
<松下幸之助> 読み了えたのは“私の行き方考え方(わが半生の記録)”。松下幸之助が昭和37年に発行した自伝だが、内容は生い立ちから昭和8年38歳で中堅企業としてゆるぎのない事業基盤を確立するまでの、節目節目の事柄と対処の仕方を率直に綴ったものである。もちろん時代・社会環境が現代とは違うから、そのまま現代経営者が真似するわけにはいかないが、著者の真摯で独創的な生き方と事業への取り組み方は読んでいて胸のすく思いがする。また着実で足が地に付いた事業展開の仕方には危うさが感じられない。
父は小地主だったが、勤勉に家業に励まず相場に手を出して零落し、幸之助は小学4年半ばで奉公に出された。彼は火鉢屋、次いで自転車屋の小僧になる。彼は自転車屋で鍛冶屋の真似事を覚え、この種の仕事に興味を覚える。また商店の小僧としての躾け万端をしっかり教え込まれる。この頃母は給仕でもして学校にだけは行かせたいと言ったが、父は志を変えずに奉公を続けてやがて商売をもって身を立てよと学問を諦めさせた。幸之助は省みて父の英断を評価し、自分に学問の素養がなかったことを残念に思っていない。当時の商家の小僧の休日は正月と天長節と夏祭りだけで、勤務は早朝から晩寝るまで続いたという。
やがて自転車は普及したが、大阪市内に電車の敷設が始まり、彼が15歳になった時に自転車の将来は楽観できないと暇をもらって電灯会社に勤めることにした。すぐ就職できず一旦セメント会社の運搬工をするが、やがて大阪電灯会社に入社し、見習い工から技量を見込まれて若くして担当者に昇格、1年夜学の予科に通う。その後電気科の本科へ進もうとするが、文字の読み書きができず涙を呑んで進学を断念する。姉の斡旋で結婚する。直に一般工事人の羨望の的である検査員に昇格し、工事人の仕事をチェックして回る責任はあるが暇な身分になる。配線工事に何が必要か熟知した彼はソケットの製造を思いつき、電気器具の製造全般を目標に皆の反対を押し切って大阪電灯を退職してしまう。
資金は7年の退職慰労金のみ。まず練物の製造法の研究を始め、練物工場に見習いで入った男と組んで練物の調合法を極める。苦心して製造方法を確立しても信用がないから、今度は買ってくれる電気器具店がない。年の瀬が越せぬ苦境の中で、電気商会から扇風機碍盤の注文が転がり込んで急場を凌いだ。大正7年から大開町に借家をして“松下電器”として碍盤の他にアタッチメントプラグ、二灯差込プラグの製造を始め、大阪に販売してくれる問屋もついた。思い切って東京へ販売員を派遣した。石の上にも3年で従業員も20名になり、全員が歩みを一つにするのと一歩づつ踏みしめていく趣旨で“歩一会”を結成した。遂に電話を布設し(当時事業所に電話があることが信用の証だった)、“電話で注文が来た”と喜んだ。
4年後の大正11年大開町に建坪70坪の新工場を建てる。資金不足で一部を月賦にするが、抵当は拒否した。工場が完成すると従業員は30人になり、月に一品二品新製品を加えていった。九州へ進出する商店がついた。キーソケットを何故作らないと得意先に言われたが、東京電気のような先行メーカーがあり、革命的な改良を施す余地もないので、10年ほど製作着手を控えた。一方で自転車用のランプができれば売れると考えて、砲弾型ランプを開発し50時間もつ電池と共に売り出すことにした。どれだけ売れるか見当がつかなかったが、砲弾型木製ケースの木管屋に月産2000ヶを保証して生産を開始した。しかし売り方の目途がつかない。自転車屋は「特殊電池で売りにくい。電池ランプはこりごりだ」と言って拒んだ。ストックは見る間に増えていく。一計を案じて大阪中の小売屋さんに2個ないし3個のランプを預け、その内1個を点火しておき、「長時間点火して使い物になると思ったら売ってください」と3人の外交員に配って回らせた。外交員の報告を聞いていると、次第に手応えがでてきて、ひと月も経つと預け放しでなく必ず回収できる見当がついてきた。外交員の行くのを待ちきれず電話や葉書で注文がくるようになって、月に2000個は確実に小売屋だけで売れるようになった。これを契機に大阪だけでなく全国に代理店ができた。
いろいろ経緯があって一旦渡したランプの販売権を大金をはたいて代理店から買い戻し、新たに角型のランプを開発して“ナショナル”の商標で売り出した。家庭必需品となった“ナショナル・ランプ”である。実用に適する自信があったので、1万個を実際に使ってみてくれと無料でバラまいた。昭和17年には1ケ月に300万個という大きな数字になった。後に“ナショナル”は松下電器全般の商標名になった。彼はある商社が原価を無視した低価額で競争相手を排除した後に価額を釣り上げて利益を壟断するやりかたを見て公憤を感じ、他の同業者の競争如何にとらわれず常に適正利潤をもって販売値を決定するという鉄則を守る方針を貫いた。即ち販売数量の増大に伴い段階的に値下げを行い、これが更なる販路拡大に役立った。こうして彼は販売まで自力で行なう重要性を体感した。
会社の規模が店員100名、工員300名と増大するに伴い、人材登用に新方針を立て昭和4年より大会社なみに専門学校など学校卒業生の計画的な採用を始めた。折から不景気で就職難が続いていたので、優秀な卒業生を採用でき後の会社の発展に資することができた。この頃いかに発展性のある事業でも経営のよろしきを得なければダメで“事業は人にあり”と痛感し、知らず知らず人を求めることに専念していた。昭和7年5月5日を第1回創業記念日として全社員を集めて、生産により豊かな物資を供給し楽土を建設するという松下電器の使命を説いた。これを契機に店員養成所(後の社員養成所)を門真村に建設し、優秀な小学校卒業生を集めて企業教育として3年間の中等教育を施すことにした。
