12月の話題


2004年12月

  

<中国新事情その2> 昨今何かと話題の多い中国である。文春12月号では“大会議 中国爆発”で様々な最新事情を紹介した。“田中卯の国際ニュース解説”ではしばしば中国の話題を取り上げている。新聞・テレビはチリで行なわれたAPECの会議で小泉首相と会談した胡錦涛主席が、次いでラオスで温家宝首相が改めて首相の靖国神社参拝を取りやめるよう申し入れたことを報じた。米国政府は元とドルの為替レート固定化解除を申し入れているが、中国は聞き入れない。どう進展していくか、注視すべきテーマが多い。
 田中卯は次のような香港連合早報の記事を紹介している。:―東シナ海ガス田開発問題で中国と日本が戦争をしたらどうなるかー中国の新型国産潜水艦“宋級”は日本の“おやしお”、“なるしお”系の潜水艦に比べ、総合的な戦力ではるかに劣っている。信号傍受能力など情報戦でも日本の方がはるかに進んでいる。空軍も日本は完全にアメリカの水準をこなしており、中国よりずっと上なので日本と戦争したら日清戦争のときのように中国は完敗するだろう。− 共同通信は“防衛庁が11月末にとりまとめる新防衛大綱で日本が中国の攻撃対象になったことを想定して、中国を仮想敵国として検討をはじめた”と報じた。当面日本憲法はその歯止めになるが。
 町村信孝外相は、最近の参議院本会議で中国への政府開発援助(ODA)について質問に答える形で「中国の経済発展が進む中、減少させていく。近い将来、中国がODAの卒業生になることが適当だ」と述べ、将来廃止する意向を表明した。過去の日本軍の所業に対する贖罪の心も近頃の反日中国に対する反感もあって、年月とともに日本人の心から薄らいでいくのは止むを得ない。周恩来が寛大にも放棄してくれた対中戦争の賠償の代りの意味があったようだが、その中国も今や経済大国になった。これは日本の対中国政策の見逃せない転換点になるだろう。
 中国特需で日本も景気回復に一息ついている。潤っているのは経年的に下降線を辿っていた鉄鋼業などの素材産業と中国が世界中の資源を買い付けるための商船隊を支える船舶業だという。また中国には巨大な消費市場が育ちつつあり、その中でメイド・イン・ジャパンに対する信頼性は極めて高い。但し中国の消費社会を直接相手にしようとすると、“反日世論”という逆風をまともに受けることになるので、どこかへもぐりこむ必要がある。新幹線のように派手で国家的なプロジェクトは広大な中国には機会も多いが、まともには日本を受け入れないだろうし、台湾と違って無理をして参画すべきではないと私は思う。彼らは日本の技術と資本はのどから手が出るほど欲しいのだが、一方で面子もある。外国資本は続々と参入しているようで、それを嘗ての“中華”朝廷への朝貢のように受け入れている。
 中国社会が抱える課題は日本とは比べものにならないほど大きいようだ。日本ではあれほど深刻だった不動産バブルも収束に向かいつつあるが、中国ではこれからで、特に国有企業の不良債権は今後の問題である。社会保障では日本でも問題になっている“年金”に相当する“養老金”制度が数年前に破綻し、国民の老後は自己責任になってしまった。医療保険は企業負担だが、国有企業にはその余裕はなく、高齢者は大病したら終りという危機感をもっている。退職金・年金ともに企業間格差が極めて大きい。それにも増して都市部と農村の格差・富の偏在はすさまじい。これが暴動のエネルギに高まるのを防ぐために江沢民は歴史教育と称して反日教育を行なって焦点を逸らした。従って“靖国問題”を中国政府が引っ込める気はない。
 社会インフラの問題も大きい。水資源は黄河が枯渇し都市部の水不足が深刻化したので、長江流域から黄河流域へという“南水北調”プロジェクトがスタートした。文明生活は急激に水需要を増大する。丁度昭和30年台の日本の水道施設大拡張のようだが、広い国土で急膨張する需要を満たすのは容易ではないだろう。下水道はこれからだ。それにも増して深刻なのがエネルギ問題で、電力不足は北京オリンピックの開催が懸念されるほどだ。今夏の上海では冷房のために大停電が起きた。三峡ダムによる水力発電などは雀の涙なので、日本と紛争を起こしてでも東シナ海のガス田を開発しようとしている。先進国の“京都議定書”炭酸ガス排出規制などは構っていられない。中国の探索地点自体は中国の領域内らしいから、日本領域の分も吸い取られるなどとケチなことを言っても仕方がないと思う。

<不満> 最近感ずる“不満”を系統づけることもなく書き出してみる。義憤などという大袈裟なものではない。詰まらぬ愚痴ととってくれても構わないし、どこかでこれを何かに役立ててみようと思う人がいればそれはそれで結構だ。人間生きているかぎり満足と不満のはざまで常にうろついているのだ。アチコチに書き散らすのは品がないと思うので、この項を当12月に限らず折にふれて追加していくことにする。

○テロップ テレビで臨時ニュースにしろ“おすすめの一冊”といった要約情報にしろ、これは取りあえず見てほしいという情報を音声を交えず画面上方に表示することがある。ところが表示された文字が白いのに、たまたまその前から続いている背景が白いと肝心の文字が読み取れないことがある。画数の多い漢字だと尚更である。表示される文字の領域だけは背景を反対色の長方形で塗りつぶせばよいのに、N.H.K.も民放も横着でそういう配慮をしない。

