8月の話題


2005年8月

<アフリカ> 近年アフリカへの世界の認識がようやく改まりつつあるように感ずる。先に英国で開かれたサミットではアフリカ諸国への積極援助が議題に上がったし、どうなるかは先行き不明だが、日本などと並んでアフリカの代表が国連理事国に名乗りをあげかけている。広大な面積をもつアフリカ大陸だが、如何にしてあのような多数の国に分割されたか、この地域には古い歴史というものが存在しなかったのか、地球上で最も遠隔に近い地の日本では私を含めて多くを知らぬ人が多い。この際“新書アフリカ史”(宮本正興+松田素二・講談社現代新書)を教材として概観を試みたい。

 この際、特に旧ローマ帝国に取り込まれた地中海沿いの一部の地域を除外した主としてサハラ以南のいわゆるブラック・アフリカを主に論ずる。従来アフリカの歴史が説かれなかった最大の原因はアフリカに居住した諸民族が固有の文字を発明しなかったからであり、彼らは自らの手で自らの歴史を文献として後世に残す方法を編み出さなかった。その結果、現代の高校の世界史教科書は石器や火を使用する原人が約150万年前に人類の祖先として東アフリカの大地溝帯に姿を現した記述から、次はヨーロッパ人の到来まで一挙にタイム・スリップしてしまう。従ってアフリカは暗黒の大陸とよばれ、ヨーロッパ人が探検し、やがて植民地支配をするヨーロッパ人によって書かれた歴史しか残っていない。しかし人類発祥の地が現代に至るまで大多数の無理解な欧米人のあずかり知らぬ人々の軌跡を残している筈で、それを探し求める努力も払われるようになってきた。文明は次のように主としてザイール川、ザンベジ川、ナイル川流域で発達した。

 バンツー系農耕民が紀元前1000年頃からカメルーンーナイジェリアの国境付近から徐々に東南方に移動した。現在バンツー系集団の分布は中央アフリカから東・南アフリカまで大陸の三分の一を占める広大な領域に及んでいる。彼らは鉄器を用いて森林を伐採し、農耕文化を拡大した。ザイール川水系がこれらバンツー語系の人々を育てた。
 アフリカの西部、砂漠の南限以南のザンベジ川流域では紀元後最初の1000年にガーナ王国、西暦1000年以後にマリ王国、次いでソンガイ王国、またハウサランドの小国家群と次々に新たな国が生まれ、イスラーム教が浸透し、黄金を産出した。一方でイボという民族社会は大人口に発展したが、王のような権力者を生まず、村落連合レベルの統合にとどまった。
 ナイル川流域は古くから文明が発達したが、紀元前4000年頃からエジプト南部とスーダン北部からハルツームにかけてヌビアとよばれる地帯が北のエジプトとかかわりをもって発展した。ヌビアはエジプトの侵攻を受けてその傘下に屈することもあったが、多くの時代は独立に王国を築いて繁栄し、メロエ王国は4世紀まで続いた。その後ヌピア語を話す支配者たちがナイル川流域にノバテイア、マクリア、アルワという三つの王国を築き、キリスト教が広まった。13世紀にはイスラム教徒の侵攻が激しくなり、16世紀に北スーダン初のイスラム黒人国家フンジ王国の成立によってキリスト教は終焉を迎える。アラビヤ語を共通語として身につけた彼らは地域交易に関与しながら勢力を拡大した。ナイル川上流の白ナイル流域にはデインカ、ヌエル、シルック、アニュアクの4民族がせめぎあいを続けた。更に上流の大湖水地方にはニョロ王国が勢威を誇った。

 外部世界との接触が始まる。1590年オスマン・トルコの支配を受けていたモロッコはサハラ砂漠を越えてソンガイ帝国を征服した。モロッコの統治下、トンブクツには総督に相当するパシャが置かれ、サハラ交易が活発化する。戦利品として金のほか大量の奴隷がモロッコに送られた(奴隷貿易の端緒―但し後年に比すると人数はごく少なかったし、対象は女性で召使いや妻妾にした)。航海術の発達とともに海の交易がアフリカ東海岸からまずアラビヤ半島、次いでそこを経由してペルシャ、インド、エジプトなどと始まった。やがてダウ船による交易はインド洋海域にとどまらず、中国や地中海にまで発展した。東アフリカからは象牙、犀の角、亀の甲羅などで、北からは槍、短刀、ガラス製品、葡萄酒、麦などが輸入されていた。1421年には明朝が派遣した中国艦隊がインド経由東アフリカまで来航した。1497年バスコ・ダ・ガマに率いられたポルトガル艦隊が喜望峰を回ってマリンデイに到着した。その後ポルトガルはインド洋で海洋通商国家を作り上げるが次第に衰退し、代わってオマーンがブー・サイード朝の下で大型帆船による通商活動を盛んにした。ここでも西アジアやインド向けに奴隷が運ばれていくようになった。インド洋交易は東アフリカにスワヒリ語を核とするスワヒリ文化を生み出した。18世紀になるとスワヒリ語はローマ字による書き言葉としても発展する。

