4月の話題


2005年4月

<オスマン・トルコ> オスマン・トルコ帝国は1299年にオスマン・ペイによって建国され、1362年にビザンツ帝国に侵入してブルサを攻略、バルカン半島に進出してエデイルネに都を移した。1402年にアンカラの戦いでテイムールに敗れて一旦領土の大半を失ったが次第に盛り返して、1453年コンスタンチノーブルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしイスタンブールと改名してここに首都を移した。更に16世紀に入ってイスラム世界の中核地域となったエジプト・シリアとイスラムの二聖都メッカとメデイナを支配下においた。スレイマン1世の1526年にはハンガリー軍を破り、バルカン半島から中東、地中海南岸に及ぶ旧ローマ帝国の2/3を越える広汎な版図を手に入れる全盛期を迎えた(右図)。

 さまざまな民族・言語・宗教が複雑に入り組んでせめぎあう地域に成立したこのオスマン帝国は、イスラム世界の伝統の下で多種多様な人々を呑み込みながら6世紀以上にわたって存続したが、近代西欧の影響を受けて解体を余儀なくされ、20世紀初頭の第1次世界大戦で完全に終焉を迎えた。しかしその解体は現代のバルカン・中東で激発する民族紛争の源流になっている。今回の教材は“オスマン帝国の解体”(鈴木董・ちくま新書)である。私のみならず多くの日本人にとって、バルカン半島は地球上でも疎遠な地域の一つであるが、この地域の歴史は人類のありようについて、民族・言語・宗教が単一に限りなく近い日本とは真反対に近い環境への適応について大いに考えさせられる事を教えてくれる。
 16世紀以降オスマン帝国の領域はイスラム世界、かつてのビザンツ世界、そして西欧キリスト教世界の三つの文化世界にまたがり、多種多様な地域と人々を包含していたが、この多様極まる人間諸集団は何世紀にもわたりある程度安定した共存の秩序の下にあった。抑圧や差別も敵対と紛争も存在はしていたが、激烈極まる民族紛争・宗教紛争の頻発している現代の中東・バルカンの状勢とは大差である。これを“パクス・ロマーナ”にならって“パクス・オトマニカ”と呼ぶ。具体的にそのシステムの成立根拠を見てみよう。
 オスマン帝国の南半では長いイスラム化の過程を経て人口の大多数はモスリムだが、大多数のスンニ派の他にイラクのシーア派、レバノンのドールーズ派が混在した。帝国はビザンツ世界の過半を占めたキリスト教徒を容認した。カトリックはもちろんプロテスタント系を厚遇した。ユダヤ教徒が大量に流入したが暖かく迎えられた。このように帝国はイスラムの大枠ながら多様な宗教を容認した。
 言語と民族は一層多様で、帝国の君主とその取り巻きはトルコ語を母語とするトルコ人だが、イラクからアルジェリアにかけてはアラビア語を母語とするアラビア人が、北イラク・北シリアにはクルド語を母語とするクルド人がおり、バルカン半島に入るとギリシャ語を話し正教を奉ずるギリシャ人、アルメニア語を母語としアルメニア教会に属するアルメニア人、ルーマニアにはトルコ語を話し正教を信ずるベチェネク人、ブルガリア語を話し正教を奉ずるブルガリア人、共にクロアチア語を話すが正教徒はセルビア人、カトリックになった人々はクロアチア人、ムスリムになった人々はトルコ人を自称した。西北部のアルバニア語を母語とする人々はアルバニア人で大部分がムスリムになったが一部は正教徒やカトリックにとどまった。ハンガリーにはハンガリー語を話しカトリックまたはプロテスタントのハンガリー人、また帝国全域に母語は様々に異にしながらユダヤ教を奉ずることでアイデンテイテイを保つユダヤ人などがいた。

 異教徒たちの統合と共存のシステムはオスマン固有のものではなく、イスラムの聖法シャリーアに基づく非モスリムの処遇制度であるズインミー制度に基づくという。こうして同時代の西欧社会に比べれば遙かに広汎な宗教的多様性が許容されていた。人々のアイデンテイテイの根拠は第一義的には宗教で、言語と民族への帰属意識は第二義的であったが、これらの人々が同じ帝国内で入り組んだモザイクのように分布し、互いに交渉をもちながら共存を実現していた。
 重要な公文書の多くはトルコ語で書かれたが、トルコ語が唯一の公用語ではなかった。文字としてはトルコ語もアラビア文字で書かれた。文明語・文化語としてはイスラムの聖典の言葉であるアラビア語と文学の言葉であるペルシャ語が尊重され、“アラビア語・ペルシャ語・トルコ語の三言語に通じている”と言われることが文人学者に対する最大の褒め言葉だった。ギリシャ正教徒にはギリシャ語が、アルメニア教会派にはアルメニア文字を用いてアルメニア語が用いられた。様々な言語と文字もイスラム優位下の不平等の下に一定の秩序をもって共存していた。 オスマン帝国はデイアスポラ(流離の民)としてのユダヤ教徒にとって西欧世界に見られた厳しい隔離もない安住の地であった。また当時立場の不安定だったプロテスタントにとっても格好の避難場所だった。ビザンツ帝国(旧東ローマ帝国の後身)時代と同様に正教会の中枢を占めていたギリシャ人は正教徒に宗教語・文化語としてのギリシャ語の使用を求めつつ、非ギリシャ系正教徒のギリシャ化をはかった。ギリシャ人は世俗面においてもムスリム・トルコ系の人々が決して学ぼうとしない西欧諸語を習得し帝国通訳官の地位を独占して外交上重要な地位を占めた。このようにバルカン・中東は緊張と相克を内包しつつも、決して民族紛争や宗教紛争のるつぼではないパクス・オトマニカの下にあった。
 西欧キリスト教世界はその形成期にイスラム世界の形成による第1波の“イスラムの衝撃”を受け、やがて11世紀からは自ら動いた十字軍の反動として第2波の“イスラムの衝撃”を受ける。1453年オスマン帝国によるコンスタンテイノポリスの征服とビザンツ帝国の滅亡は“オスマンの衝撃”として全西欧を震撼させた。その後16世紀まで度々の侵攻によって西欧に対するオスマンの脅威は持続した。だが16世紀以後の西欧世界における社会経済的・技術的発展は急速になり、一方オスマン帝国のそれは極めて緩慢であった。1683年からの10年間オスマン軍はウイーンへの攻防をめぐりハプスブルグ軍に大敗し、最前線基地ハンガリーの大半を失って超大国の面影を失った。17世紀末以降ロシアも黒海に向けて南下し、何とか食い止めたもののオスマン帝国としては“西洋の衝撃”をヒシヒシと感じるようになった。