○勧誘電話 電話に出て中年の女から丁寧な口調で名前を確かめられた場合、最近その90%が墓地の案内である。終わりまで言わせず、「うちはもう手配が済んでいますから」というと大抵は「そうでございますか」とさっと引っ込むが、しつこいのは「どちらに?」と追い討ちをかけてくる。余計なお世話である。こっちが電話に出る前に「墓地の案内でしたら当家はもう済んでいますからお断りします」と事前メッセージを発したいぐらい頻度が多い。次に多いのは資産運用に関する各種の勧誘で、まず名も知らぬ会社の設立報告から始まり、勧誘ということは分かるからすぐ切ろうと構えるが、電話を切らせないように立て板に水と話し続ける。信用もできぬヤツと長話は無用と自分でも愛想が尽きるぐらいニベもなく断るが、考えてみればこの種の実り少ない電話を朝から晩までかけ続ける人も生き甲斐のない人生を送っている。俺々詐欺というのは決してよくないが、ボケ防止の功徳もある分まだマシだ。

○ニュース 人殺しのニュースが多すぎる。最近漫然とニュースを聞いているとその半分以上が殺人のニュースである。しかも同じ事件を繰り返しこれでもかというほど流す。確かに通学中の小学校低学年の女子を誘拐して殺したなどというのは、類似事件の再発を防ぐ上からも広報する必要があるだろう。しかし長年の介護に疲れ果てて親を殺したなどという悲劇を事細かく報じて何の益があるか。広い日本の中でそういうこともあろうが、適当に省く知恵が必要ではないか。それと広報すべき殺人事件でも捜査方針を事細かに報道しているのはどうかと思う。捜索範囲をどの地域まで絞り込んだとか、多数の捜査陣を動員して何を探しているなどと言えば、犯人側の対処を助けてしまう不利の方が大きいと思う。それよりももっと面白いニュースを探してほしい。

○男性の女性化 女性番組に最近一卵性双生児の岡本兄弟というのが出てきて、毎回「岡本ゆうです」「岡本しゅうです」と言い、女性の介助役を勤めてレシピの案内をしたりする。ペラペラと多弁である。“電話の掛け間違いのないように、よろしくお願いします” と口を揃えて言う。それから韓国製の恋愛ドラマ“冬のソナタ”というのが流行り、主演男優のペー・ヨン・ジュンというのが日本の年配の奥様方にも大人気になって“ヨンさま”と奉られているらしい。日本にもやってきて女どもが追い回してけが人まで出した。男のくせに女のようにしなしなした奴が出てくるのは面白くない。

<司馬遼太郎> 和田宏という文芸春秋社所属の編集者が“司馬遼太郎という人”という回想録を出している。この中に10月に“空気”論で紹介した山本七平氏との対談の話が載っている。司馬遼太郎は戦車兵で山本七平は砲兵だった。対談は話が弾むかと思いきや、司馬氏が一人でしゃべって“水平線に向かって遠泳”している気分になり、すれ違いになってしまった。うまくいかないものである。また彼は“ノモンハン事件”とその後の日本を書くべく取材を重ねていたが、結局書かないで終わった。「こんな話精神衛生上悪い。書いていたら憤激のあまり、僕は死んでいたと思う」とまで言っている。
 後に氏はこう語っている。―人間一人で歩いているときは、たいていバカではありません。イヌやネコとおなじくらいかしこいのです。ところが集団になって一目的に対して熱狂が起こると、一人が本然もっている少量のバカが足し算でなく掛け算になって火山が噴火するようにとんでもない愚行をするのです。人間を集団化させるのは民族・宗教・国家などですー 氏の指摘は時代を超えた真理なのだろうか。
 私も司馬遼太郎は一時期随分読んだ。お陰で日本の戦国時代についてはかなり理解を深めることができるようになった。和田氏が説くのは司馬氏の文章が名文といわれるのは分かりやすい文章だからだということが分かったという。ご本人も“問題点を整理する習慣をつける。物事を考えるのには、論理的に考えていくのが一番の近道だ。相手の頭に入りやすいように筋道を立てて話す習慣が役に立つ”と語っていたという。彼は小説の形をとりながら歴史を叙述した。根底にあったのはノン・フィクションの精神である。私はそういう匂いのしない私小説類を読む気がしなくなってしまった。大きな影響を受けたことを告白する。
 司馬氏の日常について和田氏は次のように述べている。読むことと書くことがとにかく好きで好きでたまらない人だった。仕事の通信文の後にちょっと私信を加えても必ず返信をくれた。自著を送った人にはちゃんと読んで感想を呉れるから、皆感激する。―司馬さんは蚕が桑を食べるように本を読み、糸を吐き出すように書いたーと。晩年、最近疲れ気味で坐骨神経痛で悩んでいるという話が何度も出てくる。彼は医者には行こうとしなかった。しかし彼のは坐骨神経痛ではなく、実は腰部の動脈瘤が神経を圧迫していたのである。96年動脈瘤破裂で急死した。本名福田定一。享年73歳。
 “徹子の部屋”に未亡人の福田みどりさんが出演した。彼女は女性記者で職場結婚だったのである。みどりさんは料理が苦手で、白菜とキャベツの区別もできないほどだが、遼太郎氏にとってそんなことはどうでもよかった。偏食で鶏も魚も食べなかった。彼にはどこそこの旨い料理を食べるなどという趣味もなかった。作品の構想ができ、完成するまでに彼女は何度となく話を聞かされた。彼女が最もよき聞き手だったのである。みどり夫人は司馬氏と同様に謙虚である上に、エラそうにする人が極端なほどに嫌いである。
 久々に本棚にあった“韃靼疾風録”(上下)を読み返してみた。15年ほど前に買い求めたものだが、(私にとって)恐るべきことに本の内容を全く記憶していなかった。またこの本を購入し目を通した当時の事情を何一つ覚えていない。耄碌したものだ。それはとにかく、本の内容はたまたま女真国にたどり着いたひとりの日本人の目を借りて見た清朝成立に至るまでのヌルハチからドルゴンまで3代の満州人が山海関を越えて中国本土を制覇するまでの興隆期の時代を描いている。11月に記した“大清帝国”における当時の民情を詳しく記したもので内容は割愛するが、あとがきに司馬遼太郎はこう書いている。

