
<明治憲法> 昨今憲法を改正しようという動きが盛んになりつつある。どのように改正すべきかこれからの議論によるのだが、それに先んじて明治維新をリードした先人たちがどのような経過を辿って日本で初めての憲法および関連諸制度を創りあげたか、知っておくことは無駄にはならないだろう。今回の教材は“文明史の中の明治憲法”(瀧井一博・講談社選書メチエ)だが、参考に司馬遼太郎の“この国のかたち”を随時読み直している。
明治4年11月12日横浜港を岩倉遣外使節団が欧米諸国を歴訪する旅に出発した。渡航の目的は条約改正にあり、その事由書には「従前ノ条約ヲ改正セントセバ、列国公法ニ拠ラザルベカラズ。我ガ国律民律貿易律刑法律税法律等公法ト反スルモノ之ヲ変革改正セサルヘカラズ。」と書かれてあった。その改革のための方法処置の考案、それが使節の目的であった。欧米諸国が日本に望むことを彼らに先んじてこちらから向こうに問いかけ、率先して彼らの意向に沿うかたちで改革を進める意志を告げる。そうすれば建設的に議論は進展し、こちらの期待する改革のノーハウも伝授されるであろうし、また今のままでは明らかに準備不足の条約改正交渉の延期も受け入れられるであろうと楽天的に考え、且つその旨列国政府宛の天皇の国書にも明記してあった。
嘗ての中国を中心とする“華夷秩序”に慣れていた日本が西洋列強主導の国際政治の舞台に突然放り出され、自分たちを庇護してくれる新たな徳の存在を信じて、無邪気にそれを“万国公法”に頼ったのである。従って当時の日本の課題はこの“万国公法”が要請する徳に如何に自身を同化させるかにあった。使節団は大使岩倉具視と4名の副使大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、木戸孝允であった。4名の副使は最初から洋装だったのに対して、大使岩倉は和装で通していたが米国到着後断髪洋装に鞍替えしてしまった。なお団員数は46名、留学生まで含めれば100名に達した。
当初の一行の目的は条約改正期限の延長という消極的なものだったが、各地での歓迎に気をよくして米国の好意を過信し、一気に不平等条約の改正ができると考えた。全権委任状の不備を指摘されて大久保と伊藤は委任状を取りに急遽帰国した。その間に好意を装いながら自国に有利な条約締結を狙う米国の意図が察せられるようになり、米国と先んじて条約を結べば片務的最恵国条項の適用という陥穽に陥ることを知った岩倉は伊藤らの再渡米当日に条約改正交渉の中止を決した。危うく列国帝国主義の餌食になる危機を脱した感を強くした木戸孝允は伊藤を軽佻浮薄な急進的開化論者として決定的に距離を取るようになる。
使節団の随行者として久米邦武が“米欧回覧実記”という実況報告書を残している。西欧政治思想の二大特質として、ひとつは法理(社会規範)と道理(道徳)の分離であり、もうひとつは個人の自主(自律)であるとする。西欧人の誇る自律人の支柱とは“私利の追求”であって、西欧の政治文化は利益を巡る競争とそれに奉仕する政治の姿があり、政治を徳の最高の顕現とみなす東洋の王道思想と対極をなすと記している。東洋の政治が為政者の徳によって養われる“羊のための文明”であるならば、西洋の文明は利益競争という熾烈な争いの場で繰りひろげられる“狼の文明”と断じた。一行は文明の慇懃さの裏に隠されている狡猾さを痛感した。そういう中であるべき国制のヴィジョンを掴みつつあった。ひとつはナショナリズムの制度化(国民統合の基軸として憲法を定める)であり、いまひとつは“漸進”である。特に西欧の国家発展法則は伝統との断絶にはなく、継承によって成立しており「漸ヲ以テ進ム」べきことを看破した。
木戸は長い旅の間に各国の国制調査を実施した。列国での憲法調査を通じて国ごとに文化や国民性が異なり、国家のあり方も決して一様ではない、従って開化の目標やそこに至る道のりもその国に応じた独自のものであるべきはずとの認識を得た。木戸は使節団一行に先駆けて帰朝し、憲法制定に関する建言書を提出して憲法制定を最優先の国家課題とした。また留守中に台頭していた西郷らの征韓論に対しては内治優先主義の立場から強く反対した。
大久保は伊藤に乗せられて国益をないがしろにする燥狂に加担してしまった後悔もあって、自らを「木偶人ニ等シ」と慨嘆して憂鬱の日々を送っていたが、帰朝の直前にドイツでビスマルクに会って唯一の美果を得た。ビスマルクは文明と万国公法の本質は勢力の競争と均衡に他ならないと喝破し、英仏の如く海外に侵攻して植民地を築いているのとは異なり、小国がその渦中で独立を保つには赤裸々なパワーに頼る以外に道はないと諭し、国権自主を重んずるゲルマンの如きは日本の最も親睦なる国でモデルになる国であるとした。帰朝後の大久保も憲法の制定を国の急務とした。このようにして使節団の国家指導の方針は“万国公法から憲法へ”とパラダイム転換がもたらされた。木戸も大久保も“漸進主義の立憲政治論”を意見書として伊藤に付託する。
