10月の話題


2004年10月

 

<台風> 10月1日この夏日本列島をまともに通過することになった5番目の台風として台風21号が岩手県から東方の海域に去って行った。米国やカリブ海でも今年はハリケーンの被害が大きかったようだが、日本を襲った台風も特異だった。一般に台風は太平洋南方で発生すると高い海水温度によって成長しながら北上し、沖縄や日本列島を南北に縦断していく。季節によって進行方向は東西にぶれるが、いずれは偏西風に乗って北東へ流されていくので、大きくゆるやかな時計方向の円弧を描くのが常態である。
 しかし今年は多分日本列島の東方に強い高気圧が居座っていたせいなのだろうが、台風が日本列島南方で遅い速度で西へ西へ動き、ある地点で突然北方へ向きを変えるような動きが目立った。先の19号だったか、かなり勢力の強い台風だったが西から東へ急反転して日本列島に沿う形で九州から北海道まで進み、日本全土に影響をもたらした。宮島神社も大きな被害を受けた。この21号はその最たるもので、ゆっくり西へ西へ動いて沖縄本島にまで至り停滞すると、突如鋭角に進行方向を変えて沖縄列島沿いに九州へ、更に日本列島の上を縦断する形で進んだ。沖縄へ行った台風が東北地方まで戻ってくるというのは従来の常識では考えられないことだった。
 8月の<気象の偏り>でも書いたが、台風に伴う集中豪雨は今回も台風の中心とは異なる位置で南から北へ帯状に雨水が局所選択的に注ぎ込むような形で降り、三重県宮川村で山崩れが起きて10名を超える死者を出した。それは短時間放映されるだけだが降雨強度の時間的な推移を示すテレビ画面で如実に知ることができる。土地の長老が“生まれてからこんな激しい雨に会ったのははじめてだ。恐ろしい”と語るのも新潟・福井と同様だ。
 またテレビに若い女性の気象予報士が登場してアナウンサーの問いかけに対して台風のコースが鋭角的に折れ曲がった件について東の高気圧と偏西風の影響で当たり前のことと答えていた。当たり前なら事後の評論でなく、事前に予測してみろと言いたくなる。気象予報士の試験はどのぐらいの難関か知らないが、現実に“予報”技術が不足しているのに謙虚さが足らない。またN.H.K.はこういう事態になると通常の番組を一切取りやめて各地の被害状況を漫然と流し続ける。どうせ取り上げるのなら集中豪雨による出水の事前警告と避難勧告をできる範囲で試みられないものか。無神経で経験のない女気象予報士には台風時には登場しないで、平時に勉強してもらいたい。
 不思議だが東京・関東地方は今年も台風が避けていき、ほとんど被害が出なかった。その分も含めてか本年は真夏日の記録が更新されて、台風の余波だろうが9月30日も30degCを越え、東京は70回目の真夏日になった。いつまでも暑くて癪だから、後日のために記録に留めておく。

<福沢諭吉> 小林秀雄の“考えるヒント”という随筆集がある。著名な評論家だし、採り上げている随筆のテーマはそれぞれ興味のあるものだが、実際に読んでみると論じている内容がもう一つピンとこない。著作は主に昭和30年代になされたもので、ほぼ50年を経た現在では関心事も考え方も変わってきていることもあろう。著者と自分の感性の差異ということもあるだろう。そういう中で“福沢諭吉”のテーマで書かれていることには私なりの共感があった。
 このように書いている。ー福沢諭吉はわが国の精神史が漢学から洋学に転向する時の勢いを最も早く見て取った人だが、この人の本当の豪さは、新学問の明敏な理解者・解説者たるところにはなく、この思想転向に際して日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを誰よりもはっきりと看破していたところにあるーと。更に言う。−西洋の学者が文明について新説を唱え、人の耳目を驚かすといっても、それは先人の遺物を琢磨してこれを改新する仕事であるが、今日わが国の学者の文明論という課業は全く異なる。私達は水より火に転じ、無より有に移ろうとするが如き卒爾の文明の変化に会して、いわば新しく文明の論を始造しなければならぬ窮地に立たされている。その点で今の学者の課業はまことに至難だーと。そこで福沢は考えた。−この窮地に立った課業の困難こそわが国の学者の特権であり、西洋の学者の知ることのできぬ経験であるーと。そしてーこの“実験の一事”が今の一世を過ぎれば決して再び得べからざる僥倖なのだーと。
 福沢は“学問のすすめ”を書いたが、それは“洋学のすすめ”ではなかった。洋学はすすめなくても既に流行になっていた。彼は学問の“私立”を、“学者は学者にて私に事を行なうべき”事をすすめた。彼は“当時の洋学者を恰も一身両頭あるが如く、私にあっては智なり、官にあっては愚なり、これを散ずれば明なり、これを集めれば暗なり、政府は衆知の集まる所にして、一愚人の事を行なうものというべし、豈怪しまざるを得んや”と述べている。
 福沢は慶応義塾を作り、官軍が江戸に進軍した日にも講義を続けたという。彼は過渡期とはめいめいの工夫によって処すべき困難の実相であると言い、処すべき実相を答案の用意ある問題にすりかえてはならぬ、過渡期は外にある論議の対象ではなく、“一身にして二生を得る”君自身の内的な経験そのものであると言った。二生とは漢学を学んだ前生の自分と洋学を学んだ後生の自分である。今の日本人は忘却の彼方に押しやってしまったが、明治維新という文明の洗礼は先輩達のこのような壮絶な努力で切り抜けられた。例えば我々は井上哲次郎・西周・福沢諭吉などが定めた万に達するとも思われる洋語の訳語としての漢字熟語の恩恵を受けている。中国を含めて多くの後進国はこの時期の難関の乗り越えに成功せずに日本の後塵を拝した。