 ―文化は民族固有のものだが、文明というものはどの民族にも押しひろげられるシステムらしい。文明は文化のようにこみ入ってはおらず、投網のように大ざっぱなものである。そういう普遍多岐な機能をもって文明というのだ。中国は漢以後周辺の異民族を華(文明)でないとその文化までいやしんできた。しかし清国において夷民族が文明を得た。世界で最も古くから文明主義をもって統治の原理としてきた中国にあっては、他国ほど民族論を唱えるところが少なく、異民族出身でも中国の礼教に服すれば文明人と考えて深く問わなかった。ところが19世紀に西欧という新種の夷狄が別系列の文明とその所産である科学技術をもって現れたときに、中国の文明主義は大きくゆらぎ自らの文明が老いて役立たずになった(文明が老衰すれば文化になってしまう)ことを悟り、その裂け目から民族主義が現れた。漢族の革命家たちは“満”という夷狄王朝の口に垢だらけになってしまった中国文明というぼろぎれを押し込んで窒息させた。“滅満興漢”の大合唱の中で清朝は崩れ去った。その後、遺民たちは満州人であることを秘し、東北地方でも固有満州語を使うことをはばかったため、ことばも死語同然になったー
 こういう観察が歴史の理解を助ける。文化と文明の比較論述が面白い。もう少し司馬遼太郎を読み返してみよう。

<拉致問題> 北朝鮮による日本人拉致については今までこの話題には載せないできたが、北朝鮮の対応があまりにもひどいのでこの際採りあげる。在来の経緯についてはインターネット上に外務省の資料があったのでそれを以下に示す。
1.背景
 70年代から80年代にかけ、多くの日本人が不自然な形で行方不明となった。日本の当局による捜査や、亡命朝鮮工作員の証言により、これらの事件の多くは北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であることが明らかになった。91年以来、日本政府は機会あるごとに北朝鮮に対して拉致問題を提起したが、北朝鮮側は頑なに否定しつづけた。
 日本国内では、97年に拉致被害者の家族により「「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会」が結成される等、被害者の救出を求める運動が活発に展開され、300万人を越える署名が総理大臣に提出されている。また、日本政府により認定された15名の拉致被害者以外にも、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案もあるものとみて、捜査当局は、所要の捜査・調査を進めている。
 北朝鮮が拉致という未曾有の国家的犯罪行為を行った背景には、工作員による身分証明書の偽装、工作員を日本人にしたてるため被害者を教育係として使う、北朝鮮に匿われている日本赤軍一派による人材獲得、といった理由があったと見られる。
2.日朝首脳会談(2002年9月17日)
 日朝首脳会談の準備会合において、北朝鮮側は、拉致被害者のうち4名は生存、8名は死亡、1名は北朝鮮入国が確認できないと通報。また、調査依頼をしていなかった1名について拉致を認めた上で、生存を確認した。(他方、その後の調査で北朝鮮側は、同時に行方不明となった同人の母親については、入国の事実はない旨主張した、)
 小泉純一郎総理は金正日総書記に対し強く抗議し、継続調査、生存者の帰国、再発防止を要求。金正日総書記は、拉致を認めて謝罪し、関係者の処罰および再発防止を約束すると同時に、家族の面会および帰国への便宜を保証すると約した。北朝鮮外務省のスポークスマンは拉致事件に関する声明を発表し、北朝鮮政府が被害者の帰国を許可する用意があることを示唆した。
3.事実調査チームの派遣(2002年9月28日より10月1日)
 日本政府派遣による事実調査チームが生存者と面会、安否未確認の方についての情報収集に努めた。しかし、北朝鮮提供の情報はそもそも限られている上、内容的にも一貫性に欠け、疑わしい点が多々含まれていた。同年10月29日〜30日に開催された日朝国交正常化交渉においても、日本政府は矛盾点の指摘と同時にさらなる情報提供を要求したが、今日まで北朝鮮側からの回答はない。
4.5人の被害者の帰国
 日本政府からの要求に応じて、2002年10月15日、被害者5人が帰国し、家族との再会を果たした。これら拉致被害者が、北朝鮮に残してきた家族も含めて自由な意思決定を行い得る環境の設定が必要であるとの判断の下、日本政府は同年10月24日、5人の拉致被害者が日本に残ることを、また、北朝鮮に対して、北朝鮮に残っている家族の安全確保および帰国日程の早急な確定を強く求める方針を発表した。―資料はここで一時帰国だったはずの5人を帰さない日本を責める北朝鮮への反論をもって終わっているー

