ川出口より低くなって水の流出は止まりマルマラ海と縁が切れた。峡谷だったボスポラス海峡は当時まだマルマラ海とは繋がっていなかった。黒海は孤立した。一方で大洋の水位は氷床の融解が続いて上昇を続けた。ダーダネルス海峡を通って海水がマルマラ海に流入し、この湖は淡水から海水に変じた。
3)BC5600年遂にマルマラ海の海水はボスポラスの堰を越えて黒海に流入した。急流は渓谷の川底や壁面を削り取り、基盤岩を抉り取って急速に流量を増した。黒海海岸周辺の農地や人里は急速な水位の上昇で広範囲に水没した。やがて水位の上昇速度は低くなったが終局的に黒海水位は約500フィート上昇した。
4)黒海と地中海の水位は等しくなり、ボスポラス海峡の流れは緩やかになったが、現在でも底の方では海水が黒海に向けて流れ、表面近くでは淡水が地中海へ向けて流れている。

 洪水神話が今でも生きているのには多くの理由がある。陸地とそこに住んでいた人々の生活と文化が破滅的な水没によって恒久的に破壊された。真の苦難は洪水が収まった後に始まった。湖辺に暮らしていた彼らの住居も農地も失われ、残されたのは道もない山地と夥しい海面だった。彼らは着の身着のままで食べ物もなく、当てもない遠方に逃げなければならなかった。疲弊して命を落とした者が大勢いただろう。黒海の北端と東端に居た人々はヨーロッパとウクライナへ、また南側にいた者たちはアナトリアやその先に逃れたらしい。民族離散(デイアスポラ)である。シュメール人には彼らの子孫もいたかもしれない。
 ボスポラス海峡の周辺に住んでいた人々にとって奔流の光景と轟音には心底からの恐怖を覚えたことだろう。それは「牡牛の咆哮のようであり、荒くれ者の絶叫のようであり、大地は揺れ、その基礎をゆるがし、太陽は暗くなり、稲妻が閃き、雷はこれまでに聞いたこともないような轟音をとどろかせて山や平原を横断して行った」と形容され、口承の歴史に植えつけられた。

 大体大雨による洪水というものはどんな地形でも大水で一時的に水位が上がってもやがて水が引いて収まるものだ。ノアの洪水伝説のようにあたりが静かになると船は山の中腹に着いたーすなわち水位は上がりっぱなしで騒ぎが収まったというのが大雨による出水ではないことを物語を聞いた多くの人々は何故疑わなかったのだろうか。私もよほど特殊な地形で起こったできごとなのだろうと不思議に思っていたが、これで疑問が解けた。ところで海峡というのは妙なものだ。ジブラルタル海峡に限らずダーダネルス海峡や日本の関門海峡も昔何かあったのかもしれない。
 私のパソコンの壁紙に嘗て海峡のヨーロッパ側の嘗て東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブルを陥落させるためにトルコ軍が築いたルメリ・ヒサールの城砦の真上に位置して、ボスポラス海峡の北方・黒海方面を望む風景写真(右上)を載せてみた(なお上に掲げた海峡の略地図では城砦と橋の南北の位置関係が逆になっている)。日本が建設した第2ボスポラス大橋や海峡を行き交う何隻もの船舶が見える。この辺りは画面後方の首都周辺(マルマラ海からの海峡入り口)に比べると水路の幅が広い。この海峡を現地に訪れたことはないが、イスタンブールの写真を入手した時から何か惹かれるものがあった。この際古い歴史の華やかな舞台であっただけでなく、壮絶なノアの洪水につながる更に古い歴史を秘めていたことを知って感慨を新たにしている。

