
<宮崎 駿> “宮崎アニメの暗号”(青井汎・新潮新書)という冊子を読む。きっかけは最近宮崎作品を何本か再度鑑賞したことによる。03年2月に取り上げた「千と千尋の神かくし」をはじめ「もののけ姫」、「天空の城ラピュタ」、「となりのトトロ」などである。テレビ・ドラマなどを見ていると、いい加減に見ていても作者がその中で何を言いたいか、あらかた分かってしまい、再度見たいとは思わない。しかし宮崎作品は決して一度では全貌が掴めず、再度見たときにいくつかの新しい発見があって、新たな印象が生まれる。それと日本人の作品でありながら、多分にヨーロッパ文明の影響がアチコチに潜んでいるのが感じられる。またストーリーがありきたりでなく、次々に現れる状景が多彩であって、作者一人で考え付く限度を超えているように感じる。作品の底には明確で一貫した作者の主張がある。その辺の事情を分析してみたいと思っていたところ、上記の本に遭遇した。
著書ではスペイン映画「ミツバチのささやき」が「となりのトトロ」の下敷きになっているという。共に二人の姉妹が主役で、おんぼろトラックが左カーブを描きながら集落へ入っていくところから物語が始まる。精霊が住むという荒野の廃屋で精霊を探して井戸を覗き込む妹アナと同様に、お化けの存在を教え込まれた妹メイが井戸を覗き込んでトトロに出会う。著者は共に井戸が現世と地下にある他界をつなぐ通路になっていると解説する。両物語ともその終わり近くで妹の失踪事件が起き、無事発見されてめでたしめでたしとなる。著者は「となりのトトロ」は「ミツバチのささやき」が凄い映画だと言明した宮崎の変奏曲だという。この程度の借り物でどうこういうことはない。宮崎は季節や風土を意識的に変えている。
宮崎の敬愛する堀田善衛のスペイン滞在時のエッセーにフランスの古い教会を訪れた記述があり、祭壇真下の地下室にローマ時代の地下墓地・カタコンベがあり、そこにイスラム教徒の作った水槽もある。アニメ・「ルパン3世カリオストロの城」の地下もこれと同じ構造になっている。私はこのアニメは見ていないが、クラリス姫の救出に失敗したルパン3世は地下の巨大な水槽に囲まれた密室に閉じ込められる。これはイスラム統治下にあったスペインの歴史の一端を描いてみたくなったのだろう。
「風の谷のナウシカ」では巨大な王蟲(オーム)や有害な胞子に満ちた腐海の森が出てくる。これはローマ人に“森の人”と敬遠されたケルト人が崇拝した聖なる森をモデルにしているのだと著者は説く。この森はローマ人の管理する“文明”の外に位置し、“火の7日間”と呼ばれる大戦によって産業文明が崩壊した後、腐海という奇妙で人畜に有害な胞子漂う植物相が世界を覆い始めるという。ここに登場する少女ナウシカが魔女的な資質をもち、ジャンヌダルクの面影をも有していて、“腐海の森は焼いてしまえばよい”という文明的な考え方に抵抗し、“森が長い時間をかけて地中の毒素を吸い上げ清浄な土壌を生み出す”という真理を見出す。宮崎はケルト人や魔女や異端とよばれる被差別民に暖かい眼を注ぐ。ここには反文明とも呼ぶべき思想がある。


<昭和史> 戦後生まれの若い世代の要請を受けた半藤一利(ノモンハン戦記の著者)が1926-1945の日本について寺小屋式の講義をした。それを生徒が一冊の本(平凡社)にまとめた。これはそこからの抜粋である。歴史のこの部分は司馬遼太郎が“まともに向き合ったら健康を損なう”として著作に取り上げるのを敬遠した。戦後の歴史教科書では避けて通っているらしく、ごく最近のできごとなのに、多くの若い日本人はその詳細を承知していない。歴史を教えない学校教育というのは片輪である。この中には1代もしくは2代前の“優秀な”日本人たちが犯した誤りの数々が記されている。その血が現在の日本人の中に流れているのだから、周囲の状勢によって前車の轍を踏む可能性は十二分にある。憲法改正に際して日本人は昭和初年にこの国で何が起こったか知悉しなければならない。
大観すると日本は明治維新によって1865年から40年をかけて1905年には近代国家を作り上げ、その後の40年で敗戦(1945年)によって自滅してしまう。その曲がり角は日露戦争の勝利にあった。世界の五大強国の一つといわれた帝政ロシアに辛うじて勝ち、世界の国々から強国の一つとして認識された。それとともに日本人はいい気になり、自惚れ、のぼせ、驕慢になった。
それまでの帝政ロシアは不凍港を求めて南下、満州に乗り込み武力をもって清国と条約を結び、遼東半島の旅順・大連二港を手にして更に朝鮮半島まで勢力を伸ばそうと狙っていた。これに脅威を覚えた日本が自存自衛のために起こした戦争に勝利した結果、新たにロシア及び清国と条約を結び、以下の諸権益を得た。@関東州(遼東半島の大部分)の租借、A南満州鉄道(長春から旅順まで)の鉄道経営権、B軍用鉄道・安奉鉄道(丹東から瀋陽まで)の鉄道経営権、C南満州鉄道に属する炭鉱の採掘権、ならびに鉄道守備のための軍隊駐屯権。
ここに日本は初めて大陸に軍隊を常駐させ、ソビエト連邦南下の防衛線を引くことになった。この軍隊は関東州の旅順・大連に司令部を置いたので、後に関東軍と呼ばれる。但し満州自体の統治はあくまで中国側の手にある筈であった。しかし日本はこの後満州を狭い日本の移民先として50万人を移民させ、政治力のなく不安定な李氏朝鮮を放置できないとして明治43年(1910)に朝鮮を併合してしまう。
中国では清朝末期の混乱が続いていたが、辛亥革命で清国が滅び中華民国が成立した(1912)。ヨーロッパ列強が第1次世界大戦に翻弄されている間に、日本はまだ弱体な中華民国政府に強引な要求(対華21ヶ条の要求)を無理やり呑ませた。これは清国から一時的に奪った満州の諸権利の期限を百年延長するなどで、日露戦争に勝ったことで急に威張りだした日本に対して中国民衆の反日感情を急速に高めることになった。
