
<江戸時代に学ぶ> “大江戸開府400年事情” (講談社)という本がある。著者は最近N.H.K.テレビで広重の浮世絵“東海道五十三次”の解説を順にやっている石川英輔師匠で、古き日本、ことに江戸時代を愛するわが党の士である。本にはふんだんに当時の風俗を表す挿絵が掲載されている。徳川家康が江戸に開府した慶長4年(1603)から米国に開国を迫られて大政奉還する慶応3年(1867)までの265年間にわたって徳川幕府が長続きした理由は政治の基本的な方向が正しかったからだと著者は言う。徹底した弾圧、言論統制などは全くなかった。それを行ったソ連は72年で崩壊した。日本人は忘れかけているがこの平和な時代は安土桃山時代の10倍の長きにわたって続いたのだ。圧政がなかった証拠として著者は役人の数が極端に少なかったことを挙げる。江戸の庶民人口は18世紀中頃には55万人に達していたが、庶民を支配する町奉行所は2人の町奉行の下に290人の役人しかいなかった。警察業務についてはその内の24人、市内パトロールをした定町廻り同心はそのまた半分の12人だった。庶民人口40万人の大阪では奉行所の役人が160人、警察が10人で定町廻り同心は4人だったという。
著者は江戸時代の日本が決して極楽だったとは言っていない。“普通の国”であったが、世の矛盾が圧倒的な中下層の人々にとって我慢できる限度を越えなかったために265年無事に続いたのだ。革命が起きたのは我慢の限度を越えた国で、革命は決して羨むべき社会現象ではない。注意しなければならないのは圧倒的に多い通常の生活を無視して記録に残る異常現象だけに注目する“異常現象史”で、在来そういう文献記述が多いので、大勢が分からなくなって江戸時代は暗い時代という誤った観念を持つ人が少なくないという。
“権あるものは禄少なく、禄あるものは権少なし”というのが徳川家康以来の基本方針だった。これは権力者の所得は少なくし、金持ちには権力を握らせないというもので、国民が貧乏しているのに支配階級だけが贅沢をするというのが政権崩壊の典型的なパターンであることを考えると、苦労を積んだ家康らしい独特の発想である。世界を見渡しても権力と財力を切り離した政権は徳川幕府だけかもしれない。「武士は食わねど高楊枝」という言葉は有名で、支配層の武士階級は台所事情は厳しいが体面だけは保たねばならず、庶民までが同情していた。ソ連社会ではノーメンクラツーラという一握りの特権階級がうまい汁を吸って庶民の不満を累積させたので、権力の崩壊するときは一気にいってしまった。江戸時代の武士たちは戦争がなかったので、制約の中で食うために内職に励んだ。自分たちより身分は高いが、はるかに貧乏な直参武士たちが傘貼りなどをしているのを出入りの商人たちがどんな気持ちで眺めていたか、到底革命の起きる雰囲気ではない。
江戸の町数は当初2里四方だったのが寛永年間(1624-)に300町、正徳(1713)には933町の4里四方に拡がり、延享年間(1744-)には1678町まで増えた。ところが町奉行所の役人は増えなかった。江戸時代を通じて290人しかいなかった。役人が少ないために江戸の町で何か困ることが起きたかというと、そんな様子はない。幕府はなるべく民間に処理を任せ、民間で処理しきれない問題だけを担当した。江戸は家康が信頼できる3人の町年寄という民間の行政による市政でスタートした。この3家は日本橋の角地に屋敷地を拝領しその他何カ所かの拝領した土地を人に貸して地代を町年寄役所の運営費に充てた。幕府はその後行政費を払わずに済んだのだから安上がりだった。町の拡大とともに同様にして民間の行政組織も強化していった。このような分散処理の合理性が江戸時代が長期安定化した根拠の一つになっているという。
異論もあると思うが織田信長以降の政権は日本流の革命によって効果的な社会改革を行ったと英輔師匠は力説する。織田信長は比叡山や延暦寺の武装宗教勢力を壊滅させ、不条理極まる重苦しい宗教勢力から民衆を解放した。徳川幕府がカトリックを禁止したのもその延長と考えるべきで、ヨーロッパの中世を震撼させた宗教裁判の日本侵略を未然に防止したのだ。もう一つの隠れた革命は豊臣秀吉による“太閤検地”である。全国の土地を“石高”という単位で統一表示し、大名の収入を安定させると同時に荘園制度を破壊し、自作農を増やして生産意欲を増大させた。既得権を守ろうとする反対勢力は武力で圧倒した。対比的に英輔師匠はフランス革命を挙げ、200万人の民衆が故なく虐殺されたと指弾する。フランス革命が近代の夜明けだなどと言うのは混迷の中に生きた当時の人たちにとっては妄言と恨まれる。
徳川幕府も検地を続け、各大名もそれにならったので農村の生産力は増大した。江戸時代の日本は“植物国家”だったと氏は言う。生活に必要なあらゆるものを植物を原料に製造していたからだ。農村は工業生産の原料生産地であり、更に工業生産そのものも行っていた。明治維新以後の西洋かぶれの工業とは全く性質を異にするが。また氏は“江戸っ子は宵越しの金はもたない”という江戸人の気前のよさが江戸繁栄の理由の一つだと言う。床下に壺でもおいて有り金を貯め込んだりしたら、経済は停滞しただろう。“金は天下の廻りもの”という言葉もこの当時生まれた。