その後不平士族の反乱が西南戦争で終結し、大隈重信や井上毅による憲法建言などがあって、藩閥政府は明治23年の国会開設を公に約した。そのような紆余曲折を経て伊藤博文は仕上げのために明治15年3月14日横浜港を発って再渡欧した。伊藤はベルリン大学の憲法学者グナイストに会うが、憲法の成案を得るための有効なアドバイスを得られなかった。この頃ドイツは立憲政治の困難さに直面していたという背景もあった。次いで伊藤はウイーンに入り、ウイーン大学の国家学者ローレンツ・フォン・シュタインに会う。シュタインは伊藤への講義の中で国家構成の三要素として君主、立法部、行政部を挙げ、君主専制の害、従って“君臨すれども統治せず”の必要性ならびに民主主義の過激化の弊(議会の専横)と行政の高い自律性の必要を強調した。伊藤は憲法の制定にとどまらない立憲制度の全体像を把握し、行政の大きい役割を知った。出発当時混迷の中にあった伊藤は全体的な国家構造の一環として憲法を位置づけるという浩やかな展望を抱き得るようになった。伊藤はシュタインの講義を換骨奪胎して、健全な議会制度を支える内外面の条件として内的な支柱としては国民精神の涵養を、また外的には常時の行政システムによる補完と緊急時の立憲君主による救済を考えて、議会政体の実現を図ることにした。
帰国した伊藤を待っていたのは岩倉具視の訃報であり、彼は全権をもって憲法制定作業に君臨することになった。立憲政治を支える行政に不可欠な近代的官僚養成システムとして帝国大学を設立した。また議会と政府が対立した場合の天皇の政治的決定権を支えるための枢密院を開設した。これにより枢密顧問官たちが天皇の政治的突出を抑えながらも天皇の政治活動が制度化された。明治22年2月11日憲法は公布された。併せて皇室典範並びに諸々の憲法付属法(議院法・衆議院議員選挙法・会計法・貴族院令)も公布された。国家の基本法としてはこれらの制定法をワンセットとして捉えなければならない。憲法は統合とシンボルの機能をもち、対外的には文明国参入への意思表示であり、対内的には国民を政治的に活性化させて国家へ統合する役割を果たす。
成立した憲法は欧米の識者からも概ね好意的な評価を受けることができた。それは憲法の完成度のみならず、併せて周到に作成された“憲法義解”によるもので、ドイツ型やイギリス型に偏らない日本の歴史に根ざした日本固有の憲法との評価を得た。従って懸案だった諸外国との不平等条約の改定もその後順調に達成できたのであろう。
このような明治憲法成立の経緯を顧みると、近く行われることが予想される憲法の改正においては単に戦力とか皇室典範がらみの局部的な修正にとどまらず、戦後60年を経た現代日本のもつ多くの宿弊を除去するような諸制度の見直しを含めた規模の大きい改革があって然るべきと思う。そのためには当時の伊藤博文の如く透徹した視点とそれに見合う権限を与えられた人物のリーダーシップが求められる。果たしてそのような形の国民の合意が現代において形成できるだろうか。

<オタク文化> 日曜朝9時からの芸術紹介番組・新日曜美術館で2月27日に“都市を変えるポップカルチャー・オタク”を取り上げた。第9回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展日本館に森川嘉一郎が「おたく:人格=空間=都市」というテーマの展示を行った。その内容はー日本で発生したアニメやマンガなどのオタク文化が東京・秋葉原を“家電の街”から“オタクの街”へと構造と景観を一変させたーというものだ。具体的には“オタクの部屋”のミニチュアを数多くの駒で展示する。これは東京都美術館で2月22日〜3月13日に再現展示される。このテーマは正直に言えば私の感性にはフィットしないし、何をやっていやがると思うのだが、日本の若者の嗜好の一つとしてここまで台頭してきている事実に目をつぶると時代遅れにもなりかねないので、敢えてここに取り上げる(右の絵はアキハバラ商店街というオートバイにまたがる美少女)。
展示の目次は“趣都の誕生―萌える都市アキハバラ” と題して次のような構成になっている。
序章 萌える都市
第1章 オタク街化するアキハバラ
第2章 なぜパソコンマニアはアニメ絵の美少女を好むのか
第3章 なぜ家電はキャラクター商品と交替したのか/“未来”の喪失が生んだ聖地/
第4章 なぜ趣味が都市を変える力をもちつつあるのか/技術の個人化が起こす革命/
第5章 趣都の誕生
