
<高尾紳路> 第60期本因坊戦が戦われている。片や張翔(本当は木偏に羽で“ウ”と読むのだが、この字が使えない)本因坊、片や高尾紳路八段。張は台湾出身の林海峰の弟子で、高尾は藤沢秀行の弟子。30年、40年前は林と秀行がタイトルを争った。張は今や日本棋界の第1人者であり、名人・本因坊を併せ持つタイトル・ホールダーとして史上最年少である。趣味は詰め碁創作で、難解として知られる。最近海外の碁界は韓国と中国が強く、日本の棋士は各種優勝戦に出場しては負けてくるが、張はつい最近優勝を飾った。一方で高尾はまだタイトルはない。私は今まで高尾をよく知らなかったが、最近数年N.H.K.で勝ち残り、決して派手さはないが手厚い碁を打っている印象があった。今回のタイトル戦登場で師匠の藤沢秀行が久々にテレビ画面に現れて、「互角に戦うだろう」と言った。もう少し踏み込んで言いたいところを我慢した風だった。高尾は師匠譲りで酒が強い。性格も豪放な方らしい。一方張は酒は嗜まず、乗り物酔いをする。二人とも若いが性格・体質は真反対というほどに違う。この二人の対戦成績は6勝4敗と高尾がリードしている。張に対してこのように勝ち越している人は他にいないらしい。



<地震予測> 米国地質調査所(USGS)は先月18日カリフォルニア州の地震予報地図をウェブサイトで公開した。同州で24時間以内に強い揺れの地震が発生する確率を、地域ごとに色分けして表示する。データは1時間に1回以上の頻度で更新するという。
地図上の色は、改正メルカリ震度6(気象庁の震度4に相当)の揺れの地震が24時間以内に発生する確率を示す。10万分の1以下の地域が青、1000分の1が黄緑、10分の1以上がオレンジから赤というふうに、グラデーションで表示し、クリックで拡大表示もできる。
USGSカリフォルニア支部とスイス連邦工科大学チューリッヒ校が協力して開発したもので、USGSと南カリフォルニア大学南カリフォルニア地震センターが資金を拠出した。予報地図は、5月19日付の英科学誌「ネイチャー」でも紹介された。同州は米国最大の地震頻発地帯。官学による地震研究が盛んで、州政府などによる防災対策も進められている。ー右上の地図は過去の状態なので、現状を知るにはURL="http://pasadena.wr.usgs.gov/step/"でUSGSのカリフォルニア州地震予報地図(Real-time Forecast of Earthquake Hazard in the Next 24 Hours)を利用してください。
これは画期的な技術である。少なくとも地震予報のプラットフォームとしては。問題はその裏付けとなる地殻変動にからむ応力・変形などのデータ計測がどの程度広範囲にかつ精密にこのシステムをバックアップしているかだ。またそれらのデータと実際に起こる地震との関係が過去に発生した多くの地震によってどの程度裏付けが取れているかである。私は現状においてはあまり多くを期待しない。しかし予報時限を24時間に切ったのはよい試みだし、データを1時間に1回以上の頻度で更新するという方針は誠実な取り組み方だ。少なくとも地殻データの時間的な変化に着目することは激変の予知には必要不可欠なことだ。成功するかどうかはやってみなければ分からない。
ある朝起きて日常生活の習慣としてパソコンでこの地図を眺めたら、自分の居住する地域が真っ赤になっていたらどうだろう。或いはその前にテレビやラジオが騒ぎ立てているかもしれない。慌ててこの地図の自分の住所付近をクリックして詳細地図を見るだろう。多くの人はその日は日常生活の行動を中止するだろう。庭にテントを張るかもしれない。或いは急いで生活物資の買い出しに走るかもしれない。少なくとも知人に電話をかけてどうしたらよいか熱心に相談するだろう。そしてこのシステムが社会に与える影響の甚大さに人々は驚愕するだろう。また少なくとも数日以内にその予測結果の真偽ははっきりするだろう。人々の話題は自分らの行動と結果から見たその妥当性評価で沸騰するだろう。或いは発生した実害の大きさがすべてを圧倒するかもしれない。