事業の拡大と増産の必要に応じて、門真に本格的な大工場を建設することにし、昭和8年1月本店と本店工場が竣工して会社の本拠をここへ移した。このような大きな施設の新設に当たって多額の資金が必要だった。手元資金では不足で銀行からの信用借りによったが、抵当物件を一切提供しない方針は貫いた。この際松下社員が遵法すべき五大精神として、“産業報国・公明正大・和親一致・力闘向上・礼節を尽くす”を定め、日々朝会で読誦することとした。
詳細は割愛するが、私の生まれる前の昭和一桁年代、会社伸長期までの軌跡を概観した。凋落の家庭に生まれて幼くして試練の人生がスタートしたが、至らずとも両親の愛は受けた。学業教育はろくに受けられなかったが、幼くして人間社会に何が必要か、その万端を実地に感得した。これからの世に求められるものは何かを嗅ぎ取る感覚は鋭かった。電灯会社に入社し技量を磨いたことから、更に退社してこの発展中の電気器具の世界で単身製造業をスタートさせた意気と先見性は大したものだ。競合者が少なく、事業をそつなく運営すれば利幅は現在よりずっと大きかったことは確かだろう。だがそれは前例の少ない世界を先行した開拓者に許された特典である。
この人の特徴は人真似をせず、自分で熟考の上独創する。現状に甘んじることなく一歩づつ前進する。機会があっても無理な高望みはしない。信用を重視し資金繰りへの絶えざる配慮の中でも無担保の資産運用を貫く。自力製造、外注製造、自力販売、他力販売、これらを巧みに使い分け、且つ状勢の変化に応じてこれらを弾力的に切り替えていく。世の需要とそれに応じられる技術力、自己と他の優位性を常に冷静に見定めている。不景気で世の中上から下まで緊縮政策をとる中で、一人断固として積極的な事業展開を保持する。他人の逆を行くことで得られる利の大きさを知っている。事業の拡大に応じて何が重要かの力点を柔軟に移していく。人間集団を統率する要点をキチンと抑えている。
昭和31年ごろ“明るいナショナル、明るいナショナル、テレビ、ラジオ、何でもナショナル”というコマーシャル・ソングが流れたことを覚えている。松下幸之助という人の事業家としての非凡な業績について漠然とは知っていた。彼の後半生についての記述は冒頭に挙げた著書にはないが、松下電器が今や押しも押されもせぬ大企業であることを否定する人はいないだろう。
但し彼の著書の中の次の記述については果たしてそうなるのかと首を傾げたくなる。それは彼の創業記念日の演説で、松下電器の使命を述べた後で“今日以後二百五十年をもって使命到達期間と定める。そしてその二百五十年間を十節に分割するのである。第一節の二十五年をさらに三期に分ける。第一期の十年間はもっぱら建設時代とする。次の第二期十年間は建設を続けつつももっぱら活動する活動時代である。そして最後の五年間は建設と活動を続けつつ、これらの施設をもって主として世間に貢献する貢献時代とするのである。”という。次いで“以上の第一節は今日出席する我々の活動する期間で、二節以降は我々の次代の人たちが同じ方途と方針でこれを繰り返し、十回二百五十年に達して世を物資に充ち満ちたいわゆる富栄えた楽土たらしめんとするものであると。第二段階たる次の二百五十年に至ってもこの姿は変わらず、更に更に高い理想に向かって邁進するであろうと思う。その時の理念に合致する方途はその時の人たちによって、我々の伝統を生かして更に立案せられるであろうと思う。かくの如く我々の使命は重かつ大にして、しかも遠大なものである。”と記している。現在は第三節の末期に当たるわけで、幸之助翁の疾うに亡き今、松下電器の従業員の皆さんが本声明をどう考えておられるか、会社の内情はどう変わったか、親しく尋ねてみたい気がする。彼の創業期とは異なり、多くの競合メーカーと同じようなものを生産し、差別化が困難でマンネリに近い状況に落ち込んでは、彼の目指したユートピアの実現は遠くなるだろう。昨年松下電器は13000人に及ぶ人員整理を強行した。賢明な氏だが、自分の死後の影響力や世の環境変化を見通す力については自己過信に過ぎたのではなかろうか。

<エコノミークラス症候群> 妙な病名である。だがこれが旅客機のエコノミー・クラスの座席に窮屈な姿勢で長時間座っていると発症する各種の身体的な障害であることは誰でも知っている。日本からブラジルまでヴァリグ航空で飛ぶと途中2回の途中寄航はあるが、27時間機内に閉じ込められる。随分昔になるが、何度かこれで出張すると時差による変調のほかに軽い便秘になって当惑した記憶がある。子供連れの家族などは途中で一泊した方がいいと聞いたことがある(これは子供が飽きて騒ぐとか別の理由があるが)。静脈流の血行障害が主に下半身に発生し、重篤な場合は血栓が成長し肺もしくは脳の血管を塞いで死に至ることがある。旅客機から降りて空港内の通路を歩き出した途端にこれが発症して死亡した婦人が出たことから、“エコノミー・クラス症候群”という病名で有名になった。
新潟・中越地震の避難者で余震を避けて避難地に集まった人々の中で、改めて余震で戸外に逃げ出すのを避け、乗用車の中で仮眠をとる人たちが増えたが、今回は余震の収束に日時が長くかかり避難が長引くのに応じて、この病気で倒れる人が一人ならず出始めた。狭い車から出て歩き始めた途端に発症し死亡する。恐ろしいのは事前に倦怠感や重苦しい辛さはあっても、決定的な苦痛がない内に致命症となってしまう。
余震の恐怖に脅かされている方々に心から同情申し上げるが、私などは日頃から血行障害による下半身の常時の鈍痛を抱えていて、仮にそのような環境におかれても血行障害を助長するような乗用車の中での仮眠などは、たとえ地震に押しつぶされてもしたくない。頑丈な机の下に入って足を伸ばして横になって寝たい。起きている時も同じ姿勢で座ってばかりいず、時折立って歩くなど身体の欲するままに足腰を動かしたい。従って長時間の旅客機旅行などファースト・クラスでもまっぴら御免蒙りたい心境である。