元来“オタク”というのは人付き合いの悪い内向的な若者(男)が家に引きこもりがちになっているのを軽蔑的に呼ぶ言葉だったはずである。ところがこの目次を眺めても分かるように、世の中の閉塞状況に応じてその類の人種の人口が増加して開き直りというか、市民権をもちつつあるらしい。彼らは架空のキャラクター(美少女)に淡い恋心をもつ。これを“萌え”と呼ぶ。これは日本古来の“わび”、“さび”にも通ずる感性(私には分からない)だそうで、屈折があり男だけでなく女にもあるという。巨大なコミック・マーケットが形成されていて、更に既成のマンガに飽き足りない人たちが1万を超える同人誌サークルを作っている。

<団塊の世代> いわゆる“団塊の世代”がそろそろ定年期に入ろうとしているということが新たな話題になりはじめた。我々より1桁以上若く戦争を直接体験していない戦後生まれの人たちである。戦争の苦難に耐えた親たちがやっと平和を迎えて次世代を託した人々で、戦前の世代と戦後の世代の双方について理解があるとも言われる。私はこの語句そのものの本来の意味に疎かったので広辞苑で調べると、“1947〜1949年のベビーブーム時代に生まれた世代”とあり、―他世代に比し人数が特に多いところからいう―とある。団地住まいとは直接関係がないようだ。ここではもう少し若い10年ぐらいの人も含めて扱いたいと思う。
目下ライブドアがニッポン放送の株を買い占めて、ニッポン放送の大株主であるフジテレビとニッポン放送の経営権を巡って裁判争いになっている。この両者のいずれを支持するかのアンケート結果を年代別に集計したところ、実に興味のある結果が出た。20代から40代までがほぼ折半であるのに対して50代は65%ほどがライブドアの堀江社長を支持している。60代以上では一変してライブドア派がはっきりと少数派になっているのと対照的である。尤も堀江社長自身は32歳と断然若い。
彼らは東大安田講堂を占拠した安保闘争に共感を覚え、その時期は若い血をたぎらせて戦った世代である。安保条約改訂に反対した素朴な正義感が今でも紛争が起これば反体制側(即ち弱者側)に立とうとする本性になって残っている気がする。私自身は同じ動きをする気はないが、その心情はよく理解できるので、シンパと言ってもよいかもしれない。しかし裁判沙汰になれば地裁段階は兎に角として、究極的には最高裁が体制側の旧秩序を維持する側に回るであろうと見通す60代以上の年代側に与することを自認する。要するに一緒になって騒ぐには醒めているのである。
会社でもった大勢の部下もほとんどこの世代であって、物の考え方に違和感をもたずに、またそれが当然と過ごしてきたが、いよいよこの人たちが停年退職の時期に入ると思うと特別な感慨がある。その後の年代はアンケートからも察せられるようにもっとドライな感覚をもっているようだし、そういう人たちが社会の実権を握るようになると、多少は以心伝心とはいかなくなる行動も見聞せざるを得なくなるだろう。前項のオタク文化などもその一つである。この際団塊の世代にもうひと頑張りしてもらいたいものだ。

<金正日> 拉致問題の発覚を契機としてここ10年北朝鮮の非人道行為に対する日本国民の反感は高まり続けている。その国の頂点に君臨し有無を言わさぬ独裁を続けている金正日について、日本のマスコミも取り上げていない隠された所業についてすっぱ抜いた驚くべきレポートを入手した。“金正日 隠された戦争” (文芸春秋社)である。著者は萩原遼という人で大阪外語を出て20年間“赤旗”の記者を勤め平壌特派員も経ているが、89年からフリーランスになり専ら北朝鮮関係の調査・取材をしつつ何冊かの著書を著し、例えば“北朝鮮に消えた友と私の物語”(98年)では大宅壮一ノンフィクション賞を万票で受賞している。著者はレポートの前書きで金正日の意図による三大事件として“核危機”、“金日成の死”、“大量餓死”を挙げ、その問題提起による受難も覚悟しているとまで書いている。
著書は先立って1990年初頭に金日成・金正日親子並びにその北朝鮮政権を見舞った二つの衝撃を記している。その一つは1989年の東欧社会の相次ぐ崩壊で12月末に北朝鮮の友好国ルーマニアの独裁者チャウシェスク大統領が民衆蜂起によって処刑されたこと、もう一つは最大の後ろ盾であり事実上の宗主国であったソ連が北朝鮮を見捨てたことで、ゴルバチョフの始めたペレストロイカ(1985年)以後財政的負担の見直しを始めたソ連は1991年以降(北朝鮮の)国家予算の5倍近くの援助物資の支給を取りやめた。危機に直面した金日成の動きは素早く、軍が人民と結びついて反乱を起こさぬように息子に軍を掌握させることにし、新たに国防委員会を設置するとともに朝鮮人民軍最高司令官のポストを金正日に譲った。憲法改定によって国防委員会を政府の統制から独立させ、1993年には金正日を国防委員会委員長に任じた。