 帝国の支配層は軍事力を中心に近代西欧モデルの部分的な受用に努めたが、守旧派の抵抗は強かった。一方西欧世界との人的な交流を禁じていたわけではなかったので内的な“西洋の衝撃”の影響から帝国のアイデンテイテイの根源に徐々に変容が生じた。その影響はまず非ムスリム臣民のうちバルカンのキリスト教徒諸民族に浸透し、ギリシャ・ナショナリズムが台頭した。独立戦争は抑えられかけたが、英仏露三国が干渉して帝国にギリシャの独立を認めさせ1832年にロンドン条約でギリシャ王国が成立した。またセルビアが民族主義によるナショナリズムに乗って蜂起し、当局の鎮圧に対してロシアに支援を求めた。露土戦争の結果帝国宗主下で自治権を得て1816年セルビア自治候国が成立した。更にブルガリア人も蜂起し、ロシアの支援を得てベルリン条約により1876年ブルガリア自治候国が成立した。同様にモンテネグロ、ルーマニアが分離独立を遂げた。混乱に乗じてハプスブルグ帝国はボスニアを併合した。1912年にはバルカン戦争が起こり、残るマケドニア、アルバニアも独立を果たしてオスマン帝国のバルカン支配は終わりを告げたが、バルカンはナショナリズムを奉ずる民族国家の割拠する地となり、“世界の火薬庫”化することになった。
 1910年代オスマン帝国に対する西欧列強の外圧は更に高まった。北アフリカを狙うイタリアはリビヤのトリポリを奪った。英仏に対抗して近東進出を狙うドイツはオスマン帝国に接近した。オスマン帝国中央では親英仏派と親独派が対立したが第1次世界大戦の勃発に当たり親独派が勝って独墺側で参戦した。オスマン帝国は敗戦を重ね1918年連合国に降伏した。敗戦国となったオスマン帝国は解体され、旧領の多くは戦勝国の支配するところとなった。一旦はアナトリア中央の僅かな地を残して要地の大部分が列強の餌食になるセーブル条約を押しつけられた。1921年以降アンカラ政府軍を率いたケマル・パシャが仏軍と戦い、内陸に侵攻したギリシャ軍を数次にわたって撃破・駆逐した。連合国との交渉はローザンヌ条約に結実し、領土としてイスタンブールと西トラキアとアナトリアのほぼ全域が認められ、ギリシャの領土要求は退けられた。オスマン帝国は終焉を迎え、アンカラに遷都した上でネイション・ステートとしてトルコ共和国が新たに発足、ケマル・パシャは初代大統領になった。

 “西洋の衝撃”の下でパクス・オトマニカを支えた統合と共存のシステムは溶解し、オスマン帝国の解体した諸断片は各々独自の運命を追求しはじめた。多くの場合近代西欧起源のネイション・ステートモデルの実現がしばしば“一民族・一国家・一言語”の理想追求へと向かったが、それぞれの諸断片は宗教・言語・民族を異にする様々な人々のモザイク構造を保っていた。この古い現実を無理に新しい理想に合わせようとして、随所に激しい民族紛争・宗教紛争の嵐が吹きまくることになった。第2次大戦後反ナチ・パルチザンの指導者チトーの下で多民族国家としてのユーゴスラヴィア連邦共和国による共存システムが成立したが、チトーの死後崩壊し、ボスニア紛争、コソヴォ紛争などが噴出した。
 著者は明言してはいないが、現代においても解決からほど遠いこの矛盾は西欧文明が犯した大きい罪悪の一つではないだろうか。私がイランを訪れた時はまだパーレヴィ国王による専制政治が行われていたが、その政治の是非は別としてこの国には10を越える様々な民族が共存していると聞かされた。そう言う状況を無理に変えようとすれば必ず悲劇が起きる。その面でイスラム教の寛容はキリスト教の排他性よりよほど優れている。

<養生> 作家五木寛之の“養生の実技”という小冊子(角川書店)を半日かけずに読みおろす。この人独特の健康哲学である。まずー病院は病気の巣である。できるだけ近づかないほうがよいーと書いてある。氏は健康診断とか定期検診というものを生まれてから一度も受けずに過ごしてきたと述べている。会社員になれば強制的に受けさせられるからそうはいかないが、自由業の特権であろう。早期発見というが、それは既に手遅れではないか。発病してから治療にかかるのは火事になってから消火に飛び回るのと同じだ。治療では手遅れで、健康を守るのは養生であるという。機械は故障を直し修理を終われば元通り動くようになる。故障をなおすように治療を行えばよいと多くの人は考える。氏の人間観はそうではない。
 人間は生まれた日からこわれていく。老いるとはそういうことだ。しかも、不自然で非合理な部分が数かぎりなくある。神秘的といえるほどすばらしい働きをそなえながら、同時になんとも情けない幼稚な部分もある。それを苦心して、少しでも良いコンデイションを保ち、故障を起こさないように工夫するのが養生ということだろう。身体が発する信号を的確に受け止めること、それが養生の第一歩である。だるいとかしびれる感じなど、身体は実に限りない形で私たちに語りかけてくる。この身体語とも言うべき言語をマスターするのは現代人としてなんとも刺激的で重要な試みだ。柳に雪折れなしという。屈しない心は折れる。萎える心は折れない。同様に強くて固い体は折れる。屈すること、曲がることは身体にも大事なのだ。
 世の中には様々な、ある場合には真反対の健康法、養生法が氾濫していて、その分野の権威者といわれる人も発言しているから大いに惑わされてしまう。例えばこの頃水をたくさん飲めという医師が増えた。氏はそういう場合に自分の身体語のささやきを聴いて自分の体の直感に従って行動し、自分で責任をとるしかないと言う。養生法も健康法も長生きの秘訣も、すべては各人各様のただ一つの方法であり、他人の経験は自分の体験ではないのである。ヨガとか気功とか面倒で三日坊主になりそうなことははじめからやらない。養生を思う人が皆修行者になることはないのだ。
 また、清潔という言葉は偽善である。人間は本来バイ菌と共生して暮らしているもので、体内にも体の表面にも無数の微生物が寄生し、それと同居して自然に生きている。氏は髪をなるべく洗わないようにしているという。インドや東南アジアには一生髪を洗わない人々が沢山いる。髪の根本の皮脂を親の仇のように徹底的に排除すべきではない。毛髪の弱化の原因は洗い過ぎによる皮脂の欠如によるのではないかと言う。すべてはいい加減がいい。ものを噛むのも徹底的に噛んでどろどろになってから呑み込むより、いい加減のところで後の消化は胃に任せる方がよいのだ。噛みすぎると胃が退化する。すべてに関して“いい加減”でとどめておく。“いい加減”は“良い加減”なのである。
 五木氏は持病として偏頭痛と腰痛があって屡々悩まされるらしく、偏頭痛には低気圧の影響が、腰痛対策については歩行方法の工夫が延々と書いてある。こういうのは個人差があるからあまり参考にはならないが、彼が腰痛について随筆を書いたら驚くほど多くの人から反応があって、日本は腰痛大国であることを認識させられた、一説では1200万人の腰痛の友がいるという。ほかに彼の場合は原稿締め切りのストレスがある。いろいろ論じているが、ストレスは必要悪で、うまく向き合えばストレスは生命力を活性化する、少なくともこれをすべて回避することが健康への道とは思わないと書いている。