 その後5人の拉致被害者の家族は北朝鮮に残されたままで未だに再会を果たせていないでいたために2004年5月22日に小泉首相は再度訪朝し、金正日総書記は調査の継続を約し日本側は残された家族5人を連れて帰った。曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんは来日を固辞した。その後2004年7月8日曽我さん家族はジャカルタで再会、7月17日ジェンキンスさんは健康上の不安から来日、東京女子医大で検診の後、在日米軍に出頭し11月3日軍法会議で脱走の罪で禁固30日後不名誉除隊の判決を受け、12月7日家族4人で佐渡へ帰着した。
 2004年9月25日日朝実務者会議が開かれたが、北朝鮮側は他の拉致被害者に対する新たな安否情報はないと報告、日本側は調査の継続を求めた。11月15日までのこの秋3度目の日朝実務者会議の結果新たな生存確認情報は入らず、日本側交渉団は唯一の成果として渡された拉致被害者の“物証”(横田めぐみさんの遺骨を含む)を持ち帰った。12月8日日本政府は北朝鮮が提供したこの骨をDNA鑑定した結果、横田めぐみさんとは他人でしかも2人分の骨であったと発表した。鑑定は警察庁科学警察研究所と帝京大学法医学研究所で行なわれ、科警研では鑑定できなかったが、帝京大学は高度の試料選別技術とミトコンドリア法で700度以上の高温で焼かれた骨のDNA塩基配列を判読した。細田官房長官は「平壌宣言の精神に反する」と明言し、政府は外交ルートを通じて正式に北朝鮮に抗議した。また同時に渡された松木薫さんの骨と称された物も松木さんとは異なる4人分の骨であることが明らかになった。
 横田めぐみさんの両親で拉致被害者の会会長の横田滋・早紀江さん夫妻は「始めから絶対に違うと思っていた。金正日政権がどんなに冷酷で、人間の本質から外れたことをする国かということがはっきりした。必ず生存していると信じて、これからも運動を続けていく覚悟です。」と語った。娘を奪われていながら今なお手が届かないご両親の苦衷は察して余りがある。拉致被害者の会はもちろんのこと、多くの国会議員までもが北朝鮮に対する経済制裁の実行を唱えだした。
 2001年12月22日に日本の領海を侵犯した北朝鮮の工作船に対して日本の巡視船が停船を命じ、それに従わず逃走しようとする船に砲撃を加える映像がテレビで放映された。工作船は自動小銃や手持ち式のロケット・ランチャーで反撃を試みた。巡視船も相当被弾したが、大勢は覆らず工作船は拿捕を免れるために自沈した。乗組員は全員海中に没した。後に日本側でこれを海底から引き揚げ、この度工作船資料館に展示されることになった。工作船後部には観音扉があり、小型舟艇が収容されていた。この頃から北朝鮮の拉致に対する日本側の警戒が強化され、北朝鮮側もこれを契機に在来頻々と行なっていた日本の海岸侵犯を諦めた模様である。

 ここからは私見である。北朝鮮当局は横田めぐみさんを含めた数十名の拉致者の所在と現状を明確に把握しているに違いない。恐らく彼らの大部分は日本・韓国などへのスパイ活動を実施もしくはそれを支援する組織に組み入れられていて、もし彼らが解放されて日本に帰還するようなことにでもなれば、そのスパイ運営機関の実態および過去の行状があらかた明るみに出る。金正日としては今決してそれを認めるわけにはいかないだろう。今まで日本への帰国が許された13人の人々はこの組織に直接関与していなかったのだろう。それでなければ赤の他人の骨を渡してでも死亡を偽装する理由が分からない。更に北朝鮮当局者にしてみれば、この問題で日本に誠意を見せれば、日本からの多数に及ぶ拉致者の行方追及は収まるどころかエスカレートするばかりで収拾がつかなくなることをも懸念しているのだろう。もうこの辺で一切を打ち止めにしたいと切望している。しかしまさかできまいと思っていた高温で焼かれた骨の鑑定を日本にやられてしまい筋書きが狂った。当事者は厳刑に処せられるかもしれない。しかし金正日がこういう欺瞞をこれから長年続けていけると信じているとも思われない。小泉首相が急いで決定的な経済制裁に踏み切らないのは賢明かもしれない。高まる国際世論の非難の中で打つ手に窮しているのは先方なのだから。
 その後の北朝鮮当局の“でっちあげ”という反論は日本はもちろんすべての第三国をも呆れさせるもので、おまけにこの件で今後日本を6カ国協議のメンバーから外さなければ北朝鮮は参加しないと言うに至っては" ならずもの国家" と指弾されても止むを得ないことを自ら立証した。安倍副幹事長が言うようにもはや日朝実務者協議は意味をなさない。こういう非道な高姿勢の将来もたらすものは一体何であろうか。

<日露戦争> 司馬遼太郎の“坂の上の雲”を読み返す。と言っても、どういう事情だったか覚えていないが、わが家の本棚には第6巻だけで第1〜5巻は買い求めていなかった。推測するのに強国だったロシア帝国に捨て身の戦いを挑まざるを得なかった事情と乃木将軍の率いる日本陸軍が203高地攻略のために多大な犠牲を払った経緯を長々と述べた部分を敬遠して、日露戦争の終結部である日本海海戦のくだりだけを読む気になったようだ。今回はそのさわりの部分と著者の後書きとだけから日露戦争を論ずる横着を許してほしい。著者は執筆以前の準備期間に5年、執筆に4年3ヶ月かけて、40台は人に会うのを極力避けてこの作品の世界を調べたり書いたりするのにすべてを費やしたと言っているから、その読者としてはまことに申し訳ない心境である。
 参謀本部編纂の“明治卅七八年日露戦史”全十巻というのがある。その厖大な著作には時間的な経過と算術的な数量の羅列だけがあって、作戦の思想もしくは意図とその結果に対する評価については毛ほども書いていない。著者司馬が大阪の道頓堀の古本屋でこれを購入したら目方で売る紙くず同然の値段だった、古書籍商人は本の内容をよく知っていると記している。戦争を遂行した陸軍当局が自分で戦史を編纂することほどバカげたことはない。陸軍の編纂委員会や執筆担当者には叙勲を受けるはずの将軍たちから圧力がかかった、そのため逆に個別の戦いの功罪あるいは総合的評価は一切書けなくなったという。一つの時代を背景とした国家行動を客観的に見る能力は独立性を持った歴史家以外には期待できないと著者は言う。著者は但し陸軍編纂の戦史に各巻約50枚の精密な地図が付いていて戦局の推移が一目で分かるようになっていたのは助かったとも書いている。
 日露戦争は陸戦においては決して勝っていなかった。ロシアの伝統的な戦法はナポレオンやヒットラーの侵攻の場合にも見られたように、一つの土俵に執着せず次々に土俵を空けては後退していき、最後に相手の補給線が伸び切ったところではじめて大攻勢に出る。日本軍は一局面ごとに相手の陣地を奪った。しかし相手はさほどの損傷も受けずに後退し、新しい陣地を作っては対峙した。一局面ごとに国際世論は「日本が勝ち、ロシアが敗けた」と報じた。日露戦争におけるロシアは世界中の憎まれ者だった。特にタイムズやロイター通信という国際的な情報網をもっている英国に憎まれていた。それによって国際的な心理や世論が動かされた。日本が情報操作に巧みだったわけでは決してなかったが、喧嘩というものはこういう条件が醸成されている場合でなければすべきでないことを歴史は教えている。
 日露戦争を攻略・戦略・戦術ぐるみの一切の規模において日本を勝利に導かせたのは日本海海戦における完全な勝利であった。この一戦で両国の複雑な戦争計算が“ロシア敗戦”という共通の解答を出した。そこで“坂の上の雲” 第6巻の記述の一部を以下に引用する。