<幸田 文> 幸田 文の「木」という随筆集を読む。幸田 文は幸田露伴の二女で1990年に86歳で亡くなった。彼女は1928年清酒問屋に嫁ぐが、10年後に離婚、娘を連れて晩年の父のもとに帰る。随筆は前項の小林秀雄の分かりにくい文章に比べると、極めて平易で気負わない名文で、流石は小説「五重塔」を書いた露伴の娘である。随筆集は晩年の1971〜1984に書かれた“木”にまつわる15の作品を集めたもので、憑かれたように日本全国を歩き回った手記のようにもなっている。彼女が関心を持ったのは木だけでなく、山崩れや火山の降灰など自然現象一般にも及んだ。またそういう自然災害で痛めつけられる樹木たちを哀れんでいた。
 この人の感覚のユニークな鋭さと描写の巧みさを日常生活の記述の一部引用によって紹介する。
 ―ちり紙交換という商売がある。古新聞を新しいちり紙と交換するやりかたで、呼び声に一風変わったアクセントをつける人がいて、その人に決めている。無口な人で、これだけですか、じゃあこれを、としか言わず、交換をして行ってしまう。昨秋その人が珍しく、この紐かけ、あんたがするんですか、と結わえた束を指して、いつもより余分なことを言った。そうだ、と答えると新しい紙を二つよけい置いていく、と言う。このオジさんがいうには、新聞をきたなくしてないこと、新聞の折り目が交互に重ねて束ねてあること、紐かけがしっかりと固いこと、これは自分がトラックに積むのに、たいへん都合がよく、手間が省けて助かる、だからお礼心に二つよけいにするのだ、とも言った。
 あんた紙の扱いを知っているね、とも言った。そのトシにしちゃ力があるよ、とも言った。しまいに、今どき珍しいよ、しばる力のある女はネ、と言って出て行き、私の古新聞の束をホイホイとトラックに投げ上げ、それがみごとにきまって、束は手を施さずに四角にきちっと積み重なって、車体ごと揺れながら崩れ落ちずに、角を曲がっていった。そのとき不意に、酒樽のことを思い、ついでまた“すぎなり”ということを思い、さらに次いで新潟のテトラポットが出てきて、ははあとばかり胸のおりる思いがあった。一連のこのつながりは、交換屋さんのトラックが角をまがったとき、するすると出てきたのであり、私は裏木戸に佇んだままの、暫時のまのことだったー
 ここで連想内容についての注釈が続く。
 ―酒樽はもと私の嫁ぎ先が酒問屋であり、幾戸前もの倉には菰かぶりの四斗樽が、整然と積み上げられていたので、その記憶が交換屋さんのホイホイの鮮やかさと、自分の古新聞の積み重なりから誘い出され、積むということから杉形という形へひびき、テトラへ及んだものだろう。しかし、新潟のテトラは積んだものとはいえず、乱雑に置かれているという形だったのだが。
 いま杉形といっても、通じることは少なくなった。杉の立ち木の姿のように、頂部を高く尖らせ、下部を広く安定させる形のことだが、私は子供のころ、霊前の盛菓子、神前のお供え、来客へだす鉢に盛った菓子、料理の盛り付け、薪や炭俵の積み方などで、この形を整えるようにと、耳たこに覚えさせられたので、知っているのであるー
 なおテトラポットについては先に掲げた文の前の方に
 ―テトラポットというものを、はじめて見たとき、なにかこうひどく惹きつけられて眺め佇み、連れの人たちに促されて足をかえしたあとも、しきりにもっと見ていたかったという気がしてしようがなかったことがあるー と随分こだわっている。
 とにかく好奇心旺盛である。檜でもかしいで育った木は木材としては歪みが出るから劣等であり、アテと呼ばれると教わる。彼女は無理に頼み込んでアテを製材してもらった。板に裁たれた途端に反り返った。檜の芳香が空しく鼻をついた。
 屋久島を訪れ、足が弱くなっているので人に背負われて樹齢7200年という縄文杉の根元にたどりつく。彼女は表面の形を見ただけで、樹木の太さ・大きさは(実感として)掴めていないと正直に記している。だが杉皮は縦しぼ織の乱立縞かやたら縞でずいぶん粋な着物を着ていると女らしい感想だ。