<創価学会> 今や国民の7人に1人が会員と言われるこの巨大勢力について今まで余りにも知らなさ過ぎた。最近は交際範囲がめっきり減ったこともあるが、私の周辺にはこの組織に関係のある人が全くといっていいほど存在しない。だが2003年11月の総選挙において自民、民主の二大政党に有利な選挙制度の中で創価学会を母体とする公明党は34議席を獲得して議席数を増やした。本年月に行なわれた参議院選挙で公明党は議席数を増やしこそしなかったが、各選挙区で自民党とキメの細かい連携を行い、民主党の上げ潮の中で特に都市部での自民党の退潮を救った。詳しいことは承知しないが両党の選挙協力がなければ、小泉政権はこの選挙で退陣の憂き目にあっただろうし、自民党が小渕首相以後公明党との連係に頼っていることは公然の秘密になってしまった。
 この周辺の事情を理解するために“創価学会”(島田裕巳・新潮新書)という冊子を読み、文春10月号のタカラジェンヌの記事に目を通した。要約すると、創価学会というのは仏教の日蓮宗を奉ずる一宗教団体であり、公明党というのは表向き宗教色のない政党で党員資格に宗教上の信仰の有無は問わない。しかし結党当初(1964年)の公明党は鮮明な宗教色を打ち出しており、それがその後の言論弾圧事件などを経て政教分離の方向を打ち出して、同じ体で別の二つの顔をもつという妖怪じみた組織に変じてしまった。
 仏教集団の中で500万人を越えているのは真言宗(高野山)549万、浄土宗602万、東西の浄土真宗は西本願寺694万、東本願寺(大谷派)553万、立正佼成会561万人と称せられる。これに対して創価学会会員数は1748万人で日本の総人口が1億2693万人だからおよそ7人に1人が創価学会会員ということになる。しかも既成仏教の信者が単に寺の檀家になっているだけで集団に対する強い帰属意識を持ち合わせない(<葬式仏教>の欄参照)のに対して、創価学会会員は自分達の組織に強い一体感をもち、組織を自らのアイデンテイテイーの基盤とさえ考えている。だから折伏(しゃくぶく)と呼ばれる布教活動や選挙運動に熱心なのである。創価学会では“世界青年平和文化祭”おいう大規模な祭典を営んできているが、これだけの規模でマスゲームや人文字を作れるのは世界で北朝鮮と創価学会会員だけだとも言われる。創価学会が現在でも信仰を共有する人々によって営まれる生きた組織であることは特筆すべきである。

 創価学会の創始者は牧口常三郎で小学校の校長だったが、日蓮宗の一派で日蓮の直弟子・六老僧の一人日興の興した日蓮正宗の信仰をもった。牧口は教祖によくある神憑りや特殊な宗教体験はなく、教育者らしく1930年“創価教育学体系”を刊行するとともに創価教育学会を発足させた。著書には柳田國男や新渡戸稲造が序文を寄せ、政友会総裁犬養毅が題字を揮毫した。牧口は独自の宗教思想として“価値論”と“法罰論”を展開した。前者では幸福を価値の獲得として捉え、普遍的な価値を“美・利・善”とした。在来西欧でそれは真・善・美とされてきたが、その“真”を“利”(利益)に置き換えたところに現実主義的な特徴がある。後者では日蓮仏法には善を保護するために悪人を罰する強い力をもつべきだと主張する。
 戦後戸田城聖は2代目として創価教育学会を創価学会と改め、会長に就任して“折伏大行進”を宣言、一千世帯に過ぎなかった会員数を1964年には500万世帯にまで増やした。学会は折から高度成長期に当り農村から都市へ進出した人々の受け皿になって巨大教団へと発展した。他の新宗教、立正佼成会や霊友会に発展で大差をつけた理由は学会が霊的な信仰や先祖の供養を強いなかったためとされる。学会は霊魂を否定し、伝統的な信仰をもまっこうから否定した。葬儀に当たっては日蓮正宗の僧侶に葬儀を営んでもらい、生家の信仰に逆戻りする必要がなかった。
 第3代会長には池田大作が就任、公明党を結成して政治に進出、69年には衆議院選挙で69議席を獲得するに至った。また各種公共機関や学校を設立した。しかしこの頃から藤原弘達の“創価学会を斬る”に対する言論弾圧事件が発生して世論の批判が厳しくなり、大幅な路線の転換を迫られた。池田自身の政界不出馬、国立戒壇の否定、創価学会と公明党との政教分離の明確化、強引な折伏活動の停止などである。会長自身が誤りを認め、学会に誤りはないとする会員の確信は崩れ、成長は頓挫した。
 創価学会は信仰を次世代へ継承することと在家仏教集団としての性格を強化する方針を打ち出し、宗門である日蓮正宗と距離をおくようになった。一旦は池田会長が宗門に詫びて名誉会長に退いたが、1990年両者の対立は決定的になり、創価学会は日蓮正宗と決別した。今まで日蓮正宗の僧侶に導師を依頼していた葬儀は会員が導師を勤める“友人葬” に姿を変えた。2002年には会則を改めて日蓮正宗の記述を削除し、御本佛として日蓮聖人に戻ることにした。