<近隣外交> このところ日本の近隣国の日本に対する反感が増大していることが諸報道からヒシヒシと感じ取れる。元々2004年4月の<反日の中国>で指摘したように共産党政権の安泰のために江沢民が実施した反日教育の成果として、大多数の中国民衆は日本という国を好ましくは思っていない。小泉首相の靖国参拝は“歴史問題に反省がない”と指弾する彼らの絶好の標的になった。しかし小泉首相側にも意地があるし、屈服させられたという印象は避けたいに違いない。ここへきて領土・領海にからむ問題が続発し始めた。
 昨年11月中国の原子力潜水艦が沖縄県宮古列島・多良間島周辺の日本領海内に潜行したまま侵入した。以前(明治26年)から日本が領有権を主張している尖閣列島に中国が異議を唱えている(1971年以降)問題とも関係がある。1996年7月政治結社日本青年社は尖閣列島・北小島に太陽電池を利用した灯台を建設していたが、本年2月日本政府は直接所有・管理することとし、海図に記載することとした。ところで尖閣諸島周辺海域にはイラク油田に匹敵する厖大な原油(約1000億バレル)が埋蔵されていることが判明した。最近になって中国は同海域の海底調査、更に進んで試掘を開始した。日本は両国の境界にまたがる問題であるため、中国に対して調査結果の開示を求めたが、中国はこれに応じようとしない。対抗上日本側も自国領域内で調査試掘を行う準備を開始した。
 戦後今まで中国に対して腰の引けた外交を続けてきたが、日本政府はここへきて毅然とした外交方針に切り替えることにしたようだ。長年続けてきた中国向けのO.D.A.についても2008年の北京オリンピックまでに終了するように、年度ごとに段階的に減額する方向で中国との非公式な了解に達したと報じられている。韓国に対しても同様で、長年領有権問題でもめていた竹島についてこのほど島根県議会が“竹島の日”条例を制定することを容認した。韓国側では大いに憤激して折角韓流ブームで盛んになった親善ムードも冷えているという。韓国大統領はこのところ控えていた教科書問題の非難を再開した。政治家は国民に対するポーズを忘れるわけにはいかないから本意は分からないが、韓国民の独島(竹島の韓国名)への観光旅行を許した。領土問題となれば双方の国民はいきり立ち、平素平和精神の遵守などと言っている人の大半が頭に血をのぼらせてしまう。韓国は常に宗主国中国を意識しているから、二つの国は似た動きをする。北朝鮮も同様だが、この国は論外である。
 ここへきて中国は日本が鋭意進めようとしている国連常任理事国入りの動きに真っ向から反対を始めた。歴史問題に対する認識が不十分というのが理由で、常任理事国になりたければ、多数決などによらずまず近隣諸国の同意を取り付けてからにすべきだと主張している。中国内の日本企業への民衆の厭がらせも始まっている。マレーシアの前首相マハテイール氏などは嘗て日本はいつまで中国にペコペコしているのかと言及したほどで、日本の安保常任理加入に反対するのは中国と朝鮮だけであろう。ヴェトナム・カンボジア・タイ・マレーシア・インドネシアなど東南アジア諸国に強い反対があろうとは思われない。O.D.A.をはじめとする日本の経済援助は直接口に出さなくとも感謝されている筈だ。但し中国と韓国は賠償金を十分に取り立てそこなったという不満が未だに残っているらしく、領土問題にからめて政治的に日本敵視政策を強めようとしている。こうなると昔中国でも遠交近攻策という外交方針をとった話があったことを思い出す。尤も昭和前半の中国侵攻には日本に一分の理もないのだから、歴史問題としてこれだけはこの際改めて声を大にして謝っておいて然るべきだ。この点を避けて通っているために中国に対していつまでもスッキリしない。

<人の声> テレビを点けているが、四六時中画面を見ているわけではない。パソコンの画面を見ていたり、机の上に拡げた本を読んでいたりする。しかしテレビに登場する人の音声は否応なしに耳に入る。今日は久しぶりに耳にする聞き覚えのある女の人の声を聴く。想い出そうとするが、特定できない。誰だったかなあとテレビの画面を見る。岸田今日子だった。元気に座談している。彼女は私より1、2年年上の筈だが、声はほとんど変わっていない。大学の頃既に有名な女優になっていた彼女に憧れているらしい友がいた。女にしては低い周波数の声だが、人を沈静化させるような響きがある。しかしその声調の特徴を文章で表現するのは至難である。
 黒柳徹子のまくしたてるような声は忘れようとしたって忘れられない。小泉首相の声も聞き慣れているので、聞き間違えることはないだろう。有名なところではN.H.K.などの俳句の会の司会を長年勤めている加賀美幸子さんの声も特徴がある。桜井洋子というアナウンサーも独自の番組をもっているせいもあって、大いに癖がある。この人の場合は声以上に話す言葉に特徴がある。考えてみるとニュースなどを担当して画面に顔が現れないと聞き流してしまって誰の声か把めない場合が多い。ニュースに個性は必要がないから、放送局でも個性を殺して話すように教育しているのだろうが、一般のトーク番組ではそのような必要はない。その場合には必ず画面に現れる人物と声を組み合わせて聴いている。この頃盛んになった“家族に乾杯”の笑福亭鶴ベエのダミ声も顔と切り離すことが困難である。
 人の声を憶える場合に意識はしなくても話し手の顔と組み合わせた形で記憶しているらしい。相手の話の理解は声だけ聞いているよりもその声を発する人の顔を見ている方がよほど容易だと思う。最近電話でややこしい勧誘電話がかってくると、最初から断る気でいるせいもあるが、なかなか話の全容が頭に入らない。相手の話し方の問題もあろうが、相手の顔が見えないせいが大きい。冒頭に述べたように結局は声で憶えているのだから、顔などどうでもよさそうなものだが、意外にそうではないらしい。自分にとって懐かしい声というのがいくつもあるが、よく考えれば皆その顔・表情と結びついている。数えてみたこともない。200人ではきかない筈だが、この数年は隠棲していて、直接耳にするのはテレビ経由がほとんどになってしまった。
 聞き慣れた声になると特徴が少なくてもちゃんと聞き分けられる。声音を憶えるということはどういう事だろう。音声振動の波形を見ても図形的な特徴は認識・判別できそうにない。よく犯罪関係者の声を高い周波数にずらせることによって特徴を故意に捉えにくくする手法が用いられる。あれは波形は恐らくそのままで時間軸を圧縮して周波数だけ高くずらしているのだと思うが、声音の個人的な特徴が全く捉えられなくなる。視覚という画像認識能力とは異なる機序が聴覚にはあるらしい。機会があれば音声学の話を聞いてみたい。どなたか適当な参考書を紹介してください。