今になって考えてみると265年続いたこの平穏無事な江戸時代にはこの国を巧みに維持運営するための智慧が満ちているはずだ。然し明治以後の日本人は江戸時代から何も学ぼうとしなかったばかりか、旧弊とか因循姑息などと言って古いやりかたを片っ端からぶちこわした。氏は巨大な国の借金に苦しむ現在の日本を救う道は国民の一人一人がクニに対する依頼心をなくして、江戸時代にならって自分のことは自分でやる精神に立ち帰る以外にはないと言う。江戸時代の先祖はクニに対して何も期待せず、自分たちのことは自分たちで処理していた。子孫に負の遺産を残したりはしなかった。地球温暖化の原因のかけらも生み出さなかった。

<バオバブ> マダガスカルという島は2億年前にアフリカ大陸と分離した嘗てのゴンドワナ大陸の生き証人と言われ、世界で4番目の大きさで面積は日本全体の1.4倍、動植物の80〜85%が固有種で、例えばキツネ猿が30種も生息する。人々は昔アジアから移り住んだようで米を主食にし、水田のある風景はアフリカの中のアジアとも称される。



<歎異抄> これは浄土真宗の教義を伝える解説書で、著者は親鸞の弟子唯円である。関連する事実を要約すると、1175年に法然が専修念仏に帰依する(浄土宗の発足)。1181年親鸞(9歳)出家して慈円の門に入る。同年平清盛没。1192年源頼朝征夷大将軍になる。1201年親鸞(29歳)、法然(69歳)の門に入り専修念仏に帰依する。1207年法然・親鸞など流罪となるが1211年赦免される。1212年法然没。1256年東国に布教に赴いた善鸞(親鸞の子)を義絶。1262年親鸞没。1286年唯円“歎異抄(たんにしょう)”を著す。1485年蓮如“歎異抄”を書写。
親鸞は慈円の自力聖道門を捨てて法然の他力浄土門に入るが、一時は興福寺僧侶の讒言によって流罪になる。また本人、その子および門弟たちにとっても自力を捨て切って徹底して他力に帰依することは容易ではなかった。そのために親鸞に親子の縁を切られたにも関らず、善鸞は秘事法門として布教を続けた。また東国の念仏者の中にはさまざまの“異義”が発生して念仏集団を混乱に陥れた。これを憂えた唯円は直接に見聞した師親鸞の発言と行動を思い起こして、親鸞の説いた他力仏教の真意を“歎異抄”に記した。また後年蓮如は“御文章”で秘事法門を批判して“歎異抄”に説かれた他力の宗旨を改めて強調した。
その第1条には浄土真宗の宗旨の要が以下のように記されている。
弥陀の誓願不思議に助けまひらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏まふさんと思ひたつ心のおこるとき、すなはち、摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪の人を選ばれず、ただ信心を要とすと知るべし。そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をも恐るべからず、弥陀の本願を妨ぐるほどの悪なきゆへに。
―この解説に曰く、阿弥陀仏のいのちあるものはすべてを救うという不思議な誓願(本願)を信じて、念仏しようと思うとき、ただちに摂取不捨の利益を授けてくださる、即ち摂取不捨とは仏に背を向けて逃げ惑う煩悩にまみれた人間を、どこまでも追いかけて、ひとたび捉えると、決して離さないことであるという。仏の不思議な力のこめられている念仏は、これにまさる善はないので、他の善い行いをする必要はないことを強調する。−
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。−阿弥陀仏の救いの主対象は悪人であるというこの主張は“悪人正機”と称され、浄土真宗の教義の根幹をなしている。更に言う。−自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころがけかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみまつれば、真実報土の往生を遂げるなり。−と。
私たちが苦しみや悩みに直面したときに、癒すてだてを仏教に求めるならば、自力聖道門と他力浄土門の二つの道がある。自力聖道門の癒し(慈悲)はすばらしいものではあるが、私たち無力な人間にとってはとても実現不可能であるから、他力浄土門による解決の道―阿弥陀仏の救いを信じて念仏することー以外に手だてはない。
親鸞は弟子たちが直弟子、孫弟子、誰の系列などと争うのを見て、自分には弟子は一人もいない。念仏者は同じ浄土への道を歩む同行なのだと述べた。またー念仏は非行・非善んなりーと言った。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行なり。わがはからひにて作る善にもあらざれば非善なり。すべて阿弥陀仏からたまわったものであるという。
親鸞と唯円の対話が記されている。唯円が問う。念仏していても躍り上がるような喜びを感じません。浄土は素晴らしいところだというが、早く行きたいという心が起きません。親鸞が答える。私も同じ思いだ。それは煩悩の仕業で、煩悩に戸惑う私たちを救うのが阿弥陀仏の願いだから、私たちが救われることは間違いないと。また念仏は、我々凡夫の思慮・分別を超えたもので、心で思い図ることのできないものであると。先月の河合隼雄の話にも出てきたが、念仏によって人が思考を停止し、深層意識に降りていくことを誘導しているらしい。その結果心の安らぎを得るのがこの宗教の狙いだと愚考する。