 安倍川流域の楓の純林を見に行き、日本三大崩れの一つという大谷崩れを見て以来、巨大な崩壊にショックを受け山崩れの現場を見たがった。富士山の大沢崩れ、男体山の薙など皆それぞれに様相も雰囲気も違うと言う。彼女は 
 ー住むことにしろ、食べもの着物にしろ、春夏秋冬、四つの季節を経てみなければ、一通りのことも分かりはしない。まして山や川のようなものは、四季の変化どころではない、朝夕でも晴雨でも姿を変えてみせるのだから、せめて四季四回は見ておかないと、話にならないのだー 
 と言ってまた大谷の崩壊地へ小雨の秋に出かけ、崩壊斜面が著しく小さくなったと驚いた。そしてどうも樹木が茂ったせいらしいと言う。次いで砂防工事のメッカという常願寺川の鳶山という巨大な崩壊地へ行く(写真は立山カルデラの崩れの碑)。絶壁という恐ろしい条件を装うもみじのその美しさ。溜息の出るみごとな風景だったと。
 灰と土石流が見たくなって桜島へ行く。灰は道路の側溝に溜まっていて灰色でなく、黒かった。花も葉も煤ぼけて、いかにも疲労困憊、辛うじて耐えている様子なのだと。有珠山は大事件だけれど、かなりの被害を受けても一時の被害なら、人はかえって勇気を出す。でもこの島のように何年もだらだらと火山活動が続いたのでは、人は心身ともに落ち込んでしまう。
 今度は火山活動の終わりかけた有珠山に行く。桜島の灰は黒くて、粒粒で、重かったが、有珠の灰は灰白色で、きめがこまかく、軽く、指にこすってみれば当りが柔らかく、火鉢の灰に近い形状をしていた。彼女は灰が雨とまざって生コン状に葉や枝にこびりついた惨憺たる木々を見て回った。帰ってからの感想は ーあの灰まみれの山林の上にも、時計の針はめぐり季節は移り変わる。暖かくなったら、もう一度あそこへ行って確かめるのが、人間の情と言うものだと思うーだった。
 この人の文章は意図がはっきりしている。言葉を惜しまないから分かりやすい。率直な表現は共感を呼ぶ。解説者も述べているが、久々にいい文章を読んだという気がする。