<仏教の真髄> B.R.アンベードカル(1891-1956)というインドの政治家で不可触民解放の指導者は現インド憲法(不可触民制の廃止を決めた)の起草者でもあって、一生を被抑圧カーストの地位向上に尽力した。インドには古くからバラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラ(不可触民)の4階級から成る不平等な序列社会が存在し、最下級の不可触民は職業選択の面で徹底的に虐げられていた。イギリスの植民地になっていたインドでは1930年代末から民族運動が盛んになり、ガンジーが非暴力不服従運動を開始した。イギリスが懐柔策として設けた円卓会議に不可触民代表として参加したアンベードカルは選挙制度をめぐってヒンドウー教とこのカースト制度を擁護するガンジーと決定的に対立した。結果としてアンベードカルはヒンドウー教が不可触民差別の根源にあると悟り、1935年その放棄を宣言した。その直後から英国の支配からの独立、インド・パキスタンの分離などの政治に忙殺されて宗教活動に専念できなかったが、1956年ブッダ生誕2500年祭を迎えてナーゲプールで仏教への改宗挙式を挙行、式場に参集した30万〜50万の大衆も仏教帰依を誓った。彼は直後に急逝したが後継者も現れて、マハーシュートラ州を中心に仏教徒の数は増大を続け、1971年には381万人に達している。彼はヒンドウー教は迷信と不合理に満ちていて、現代科学の批判に耐え得る合理性を持っているのは仏教以外にないとした。

 ここに紹介するのはそのアンベードカルの著作による“ブッダとそのダンマ”(光文社新書)で、政治家という激職の中でブッダの生涯の事跡を調査し、“新しい仏教の入門書”としてまとめたこの著書は彼の死の翌年にボンベイで発行された。彼は厖大な仏典を渉猟して重要な文章を抽出し、分類整理した後に解説を付した。彼は過去の仏教研究者たちによる煩雑な教理研究にはほとんど関心を払っていない。真の仏教はいかなるものでなければならないかという立場から独自の解釈も加えている。彼は仏教が神と霊魂の存在を否定する宗教であることを強調し、ブッダは合理性を尊び、全能の神や霊魂の輪廻転生といった不合理を否定し、自分を神格化することなく人間として教えを説いたと主張する。アンベードカルはダンマ(仏教の本質)は人と人の間の正しい関係(慈悲の心を基礎とする道徳)の確立にあり、仏教では他の宗教において神が占める位置を“道徳性”(ダンマ)が占めると説く。また仏教で最高の境地とされる“涅槃”(ニルヴァーナ)とは正しい知識をもち妄執に起因する“苦”を克服しダンマを実践する人に具わる“静寂な心理状態”とする。

 シッダールタ・ガウタマは紀元前6世紀にインドの北東端に割拠する国の一つシャカ国の国王の息子として生まれた。誕生後間もなく仙人が訪れてこの子は世俗の道を歩めば大君主となるが、家を捨てれば完全な悟りを得て衆生を率いて至福に導くだろうと予言した。王はよい娘と結婚させるなど彼が家を去らぬように腐心したが、成人となって国のサンガに入会した後隣国との戦争には反対して国を出なければならなくなった。彼は両親の嘆きの中を妻も振り切って出家し、当時の哲学者・思想家の参集するラージャグリハまで600kmを歩いた。やがて様々な苦行をしている行者に会い、ガウタマは最も苛酷な苦行を6年間続けた結果、衰弱のあまり動けなくなった。彼は”真の静謐と心の平静は肉体が必要とするものを規則正しく満たすことによって得られる”と悟り、苦行を止めた。彼は体力を養うために食糧を集め、道脇の菩提樹の下に結跏趺坐して“我が膚、腱、骨干からび、我が血、肉尽き果てるとも、完全なる正覚を得るまではこの地を去らじ”と念じた。40日と更に4週間の瞑想を経て、人が蒙る苦と不幸の原因は何か、また如何にしてそれを取り除くのかを考えつめ、遂に悟りを得てブッダとなった。悟りを得たブッダは進んで自らの教説を説くべきか、更に自らの完成に専念するか迷ったが、梵天が現れて是非とも迷っている人々を救ってくれと懇願し、ブッダはそれに応えて教えを世界に弘めることを決意した。
 ブッダは丈高く容姿が優れ、堂々とした歩き方と比類ない威厳と気高さで会う人を圧倒した。会った人で敬意を表さずに行き過ぎる者は誰一人としてなく、口を開けばその声は魅力に富んで人々の心を揺り動かし、顔つきだけでも畏敬の念を抱かせた。ブッダは2種類の帰依の仕方を定めた。一つは比丘(ビク)となりサンガというビクの集団に入ること、もう一つは在家信者(ウパーサカ)としてブッダのダンマに帰依することである。ウパーサカは私財の所有を許されたが、ビクには許されない。ウパーサカに儀式は要らないがビクになるには受戒の儀式が要る。戒律はビクには破れば厳しい罰があるが、ウパーサカには守るべき教訓にとどまる。
 彼は最初の説法の相手に苦行を続けている嘗ての仲間の5人の修道者を選んだ。彼らは最初はブッダが苦行を止めたことを軽蔑していたが、ブッダの悟りの何たるかを尋ねた。彼は答えた。彼のダンマは神にも霊魂にも係りはない。死後の生活、儀式、祭儀も関係ない。ダンマの中心はこの世の人間であり、人間対人間の関係である。この世は痛苦に満ちているが、それを如何に取り去るかがダンマの唯一の目的である。苦の克服は(1)清浄な道(2)正しい道(3)徳行の道を各人が歩むことで達成できる。清浄な道は規範をもち、これを守ること。正しい道とは正しい見方、正しいことば、正しい行い、それに障害を克服する正しい努力。徳行の道とは諸徳目の実践で、これは叡智(プラジュニャー)によって般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミータ)―知恵のある完成された状態が確かめられなければならない。更にブッダは言う。私のダンマは苦の存在を強調するが、決して厭世的ではなく苦の克服を重視する。苦の存在への無知を取り除き、苦の死滅という大きな希望を示すのだ。5人の修行者たちはこれが真のダンマであることを悟り、ブッダの足下にひざまづき、弟子にして欲しいと懇願し、ブッダはこれを受け入れた。次いで続々と人々が帰依を申し入れた。