いずれカリフォルニア州に中規模以上の地震が起こってこのシステムの有効性が実証されるだろう。日本でこのシステムを採用するのはその後の方がよいと思われる。昼中人々がオフィスで働いている最中にこの警報が出たら、特に都会では混乱はより大きくなるだろう。早急に帰宅すべきか否か。電車はまだ走り続けるだろうか。道路の混雑はどうか。政府や地方自治体はこういう際(警報は出たが地震は未発生)に何をすべきか、何をすべきでないか。災害時の人間社会のあるべきルールは実体験を元に作られる。しかし日本における断層の複雑さからすれば、この種の警報システムが空振りに終わり、人々の不信や非難を助長する可能性は大きい。“災害は忘れた頃にやってくる”と言ったのは寺田寅彦だそうで、そういうものを扱うのは熱しやすく冷めやすい人間にとって最も苦手な事に属するのである。

<台湾> Formosaは台湾の別称で、もとはポルトガル語で“美しい”の意であった。近隣にあってよく承知しているようでありながら、実はかなり疎い台湾の近代史について学ぶことにした。台湾の実質的な歴史は17世紀に始まる。台湾への漢族の移住・開拓は17世紀初頭より本格化し、南から北へと展開していった。台湾の漢族系住民は対岸の福建省璋(実はシ偏)州、福建省泉州、広東州嘉応州の三大出身地のどれかにほぼ属する。既に西部の平原には“平埔族”が、丘陵地から山岳地帯には“高砂族”が先住民族として住んでいた。嘉応州からの移民は“客家”と呼ばれ、独自の客家語を話し、福建省からの移民は福建語を話して互いに通じない。これら移住民は当然ながら先住民および移住民同士で経済資源を巡る競争と闘争の歴史を築いた。
台湾はサツマ芋に似た形で南北に険しい山脈が走り、最高峰玉山(旧称新高山)は標高3997mで富士山より高い。山脈の西側は肥沃な平原が広がるが、東側は山がちで開発は遅れた。その面積は3600平方キロ、九州より小さくオランダより大きい。人口は2230万人(2000年現在)である。
オランダ東インド会社はスペインを追って1624年台湾南部に拠点を作ったが、明に追われた鄭成功が中南部に移り住んだ。次いで明を倒した清王朝は鄭氏を追滅して台南に台湾府を設け、統治を開始した。但し台湾を反清勢力の温床にしないこと、清王朝の面倒の種にしないことが基本姿勢で、19世紀後半の西欧勢力登場まで積極支配の方針は取らなかった。清朝は対岸から台湾への移住制限と既に移住した漢族には先住民族地域への立ち入り制限政策を取ったが、徹底したものでなかったために浸透を遅らす効果しかもたなかった。清朝は統治下に入った社(部落)の住民を“熟蕃”と称し、漢族姓を名乗ることを許し税を課した。統治下に入らない者は“生蕃”と称してそのまま放置した。
19世紀後半台湾をめぐる状勢は急激に変化した。清帝国の衰弱と欧米列強の進出、ならびに新興日本の台頭である。アヘン戦争で痛めつけられた清国は日清戦争で日本に屈し、1895年下関条約によって台湾は日本に割譲された。日本は早速台北に台湾総督府を置き統治を開始した。総督には台湾の行政権、立法権および司法権が与えられ、駐屯軍指揮権も併せ持った。日本軍は激しい抵抗に直面し、平地で土着勢力のゲリラ的抵抗を制圧するのに1902年まで(この間の台湾側戦死者約32000名)、蕃地(山地)では1910年代半ばまでかかって、やっと全島をコントロール下においた。警察の統治に果たした役割は大きく、台湾に従来からあった“保甲”という村落の自治組織を警察官派出所の監督下においた。台湾統治は警察政治と言われた。