金日成は少し前から北朝鮮政権の生き残りを賭けての冒険的なゲームとして、核開発に手をつけていた。1985年末北朝鮮の強い要請によりソ連は加圧水型原子炉4基の提供協定に調印した。ソ連は歯止めにNPT条約の加盟を求めたが、北朝鮮は中々調印せず時間稼ぎをしてプルトニュームを抽出し核兵器開発を進めた。92年に一旦査察協定に調印したが肝心の施設を見せず、93年にはNPT条約からの脱退を宣言した。金正日に軍最高の肩書きを与えたものの軍歴のないことを気にした金日成は核兵器で金正日の株を上げることを考えた。金正日は「朝鮮のない地球はあり得ない。敵どもが敢えて核攻撃を加えてくるのなら、この地球をぶちこわしてみせるというのがわが軍隊と人民の意志だ」と言明して軍内の信頼を勝ち取った。
実は金日成は1973年に金正日を後継者に指名し以後ひそかに世襲体制構築作業を進めて、80年代の末には内政はすべて正日が取り仕切っていた。ところが1990年秋農業の惨憺たる状況が金日成に報告され、既に相当の餓死者を出して内政が破綻していることを知った。金日成は大分前から虚偽の報告ばかりを受けていたのだ。金日成は抜き打ちに農村の実態把握に努め、農民が草がゆをすすっている実情を知った。正日の側近延享黙首相は農業不振の責任を問われて降格され、姜成山が後任に選ばれた。間接的な金正日の問責である。金日成は姜成山と組んで80歳を越えた高齢の身に鞭打って猛烈に仕事を再開した。
金日成は94年の新年の辞でノルマで責め立てるのを一旦止めて3年を調整期間とし、民生を重視する農業・軽工業・貿易第1主義を打ち出し、肥料の生産に力をいれることにした。一方で金正日は父親の現場復帰と農業再建の動きを冷ややかに眺めていた。彼の重工業優先、軍事力強化の路線が否定されたからである。同年6月17日急遽平壌に乗り込んだカーター元米大統領の調停に応じて金日成は平和的な話し合いに移り、カーターの提起した金泳三韓国大統領との首脳会談に快く応ずると答えた。驚愕したのは金正日である。首脳会談となれば南の大統領は相応の手土産を持参するだろう。金日成の農業第1主義の方針や経済改革の取り組みに南の財政的裏づけがつくことになる。これは金正日の軍事優先の構想をぶちこわすことになる。どんなことになろうともこの首脳会談は阻止しなければならない。金正日は金日成に首脳会談をとりやめてほしいと何度も懇請した。金日成は頑として聞かない。押し問答の結果、金日成は遂に「自分は朝鮮労働党総書記の権限を行使してでも会議を行なう」と宣言した。党の序列では金正日は党の組織書記に過ぎず、下級は上級に無条件で従うのが共産党の鉄則である。6月28日首脳会談の話は合意に達し、7月25〜27日平壌で開くことになった。
金日成は50年待った統一の大門を開くのだと張り切り、統一と関連した経済評議会を7月5,6日に開くことにした。金正日は「ご自分の身体のこともお考えください」と止めようとしたが、金日成は聞く耳をもたなかった。ここで行なった金日成の演説は詳しく記録されている。その要点はー電力供給を最優先にせよ。それには原発は時間がかかり過ぎるし水力は雨が乏しい。重油が最適だ。電力問題を解決して化学肥料を農村に送れ。ビナロン(化学繊維)を生産してこどもに服を着せてやれ。セメントを生産し余ったら外貨を稼げ。トラックを生産し鋼材を生産せよ。大型貨物船を百隻作り、東南アジア貿易に目を向けよーであり、更に今後どの国であれ、経済合作をしようという国があれば行ないたいと明らかに韓国を指して言い切った。
この協議会に出席しなかった金正日は7月6日の夜、会議の録音テープを取り寄せて聴いた。路線の相違は妥協の余地のない決定的なものになった。事態は猶予なく、首脳会談は19日後に迫っていた。両者の考えの違いは生き残りをかけた路線闘争・権力闘争になった。協議会の終わった次の日1994年7月7日の夜、金日成は急死した。7月9日臨時ニュースで金日成同志の死去が報じられた30分後、“医学的結論書”としてーたび重なる精神的な過労により、7月7日激しい心筋梗塞が発生し、心臓ショックを併発した。あらゆる治療を行なったに関わらず心臓ショックが悪化し、7月8日2時に死亡された。病理解剖検査で疾病の診断が確定した−と公表された。死去の場所は公表されていない。米朝高官会議は第3ラウンドを7月8日ニューヨークで開かれることになっており、既に姜錫柱第1外務次官は現地入りしていた。ここへ金日成の新しい訓令が入れば、軽水炉は撤回されて、火力発電所になるところだった。核兵器を作りたい正日にとってまさにギリギリのタイミングであった。