○思想 北一輝は“日本改造法案大綱”を発表し、天皇大権の発動により3年間憲法を停止し国会を解散して軍部が政治や経済を抑え込むことを主張、青年将校に影響を与えた。これは後の“天皇機関説”に繋がる。希代の秀才と称された石原莞爾(陸軍中佐)は“世界最終戦争論”で準決勝で米国がソ連に勝ち、決勝で国力を蓄えた日本が米国に対決すると唱え、その前提として“関東軍満蒙領有計画”を発表した。これが満州事変に繋がる。また張作霖事件の対応に懲りてマスコミ対策を参謀本部の主務にした。小幡敏四郎(皇道派)は“予防戦争論”を唱え強大になる前にソ連を叩くことを主張、これに対して永田鉄山(統制派)は“中国一撃論”を唱えその前に中国を徹底的に叩くことを主張し対立した。統制派のエリート将校たちは“陸軍パンフレット”を発行、それは「たたかひは創造の父であり、文化の母である」で始まり、日本を自由主義を廃し軍が統制する国家にしなければならないと説く。海軍は国際協調のために軍縮条約を支持する“条約派”と制約を嫌う“艦隊派”に分れ、東郷・伏見宮両元帥の支持で対米英強硬派の“艦隊派”が“条約派”を追い落とした。国会で“国家総動員法”が成立(1938-3-17)。法文第4条は「政府は戦時に際し、国家総動員上必要あるときは、勅令の定むるところにより×××することを得る」とあり、“×××”は空白なので、政府は何でもできることになった。
○謀略戦争 昭和に入ると関東軍は満州の情勢を都合よく展開するために次々と謀略の事件を起こす。満州を支配していた軍閥張作霖爆殺(阿片中毒の中国人の仕業を偽装、1928-6-4)を契機に日本軍による満州の直接支配を狙った。柳条湖での鉄道爆破(中国軍の攻撃と偽装、1931-9-18)を契機としての満州事変勃発、事実上満州を制圧した。上海事変(日蓮宗僧侶による挑発、1932-1-18)−これは天皇が白川大将に命じて拡大を抑えたー。盧溝橋事件(日本軍演習中に幻の銃弾打ち込み、1937-7-7)による支那事変勃発。“中国一撃論”の実行だった。これを契機に日本軍は中国本土に進攻し上海から南京を陥落して揚子江沿いに侵略を続けた。当時の米国の北京駐在武官は「進攻前の日本軍の夜間演習は極めて挑発的だった。中国軍に対する日本軍の態度は傲慢で攻撃的であり、多くの場合その行動は中国の主権に対する侮辱と直接の冒涜であった。」と述べている。石原莞爾は中国進攻を止めさせようと努めるが、彼ら非拡大派は中央から追い出された。近衛文麿首相は「国民政府を相手にせず」と言明(1938-1-16)、自ら交渉相手を絶って戦闘終結ができなくなり際限なく対中戦争が継続した。ノモンハンでは戦闘の拡大を嫌う陸軍中央と好戦的な関東軍の間に十分な合意がないままに、国境紛争からソ連との戦闘が拡大して関東軍は2万人の死傷者を出した(1939)。いずれも宣戦布告なき戦争で“事変”と呼ばれる。陸軍はこれだけの犠牲を払いながら対ソ戦から何も学ばず、顕著な改革も行なわなかった。
○クーデター・暗殺 国内では軍部の専横を抑えようとする政治家たちを抹殺せんとする動きが次々と表面化する。血盟団事件で井上準之助前蔵相・三井の団琢磨射殺(1932-2-9)、5-15事件(1932-5-15)で“君側の奸”犬養毅首相を暗殺、この際東郷元帥も実行者をかばった。皇道派による統制派永田鉄山少将斬殺(1935-8-12)、2.26事件(1936-2-26)で斉藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監暗殺、鈴木貫太郎侍従長重傷。これ以後軍部は2.26事件の再発をちらつかせて政・財・言論界を脅迫した。
○マスコミの役割 満州事変勃発(1931-9-18)を契機に軍の満蒙問題に厳しい論調だった朝日、東京日日など各新聞が一斉に関東軍擁護に変じた。ラジオも臨時ニュースを流し新聞は号外を連発した。これ以後マスコミは軍部側の純然たる宣伝機関と化し、国民的な熱狂を煽った。日本全国の神社に必勝祈願の参拝者が押し寄せた。国際連盟から脱退して帰国した松岡代表を英雄視し、“栄光ある孤立”として、脱退のもたらす不利についての想像力ももたなかった。そして中国では勝てる戦争をしていて正義の戦争だとマスコミは国民の頭に叩き込んだ。第2次大戦では真珠湾攻撃で日本中が沸きに沸き、こんな時に講和(山本海軍の希望だった)なんてとんでもないという雰囲気を作った。その後ミッドウエイ開戦では惨敗し以後の制海権を奪われてしまうが、大本営は大敗を公表せず、「ミッドウエイでも勝ったんだってなあ」という会話が交わされた。
○天皇 張作霖事件で東条など事件の責任をあいまいに済ませんとする軍部を抑えられなかった田中義一首相に天皇は辞職を迫り、田中は逃げるように退出して数日後に死去する。これを機に西園寺元老の進言があって天皇は“君臨すれども統治せず”、即ち“内閣や軍部が一致して決めたことにはノーと言わない”立場*を守ることになった。この時の天皇の“独白録”によれば、「もし軍法会議を開いて訊問すれば河本(大作)は日本の謀略を全部暴露すると言ったので、軍法会議は取りやめになったというのである」とあり、そうなれば陸軍中央がみんなグルだったことが知れて日本陸軍はガタガタになってしまう、田中も行き詰ったのである。一方でこれを機に軍部は天皇の側にいて進言する重臣たちを“君側の奸”と呼んで敵視するようになる。
満州事変勃発に先立ち天皇は事態を憂慮し再三にわたり南陸相に満蒙問題の自重を申し渡すが、陸軍中央と関東軍および朝鮮軍は統帥権干犯を敢行して満州に侵攻し内閣はこれを事後承認して予算を付けるに及び、天皇はやむを得ず*これを認可し早期収拾を命ずる。この時点で昭和は崩壊に向かったと著者は言う。
ゴーストップ事件(1933-6-17)では大阪・天神橋交差点を中村陸軍一等兵が赤信号で横断し、制止した交通巡査と殴り合いの喧嘩になった。これが陸軍第8連隊と大阪府警察部の大喧嘩になり、軍部は“治外法権”や皇軍意識を振り回し、荒木陸相まで陸軍の名誉にかけて大阪府警察部に謝らせると立ち上がり新聞まで書きたてた。陸軍特別大演習の際に天皇が「大阪の事件はどうなっているのか」と尋ね、初めて陸相が必ず善処致しますと師団長を怒鳴りつけ、当事者同士が握手してケリになった。陸軍は謝罪しなかったが、連隊長がクビになったので軍が非を認めたことになった。
第2次大戦について 開戦回避を命じていた近衛秀麿が米国要求の中国からの撤兵を「撤兵は心臓停止であり、降伏に等しい」と主張して拒否する東条英機によって内閣を投げ出すと、天皇は「虎穴に入らざれば虎子を得ず」と東条内閣の組閣を認めた(1941-10-18)。軍人である東条自身に戦争勝利の可能性について最終的に検討させるためだった。しかし御前会議で海軍が時期を移せば敵の戦力は増え戦機を逸すると主張するが、天皇の外交交渉による打開努力要請に対して東条は恐縮するだけだった。若槻礼次郎は最後に理想(八紘一宇)のために国を滅ぼしてはならないと言ったが、反論はなく戦争に突入した。また軍部は事前通告せず奇襲で開戦したかったが、天皇は御前会議の後わざわざ東条を呼び出して「攻撃の前にきちんと最後通牒を渡すように」と言い渡した。東条は驚き方法を討議した結果攻撃30分前に手渡すことになったが、周知の如く事務方の手違いによりそれも間に合わなくなる。実際は米国は暗号解読によって非公式には事前にそれを知っていたのだから、何をかいわんやである。