第11条以後は教団を分裂に導きかねない様々な“異義”を指弾し、そのような差別はいずれも有害無益であるとする。
“誓名別信”:誓願(念仏を軽んじ信心を強調する)=一念義(一声の念仏でよいとする)に対して名号=多念義(念仏を多く唱えることが功徳になるとする)を重視して誓・名両派に分かれること
“学解往生”:浄土真宗の教理をよく学ばなければ浄土に行けないとする。これには学問をせよというのは聖道門の方で浄土門は無学で構わないと反論する。
“怖畏罪悪”:本願に頼って罪悪を怖れずつけあがると浄土に行けないとする。これにはすべては様々な縁によるので関係ないと反論する。
“念仏滅罪”:一声の念仏は重罪を消し去る功徳があるとするもので、大切なのは本願を信じることで、念仏を功利的に考えるのは自力になると否定する。
“即身成仏”:生きている限りは誰でも煩悩にさいなまれる凡夫で、成仏するのは死んでからと反論する。
“自然回心”:腹を立てたり悪事をするたびに回心して悔い改めなければいけないとする考え方に対して、それは自力の考え方で一度本願他力に頼る気になればそれ以上の必要はないとする。
“辺地堕獄”:(信心のしかたが悪くて)浄土の辺地に生まれたものは最後は地獄に落ちるという考えで、そんなことはどこにも説かれていないと否定する。
“施量別報”:信者の寄付の多寡によって浄土に生まれたときに差異が出るというもので、それは道場主が私利追求のために立てた異説と否定されている。
以上を総じてこうした異義の発生は違った信心をもつからで、その信心が阿弥陀仏から賜ったものではなく、銘々が自分勝手に作った自力の信心であるとする。
この“歎異抄”という書物の題名は今までも聞いていたが、深く考えてみたことはなかった。改めて考えると、よほど異義即ち親鸞の教義に対する異論もしくは相違する解釈が頻発したので、布教本部では手に余り、深く慨嘆しその名を付してこの教導・解説書を作ったのであろう。本来の教祖である法然は専修念仏を唱えたが、その弟子親鸞が悪人こそ最初に救われるべきであるとしたことで、法然の宗旨を一歩踏み出してしまった。そのために法然の浄土宗に対して親鸞の浄土真宗と区別されるようになったのだが、特筆すべきは現代においてはこの真宗が日本の仏教を代表する宗派として京都の西・東本願寺を中心に多数の信徒を抱える発展を遂げた事実である。
世界にあまたの宗教がある中で、道徳をその教義の中に含ませていないものはほとんどないだろう。汝殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ等々の説教が付随するのが当然と思われている。ところが親鸞の教義によれば、ただ“南無阿弥陀仏”とさえ唱えれば、残忍な人殺しも許されるのだ。通常感覚であればこれには条件を付けたくなる筈だが、親鸞は一切の異論を切り捨ててしまった。罪を犯すも犯さぬもすべては縁である。“怖畏罪悪”などと迷う必要はない。そのために人は差別されてはならぬ。仏は罪を犯した者を真っ先に救うと言って人類の倫理・現代の法体系に真っ向から逆らう。私自身浄土真宗信徒の末裔だが、この教義がかくも多くの人に受け入れられた理由は納得できていない。
初めてこの教義を聞いた時は、誰にもいつでも無条件に受け入れられる寛大でよい宗教だと思った。しかし“悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに。”というのでは犯罪を許し奨励することにさえなるのではないか。例えば神戸・池田小学校の宅間守のような男も他に優先して救済するのか。多くの人は他人から見下げられないように自ら節制し、欲望を自制する。そんなこともできない男が安易に救われては許せないと幾多の異論が出て当然とやはり思ってしまう。犯罪を犯すのも“縁”とはとても割りきれない。或いは罪を犯せば人の世ではしかるべく裁かれるであろう。それは認めた上で、だが死んだ後では救ってやるよというのが本意なのだろうか。

<源氏物語> とは言っても、文学としての“源氏物語”をまともにとりあげるのではなくて、その底流にある宗教思想に注目する。平安時代の王朝文化は中国の影響を受けながらも日本独自の発展を遂げ、王朝貴族たちは男性も女性も特徴のある華麗で統一された装束(右は十二単)を決めていた。しかし彼らはその優美な外見とは裏腹に数々の苦難と障害を抱え、現実の生活から得られないもの、あるいは苦しみから解放してくれるものを切実に仏教に求めていた。この時代の仏教は現代日本とは比べものにならぬほど深く広く生活の隅々まで浸透していた。私にそう実感させたのはたまたま求めた“源氏物語―鑑賞と基礎知識”(国文学「解釈と鑑賞」別冊)だった。それは前項で宿題になった浄土真宗繁栄の理由にもつながることを示唆していた。
中国に仏教が伝わったのは後漢の明帝が大月氏に使者を派遣し西暦67年に二人の僧が洛陽にやってきて、白馬寺で“四十二経”を訳したのが最初とされる。その後シルクロードを経由しての渡来僧と渡来氏族の子孫が仏教繁栄の立役者となる。次々に小乗仏典、次いで多くの大乗仏典が訳された。仏教が最も中国人に衝撃を与えたのは“輪廻説”であった。儒教や老荘思想、更に不老長生を説く神仙思想にしても、死後の世界について詳しく説明していないために、死後の応報を聞いた中国人たちは呆然となった。亀茲出身の鳩摩羅什が401年長安に入り“大品般若経”・“法華経”・“維摩経”・“阿弥陀経”など経典1300巻を流麗な訳文で翻訳して中国を大乗一色に塗り替えた。彼は善も悪も許される永遠の都として極楽を唱えた。西方浄土信仰が固まってくるが、神とその住まう場所を示す“天”の語が仏教と儒教の融合の役を果たした。美しい声調の梵歌と西方系の仏教音楽が演奏された。仏教による“無常”を詠う漢詩が増えた。仏教受容期の朝鮮で重視されたのは誓願による治病の効果であった。日本では9世紀になると宮廷を中心に種種多様な仏教行事が年中行事化し、季節感をもって受け入れられるようになった。最も重視された経典は“法華経”で、法華経信仰による浄土願生が日本人に大きな位置を占めた。
