
<佐藤愛子> 佐藤紅緑の娘。作家。大正12年生まれ。5年ほど前に佐藤一族を描いた力作“血族”を発表した。このほど出版した随筆“それからどうなる”を読む。彼女のキリッとした顔立ちと負けん気の根性が好きである。“血族”という本は嘗て書店の店頭で見かけたが、家族のしがらみみたいなものをこれでもかと書き綴った作品は億劫で読む気がしないけれども、老境の身辺の事柄を気軽に取り上げたものなら肩も凝るまいと事のついでに買い求めた。
この年代の人の感性については分かり過ぎるぐらい分かってしまうところがある。それと文章が巧みで簡にして要を得ていて厭味がなく、抵抗なくさらさらと先へ先へと読み進める。近頃読んだ本でこれほど短時間に読み終わったものは珍しい。それだけ内容に骨がないと言えばそれまでだが、難解な内容あるいは論旨の発展方法に無理があって、読んでいる途中で嫌気が差し、暫くパソコンのゲームで気分転換を図ることが少なくない昨今では、このように一気に読み終わったのは一種の快感だった。
菊池寛賞を受賞した後、前日まで自宅は泊り客続きで疲れ気味だったのだろう、出版社の気の置けない人たちが慰労かたがた食事に誘い出してくれた。食事が終わりに近づいた頃、急に食物の味がしなくなり、座っているのが辛くなった。急いでトイレへ向かう。洗面所の鏡に自分の顔が映っている筈だがよく見えない。長椅子があるのでそこに座ろうと思った時、目の前が朦朧となった。「佐藤愛子、しっかりしろ!」と自分を叱咤して昏倒した。気が付いたのは病院の救急治療室のベッドである。駆けつけた娘に人が話すのによると両手、両足とも真っ直ぐに伸ばして直立不動の姿勢で倒れていたという。娘が言っている「私がおかしいと思うのはね、そういう時に普通の人はしゃがみこむものでしょう。ところがこの人はなぜかしゃがみこまないのよ」。「ねえ、なぜ?」と娘は私に向かって訊いているらしい。まったく、何故か知らないがそういう時、いつか気合が入ってしまう。それが我が人生もろもろの苦難のもとであったことがその時漸く分かったのであったという。78年の人生の中で彼女が入院したのは出産の時以来だったが、15日目に無事退院した。原因はよく分からない。三半規管に不調があったらしい。
彼女には一人娘があって、その亭主と孫娘の4人で住んでいる。嫁との同居でないから気楽でいいだろうと友に羨ましがられる。年を取るとボケが進むのではないかと始終気になっている。人にこういう弁明をしなければと考える“近頃人の名前、商品名、固有名詞の類がどんどん消えていく、その内消えるも消えぬも最初から覚えていないーハゲた頭に蝿が止まろうとしてツルリとすべって止まれないという古い歌がありますが、そのような感じで私のヒダのなくなってツルツルになった脳に固有名詞が止まろうとして滑り落ちるーそんな感じでございます”と。その内に手伝いのばあさんがポンプで井戸水を汲み上げながら歌っていた声の記憶が懐かしく次々に浮かんできた。でも最後に入っていた囃子言葉が分からなくなった。娘にインターネットで古い俗謡の歌詞が分かるか訊ねる。“題名は?”と訊き返されて分からないと答えると、“それじゃあ無理ね”と冷たく突き放される。入れ替わりにやってきた孫娘のインターネットのつたない講釈を聞いている内に不意に“スットントンだ!”と思い出した。
“禿げた頭に蝿が止まり、ツルリと滑ってまた止まる、すべってとまってまた滑る、この山素足じゃ登られぬ、スットントン、スットントン!”。「バンザーイ、思い出したあ!題名はスットントン節だ。スットントン、スットントン!」 一夜明ければ爽やかな五月晴れ。長い宿便が出尽くした気分だ。娘を呼んで数日の苦悶を話す「天啓のようにひらめいたのよ!」と。娘は良かったわねえと言いながら、「それにしてもこれは哀しい話だわねえ」としみじみと言ったのであった。
夢を見た話。ホテルで挨拶をしていると電話ですと言われ、電話に出ると「トクダです。今下に来ているのですが」−私が答える「トクダさん?まあなつかしい」そこへ係りの人が呼びに来て眼が覚めた。−トクダ?誰だろう。名前に覚えがある。トクダと思われるその人とは北杜夫の妹主催の昭和26年クリスマスパーテイで会った。確か椅子取りゲームに負けたので罰として大根を抱いて踊った。気になって仕方がないので思い切って北杜夫に電話する。ご無沙汰の挨拶など抜きで本題に入ると北も“フンフン”と聞いているが、やがて“知らないなあ。ボクね、この頃ぼけてきたのよ”と頼りないこと夥しい。数日経ってやはり気になるので、断固40年近く前に別れたモト亭主に電話する。「アイ、もーしもし」モト亭である。「私です。佐藤愛子」。用件を言うとそれはT不動産のトクダだという。気が抜けた。懐かしい人とは大違いだ。一件落着だが、彼女は後になってもはるか昔の知り合いが河底からメタンガスのアブクのように何故浮かび上がってきたのだろうとこだわっている。それが夢というものよと友人に言われる。心配しているボケの前駆かもしれない。