○外交 日本は遅ればせに第1次世界大戦に参加して戦勝国側になり、ベルサイユ条約で日本はマーシャル諸島などを委任統治地としてもらい受ける(1919)。だが米国の策略によって日英同盟が廃棄される(1922)。当時の日本人の多くはこれをさして気にかけなかったが、これこそ重大な転換点だった。日本軍の満州国からの撤退を総会で採択した国際連盟に対して脱退を宣言(1933-2-24)。国が国際社会から孤立すると情報からも孤立することを日本は理解していなかった。ワシントン軍縮条約(米5英5日3)の日本単独廃棄を決定(1934-12-3)。近衛内閣“東亜新秩序声明”を発表、汪兆銘の傀儡政権を樹立(1938-11)、これは西欧列強との縁切り宣言として米国を硬化させる。日独伊三国同盟を決定(1939-9-19)。米国“日米通商航海条約”廃棄を実施(1940-1)。ナチス・ドイツは日本への事前通告なくソ連に進攻開始(1941-6-22)。米国、石油の対日輸出の全面禁止通告(1941-8-1)。日本の対米宣戦布告(1941-12-8)。第2次大戦終結に関する米・英・ソの3者会談(ヤルタ・1945-2-4)、ここでソ連の対日参戦が決まるが日本はつゆ知らない。ドイツ無条-件降伏(1945-5-7)。日本降伏を勧告するボツダム宣言(米・英・ソ・中、1945-7-26)。広島(8-6)・長崎(8-9)に原爆投下。ソ連参戦(8-9)。日本無条件降伏(8-15)。
○教訓 著者は昭和史の20年が教えるものを次のように総括する。
@国民的熱狂を作ってはいけない。熱狂そのものが権威を持つに至った。
A危機において日本人は抽象的な観念論を好み、具体的・理性的な方法論を検討しなかった。
B参謀本部作戦課が絶対的な権力をもつ小集団エリート主義の弊害が露呈した。
C国際社会の中での日本の位置づけを客観的に把握していなかった。
D日本人は対症療法的な短兵急な発想に終始し、大局観・複眼的な思考が不在だった。
―総じて指導者が根拠なき自己過信に陥り、底知れぬ無責任に終始したー
また著者はこれらの要素が決して過去だけにとどまらず、現代にも通用すると警告する。謙虚に反省しないと過ちは繰り返される。私はこの著書を読んで、中国に慮るのとは別にして、東条英機とそれを支えた参謀本部の連中は靖国神社の合祀から外して欲しいという念を強く覚える。東条は昭和時代全般にわたり上記@からDすべてについて責任がある。第2次大戦における戦死者は107万2000人(内フィリッピンでは47万7000人)。特攻の戦死者4615人。空襲による死者は30万人。日中戦争と対ソ戦争の死者は41万人。総じて死者の数は310万人と言われる。
<中華文明の恩恵> 前項の“昭和史”で記されているように昭和前半の日本は中国人民ならびにその文明を不当に見下して深い怨みを買った。私は嘗て一方的にその恩恵を受けた日本としては最近の中国の反日気運に押されて、過去の様々な恩義をおろそかにしてはバチが当たると思うようになった。既に秋に読み終わった本だが、“黄河の水(中国小史・鳥山喜一)”を読み直しその中からそういった要素を見直してみることにする。その契機は昨年7月の“古事記雑感”に書き落としたこととして、それらの本の著者が古い人たちを決して軽視してはならないこと、我々の祖先がある面では現代人以上の知恵をもっていたことを強調しており、昭和初期の日本人たちの愚行を対比してみるときに、人類というものは時代とともに進歩し賢くなるなどとはいえないことを実感させられるからである。
中華文明は西欧とは独立にかつ先行して黄河のほとりに生まれ育った。始めは黄河流域のごく一部で発生し漢民族が主役になった。昔“三皇”と呼ばれる聖人がいて食物を煮たり焼いたりする方法を教えた。そのために灰陶・彩陶・黒陶などの土器が発達した。世界三大料理の一つといわれる中華料理の起源である。刺身などは料理の内に入らない。古代の支配者は堯・舜・禹と三代にわたり人望のあるものが天のこころにかなう人として天子になれるという“禅譲”が行なわれ、かれらの治世の要点は農耕のための治水にあった。後に人民をいじめる支配者が出ると、攻め滅ぼされても仕方がないと天命が革(あらた)まる、即ち“革命”と呼ばれた。
殷の時代頃から漢字の起源になる文字が使われだした(2003-4“漢字の歴史”参照)。西暦紀元前に聖人孔子が現れて道を説き、儒学の基になる“論語”が作られた。これは中華文明の中核思想として永く影響力を保った。同じ頃老子が現れて“道教”を説いた。秦の始皇帝は中国の統一大支配者となって様々な画期的な事業を創造・実施した。郡県制・度量衡制・文字の改革(隷書)・万里の長城・焚書坑儒などである。漢の時代には漢字が更に発達して現行の原型ができた。この漢字が日本文化に与えた影響(恩恵)は測り知れない。日本が欧米とは異質の優れた文化を誇れる根拠の少なからざる要素がここにある。
文字を記録する媒体として木簡・竹簡からやがて後漢のときに紙が発明された。この技術は唐の時代になってヨーロッパに伝えられた。張騫や班超が苦難の末に西域を征服しシルク・ロードが開かれた。晋から南北朝にかけて漢詩、絵画、書道、彫刻が発達した。唐の時代に玄奘三蔵がインドから経文を持ち帰り仏教が栄えた。学問・美術・文学・宗教・工芸(仏像彫刻など)は学者や名僧によって日本に伝えられた。奈良時代・平安時代の日本文明は強い影響を受け、現代まで多くのしきたりにもその名残りを留めている。また日本は中国文化を受け入れるに際して鵜呑みにせず自分に適した形で消化する術を身につけた。
宋代になると印刷術(木版)が発明され、マルコポーロによってヨーロッパに伝えられた。この時代の山水画は独自の発達を遂げた。元代の蒙古族は強大な軍事力で西へ遠く遠征し一時はヨーロッパを震撼させた。だが清国の衰退期にはアヘン戦争を契機として列強の植民地化の餌食になり、その後塵を拝した日本は西欧文明の取り込みに遅れた中国を強者に正義があると錯覚して軽侮し侵略した。その後もこの国は内戦によって外国への反発が遅れたが、ようやく大国としての立ち直りを見せ始めた。第2次大戦の後で打ちのめした米国には心底から頭を下げた日本だが、打ちのめされる直接の原因であった中国侵略についての謝罪は今ひとつだったように感ずる。近代中国への軽侮の念がどこかに残ってはいないだろうか。今や日本は長い歴史の中で受けた恩恵を改めて想起し、過ちを率直に詫びて大国に対する適正な敬意を払わなければいけない。現代中国における諸矛盾、文革とか共産党支配に伴う不平等・不正義などは一旦脇において。