 キリストは預言者と宣し自らを神の子としてこれを認めない者に救いはないとした。イスラム教の預言者モハメッドは神によって遣わされた預言者であると自ら宣し、それを受け入れる者のみが救われるとした。ブッダはこのような条件を全く定めなかった。自分は普通の人間であるとし、自分を自分の宗教の中の特別の位置におかなかった。ブッダと彼のダンマは全く独立したもので、彼は何度も後継者を決めるように求められたがその都度拒否して“ダンマこそが後継者であり、原理は原理自体によって生き続けるべきであって特定の人の権威は必要ない。ダンマの権威を強調するために常に開祖の名を借りなければならないようなら、それはもはやダンマとは言えない”と述べた。ブッダは救いを約束しなかった。彼は自らを求道者と呼び救済者とは言わなかった。救済は各人が各自の努力でなされるべきものである。ブッダは自分自身とそのダンマに神性を求めなかった。それは人間による人間のための発見であり天啓ではない。


○ダンマとは何か 基本的に身体・言葉・心の各面において清らかに生きるのがダンマである。ブッダの中心教義は涅槃であって、涅槃(ニルヴァーナ)に優る幸せはないと述べた。涅槃は決して死滅などではなく、人が正しい道を進めるように情念を統御することである。ダンマとはすべての事象を一時的で儚いと確信することで、“一切はかりそめである”から何ものにも執着するなと教える。またカルマ(人間の行為)が道徳的秩序の媒介者であり、神などの影響は一切ないとする。すべての事象の原因は人間の行為や自然法則にあるとし、合理的思想を鼓吹して超自然主義を否定する。
○何がダンマでないか 奇跡、超自然力や様々な迷信。創造主、すべての神、全知全能者。霊魂信仰、推量に基づいた信仰、宗教的儀式、祭礼、屠殺行為による供犠。教典の不可謬性。前世カルマの遺伝性、転生。
○サッダンマ(正法)とは何か 心を清らかにすること。この世(死後の世界ではない)を義の王国とすること。学問は種族・性別を問わず、すべての人に開かれるべきこと(これは知識の習得は極く少数に限定されるべきとする当時のバラモン教義への強い反論だった)。知識と智慧とを区別し智慧を重視すること。戎行(殺す、盗む、欺く、淫する、飲酒の禁止)を守ること。同情・憐憫・慈愛を重視する。人と人の垣根を取り除く(ブッダは4種姓のカースト制度の廃止の強力な主唱者だった)。
 ブッダの教説は口頭でなされたから、その流布は主としてビクの暗記によったが、往々にして誤り伝えられた。特にカルマと再生についてはバラモン教にも類似の教理があったから混同されることが多かった。厖大な仏教説話集の中からブッダの言葉を抽出するには最大の注意力が必要である。その目安を示すと、ブッダは何よりも合理的かつ論理的だった。第2にブッダは人の幸せにならぬようなことで論議することは決してなかった。第3にブッダはすべての事柄を二種に分けた。彼が確かだと思うこととそうでないことである。前者には明確な意見を述べたが後者には暫定的な意見として述べた。―これが文献調査と選別に没頭したアンベードカルの述懐である。

 ブッダは民主主義を信じ、それを実践する国は滅びないと述べた。霊魂に関する限り彼は消滅論者だったが、物質に関してはそうではなかった。彼の思想はエネルギ不滅の科学的真理とも合致する。
 釈尊は教団設立後も一箇所に留まることなく、布教活動に従事して旅を続けた。中でもシュラーヴァステイには75回、ラージャグリハには25回だが、次々と場所を変え北インド全土を徒歩で歩き通し、信者が僧園や休息所を建ててくれるほかは道端の木陰で野宿した。釈尊は3枚以上の衣を持たず、1日1食、それも毎朝自らの托鉢で得た。釈尊が80歳になった旅の徒次、会いに来た母と妻に最後の会見をする。更に旅を進め信者の招待を受けた時食事に当って赤痢のような症状になり、一旦回復して旅を続けたが、クシナーラで休息の必要を感じてマンゴー林で横になり、改めてサーラ林に辿り着いて衣を敷いて横になった。臨終を間近にして弟子たちは後継者の指名を求めたが、釈尊は“論争が起きたら、徹底的に討議し最後は多数決で決めよ”と指名を拒んだ。釈尊は嘆き悲しむ側近のアーナンダに“私はそなたたちに理法と戒律を与えた。私はそれを喜んでいる。私の亡き後それがそなたたちの師となるのだ”と言った。“さあ皆にもう一度思い出させよう。一切の事象は衰滅してゆくものである。心して修行に励みなさい”これが釈尊の最後の言葉だった。入滅は紀元前483年ヴァイシャーカ月(インド歴4〜5月)の満月の夜であった。

 この著書を読んで、ブッダの説いた原始の仏教がその後のまた現代世界各地諸宗派仏教のありようと如何に相違するか、感嘆するほどである。我々釈尊のこの世に存した2500年後に生きる者としてはその後様々な流派の創始者が工夫した諸々の概念に妨げられて、これを読むまで原始仏教の姿を想像するのも困難になっていたことを告白する。曰く地獄・極楽、閻魔大王、経典、仏像、読経、念仏、諸寺院、不動明王、観音菩薩、大日如来、曼荼羅、ダライ・ラマの継承に関わる転生信仰等々。道を説き、信者を増やす必要から長い歴史の中で如何に広く遠くブッダの思想が変転させられていったことか。しかし今や行き詰った感もある現代仏教に比して、創始仏教が極めて合理的で何のまやかしもない形で、かつ深遠な哲理を含んでいるさまに他の宗教の遠く及ばない清新な魅力を改めて感ずる。
 現代の思想家の評価を抽出してみると、以下のようにベタ褒めである。
○人間は長い間外在的権威に支配されてきた。もし人間が本当の意味で文明化されねばならぬとしたら、自分自身の原理によって自分を統御することを学ばねばならない。仏教は、人は己に己自身によって制せられねばならぬということを命じた最初の倫理体系である。だから進んだ世界はこの最高の教えを仏教に求める必要がある。
○仏教ほど“智慧”の大切さ、無知・無明の怖さを強調した宗教は他にない。“覚めている”ことをこれほど強調した宗教は他にない。精神的領域、文化にこれほどの深い考察と体系を築いた宗教は他にない。
○仏教においては智慧は救済に対してなくてはならないものとして常に強調されている。キリスト教では智慧はキリスト教的理想像の一部であったことは一度もない。キリスト教的思想体系の創始者の非哲学的性格によって、人間の道徳的側面がその知的側面から切り離されてしまったのである。世界の不幸は邪悪によるよりも無知・無明、盲目的信仰によってはるかに引き起こされている。ブッダはそれを許そうとしなかったのだ。
○世界の宗教指導者の中で、ブッダのみが外部の援助を借りず、人間は本来授かっている偉大な内在的能力によって、自らを救済することができることを証明した唯一の栄えある存在である。もし偉大な人間の価値というものが総ての人間の価値を高めることにあるとすれば、ブッダ以上に偉大な存在が他にあるだろうか。