被災者の少なからざる人が厳しい寒さを車の暖房で凌ぎたいらしいが、換気も必要だろうし、乗用車は就寝用の居住環境ではない。誰かが言っていたが、体裁さえ構わなければ発泡スチロールのシートを身体に巻きつけると暖かいそうだ。マフラーなどで首筋と足元に気をつければよいかもしれない。誰かこの種の避難者用の心得を材料供給も含めて広報したらどうか。でも雨天にテントで地上で寝るのは厳しい。落下物には事前に手を打って体育館とか怖くても屋内に入るべきだ。
今回この災難で斃れた人は私の知っている限り女性だが、女性の方が辛抱強いのだろうか。男の方が身勝手で、我慢せずに動いてしまうのだろうか。よく分からない。人間の死因の第一は癌かもしれないが、その他の多くは各種の血行障害である。血液さえ順調に流れていれば人間は長生きすると思う。
<パソコンの不具合> I.T.時代の到来などと言われ、私自身もパソコンと付き合い始めてもう20年ほどになるが、パソコンがらみのトラブルは消滅の方向に向かうどころか、昔以上に身の回りに増加し、日々心を痛めている今日この頃である。メールを下さる皆さんのどなたもが時折同様の愚痴を漏らしているようで、決して私だけが要領が悪いのでもなさそうだ。2003年4月に<パソコン環境>で書いたので、重複する内容もあるがまたここで鬱憤晴らしをさせてもらう。愚痴はもう沢山という方は読み飛ばしてください。
何度も見舞われるトラブルの一つは突如として日本語入力システムが“ローマ字入力方式”から“かな入力方式”に変わってしまうことである。これはO.S.を”Windows XP”に昇格した後の現象で、初めてこれに見舞われた際はどうしてよいか分からず煩悶の挙句、N.E.C.のサービス・センターに電話し、長いこと待たされた挙句、コントロール・パネルの“地域と言語のオプション”を選び、“言語”の“詳細”の“オプション”を順次選択して、“文字入力方式”が“かな入力方式”になっているのを、“ローマ字入力方式”に切り替えればよいと教わった。結構面倒な手続きである。
最近は頻々とまた何も不当な作業をしていないのに突如このトラブルに見舞われ、前記の手順で“文字入力方式”を見てみるとチャンと“ローマ字入力方式”になっているが、現実に試してみると“かな入力方式”になっているという妙な状態である。ここで故意に表示を“かな入力方式”に切り替えた後に、改めて“ローマ字入力方式”に切替え直してコントロール・パネルを閉じればよいということが分かったが、作業中に度々こんな回り道を辿るのでは面倒で敵わないとO.S.を恨んでいる。日本語をよく知らない奴がO.S.の基本設計をやるからこういうトラブルが起きる。
メールにはパソコン付属の“Outlook Express”を使っているが、これにウイルスがついてしまった。就寝時にパソコンを正常終了させると、翌日起動した後に“Outlook Express”の異常表示が続けざまに出て、同時にウイルスのピコピコ点滅する変てこな記号が増殖して画面右枠内を動き回り、放置するとドンドン増える異常確認の表示窓の“ok”ボタンをいやというほど何度も押さなければならない。この作業を根が尽きかけるほどするころに突如スーッと異常表示が消えていき、パソコンの正常作業ができる環境ができる。それまでの所要時間は20分以上に及びウンザリするので、就寝時にはパソコンを終了させず一時休止(スリープ)状態にしている。ところがウイルス対策のせいか最近O.S.もこのメール・ソフトも頻繁にヴァージョン・アップする。このヴァージョン・アップ自体は“通知”を確認すると自動的にやってくれるが、ローデイングが終了すると、パソコンを終了・再起動してくれと指示がでて、やむを得ず前述の騒動を覚悟しなければならなくなる。
“Outlook Express”自体のトラブルとして、最近のヴァージョン・アップでメール文面の編集作業中に既成の文の一部を選ぶ作業ができなくなり、“コピー・アンド・ペースト”や“カット・アンド・ペースト”ができなくなってしまった。これは重要なワープロ機能の欠落であり、いつ修復されるのか知らないが、それまでは長い文章については“Word”など別のワープロ環境で作成して“Outlook Express”に移しこむことも考えなければならなくなった。
今度は“M.S.Word”である。やはりヴァージョン・アップによる改悪だと思うが、この頃文字入力してスペース・キーによる漢字変換を促すと、既に入力・変換を済ませた既入力の字までからめて一旦かなに戻しそれを別の漢字熟語に変換しようとするのだ。一方でかなで入力して漢字変換する場合に、入力する文字数が多くなってからではろくなことがない。こまめに短熟語ごとにスペース・キーを押して変換しないといけない。また漢字変換の際に挙げられる候補が極めて貧弱で、その字を呼び出すための別の熟語を試し打ちしなければならないことがしばしばある。多分“一太郎”の方がこの面でずっと優れているに違いない。強いて言うとM.S.Wordは固有名詞で日本人の名は相当なヴォキャブラリーをもっているらしく、こんな文字がというような漢字まで出てくる。
主にマイクロソフトがらみのパソコン環境は総じてこの5年ほど決して使いやすくなっていない。悪質のウイルスに狙われる欠陥が見つかったというニュースが引きもきらず、その都度修正ヴァージョンが(無料)配布される。そのせいかどうか、パソコン新調時に比べて日常のパソコンの反応速度が遅くなったようだ。付属する基本ソフトも普段使わない特殊機能のお化けのようになっていて、余計なお世話と言いたくなるものが多いが、一々拒絶する手段もない。こういう不満は多くのユーザーが持っているのに違いないが、いつになったら状況が改善されるのだろうか。