<夢> このところ毎晩のように夢を見る。日常時間に余裕があって、また冬で朝明けるのが遅いから、明るくなるまで寝ていると睡眠時間は8時間近くになる。睡眠が足りているから夢を見るのかもしれない。夢を見るのは朝方が多いようだ。悪夢とか目覚めて不快感が残るような夢は滅多に見ない。目覚めた瞬間はあらかた覚えているが、反芻しない限り潮の引くように急速に夢の内容が記憶から消えていく。夢を覚えておく必要はないという意識が行き渡っているせいもあるらしい。夢の中で解決が容易でない課題を抱えていることが少なくないが、そういう場合も目覚めて“ああ夢か”と思った瞬間にその課題そのものが胡散霧消する。本人としては課題自体は醒めた意識でそれほど面倒なものだったのか改めて検討したい未練があるのだが、そのようなこだわりに関係なく記憶から綺麗に消えてしまう。
夢に出てくる状景というのは毎日異なるのだが、そうでありながら頻繁に通りかかるいくつかの場所がある。“ああまたここへ来てしまったか”と感ずる。その場所の特徴は細部に渡って前に(夢で)来た時と同じである。そうやって思い出すのだから、目醒めても思い出しそうなものだが、目醒めている時にはその場所や詳しい状況が頭に浮かばない。どうやら夢を見ている時だけ連通する記憶場所が脳内にあって、睡眠中にはそこと交信が可能になるのだ。また必要があって夢の中でその場所の秩序を変えると、次に(夢で)行ったときにはそのように改変されている。まるでパソコンの中の特定のメモリーが最新改訂内容を留めているようなものである。
夢で出会う人は10年以上前の人(年をとっていない)ばかりで、現実の自分は足が不自由で杖なしには歩けないが、夢の中では杖など全く使用せずに人と同じ速度で歩ける。若い頃には空中を飛びまわったことがあったが、最近はそういう能力はなくなって地道に地上を歩いている。しばしば駅で電車を待つが、電車に乗っていることは憶えておらず、いつの間にか目的地に着いている。エレベーターに乗ることも多いが、私の場合エレベーターは垂直移動だけでなく水平移動もするので、意図せぬ遠方に連れていかれたりする。エレベーターに乗った後で“ああそうだった、しまった”と思い出すが、次(別の日)にエレベーターに乗り込む時にはすっかりそれを忘れている。
夏冬の季節はなく、風雨や寒暑に耐えなければならないような厳しい環境には決して出会わさない。薄暗いところを歩くことは多い。常に照明を求めているような感覚がある。これは就寝環境と関係があるのだろう。新聞やテレビは毎日見ているのだが、夢に出てきたことがない。旨いものを食べるとか、飲むなどしたこともない。街を歩いていてもそういう気にならない。元来そういう欲求が人より少ないのかもしれない。或いはこの頃ひもじい思いをしていないからか。トイレに行きたくなって探すことは時々ある。用を足して目覚めると現実に小用に行きたいことに気付く。幸いまだ失禁したことはない。
自分も齢70を越したからやむを得ぬことだが、夢の中には先輩・同輩の故人がよく出てくる。見掛けの上では皆さん元気だし、気脈は通じている感覚があるのだが、互いに言葉を交わすには至らない。出会うのは嘗ての会社の人間が多いが、相手の身分などは判っていても初めて会う人も少なくない。会話はしているのだが、啓発的な話を聴くことはない。但し家族は全く出現せず、自分は全くの会社人間だったのだと改めて反省している。文春2月号では江原啓之とよしもとばなな(吉本隆明の娘・作家)が“幽界離脱”について対談しているが、幸か不幸か私にはその方の気は薄いようだ。

<涅槃> NHK“世界こころの旅”で画家横尾忠則がタイに“ねはん”像を求めて旅する番組を見た。横尾忠則については2001年4月に<芸術家>として紹介した。あの頃はY字路の風景に興味を持ち、いくつもの“Y字路”を現場に立って画き続けていた。常人ではこんな対象に継続的な関心をもつことはないと思うが、私は一流の芸術家のこういう感性のユニークさが大好きである。御本人の述懐によると彼が画家として世に出て間もなくの若いころ、三島由紀夫と知り合い彼が出版する著書の装丁を頼まれた。三島はもう錚々たる大家だったから、これは横尾にとって名誉な仕事だったに違いない。横尾は本のカバーの裏表につながる横長の絵として横たわる三島の裸体を画き、要所をバラの花で飾った。それを見た三島に“ネハンだね”と言われ、横尾はそのときはピンと来なかったが、間もなく三島は暗示したように千駄ヶ谷の自衛隊で自決する。
その後横尾は“ねはん”像に関心を持ち、片肘ついて横たわるものを蒐集し始める。それは人物にとどまらず動物にも及び、ついにはバナナ、靴屋に並ぶ靴まで皆“ねはん”に見えるようになったという。彼は釈迦の末期の涅槃について知って、自分でも片肘突いて横たわる姿勢をしてみるが、この格好を長くしていると安楽どころではない、痛いだけで我慢できなくなると言う。これは我がままかも知れない。曹洞宗永平寺では全僧侶の就寝時にこの姿勢を守らせているというのだから。しかしとにかく横尾は人に聞いて“ねはん”の本場であるタイ国に究極の“ねはん”像を求めて旅立つ。
“涅槃”という概念は仏教思想で自分は詳しくないので、その方面のレクチャーを引用してみる。
涅槃 (ねはん)は"パーリ語"ニルヴァーナ(nirvana)の音写である。漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅などと訳した。また、サンスクリットでパリニルヴァーナ(parinirvaaNa>、 マハーパリニルヴァーナ(mahaaparinirvaaNa)ともいわれるところから円寂、大円寂などと訳された。
涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味である。しかし、ニルヴァーナは「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味だから、煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態をいう。その意味で、滅とか寂滅とか寂静とか訳された。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で 涅槃寂静といわれる。