 (私見)一方で何故この創始仏教がそのままの形で存続し、隆盛を極めなかったのかを考えてみると、それはブッダの性格の生真面目さと彼の人の性格的な欠陥への洞察不足によるものではないかと思う。人間は自分にはとてもできないような奇跡とか不可思議な神秘的なできごとを内心では待ち望む性癖がある。それから自分には全く届かぬ高みにいる絶対者の意志に盲目的に服従・追随したい願望も全く否定はできないだろう。合理的なものばかりには飽き足りないつむじまがり性もある。年がら年中道徳を説かれてはやりきれない、たまには破目を外したくなるのが人間だよと言いつのる手合いが必ず居る。この辺りの脱線人間を完全に統御することはブッダご本人ならともかくその弟子たちでは無理だったのだろう。将来現れる誰かによってこの形勢を覆すことができるだろうか。

<河合隼雄> “深層意識への道”(岩波書店)という本を読む。興味深い話の連続で、全く抵抗なく読み通してしまった。半ば自伝でもあるのだが、著者の名は知っていても文化庁長官を務められているほかはほとんど予備知識なかったが、本職はユング心理学の権威であることを知らされた。独特のユーモアがある。男ばかり6人兄弟の下から2番目。自分は本を読まない方だと言いながら、著書の各章ごとに自分の感銘を覚えた本を何冊も紹介し全部で200冊にも及ぶ。自分は本屋に予約・注文する本のネタが切れて困ることもあるが、これで当分候補探しの手間が省ける。
 こどもの頃西洋の童話などをよく読んでいて、先生が採点している時間潰しによく前へ出てそういうお話をさせられた。話をするのは得意だった。大学に入って数学はダメ(?)だったが本はよく読んだと書いてある。ところが卒業すると高校の数学の教師になる。数学を教えることには絶対の自信があり、多くの教え子を京大に入学させた。しかし高校の教師にはくすんだような人が多く、人間進歩が止まったらダメだと人に言われて数学の研究では進歩しないから臨床心理学を独学で始めた。臨床心理学の指導者は日本にはいないので渡米するためにフルブライトの試験を受けた。試験は難しく京都で150人受けて3人しか合格しなかったが、自分は試験にはものすごく強い人間だから通ったという。でも英会話の配点は甘くしてあったと聞き、東京へ出て特訓を受けたら後にとても役に立った。

 ロールシャッハ・テストの勉強中にブルーノ・クロッパーという大家の雑誌を読み、不審な点を手紙で問い合わせたら、誤りを指摘してくれて有難い旨の返事が来て、その縁で米国へ渡るとクロッパーに師事する。彼はフロイド派から当時まだ少数派だったユング派に転向した人で、その縁でマーヴィン・シュピーゲルマン、カール・マイヤーおよび何冊かのユングの著書を紹介される。分析心理学では夢の診断が重要ということを教えられる。マイヤーの講義録にこういう報告が載っていた。“ある人の夢分析からいくつかの問題を解決してその人と別れた。大分経ってからその人から「最近5.6ほど不思議な夢を見た、その意味が分からないので特別に会ってくれないか」という手紙が来て、マイヤーは応じて彼と会い、話を聞いて「ああ、これは死ぬ夢だ、あなたは近々死ぬことになっている。」と言う。彼は驚くが、「そうですか。それでは死んでいく準備をしましょう」と言って、(病気のことは書いてないが)知人への挨拶や財産の処分をして死んでいった”というものだった。その後河合氏は宗教および死について深く考えるようになった。
 氏はユング研究所で資格を取って帰国した。夢や神話や昔話は誤解を避けて当分はお蔵入りにして、箱庭療法による心理療法を行った。これは箱庭に砂と沢山のおもちゃを入れて好きなものを作ってもらう。作っている内に本人が変わっていく。人間は自分で自分を治す力があり、うまくいく場合は「ほお、よくできたね、来週も来る?」と言っている内に治ってしまうという。ある人に作ってもらった作品を見て普通の箱庭に見えるが、川に橋がかかっていないので「これは世界が二つに割れていますよ」と言ったら「これは分裂病の患者に作ってもらったのです」ということだった。昔話を研究すると無意識の世界がよく分かるという。グリム兄弟が昔話を一生懸命に集めたのは、キリスト教以前の精神世界を知りたいと考えたからだという。日本の昔話や神話も興味深いが、それを日本で何時、如何にして言い出すかは極めて難しい問題と思ったという。

 “臨床の知”ということを書いている。教師とか宗教家は“お互いに仲良くしなければいけません”などと平気で言うが、そこに自分は入っていない。自分のことは忘れる才能をもっている。世界を考える場合に近代科学の場合、観察する人は世界の外にいる。コスモロジー(宇宙論)というのは自分もその世界の中に入ってその中の一人として全体を見るもので、外から見ているのとは違う。世の学者には、自分を入れ込まず、パーフォーマンスをせず、非常に難しくて高邁でカッコよくて役に立たぬことを言っている人が圧倒的に多い。人間は時に日常生活の境界を越えてリミナリテイの世界に入ることが大事だとターナーは言う。例えば無礼講。飲んだ席で最下位の者が部長にわっと文句が言える。翌日には皆“忘れた”となる。例えば祭り。みこしは時に寄付の少ない家になだれ込んだりするが、怒れない。心理療法ではリミナリテイの世界で人に会う。「私は人の役にも立たないから死んだ方がマシだわ」というのに「そんなことはないよ、しっかりやってね、さよなら!」と言ってしまってはダメなのであって、逃げ出さず逆らわずに「ウーン」とじっくり聞いているとやがて相手は生き返るが、ものすごいエネルギのいる仕事だという。
 “華厳経”について書いてある。華厳経を読んでいると必ず眠くなる。大日如来が沢山の菩薩を連れて来て、その菩薩の名前が全部書いてある。それが終わるとまた似たようなヤツが50ほど出てきて、というふうにいつまで経ってもなかなか本題の話が始まらない。やがて普賢菩薩が大日如来はこういうことを言いたがっているのではないかという話をする。大日如来はただ座っていてぶうっと煙を出すだけで何も言わない。ここではっと気が付いた。華厳経は読んで考えてもだめなのだ。お経は読まない。唱えるのです。皆と一緒に大勢の菩薩の名を唱えていてちょっと眠くなったところで、ゴーンと音が鳴るようになっているのです。皆で唱えながらどんどん深層の意識に降りていくのです。降りたときに初めて書いてあることを体で感じる。頭ではない。東洋人の智慧は凄いと思う。お経を唱えずに深層意識の深まりを座ってやるのが禅です。そこではフュージョンというか、自分と世界と宇宙との一体体験ができるのですと。
 面白い話はまだいくつもあるが、長くなるのでこの辺で一旦は終わりにして、紹介されている本を買い求めた上で改めて論じることにする。特に夢の話はもっと追求したい。