<腰の関節> 長い暑い夏がようやく終わったと思うと、長く降り止まない雨がまる三日間続いた。これも異常気象の続きだろう。その前に1日休んだので、5日ぶりに杖をついてごく近所の散歩に出た。運動しない日が続いたので、疲れが完全にとれてさぞ身体の動きがいいだろうと思ったらさにあらず、途中から身体のぎこちなさが増して、やっとのことで家へ帰着した。自分はかなりの身障者だから、歩行速度が遅いのは常態だが、むしろいつもより所要時間がかかってしまった。ロクに運動もせずに家で椅子に座っていると腰が硬化してしまうのだ。これで10日も外出をさぼっていたら、外を歩けなくなるぞと愕然とした。
 夜のテレビの番組“試して合点”で“決め手は股関節・新寝たきり予防術”というのをやっていた。股関節の硬い人を見分けるポイントは“姿勢!”と言い、股関節の硬い人はこんな姿勢を取っていましたと指摘する。○階段を上がる時:足が上がらず、猫背のように前屈みになって上がる ○横棒をくぐる時:腰が落ちず、背中を丸めてくぐる ○台をまたぐ時:足が上がらず、体全体を傾けてまたぐ。
 股関節コチコチ悪循環とは次のようなものだと説いていた。○股関節が硬いと、足腰の筋肉をあまり動かさない→日頃動かさない筋肉につながった神経がさびつく→脳からの指令が筋肉に正しく伝わらず、筋肉が緊張して硬くなる→股関節が動く範囲が狭まり、ますます股関節が硬くなる。
 股関節の硬さを調べる方法は壁を背にして両足を前に投げ出し上半身を直立させる。次にその位置から25cmほどの台(投げ出した両足をまたぐ机のような形状)を両手で前方に押し出す。前屈姿勢になって台を前方に押し出せた距離で腰の柔らかさが分かる。年齢とともに数値は下がるが、概ね40cm以上なら柔らかく20cm以下なら硬いということになる。
 私の場合頚椎障害の後遺症で、腰を中心に筋肉の硬化が以前から強く、正常に歩行できないが、運動不足が嵩じて経年的に硬化が進んでいる。下に落ちたものを拾うにはしっかりした支えに掴まらないと困難になっている。だがこの番組で具体的に “股関節の動きが悪い”と知らされたことは今後の養生にプラスになると感じた。
 対策としての“筋トレ”方法として、1)イスに手をかけて立ち、3秒数えながら片足のももを直角に上げる。2) 上体をまっすぐに保ち、3秒数えながら、足を後ろに蹴り出すように伸ばす。−これを週に3〜5日のペースで左足・右足それぞれ10回ずつを1セットでおこなうーということを教わり、早速実行してみてこれは効果があるなということを体感した。この程度の運動なら負担を感じずに行なうことができる。
 番組で股関節の硬さを測定したところ、司会の立川志の輔も年齢より硬化が進んでいることが分かり、常連出演者の山瀬まみちゃんにハッパをかけられていた。まみちゃんは年齢標準より飛び離れて柔らかかった。

<空気> 今回の教材は“空気の研究(文春文庫)”である。著者は山本七平。イザヤ・ペンダサンという筆名で“日本人とユダヤ人”を書き、ユダヤ人と対比して同様に欧米人との差異の大きい日本人を論じた。氏は大正10年生まれ、豊橋第1陸軍予備士官学校で砲兵将校としての教育を受けた上で、フィリピンで地獄の比島戦を経験し、九死に一生を得て昭和22年に帰国、後に“私の中の日本軍”上・下で日本陸軍を解剖する所見を発表した。氏はまた“聖書の旅”を刊行し、旧約聖書の神話を現実の物語として紹介した。氏はまた脱サラ後“世界最小の出版社”と自ら誇る山本書店を設立し、書店主としてキリスト教の原点に関する本を刊行している。このように複雑でユニークな人生を送った山本七平氏が多神教の民と自称し、付和雷同して無反省な現代の日本人に投げかけた課題がこの“空気の研究”なのである。
 戦艦大和について当時の軍令部次長小沢次三郎中将は「全般の空気よりして、当時も今も(大和の)特攻出撃は当然と思う」と昭和50年8月号“文芸春秋”で述べている。本件について七平氏は次のように指摘する。 −大和の出撃を無謀とする人々にはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら“空気”なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には“空気”で決められる。最終的決定を下し、“そうせざるを得なくしている”力をもっているのは一に“空気”であって、それ以外にない。
 注意すべきことは、そこに登場するのがみな、海も船も空も知り尽くしている専門家だけであって、素人の意見は介入していないこと。そして米軍という相手は、昭和16年以来戦い続けており、相手の実力も完全に知っていること。いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知・不見識・情報不足による錯誤は考えられないことである。まずサイパン陥落時にもこの案が出されるが、“軍令部は到達までの困難と、到達しても機関・水圧・電力などが無傷でなくては主砲の射撃が行えないことなどを理由にこれをしりぞけた”とある。従ってサイパン時にはなかった“空気”が沖縄時には生じて、その“空気”が決定したと考える以外にないー と著者は言う。最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか。「戦後、本作戦を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時“ああせざるを得なかった”と答える以上に弁疏しようと思わない」とある。