1900年には南北をつなぐ縦貫道路が7000キロメートルに達し、1908年には北部の基隆港と南部の高雄港をつなぐ西部平原縦貫鉄道が開通した。1919年には全島通信網が完成した。台湾領有早々から初等教育を中心に近代学校教育制度の導入を開始し、日本本国の学校体系と接続させ、台北帝国大学を頂点とする学校教育体系を形成した。1944年には学童就学率は70%を超えていた。初等教育段階から国語(日本語)が義務づけられた。1943年の総督府統計によると、総人口658万6000人の内、福老人499万7000人(75.9%)、客家人91万3000人(14.9%)、高砂族16万2000人(2.6%)、日本人39万7000人(6.0%)であった。


<寺田寅彦> 寺田寅彦には“科学者とあたま”(昭和8年10月・“鉄塔”所載)という小文がある。インターネットで探せばすぐ見つかるから全文紹介は避けるが、ここで彼が言いたいことは立派な科学者の一つの要件はあたまが悪いこと、言い換えると愚直なことであって、世人の思惑とは異なりあたまのいい人は批評家にはなれても、優れた科学者になるのは困難だということにある。理由は一つのことに集中できないからだという。ここに彼が生涯を通して希求した人間像がある。改めて氏の人となりを求めて小冊子“寺田寅彦は忘れたころにやってくる”(松本哉・集英社新書)を読む。題名は彼の“天災”に関わる警句を本人の名前に置き換えた。
寺田寅彦は父の希望に反して工学部には進まず、理学部の実験物理学に進んだ。工学は産業を発展させるための諸技術の習得を目指すが、寅彦は自然界の不思議を解きほどきたかった。金儲けの役に立たぬことがしたかった。晩年多くの随筆を書いたが、例えば次のような文がある。“カラスウリの花が不思議なスイッチを入れられたかのように、一定の時刻になるといっせいに花が咲き、それに合わせて無数の蛾が突然に現れてこの花に集まる。これら自然の機巧はむずかしくてよく分からない。人間ほど愚鈍なものはない。”年によって考えは変わらなかった。東大に入学したのが1899年、1916年に教授になり、航空研究所、理化学研究所、地震研究所にも籍を置いたが、教授のまま1935年に病没した(57歳)。
彼の随筆は常に目線が低く、決して訳の分からぬ気取ったことをテーマにはしない。例えば“自分は高等学校の時に先生から大変いいことを教わった。それは太陽や月の直径の視角が約半度(一度の半分)であること、それから腕を一杯に伸ばして指を直角に曲げ、視線に直角にすると、指一本の幅が視角で二度、四本で八度であることで、距離の分かった物体の大きさ、大きさの分かった物体の距離の大凡の見当が目の子勘定ですぐつけられる。こういうのが実用的な教育だ”という。
また彼は市電が停留所に到着する時間頻度に関心をもっていて、次のような事実に気が付いていた。@混んだ電車は行く先々で一層混みかつ遅れ続ける。A空いた電車はいつまでも空いたままでかつ(前車との時間間隔が)早まり続ける。B最初に来た電車は混んでいる確率が非常に高い。 そこで彼は神保町の停留所付近で巣鴨―三田を往復する電車についてストップウオッチを手にして時間間隔を計測した。果たして満員と空車が繰り返しやってきたが、必ずしも規則的ではない。到着の時間間隔統計を表にすると、4分以上 4回、3分以上 9回、2分以上 15回、2分以下 23回、1分以下 11回、40秒以下 5回。各車の時間間隔を時間軸に沿って展開した1枚の絵にしてみるとより正確に事態が把握できる。これを彼は“電車の混雑について”という題で大正11年9月に“思想”という雑誌に随筆として発表した。彼は総じて3,4台の周期で満員の電車が繰り返しやって来ると言い、彼は自分なら混雑の周期的な峯を避け谷を求めて混んだ電車を見送るが、大抵の人は混んだ電車に争って乗り込もうとすると書いている。これは自分のような者にはほとんど了解のできない心持ちであるが、よく考えてみるとわが国民性の何かの長所と因縁があるかもしれない。これについて軽率な批判は差し控えなければならない*が、これとよく似た問題がほかにもあるということに注意を促したいーとある。この計測は実験物理学の極意であるが、帝大教授が街頭で時計をもって電車を数えたことは学生の間でも話題になり、大学祭で漫画に描かれた。*マークは彼の処世の智慧による慎重な表現らしくて興味深い。