広島空港の待合室でW杯に熱狂するファンに辟易し、サッカーなんか何よ、うるさいなあと思うが、「けど上手やねえ、上手にアタマで蹴りはるねえ」と言う一人のばあさんの“実感言語”に感心した愛子は“頭で蹴る”サマを見ようとしている内に面白くなって、血圧が上がると娘にテレビ観戦を止められるようになってしまった。でもひそかに見た。W杯が終わってとりあえずほっとしている。この人の話は他愛ないがユーモアがある。
久しぶりに一句 「憎まれる婆アとなりて喜寿の菊」 更に年が経ち、人にせがまれてもう一句 「ものすべてただ生臭し傘寿の秋」

<N.H.K.再び> 2002年12月に<N.H.K.>で多少の不満は述べたが、概ね私はN.H.K.を褒めちぎった。昨年後半にはN.H.K.について厳しい世評が高まり、一部に視聴料不払い運動にまで発展した。海老沢会長が参考人として出席した衆院総務委員会の中継をしなかったことに視聴者の反発を買った。何人かのプロデューサが制作費の不正請求と着服の疑いで訴追された。N.H.K.は年末に特集番組“N.H.K.に言いたい”を組み、視聴者の声を聞いて対応を考える企画をしたが、この番組で海老沢会長が新味のない長広舌をふるってしまい、却って反感を強める失態を演じて遂に引責辞任に追い込まれた。
1月25日海老沢勝二会長は経営委員会(石原邦夫委員長)に辞表を提出した。後任には技術畑の橋本元一専務理事が会長に、また永井多恵子元解説主幹が副会長に就任した。しかし海老沢氏が顧問に就任したことに対してそれを院政として反発する世論が強く、橋本新会長は海老沢氏が顧問を辞退したことを記者会見で改めて発表した。なおN.H.K.は受信料の支払い拒否・保留件数が年度末には45万乃至50万件に達する見通しであることを発表した。ここへきて新たに“病室の貸しTY業者協会”が40億円の支払い拒否を発表した。
N.H.K.のホームページを開いて“視聴者からの質問・要望”という欄(目立つところにはなくて、あまり重視していないことが分かる)を探し出し、所定の書式で次のような小文を作ってメール送付した。字数が400字と制限があったので、具体的な内容には踏み込めなかった。
−私は会社を退職してから自宅でテレビを見る機会が多く、特にNHKの諸番組には啓蒙される点が多く、日頃から楽しませてもらっております。ところで海老沢会長の辞任を契機にNHKは開かれたメデイアとして視聴者の声を従来以上に耳を傾け、またそれに応えてもらえることを期待しています。NHKホームページにもそれに対応した欄を設けて積極的に要望を取り込むことはできないでしょうか。そうなれば私も何点か具体的な要望を申し上げたいのですが。―
メールの受信表示は出たが、その後何も返事がない。この種の申し出が簡単に受け入れられると思うのは甘いことはよく分かっているが、どうもN.H.K.の官僚体質はトップの交代ぐらいでは解消しない根の深いものになっているようだ。
この際何を申し入れようと思ったかを開陳する。
○N.H.K.1チャンネル放送と衛星放送では原則として別内容を放送してもらいたい。定時のニュース報道ぐらいはよいが、国会の報道を1チャンネルでとりあげるのであれば、衛星放送が同時刻に同じ内容を流す意味はない。国会の討論の中には勿論傾聴に値するスピーチもあるが、相手の揚げ足取りや自己の売名が見え見えで嫌気がさすことも少なくない。そういう時にチャンネルを変えても同じ内容では逃げ場がない。大体国会中継となれば日本人たるもの視聴するのが当然と言わんばかりの報道の仕方が気に入らない。大相撲は衛星放送では午後1時から早々と幕下の取り組みを放送する。これはよいのだが国会中継が始まると.1チャンネルだけでなく、この番組までも潰してしまう。国会中継という大義名分を傘に別番組作成の苦労を少しでも省こうという下心があるのではないか。
○地震台風などの際に通常の番組を一切キャンセルしてしまって、その情報だけ丸一日流すことがある。恐らくN.H.K.の誰か偉い人が“通常番組の放映中止!災害報道に切り替えろ“と号令を発するのだろう。近海地震に伴う津波の警報などは分秒を争う。ところがN.H.K.の津波警報など大方は間が抜けていて、明らかに過去の何時ごろどこそこで津波により数十センチ潮位が上がった類の報道と海岸に近づかないようにという注意を海岸のさざ波が打ち寄せる風景とともに厭というほど繰り返す。こんな時に担当のアナウンサーは恐らく馬鹿らしいことを承知で、しかし上の指令には逆らえないからやむを得ずこういう番組を続けているのだろう。阪神大震災級の災害ならとにかく、通常の災害なら画面を仕切ってその一部で災害報道を続けるなどの機転が必要だ。私はこういう時はさっさと民放にチャンネルを換えてしまう。民放はそういう機転が利くから何事もない風情で通常番組をやっている。それが公共放送の使命というのなら、せめて衛星放送にまで同じ報道を流す無神経だけはしないでほしい。