 筆者は ー日本には抗命罪ならぬ“抗空気罪”という罪があり、これに反すると最も軽くて“村八分”刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係に思われる− と言う。“空気”とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。戦艦大和の出撃決定などは“空気”決定のほんの一例に過ぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端とその対処の仕方が、すべて“空気”の決定なのである。戦後、この“空気”の威力は衰えたであろうか。戦前戦後の“空気”の比較は不可能だが、相変わらず猛威を振るっていると思われるー と筆者は指摘する。
 ここからは私の感想だが、筆者の懸念を頭から否定したいのはヤマヤマだが残念ながら現実の日本でそれは杞憂どころか、我々の生活の安全を脅かすほどアチコチに蔓延しているように思われる。三菱自動車の会社ぐるみの欠陥隠しはまだ続いている。UFJ銀行の不良資産隠しは金融庁に告発された。全国の原発の欠陥隠しは福井の事故に懲りることなく続き、いずれ大事故を起こさないと収まらないようにも思われる。このような大きな組織では必ず現状を強く危惧し、改革の必要を痛感する多数の部内者がいる筈だが、彼らの声は妖怪“空気”によって公表されずに抑圧され続けている。
 先日友人(大学機械科の同級生)と会ってよもやま話をした時に三菱自動車の話が出て、彼は個人個人は良心的に振舞おうとする人たちが一旦組織に入ると変質してしまう、ああいった状況は一旦生ずると容易には解消しないだろうと言った。“ああいった状況”というのはここでいう“空気”のことである。即ち有害な“空気”は発生を未然に防がない限りその排除は容易ではないらしい。
 山本七平は西欧の一神教の世界では状況が違うという。“絶対”といえる対象は一神だけなのだから、他のすべては相対化され、相対化されない存在は、原則として許されない。これでは“空気”は発生し得ない。発生してもその空気が相対化されてしまう。残るのは神との契約だけということになる。中東や西欧のような、滅ぼしたり滅ぼされたりが当然の国々、その決断が常に自らと自らの集団の存在をかけたものとならざるを得ない国々およびそこに住む人々は、“空気の支配”を当然のように受け入れていれば、到底存立できなかったであろう。
 一方で我々日本人の先祖はこの危険な“空気の支配”に対して、少なくとも明治時代までは民族の知恵として“水を差す”という方法を知っていた。この“水”は伝統的な日本的儒教の体系内においては有効だったのだが、明治維新以後西欧を臨在感的に把握する空気的進歩主義者が“水を差す”を敵視し、それが悪であるが如き通念を国民に植え付けたー と氏は指摘する。我々は今後とも“水を差す”自由を確保しておかないと大変なことになるという意識を常にもっている必要がある。戦後我々が盛んに口にした“自由”とは実は“水を差す自由”であり、これを失ったために日本はあの破滅を招いたことを反省しなければならない。
 神は信じなくとも、空気と水を欠いては生きていけない! ジョークにしても割り切れないのが真相である。

<空気その2> 山本七平は具体的にこう指摘している。−戦前の日本の軍部と右翼が、絶対に許すべからざる存在と考えたのはむしろ、“自由主義者”であって、必ずしも“社会主義者”ではない。社会主義は、ただ方向を誤っただけで、彼らの意図そのものは必ずしも誤りではないから、方向さえ変えれば、いわば転向さえすれば有能な“国士”になると彼らは考えていた。だが彼らは、“自由主義者”は箸にも棒にもかからぬ存在と考えていた。彼らは救いがたいこの“自由主義者”をどう規定したのか。あった事実をあったといい、見たことを見たといい、それが真実だと信じている、きわめて単純率直な人間のことである。彼らは“父と子の相互隠蔽の規範”(後述)を組織の規範と考え、それを国家への忠誠の尺度とした。“自由主義者”を何事に対しても“不忠”な、“一切の組織に不適合な”人間だから、信頼できかねると感じたわけであるー