寅彦が着目したのは擾乱の周期がほぼ3,4台に収まっていることで、それ以上大きい乱れにはならない。急ぐ人は混んだ電車に乗っていけばよいし、さほど急がぬ人は1台乃至2台見送れば空いた電車に乗れる。大きな社会問題にまで発展することはない。金平糖を作る工場ではターンテーブルを大きくしたような大鍋が水平面と30〜35deg傾いて1RPM程度の遅い回転速度で回っている。ここにケシの実、もち米の粉、あるいはゴマを入れ、白ざらめ糖のシロップをかきまわしながら結晶化させていく。4日目に角が出始め、仕上がるのに2週間ほどかかる。金平糖の角の数は始めは少ないが、やがてほぼ決まった数(約30)に達する。寺田寅彦はある条件の下で心核のまわりに成長した石膏がやはり角を出し特異な形を取るが、その角の数は凡そ11で金平糖とは異なることを知っていた。こういった数を計算で求めるのは容易ではないが、そこにも自然の摂理がある。
寺田寅彦は好運にも熊本高校(漱石は国語の教師だった)以来夏目漱石に私淑して、理科の学生ながら俳句の添削を受けた。「俳句とはどんなものですか」という寅彦の問いに「俳句はレトリックの煎じつめたものであり、扇の要のような集中点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」というのが漱石の答えだった。漱石は寅彦を正岡子規にも紹介したというから、才能を見込んでいたのだろう。漱石の小説“三四郎”に登場する地下の実験室の野々宮さんというのは寅彦がモデルらしい。晩年立場が変わって寅彦は物理の弟子にやさしく俳句を教えている。いわゆる古きよき時代を生きた人々だった。

<村上春樹> 先月の“ねじまき鳥”は印象こそ強かったが、今ひとつ未消化なものが残った。そこで“村上春樹、河合隼雄に会いに行く”という対談記録(新潮文庫)を入手した。河合隼雄については4月に紹介したばかりだが臨床心理学の大家で、この対談で村上春樹の心の葛藤とまともにつきあっているところに関心を惹かれた。最初に村上が提起している問題は何にコミットし、何からデタッチするかということだった。村上たち団塊の世代は68〜69年の学生紛争で、政治にコミットメント(関わり)を持とうとする努力がたたきつぶされて、一瞬のうちにデタッチメント(無関心)に行ってしまった。反体制をコミットすること自体が空しくなった。ところが95年にオウム事件と阪神大震災があり、ふだんデタッチの状態だった若者がすごくコミットした、疲弊した現代日本社会は精神的なコミットメントの問題でいま変革の地点に来たのではないかと村上は言う。
“ねじまき鳥クロニクル”で村上は新たな試みを始めた。井戸を掘って掘っていくとそこで全く通じるはずのない壁を越えてつながるというコミットメントのありように惹かれたのだと言う。それは地震でもオウムでも、災いを転じて福となすという転換を予感するのだと言い、小説の方が先に行っているが、コミットしなさい、世の中を変えなくてはいけないと言う。井戸の底に入るのは黄泉の国へ赴く感覚があり、身体的な清めも大事だと感じている。また“壁抜け”をワープ現象(空間のゆがみを利用して瞬時に目的地に移動する)として捉え、それには体力がないとできないと述懐している。
村上はこの小説を書いていて、(主人公が)どうしてこういう行動に出るのか、それがどういう意味をもっているのか、書いている本人にも分からないと言う。河合は芸術作品というものにはそのような作者にも分からないものが入っていて当然だとそれを肯定する。村上は嘗て実際にノモンハンの戦場に立った経験があり、そこには60年以上前のことではあるが砂漠の真ん中に空気が乾燥しているから錆びないで戦車・砲弾・飯盒などが残っていて、ありありと死の気配が漂っていたと話す。彼は自分が何故ノモンハンを小説の中で取り上げたのか、そこにはもし自分が突然あのような環境に放り込まれたら、自分のもっている論理性や整合性がどこまで耐えられるかという恐怖、日本的なカオスのシステムに対する恐怖が根底にあったと語る。