釈迦が入滅“死去”してからは、涅槃の語にさまざまな意味づけがおこなわれた。
1 有余涅槃・無余涅槃とわけるもの
2 灰身滅智、身心都滅とするもの
3 善や浄の極致とするもの
4 苦がなくなった状態とするもの
などである。
涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅されるまでの間の「さとり」の姿を言う。無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」と分ける。
有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語のsa-upaadisesa-nibbaana, anupaadisesa-nibbaanaで、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ(upaadisesa)は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する。仏弟子たちは有余無余を、釈迦の生涯の上に見た。釈迦の入滅こそ、輪廻転生の苦からの完全な解脱であると、仏弟子たちは見たのである。
このような「さとり」が灰身滅智、身心都滅である。灰身滅智(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう。身心都滅(しんしんとめつ)とは、肉体も精神も一切が無に帰したすがたをいう。したがって、これらは一種の虚無の状態である。初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、naastika)と呼ばれたのは、この辺りに原因が考えられる。
ナースティカとは呼ばれたが、釈迦が一切を"無常"・"苦"・"無我"・であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからである。
この立場で、のちに無住処涅槃という。「さとり」の世界では、無明を滅して"智慧"を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る。そこでは、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生を仏道に導く。
このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界である。その転化の根本は"般若"の完成である。ゆえに「さとり」が智慧なのである。
この点から菩提と涅槃を「二転依の妙果」という。涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)という。
横尾忠則は三島の作品に出てくる暁の寺ワット・アルンを訪れるが、ケバケバしい装飾だけで何の感興も湧かない。バンコックの街中を歩き、至るところに黄色の氾濫を感ずる。この天才のつぶやきはどれも平凡ではない。「赤色で暗闇を画くことはできるが、黄色で暗闇は画けない」という。チャオプラヤ川を遡りバンコックの北80kmのアユタヤ遺跡へ向かう。川の遊覧船の中で風景とは関係のない絵を画き続ける。中景に豊かな森、遠景には峨々たる山稜と下方が赤く染まった空。手前にねはん像を画き出すが、頭部は頂部に葉の生えたパイナップルにしてしまう。船の旅なのだが、食堂の中でも彼はキャンバスの中の旅を続ける。まだ何か画き足りない。
やがてアユタヤへ着く。14世紀から400年続いた都だが、ミャンマーとの戦いで多くの寺院が破壊されている。あちこちの寺院にねはん像がある。横たわった長大な石像の身体には黄色の布がかけてある。ある寺では城郭の長方形の入り口からねはん像の頭部が見える。ワット・ロカユフタ寺には全長29mの巨大なねはん像があって、ニタッと笑っている。この寺では僧侶たちに先導されて薄暗い堂内を参詣の大勢の人々が火の点いたローソクを掲げて歩みを進める。横尾はこういうのは好きではない。売店で絵葉書を買う。写真の1枚ではねはん像の下部が水に浸かっている。彼はこれだと彼の絵にもう一体のねはん像を下部が水に浸かった姿で画き加えた。横尾忠則にとって涅槃はあくまで視覚に訴えるものである。相手は自分である。絵は信仰ではないが、キャンバスの中に自分を見出す横尾の旅が続く。
<堀 栄三> 先述の<昭和史>に続き、敗戦までのこの国の軌跡について自分なりの研究を続ける。教材は“大本営参謀の情報戦記 堀 栄三・文春文庫”である。著者は昭和18年10月に騎兵教官などの以前の経歴を離れていきなり大本営の情報参謀を命じられる。30歳だった。陸軍大学を卒業して1年経っていない。父は騎兵から航空に転じて陸軍の航空を創り上げた経歴をもち、第1師団長だったが昭和11年の2.26事件で予備役に退いた。陸大を出ていなかったので陸軍省内で苦労した。息子の陸大受験に先立ち、父は同僚だった将軍を紹介し戦術の勉強の心掛けの教えを乞わせた。この土肥原将軍にせよ父にせよ難しいことは言わず、戦術は枝葉末節に捉われず表層の奥にある本質を見ろ、情報は(相手の)仕草の中から掴み取れと教えた。その後も何人もの将官が父のもとを訪れ、彼らの談話から多くを汲み取った。欧米の列強と異なり日本では陸軍と海軍で航空が統合化されぬままに大戦に突入してしまった。その点で“山本(五十六)が癌だった”と父から聞いた。
一方で著者は軍においては情報参謀を育てる教育はなおざりにされていたと指摘する。(陸大においては)与えられた状況に応じた戦術は求められたが、教官が示した状況(敵情)以外は考える必要はなかった。陸大では系統的・マニュアル的な情報教育は一切受けなかった。大本営陸軍部は第1部(作戦)、第2部(情報)に分れていた。まず第2部第16課(ドイツ担当)に配属され、駐日ドイツ大使館付武官クレッチメル少将から日本海軍の暗号が米軍に読まれているのではないかという懸念とミッドウエイ海戦の日本大敗北もそのせいではないかという意見を聞いた。堀にとってミッドウエイの敗北は初めて聞く話で大きい衝撃を受けた。堀は入部後1月の間に第5課(ソ連担当)、更に第6課(米・英担当)に移される。大本営の場当たり的でその日暮しの対応は国策決定の基礎となる世界情勢判断の甘さが大本営をも翻弄していたことを示す。