 ロジェストウエンスキー中将率いるバルチック艦隊が祖国のリバウ港を発ったのは10月15日だった。海戦が行なわれたのは1904年5月27日だから、石炭をたいて喜望峰をめぐりインド洋からマラッカ海峡を通過して対馬海峡に至る大航海に8ヶ月余を要した。途中で5月9日に後を追いかけたネボガドフ少将率いる主力5隻(老朽艦)の艦隊(2月15日リバウ港出発、地中海・スエズ運河を経由)と合流した。
 史上最大の艦隊規模は総数50隻、総排水量16万2000トンに達した。戦艦は日本側が“三笠”以下4隻だったのに対して8隻で、その内4隻は新鋭艦で第1戦艦戦隊を形成してロジェストウエンスキー中将自らが指揮し、残る4隻の戦艦を中心に形成した第2戦艦戦隊はフェリケルザム少将が指揮、ネボガドフの艦隊は第3戦隊になった。しかし運不運は一方に偏る。フェリケルザムは5月23日に病死し、艦隊は士気の低下を恐れてその死を伏せたために第2戦艦戦隊は司令官不在のまま戦場に突入した。ロジェストウエンスキーが指示したのは全艦隊の煙突を黄色に着色することだけで、日本側で盛んに交わされた通信の妨害電波も出さなかった。
 ロ艦隊は長期の航海で疲れていて、何とか無事にウラジオストック港に辿り着きたかった。一方で日本海軍としては何としてでも途中でロシア艦隊を捕捉し、できれば殲滅したかった。ロ艦隊が対馬海峡を通過するか津軽海峡を通過するかは待ち伏せする側としては大問題だったが、航空機のなかった当時航路に関する情報を得るのは容易ではなかった。参謀秋山真之の発案により済州島と佐世保を一辺とする正方形を数十区に分割し、その目の一つ一つに哨戒用の艦船を配置し運動させた。動員された非決戦用の艦船は73隻に及んだ。日本連合艦隊は鎮海湾で待機し、いざとなれば北方に急行する態勢を取った。
 哨戒艦信濃丸、巡洋艦和泉による相次ぐロ艦隊の発見、日本艦隊の出撃と敵前大回頭による丁字戦法については有名なので多言を省く。この時期東郷艦隊は“統一した照尺距離を用いる射法”、即ち従来の各砲ごとの指揮官の判断と号令による射法を廃し、“一艦砲火の指揮は艦橋において掌握し、射距離は艦橋より号令し、各砲台において一切これを修正せざるを原則とす”というもので、黄海海戦における苦い体験から日本海軍が世界に先駆けて採用した。まず三笠だけが試射をする。水煙を見、弾着を確かめて艦橋は各砲台に距離を報せた。一方でロシア側の各砲は勝手に射った。三笠の周辺に水煙が上がるが、どの水煙が自分の砲のものか分からず照準の修正ができなかった。
 “三笠”も相当に被弾した。艦橋に立ちつくしていた東郷長官は幸いに無事だったが、危険分散のために司令塔に退避した参謀たちは装甲を破って飛び込んだ砲弾によって負傷した。右舷側に40ヶ、左舷側に8ヶの弾痕をとどめたが、大半は最初の回頭直後に蒙ったものだった。無論後続する“敷島”・“富士”・“朝日”・“春日”・“日進”の被弾も激しかった。一方で旗艦“スワロフ”に命中した砲弾は数百発で“三笠”の比ではなかった。厚い装甲に守られていた司令塔内のロジェストウエンスキー長官は別として艦内全般は直ちに惨憺たる状況になった。30分後に長官は顔面を傷つき、次いで左足のくるぶしを砕かれた。参謀秋山は回顧して「最初の30分で大局が決まった」と述べている。
 東郷も誤った。猛炎をあげる旗艦“スワロフ”が突如左へ回頭した。実は舵機が破壊されたためだったのだが、“三笠”艦橋の東郷、加藤、秋山の三人とも東に向っていたロジェストウエンスキーが平航する東郷艦隊をやり過ごして北へ進路を向け、艦隊を率いて逃げ去ろうとするのだと誤認した。これを扼するため艦隊に左90度の一斉回頭を命じた。しかし“スワロフ”の後続戦艦“アレクサンドル3世”の艦長は「(旗艦の)舵機に故障が起こった。従う必要はない」と正確に判断、自ら先頭に立った。結果として三笠以下の第1戦隊は戦列を乱してしまい次第に戦線から遠ざかってしまった。ここで日本連合艦隊は多くのロシア艦を取り逃がすところだった。しかし第1戦隊に続いていた第2戦隊(巡洋艦隊)の旗艦“出雲”(上村司令官)は事態を見破り逆に右に舵を切ってロシア艦隊の頭を抑え込んだ。本来なら戦艦に抗すべくもない筈だったが、既にロ戦艦はいずれも燃え上がっていて戦力を半ば喪失しており、巡洋艦隊の猛射に対抗することが困難になっていた。上村艦隊は巧みに算を乱してウラジオストックへ遁走しようとする三番艦“ボロジノ”以下を抑え込んだ。ロ艦隊が苦し紛れに南方に逃げたりしている開戦2時間後にようやく三笠以下の第1戦隊が単縦陣を整え直して追いついて来て上村艦隊と挟撃態勢を取った。バルチック艦隊の決戦主力だった新式戦艦5隻の内4隻が沈んだ。ロシア駆逐艦は専ら遭難者救助に奔走した。夕方から夜間は水雷艇による魚雷攻撃が行なわれた。
 重傷のロジェストウエンスキーは駆逐艦に救われたが、艦は鬱陵島で捕らえられ佐世保に曳航された。見逃された形のネボガトフ第3艦隊の一部は夜を徹して北方へ向かったが夜が明けると上村艦隊、次いで三笠艦隊が観艦式にでも出かけるように整然と縦陣を組んで追いかけて来るのを見て、完全に戦意を失い降伏した。捕捉されたのは戦艦2、海防艦2、巡洋艦1。残艦は病院船2を除きほとんどが撃沈された。日本側の損失は水雷艇3のみ。ロシア側の死者は約5000、捕虜は6100余で、日本側の死者は百数十人だった。妙なことは東郷長官が佐世保に引き揚げ報告のために東京に出発した直後、凱旋式を待機中の旗艦三笠の火薬庫が爆発して自沈し、339人が死んだ。詳細な原因は不明で戦死者の数倍の軍人が事故死した。完璧ともいえる勝利の直後で、これは今後の日本の衰退の予兆だったのかもしれない。