村上は暫く日本を離れて米国にいて翻訳をし、また日本の若い人の文学作品を読みまくった。その後で小説を自分で書こうとして、自分には小説は英語では書けない、日本へ帰って日本語で小説を書かなければならないと思ったと言う。ところが日本に帰ってきて、日本的なシステムのもつ柔構造にある種の恐怖を感じていて、それをどのように解消するかが自分にとって大きなテーマだと言う。これから暴力の時代がもう一度来るような気がする。戦争放棄・平和日本と言い続けながら、誰も暴力装置に対する内的な責任をとらなかった。日本人は根源的なところで昔と変わってはいないのではないか。
村上が提起し河合が同意したテーマの一つに紫式部は何故大作源氏物語を書いたかという問題がある。紫式部は自分の中にもの凄い業を抱え込み、それを癒やすためにあの長大な源氏物語を書き上げたのに違いないと二人は言う。村上は小説というものはそれを書くことによって作者が癒やされるものではあるが、同時に読者を癒やすものでなければならないと力説する。但しそれは読者のある部分を多かれ少なかれ治癒するということであって、魔法の杖ではないので誰にでも何処でも通用するものではないのだが、それがうまく行けば、その作用が作者にフィードバックしてくる感覚があって、それによってまた自分が励まされ癒やされるという“手応え”になる。それがなければ、作家が長く作品を書き続けることは難しいと述懐している。どうやら私にも“ねじまき鳥”の意図が少しだけ分かってきた。今少しピンと来ない点もあるけれども。

<渡し船> N.H.K.“小さな旅”が初夏の利根川を訪れた。群馬県千代田町。対岸の埼玉県を接続する渡し船がある。片道4分。年間6000人が利用するという。船が動くのは朝8時から夕方5時半までで、船頭小屋は群馬県側にあり、船頭は時折対岸に船待ちの客がいないか望遠鏡で覗く。乗船希望者は川岸に設けられた掲揚柱に黄色い旗を手繰り上げる。渡し船は県道の一部を構成するとのことで無料。昔は数多くあった渡し船だが、現在は利根川全域で3箇所になった。
県の求人に応じて第2の人生に船頭を選んだ男は渡し船を利用する人たちが喜んでくれるのが生き甲斐になっていると言う。対岸に野菜を買い出しに行く人、犬の散歩に対岸に渡る人など。利用客には年配の女性が多く、家族の消息が話題になる。渡し船の近くで毎週日曜日に仕掛けた網を揚げるサラリーマンがいる。大きいなまずやうなぎが獲れる。船頭も誘って近くの食堂でおかみさんに天ぷらに揚げてもらうのが楽しみである。

<鳥のさえずり> 鳥の鳴き声とさえずりとは違うのだと言われる。カラスの「カア、カア」と言うのは鳴き声で、全く趣がない。ウグイスの「ホー、ホケキョ」というのは好感がもてる。これはさえずりなのだそうだ。春は鶯というし、冬には鳴かないことは確かだが、この声は春に限らず、夏でも秋の初めでも聞かれる。姿は見ないがわが家の近所でもよく聞くし、ゴルフ場のトーナメント中継でも解説者の話を圧倒するひときわ大きい声が響き渡る。