○デイジタル放送の宣伝が過剰である。精細な画像が見たい人は多少高価でも受像機を早速購入すればいい。また公共の場でそのような大画面があれば便利ということはあるだろう。しかし万人にそのような画素数の多い画面が求められているわけではない。依然として情報をラジオで聴取している人もいるのに、画像だって今までのアナログ放送の画面画素数で十分と思っている人も少なくないはずだ。よく知らないが何年か経つとテレビ放送が全部デイジタルに切り替わってしまい、そういう受像機を新たに購入しないとテレビが見られないようになるとすれば、それは行き過ぎというものだ。民放だって多額の設備投資を強いられて迷惑していることだろう。総務省とN.H.K.がつるんでテレビのデイジタル化を選択できない形で推進しているのを苦々しく思っている。
○森口博子が司会して毎週土曜の夕方に流していた“こどものど自慢”という番組が昨年後半に中止されてしまった。番組が悪徳プロデューサーの餌食になったという説があるが、純真なこどもが多く登場するこの番組に好意をもっていたし、時代遅れになりがちな年寄りにとって新しい歌を覚える(中々覚えられないが)機会を与えてくれた。森口の特異のキャラクターに依存していたこともあるが、何とか復活できないものか。
○臨時ニュースを流す時に画面の上方に2〜3桁の白文字を表示するが、この部分の元の画面が空など白っぽい色だととても見にくい。文字表示区域だけ暗い色の均一な背景にして一目で判る表示にしたら、表示時間も短くて済む。
<堀田善衛> 名を聞いたことはあるが、詳しくは存じあげない人だったが、アニメ映画監督の宮崎 駿の次のような紹介のことばに魅かれた。“堀田さんは海原に屹立している巌のような方だった。潮に流されて、自分の位置が判らなくなった時、ぼくは何度も堀田さんにたすけられた。”と。今回読んだのは“時代と人間”(堀田善衛・徳間書店)。
著者は序文で西欧と日本がその中世において一見無関係なようでいて人類に共通な思想をもっており、また現在を考えるのに過去の歴史観が必要なことを痛感すると言っている。その意味で著者は歴史の中に生きた人間として次の5人を採りあげる。鴨長明、藤原定家、中世の法王(ボニファテイウス8世)、思想家モンテーニュ、スペインの画家ゴヤ。それぞれの人はその時代において特異ではあったが、もし現代に生きていれば、我々とそう大きな差異はあっただろうかと著者は言いたい。彼らを囲んだ時代と環境が彼らをそうさせたのだと。
鴨長明 “方丈記”を遺した。この中には“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまる例しなし。”という有名な文言だけではなく、 京都の大火の描写がある。“吹き迷う風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるがごとく(火炎が)末広になりぬ。遠き家は煙に咽び、近きあたりはひたすら焔を地に吹き付けたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして、一二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。” 著者はこの表現を実にリアリステイックと絶賛し、東京大空襲の自己の経験と重ね合わせる。次は “築地のつら、道のほとりに、飢え死ぬるもののたぐひ、数も不知。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。”と惨憺たる大飢饉の描写がある。次いで“また同じころかとよ、おびただしく大地震ふること侍りき。そのさま、よのつねならず、山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全しからず、或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家のやぶるる音、雷にことならず、家のうちにをれば、忽ちひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にもならむ。”と大地震の的確な描写をしている。抜きん出た文学者だった。
鴨長明は賀茂御祖神社の次男に生まれたが、同族の横ヤリで神官になることができない。とても才能のある男だったが、家元制度があって、和歌でも音曲でも身を立てられない。差図(建築物の設計)もできた。一流の観察力・批評力も役に立たず、五十歳になる後鳥羽院の慰留にも拘らず和歌所の寄人もやめ、妻子も財産もないままに隠遁してしまう。日野山の奥に移ったが、住む家は父方の祖母の家の十分の一のそのまた十分の一でわずかに方丈(四畳半)、高さは七尺、組み立て式で牛車二つに積んであちこちを引き歩いた。冬などさぞ寒かっただろうと著者は述べている、乞食に近かった。“方丈記”は五十八歳で書き始める。遂に“夫(それ)、三界(欲界・色界・無色界)は只心ひとつなり”と宣言してしまう。長明は何もかも捨て、心一つになってしまったというのである。凄い心境だ。