平安時代僧侶は公の仏教儀式の執行者として登場し、治病・出産の加持祈祷・葬送儀礼・貴人護持の役を果たし、俗人が寺院に参詣して願いをかける時は仏との媒介をした。僧侶は漢字から片仮名を作り出したし、中国文化は仏教に主導されつつ日本人に受容されていった。仏教は日本風に変容されながら人々の心にしみこんでいき、奥深いところで日本人のものの見方や考え方を制約するようになった。源氏物語では屡々(120回も)“宿世”という語が用いられていて、特に女性と関係深く、女性の登場人物のほとんどすべてにこの語が使われていて、この語を抜きにしては源氏物語は成り立たないと著者は言う。宿世は“前世の因縁” という訳語では不十分とされ、前世の事柄の結果としてのこの世での宿命・運勢を指すものらしい。この時代は男に比して女の立場は極めて弱く、空蝉・玉鬘・女三宮・浮舟を初めとして男との関係で波乱の人生を送る女人が多い。これらの女人の何人かが懊悩の末決然として出家していき、後に残された男(例えば源氏)がまた宿世の定めを嘆くことになる。
来世に関わる概念として不孝の罪があり、これはインド仏教にはなく儒教の概念だが、孝・不孝は親ないし子自身の来世の浄土往生乃至堕地獄に結びつくとされる。但し出家が親に対する最大の孝であって、追善に役立つという思想もある。また空蝉や藤壺の密通の際に“天の眼”が登場する。これは儒教の天譴説や仏教の天眼による監視に基づくもので、三世(前世・当世・来世)にわたる因果応報が説かれている。また“親の因果が子に報いる”という親から子への業の継承も源氏物語には記されていて、儒教文化圏の仏教の特徴になっている。様々な地獄図絵が人々を脅かした。源信・保胤らが説いた浄土教では死に際しての究極的な心の正常・“臨終の正念”が重視され、執着心を絶って往生を遂げ、極楽で成仏することを説いた。
こうして見るとこの平安時代より少し後年の鎌倉時代になって親鸞が説いた浄土真宗は明らかに来世において救われる道を述べたので、この世のことではない。私を含めて現代人は仏教を葬式の際には利用しても、来世のことなどほとんど頭の中にないので親鸞の説話を錯覚してしまうのだ。「ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれる」などという脅し言葉も死語になってしまった。この際前項の最後に提起した疑問を撤回するとともに、同じ日本人が宗教への信仰について時代を経てどうしてこれほど思想が変わってしまったのか、もう少し考えてみることにする。

<東儀秀樹> NHK“こころの旅”は“古い笛の音を訪ねて”という題で伝統的な雅楽で最も重要な役割を果たしている“ひちりき”のルーツを求めてシルクロードを旅する雅楽師東儀秀樹を紹介した。旅したのは2000年7月、当時東儀は40歳、ハンサムな男で年より若く見える。“ひちりき”という楽器は昔大陸から日本に伝わったことは確かだが、その独特の演奏態様を含めて今や日本だけにしか残らぬものとなってしまった。宗教はそれぞれがそれにふさわしい音楽をもっているが、神道の場合“ひちりき”の音色は雰囲気をもりあげるために欠かせない要素になっている。東儀秀樹は若い頃ロックミュージックに凝ったこともあって西洋音楽にも堪能ではあるが、18歳からは心を決めて今や数少なくなった日本古来の伝統音楽を伝承する音楽家としての立場を貫き、雅楽を広めようとしている姿勢に好感をもっている。
シルクロードのトルファンは今や多民族のるつぼになっているが、昔は高昌国という仏教国で楽器の名手もいたという。ベゼクリク千仏洞という遺跡があり、80を超える石窟があって、100年前のヨーロッパ探検隊に荒らされてしまったが、多くの壁画があってその一つの“衆人奏楽図”でひちりきに似た楽器が演奏されている状景が描かれていた。東儀はひちりきのルーツの手がかりが掴めるのではないかとここを訪れた。街の楽器店で現物を見せて訊ねると、この街にはないがウルムチにはあるはずだと訪ねるべき人を紹介される。
同じ新彊ウイグル自治区にあるウルムチはトルファンから180km離れていて人口150万人の大都市だった。紹介されたトフーチ・ザイデン氏は日本の雅楽師と聞いて非常な親愛感を表し、バラメイという楽器を見せ自分で吹いて見せてくれた。ひちりきは竹で作るが、バラメイは葦から作る。形状・構造は似ている。吹き方は父から子へと伝承される。バラメイは悲しい音の楽器だという。東儀はザイデン氏から1本のバラメイの寄贈を受ける。バラメイはクチャで生まれたと教えられる。