 話を変える。山本七平は日本にはこの国独自の消化酵素があるという。日本は仏教国と言われる。しかし専門学者は浄土宗は仏教ではなく、浄土宗のような思想は仏教にはないと言う。また徳川時代に日本は儒教の影響を徹底的に受けたというが、科挙の制度は取り入れていない。骨組みはどこかで骨抜きにされ、肉の部分はなんとなく溶解吸収される。天皇家には明治4年まで宮中に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。法事はもちろん仏式であったが、明治維新という革命の波に洗われてすべての仏式行事は停止された。決して天皇本人の意思ではなかったが、天皇家自らの意思で自己変革をした形で諸制度を改め、革命に即応して存続した。戦後には天皇の“人間宣言”が行なわれ、これに応じて全日本人が“自分は変わった、今日から民主主義者だ”と自己暗示をかけてそう信じ込み、それによって実質的な変革を避けるという伝統に従った(イラク人は日本人とは違って“民主化”などと叫んでもそうすんなりとは受け入れない)。
 山本七平の消化酵素論は続く。仮に共産党が政権をとれば、志願者は我先に“忠誠”を証明するためにかけつけ、マスコミはその空気に拘束されて、例外を除けば全部が“翼賛”するから、例外者の反論などははじめから問題にならない。一学期に黒板に“大和魂”と書いた教師が終戦を境にして二学期に“民主主義”と書いても大きな変化は起こらない。古い虚構も新しい虚構も通常性を変えはしない。但し通常性の規範を変えろと言われるとそれは容易ではない。ここで必要になるのは“食べたものを消化する”ことであり、その消化・吸収の原理の解明である。彼はそれを日本的情況倫理とその奥にある先述の“父と子の相互隠蔽の規範”にあると言う。
 氏は“論語”子路第13の次の言葉を挙げる。 −葉公、孔子ニ語ゲテ曰ク、吾ガ党ニ躬ヲ直クスル者アリ。其ノ父 羊ヲ偸(ヌス)ム。而ウシテ子 之レヲ証ス。孔子曰ク、吾ガ党ノ直キ者ハ、是レニ異ナリ、父ハ子ノタメニ隠シ、子ハ父ノ為ニ隠ス。直キコト其ノ中ニ在リー これが日本的儒教倫理の基盤になっており、“社長が黒いピーナッツを食べても重役は社長のために隠し、重役が黒いピーナッツを食べても社長は重役のために隠す。直きこと其の中にあり”であって、証人に呼ばれても「知りません」「記憶にありません」というのは、事実でなくとも、その中にこそ真実があり、それができる者が左右を問わず“真実の人”なのであって、良くも悪くも我々の社会はそれで成り立っており、徳川時代はもちろん終戦まではこれが公然の規範であった。
 ところが専門家によると日本的儒教思想と中国思想とは根本的に違うという。孔子の場合、“父と子の倫理”は文字通り父子の倫理であって、それ以上のものではなかった。同時代の諸侯に対して孔子は絶対にそういう態度をとっていない。その生き方は終身雇用と会社への帰属もしくは組織への忠誠を絶対視する現代の日本人より、自分を認め、自分のプランを採用してその実施を一任してくれる組織を自ら選ぶ米国のエグゼクテイブに似ており、それが近代的というのなら、孔子の方がいまの日本人より近代的である。
 更に著者は言う。終戦までの日本は“忠孝一致”で“孝”を組織へと拡大した状態を“忠”と呼び、“君、君たらずとも臣は臣たれ”を当然とした社会であった。これは徳川時代には封建諸侯への臣従を絶対化するイデオロギーであったが、明治以降はこれが極限にまで拡大され、その極限におかれたのが天皇であった。この体制は第2次大戦という打撃で崩壊したわけだが、物理的な崩壊が質の変化を意味しない。それはすぐさま、新しいさまざまな組織を、“孝”の対象と化し、それぞれが“一家”を形成したというだけである。そして戦後はそれを形成しやすい土壌を提供した。終戦とともにこの思想が終滅したのでは決してない。

 “人間の健康とか平和な市民生活”が起点であるように、かつての日本軍もその発想の起点は国家・国民の安全であり、その“生活圏・生命線の確保”であって、そのことは繰り返し主張されていた。その“起点”に何らかの力が作用すると、一切を壊滅する方向にまるで宿命のように動き出し、自分で自分を止め得ない。戦後の日本に奇跡の復興をもたらした何かの力はその力が別の方向に向いたときには一挙に自壊を招いても不思議はない。その力をコントロールする方法を持たぬ限りはー と著者は指摘する。我々は日本社会の現状を理想的とは言わぬまでも、その大勢を是認していはしないだろうか。しかしフィリピンで死地にも立った砲兵将校の祖国を眺める冷徹な眼は、そういう日本人の甘さと隙を見抜いているように思われる。私自身この際随分反省させられている。