藤原定家 “明月記”を書いた鴨長明と同時代の歌人である。“明月記”は日記であって読みにくい漢文で書いてある。その中に“仏法王法滅尽”と無政府状態を嘆いている。そんな中で定家の仕える後鳥羽院は遊戯人となり、定家に新古今集の編集をさせる。一方で“紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ”という文言がある。紅旗というのは朝廷の旗で、これを掲げて戎(平家)を討つ、そんなことは俺の知ったことかーというもので、当時十九歳の定家が明言している。著者は昭和の戦時中になかった言論の自由がこの時代にあったと驚いている。また定家と友人の寂蓮の息子が鎌倉から来ていた武士の奥さんと仲良くなり、それを知った武士が二人を斬り殺したと記されている。しかし親である寂蓮の地位に変わりはない。この時代にも個人主義は成立していたー歴史というものは進歩していくものではないのだと著者は強調する。
法王ボニファテイウス8世 中世ヨーロッパでキリスト教が全盛になり、神の下の人間に国籍の区別などあろうはずがないと人々は考えていた。清貧に徹した前法王を追い落として世俗性の強いボニファテイウスが法王になると法王庁をローマに移した。免罪符を発行して大々的に金を集め、土地を求め、軍隊も持った。精神界の帝王は世俗の大帝王にもなった。この頃はフィレンツエ、ベネツイアなどの都市国家が育っていたが、それらが“人民は法のもとに平等である”と共和制を唱えだした。これを法王は弾圧し、各国(都市国家)の皇帝たちが抵抗すると、法王は破門するぞと脅迫した。この抗争が次第に熾烈になり、ヨーロッパに国家が生まれ、国権と教権の分離が主張されるようになった。今度は国家どうしの戦争が続いた。著者は今EUによって再び国家の統合に帰り着きつつあるという。歴史は人類の記憶を辿って後戻りする。
ミシェール・ド・モンテーニュ フランス・ルネッサンスと宗教戦争の時代を生きた思想家。日本ではあまり知られていない。コロンブスが新大陸を発見した時に世の中にキリスト教以外の世界があることを知ってとても驚いたといわれる。モンテーニュは自由な思想をもつ商人の家に生まれ、ラテン語の教育を受ける。13年間裁判官をやるが一度も昇進しないまま田舎へ引っ込む。宗教戦争(カトリックとプロテスタント)の世にこの人のテーマは“哲学とはいかに死ぬべきか学ぶこと”で、キリスト前のギリシャ・ローマ時代の古典を大いに引用し随想録を書いて暮らした。1572年8月にパリで起こった聖バルテルミーの大虐殺では10万人ものプロテスタントが殺害された。この内乱を解決するには“自由と寛容の精神”が必要なのに、当時はそういう考え方がなかった。
モンテーニュにはキリスト教の教義論がなく、キリストの原罪観が全くない。彼は“人生というものは右とも左とも決めかねるところにその実態があるのではないか”と考えつく。彼は“技術が、我々の偉大で力強い母なる自然よりも名誉を得ているのは、不自然である。我々は自然の作物の美しさと豊かさの上に、あまりに多くの作為を加えすぎて、これをすっかり窒息させてしまったのだ。けれども自然はその純粋さの輝くあらゆるところで、我々の無益にして軽はずみな試みに赤恥をかかせている。そして我々(人間)はちっぽけな小鳥の巣の構造やクモの巣さえも構造を想像することができないではないか”と言っている。彼の思想は理性・運命・自然の三要素が基調になっていると著者は言う。
ゴヤ 1746年スペインの荒涼たる中央高原の村にゴヤは生まれた。貴族社会に潜り込もうとして宮廷画家になるが、やがてスペインはナポレオンの軍隊に蹂躙されてしまう。これに対してスペインの民衆がゲリラ戦を挑むさまを、ゴヤは一方の側に立たず、フェアな立場から画いた。彼は観察したものを“戦争の惨禍”と題する版画集にまとめた。凄惨な作品群である。正視できないような状景を銅版画に残す。強い精神力だ。芸術家は政治に蹂躙される運命にもてあそばれる。75歳ぐらいから別荘に引きこもって“黒い絵”というものを画きだす。“我が子をくらうサトウルヌス”などである。夢魔のように人の世の愚劣蒙昧さを感じている。そして80歳になって“ボルドーのミルク売り娘”という非常に美しい絵を画いた。
堀田善衛の取り上げた5人を追った私は簡単には彼らの中に共通項を見出せず、実のところ少々当惑した。堀田の著書の終に“歴史曼荼羅”という項があって、“私の歴史観は歴史というものを進行形では考えないのである”と書いている。またー現在という時間をバッサリと電線を切断するように切ってみたとすれば、すべてが20世紀の現在にあることは間違いのないことであるが、その時間の実態はある地域(国とは言わない)は現在も13世紀のような戦国時代にあるかもしれないし、戦国時代にある地域は現在も生きているかもしれない。しかしそれを“後れている”と取ってはいけない。人間の存在は、例えば曼荼羅の図絵の如く、未来をも含む歴史によって包み込まれていると思う。“歴史は繰り返さず、人これを繰り返す”と付け加えたい。−とある。何やら分かった気がしてきた。