金日成の死によって金正日は重しが取れたように金日成の許さなかった“乞食外交”(飢餓カードによる食糧支援要請)を開始した。天災が次から次へと北朝鮮を襲うのは金日成の死後からである。北朝鮮当局は1994年9月の雹害、1995年8月の大洪水を大々的に発表した。1995年以降毎年100万トン弱の支援食糧が入るようになった。ところが支援食糧が入り始めてから大量餓死が発生する。97年2月韓国に亡命した最高幹部黄長Y氏によれば95年に50万人、96年に100万人が餓死した。97年には200万人が餓死するだろうと予測した。韓国の民間団体仏教運動本部の調査結果もほぼ同じ数字(300万人の餓死)を出した。著書には国連支援食糧の配給状況という詳細な数値表が地域別に何ページにもわたって載せられている。表は救援物資の配分が極めて偏っていて、被災者優先ではなく大都市住民優先など不自然に選別されていることが示されている。支援食糧の少なからざる分が特権階層の蓄財と闇市への横流しで労働党幹部を不当に利している。
米国際開発局長官アンドリュー・ナチオス氏は著書“北朝鮮の大飢饉”で次のように指摘しているという―1994年と1995年に中央政府は北東部に対する食糧補助を停止した結果100万人以上が殺されたー。因みに北朝鮮北東部とは咸鏡北道と咸鏡南道である。この二つの道には国の全人口の1/4、約500万人が住む。ロシアと国境を接する北端部で冬は零下40度以下になる極寒の地で、人口の20%を占める金父子に対する敵対階層は主としてこの地に住むよう強制されている。金正日にとって咸鏡南北道は自己の体制を脅かす最大の不安定要因だった。民衆蜂起によるチャウシェスクの処刑を知って金正日は先制攻撃に出た。食糧配給の中断という兵糧責めである。金日成は農業を再建し人民を食わせることを最優先にしようとして父子間の激烈な路線闘争になり、“金正日の戦争”遂行の障害として金日成は“除去”された。金正日はなおも幻の戦争を“苦難の行軍”と名付け、自らの人民殺戮戦争を帝国主義諸国に包囲されたという虚構の戦争にすり替え、経済封鎖され食糧は入ってこないという虚偽宣伝で素朴な国民を欺いている。
社会主義国が相次いで崩壊する中で考えついた奇策はすべてを軍に依拠し軍を政権の柱にする戦略である。金正日はこれを“先軍政治”と呼んだ。金正日の北朝鮮は党より上に軍がある。軍備に莫大な金を投じた。どんなに民が苦しもうと聞く耳も見る目ももたなかった。死屍累々の中で日本に届くミサイルが完成した。更に軍事も国防もただ金正日を決死擁護するのが目的だと言い、国の建設思想は“社会主義強盛大国は首領決死擁護精神の結晶体である”という。そして「銃爆弾精神とはすなわち首領の安寧を守る途上で一身がそのまま銃弾になり、炸裂する爆弾になって敵どもを震え上がらせることを言う。これが首領決死擁護精神である」という異様なことになっている。臆病で強欲な専制者の究極の要求だろう。この政権が長続きするとはとても信じられない。
<苛立ち> 文藝春秋に今年も“芥川賞”が載っている。普段小説の類は滅多に読まないが、これぐらいは年に1回のことだし無視しては済まない気があって、挑戦することにする。その前に9人の選考委員の選評が載っている。石原慎太郎は当選作を全く評価していなかった。これに反して村上龍は候補作品の内で当選作だけが伝えるべき情報をもっていると書いていた。後の委員はよく知らない人なので省く。受賞作になった人の作品はこれまでに3回候補に挙がりながら落選して今回のは4回目である。慎太郎は毎度のように気難しく皆の推す作品を毛嫌いするなと思いつつ、当選作の“グランド・フィナーレ”(阿部和重)に取りかかる。
読み始めると情景描写が独りよがりで全く分かりにくい。落ち着いて一文ごとに味わう気がしないから流し読みになる。会話になると会話のやりとりだけが心理描写もなく勝手に展開していく。妻が離婚して去り、連れ去られた幼い娘に執着する心理だけは分かるが、私も知っている国際テロの状況説明が会話の中に長々と出てきて、だから何なのだと言いたくなる。慎太郎の“物書きとしての内面的なニーズが一向に感じられない”という評があったが、全く同感である。後半に至っては忠実に字句を追う気さえしなくなった。広い日本の中で推奨すべき新文学作品はこんなものしかないのかと腹立たしくなった。こんな男を作家としては認めない。昨年の綿谷、金原という二人の少女の方がまだましだ。