 大航海時代が始まり15世紀末ポルトガルがアフリカ西岸を南下すると、他のヨーロッパ人もその後に続いた。ヨーロッパ人は連射式重機関銃などの発達した武力で弓矢と槍のアフリカ人を圧倒した。ポルトガルとスペインが早くから奴隷を本国へ連れ帰ったが、17世紀にはオランダが、更に18世紀にはイギリスが主導権を奪って奴隷貿易は絶頂期を迎える。発達したのは“三角貿易”といわれる商業航海サイクルで、まずヨーロッパの廉価な製品を満載した船がアフリカ西海岸で船荷を奴隷と交換し、その奴隷を積んで西インド諸島と南北アメリカ大陸へ渡る。目的地で奴隷の船荷を降ろした後、砂糖・綿花・タバコなどの主要換金商品を積んで西ヨーロッパへと向かうのである。この航海サイクルには1年半から2年を要し、イギリスを先頭にこの事業に参加したヨーロッパの国々(デンマーク・オランダ・フランス・ドイツ・ポルトガル・スペイン)は莫大な利益を得た。
 この三角貿易の中間航路こそ人類史上例を見ない凄惨極まる奴隷航海のことで、通常は70日だったが悪天候なら100日かかった。航海中の死亡率は8%から25%にも達した。奴隷船の大きさは100〜200トン、船に積み込まれる前には男女とも頭を剃られ、所有主か会社のブランドが身体に焼き印を押された。足首に鎖をつけられたほか、全裸で船倉にぎっしりと積み込まれた。食事は朝夕2回、少量の水が与えられる他、1日2回程度甲板に出て外気を吸うことが許された。船内は不潔そのもので、汚物と臭気が充満し、マラリア・天然痘・赤痢などに襲われることも多かった。死者や病人が海に捨てられ、サメの大群が船を追いかけたという。船荷には多額の保険がかけられた。
 従来サハラ砂漠を経由していた交易ルートがさびれて裏口の南海岸部に代わり、穀物海岸、象牙海岸、黄金海岸、胡椒海岸、奴隷海岸と特産商品の名が地名になった。海岸から離れたスーダン諸国は衰退した。イギリスは18世紀に西インド、北アメリカ、カナダを含む重商主義帝国を築き、19世紀にはアフリカ、インドネシア、オーストラリアに拡がる広大な植民地を獲得して“パクス・ブリタニカ”を誇ることになる。自由と平等を求めるヨーロッパの市民社会は不自由で不平等なアフリカ人奴隷を必要としていた。この相矛盾する現実を解決するために“アフリカ=野蛮、アフリカ人は自分たちと同じ人間ではない”とする言説が流布され、常識にまで育成された。

 19世紀半ばにはヨーロッパ列強によるアフリカの争奪戦が始まった。沿岸部の拠点確保だけでは満足せず、内陸部に押し入り領土の切り取りを始めた。この切り取り放題による混乱を防ぐために列強は1884年ベルリンで秩序だったアフリカ争奪のための会議を開いた。参加したのはイギリス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、ロシア、オランダ、オーストリア=ハンガリー、スペイン、ポルトガル、スエーデン=ノルウエー、オスマン・トルコ、それにベルギーの13国で、ビスマルクが呼びかけ調停をはかった。この会議でアフリカ争奪のための二大基本原則が合意された。それは勢力範囲の原則と実効支配の原則である。即ち“沿岸部の占領が自動的に背地の所有権を生み出し、他国の権益のない場所を勢力圏に入れるには列強に通告しさえすればよいということと、勢力下に置いた地域では他国の権益(通商・航行)を保護できる実体的な権力を樹立しなければならない”というものである。アフリカ人の存在をかくも見事に無視したこの合意について、ケニア人歴史家オゴトはこう述べている。「一大陸の国家がより集まって、他の大陸の分割と占領について、これほど図々しく語ることが正当化されると考えたのは世界史に先例がない」と。
 イギリスは植民地に間接統治機構を布き、征服に協力的だった元支配者(エミールと呼んだ)をイギリス人行政官が監督した。エミールはたとえ住民の支持を失っても植民地政府から信用されていればその地位を失うことはなく、植民地化以前にはあったチェック・アンド・バランスの機能が失われた。フランスは植民地の直接統治を行い、先行イギリスや普仏戦争で敗れたドイツに対抗して“偉大なフランスの拡大こそが文明化”という思想を植民地支配の基本原理にしてしまった。アフリカ人は従属民として原住民局の下に統括され、事実上の無権利状態におかれて開発のための強制労働に従事させられた。ポルトガルはその後進性のためにその植民地が受けた支配は特に苛酷なものとなった。15歳以上のアフリカ人は乏しい収入の四分の一に及ぶ人頭税を課せられた。農産物は安値で買いたたかれ、品質の劣るポルトガル産品を輸入させられた。南西アフリカのナミビアはドイツ人入植者の圧力に耐えかねて1904年蜂起し、ドイツ人100人を殺害した。その結果ドイツ軍は人口の7割を虐殺し、ヘレロ人(ナミビア)は地上から抹殺されかかった。