<胎児の世界> “記憶”というのは普通物心ついた以後に蓄積されたものだが、ここでは臍の緒の切れる以前から具わったもの(それを“生命記憶”とよぶことにするが)を取り上げる。こう語るのは表題の本(中公新書)の著者で医学博士の三木成夫である。著者自身の経験としては、たまたま立ち寄ったデパートの果物売り場で買い求めた椰子の実に苦労してキリで穴を開け、中の液体を吸った時に覚えた懐かしい味で思わず“俺の祖先はポリネシアか!”と叫んだ。折口信夫は“妣(はは)が国へ・常世へ”という論文で、−十年前に熊野を旅して、光充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立った時、遥かな波路の果てにわが魂のふるさとのある気がしてならなかった。これは嘗て祖々の胸を煽り立てた懐郷心が間歇遺伝として現れたものではなかろうかーと記した。著者のもう一つの体験は東京国立博物館で開かれた“正倉院の御物展”を参観した時のもので、陳列ケースに並んだどの品々も西域の地から胡人によって遠路はるばるもたらされた異境のものという感覚がなく、身内のものでその一つ一つに父祖伝来の手の脂がしみこんでいる気がしたという。
“血の繋がり”ということばがある。椰子の実の液体と陳列ケースの品々を身内のものと直感する機能は生命記憶の回想の大脳生理学ではないかという。前者は柳田国男が“海上の道”と呼び、後者はリヒトホーフェンが“絹の道”と呼んだ経路で日本にもたらされた。著者は背にユーラシア大陸を負い、腹に太平洋を抱えた日本列島を歴史地図として眺める時、“北方”の大陸塊と“南方”の海洋域にそれぞれ胎盤地帯をもち、その双方から伸びた大小各種の臍の緒が列島の腹背両面に付着する図柄と見做す。また“補陀落渡海”(2004年7月<紀伊山地霊場>参照)や近年盛んになりつつある“シルクロードの遡行”は民族のルーツを辿らんとする“里帰り”本能に基づくものではないかという。丁度サケが命を賭けて生まれ故郷の河の源流を目指すように。
ひとは母胎の中で10月10日の間羊水に漬かって過ごす。この液体は胎児である私たちの口の中はもちろん、鼻、耳、胃腸、肺などすべての孔に入り込み、胎児は来る日も来る日も羊水を飲み続ける。血液のガス交換は臍の緒を介してなされるので、肺呼吸は必要ない。胎児は羊水に浮かんでいる。この羊水の組成は太古の海水の組成に酷似している。これは我々の祖先が海の中に棲んでいた何よりの証拠である。昔、脊椎動物の一部は海から上陸するが、今でも子宮の中に羊水即ち古代の海を満々とたたえている。
著者は“個体発生は系統発生を繰り返す”というヘッケルの基本原理を実証するために根気よく標本造りを続けた。人間の胎児も動物の胎児も発生の仕方が不思議なくらいよく似ている。刻々と発生を続ける動物の胎児の血管に墨汁を注入して血管網を墨で浮き立たせる標本を成長の時期ごとに作る。専門的になるが、鶏胚で確かめたところによると、脾臓は腸管の尾根に造血巣として発生し、胃静脈を取り込むがやがて肝臓に至る新しい静脈を生み落とし、脾臓は腸管から離れて独立器官になる。この過程は受精後4日目から5日目にかけて完了し、120時間後には海洋から上陸を達成するという(脾臓の独立と鶏胚の上陸の因果関係は私にはよく分からない)。5本の鰓の血管が前から1本、2本と消え、残った3本の一番後ろからまるで蔓のように肺の血管が1本伸びていき、網の目を作って大きく心房へ流れ込む。肺静脈だ。肺静脈が鰓の血管がまだはっきり残っているうちに姿を見せるのは、鰓呼吸と肺呼吸が共存していた時期があった何よりの証拠だろう。古生代のデボン紀に脊椎動物の祖先が上陸と降海の間で1億年の歳月を過ごしたことに相当する。鰓はこうして次第に消えていき、頸の付け根に残されたその裂け目も5日目の終わりには耳の穴を残してすべて閉ざされる。上陸の完了である。
次いで著者はこころに葛藤を覚えながら、人の胎児の標本を集め始める。32日の標本の顔面を正面から見た著者は思わず“フカだ!”と叫んだという。36日の顔を見ると爬虫類(古代爬虫類ハッテリア)の顔がそこにあった。38日の顔はもうけだもの(哺乳類)の顔になっていた。胎児は受胎後指折り数えて30日を過ぎてから僅か1週間で、あの脊椎動物の上陸誌を夢のごとく再現する。32日目まだ体長はアズキ粒大だが、両側部に鰓裂が鮮やかで、“俺たちの祖先はこの通り鰓をもった魚だったのだ”と訴えようとしているかのようだ。眼は側部にある。36日目体長は13 mmで真横に開いていた双の瞳は前方に向き始め、鼻孔の二つのドーナッツは孔が押し潰れながら中央に寄ってくる。38日目鼻は一つにまとまり下顎は発達し口角の下の鰓孔は次第に耳たぶに近づく。手の指の分化が進む。40日目爬虫類と哺乳類にヒトの面影が加わった顔になり、体長20mmで瞳は開き完全に正面を向く。口蓋破裂状態だが前頭葉は大きく発達している。60日目体長は45 mmで巨大な大脳半球。柔らかな羊膜に包まれ手足が伸び、瞼ができ目は閉じて眠りに入っている。
著者は“私どもが奇形といわれているものの奥に古代の形象が隠されている”と指摘する。短い生命を終えた幼児たちの奇形心には肺静脈のないものが多く含まれている。普通肺静脈は心臓の左心房に流れ込む。肺でガス交換を済ませた動脈血がここを通ってその部位へ還流するのだが、心臓に異常を持つ赤ん坊の肺静脈を調べると、その多くが心臓からかけ離れた、あちこちの静脈へ流入地点を求めていることを知る。さまざまな肺静脈の異常流入箇所が何種かの魚の不完全な肺静脈と同じであるという。著者はこれを古生代末の“上陸と降海の行きつ戻りつのドラマ”の余韻であろうという。