 海戦を省みると、当時の日本としては実によくやっている。肝心の砲撃技術についてはロシアに明白な差をつけた。一方でロシア海軍には相当の油断があったようだ。冷静に見て長い航海の後で待ち構えていた日本と日本のホームグラウンドで戦うのだから、うまくいっても五分と覚悟しなければいけないのに、その気配も特段の策もなかった。陸戦と違ってお互いに未経験の戦闘だけに、事前の準備と覚悟の差異が結果に出た。日本の勝利は世界中を驚かせ、特にロシアに虐げられていたポーランド人やトルコ人、日本びいきの南米人を喜ばせた。西洋文明の発展による白人優位の思想が覆ったことは世界史上大きい。
 秋山真之が作文し“連合艦隊解散ノ辞”として東郷平八郎が読み上げた演説では「・・・百発百中の砲一門、能く百発一中の砲百門に対抗しうるを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦により其の責務に軽重あるの理なし。事有れば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本文を尽くさんのみ。・・・神明はただ平素の鍛錬に力め、戦はずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者より直ちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と」とある。この反省が日本軍部に続いていればその後の日本の歩みは変わったはずである。やむを得ぬこととはいえ、この勝利はその後の日本に多大の慢心と錯覚を与えた。セオドール・ルーズベルト米大統領はこの演説に感激し、全文を翻訳させて自国の陸海軍に配布した。その6代後のフランクリン・ルーズベルト米大統領が40年後には日本を対米戦争に追いこみ、原爆まで落として日本を壊滅に導いたのは何故か。日露戦争当時ロシアを除く世界の主要国が日本に同情的であったのに、その後の30年で国際協調に背を向けた日本は決定的な米英中国の憎しみを浴びる立場に落ち込んだ。あまつさえ進化する軍事技術の開発吸収を怠った上に、軍事総合力に関する適切な自己評価さえできなくなって対米宣戦布告をするに及んではこの東郷演説の精神は消滅してしまっていたと言わざるを得ない。
 日露戦争はあの時点での軍事技術の精一杯の発露ではあったが、現代から見ると隔世の感がある。艦隊の所在は宇宙衛星から捉えられるし、レーダーもある。長距離ミサイル技術をもってすれば砲撃の照準を人力で定める必要は今やない。航空機の威力が圧倒的になってしまい、海軍の意味合いが変わってきた。うかうかしていて無用の長物になった典型が戦艦大和だったが、秋山真之の警告は今でも生きている。