クチャはウルムチから650km離れていて、汽車で14時間かかった。クチャの郊外にはバラメイの原材料である葦の群生している広大な湿地があった。訊くと伝統的な楽器で、儀式で吹くという。そういう機会はすぐにはなかったが、郊外の道で楽隊がやってくるのに出会った。日本の雅楽師と紹介を受けた一同は道に座り込んで演奏をしてくれた。バラメイの他に弦楽器、打楽器もあって、楽器を手にしていない人たちは自然に踊る。招かれてこれから結婚式に行く途中だと言い、やがて人々は演奏しながら去っていく。東儀は伝統を子孫に伝えていこうとする人々の情熱を感じた。
東儀とシルクロードの人々の間の楽器を通じての交流は何の打算もなく素直で快く見えた。そこには言葉が不自由でもそれが障害にならない心の通じ合いがあった。彼の地では仏教は完全にイスラム教に肩代わりされたし、終着点の日本では神道と融合してしまっている。期待した“ひちりき”の演奏方法そのものに出会えなかったのは長い年月と遠く離れた地域で、関わる宗教にも民族にも更には植物環境にも相違があるので当然ではあるが、伝統の楽器を愛し続ける人々の心情には相通ずるものがあると感じた。

<イスラム教> 世界の宗教人口を概観すると、キリスト教が18億7000万人、イスラム教は10億7000万人、ヒンドウー教が7億5000万人、仏教は3億5000万人と発表されている(1995年現在)。第2位のイスラム教の地域別分布は中近東・アフリカが3億3400万人、東・南・東南アジアが5億3200万人、ブラックアフリカ1億2100万人、C.I.S.(独立国家共同体)6100万人、欧米2100万人となっている。近年西ヨーロッパにおけるムスリム人口が急増し始めていて、イスラム世界と非イスラム世界という地域的な区別は困難になってきた。以下は“イスラム教入門”(中村広治郎・岩波新書)の要約である。
イスラム教の発祥地アラビア半島には農業を営む定住民と山羊・羊を飼育する遊牧民が部族社会を作って共存していたが、4世紀にローマ帝国の国教となったキリスト教やローマ軍によって離散させられたユダヤ教徒の影響も及んでくる一方で、共通アラビア語が生まれてアラブの民族意識が育ち始め、部族信仰がメッカの主神アッラーの一神教信仰に結集する動きが既に生じていた。商人の子として生まれたムハンマドは山の洞窟で瞑想する内に神の啓示を受ける。彼は驚いて山を下りるが更に第2の啓示を受ける。彼は自己の意志と無関係に有無を言わさず舞台に引きずり出され、神の道具としての役割を強いられることになるが、やがて預言者としての役割を自覚してそれに徹するようになる。彼の初期の宣教内容は以下の5点であった。
1)創造主アッラーの力と恩恵(唯一の神)
2)復活と最後の審判(人は死んであの世で復活する)
3)神に対する感謝と礼拝(人間の義務)
4)施善、特に喜捨の勧め
5)ムハンマドの預言者としての使命
ムハンマドの布教に対する人々の反撥は強く、特に“復活と最後の審判”の思想は経済政治的利害や部族的な伝統と対立すると考えた。布教活動は失敗を続けたが、メッカの北方350kmにあるメデイナでは氏族間の対立・紛争が絶えず、ムハンマドが混乱を鎮めてくれると信じた人々に迎えられて、621年ムハンマドはメデイナに移住する。これを“ヒジュラ”と呼ぶ。ここでムハンマドと彼に追従した移住者たちおよび彼らに従う者たちの間で“メデイナ憲章”とよばれる盟約が結ばれた。これが初期のウンマ(共同体)である。但しメデイナには約20の氏族から成るユダヤ教徒がいたし、メデイナのムスリムとメッカ側との対立は続いていた。以後経済的な自立を求めて何度かの戦いをしかけた結果、遂にメデイナのムスリムはメッカのクライシュ族と対等な立場にのし上がった。630年条約違反を口実にメッカの無血征服に成功するに及んで、半島内の多くの部族はメデイナに使節を送って盟約を結んだ。これを遣使の年という。2年後ムハンマドはメッカ巡礼を行うが、その数ヶ月後にウンマの発展をムスリムたちに委ねて息をひきとった。
コーランによるイスラム共同体(ウンマ)の位置付けは次のようなものである。人類はもともと争いのない平和で正しい一つのウンマであった。ところが人々は対立し争って多くのウンマに分裂してしまった。神は人々の争いを裁決し、彼らを正しい道に引き戻すためにそれぞれのウンマに対して神の使徒(預言者)を遣わし、正しい信仰と行為規範、週末に対する警告を伝えさせた。アダムをはじめとしてノア、アブラハム、イサク、ロト、ヨセフ、モーゼ、ダヴィデ、ソロモン、ザカリヤ、バブテスマのヨハネ、イエスなどで、ムハンマドもその一人である。ウンマの中には警告を拒み使徒に従わないものもあって、神の定めた寿命に従って消滅していった。また神はモーゼには“律法の書(トーラー)”をイエスには“福音書(インジール)”を授けて、それぞれの啓典の民は“ユダヤ教徒”、“キリスト教徒”となったが、互いに対立し与えられた啓典を隠蔽・改竄したり使徒を神格化する誤りを犯してしまった。ユダヤ教徒やキリスト教徒が啓典を正しく伝えていないのならば、ムハンマドの啓典とそのウンマは新たな意義をもってくる。ムハンマドの啓典の中に神が言い残したものは何一つないので、新たな使徒は必要なく、ムハンマドは最後の預言者である。ムハンマドのウンマが神の命令に忠実でありその使命を遂行している限り、神の加護下にあるが、人間がその使命を放棄すれば神もまた別のウンマを選ぶことになろう。ウンマは宗教集団であると同時に生活共同体でもあるところにその特徴がある。