昭和の奇筆夢野久作は古生代の1億年を数日で復習する胎児の世界を“盧生が夢の五十年、実は粟飯一炊の間”の夢枕の世界に例える。一個の卵細胞が地球の海に繰り広げた“生物進化”の大ドラマを誰の指図も受けず、おのれひとりの脚色・演出によって一つの象徴劇に仕立て上げ、それを卵細胞自身がからだを張って演じてみせる。“何が胎児をそうさせたか” 夢野久作のこの問いかけに答えるのは卵細胞の地球誌的な生命記憶を措いてほかにない。彼は結論する。“卵細胞はすべてを知っている”と。この記憶は細胞分裂によって増えていく一つ一つの細胞に完璧な形で伝授され、ついには60兆といわれる全身の細胞にあまねく行き渡るのである。如何なる偉人、賢人といえどもその能力はこの一個の卵細胞の能力には遠く、足元にも及ばない。
胎児は母親のお腹の中で絶え間なく響く母親の血潮のざわめきー子宮の壁をザーザーと打つ大動脈の拍動音、小川のせせらぎのような大静脈の摩擦音、かなたに鳴り響く心臓の鼓動―を聴いている。人類は永らく海辺の波の砕ける音を聞き続けてきた。砂浜に聞く潮騒の音は遠い昔の子守唄の再現であり、母胎の音はその再現である。この摶動は従って“大いなる母”のこころそのものとなる。こころは大宇宙のリズムと共鳴する。

<地震対策その2> 2002年9月に東海地震の“官製”地震対策の間抜けなさまを指摘したが、昨秋の新潟中越地震で思いがけない地震被害がこのほど明らかになった。十日町博物館に展示されていた国宝の“火焔型土器”が地震で転倒し破損してしまった。破損の状況は相当深刻なようで、深鉢型土器57点の内20点に被害が出たという。文化庁では面目にかけても高い修復技術で復元すると言っているが、修復された物は純正の古代の作品ではないから、最早まがいもののそしりを避けられない。
文化財の地震対策は阪神大震災以後取り上げられるようになったが、まだ10年の歴史しかない。これらの土器は阪神大震災に学び、免震台に載せてあったという。免震台は機構上水平振動にはある程度対応するが、垂直方向の振動に対応するようにはなっていなかった。N.H.K.が台の免震効果をテレビで実演していたが、垂直振動にはもちろんのこと、水平振動も通常の台よりは効果が認められるものの、背の高い容器から順に台の縁まで移動していき、倒れていった。これでさえも地震とは全く波形の異なる正弦振動実験なので、マヤカシである。実際の地震は一定周波数の規則的な振動ではないのだから、どんなアルゴリズムで台を制御しても、転倒の確率を1/2に抑える程度で、所詮は気慰めの域を出ない。

<ロシアの苦難> 私も多くの日本人同様にロシアという国についてよく知らない。近世における日本との関わりによってある程度知ってはいるが、それは相手の国をよく知っていることにはならない。早くから先進国の一つに列してはいるし、ソ連という鉄の規律をもった共産主義体制から脱した現在だが、依然として親近感がもてないし、その国内事情は詳しく報道されていないものの、今ひとつうまくいっていないように感じられる。
こんな私の目を開かせてくれたのが日ロ問題の専門家として知られる袴田茂樹の評論“現代ロシアを読み解く”(ちくま新書)だった。氏はその著書で結論から先に述べている。即ちー欧州でも日本でも、ローマ帝国や奈良朝の古代国家が崩壊した後、何百年かの封建時代を経て近代的な産業社会に移行した。実はこの封建時代に、近代市民社会や市場経済の成立にとって重要なエトス(ギリシャ語:人間の持続的な性格・民族や社会的な集団にゆきわたっている道徳的な慣習や雰囲気)あるいは文化が形成されている。それは信義とか信頼、約束や契約を重んじる文化であり、上からの統制や専制体制がなくても自律的な秩序を社会の中に形成するメンタリテイである。帝政とか絶対主義あるいは専制体制は経験していても、厳密な意味での封建時代を経験していないロシア社会は、ソ連邦から一足飛びに現代の文明国に移行しようとして、この基本的な文化要素の欠落のために近代化や市場経済の形成が難しく、大きな困難にぶつかっているーと。
日露戦争の捕虜となって日本内地に送られたロシア人将校は日本の文化や生活にふれて強烈なカルチャーショックを味わったという。日本人の最下級の兵卒でも読み書きや四則演算ができ、地図も読めた。日本のどこへ行っても田畑は整然と整備され、灌漑されている。家は小さいが同じ型でキチンと並んでいる。病院へ行くとその清潔さ、看護婦たちの仕事の見事さに感嘆した。日本人は20世紀の人間で、我々ロシア人は18世紀の人間なのだと嘆息した。
ロシア人は本質的に厳格な法や規則といったものは彼らの自由を拘束し、いやな労働に彼らを駆り立てるための支配者の策略だと思っている。従って彼らは自己の利己的な利益のために、可能なところでは何処でも法とか規則などといったものはごまかし要領よく潜り抜けて生きるのが当然の生活の知恵と心得ている。従って律儀に法や規則を守るのは要領の悪いバカということになる。この意味で彼らは本質的に無政府主義者なのだ。しかし自分たちの自由奔放な無政府主義の結果であるカオスと無秩序にもウンザリし、逆に上からの統制を求めるのである。卑近な例を挙げると、レストランの駐車場が混み合っていると日本ならマイカーの運転者は整然と列を作って順番を待つが、ロシアでは整理する警官がいなければ我先に入ろうとして怒鳴りあい混乱するばかりになる。