<関東大震災> 新潟中越地震は発生後20日弱を経過したが、未だに強い余震が収まらず気象庁はあと1月ほどは震度5程度の余震の恐れありと警告している。今日10日に例の脱線した新幹線の撤去作業が恐る恐る再開された。5600軒以上の住宅が被害を受けたと報じられ、家屋倒壊の憂き目にあった1000人ほどの人々が仮設住宅の建設を待っている。こういった状況を見せつけられて、地震国日本に住む覚悟を改めて求められる気がして、吉村 昭著の“関東大震災”(文春文庫)を買い求め、自分の出生前の事件のあらかたを調べておくことにした。
大正4年11月12日に千葉県九十九里浜を震源地とする中規模の地震があり軽微なものを含めた当日の地震回数は35回に達した。続けて11月14日にはやはり中規模の地震が3回あり、震源地は上総一宮とされた。既に安政の大地震から60年目になっていたので、人々は近く起きる大地震の予兆ではないかと恐れたが、その後暫く何事も起こらぬままに月日が過ぎていった。
大正12年9月1日午前11時59分、激震が関東地方を襲い中央気象庁と東大地震研の地震計は共に破損した。震源地は東京南方100kmの相模湾の海底で、最初は上下動、約20秒後に本震たる水平動が襲い屋外でも人は倒れかつ立つことも不能だったと云われ、激動は若干の休止を含めて1時間20分続いた。横浜での体験者によれば、―まず“ゴーッ”という汽車が近くを走るような轟音、続けて激しい突風、次いで大地が発狂したような震動に襲われ、周囲のあらゆるものがパチパチと物凄い音を立てて揺れ、家々は倒壊していく―と記されている。
後日の調査によれば相模湾の南西部に当る深さ1300メートルの海底が長さ24km、幅2〜5.5kmの広大な部分にわたって100m以上も陥落した。最も激しい個所では180mも陥没し、反動で湾の北東部では逆に100m以上も隆起した。湾内の海水は激しく揺れ動き津波となって沿岸各地を襲った。大島の岡田で12m、伊豆半島の伊東で12m、房総半島の南端布良付近で9m、三浦半島の剣崎で6m、鎌倉では3mの津波となった。陸地部も荒れ狂う巨大な生物の背のように波打ち、相模湾沿いの地域は大磯で1.8mをはじめ一斉に隆起し、東京市の下町では数十センチの陥没が発生した。激震地は東京・神奈川・千葉・埼玉・静岡・山梨・茨城の一府六県に及び、微震地域まで含めると九州・北海道を除く本州・四国全域に及んだ。当時はほとんど地震計は設置されておらず、震度の記録はない。マグニチュードは7.9であったとされる。
厖大な災害記録が残されている。至る所で山崩れ、がけ崩れ、橋梁・トンネル・道路・鉄道が損壊し、家屋の倒壊は東京府を除き全壊6万7000、半壊は7万1000、東京府は全壊1万7000、半壊2万とされる。当時低気圧の影響で10m以上の南東風があり、水道管は至る所で破壊されて消防能力は失われていたために、随所に発生した火災が燃え広がった。大火災は東京市の43.5%を焼き払い、1日半燃え続けた。死者は東京市で6万9000、横浜市で2万3000人に達した。最も悲惨だったのは本所区横網町にあった陸軍省被服廠跡で、格好の避難地と考えて家財を背負って集まった3万8000名が火災と旋風で逃げる間もなく焼死した。浅草・吉原公園の池では約500人の新吉原の遊女が熱湯になった水中で焼死した。溺死者は5400名で、隅田川などの河川は避難者を炎から救いながらその生命を奪った。池や神田川の水で消防に努めた浅草観音など一部の地域と上野公園・皇居前広場に避難した人は一命をとりとめた。
炎と余震に怯えて逃げ惑い、悲惨な情景をいやというほど見せつけられた群集の間に流言蜚語が発生した。津波の襲来、富士山の噴火、刑務所囚人の脱走に次いで“朝鮮人襲来説”が執拗に流された。当時日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、日韓議定書の締結以来その併合までの経過が朝鮮人民の意志を完全に無視したものであることを十分に知っていた。つまり、日本人の内部に朝鮮人に対して一種の罪の意識がひそんでいたと著者は指摘している。更なる災難に対する恐怖と日本人の朝鮮人に対する後ろ暗さが“不逞”朝鮮人を加害者とする様々な流言となって現れた。随所で朝鮮人虐殺事件が発生し、殺害された朝鮮人の数は2600余名と言われる。
震災の後始末として復興の前に必要だったのは多数の死体の焼却処理と糞尿問題だった。前者についてまだ暑い時期で腐敗は進むし、余震の続く混乱の中で死体の引き取り手は現れない。作業員を募集しても中々集まらず、遂に警察官が死体の搬出作業を行なった。後者については多数の避難民は男も女も生死の境をさ迷ってきただけに、羞恥心もなく随所で排泄したーとある。糞尿の輸送手段が途絶し、各家の糞尿貯蔵槽は充満し人々が夜間戸外で用を足すことも増えた。異臭は町々に漂った。それに加えて塵芥処理も一時停止した。至る所で塵芥が山積みされ、人心が荒れ、公徳心も失われていった。災害地の衛生状態は最悪で、伝染病が流行した。政府はバラック街を建設して家を失った避難民を一時的に収容したが、その周辺の不衛生な環境は長く残った。
最後に地震学の権威の間の確執について記す。東大理学部地震学教室の今村明恒助教授は過去に江戸を襲った大地震の統計から百年周期説を唱え、明治39年論文を発表して今後五十年以内に東京が酸鼻の大地震に見舞われることは確実で、死者は十万或は二十万に達するはずと警告していた。氏は東京に大地震が起きた際には大火災が起こると警告していた。市内には水道が発達してきているが、水道管が破壊されて消防能力は失われ、市街は延焼に任されるだろうと予測した。彼の論文を紹介した東京二六新聞の記事は市民の間に大反響を巻き起こしたので、今村自身が徒に狼狽しないように紙上に意見を載せたりした。