<理想の死に方> 受身の題材選びで恐縮だが、文春新年号に各界58人が望む“理想の死に方”が載っていたのでその一部にコメントする。口に出して言う、言わぬは別として老境に近づいた人間誰しもが抱く日常最大の関心事であり、創造主がこの世に生まれてきた人間がもつ生への執着を如何にして断ち切らせるかのために与える様々な手段についてのはかない望みの表白である。
 何人かが西行法師の歌「ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎのもちづきの頃」(62歳作)と本人がそれを実現(73歳)したことを挙げているが、漂泊の旅というものを実際にやってみれば人知れぬ多大な苦難があり、その挙句に克ち得た境地だと私は思うので、安楽に暮らしている人間には高望みであろう。脳梗塞の後遺症と闘っている多田富雄氏は「歩キ続ケテ果テニ息(ヤ)ム」ということだと述べているが同感。
 がんで死ぬのがいいという人がいる。手術や抗がん剤などの積極的な治療はせず、モルヒネなど苦痛を抑えるための治療だけをしていれば、清明な意識で静かに死を迎えることができる。昔の人の多くの老衰死はそういうものだったのだろうと近藤誠氏は言う。また同氏は水分摂取停止による死が老年者にとって穏やかな死になると説いている。死期を悟った弘法大師はこの道を選んだ。
 立花隆氏の伯父上は普通に生活していたが、ある日「オレは明日死ぬぞ」と言い放ち、家族は本気にしなかったが翌朝起きてこず、家族が起しに行ってみると床の中で死んでいたという。享年80歳だった。本人はそう言ったのだから予兆があったのだろうが、特段バタバタしない心境にあったのだろうと氏は述べている。これが一番いい。岡野雅行氏の父上も元気で節分の豆まきをした後、風呂場で倒れて死んだという。享年87歳。枯れた巨木が一瞬の内に倒れるように生涯を終えることができるのが理想に違いない。そういうご本人は家族に言い残すことがあるから、3日で死にたいという。勝手なものだ。
 建築家安藤忠雄氏は“走り続けたまま終わりたい”と言い、大聖堂サグラダ・ファミリアの設計者アントニオ・ガウデイが建設現場からの帰途市電にひかれて死んだ例と、同じく建築家で米人のルイス・カーンが工事現場視察の帰途、駅の便所の中で人知れず死んだ例を挙げ、二人とも生前の業績にふさわしからぬ死だが、死の直前まで建築に挑み考え続けていたのに惹かれるという。心身ともに直前まで衰えずにいるのが条件だが。
 ダライ・ラマは“何も恐れることはない、死を思うな、考えるな、時至らば、恐怖も去るだろう”と言う。この人は多分慌てず騒がず静かに死ぬだろう。李登輝は“人事を尽くして天命を待つ”の心境だという。この人も悟っている。中国を気にしてこういう達人たちの入国を拒否してはいけない。
 団鬼六、渡辺淳一は絶対に腹上死だという。理想だから何を言っても構わない。死ぬのに恥もへったくれもないが、北杜夫の“雪山で死ぬ”願望と同じで、実現には年を取り過ぎたかも。

<イギリス社会> 掘り出し物はないかといい加減に購入した文庫本に英国で生活している私より10才ほど若い日本人女性のエッセーがあった。高尾慶子という人で、私立高校から調理師専門学校へ進み、30歳で渡英、英人音楽家と結婚して一旦日本へ戻るが、10年後に離婚して再び渡英し、以後は単身生活。積極的に友人の輪を拡げている。こういう自立心が強い人には高学歴の官僚などの決して持ち合わせないユニークな生活の知恵をもっていて、その意見は傾聴に値する。日本と英国という二つの国の社会の比較論にも興味を覚える。
 英国には三越に次いで高島屋とそごうが進出したが、高島屋とそごうは先駆者の三越の真似をして日本人観光客相手の商品を売るだけで、現地の消費者を無視した。特にそごうはひどく、三越・高島屋より劣る品物を置き、店の内装も雰囲気も暗かった。店員には商品知識もない、接客もまともにできない中国人女性やゲイを雇っていた。いつ行っても買いたいものがなかったと言う。高島屋もそごうも早々にロンドンのセントラルの一等地から日本へ引き揚げなければならなかった理由は独創性が何もなかったからだと指摘する。多分正鵠を射ているのだろう。
 彼女曰く―1988年に英国に戻ってくると私の雇い主の日本レストランの経理課長が言った。「高尾さんの国民保険番号は1972年付きで残っていましたよ。その続きで所得税は支払いますからね」私はしめた!と思った。結婚してこの国に住んでいた時に病院でのお産以外、福祉の手当ては一切したことがなかったので、私は以前と通算した納税者になれたからだ。英国で税金を払うのは無駄なことではない。国民に税金の還元のない国家なんて意味がない。余分な橋や道路を作って、業者と贈収賄を繰り返し、懐を肥やしているなんて、政治家と呼べるものではないー 英国の政治家は日本ほど腐敗していないのだろうか。とにかく英国政府は英国国内で一定年月以上働いて税金を納めるとキチンと年金を給付してくれる。彼女は英国の福祉制度を信頼して永住を決意した。
 ―通勤電車で片道1時間20分かけて通勤した。同じ時間にプラットフォームに立ち、馴染の顔に出会うのに、電光掲示板を見上げると、電車の到達時間は毎朝違う。ラッシュアワーだというのに時間の間隔が8分とか16分もあったりする。到着しても日本のようにドアはサッとは開かない。並んでいる乗客の前で1分くらい開かない。押し合いへしあいして乗るのだが、ドアの前に立ちたい奴がいっぱいいて、中へ詰めようとしない。それを押しのけて私は中へ突き進む。発車する時も「ドアから離れてください」というアナウンスを10回ぐらい繰り返してドアを閉めないので3分くらいは出発しない。それを駅ごとに繰り返す。前がつかえて駅の手前でしばらくストップしてしまうこともままあるーという。これでは日本人なら誰でもしびれを切らしてしまう。国民性の差だろうか?
 彼女は日本から送ってくる町の風景を英国の同僚たちに見せたくない。それは彼女の嫌いな乱雑な電柱と電線と色とりどりの看板がこれみよがしに写っているからだという。彼女がヨーロッパに住みたくなった理由の大きい部分は電柱・電線・看板・広告のない世界に憧れたためらしい。ヨーロッパでは行政が都市だけでなく村でさえも都市計画、村の区画整理をし、個人が自由勝手なデザインの家を建てられないし、看板や広告を出せない。彼女に言わせると自分の国を愛さない政治家と不動産屋が戦後の日本を好きなようにしてしまい、国民はウサギ小屋に住みあるいは好き勝手な家を建て、隙間を看板と広告で埋め尽くしてしまった。英国は自然の地形は平坦で景観に恵まれているとはいえないが、何代もかけて人工的に美しい国にした。何もないところに芝生を作り木を植えて公園を作り建物や道路も計画的に建設した。昔はそれを国王や領主がやったが現代はそれを政府や地方自治体が引き継いで管理し監視するようになった。日本は美しい自然の上に城を築き、区画整理した武家屋敷や町家があったが、現代の日本人はそれらすべてを破壊して世界でも稀な醜悪な国を造ってしまった。経済が栄えたって美しい国に住めないのなら、私には幸福と思えないと彼女は嘆く。
 また彼女は“少子化”はいいことだという。イタリアでも人口減少について真剣に論じられている。避妊に反対するヴァチカンが国内にあるというのに、国民は教会の言うことなど耳に入れない。日本のえらい学者が現在と同じGNPを保つために20年後に日本は外国からの移民が必要と書いているのに呆れた。そんな人たちを迎えれば高品質の製品は作れなくなってしまうと嘆く。移民は愛国心もないし、違う宗教や習慣を持ち込んで人種問題を起こしてしまう。ヨーロッパがこの問題でどんなに悩んでいるか。広い空き地や道路にゆったり住んで人口過多の日本を過去のものにすべきだと力説する。
 一概にご説ご尤もと全面賛成するわけでもない。“少子化”は年金制度の維持を困難にするし、彼女の嫌う満員電車がなくなれば電車会社の経営は困難になるだろう。だが、この女の人のように外の世界から日本を眺めれば、全般によいこと悪いことが労せずして相対的に浮かび上がってくる。もし彼女が英国へ進出した日本の百貨店の経営に参加したら、多分違った展開があっただろう。人間社会は現状に甘んじないで、時たまこういう異質の声に耳を傾けるべきだ。但し聞き流すところはあってもよい。