昼間電話がかかってくる。十中九まではこちらにとって全く無用の内容であるが、受話器を取ってみなければそう決めつけられないので、取りあえず電話に出る。最も多いのが墓地の案内で、その次がワンルーム・マンションの勧誘、三番目が金融商品の売り込みである。赤の他人からの先方の都合だけの売り込みなどホイホイと受ける筈がないではないか。今回はN.T.T.テレコムからだというのだが、電話代が少し安くなるという趣旨で一方的に長々としゃべる。何か新システムに乗り換えろと言いたいらしいのだが、続けざまに要領悪くしゃべり続けるので、こちらの頭には一向に入らない。遂に相手の話が終わって何かこちらに質問してきた。“話がよく分かりませんが、一体どうしろと言われるのですか”と訊く。相手がまたしゃべり出す。どうにも頭に入らない。老人性痴呆の始まりか。途中で遮って“よく分からないので、お話の内容を書類でもらえませんか”というと素直に“ではそうします”と答えて電話が終わった。爾後一向にそれらしい書類など来ない。どうせこの話に乗らなくてもどうということはないのだが、相手の話が飲み込めなかったのは癪に触った。分かりやすい話し方というものがあるはずだ。それにしても否応なしにかかってくる電話を予め選別する方法がないのは一つの社会矛盾だと思う。
<花粉症> 早くから昨年夏の長く続いた暑さのために杉の胞子が大量に稔っているので、この春は大量の花粉が発生するという警告がニュースで発せられていた。在来私はいわゆる花粉症とは無縁だったので、春になると盛んにその悩みを聞いて気の毒には思っていたが他人事と思っていた。今年は2月23日に気象庁の予報通り春一番が吹いてその後一旦寒冷な気温に戻ったが、2月末になっていよいよ大量の花粉が飛び始めた旨報じられた。
3月1日続けてクシャミが出た。在来クシャミは出ても2回で収まっているが(3回出ると風邪を引いたと俗に言われるし、私もそう思っていた)、今回は猛烈に4回続いた。そういう発作が昼と夜2回発生した。3月2日風のない午前中に定例の散歩に出ると鼻水が出た。他に心当たりがないので、遂に自分も花粉症にかかってしまったかと観念した。まだ重症ではないが、アレルギー性だから、これからは毎春悩まされるのかと思うと気が重い。テレビに現れるアナウンサーの大半がまだマスクはおろか鼻を赤くするような花粉症の兆候を見せていないのを眺めて、その内にかかるぞと意地悪な期待(?)を抱いている。
その後しばらく小康状態が続いたが、3月14日真冬に逆戻りしたような寒さの快晴の月曜日、突然クシャミが4回出て鼻水が湧き出るようになった。その後また連続のクシャミ。思いなしか、寒気までする。今日は花粉がどっと飛び交うと報じられた。丁度病院で定期検診を受ける日で、毎回薬を処方してくれる血液内科の医者もマスクをしていて重症のようで、見ている前でクシャミをするので、ついニヤリと笑ったら“訪れる患者さんが花粉を運んでくるのです”と心なしか不機嫌そうだった。行きつけの病院の床屋もマスクをしていた。蔓延度は相当なもののようだ。

<三位一体> 小泉内閣の進めようとしている構造改革の一つに地方分権化を進めようとする“三位一体改革”がある。必ずしも順調に進展しているようには見えないが、今はその政策自体を論議する気はない。私は日本で誰が名付けたかこの“三位一体”の語源を知らなかったが、後にキリスト教から来たものだと聞いた。このほど塩野七生が毎年出す“ローマ人の物語”の最新版第13巻にその詳しい由来を記しているのを発見した。欧米で宗教と言えば猫も杓子もキリスト教に染まっている所以はこの辺りに存するのであった。なお宗教用語だから理屈はとにかく“サンミイッタイ”と読む。読み間違えないように。
ローマ帝国が衰退期に入った三世紀末にペルシャ戦役中に落雷で死去した皇帝カルスの後を継ぎ、兵士たちに擁立されたデイオクレチアスは武将として才のあったマクシミアヌスに信をおいてもう一人の皇帝に任じ、自らは東方を担当し帝国の西方と東方を分割統治するシステムを作った。二人とも防衛線を越えて侵略してくる蛮族撃退に専念した。7年後の西暦293年にデイオクレチアスは二人のアウグストウス(皇帝)がそれぞれ一人のカエサル(次期皇帝)を任命する四頭制を発表した。帝国の防衛を最大目的としたシステムで、帝国を地域で4分割しそれぞれ防衛線に近いか容易に駆けつけることのできる地に首都をおいた。
治安は改善されたが、倍増した兵力と税金を納める人より税金を集める人の方が多くなったと称された肥大化した官僚機構のための重税が農民に農地を捨てさせた。混乱を防ぐために職業を世襲制にして居住地の変更を許さず、徴兵制を採用し、インフレを抑えるために統制国家としたデイオクレチアスは皇帝の権威に逆らうキリスト教を弾圧することにした。303年から309年まで勅令によるキリスト教迫害の嵐が吹きまくった。