<ニューヨーク・ヤンキース敗れる> 2004年のワールド・シリーズ出場のためのア・リーグのプレイ・オーフ7戦はニューヨーク・ヤンキースが満塁本塁打など6打点のデーモンが活躍したボストン・レッドソックスに第7戦に敗れて、ニューヨーク・ファンの夢は破れた。デーモンは打率1割台で期待されていない選手だったが、最後に名門ヤンキースの望みを絶った。ヤンキースは緒戦から3連勝した。緒戦から3連敗した後連勝してワールド・シリーズに出場したチームは史上皆無ということで、レッドソックスにもう望みはなく、ヤンキースが絶対有望と見られていた。ところがボストンでの第4,5戦からヤンキースがもたつき始めて、共に延長戦にもつれこんで連夜のオルテイスの安打によるサヨナラ負けを喫した(尤もヴィジターが延長戦で負ければサヨナラ負けに決まっているが)。
 ヤンキースは望みをホームグランドへ戻る第6・7戦に託したが、打ちまくっていた打線が湿りがちになり、他方頼りの投手陣は続けて打ち込まれて前半の意気はどこへやら、接戦にもならぬ無残な連敗を喫してしまった。松井はポスト・シーズンの第2戦以降4番を任せたトーリー監督の信頼に応えて打ちまくり、一時はM.V.P.の呼び声が高まったが、肝心の対レッドソックス戦後半はもう一つ振るわなかった。頽勢をひっくり返したオルテイスがM.V.P.に選ばれた。
 松井が活躍したせいもあり、日本のマスコミが連日騒ぐのでつい長時間テレビを見てしまうが、野球というのは実力だけではない運命の波が勝負を左右する。満塁でホームランが出るか、塀際の外野フライで3アウトになるか、肝心の一球がストライクで三振になるか際どいところで四球になるかは審判の判定もからんで紙一重で、プレイヤーの気分が左右するところも大きい。

 丁度日本でも中日と西武による日本シリーズが行なわれていて、要(?)の第3戦は中日の落合監督が谷繁の逆転満塁本塁打の後、3連投の岡本を降板させるつもりでマウンドに歩みよったが、気分が変わったらしく続投に方針を切り替えた。ベンチでは明らかに交代の準備を進めていたのでアナウンサーも含めて皆唖然とした。その後連続四死球と2塁打で同点にされてもまだ替えない。遂に2死後カブレラに逆転満塁本塁打を返された。実は岡本が死球を出したときに私は制球力の衰えを感じて、素人ながら見ていられずにチャンネルを切り替えてしまった。試合後の感想で落合監督が敗戦はベンチ、ハッキリ言えば監督の責任と述べていたが、試合中はカブレラに打たれた後もひとり不敵な笑いを消さなかったという。野手出身の監督は投手の使い方が分からないのだろうか。それともその辺を百も承知で意地を通したのか。だがこういう理屈からは強引で首を傾げたくなるやり方が一夜明けると、意外な好結果を引き出すこともあるから勝負は分からない。
 同じく新人監督ながら捕手出身の西武の伊東監督がプレイオフの対ダイエー戦で見せた投手交代のタイミングの巧さには感心させられた。のみならず3塁ランナーを代走に代え、浅い外野フライで決勝点をもぎとる手腕を見せた。日本シリーズも終わってみなければ結果は分からないが、監督の采配が勝負を大きく左右することは明らかである。

 ―後報― 記録的な死者90人を出した台風23号の通過によってドーム球場としては異例の異常天候による試合中止を決めた西武球場で、翌日から流れが変わり中日が2連勝した。しかし敵地名古屋に戻った西武は第6,7戦を連勝してチャンピオンになった。第6戦では松坂が、また第7戦では石井が、好調だった中日打線を抑え込んだ。打っては第6戦で和田が相手投手の得意球を再三にわたってファウルにはじいた挙句、2本連続本塁打を放ち、第7戦では双方無得点の緊迫した前半戦で相手投手ドミンゴのボークから敵失を交えてズルズルッと5点を奪い、相手の反撃の出そうな後半戦に2本のダメ押しホームランが出て勝勢を確立した。西武の伊東監督によれば、負けはしたが第5戦後半に中日の抑え方が分かったという。短期決戦は勝負の流れを掴むことが大事で、その点西武の伊東に一日の長があったようだ。
 他方メジャー・リーグのワールド・シリーズはア・リーグのレッドソックス対ナ・リーグのカーデイナルスの対決となったが、3連敗の後の4連勝でヤンキースに奇跡の逆転劇を演じたレッドソックスはその余勢を駆ってカーデイナルスにブッチギリの4連勝し、あっという間に本年のワールド・チャンピオンになってしまった。嘗てベーブ・ルースをヤンキースに放出し、以後レッドソックスは優勝から遠ざかってしまったために、永らく“バンビーノの呪い”と言われたが、それも今年で溶けた。勢いというのは恐ろしい。