さえずりとはかなり長く続く複雑な音声で、主に雄が繁殖期に発するものを指し、鳴き声とは短く単純な音声で、雄も雌も発し特に季節の限られていないものを指すという。鳥には約1万種あるが、その過半数にあたる5300〜5700種が燕雀目に属し、その内凡そ3/5がさえずり、鳴禽類と呼ばれる。鳴禽類はさえずるために必要な喉の筋肉が3以上あり、歌生成のための複雑な脳構造(さえずり中枢)を有している。ヒトの場合は気管支が二股に分かれるよりずっと上に声帯があるが、鳥の発声部は二股に分かれる辺りにあって鳴管と呼ばれる。気管支の分岐点に左右一対の中鼓形膜があって、左右の気管支からの空気を別々に使って同時に二つの音を出すことができる。カナリヤやロビンは美しい複雑なさえずりを発するが、彼らは左右の鳴管から別々に出した二つの音を上部の気管のところで混ぜて複雑な歌声を作り出していて、左右の膜のそれぞれを脳からの別の舌下神経が支配している。東アフリカに生息するマミジロツグミヒタキという鳥は明け方や夕方何分間もさえずるが、二つとして同じメロデイはなく、フルートの演奏のように聞く人を魅了するという。


<種の起源> チャールス・ダーウインの著書“種の起源”(上・下、岩波文庫)をひもどいている。進化論を唱えたことで有名なこの本を読み始めてまず感じたことは著者の叙述方法が非常にしつこく(淡泊の反対)、事象の説明を正確に行おうとする執念に充ち満ちているがために、私のような平凡な読者は率直に言うと“いい加減にしてくれ”と先を急ぎたくなる気分を免れないことである。しかしそれを我慢して読み進む内に、この本が書かれた19世紀半ば過ぎのヨーロッパは今では想像さえ困難なことだが、未だキリスト教の影響で多くの博物学者でさえ、人間を含めた世のあらゆる生物は天地創造以来神の手で今あるようにそれぞれ異なる形で創造されたのだと信じられている状況にあったということを考えると、総ての生物が同一の起源から進化して現在のように様々な異なる形に変化を遂げたのだというところに到達した彼の信念を人々に理解させ説得するためには、表現がくどく大袈裟になること位は構っていられなかったことを理解できるようになった。
もう一つの感想は斯界の専門家であれば当然という程度を遙かに超えて、著者がいわゆる“博物学”について実に広汎で精細な知識を有していることが著書の叙述の隅々にまで現れていて、今なら分厚い百科事典やコンピュータで検索できる一流のデータベースからでも引き出すような内容がすべて彼の頭脳に収まっていたことが明らかである。このような地球上に分布する諸生物に関する知識は地理的にはコロンブス以後の好奇心に満ちた探検家による航海によって得られたものであり、また歴史的にはその後の世界各地での地質調査による各年代の化石発掘によって得られたものである。
本来ならば科学についての人類の目を開かせたこの偉大な著作について、事前に必要なガイドもしくは解説を読むことなしに直接その懐に飛び込んだために、ダーウインの進化論についての一般的な知識は人並みにもっていた筈であるにも関わらず、著書の内容を自分なりに消化するのにいささかとまどったことを告白する。そして読み進みこのような解説の文を草するに当たって、実は自分はいわゆる“進化論”の内容をロクに知悉していなかったことを悟った。この年になって多大な努力の末にかち得た彼の知見の根幹(その一端かもしれないが)にふれることができて幸せに思う。
多岐にわたる例証を省略して彼の論旨の要約部分を引用すると、まず“自然は決して飛躍せず、短くまたゆるやかな一歩一歩によって前進するだけであって、生物のあらゆる体部や器官は漸次的に変化する。”ということが繰り返して述べられている。この生物進化の原則に対して寄せられる多くの疑問や異論を概ね次の4項目に総括して、それらへの解答を試みている。彼の唱えた進化論が世の常識として迎えられている現代から見れば当然と思われるこれらの事項も、バックデータの乏しかった1世紀半前には説得に苦労した形跡が強く感じられる。