堀は課長から米軍戦法の専心研究とそのための戦場視察を命じられる。戦争も中盤を迎え形勢が悪化してから相手を研究しようというのだから泥縄もいいところだ。ガダルカナルの苦戦で始めて大本営は相手を研究する気になったのだ。トラック島からラバウルに向かうのに海軍の便に便乗しようとして搭乗順位の関係で海軍将官に譲ったが、後れて陸軍機でラバウルに着くと先発の海軍機が来ていない。堀は“海軍暗号はやられている!”と直感した。米軍機の待ち伏せに遭ったに違いない。前線の司令部を訪れると、飛行場を敵に占領され制空権が完全に敵に奪われていて、敵に関する情報が不足し第一線の情報が入らず困惑していた。先年父を訪ねた寺本中将に会う。中将は開口一番“制空権”を口にした。何故これを失ったか。大本営の作戦課が今でも“軍の主兵は歩兵なり”と言っているからだ。“軍の主兵は航空”だ。大正4年に航空兵を作り、航空の独立を唱えた堀中将(著者の父)は偉大だった。制空権を維持するには国力の裏付けが必要になる。大本営は千島―マリアナーニューギニア西部に線を引き、これを絶対防衛圏として死守するという。制空権がなければ補給も救援もできない。線ではなく点になってしまっている。米軍船団への攻撃に赴くと、レーダーで見ているらしく空が真っ黒になるような弾幕を張っている。一機も中へ入れない。中央が送ってくるのは激励と訓示だが、第一線が欲しいのは弾丸だ、飛行機だーと。
東京に戻った堀は改めて米軍戦法の研究に取り組んだ。半年かけて“敵軍戦法早わかり”という冊子を作った。その前に“本ができようがまだだろうが、一片の知識でもよいから、今から戦場に出動しようとする部隊に報せて来い”という杉田課長の命令で作戦課の朝枝参謀とともに大連・青島に飛び、関東軍の精鋭師団に太平洋の敵情、米軍の上陸予想地点、上陸時の常套戦法、爆撃と艦砲射撃の様子と対応について詳細説明した。作戦部と情報部がパートナーシップを組んで事に当たったのは今までないことだった。大砲や機関銃の掩蓋は最小限2mのコンクリート厚さをもたせないと艦砲に対して役に立たないこと、軽々な銃剣突撃は戦力を消耗するだけで得策でないことなどを強調した。大隊長以上は真剣に緊張して一語も漏らすまいとメモをしていた。ベリリュー島を守備した中川連隊長は熱心にメモし、時に質問した。彼らは4ヶ月の内に米軍の艦砲射撃と爆撃に耐える強固な陣地を構築して、遂に散華するまで驚嘆するほど頑強に奮戦した。彼は(統率者の)戦略の誤りを敵わぬまでも戦術で最大限の努力を払った第一線部隊のことを考えると、開戦直前まで北方ソ連の方を見て太平洋では惰眠をむさぼっていた情報部も少々の後悔や反省では済まされないと記している。
堀は完成した“敵軍戦法早わかり”を第一線部隊に普及するために在比島第14方面軍に出張を命じられた。作戦参謀でなく情報参謀なので専用機など使えず、汽車で九州まで行きマニラ行きの空便を探して鹿屋の海軍飛行場に辿り着いた。そこでは台湾沖航空戦の戦果に沸き立っていた。堀は報告を終わって出てきた海軍パイロットを一人一人呼び止めて、撃沈とどうして確認したか、艦型はどうだったか、僚機はと問い詰めると皆返事があいまいになっていった。一人離れたところで沈み込んでいた飛行服の陸軍少佐がいた。陸軍にも俄仕込みの雷撃隊があったのだ。“俺の部下は誰も帰ってこない。あの凄い防空弾幕だ、潜り抜けられるのは十機に一機もない。帰ってこなければ戦果の報告もできないんだ”と言った。堀は直感した。これはあのギルバート、ブーゲンビル沖航空戦の偽戦果と同じではないか。ピストの中は歓声で沸き立っていたが、誰一人審査はしていなかった。誰がこの戦果を確認したのか。堀は大本営第2部(情報)長宛に緊急電報を打った“この成果は信用できない。如何に多くても2、3隻、それも空母かどうかも疑問”。
マニラへ着くとクラーク飛行場は艦載機の空襲中で多数の日本軍飛行機が無残な姿を曝していたが、大本営海軍部発表では“16日15時発表。台湾沖航空戦の戦果累計次の如し。轟撃沈 空母10、戦艦2、巡洋艦3、駆逐艦1。撃破 空母3、戦艦1、巡洋艦4、艦種不詳11。”このニュースが南方総軍司令部を駆け巡り、人々は日本海海戦以上の戦果に酔って堀の反駁は一顧だにされなかった。マッキンレーの第14方面軍司令部に山下奉文大将(司令官)を訪ね、米軍の全般状況とともに台湾沖航空戦の戦果について報告すると、司令官は西村参謀副長と朝枝作戦参謀に同席を求めた。堀は米海軍機動部隊は健在であり、現在比島を空襲中の米機動部隊は12隻の空母が基幹であり、ギルバート、ブーゲンビル沖航空戦以来、航空戦の戦果ほど曲者はないと主張した。山下大将は分かったと言い、本日の祝賀会は取りやめ、折角用意したのだから慰労会に変えろ、俺は出席しないと言った。西村もニュースは眉唾だと理解した。
堀はマニラ南方のある連隊を訪ね敵軍戦法についての講習会を始めた。そこへ“至急マッキンレーへ戻れ”という電報が入った。情報が錯綜していたがレイテ島に米機動部隊が接近していた。10月27日堀は突然第14方面軍参謀に発令された。東京から堀の6ヶ月前までの課長で今は作戦課作戦班長に転じた杉田大佐が作戦指導のために飛来し、“台湾沖航空戦で米海軍は壊滅的打撃を受けて敗走したから、急遽レイテ島で国運を賭けた決戦をすることに決まった。全力を尽くせ”という指令を伝えたが、山下司令官は10日前に東京・作戦課と“ルソン島で決戦”の打ち合わせを行なって着任したばかりだったからこれは朝令暮改だったし、堀の報告とその後の憲兵隊の“空母12隻健在(米軍飛行士捕虜の自白)”の情報を得ていたから容易に動こうとはしなかった。新米愚鈍参謀から実戦型職人に育った弟子堀とその育ての親杉田大佐は正面から対立してしまった。発令の挨拶に行った堀に山下司令官は“レイテは激戦になるだろうがいずれ敵はルソンに来る。いつ、どこへ、どれぐらいの敵が来るか、冷静に専心考えてもらいたい。口外厳禁!”と命じた。同じく第14方面軍作戦参謀になっていた朝枝参謀が堀のよき理解者で協力してくれた。レイテへの支援を嫌がった山下大将が寺内元帥の命令でやっと送った第1師団は米機動部隊の動きの間隙を偶然に突いて奇跡的にオルモックに上陸できた。大本営と南方総軍はこれで勢いづいたが、山下大将は両手両足をもぎとられ、ルソン決戦を半ばあきらめ戦略持久を覚悟した。