これに対して彼の上司であり地震学教室主任教授であり当時の地震学の最高権威とされていた大森房吉は地震発生を統計的に予測することに疑惑を抱き、論文は無知な一般人に動揺を与える、地震学者は社会的な影響を十分に考慮して慎重に発言すべきと異を唱えた。冒頭に記した大正4年の地震の後多くの新聞記者が大森教授出張のために一時的に教室を任されていた今村助教授の下に集まり、彼は大地震の予兆という見解を強くは否定しなかった。大森教授は出張から戻ると改めて今村を強く叱責すると同時に、大地震の前震でない理由を詳細な論文として発表した。
関東大震災当時大森教授は第二回汎太平洋学術会議に出席するためにオーストラリアに出張していた。たまたま9月1日シドニー天文台に招かれて地震観測所を視察しており、地震計の針が異様な線を描くのを見た。入念に計測した結果、震源が日本であることを知った。直にオーストラリアにも大災害の電報が届いた。彼の受けた衝撃は大きかった。彼は後輩の今村助教授との論争と“東京が大地震に見舞われるのは数百年に一回とすべき”と今村説を罵倒したことを想起した。論文発表後18年が経過していた。50年以内という今村の予言は的中し、22万余の死者を出した。人心の動揺を防ぐためだったとはいえ、大森の敗北は明らかだった。大森は胃の変調で重病になった身体を抱えて急ぎかつ傷心の帰国をした。横浜に入港した船に出迎えた今村に「重大な責任を感じている。譴責されてもやむを得ない」と言い、今村を震災予防調査会の幹事に推挙した。大森は担架で病院に搬送され、11月死去した。死因は脳腫瘍とされた。今村はその後もう関東地方に大地震はないと言い、庶民も英雄のように彼の発言を信じた。しかし彼の得ている学問的な知識は過去の統計が主になっていて、それは科学の初歩の段階に過ぎないことを最もよく知っているのも彼自身であった。無力感が彼の胸にしみたーとある。

<大清帝国> 清朝はその末期こそ列強ならびに日本にみじめに屈する憂き目を見たが、発展期には現在の中国東北部・台湾・内外モンゴル・新疆・チベットなど広範囲に及ぶ、中国史上未曾有の国家領域を造り上げた。ここでは満州族・モンゴル族・漢族・チベット族に加えてイスラム世界の一部であるウイグル族までが内包され、“五族の中国”が形成された。現在の中華人民共和国が覇権を唱える根拠もここにあるが、未だにその相当部分は手が届いていない。その発展の経緯を“大清帝国”(石橋崇雄・講談社選書メチエ)に求めてみた。
東アジア歴史上の大帝国は秦や元などもともと経済条件の劣悪な中から興って、征服・統一を経て強大化した事例が多い。劣悪な経済条件が征服への道に邁進する原動力になった。清朝の場合も同様で、ヌルハチが挙兵し、建州女直を統合して建てたマンジュ国の領地は、海西女直といった他の女真(満州)族の領地に比べ、自給自足のおぼつかない経済条件の劣悪な地域であった。すなわちヌルハチ挙兵の背景は安定した経済基盤を確保しようとする経済闘争だった。清朝の発展段階は六期に分けることができる。すなわち
1 ヌルハチの属していた建州部統合の象徴であるマンジュ(満州)国の成立
2 東北部における女真(満州)族統合の象徴であるアイシン(金)国の成立
3 東北部での満州・モンゴル・漢族(長城以北)統合の象徴である大清国の成立
4 中国内地における漢族統合の象徴である中国統一
5 旗(満州・モンゴル・北部漢)・漢(中国内地)における支配権の確立
6 藩(モンゴル・チベット・ウイグル)の併合、最大版図の形成
この内で1,2は初代ヌルハチ、3は二代ホン・タイジ、4は四代康煕帝、5は五代雍正帝、6は六代乾隆帝が実現した。
嘗て大元を建てたモンゴル族は牧畜を営む遊牧民だったが、女真族はもともと原始的ながら農業を営んでいた。この民族はかって遼から独立して金(1115〜1234)を建て、やがて遼を滅ぼして華北を支配したが、モンゴル帝国に滅ぼされて大元の支配下に入り、金の時代に創始した独自の女真文字も失って金建国以前の部族集団に後退して生活していた。数百年を経て二度にわたって歴史に名を残す統一国家を建てて中国内地も支配した稀有の例である。ただしヌルハチによって統合された建州五部はそれぞれ独立国で、血縁もしくは民族的な結合関係はなかった。従って清朝はその当初の段階から多民族性を蔵していた。
ヌルハチの時代に八旗制度が創始された。これは相互に何一つ結合関係を持たない複数の部族集団を統合・管轄する必要から生まれたもので、八旗とは満州語でグサと呼ぶ軍団八個から成る軍事組織である。四色を縁取りの有無で区分した八種類の旗を標識とし、成年男子300人で1ニル、5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グサとした。後には女真人、モンゴル人、漢人などがすべていずれかのグサに属し、グサは軍事組織であると同時に政治・社会組織としての性格を兼ね備え、八旗満州・八旗蒙古・八旗漢軍と称した。
二代目のホン・タイジは満州族、モンゴル族諸王、漢族武将らによる推戴を受けて大清皇帝の位につき大清国を成立させた。大清国は満=旗(満・モンゴル・漢)・漢(長城以北の農耕地域)・藩(内モンゴル地域)から成り、漢までは直接統治下に、内モンゴル地域は間接統治下においた。ホン・タイジは漢族の政治・経済・軍事力とモンゴル騎馬兵の機動力という族外の力を統合してハンとしての権力を確立した。ホン・タイジが急死するとヌルハチの第14子ドルゴンは幼帝順治帝を擁立して自らは摂政になった。
1644年ドルゴンは呉三桂の導きで万里の長城最東端・山海関を通過して中国内地に進んだ。それまで内地を治めていた明は衰退期にあり、明最後の皇帝崇禎帝は李自成の反乱を受けて自裁し、ドルゴンの軍は大きい抵抗を受けることなく北京入りした。明末の反乱勢力の一つと見なされていた大清だが、李自成の討伐を名目として北京に入城すると直ちに崇禎帝の喪に服し、支配体制の多くの面で大明の諸制度を踏襲して大明の継承者の立場を強調した。一方で清朝は北京に遷都すると薙髪令を発し、弁髪を帰順の証とした。漢族の抵抗が極めて強かったので、一度は妥協して束髪を認めたが、翌1645年江南地方の平定が完了すると再び同令を強制した。抵抗運動を展開する漢民族に対して清朝は即刻死刑にする強硬手段を取った。