 池田は創価学会の顔として外部に対するとともに内部では会員の絶対的な崇敬を受けている。スピーチの中では民衆の重要性を繰り返して強調し、幹部会を公開することで組織が官僚化していく道を閉ざそうとしている。周恩来は革命のロマンより現世利益を求める労働者階級の心性を知り尽くしていて、日本において最終的に勝利するのは共産党ではなく創価学会だといち早く見抜いた。1972年竹入委員長ら公明党議員団が訪中、田中角栄の日中国交正常化を実現する。その後池田大作は度々訪中し、周恩来から贈られた桜の木は今でも創価大学構内で大事に育てられている。
 宝塚歌劇は小林一三が元々何もなかった箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄)の終点に客を呼ぶという商業的要請によって作った。その宝塚は外から見れば竜宮城の世界だが、内部はライバルばかりで悩みを打ち明ける相手は少ない。そういう環境で宝塚音楽学校の生徒たちに入信者が増えた。学会に入信していたので助かりましたと語るのは元タカラジェンヌ。激しい競争の中でいくら頑張っても“できて当たり前”になる。池田大作の「よく頑張ったね」の一言がしみわたった。別の一人は「池田会長は学会の婦人部員にとって憧れのヨンさまのような存在です」という。
 創価学会は日蓮の教えに従って排他的である。“神祇不拝”を説き、学会員の子弟は修学旅行などで神社仏閣を訪れた際にも神社の鳥居や寺院の山門を潜ろうとはせず、そのような施設で礼拝をしようとはしない。地域の伝統的な信仰を否定し、祭りに協力せず、地域と対立関係に陥ることがある。日本の宗教としては珍しく一神教的な性格をもつと言える。
 創価学会は強大な相互扶助組織である。芸能人に学会員が多いのもその機能が役に立つからだ。会員の家庭では親戚も含めて日ごろ付き合いのある人間のほとんどが学会員である。現在新たに会員になる人間はそれほど多くない。しかし子供たち、孫たちに受け継がれることによって相互扶助組織は維持される。公明党は結党以来“大衆福祉の実現”を政治活動の中心にすえてきた。自民党との連立政権の中では常に厚生労働大臣のポストを確保してきたのもそのためである。組織の性格は極めて日本的とはいえず、むしろ伝統的な日本では鬼っ子的な存在だが、日本人社会の弱点にうまく食い入っていて、容易には衰退しないように思われる。

<プロ野球の再編> 近鉄とオリックスの合併がパ・リーグ球団社長会議で承認され、その後噂されたダイエー・ロッテの合併話は当面消えた。これで来期はセリーグ6球団、パリーグ5球団の変則的な形で行く見通しになったが、選手会はこれに反対して立ち上がり、スト権を確立した。一方でIT業界からライブ・ドア、楽天の2社が新規参入の名乗りを上げた。選手会と球団社長会は2週にわたって協議会をもった。選手会は近鉄・オリックス合併の1年凍結を求めたが、社長会はこれを拒否した。同時に選手会は新規参入企業に対する参入障壁の緩和とセ・パ両リーグの交流試合の開催を求め、社長会はこれに同意した。次に選手会は来年度からの新規参入を認めることにより、変則的なチーム数の解消を図るように要求したが、社長会は参入審査には時間をかけるべきと主張、来年度からの新規参入を拒否し、選手会は土日のスト突入を決定した。
 このような今までの経緯を見ると古田敦也会長率いる選手会のほうが筋が通っていて、社長会の方は優柔不断、まるで大人とこどもの争いのようにさえ見える。一体どちらが経営者らしいだろうか。社長会はストライキによる損害賠償を選手会に要求するなどと言っているが、来期パリーグ5球団の変則運営では1年を通じての逸失利益は短期のストライキによる損失と比べ物にならないだろう。第1プロ野球の魅力が半減してファンが失望し野球場から遠のいてしまう。もともと近鉄社長のような単独でのチーム経営をあきらめた失格者が新規参入の制約を口にする資格などはないはずだ。
 紛糾が激しくなったのは読売新聞の渡辺恒雄がどうせ減るなら2チーム減らして1リーグにしたらいいとか言い出し、選手会の反対を聞くと「古田など選手ごときが何を言うか」とはき捨てるように言ってファンの憤激を買った。挙句の果ては大学選手にヤミのカネを渡してルール破りをした責任を取るなどと言って、取締役を辞任しオーナー・グループから降りてしまった後でも、セ・リーグ他球団の1リーグ制反対に遭うと巨人だけパ・リーグに行くなどと勝手なことを言って混乱に拍車をかけた。業界、ことにパ・リーグの経営が軒並み苦しくなったのはこの男が中心になって金にまかせて有力な選手の年俸を吊り上げたからで、現在の巨人の打撃陣に他チームの4番打者を一本釣りで集めて巨人以外のファンの興を削いでしまった。清原、ペタジーニ、小久保、ローズなどである。投手でも桑田、工藤などもう年だが、報酬に吊られてジャイアンツに来た。対抗上各チームも採算を度外視して年俸をアップした結果が今の状況で、紛糾の原因は経営者たちの無能無策である。