<ビッグ・バン> このほど東大理学部ビッグ・バン宇宙国際研究センターは実験に基づいて約140億年前のビッグバン直後の宇宙は従来考えられていたような気体ではなく、液体状態だったと発表した。この液体は物質を構成する基本粒子クオークとクオーク同士を結びつけるグルーオンという素粒子の溶け合ったもので、実験で再現できたのはビッグバンの100万分の1秒*後の温度2兆度*の状態だという。この話は4月20日のN.H.K.ニュースで流され、4月22日の毎日新聞1面最下段の“余録”にも紹介された。但し両者の情報を比較すると、*印の数字はオーダーは近いが、微妙に相違している。
 これは現実に属する知識として、現在の我々の実生活とこれほど縁遠い話はない。学者というものは途方もないことを研究するものだ。宇宙のすべてはビッグ・バンをもって始まったと言い、それ以後宇宙は膨張を続けているというが、どうもよく分からない。ビッグ・バン後の最初の1秒間の間に極端な高密度と高温の下ですさまじい変化が終わり、その後は従来の物理学で検証可能な緩慢な変化が続いているというのだ。ビッグ・バン以前はどうなっていたのか。ここでいう宇宙というのは宇宙に浮遊する諸物質のことで、空間や時間はそれらの物質の消長に関わらず永遠に続いていたし、また続いていく筈である。どういうきっかけでそのような激変(ビッグ・バン)が生じたのか。
 私は1年ほど前に“宇宙が始まるとき”(ジョン・バロウ著、草思社)という本を入手してその内容を完全には納得できぬままにずっと机の片隅に置いてあって、この際読み返している。この本は“我々が探求する二つの先端領域―物質の構成要素という極微の世界と星や銀河という天文学の世界―は最近思いがけない道筋をたどって一つに合わさった”という文章で始まっている。ハッブルは星の観察による遠方の銀河の光の赤方変移と遠方の星ほど早い速度で遠ざかっていることから宇宙が膨張を続けている事を知り、一方で天の川銀河など近隣の星たちが膨張していない事を知った。星雲の後退速度は距離に比例して増大し、輻射強度の測定から宇宙はあらゆる方向に同じ速度で膨張していることが分かった。アインシュタインは宇宙のサイズは一定の大きさに留まることはできず、時間の経過につれて膨張するか、収縮するかいずれかの道をとらざるを得ないことを発見した。観測によって現実の宇宙の膨張はやがて収縮に転ずるか、それとも僅かにでも膨張を継続するかギリギリの臨界点付近にあることが知られるようになった。現在の宇宙の膨張速度とその減速の割合から逆算すると初期特異点(ビッグ・バン)は150億年ほど前になるという。これは地球上で発見された最も古いグリーンランドの表層岩の年代(39億年前)からすると比較的に新しい。

 宇宙は極めて大きい密度とエネルギをもった初期特異点からスタートしたという。エネルギと質量は等価である(E=mc**2)というアインシュタインの定理とも矛盾しない。この考え(ビッグ・バン)は1930年から多くの天文学者の反論に関わらず生き残り、1965年ごろには定着した。3種類のニュートリノを基に極高温の下に核反応が起こって中性子と陽子が様々な組み合わせで結合し、最も軽い元素:水素ができた。やがて(凡そ100秒後に)重水素、ヘリウム3とヘリウム4、リチウムが生成された。ヘリウム4は23%、ヘリウム3と重水素が10万分のいくつかで、リチウムは10億分のいくつか、残りは水素である。天文観測によってこれらの元素がこの比率で現在宇宙にあまねく存在していることが確認されている。これがビッグ・バンの何よりの証拠である。やがて重力が星や銀河を形成させ、星の生涯の最終段階では炭素・窒素・酸素・珪素などあらゆる元素に姿を変え、爆発して超新星になるとき諸元素は空間にばらまかれて惑星や諸生命体を作った。宇宙を観察している我々のような複雑な構造体を作る物質を生み出せるのは、何十億年経った後でもなお臨界分岐点に極めて近いところで膨張し続けている宇宙に限るのだという。
 アインシュタインの死後一般相対性理論と量子力学が解離してしまっていたが、最近宇宙望遠鏡などの観測結果から宇宙各所にブラックホールが存在することが分かってきた。2001年11月の話題でブラックホールに関わる知見の一部を紹介した。一般相対性理論と量子力学を合体させた超ひも理論とそれを発展させたM理論がこのブラックホールの挙動を説明するために役に立つという。自分には十分に理解できていないので、断片的な知識の受け売りになってしまうが、ブラックホールの質量には下限がない。そのような質量の小さなブラックホールと素粒子は実は同じ根本的なひも状物質の二つの相、水と氷のように同じコインの両面であることが分かったという。世の中には重力・電磁気力・素粒子間に働く強い核力・弱い核力の4種類の力があり、これらは常温では強さが非常に異なるが、宇宙誕生時の超高温下ではほぼ同じ強さになるという統一理論が生まれた。
 ビッグバン直後の状況については、冒頭に記した如くシミュレーションでは地球最大の粒子加速器でも10**ー11秒後の状況にまでしかさかのぼれない。膨張の最初の10**−43秒間まで調べようとする試みがなされているというが、そのような極限状態においても一般相対性理論が成立するという保証はない。著書によればその点については4種の仮説があって、どれが正しいかは現在誰も分からないという。次にその仮説を掲げておく。
1)空間、時間、物質をもつ宇宙は有限の密度で生まれて(突如発生?)膨張を続ける。
2)収縮を続けてきた宇宙は有限で最小の状態からそこで反転して膨張に移る。
3)無限の過去から続いた有限密度の静止状態から突如膨張を開始する。
4)過去に遡れば宇宙は次第に小さくなるが、無限小になることはない。特異点はない。
 要するにその成因を含めてよく分からないのだ。その発生時期も140億年前(冒頭に挙げたニュース)と150億年前(バロー氏の著書)とでは10億年も差異がある。いかりや長介ではないが、こちとらの寿命とは関係ないから勝手にやってくれ。―なお文中の式および数値で冪乗を表す上ツキ文字**がこの原稿では通常文字に戻っていて読みにくいことをお詫びしますー