第1はそのように種は他の種から認知しがたい微細な漸次的変化によって生じたものであるとすれば、至る所に無数の移行型がみられないのは何故であろうか。実際、現在地球上に人間と類人猿の中間のさまざまな生き物が存在せず、人間であれば風習の違いはあってもほぼ同じ程度にすぐれた機能と形態を具えていることに不思議な感を覚えるのは私だけではないだろう。この点について生物がくまなく住んでいる土地では新種は自分ほど改良の進んでいないもとの種類や自分より不利な他の種類と競合してそれらをやがて絶滅してしまう、即ちダーウインは絶滅と自然選択とは手をとりあって進むと説く。元の種もすべての移行的変種も新しい種の形成と完成の過程において絶滅されてしまったのだ。それでは嘗て存在したはずのこの無数の移行型が地殻の中に埋まっているのを何故発見しないのであろうか。この点について彼の説明はやや歯切れが悪い。一つは地質学的記録というものは一般に考えられるよりはるかに不完全だということと、中間的な変種は短い期間しか存続せず、個体数の多い変種は少数で存在する稀少の種類より自然選択によって利用される有利な変異を現す機会が多いという。中間的な変種は無数に存在したが、自然選択の過程が祖先形と中間形の連鎖を絶えず絶滅するように働いてきたと強調する。
第2はゆるやかな変化の積み重ねの結果が他の動物からコウモリのような習性の全く異なる動物を発生させたり、自然選択によって一方ではハエたたきの役しかしないキリンの尾を作り、他方では精緻極まりない構造をもつ目のような器官を作ることが信じられるか。極度に完成化し複雑化した器官―さまざまな距離に焦点を合わせ、種種の量の光の取り込みを適正に調整し、球面収差や色収差を補正するなどの複雑な機能をもつ目が自然選択によって作られたというのはこのうえなく不条理に思われるということをダーウインは率直に認めているが、彼は長い文言を費やして、しかし多数の継続的な軽微な変化によっては決して生じない器官が存在するなどということは決して証明できないであろうと開き直っている。
第3はミツバチの巣房つくりのような精密な仕事まで本能が自然選択によって獲得され変化させられるものなのか。彼はミツバチの造房本能を詳しく分析して、一見して貴重な蝋の使用を最小限に済ませる幾何学的に正確で整然たる蝋の房室を造成する作業が少数の非常に単純な本能に従ってなし得ることを数ページに及ぶ丹念な叙述で証明しようとしている。私は根気もないので、彼の説明を逐条追うのはやめるが、観察の結果最初は分厚い粗壁をハチたちは丹念に噛み削って薄い六角形の壁に整然と仕上げる様が、比較的単純な本能の順次の軽微な変化が多数自然選択によって利用されて生じたものであることを諄々と説明し、自然選択の過程の動因は蝋の節約にあると彼は説いている。
第4は異なる種は交雑すると不稔なのに、変種どうしは交雑したときに稔性が損なわれないのは何故か。染色体の数とか遺伝子という概念が全く知られていなかった当時、この問題に正確に答えることは相当に困難だったはずであるが、彼は敢然とこのテーマにも挑んでいる。彼は次のように書いているー変異してわずかに違ったものになった同種の雌雄間での交雑は子孫に強壮と稔性を与える一方で、大きな変化或いは特殊な性質の変化は生物にある程度の不稔性を引き起こすことを見たー、またー 種として分類されるに足りるほど違った種類の間の最初の交雑とそれによって生じた雑種とは極めて一般的に不稔であるが、普遍的に不稔なのではないーと。この件に関連して極めて多くの実験が彼と多くの学者によってなされていることを縷々と報告しているが、結論に関しては歯切れが悪い。
チャールス・ダーウインは1809年イングランド北西部のシルスベリに医師の子として生まれた。エジンバラ大学医学部に入学したが、博物学に熱心になって退学、1831年から1836年までの5年間測量艦ビーグル号に艦長の友人の博物学者として乗船、南米大陸や太平洋諸島の地質・動植物調査に従事した。1842年からロンドン郊外ダウンに定住し、大学教授などの職には一切就かず、1882年に死去した。1854年までに“ビーグル号航海記”を出し、1859年“種の起源”の抄本を刊行した。その後重版ごとに修正・加筆して最終版は1876年に発行された。その他の著作としては“家畜と栽培植物の変異”(1868)、“人間の由来、ならびに雌雄選択”(1871)、“人間と動物の表情”(1872)、“昆虫によるランの受精”(1862)、死の前年に出した名著“ミミズの作用による栽培土壌の形成”(1881)などがある。博物学の広い領域について他の追随を許さぬ巨大な業績を残した。