堀はマッカーサー軍の飛び石作戦がプロ野球のロテーションのように1.5ヶ月ごとに進められていることを見て、使用可能な米師団数と輸送可能な船団数からルソン上陸時期を推測、また過去の情報の分析から上陸予想地点を3箇所に絞った。堀の第2課のよき部下たちは不眠不休で働いてくれた。方面軍は南方総軍、第4航空軍、南西艦隊司令部との意見調整のために11月6日マッキンレーに召集した。会議で堀は山下大将の特命事項につき“米軍は1月上旬末、リンガエン湾に上陸、兵力は当初5乃至6師団、爾後更に3乃至4師団”と開陳した。この時期に至るも大本営作戦課は“米軍上陸3月以降説”を考えていた。山下大将の“ルソン三大拠点持久作戦”が許されたのは12月19日になってからだった。米軍は1月9日朝からリンガエン湾に上陸を開始した。堀はその頃司令部で敵軍の行動を的確に予測することから“マッカーサー参謀”という異名を貰っていた。1月22日堀は突然大本営に朝枝参謀とともに帰任せよという命令を受けた。山下大将は“本当によくやってくれた。お前のような専門家をこのまま比島の山の中におらせるわけにはいかない。日本へ帰って本土決戦のためにもっと働いてくれ”と言った。大将が述べた“お前のような専門家”という言葉がたった1年2ヶ月の経験がなしたことであって、日本の対米情報のお粗末な実態として寧ろ情けなかったと述べている。
大本営に帰任した堀は第6課(米国班)に属し、陸軍中央特殊情報部と連絡を取ってB-29の情報把握に努めた。B-29の発信する電波を追っても暗号解読はできなかったが、電波通信の冒頭に一定の符号があり、基地別にサイパンはV400番台、グアムはV500番台、テニアンはV700番台で、15V576といえば第576戦隊の第15番機ということが分かり、欠番から各部隊の損害も判明した。昭和20年5月中旬長文の電報をワシントン宛てに発信するB-29一機が現れ、そのコールサインはV600番台だった。この部隊はテニアンに進出してきたが、10機ほどの小部隊でやがて日本近海まで脚を伸ばしてはテニアンに帰投した。特情部ではこの正体不明機を“特殊任務機”と呼び出したが、それ以上は情報担当者の日夜懊悩に関わらず解明できなかった。8月6日午前3時頃このコールサインで短い電波がワシントンに飛んだ。午前4時過ぎこの飛行機は“われら目標に進行中”の無線電話を発信したが、以後は無線を封止してしまった。8時6分二機のB-29が広島上空に侵入し、8時15分大閃光とともに原爆が投下された。事態を正確に認識したのは8月7日ワシントンでトルーマン大統領が発表した放送内容を特情部がキャッチした時だった。半日前にでも見抜けなかったのは情報部の完敗で、国民にお詫びの言葉もないと記している。
堀は米軍の本土上陸時期と場所の予測作業に携わったが、彼らの情報は作戦課に伝えられたにも関わらず、彼等は作戦課の中に入っていけるような雰囲気では決してなく、作戦課とは大本営の中のもう一つの大本営で、作戦課の中には“もう一つの奥の院のような中枢”があるかのように感じられた。参考に第6課の推定した第1次日本本土上陸作戦は“15個師団で上陸地点は志布志湾、時期は10月末から11月初旬”、また第2次日本本土上陸作戦は“13個師団で上陸地点は九十九里浜と相模湾、時期は昭和21年3月頃、更に欧州から転用可能と考えられた10個師団が加わる”であった。これはその後の調査によってほぼ正確に米軍の計画を予測していたことが明らかになった。
戦後堀は情報のエキスパートとして嘱望されて昭和29年7月に自衛隊に入隊し、陸上幕僚監部第2部国外班長になった。いろいろな事件に遭遇したが、やがて自衛隊のあり方に失望し昭和39年3月に退職を申し出る。自称“情報の職人”は組織の指導者の信念のなさに愛想を尽かした。彼は米軍の挙げた日本軍五つの敗因を的確と評価、脱帽する。
1 国力判断の誤り ドイツを過大評価、連合国を過小評価した
2 制空権の喪失 確度の高い大量の情報を見逃した
3 組織の不統一 陸海軍の円滑な連絡の欠如
4 作戦第一、情報軽視 情報関係のポストに人を得なかった
5 精神主義の誇張 精神主義が情報活動を阻害、戦争を効果的に行なうための諸準備をおろそかにした
更に堀は次のように指摘する。米軍調査書の要約によれば情報要員訓練計画の皆無が日本の情報活動を阻害した。陸大や将校養成学校に情報学級もなければ特殊な情報課程もなく、情報将校たちは戦塵の間に自分で新任務を会得するしかなかったーとあるが、まさにその通りで情報部は仕事はくれるが教えてはくれず、職人のように自分で覚えていく以外に方法はなかったと述懐する。日本が国際社会の中で生き延びるためには軍事力より情報力を高めるべきで、“長く大きい兎の耳”こそ最高の“戦力”であると言う。

<瀬島龍三> 前項に次いで今度は大本営作戦課参謀というまさに日本軍の中枢にいた男の記録を追う。教材は“瀬島龍三 参謀の昭和史 保阪正康 文春文庫”である。瀬島龍三は富山県西砺波郡松沢村に生まれた。父は日清・日露戦争に従軍して金鵄勲章を受け、10年間村長を務めた村の有力者だった。龍三は成績がよく、名門の砺波中学から東京幼年学校、陸軍士官学校を卒業、富山の三十五連隊付将校として中国戦線に移動、北京で陸軍大学の初審を、次いで東京で再審を受けて合格、陸大に入学した。二十五歳、陸軍中尉であった。卒業に当たって考課は最上位であり、御前講演で“日本武将の統帥について”と題して講演した。これで参謀本部の指導層に入り込めるエリートコースを約された。瀬島に限らず陸大の軍刀組(在校生の1割以内)は教官の気に入られるような答案を書くのに長けていた。日本陸軍の組織原理に心情も思考も適合させて陸大を卒業した軍人―それが瀬島だった。このような教育からは上司の意に反しても真に必要な施策を創出する素地は生まれない。瀬島は二つの師団で6ヶ月づつ師団参謀の見習いに従事した後に昭和14年11月、参謀本部第1部第2課(作戦課)の参謀として東京に着任する。二十八歳、大尉だった。