1906年ツアーリ体制を維持したままの立憲君主制で憲法が発布された。第1次大戦中の1917年にロシア革命が起き、ロマノフ王朝は崩壊した。権力の空白状態が生じて想像を絶する無秩序と荒廃に陥った。秩序をもたらす唯一の政党としてレーニンの率いる共産党が支配権を握った。1921年新経済政策(ネップ)が導入され、農民に現物徴収を課した。1924年にレーニンが死去した後、1927年にスターリンが実権を掌握した。ネップによる穀物の徴収が困難になったために、スターリンは“上からの革命”として農業集団化を実施して勤勉な自営農や中産階級を徹底的に弾圧・抹殺した。集団農場に追い込まれた農民は土地に縛り付けられた農奴になり、強権の下ウクライナなどで多数の餓死者が出た。資本家による搾取のない共産主義の下では人々は自発的によく働くはずだったが、実際には皆怠けに怠けた。よって農場でも工場でも厳罰主義とノルマ制が軍隊式に採用された。やがてソ連体制を支えたノルマ制は上から下まで騙しあいと馴れあいのシステムになった。
“国家と革命”を書いた当時のレーニンは理想主義に傾いていたが、権力を掌握してからは徹底した現実主義に回帰し、人民もその自発性も信用しなかった。スターリンは更にそれを徹底して、大衆も党員も全く信用せず、国家権力の否定ではなくそれを美化し絶対化した。著者はスターリン時代の粛清やテロといった残虐性だけでなく、非人間的で反文明的な体制に強い嫌悪感を抱いているが、当時ソ連が先進国に伍して工業化や近代化を成し遂げようとするならば、何らかの権威主義体制は避けられなかっただろうと言う。ロシアには信頼関係をベースとする市民社会的な秩序は存在しなかった。ロシアには日本よりずっと多くの西欧型知識人が存在したが、その多くはソ連時代に弾圧・粛清された。これはロシア土着のメンタリテイによる反西欧革命、反知識人革命であった。一方ドイツの侵攻を受けて“大祖国戦争”に追い込まれたお陰で、国民は共産党の下で運命共同体としての一体感を感じた。米英など連合国の一員として最後には勝利し、泥臭いナショナリズムの下でロシア国民の多くは素朴にスターリン体制を支持した。
1953年スターリンの死去の後を受けたフルシチョフはスターリンを批判してイデオロギー統制を緩め“雪解け政策”を実施した。1964年から18年のブレジネフ時代にはスターリニズムが復活し、保守的で硬直した官僚主義体制で後に“停滞の時代”と呼ばれるようになった。ところが今、中年以上の人たちの大半はこれまでで最もよかった時代としてブレジネフ時代を挙げる。この時代になって初めて平穏で安定した個人生活を経験したからであり、決して豊かではなかったが明日の生活を心配する必要がなかったからだ。しかしこの時代にも信頼関係に基づく自律的な秩序はソ連には存在しなかった。国民の中の相互不信はあまねく行き渡っていた。
ゴルバチョフ時代(1985-1991)と続くエリツイン時代(1991-1999)は知識人たちの反撃の時代だった。ゴルバチョフと改革派知識人たちは不信よりも信頼をベースにした自由な市民社会をすぐにでも構築できると楽天的に信じ、“ペレストロイカ(改革)”を唱えた。”グラスノスチ(情報公開)“の政策により、知識人たちは公然と共産党批判、スターリン主義批判を展開した。1991年8月保守派共産主義者によるクーデター未遂事件を契機にソ連共産党は崩壊し、社会主義体制の枠内で改革を進めようとしたゴルバチョフに代わって、社会主義そのものを否定したエリツインが国民の圧倒的な支持を受け、74年続いたソ連邦は崩壊した。表面的に知識人と民衆の間にハネムーンが生まれたが、実は両者は同床異夢だった。一般民衆は共産党官僚の特権さえなくなれば自分たちはすぐにも豊かになれると信じたが、やがて彼らの期待は裏切られ、エリツインの民主化・市場化政策に失望するようになる。
1999年12月31日正午、任期まで6ヶ月をエリツインは以下の悲痛な演説を行なって辞任した。「私は皆さんに許しを乞いたい。我々が皆さんとともに抱いた多くの夢が実現しなかったからである。我々が簡単だと思ったことが実はたいへん困難だったからである。灰色の全体主義の過去から、明るく豊かで文明的な未来へ一気に飛び移ることができると信じた人々の希望のいくつかは実現しなかった。私自身がそれを信じていたのだが、問題はあまりにも複雑であった。我々は誤りや失敗を犯してきた。」と。著者はこの率直な言葉にロシアにおける改革問題の本質が秘められているという。