 その経営者達が新規参入者に対して委員会を作り時間をかけて厳正な審査をすることが必要だと主張する。笑わせてはいけない。どんな人にどんな基準で審査せよというのか。自分達の判断力が弱いから即答できないだろう。だから時間が必要で来年には間に合わないという。私に言わせれば審査などは不要である。大事なことは新規参入者が無責任なことをして業界を混乱させないように、また万一の場合にはそれで事態の収拾が図れるように適正な保証金の額を決めることと、その保証金を没収するための明確・合理的なルールを定めることである。その上で当面の各リーグのチーム数を(6:6に)決め、参入希望者の数が多すぎる場合はオーナー会議でもよいから選挙で絞り込めばよい。資本主義の世界ではカネがものごとを適正に裁いてくれることを思い出せ。フリーエージェント制も含めて選手選考の手続きに各チームに平等な機会と採算性を与えるためのルールの見直しは1年かけてもいい。
 政治の世界でもそうだが、大事なことは委員会を作り審議して慎重に決めるのがよいなどというのは特定の思惑のある人間の意向を実現するための手段である。そんな手続きを踏まなくても、不合理がひどければ世論が裁いてくれる。時代が移り鉄道産業は以前から斜陽で、プロ野球球団オーナーなどやっている余裕はなかろう。IT産業に代わるのは必然かもしれない。経営者の年齢など問題ではない。大事なことは簡単なルールを定めることと果断な実行である。今回のストは選手会に理があり、私は上記の再編手続きの実現を願ってストを支持する。野球ファンは無能な球団経営者を糾弾せよ!

 1週間経ったら情勢が一変した。古田会長に代表される選手会は一致団結していたこともあり、世論の80%以上の支持を得た。土日2日間のストが実施されたが、選手会側を応援する声ばかり大きくなり、責める声は聞こえてこなかった。ストの行なわれた球場では選手のサイン会が取って代わった。古田敦也は真面目な人柄も受けて英雄のように扱われ、試合で活躍すると相手チームのファンからも熱烈な応援を受けた。
 流石に形勢利あらずと悟った日本プロ野球組織(NPB・球団オーナー側)は態度を一変させて選手会との会合に臨んだ。尖鋭化していたらしい巨人・オリックスらは世論の趨勢に一挙に態度を軟化させていた。6チームごとの2リーグを前提として、来期に新規加入を容認するための審査に入る意向を表明した。また審査過程の開示など透明化に努め、ドラフトその他新規球団の戦力均衡化を図るほか、NPBは選手会との間で協議会を設け諸制度の改変について徹底的に協議するなどの合意書が署名され、NPB側の大幅な譲歩によって第2波ストは回避された。新球団の決定までには相当な紆余曲折が予想されるが、選手会側のほぼ全面的な勝利(近鉄・オリックスの合併を阻止できなかったことから、古田は全面勝利ではないと言う)で当面のストライキが終結したことは祝すべきだと思う。




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