作戦課には対北方班、対支那班、兵站班、航空班があったが、昭和15年夏に新たに対南方班が設けられた。瀬島は参謀本部が日本陸軍伝統の対ソ戦だけでなく、新たに南方作戦の確立を迫られている転換期に作戦課の参謀となった。但し昭和15年まで参謀本部はアメリカやイギリスを敵とした軍事行動など具体的に考えたこともなく、対英米戦の戦略を考える参謀は事実上存在しなかった。瀬島の先輩に当る参謀たちは対ソ戦や対支戦には深い知識と経験を蓄積していたが、南方作戦については二十代後半から三十代前半の若い参謀たちが起案した作戦計画に異を唱えるほどの知識も材料も持ち合わせていなかった。一方で関東軍参謀の地位にあった服部卓四郎と辻正信はソ連との武力衝突を画策し、ノモンハンで完膚なきまでに叩きのめされた。その責任をとって二人は予備役に編入されたが、東条人事によって復活し参謀本部作戦課の課長と班長になっていたのだから、二人の暴走を許した空気がそのまま瀬島を参謀として自立させる作戦課の雰囲気になっていた。
昭和15年9月日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ。南方地域での英米との対決は急速に現実味を増し、作戦課の南方作戦計画立案に拍車がかかった。米英との戦争を想定した対南方作戦案の立案を瀬島は命じられ、後にこれが南方作戦の第1案となる。昭和16年6月22日ドイツは日本への事前連絡もなく突如ソ連に侵攻を開始した。これに応じて軍令部は“情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱”に「対英米戦ヲ辞セズ」の一句を入れた。これを7月2日御前会議で決定した時、日本は二重の過ちを犯した。ひとつはドイツのソ連短期制圧の見通しであり、もう一つは南部仏印に進駐しても米英は過激な反応をしないだろうと見たことである。これが太平洋戦争の直接の契機に発展した。昭和16年7月25日、日本が南部仏印への進駐を発表すると、米国は直ちに対日石油輸出を全面停止した。これにより若い参謀たちの考えた南方作戦計画は“帝国陸軍全般作戦計画”となり、11月5日に上奏・允裁を受けた。日米開戦一色に染まった参謀本部の中で少しでも懐疑的な意見を述べることは全く許されない雰囲気になった。12月7日午前11時(日本時間)ルーズベルト米大統領の天皇宛危機回避を求める親電が駐日大使宛発せられたが、後日判明したところによれば参謀本部の将校によって1日遅らせて大使館に届けられた。通信課の戸村少佐は作戦課の瀬島少佐から“マレー上陸船団に触接してきた敵機を友軍機が邀撃し、既に戦闘が開始され、陛下にも上奏済みだから今更親電が来ても混乱のもとになる”と聞き、親電を抑える措置を取ったという。この“親電差し止め事件”は参謀本部の佐官クラスが自在に権力を揮える状況になっていたことを物語る。
瀬島は開戦前後を通じて自分は兵力運用担当であったと証言する。全師団の戦備・戦闘経験をそらんじている参謀として、用兵について参謀総長が参内するときは随行した。昭和17年11月末に作戦課長の服部に呼ばれ、“明日から南東方面(ガダルカナル)担当”と命じられた。南東方面の作戦参謀への格上げである。昭和18年2〜3月には代って作戦課長になった真田と共に現地を訪れてガダルカナル撤退を決めたのだから、上陸31400名の内死者20800名、内15000名が戦病死(餓死)した直接の責任は瀬島に薄いかもしれないが、太平洋を6000kmも離れた南海の小島に対して東京の机の上から“どの地点を確保せよ”などと現地の実情も知らずに指令を発し続けた矛盾が暴露された。源を辿れば“対南方作戦案”の破綻である。
戦局が次第に不利の度を増した昭和19年10月、ハルゼー提督率いる太平洋第3艦隊の艦載機が台湾、沖縄に空襲をかけた。これに対して連合艦隊司令部は空母と地上基地の航空機にハルゼー艦隊の攻撃を命じ、帰還したパイロットの報告によって大本営は連日“台湾沖航空戦”の大戦果を発表した。これに応じて参謀本部は当初のルソン決戦を急遽レイテ決戦に変え、精鋭部隊を続々レイテに注ぎ込んだ。しかし大本営発表と逆にほとんど無傷だった米艦隊に補給路を断たれ、他の島と同様にレイテも玉砕の島となった。米機動部隊が大半の空母を失ったという参謀本部の事実誤認に実は瀬島が深く関わっていた。戦後ソ連の抑留から帰還した瀬島は堀元参謀と会い、“日本中が勝ったと言っていた時にただ一人反対してきた君の電報(前項参照)を私が握りつぶした。シベリア抑留中ずっとそれが気にかかっていた”と言明した。
堀は鹿屋航空基地で報告者が皆一人で1艦を沈めたような報告をするのに疑問を持ち、問いただすと皆怪しくなるので大変な間違いと気付く。鹿屋では沸き立っているので陸軍基地の新田原から情報部長有末精三宛に打ったという。後日談だが有末は言う「堀君の電報を見ていない。とにかく作戦が情報の云うことなど頭から信用しない。作戦課が情報部の情報を握りつぶした真相はよく知りませんが、堀君の言うことは事実でしょう。作戦課はよくそういうことをやりますから」と。ある元参謀は瀬島を“小才子、大局の明を欠く”と評し、瀬島こそ点数主義の日本陸軍の誤りを象徴していると言った。堀の暗号電報は解読された上で作戦課に回ってきた。この電報を受け取った瀬島参謀は顔色を変えて「今になってこんなことを言ってきても仕方がないんだ」とこの電報を丸めるや屑箱に捨ててしまったという。作戦指導の悉くが失敗する中で、作戦課は当時どうにもならないほど硬直していたのだろう。客観的に見れば海軍の幻の戦果が覆っても、比島作戦の大勢には影響なく遅かれ早かれ敗戦の道を辿ることは変わりなかっただろうが、レイテ決戦で死んだ幾万の兵の犠牲は軽減できたかもしれない。
瀬島龍三についてはその後、関東軍参謀として敗戦を迎えた後の10年余にわたるシベリア抑留の話、復員後伊藤忠商事に勤めて会長にまで昇りつめる話、中曽根康弘と土光敏夫を助けて臨調を実質的に取り仕切る話があるが、戦争という主題と離れるのでこの際割愛する。最後に彼の復員後の次の述懐を載せておく。「私は十四の年に幼年学校に入って、以後は階級イコール人間の価値という世界です。少尉より大尉のほうが人間としての価値も上、その考えに疑問をもったことは終戦まで一度もなかった。それがあの収容所の中で軍の階級とか会社の社長、専務―そういうものは一つの組織の秩序を維持する手段に過ぎない。人間の価値とは全く別個のものだということを夢から醒めたように感じました」。これで陸軍の教育のいびつさがよく分かる。また瀬島の軍歴と彼に課せられた過大な責務を見ると、東条以下の軍指導部の対米戦争への検討・準備が実に不十分でお粗末だったことを改めて嘆じざるを得ない。また陸軍だけでなく、海軍の戦果確認のお粗末さも海軍組織の基本的な欠陥として再認識した。