ダーウインの死後イギリスの社会学者スペンサーが自然淘汰・適者生存という考え方を人間社会にも適用できるとする“社会ダーウイニズム”を唱えた。多くの世界の政治家がその学説を弱者を排除するための方便として利用した。当時の列強の帝国主義的な植民地支配を正当化する理論となった。ナチスはユダヤ人は劣等民族でアーリア人こそすぐれた民族だとして“民族浄化”を唱えたが、彼らに限らず奴隷制度を推進した欧米の資本主義者たちから圧政を強行した共産主義者幹部に到るまで、慈悲の心のかけらもない弱肉強食の思想が便乗によって蔓延した。日本人も国家主義者になって大陸侵攻を開始した。これらはダーウインの進化論による思想革命を自分たちの都合に合わせたご都合主義で、決してダーウインのせいではないが、これらの思想の残滓は現代に至るも掃討されず形を変えて残存して害をなしているように思われる。グローバリゼーションの受容もその一つだろう。日本には人種差別剥き出しの米国に追随し、正義とは金のことであるという風潮が蔓延してしまっている。
小泉首相の靖国参拝が周辺国の相変わらぬ非難を浴びているが、前述の社会ダーウイニズムの恐ろしさは東条英機に代表される日本軍部の独走だけを責めるべきではないことを最近知った。東大初代学長加藤弘之は“天賦人権論”を掲げ立憲政治の必要性を明治の世の人々に説いていたが、社会ダーウイニズムの思想に触れるや素早く転向した。“日本は如何にして強者になれるか”という命題への答として加藤は天皇制に着目し、本質的には利己的である個人の適者生存の本能を忠君愛国に向かわせるために、個人と国家の利害が完全に一致しているという思いこみへの誘導を図って、天皇に対する“忠誠競争”を国力強化の原動力にした。その結果が、多くの彼の追随者によって日露戦争に始まる国家主義の道へ日本を導いた。人間が如何に愚かかということはこのように人の上に立つ人物ほど大きく誤ることからも実証されている。

<南極海> 南極大陸とその周辺の海について人類が得た知識はたかだかこの1世紀に過ぎない。前項のダーウインももちろん興味はあっただろうが、南極大陸に近づくことはできなかった。この項の取材源は“南極海 極限の海から”(永延幹男・集英社新書)である。南極大陸への初上陸は1821年2月米人J・デービスによってなされたが、極点到達はそれから90年経った1911年12月14日ノルウエーのアムンゼン隊によって達成された。僅かに遅れた英国のスコット隊は帰路食糧と燃料不足により遭難した。
南極大陸は南極点を中心にほぼ円形をしているが、クラゲのしっぽのような形の南極半島(地図の左端)と南米大陸南端の間は狭く、南米大陸ホーン岬と南極半島の北側のサウスシェトランド諸島の間約800kmをドレーク海峡と呼ぶ。ここを渡るのが南極への最短距離で、アフリカやオーストラリヤなど他の大陸からの距離は比較すると遠い。大陸の総面積は1205平方キロで日本の33倍、陸地の98%は氷に覆われていて平均標高は2290m。但し氷床の厚さは平均2450mであるため海面から測る平均標高を上回っていて、大陸岩盤は氷床の重みで平均すると海面下160mまで押し下げられている。もし氷床が融けてその重みがなくなれば大陸岩盤は600〜800m隆起するだろうと言われている。そうなれば地球の海面水位は70〜90m上昇するが、いくら地球温暖化が進んでも21世紀中に融け出すことはないとされている。寒冷域の中心部での年平均気温は-55度Cになる。大陸縁辺域は海洋に接するために中心部に比して暖かく、昭和基地の年平均気温は-10.6度Cである。