<脱線事故> J.R.西日本鉄道福知山線で4月25日午前9時20分に乗客580人を乗せた宝塚発同志社前行き上り快速の7両編成電車が伊丹駅を出た後の半径300mの曲線路で先頭の5両が脱線し、線路から6m離れたマンション・フュージョン尼ヶ崎に激突した。1両目は横転してマンション1階駐車場の中に潜り込んで縦方向に1/2程度に押し潰され、2両目は1両目車両に乗り上げるようにマンションの壁に巻き付く形でくの字に曲がり車両の幅方向は完全に押しつぶされた。3両目は180度向きを変え、4両目までは前後の連結が切断された。死者は1、2両目に集中し、車両の破壊・変形が激しいために2両に閉じこめられた犠牲者の収容は3日経っても終わらず困難を極めた。また少なからざる人数が車両からこぼれ出て狭い間隙に挟まれていた。死者は106人、負傷者は458人に達し、鉄道事故として史上4番目、過去40年間の最悪となった。
 直前の伊丹駅では所定の停車位置をオーバーランし、車両を運転手がバックさせたために発車時刻が1分半遅れており、その遅れを取り戻すために運転手は現場付近では通常より高速で列車を走行させていた。なおシステムのA.T.S.は旧式のもので、規定速度を上回った車両を自動的に減速させる機能はなく、また曲線路の曲率半径がそれほど小さくないために規定により脱線防止用ガードは設けられていなかった。なお制限速度は直線路では120km/hだが、当該曲線路では70 km/hだった。また事故地点の遠心力による脱線限界速度は135 km/hと発表される一方、車内に残された走行記録の分析によって当時の速度が108km/hと報告された。
 報道の中で論じられている事故原因には曲線路進入時の走行速度(異常に速かったという複数の乗客の証言)、曲線路進入時に急ブレーキをかけたこと(これも乗客の証言がある)、先頭車両右の車輪が浮き上がって車両が左に傾いたこと(乗客ならびにマンション・ヴェランダからの目撃者の証言)、列車後方の2本のレールに白い粉のような粉砕痕があること(J.R.側が事故直後に発表)、および非常ブレーキが作動していたこと(車両の運転記録による)などが挙げられている。非常ブレーキというのは手動ブレーキ7段階の最高レベルに相当し、停車するまで解除できない。専門家の意見を徴すると、この内2番目および5番目の急ブレーキが日比谷線の事故でも実験によって追認されたように、曲線路ではブレーキによって回転をロックされた車輪フランジが静止摩擦によってせり上がり脱輪する可能性が大きいことを指摘している。一方で事故調査委員会は左レール上に右車輪が乗り越えた痕跡がないと発表した。また運転間隔の短い朝、問題の列車の前に線路に置き石をした不心得者がいた確率は小さいし、委員会では粉砕痕は列車が脱線時に跳ね飛ばした線路わきの石を後続車両が轢いたのであろうと言っている。

 毎日新聞の“余録”は私の敬愛する寺田寅彦の随筆“柿の種”の中の一文を載せている。―汽車の進むにつれて、おりおり線路のカーブにかかる/カーブとカーブとの間はまっすぐな直線である/少なくもその時の私には、この、曲線と直線との継ぎはぎの鉄路が、なんとなく不自然で、ぎごちなく、また不安な感じを与えるのであったー 
 曲線というのは一定曲率の円弧であろう。円弧の鉄路の上を走る時は遠心力によって車両も乗客も外側に振られる。直線から円弧にかかると急に遠心力がかかるし、円弧から直線に戻ると急に遠心力が消滅するから、人も車も2度衝撃を受ける。このことを寅彦は婉曲に指摘しているのだろう。人間工学的に不快感を防ぐには、直線と一定曲率の円弧の間に徐々に曲率を変える線路を置くべきで、それによって遠心力を0から一定値まで連続的に変え、衝撃をなくすことができる。高速道路の設計ではクロソイド曲線などでそれが考慮されるが、一般の鉄道では恐らくレール製造上の制約からそれが無視されて単純円弧が用いられることが多いようだ。事故発生地点もどうやら直線と一定曲率の円弧を直接接続しているようで、加速度の時間的な変化を考えれば理解しやすいが、この曲線路に入った瞬間にはその円弧で定常的に発生する遠心力の2倍の衝撃力を受ける。先にJ.R.が発表した脱線限界速度135 km/hは恐らくその点を考慮していないのではないか。右車輪の浮き上がりに続く脱線転覆はその可能性を示唆している。自動車の走行でも曲線路に入る前に減速し、むしろ曲線路では加速するように教えられる。もし曲線路に入った途端に急ブレーキ(非常ブレーキ)をかけたのなら諸原因が複合して最悪な結果を招くだろう。
 それにしてもN.H.K.、民放ともに当日は延々と事故の報道をしたが、その中でオヤと思ったのは伊丹駅でのオーバーラン距離で、複数の乗客が車両3台分位行き過ぎたと証言したのに、車掌の“8mオーバーランした”という惨事発生前の走行中の電車からの電話報告をJ.R.側が流したために、いずれのテレビ報道もこの“8m”情報を繰り返して流した。事務所に戻った車掌に詳しく事情聴取した結果、J.R.側は翌日になってオーバーランは40m(2両分)であり、伊丹駅発車直後に運転手から電話で車掌に責任軽減のために“8mだったことにしてくれ”と依頼があったことを明らかにした。運転経験者に言わせると詳細なマニュアルがあるので、“8m”のオーバーランは大過なのだそうで、また以前から社内ではこの種の過失に厳しい制裁を課していて、40mなどという数字は大問題になるらしい。
 過去にその種の失敗歴をいくつかもつ運転手だったので、事故当時その過失による再処罰に強い懸念を覚え、また次駅尼ヶ崎では過密ダイヤの東海道本線に合流するために、列車の速度を上げて遅れを少しでも取り戻しダイヤの混乱を軽減させなければならないという強いプレッシャーを覚えて居たことは間違いない。そのために最後にそんなこととは比べようもない大事故を起こしてしまった。翌日の記者会見でオーバーランの距離を訂正したJ.R.当局の責任者は“(車掌が)何故このような偽りの報告をしたのか理解できない”と発言したが、我々視聴者には当事者の心情が痛いほど理解できる。近頃飛び込み自殺による人身事故が頻発して都会で1時間を越える遅れが往々発生するが、それに比すればJ.R.も1分や2分の時刻厳守より安全走行を心がけるべきだったと今更言っても後の祭りだ。何の責任もない大勢の犠牲者の方々には深甚の弔意を捧げる。



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