順治帝は自らの権力強化を果たせないままに世を去り、康煕帝が即位した。帝はヨーロッパの科学に関心を寄せ、また康煕字典など多くの辞書を作らせた。他方清の入関に功のあった呉三桂は清に優遇されて国内の流賊や明の残存勢力の討伐に働いたが、やがて雲南へ移鎮後他の勢力とも組んで“三藩”と称される大勢力になり、清に叛旗を翻した。これを三藩の乱という。チベットのダライ・ラマも外モンゴルの部族長ガルダンや呉三桂と組んで清への屈従に抵抗したが、やがて呉三桂・ガルダンは清に滅ぼされた。シベリア東進を企てるロシアを阻んで軍事・外交交渉を行い、ネルチンスク条約に始まる一連の対ロシア条約で国境線が確定した。こうして康煕帝による中国内地統一が実現した。
雍正帝になって皇帝が生前に後継者を発表しない方式の“儲位密建”制を採用し、北方民族の宿痾だった継承権争いの禍根を絶ち、伝統的漢族王朝の皇太子制を廃した。康煕帝が始めた “奏摺”制(地方官と皇帝の間を直接に結ぶ秘密往来文書制度)に更なる工夫を加えて、皇帝による独裁政治を強化した。またハン(大清皇帝)が唯一の主で、他はすべてハンの奴であるという思想が徹底し、ハンの地位を諸ベイレ(部族)より一段上に位置づける八旗制度が確立した。
乾隆帝は在位60年の間に45年にわたる外征を行い、清朝の支配領域を大きく拡大し清朝最大版図を完成させた。その成果を82歳の乾隆帝は“十全武功”としてまとめた。それは金川、ジュンガル、東トルキスタンの回部、ミャンマー、台湾、ヴェトナム、ネパールのグルカへの大規模な外征である。この結果領域は中国東北部・中国内地に加えてモンゴル高原・東トルキスタンを含む天山山脈の南北両側地域・チベットまで拡大された。現在の中国が台湾を自国の領土と主張するのもこの時の実績による。
ここで清朝が採用した統治方法の特徴は直接統治による満・漢と間接統治による藩部(モンゴル・チベット・ウイグル)とを分けたことである。これは目新しいことではなく、ホン・タイジが内モンゴルを外藩として扱った経緯を継承しでいるのだが、清朝独自の巧妙な“華”・“夷”両世界の統治方法だった。“華”の世界に対しては明王朝の諸制度を踏襲して皇帝に権力を集中させ、漢族に対する軍事的圧力を保持するためには“夷”の世界であるモンゴル族の協力を求めた。モンゴル族は盟旗制という行政兼軍事組織に再編し、モンゴル族がチベット仏教徒であることから、ダライ・ラマにチベット社会の支配をゆだね、かつダライ・ラマを清朝の監視下におくことでチベットを清朝宗主下の保護国とし、清朝皇帝がモンゴル精神界を支配することにした。清朝のチベット政策はダライ・ラマの宗教的権威によるモンゴル族の懐柔に主眼があった。清朝は直接統治の“華”の世界即ち中国内地の十八省を北から西へ弦月のように取り囲む“夷”の世界に“藩部”という概念を導入し、こちらは間接的に支配した。いわば“夷”をもって“夷”を制することにした。
康煕帝に始まり雍正帝に受け継がれた支配構造改革の結果独裁体制はできたが、政治思想の上で明朝で強化された華夷思想(中華思想)は整理されておらず、薙髪令を強行して順逆を識別させた清朝は中華に対する外夷と称されればその皇帝としての正当性は失われる弱みが残っていた。雍正帝はこの点に心を痛め、明朝太祖洪武帝の六条からなる“六諭”を拡大した十六条の“聖諭広訓”で民衆の教化を計ったが、その効今ひとつということで雍正帝の大いなる義の徳によって清朝の正当性に疑義をもつ輩の迷いを覚まそうという“大義覚迷録”を出した。これは朱子学に拠って強い反清思想を唱える男が裁かれ、自己批判して清朝の正当性を認める裁判記録である。雍正帝は官僚機構を通じて国内の隅々まで熟読させようとしたが、次代の乾隆帝はその内容に危惧してこれを禁書にした。父親が配布した書物をその実子が禁書にしたのだから奇異である。帝は外征の成果をもってこれに代えることができると考えたようだが、結局中国内地の根強い反満思想に歯止めをかけることはできなかった。漢民族にとって弁髪はよほど厭だったのだろう。
乾隆帝の長期にわたる外征は雍正帝が充実させ王朝を優に数百年は保持できると誇った国庫を一代にして空にしてしまった。著書は清国のその後の衰退については詳しく論じていないが、この国には更に革新に向かうだけの体力が失われていて保守だけが残り、保守の悪弊が渦巻いてやがてアヘン戦争を経て滅亡に至る。そこにはローマ帝国の滅亡との類似性も感じられ、拡大そのものが衰退の原因になる必然性を悟らされる。
<南京大虐殺の虚報> 昨今憲法を改正して嘗て放棄した国家としての戦力を取り戻そうという動きが活発になりつつある。私はこの動きに頭から反対ではないが、一方で“過去の歴史を忘れるな、首相の靖国神社参拝を止めろ”という中国側の主張に対して十分な反論・説得ができない今の日本人に苛立ちを感じ、同時に戦前・戦中の日本軍部ならびにその取り巻きの罪状をハッキリと数え上げる努力と、その拠ってきたる本質的な問題の究明と反省を避けて通ってきた戦後日本に大きな不満と危惧を抱いている。この問題を継続的なテーマとして今後引き続いて取り上げていきたいと思う。
山本七平氏の“私の中の日本軍(上・下)”を読み、いくつかの点で感銘を受けたが、今回は掲題のテーマについて彼の主張を取り上げてみる。昭和12年11月30日および12月13日“東京日日新聞”は“百人斬り競争”と題して常州から南京に至る進撃の路程で向井少尉と野田少尉が先祖伝来の日本刀を仕込んだ軍刀で敵を百人以上斬る競争をして、共にそれを達成したと報じた。記事はその経緯を長々と書いていて、末尾近くには“向井少尉は飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った関の孫六を記者に示した”とあり、この記事は浅海・鈴木両特派員発と付記された。但し記事は個々の場面で誰を具体的にどのように斬ったかは明らかにしていない。だがこれは当時センセーショナルなニュースとして恐らく多くの日本国民の知り、語るところとなったようだ。