コーランとはアラビア語で書かれたイスラム教の根本聖典のことである。コーランの朗唱をキラーアと言い、教会音楽もイコンも宗教画もないイスラム教ではキラーアとアラベスクの装飾模様が信仰の数少ない芸術的表現である。コーランを別の言葉に翻訳したものはもはや神の言葉ではないとされる。この点はキリスト教、仏教と大いに異なる。仏教徒に至っては仏典の漢訳が終わるとサンスクリット語やパーリ語の原典には全く関心を示さなくなった。コーランには多くの異本があり、3代目カリフのカリフ・ウスマンが結集に努めてある程度成功したが、それ以前の古書・写本類が一掃されたわけではない。
神は全知全能であり自然界・人間界に起こることすべての背後に神の見えぬ手が働くとされながらも、その属性において人間に最も近く、喜んだり怒ったり思い直したりする人格神である。またコーランは霊的で不可視のさまざまな天使を認める。天使たちは神の手足となってさまざまな役割をする。聖ガブリエルは“誠実な霊”として預言者ムハンメドに神の啓示を伝えた。その他にイスラム以前からアラビアで信じられた悪霊ジンや人間を誘惑し堕落させるサターンなども居る。神は6日で天地を創造したといわれ、人(まず男、次いで女)を土から造りその後で楽園追放されるまでは聖書の記述と同じだが、やがて神との和解が成立し原罪が子孫に及ぶことはない。来世に比べて現世ははかなく旅人の一夜の宿りでしかない。旅の目標は来世にあるが、来世の運命は現世の生き方にかかってくるので、はかない現世とはいえ、どう生きるかは重要であると説く。そこには厳正な因果応報の倫理があるが、一方で深い信仰があり罪を懺悔して神に許しを乞えば赦される。
イスラーム法(シャリーア)とは現代法体系とは別の普遍的超越的な規範である。それは四つの法源から成り、優先度の順に@コーラン、Aスンナ(ムハンマドが示した範例:ハデイースに示される)、Bイジュマー(合意;権威者による法解釈)、Cキャース(類推)として示される。イスラーム法の内容は二つに大別され、一つは儀礼的規範(ムスリムが神に対して負う義務)、他はムアーマラート(ムスリム相互の権利義務関係)である。儀礼的規範は五行として知られ、1)信仰告白(入信時や礼拝時に行なう)、2)礼拝(1日5回)、3)喜捨(自由喜捨と定めの喜捨がある)、4)断食(ラマダーン月の日中)、5)巡礼(メッカ・カ−バ神殿への一生に一度の大巡礼::実行者はハッジと敬称される)から成る。
この宗教の最大の特徴である礼拝について特記する。夜明け前、正午過ぎ、午後、日没後、夜の5回。礼拝の時間は尖塔(ミナレット)から告知(アザーン)される。それを行うアッジンの音声はコーランの朗誦と似ているが、内容は「神は至大なり。神は唯一であることを証言する。ムハンマドは神の使徒であることを証言する。礼拝に来たれ。繁栄に来たれ。神は至大なり。神は唯一である。」で、朝は冒頭に「礼拝は睡眠よりよい。」が付加される。この声を聞くと人々はモスクに集まってきて、水場で顔や手を水で洗い、イマームと呼ばれる導師の先導で礼拝する。通常は自宅で礼拝することも認められているが、金曜日の正午過ぎにはこのようなモスクでの集団礼拝が義務とされている。怠け者や不規則な生活者それに職業を第1義に考え行動する人にはとても勤まらない。
ムアーマラートは婚姻・離婚・犯罪と刑罰などから成り、他に異教徒に関する規範がある。犯罪と刑罰はキサース刑(“目には目を、歯には歯を”という同害報復刑)、ハッド刑(コーランとスンナに記されていて変更不能という固定刑で姦通罪・中傷罪・飲酒罪・窃盗罪・追剥罪の五つ)、ターズイール刑(刑罰の定めがないために裁判官が量刑する裁量刑)の3種で、総じて刑罰は笞打ちや手の切断など相当に厳しい。背教が確定すれば死刑だが、事前に十分な改悛の機会が与えられる。異教徒に関する規範としては世界を二つの地域に大別して“イスラムの地”と“戦争の地”とする。信仰と共同体を守るために積極的に戦うことを説くジハード(聖戦)は神の道に努力することーの意である。
1400年余にわたるイスラム教の歴史の中で多くの分派やセクトが生まれたが大半は消滅した。その数は73に及ぶとされる。多数派であり諸分派の母体としてのスンニ派と現存する有力分派であるシーア派の最大の相違点は、シーア派ではアリーをムハンマドの後継者として認め、神に次ぐ権威をもち絶対不可謬な存在としてその子孫としてのイマームを容認する。
人類の起源についての神話や宗教の発足点については他の一神教と驚くべき共通性をもつ一方で、現実社会への展開においてはユダヤ教・キリスト教とイスラム教とでは決定的な相違を形成しているのは人間の研究上から極めて興味深い。また<歎異抄>・<源氏物語>で着目した仏教の来世思想に優るとも決して劣らぬ強烈な説法がイスラム教にあることは感銘深かった。現代日本ではほとんど消滅してしまったこの思想が今でもイスラム世界では活きているのだろうか。また僧侶でもないのに、礼拝その他の厳しい宗教義務をかくも多くの人々が怠らずに守っていることには改めて感嘆するばかりだ。

<ねじまき鳥> フィクションの世界を敬遠していた自分としては久しぶりに小説を読んだ。村上春樹の“ねじまき鳥クロニクル”というもので、新潮文庫で3巻に分かれている。最近の文学界に疎いので、インターネットで“村上春樹”についての予備知識を求める。―1949年京都に生まれる。早大文学部演劇科卒。在学中に国分寺にジャズ喫茶“ピーターキャット”を開店。現代日本を代表する作家・翻訳家で、強く影響を受けた“春樹チルドレン”と呼ばれる若い作家たちがいる。―とあった。いわゆる団塊世代に属する一人である。