20年の治世の後デイオクレチアスが引退すると、4頭制の協調は次第に崩れ角逐の結果312年にはコンスタンチヌスがマクセンチウスを破り、324年にリキニュースを降して単独制覇を遂げた。その後コンスタンチヌスは手中にした最高権力を用いて新しい首都、新しい政体、新しい宗教による新生ローマ帝国を発足させた。これは革命だが、彼は既存のシステムを使えるかぎり利用しようとした。彼は早速324年にビザンチウムを首都コンスタンテイノポリスとして建設工事に着工し6年間で完工した。政体としては軍事キャリヤと政務キャリヤを完全に分離し、元老院は残したが立法権や人材育成などの実権を剥奪し法令は勅令で皇帝が決めた。国境線警備は農民のパートタイイムになり、実質的な軍事力は皇帝直属の軍隊だけになった。長年維持してきた防衛線の意義は後退し、外敵は侵入後に撃破することになった。ローマ帝国は変質した。
このようなコンスタンチヌスが世界史上の偉人とされた理由は以下に述べるようにキリスト教の振興に大いなる貢献をしたからである。312年リキニュースとの共同コミニュケで“ミラノ勅令”を発し、他宗教と同様にではあるがキリスト教を公式に認め、弾圧時に没収した資産の国家による補償を約した。次ぎにコンスタンチヌスは農耕地などの皇帝の私有財産のキリスト教会への寄進を行った。更に聖職者たちをすべての公職から免除する聖職者階級の独立政策を実施した。これらの政策は知的水準の高い人々をキリスト教会へ引き寄せる波及効果を生んだ。
決定的だったのは325年に300人の司教を集めたニケーアの公会議を皇帝コンスタンチヌスが取り仕切ったことである。それまで信徒間での教理をめぐる論争が激化して教会分裂の危機に瀕していた。司祭アリウスは十字架上で刑死したキリストは万能にして絶対の神と同位ではないと主張して伝統的な教派からは破門されたが、追放先で多数の共鳴者を得てしまった。この両派を招聘し対立の解消に努めることが混乱収拾のために要請され、皇帝コンスタンチヌスは「イエス・キリストは十字架上で死にはしたが、三日後に復活し昇天して神になった。従って神とその子キリストと聖霊は同位であるが故に一体である」とする三位一体説を支持して、強引に共同コミュニケの公表にまでもっていった。アリウスなど少数の反対者は強権をもって遠隔地に放逐した。当時キリスト教の立場はまだ脆弱で、もし教理の論争を放置しておけば分裂は更なる分裂を呼び、自滅に向かって転がり落ちただろうと言われる。その意味でコンスタンチヌスの支持した三位一体説はその後大いに発展したキリスト教の根幹を支えるものになった。
デイオクレチアスの四頭制を否定したコンスタンチヌスは皇帝の安定した元首制度を支えるために、従来の多神教でなく一神教の神から委託された権威が必要と考えた。そのためにコンスタンチヌスはキリスト教を擁護し、司教を味方に取り込もうとした。ローマ帝国は永くは続かなかったが、司教や彼らが選んだ法王が神に代わって国王に支配権を授けるという考え方はフランス革命まで永く継承された。またキリスト教関係者のコンスタンチヌス大帝の恩義への敬意も末永く継承された。
それにしても聖霊とは何か。父なる神とその子キリストはよいとして聖霊などは余計ではないか。解説によると、これはイエス復活後の五旬節に使徒たちに下された霊のことで、神の分身として人格(位格)をもつのでそんじょそこらの精霊とは違うのだそうだ。キリスト教の信者でない我々にはそう言われても訳が分からない。今やローマ・カトリック教会の中心的教義である三位一体(トリニタス)とは宗教の神秘性を保持するために同質不可分を強調せんがためのこじつけで、二では収まりが悪いから三にしたのだ。日本の三種の神器の方が実体があるだけによほど分かりやすい。
<大相撲力士寸評> 2000-9月に大相撲を取り上げて力士の怪我の多さを論じている。今回は2005年3月春場所現在の主な力士についての寸評を試みる。怪我は相変わらず多く、身体のどこかに何か貼っていない力士の方が少ないほどである。特筆すべきは外人が随分増えたことで、モンゴルだけでなくヨーロッパから幕内に3人も入ってきた。米大リーグではもう外国人の方が多いはずだし、この大勢は素直に受け入れる方がよいのではないか。()は外人。
朝青龍(モ) 決して受けて立つことのない積極性と俊敏さは異論の余地のない当代の第一人者。目下の興味は連勝がどこまで続くか。動きの速さで軽量をカバーしている。
魁皇 やっと腰が治ったようで、強引な小手投げは誰からも恐れられる。気が小さいために万年横綱候補。
千代大海 回転の速い突っ張りだけが身上。
栃東 再度の大関復帰は新記録。常に怪我に苦しむ。幕内随一の相撲巧者。得意は出し投げ。
雅山 大関経験者だが、怪我の後今ひとつ迫力がない。
白鵬(モ) 将来の横綱を嘱望される大器。悠揚迫らぬ土俵態度は迫力がある。
岩木山 頭突きは強い。こわれそうにない。
琴欧州(ブ) 知的な風貌と考え深そうな控えめの態度に好感をもつ。長い手足は強力な武器になりそう。
前頭
旭天鵬(モ) 得意の型になれば誰にも負けない。三役に定着できないのが不思議。
若の里 四つ相撲に安定感がある。この一番には強くない。