戦後向井・野田両少尉は東京の軍事法廷で不起訴処分になったが、南京の軍事法廷で死刑を宣告され、程なく処刑された。東京の法廷は記事を虚報と扱ったが、南京の法廷は日本の新聞を信頼し記事を“事実の報道”として採りあげた。もう少し突っ込むと東京の法廷は報道を中国軍の完全武装の正規軍兵士をバッタバッタと斬り倒した“戦闘行為”として違法でない(無罪)上に、あり得ないこととして虚報とした。一方で南京の法廷は報道を“戦闘中の行為”すなわち戦闘行為によって派生した非戦闘員殺害とし、日本人は本来武勇伝になる筈のない非戦闘員殺害を武勇と考えこれを大々的にニュースとして報ずる非常に特異で残虐な民族であって、行為は法的に有罪すなわち死刑と断じられた。軍事法廷における国際的な判断基準で“戦闘行為”と“戦闘中の行為”には雲泥の差がある。判決後後向井元少尉は浅海記者の証言書を取り寄せるために矢継ぎ早に航空便を出した。やっと待ち望んだ証言書が届いたが、その内容はまことに老獪というか狡猾な文章で、記事が創作(フィクション)であったとは書いておらず、刑は執行された。われわれ残る者は泣いて浅海記者の不実をなじった。ーとある。
当時従軍記者は“行軍ばかりでさっぱり面白い記事がない、特派員の面目がない”とこぼしていたと言われ、幹部候補生上がりの向井少尉と浅海記者の自己顕示欲が誰も見ていない戦場での人目を引くニュース捏造に結びついた。山本七平氏は日本刀が白兵戦に適さないこと、最大限3人人体を斬ったら使い物にならなくなることを戦時中に同僚の遺体から形見として指を切り取った時の体験も含めて様々な事実を挙げて懇切丁寧に説いている。その他にも“飛来する敵弾の中で新聞記者に手柄を語る”などということは実戦体験者としてあり得ないことと評する。これは虚報だったのである。虚報とは“入手した情報の一部、特に最も重要不可欠の部分を故意に欠落させて発表し、その部分を情報の受け手が無意識のうちに創作して補うように誘導する報告もしくは報道を言う”としている。
後に浅海記者は弁明して「戦争中の記者活動は軍国主義の強い制圧下にあったので、当時の多くの記者がそうであったように、軍国主義を推し進める文体にならざるを得なかった。そのことを私は戦後深く反省して、新しい道を進んでいるのです。」と述べ、それに対しこれが“反省”という日本語の意味なのかと著者は論難する。四辻に立って大声で「私は虚報を発して人を処刑場に送りました」と叫んではじめて反省といえるだろうという。山本氏はマスコミの軍部への迎合の"罪"を重視している。
同様に南京大虐殺の“まぼろし”を打ち上げたのは実は“百人斬り”についてと同様に我々日本人であって中国人ではないと山本氏は断言する。彼は指摘している。戦後いろいろ書いている人の共通点は“クルマ時代”・“新幹線時代”の人だから二本足しかない集団の動き方の本当の実感がわかず、想像を絶することを平然と言ってのける。各部隊が南京一番乗りを競った、一斉突入をしたなどと言っている内に虚報を発した本人までそれを信じてしまう。一例をあげる。“明けて13日中山門へ引き返すと不気味で悲惨な大量虐殺にぶつかった。25m幅の城壁の上に一列に並べられた捕虜が次々に城外に銃剣で突き落とされている。その多数の日本兵たちは銃剣をしごき気合をかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である。・・・” これを報道した鈴木特派員は中山門も12日正午頃突破されたと思い込んでいる。事実は13日午後連隊本部が中山門に到着したばかりで、城壁上でこんな光景が見られるはずがないという。こういう創作記事は当時の新聞には文字通り腐るほど紙面に氾濫していて目立たぬほどだったーと記されている。長勇参謀は南京攻略当時“30万人をことごとくぶった斬った”と豪語したし、多くの人たちが同様に正気と思えぬ放言をした。
著者は言う。何故日本刀の実態、またそれに象徴されるような“戦争の実態”が今に至るも人々に知らされず、戦争中の虚報の方が“事実”で通用するのであろうか。マスコミの責任だと糾明すれば済む問題であろうか。それだけではなく、自己および他の“情緒的満足感”を知らず知らずに尊重し、それに触れることと触れられることを極度に嫌う民族性も作用しているように思うと。こういう通弊は戦後60年近く経っても日本人の心にひそかに残っているに違いない。南京虐殺の不当に大きい数字でいつまでも日本がいじめられるのも自ら蒔いた種によるらしい。
著者は最後にこう書いている。再軍備の危険性はこの“百人斬り”的な“頓馬なセンセーショナリズム”と軍備との結合という点から考えるべきことであろう。これが第2次大戦で世界中から袋叩きにあった一因でもあるからと。同感である。ルーズベルト米大統領が対日開戦を決意した要素の一つにこれがあったに違いない。

<敗因> 第2次大戦で日本が米国にかくも無残かつ一方的に敗れた原因は何だろうか。米軍の物量作戦に押し切られた、日本はABCD包囲網のせいで石油資源などの戦争継続のための必要物資が得られなくなったなどの言い訳はあるだろう。しかしその後の朝鮮・ヴェトナムあるいは現今のイラクの状勢を見ると、強いといわれる米軍が対日本のようには決して圧勝できない。そのような抵抗が幸福を呼ぶか否かは別として、当時の日本人の大半は少なくとも内心では敗戦を悔しがるよりは安堵して受け入れたと思っている。前項で採りあげた“私の中の日本軍”(山本七平)の引用の続きとして、現今語られることの少ない日本軍の欠点(敗因)を概観してみたい。なお山本七平氏は陸軍砲兵少尉としてフィリッピン・ルソン島南部に派遣され、制空・制海権を奪われた中で現地の飛行場を守る任務に就いており、終戦時にはジャングルに潜んで生きるか死ぬかの窮乏状態にまで追い込まれていた。