読み始めると変わった小説で話の展開が全く予想できない意外性に引き込まれて、飽きることなく2日半で読破してしまった。表題の“ねじまき鳥”というのは隣の家の木に止まって“ギイイ”とネジを巻くような声で啼くのだが、姿を見たことのない鳥だという。これを主人公は自分のあだ名にした。
主人公は30歳になったばかりで定職がなく、叔父が所有する一軒家に妻と二人で仮住まいしている。法律事務所に勤めていたが、司法試験に受かってないので使い走りでは詰まらなくなり、取りあえず妻の収入もあるので辞めた。妻の父の知り合いの本田という独身老人を訪ねて、ノモンハンの戦闘で九死に一生を得た話といくつかの謎めいた教訓話を聞く。「流れに逆らってはならず、上へ行くべき時は上へ、下へ行くべき時は下に行き、深い井戸の底へ降りろ。流れのない時はじっと我慢して待て。水にはくれぐれも気をつけろ」と。
月日が経ってその老人の死をその知人の旧軍人から報らされる。その元参謀本部陸軍中尉は主人公に満州の国境を越えた偵察行で蒙古軍に捕らえられた一生忘れられぬ体験談をする。蒙古人は羊の皮を剥ぐので皮剥ぎが得意だ。リーダーは情報を吐露させるべくロシア軍将校の命令で蒙古軍兵士に生きながら全身の皮を剥がれて虐殺された。凄い悲鳴が続いたがやがて消えた。中尉は脅迫されて深い井戸に落とし込まれて放置される。その井戸の底は真っ暗だったが1日に1回短時間だが光が差し込んだ。死を覚悟したが、3日目にうまく蒙古軍を逃れていた本田伍長に奇跡的に救出される。
妻が妊娠中絶し、やがて突然家出し何の音沙汰もなくなる。主人公は待ち疲れて、飼っていた猫が失踪したのを探して近くの空き家になっている敷地に踏み込む。その土地の何人もの持ち主が自殺を遂げ、最近家を建てた経営者は事業に失敗して別の地で一家心中して、近所の人たちはそこを首吊り屋敷と呼んだ。そこには使われていない古い井戸があり、蓋の上の石と蓋を外し石を投げ込んでみると水はなかった。彼は縄梯子をナップザックから取り出して一端を近くの木の幹に結びつけ、残りを井戸の中に降ろした。梯子を伝って降りるのはとても苦労したが、二十三段目に足が底の土を踏んだ。真っ暗だったが空気に異常はなく、時々縄梯子を引っ張って外れないことを確かめ、やがて壁にもたれて眠った。そういう環境で失踪した妻のことをはじめとして、普段考えない様々な事を思い浮かべ、夢か幻想か分からなくなる。井戸の底から見上げる夜の星は特別な親密感を与えた。
突然右頬に青黒い大きな痣ができているのに気が付いた。井戸のせいかと思うが結局心当たりはない。主人公の周りに何人かの女が現れては消えていく。一人の女は子供の頃いたずらで小舟に乗せられて水路を流され、舟が暗渠に入ってしまい怖い思いをした話をする。叔父が心配して訪れる。「いろんな物事が複雑にからみあっていて、どうやってほどけばよいのか分からない」と言うのに叔父は答えて「それをうまくやるためのコツみたいなのはちゃんとあるんだ。まず重要でないところから片づけていくんだよ。誰が考えても分かる馬鹿みたいなところにたっぷり時間をかけるんだ。」また「例えて言うならじっと街角に立って毎日毎日人の顔を見ていることだ。辛いかもしれないけれど、じっと留まって時間をかけなければならないこともある。私は自分の目で見たことしか信用しない。その内に霧が晴れたみたいに分かる。」と言った。
彼は何が簡単で重要でないか判別できなかったので、とにかく新宿へ出て広場のベンチに腰をおろし、通り過ぎる人の顔を眺めることにした。昼になるとコーヒーを買って飲み、ドーナッツを一つ食べた。1週間経って身なりの良い中年の女が話しかけてきた。彼女は彼の顔の青い痣を見ていた。“あなたお金はあるの”、“今のところ困ってはいませんね”、彼女は立ち去った。いろいろあって半年経ち(その間に駅前の不動産屋でお化け屋敷の相場を聞いた)、また新宿へ出かけることにした。1週間経ってまた彼女が現れた。彼は井戸と屋敷が手に入れたくなっていた。“どうやらお金が必要になったようです”と彼は言い、彼女の事務所に行くことになる。彼女ナツメグは彼の服装を点検し少しでも気に入らないところがあるとブテイックに連れて行き、新しい服に着替えさせた。
ナツメグの父は獣医で、母と幼いナツメグは終戦直後に父と別れて満州から日本に帰ってきた。父は帰国せず行方不明になったままだ。長い年月が経ちナツメグは限られた特定の女性顧客だけを相手にする服飾デザイナーになったが、夫がある日惨殺され犯人が見つからぬままにナツメグは仕事への情熱を失った。しかしたまたま顧客だった夫人が突然倒れて、介抱するうちにこめかみに当てたナツメグの手が思いもかけぬ治療効果を発揮する秘められた能力が分かり、それによって特定の裕福な婦人たちだけを相手に莫大な報酬を得る流れに入り込んでいたのだった。
“不吉な土地を買った幽霊会社”という見出しで週刊誌に首吊り屋敷に買い手が付き、高いコンクリート塀の中に家が新築されたことを報じた。やがて週刊誌は1日に2回黒塗りのメルセデス・ベンツが自動開閉する門を出入りすることとそれ以外の人の家への出入りは一切ないことを報じた。車の四方のガラスはテイントしてあって、誰が乗っているのかは不明である。ベンツを尾行したが、車は赤坂の某一流ホテルの地下駐車場に入り、ガードマンによって専用カードなしには追随進入を許されなかった。また屋敷の買い主はトンネル会社であり、建築に当たった建設会社は厳しく取材拒否をするので、最新の電子機器を駆使したらしい厳しい警備態勢に守られた家と持ち主についての謎は解けない。