ソ連邦が崩壊した後にロシアはどうなったか。エリツイン改革の結果ロシアに生まれたのは文明的な資本主義でもなければ欧米的な民主主義体制でもなかった。経済も欧米や日本のような市場経済とはほど遠かった。穏健改革派の指導者グリゴリー・ヤブリンスキーは“今日のロシアの基本的な問題は権力と企業家や国民の縦の関係においても、また国民と企業あるいは企業間という横の関係においても、基本的に騙し合いの不信関係が支配しているところにある”と指摘する。多くのロシア国民は1,990年台の自由を放縦と勘違いし、古い規範が破壊された後必要な新しい規範がまだ生まれない中で、無法と犯罪的な生活態度が一般化してしまった。こうしてロシアは新たな“中世社会”に落ち込んでしまった。
現代のロシアには確固とした普遍的なルール、法秩序や憲法が欠如している。これを補うべく”クルイシャ“と呼ばれる警備保障組織が生まれている。このような非合法の暴力団まがいの組織が現在のプーチン政権を混乱の拡大から支えている。プーチンはロシア的な伝統と普遍主義的な価値あるいはグローバリズムを組み合わせた戦略で新しい秩序を確立しようとしているが、混乱の真の原因を克服するには至っておらず、道は遠いと著者は指摘する。プーチンは”法の独裁“を唱えて”国家が強力なほど個人は自由である“と説得して15年の混迷を収拾しようとしているが、自己規制の感覚や社会的な秩序感覚で日本人とロシア人は対極にあり、むしろロシア人は旧ソ連時代よりも奔放になったとさえ言われる中で、改革の困難は容易に軽減しないようだ。

<学校襲撃> 何とも昔は考えもしなかったことが続発している。学校の児童を、近頃は教師まで若い男が襲撃する。大抵は刃物をもって。当初は広い日本の中には頭のおかしいのもたまには現れるが、殊更騒ぎ立てるほどのこともあるまい、ネタを探しているマスコミが大袈裟に取り上げているのだと思っていた。しかし神戸池田小学校を宅間守が襲撃した頃から、影響を受けて俺もやってみようという模倣犯のバカがあちこちに現れ始めた。通学中の児童に暴行を加えたり誘拐する事件も急に増え始めた。こうなると文部科学省も放置してはおけず、全国に通達を出して学校への不法侵入者の対策を講じさせ、地域に働きかけて登下校時の児童の保護を依頼し始めた。そうなると非常ベルや監視カメラなど直接の設備費用の他に、関係者の人件費や保護者たちの手間もバカにならない。昨今では警察に開校中の学校への常駐まで求めるようになった。
昔はなかったこういう犯罪が頻発して、それに対する備えを怠ったりすれば怠る方が悪いというような風潮になってきたのは何故だろうか。数は少ないにしてもこのような非条理な犯罪を敢えてやってしまう若者(その多くが未成年者)はどうして発生するのか。世代の隔絶ということがある。時代が自分の若い頃とは変わって、今の若者には深刻な閉塞感があるのだろう。多くの企業は激しい競争の中で利益確保のために人件費を節減し、望むような環境で働くことが困難な将来が見えている。それにしても男が弱者をいじめるのは卑怯という社会常識があった。そういう見下げた行為を心に抵抗もなく実行に及ぶとはどういうことか。行為の後で待っている社会の制裁を予想もしなかったのか。そして自分の心が晴れると思うのか。結果に対してロクに想像力も働かないのか。成長して体力は増大するが、精神活動がそれに追随できず統御できない。何のための学校教育か。
教育の欠陥が指摘されて久しい。私は日頃迂遠なので、インターネットで道徳教育の現状を覗いてみた。文部省小学校学習指導要領(平成10年12月告示)というのがあり、“第3章道徳”の項に(1、2年)、(3、4年)、(5、6年)と分けてそれぞれ1自分、2他人、3自然や崇高なもの、4集団・社会 の各項目についての心がけが箇条書きに記してある。文部省中学校学習指導要領(平成10年12月告示)というのもあり、こちらは学年による区別はなく、1〜4の項目分けは小学校と同じである。通達だからある程度無味乾燥になるのはやむを得ないかもしれないが、こんな形式的なお仕着せ教育を真面目に誰が聴くものかと反発したくなる。教育の情熱も工夫も感じられない。
中学校の教師の次のような述懐が載っていた「“道徳教育”は子供たちが心待ちにしている授業とはほど遠いと告白せざるを得ない。落語の師匠が弟子の腕をあげるような教育を(教師にも)何とかしてもらえないだろうか」と。確かに世間の常識を語り聴かせるには落語がよいかもしれない。或いは反面教師的な内容をマンガにするのも一法だ。“道徳”は現状では正式の教科にはなっておらず、教科書もないらしい。よほど優れた教師でないとあの指導要領を子供の心にしみこむように説いて聞かせるのは難しいだろう。昔は“修身”という教科書があったが、作るのなら無味乾燥な内容にはしないでほしい。教師自身が身をもって示すような実地教育ができないか。
前項でロシアは封建時代を経験しなかったために日本と異なって自己規制の感覚や社会的な秩序感覚が欠けているという問題があると指摘したが、その日本でも折角の封建時代の貴重な民族経験が若い人々に十分には伝わっていないのではないだろうか。それは戦後の米国追随・グローバリゼーションの風潮あるいは日教組の影響のせいだろうか。もしそうならロシア人を嗤うなど論外である。うかうかしていて、日本民族は退化を始めたのかもしれない。今日も小学校の教室に不法侵入者が入り込み、女教師が生徒を引率して大騒ぎで退避する訓練をテレビで上映していたが、困ったことだ。