○情報の蒐集不足とそれへの鈍感さ ノモンハンの生き残りの兵長がいて、自ら「砲を捨てて逃げよった敗残兵デスタイ」と称していたが、彼が言うには「大本営チュウトコは気違いとメクラの寄り集まりジャロカ、ありゃみんな偉か人のハズじゃのに、(ソヴィエト軍について)何一つ知りヨラン、何一つ見ヨラン」。この発言は今(米軍について)何一つ知りヨラン、何一つ見ヨランことから出たもので、軍がノモンハンの苦戦から何も学ばずに太平洋戦争に突入したことに呆れての発言だった。著者は2.26事件の将校が自分が何も知らないということすらわからなくなり、ただ異常な高ぶりの中で生きていたと述べ、総じて日本の軍人は日本軍の実情を本当に見る勇気がなかったと評している。
○大本営発表の弊害 前項で虚報とは“入手した情報の一部、特に最も重要不可欠の部分を故意に欠落させて発表し、その部分を情報の受け手が無意識のうちに創作して補うように誘導する報告もしくは報道を言う”と紹介したが、戦時中の大本営発表がその典型だった。ところが情報の総量を知っている者(敵側)にはその内どれを発表し、どれを隠したかは一目瞭然である。そうなるとこの発表した部分と隠した部分を対比さえすれば、相手の意図・目的・実情・希望的観測・潜在的願望といったものが手に取るように分かる。著者は日本陸海軍首脳が自分では(大本営発表によって)何かをしたつもりでいたのだろうが、真珠湾から敗戦まで希望的観測をことごとく打ち砕かれて鼻面をつかんでひきずりまわされたのだ、虚報を出すぐらいならノーコメントで押し通せばよかったと批判する。
○戦争の本質の認識 “戦争とは輸送である”ということばがある。派手な戦闘に至るまでに長い長い時間と労力がその前の準備段階で費やされる。行軍も二本足による輸送である。ところが“輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョ・トンボも鳥の内”といった嘲歌が日露戦争から太平洋戦争が終わるまで一貫して口にされ、日本軍には補給という概念が欠落していた。有名なインパール作戦で牟田口司令官は輜重出身で補給の権威(こんな人は珍しかった)の小畑参謀長と対立し、彼を罷免して作戦を強行した。食糧・弾薬の補給はなく72000人が死に、生き残ったのはわずか12000人で、ビルマ山岳地帯の退却路は白骨街道と呼ばれた。“現地自活通達”というのは“各部隊ハ極力現地自活ヲ達成セラレタク・・・”と来て “ラバウルニ学べ”で終わる大本営通達である。これを受けてニューギニアやフィリッピンの戦死者の大半は戦わずしての餓死であった。
飯盒炊さんが日本軍の敗因とも書いてある。長い行軍の終わりに飯を炊こうとしても燃料がない。砲兵は常に遅れるから、徴発しようにも燃えるものが残っていない。仮に飯が炊けても副食はほとんどない。乾燥野菜の水煮に粉味噌をぶちこんだ汁だけである。全員が栄養障害で脚気的症状を呈する。夜は狭いところに雑魚寝する。人間が休息するとノミ・シラミが活躍を始める。全員が下痢気味で屋外ところ構わず排泄する。昼はハエの大軍に包まれて移動する。全員が大なり小なり靴擦れに苦しんでいる。1日40キロの行軍が続くと、何とか適応はするが現実の苦しさを逃れるために妄想状態になる。“百人斬り”の妄想もこんな中から生まれたのだ。“飯を炊きながら、歩きながら、戦争をする”などというのは互いに米食をする国内の戦国時代のいくさにのみ可能なことで、広大で未経験の外地では所詮無理だったのである。
○軍隊の統制 徴兵で召集された兵士は内地でリンチを受けるのが常態だった。下士官・兵の鬱積した不満への対処に将校は口を出せない。外地へ出て将校が司令部に陳情に行くと参謀あたりから罵詈讒謗を浴びせられ殴打・足蹴を受ける。これを“トッツキ”という。部隊長は上部へ戦闘体制遵守のジェスチャーを示すために部下に無駄な重労働を強いる。これを“イロケ”という。上からのトッツキと下からのイロケで構成される軍隊の世界は外部から見ると一糸乱れぬ統制下にあるように見えるが、内実の戦意は大幅に殺がれていて臨機応変の機動力などは期待できない。
軍隊は徹底的なタテ組織で直接の上官の命令でのみ動く。部隊エゴイズムがまかり通って部隊命令を盾に軍命令を無視する。修正させるには上官の上官のところへ行かなければならないが、そんなことはほとんど行なわれない。軍隊でヨコの連絡が皆無というわけではない。但しそれはヨコの連絡をすべしという命令が入ったときに限られている。至るところで“統帥権”と神がかり的に強調して、タテの矛盾が出ると更にタテを徹底するという悪循環を繰り返した。参謀本部の一課長は“天皇が何を言おうと、俺が戦争を始めようと思えば始めることができる”と放言した。これは軍部による文民統制の無視のみならず、軍部内の秩序破綻をも意味していた。
○新技術の軽視 記事を読むと陸軍兵の大半は日本刀と小銃で戦った。あとは大和魂があればいいというわけだ。後方支援の砲兵は観測機材を雨で濡らさぬためにこうもり傘をさし、これ(傘)は兵器だと述べている。また“われわれが恐れていたのは(敵軍の)ブルドーザーであった。アイツがガンガン戦車道と自動車道を造りよる。ひとたび戦車道ができれば、対戦車肉薄攻撃のチャンスはない”などと述べていて、(もちろん燃料がなければ話にならないが)近代兵器とは無縁のいくさであった。今のイラク反乱軍が手持ち対空ミサイルで航空機を狙うのと対比して時代が違うとはいえ、なんたる差か。第一線の兵士に戦う工夫をさせていないし、彼らの声に耳を傾ける気運が一切感じられない。官僚統制の弊害は日本軍をすっぽり包んでいた。