主人公は高い塀を乗り越えていつものように家に入る。この家の精緻なシステムはベンツを運転するナツメグの息子で彼女の助手を務める無口な男シナモンによって維持されていた。橇の鈴音のような音に誘われてシナモンの小部屋に入るとそれはパソコンのコール音であり、「あなたは“ねじまき鳥クロニクル”にアクセスしています。1から16までの文書の中から番号を選択してください」というメッセージがあった。迷ったあげく、理由なく“#8”を選択した。コール音が止み、文書が現れた。
―それは1945年8月、ソ連軍戦車隊が迫っている満州・新京特別市の動物園で、人間を襲う可能性のある動物たちを兵隊たちが射殺した後で獣医は残る動物たちの世話をした。獣医の右頬には青い痣があった。彼は既に愛している妻と娘を日本に送り帰していた。兵隊たちは脱走した中国人で満州士官学校の生徒を捕縛して連れ込み、彼らを残虐に殺害する一部始終が記されている。獣医は鳥が木立のどこかで“ギイイ”とねじを巻くように啼いているのを聞いた。彼の消息は不明のままだ。―
文書の読了後、別の話を読もうとしたが、“#9”も “#10”も「“ねじまき鳥クロニクル”はコードR24によりアクセス不能です。別の文書を選んでください」と表示が出るだけなので、やむを得ずコンピュータをシャットダウンした。この物語はシナモンが作ったことは間違いなく、また獣医はシナモンの祖父である。母ナツメグに聞いた部分も多いだろう。物語のどこまでがシナモンの創作かは分からない。
主人公は屡々庭の井戸に入り、井戸の底に座って壁にもたれる。以前に持ち込んだはずのバットがなくなっていた。瞑想しまた眼を開ける。いつか壁を抜けていた。いくつかの廊下の角を曲がりドアを開ける。ロビーを抜けて廊下に足を踏み入れると突然真っ暗になった。いつの間にかバットが手元に戻っていて、誰かが襲いかかってきた。思い切りスイングするとバットは3回目に相手の頭に命中した。相手は床に倒れた。気が付いたときはまた暗黒の井戸の底に戻ってきていた。不意に井戸の底から水が湧いてきた。品川老人の警告を思い出した。しかし身体が痺れていて動かない。次第に水位が上がりやがて首から鼻に達した。これは悪い死に方ではないぞと考えながら気を失った。気が付くと“屋敷”の仮縫い室のソファに寝かされていて、ナツメグが井戸から助け出したのはシナモンだと教えてくれる。身体が回復するまでにまる2日かかった。3日目に鏡を見ると痣が消えていた。この屋敷はじきに処分されるのだという。でも“首吊り”の汚名は消えるだろう。またようやく家出した妻と連絡が取れて、しがらみが解決して帰ってくることになった。
この種の小説の雰囲気を伝えるために抜き書きするのは大変なことだと思い知った。要約などできるわけがない。あちこちに伏線が張ってあり、それを飛ばしてしまうと意味がなくなる。状景描写に作家としての腕をふるっているのは評価するが、そんなものにつきあっていたら全文掲載しなければならなくなる。沢山の登場人物が活躍するが、本筋でない人は思いきって割愛した。ストーリーは平行して進行している場面に次々に飛び移るし、それを追うのが小説の楽しみの一つだが、ここでは(私の勝手で)その一方を切り捨ててある。著者は(戦後生まれだが)日本軍の中国での行動に相当なこだわりをもっている。その点は私も同じだ。残虐行為もやったようだ。逆に戦後ソ連には相当にやられた。また井戸や暗いところには特別の思い入れがあるようだ。ジャズ喫茶を開くだけあって聞こえてくる音楽の題名があちこちに出てくる。しかし要は何が言いたいんだということを掘り当てるのは容易ではない。こちらの鈍いせいだろうが。

<競馬のヒーロー> 29日に行なわれた第72回日本ダービーは本命の“デイープインパクト”が2着に5馬身、3着に7.5馬身の大差をつけて圧勝した。ジョッキーは武豊。東京競馬場G1芝2400m。記録は2分23秒3.で昨年の覇者キングカメハメハと同タイム。14万人が詰めかけた競馬場は暫くの間地鳴りのような大歓声に包まれた。一番人気で単勝支持率73.4%。ハイセイコー(66.6%)を抜いて史上最高の人気馬になった。同馬は皐月賞でも武豊騎手で優勝していて二冠。“空飛ぶ衝撃波”という渾名が虚名でないことを実証した。次は秋(11月)の菊花賞で無敗の三冠馬を目指す。
スタートは例によってもたついた。スタート直後は後ろから3番目。中間はずっと二つに分かれた後の集団の半ばに位置してジリジリと詰める。4コーナーを回って馬群の外に持ち出して追走、最後の大外から仕掛けた。坂を上がり一旦前方が開けるとあっという間に差をつけ、最後の200mはブッチギリの圧勝となった。武豊騎手に聞くとースタート前から入れ込んでいて抑えるのに苦労した。スタートは得意でないが、大きく遅れなくてよかった。(皐月賞ではゲートが開くとよろめいて蛇行し、騎手が危うく転落を免れたほどで大きく遅れた。しかしゴールでは2着に2.5馬身の差をつけた。この馬はゲートが開く衝撃音がよほど怖いらしい。)仕掛けた時の反応はよかった。(追い込みの快速に)感動している。まるでチーターのようだ。―と語った。武自身はダービー4勝目。