琴光喜 やっと大怪我から脱したが、淡泊で執念深さがない。地力はある。三役復帰するか。
垣添 小さい身体で精一杯頑張る気力に脱帽する。立ち合いにケレン味がない。
土佐ノ海 立ち合い時に発するウメキ声は独特。ケレン味のない相撲に好感。
追風海 休場中。
黒海(グ) 琴欧州と対照的な野人ぶり。バタバタする相撲は好かない。
栃乃洋 投げは強く底力があるが、不思議に勝率が上がらない。好きな力士。
出島 出る出る出島。相撲巧者ではない。もう大関は無理か。
北勝力 ごくたまに凄い押し相撲の強さを見せる。相手に合わせた立ち合いができない。
旭鷲山(モ) 幕内随一の変則力士。幕内の下の方に落ちると頑張り出す。技のデパートと称される多彩な技。最近は寄りも出る。
露鵬(ロ) 人相が悪いが強靱。好きになれない。
玉乃島 得意は一気の寄り。
高見盛 懸命な仕草に人気がある。右が入れば強いのだが、皆知っている。
琴ノ若 幕内最年長。滋味のある取り口。引退を先に延ばすように応援したい。
朝赤龍(モ) 精一杯取っている。足腰は強い。三役まで行ったがやや体力負けか。
海鵬 よく善戦している。
春日王(韓) 波がある。腰を痛めている。
安馬(モ) モンゴル勢の一角らしく闘志と工夫があり、先輩たちを抜くかもしれない。
隆乃若 三役経験者。怪我が治って復調中。
普天王 寄り切りで勝つ人。
玉春日 叩き込みと引き落としが得意。
稀勢の里 十八歳。久々に嘱望される日本人若手。勝負強いとまでは言えないが場所ごとに力をつけている。
時津海 姿形はいいのだが、強さは感じられない。ベテランになってしまった。
十両
北桜 塩撒きは威勢いいが、やや空回り気味。
白露山(ロ) 露鵬の弟。いずれ幕内に上がるだろうが、どうも好かん。
闘牙 巧みなハタキがあるが、勝率が上がらない。無為に寄り切られる。
時天空(モ)勝率が高い。幕内に戻るだろう。
琴奨菊 一旦幕内から落ちた。また上へ行くだろう。
朝乃若 ハタキの巧さに定評があったが、最近全く空転するようになった。
隆の鶴 姿が闘牙と似ていてボンヤリ見ていると見分けがつかない。
栃乃花 三役まで務めたことがある。幕下の下の方から復活してきた。

<戦争回顧> 毎朝N.H.K.テレビで“60年前日本人は今では想像もつかない日々を送っていた”という前触れで、私と同年配の人が60年前の同じ日の折り返しもない1枚きりの新聞を手にしながらそれぞれの人の当時の体験を語っている。記事では硫黄島守備隊の全員玉砕の後、米軍沖縄上陸が始まっている。内地では一夜で10万人の死者を出した3.10の東京下町大空襲の後、爆撃は地方大都市に焦点を移している。相変わらず敵艦何隻撃沈の大本営発表のウソ記事も並んでいる。
60年前、私は国民学校尋常科6年生だった。5年生の春から東京から岡崎の外れの農村の父の実家に縁故疎開して、もうこの環境にも慣れていた。近所の子供と共にわらじを履き田圃の中の道を隊列を組んで学校まで歩いて行く。そういう平穏な田舎の生活に遂に戦争が入り込んできた。ある日東海道の松並木の道路にトラックが1台止まっていて、運転台を覗き込むと運転手が倒れて死んでいた。走行中のトラックは米軍機の機銃掃射を受けたのだった。連日のように豊橋方面から名古屋に向かうB29の編隊が頭上を整然と通過していった。邀撃する日本機はいなかった。
夏が近づいた頃4km先の岡崎の市街地(康生町の中心街)まで歩いていくと、爆撃目標が中小都市に移ったのに備えて町中の家を間引いて取り壊しにかかっていた。鳶口で声を合わせて家を引き倒していた。選定はくじ引きで決めるのか知らないが、壊されるのに決まった家はたまらないだろうと子供心に思った。また日時が過ぎて岡崎は爆撃を受けた。夜空が赤々と染まった。数日してまた岡崎の市街地へ行ってみると、間引きした辺りはすべて焼け野原と化していた。これで平等になった。すべて焼け落ちた中で水道の蛇口だけが突っ立っていて、チョボチョボと水が漏れていたのが印象的だった。何処まで行っても焼け跡の独特の匂いがした。家へ戻っても見聞したことを誰にも話さなかった。
親や大人たちと戦争の話をした記憶は全くといってない。こどもも大人も皆事態が分かっていたし、大人たちは毎日を生きるのに懸命だっただろう。食糧事情が悪くなって堤防の上まで開墾して薩摩芋を植えた。枯れないようにバケツで水を何度も運んだ。はだしだった。少々の石ころ道でも痛まぬほど足の裏は丈夫になった。しかし戦後にかけて薩摩芋ばかり食べさせられたお陰で、ひもじい思いはしなかったが、今でも焼き芋は食べる気にならない。本土決戦の話は聞かされてはいたが、切実な覚悟まではしていなかった。なるようになるさと思い悩むことをしなかった。僅かの年齢差で徴兵を免れたのは幸運だった。