<新潟・中越地震> 10月23日午後5時56分、新潟県小千谷市近辺を震源地としてマグニチュード6.8(震度6強)の地震が発生し、引き続き震度6強2回を含む余震が次々と発生した。土砂崩れや地表の隆起・陥没が多発し、家屋の倒壊、道路の損壊が至る所で起こった。死者推定30名、負傷者2100名、避難した人は約10万人に及んだ。震源は比較的に浅かった模様で、発生時の地震加速度は最高1500gal(小千谷)が記録され、阪神大震災時の818galを大きく上回った。停電、ガス・水道の断絶は広範囲に及び、道路や電話の寸断で孤立した集落が多数発生した。地震の規模の割に死者の数が少なかったのは山間など人口密集地でなかったためで、被害の発生区域は広範囲に及んでいて、鉄道・道路の完全修復には相当の日時が予想される。なお10月30日になって川口町では23日当日地震計は震度7を記録していたが、電話線の不通でデータが気象庁に送信されていなかったことが分かった。因みに阪神大震災も震度7だった。
 信濃川沿いの山肌が大規模に崩れ、川沿いの鉄道路盤や道路を根こそぎ押し流し、あるいは埋没している状景がテレビに放映された。走行中だった自動車が川の中まで押し流されていた。このような広範囲の被害を把握するのに、ヘリコプターは他に替えがたい優れた報道手段であることを証明した。地上にいたのでは周辺の狭い範囲しか分からない。阪神大震災の反省から、今回は自衛隊の出動は迅速だった。台風の時もそうだったが、孤立した人々の救出に軍用ヘリコプターはとても有効である。一方で大勢の人を特定の避難所に集めているが、人間は食事が必要なほかに定期的に排泄する。救援者は前者には配慮しても、後者には配慮がなかなか行き届かないだろうし、避難した人々の要求も遅れがちになる。衛生的でない状況に長時間甘んじなければならない多数の被災者に心から同情申し上げる。

 上越新幹線下り“とき325号”(10両編成)が長岡駅手前で走行中に脱線した。車両は転覆を免れたが、列車の車軸40本のうち半数を超える22本が脱線、全く脱線しなかった車両は列車中央部の4号車、5号車の2両だけで、列車前部はやや大きく、列車後部は極めて大きく脱線して最後部1両は車輪が中央部の側溝に落ち車体が約30度傾いて停車していた(右上の写真)。停車位置の後方1600mから連続して路床に車輪の傷が付いていて脱線が始まったことを示し、停車位置の後方900mからはレールが路床から外れ、めくれあがっている。
 運転士の述懐によると「時速200kmで走行中に激震を感じて急制動をかけた直後に自動の非常制動がかかった。振動が激しく、椅子から転げ落ちないように停車するまでしがみついていた」という。新幹線システムは地震の本体であるS波の前駆であるP波を捉えて自動的に制動をかける仕組みになっているが、この場合は直下型地震だったためにP波とS波の時間差がなく、人間(運転士)の処置の方が一瞬早かったことになる。多くの乗客は停車するまでの間に窓の外に火花を見ている。脱線による異常接触であろう。
 時速200kmで走行中に非常制動をかけると停車するまでに約2.5 km走行するという。地震で激しく揺すぶられながら列車が転覆を免れたのは走行路が直線部だったことと、列車中央部の重量慣性が列車前後部の左右の振れを何とか抑えたためだろうと思われる。列車最後部車両は多分激しくのたうっていたであろう。この車両は旧国鉄時代に製造された200系鋼鉄製で1両あたり約60トンの重量があり、最新のアルミ製車両約45トンより重かったことは幸いしたかもしれない。たまたま対抗車線の列車が停止中だったこともあり正面衝突も避けられて、新聞は“幸運重なり惨事回避”と大見出しを出した。確かに曲線部だったら脱線したが最後、凄まじい結果が予想される。
 当該車両の撤去をはじめレールや路盤の修復のほかに、橋脚35本の表面コンクリート剥奪が報じられており、その跡の点検・修復などにもかなりの日時がかかるだろう。この脱線事故は台湾・中国をはじめ世界中に報じられた。マスコミは開業40周年無事故を誇っていた関係者の迂闊さ(?)を責めたりするが、天災を避ける万全の方法などはない。とにかく脱線転覆しないで本当によかった。神戸大震災では早朝で新幹線は走り出す前だったし、新幹線は地震についている。ちなみに同列車の乗客は155人で、事故後徒歩で1時間半かけて長岡まで歩いたという。

 ―追記― 5日目の7日も震度6弱の余震があり、新たな被害が発生した。二次災害の危険がありまだ点検の済んでいない魚沼トンネルや損壊の確認された45本の高架橋橋脚の修復の見通しは立っていないが、被災した車両の撤去作業中の現場をこの強い余震が襲った生々しい映像が放映された。営業運転再開後にまたこんな余震を食らっては堪らない。余震が収まるまである程度日時がかかってもやむを得ないだろう。




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