<スマトラ沖大地震> 夕刊、朝刊と開く度に死者の数が増えていく。被害の全容は容易には把握できない。12月26日朝、スマトラ島北西沖の海底は南北1000km以上にわたって突如隆起しM9.0の大地震が発生した。大きい都市のない地方であったのと震源地が海底だったために地震自体による被害は阪神大地震の1600倍といわれる地震のエネルギに比してさほど大きくなかった模様だが、巨大な津波が発生してインド洋を中心に周辺に拡がった。死者の数は1896年の明治三陸沖地震の23000人を大きく上回るようだ。これまでは新聞がテレビを数で上回った。これまでは新聞がテレビを数で上回っていたが、やがてテレビ報道が急に増え、30日には78000人に達し31日には12万人を超えた。まだ増えるだろう。史上最悪である。インドネシアの被害が最も大きいようだ(右図の数字は地震発生後の津波到達時間)。
 津波の伝播速度はジェット機並みの時速700kmと報じられた。悲惨なのは大被害の発生したセイロンに津波は到着するまでにスマトラから2時間以上の時間差があった筈なのに、それを現地に報ずる手段が設けられておらず、むざむざ10m以上の高さの海水の壁に襲われた。津波はインド洋に留まらずアフリカ東岸から遠く南極大陸にも達した(昭和基地で76cm)と報じられたが、狭いマラッカ海峡で隔てられた太平洋には全くといっていいほど影響が及ばなかった。それでもサンデイエゴで40cmだそうだ。有史以来最大の津波惨事になったらしい。
 日本の大津に設けられている精密な地震計は流石に巨大地震だけあって、地球を3周してくる地震波まで捉えた。第1波が午前10時、第3波が午後4時だというから、地球1周に3時間、伝播速度は時速13333km、秒速3.7kmということになる。人工衛星の周回速度にほぼ匹敵し、津波の約20倍の速度である。遥か昔をふりかえればこういう地震や津波で何万回も地球は揺れ動いていたのだが、寿命の短い人類からは遠い祖先の記憶など消え失せて、波が足許に迫ってから慌てふためいている。災害は忘れたころにやってくるというが、特にインド洋沿岸に住む人々にとっては先祖からも伝え聞いていない晴天の霹靂だったようだ。“ツナミ”という日本語が世界共通語になっているという人もいるが、日本の地震に伴う津波警報システムは確かに今回の被災地域に比べれば進んでいるのだろう。それも先祖の蒙った手痛い経験によるものだ。これを機に南アジアにも少しは普及するだろう。
 最初に海面の低下があって、次に海面の上昇が来るのなら経験のある沿岸の人々なら敵わぬまでも何とか高台に逃げるような逃避行動を取れたのだろうが、今回震源の西の多くの地域で海面の上昇が先に来たらしい。一方で震源の東では海面低下が先に起こったようだ。ここでも人々にツナミの予備知識がなく、退避が遅れたらしい。印象的なのは一人の日本人男性の口述で、こどもと海水浴に来ていたのだが、咄嗟に二人のこどもに浮き袋をかぶせ、絶対に離れるなと両腕に抱きかかえて浮遊物の中を流されるに任せたという。腕は浮遊物に衝突した擦り傷だらけでも手柄顔だったが、よく考えてみるとご本人がこどもの浮き袋と両腕に抱えたこどものバランスのお陰で助かったのが真相みたいだ。津波に襲われても救命胴衣を着用して浮いてさえいれば、助かる可能性が大きい。でも崩れる波の衝撃を受けて硬いものに打ち付けられたり、何かの下に潜り込む目にでも遭ったら命の保障はない。
 日本人を含めて観光客の遭難はご家族には同情するがまあ自業自得である。それに比べて毎日の変わらぬ暮らしの中で難にあった人々には同情する。沖に出ていた漁船が帰ってこないというのは海面が逆巻いて転覆したのだろう。高さ数メートルの段波に会えば只では済まない。こうなると神に祈るしかない。しかしその神が大勢の無実の人たちを非業の運命にほうりこんだ。因果応報など関係ない。自然の摂理である。合掌。
−後報― 調査が困難だったインドネシア(スマトラ島)の被害は甚大で、1月23日に至って同国発表の死者の数は17万2000人を超え、死者の総数も23万人に達したが、こうなると正確な数値を抑えることは不可能である。




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