 南アフリカ連邦では1911年に鉱山労働法が白人・黒人間の職種・賃金格差を決め、原住民土地法がアフリカ人の指定居住地を全土の7.3%に決めた。1948年に保守的な国民党が政権を握るとアパルトヘイト(人種隔離)を実行するためのさまざまな法制が実施された。第2次大戦後の人種差別撤廃の世界的な潮流に抗して南アフリカ政府は300以上のアパルトヘイト法案を作って白人の利権を必死で守ろうとした。これらの法案を基盤に1961年南アフリカ共和国が発足した。ネルソン・マンデラを中心とする長い抵抗運動が遂に結実して、1991年マンデラが大統領に選ばれた。

 圧倒的な武力と物量、それに他者を支配しようとする強烈なヨーロッパの精神によってアフリカはねじ伏せられた。この征服を正当化しようとするヨーロッパ側の論理はすべて詭弁である。アフリカ人エリ−トの中からヨーロッパの思想を借用しながら、ヨーロッパを批判する抵抗が生まれてきた。これはアフリカ人によるアフリカの建設というパン・アフリカ主義の誕生だった。この運動は第2次大戦後急速に支持者を増やしていった。大戦後次々に結成されたアフリカ人政党が原動力になり、1948年には植民地政府やヨーロッパ企業に対抗してヨーロッパ商品不買運動が始まった。総選挙の結果ゴールドコーストは1957年サハラ以南のアフリカでは最初に独立を獲得し、国名はガーナと命名された。大統領ンクルマは58年末アフリカ全域から150名の代表を集めて“全アフリカ人民会議”を開き、反植民地主義と独立、更にはアフリカ合衆国への統一を呼びかけた。これを契機に諸国の独立は押しとどめがたい奔流となった。リビア、スーダン、エジプトに次いでサハラ以南では仏領ギニアがガーナに続いた。

 独立を果たしたアフリカ諸国には多くの困難があった。政治的には宗主国から独立を果たしたとはいえ、経済的には宗主国にのみ好都合な構造がそのまま残っていて、宗主国の協力を得られなくなった事が改革・自立を阻害した。まず諸改革のための財源がなく、食糧自給の困難、道路・通信などのインフラが輸出用のみに整備されていて国内流通には不十分、国内工業の発達のための熟練労働力の決定的な不足などの諸問題が解決できずに残った。国際援助は援助側の主導によって体系なく行われた。もうひとつの混乱は新しい国の指導者が国ごとにネイション・ビルデイングを唱え、嘗ての多くのトライブ(部族)につく利己的な考えを捨て統一に協力させようとした無理が破綻したことで、ビアフラではイボ人が大量に虐殺される悲劇となり、ルワンダではツチ族とそれに対抗するフツ族が形勢に応じて大量の難民となって隣国に逃げ込んだ。
 アフリカ諸国は遅かれ早かれ独立を獲得したが、現代は苦悩の時代に突入している。まず飢餓である。これは年率3%にも及ぶ人口増加率によって拍車がかかっている。内戦と内乱も激しさを増している。貧困と失業も出口が見えない。新たな問題はエイズ禍で、1986年以後すべてのアフリカの村と町を席巻し、特に都市部では20%を超える高い感染率を示している。高価な治療薬は多くの患者には無縁である。そういう中でヨーロッパがもたらした近代化路線に背を向けて伝統に回帰しようとする動きが顕著になっている。ある面では絶望に近い状況だが、ユネスコの推計によれば2057年にアフリカの総人口は世界の五分の一、約21億を占めるだろうという。国数の多さを背景に代表を国連理事国入りさせようという動きも出ており、21世紀のアフリカからは目が離せなくなった。

<ダ・ヴィンチ・コード> ダン・ブラウンが書き下ろした標題の小説がベスト・セラーになったというので、自分の趣旨に逆らって買い求めた。ここでその小説の筋書きを追っても仕方がないが、ダ・ヴィンチ作と言われる有名な“最後の晩餐”の絵が話題に上がっている。ここにはイエス・キリストを含めて13人の人物が描かれていて、その中にはイエスを裏切ったユダもいるというのだが、それはさておき、人々はここに描かれているのはすべて男と思っているがそうではない、中央のキリストの向かって左側にいて、上半身をキリストと逆の方向に傾けているのは明らかに女性である。修復前の絵はその顔の部分が不鮮明だったこともあって、多くの人がこの絵を鑑賞していたのにも関わらず、13人の中に女がいることにほとんど気が付かなかった。
 この女性はマグダラのマリアと呼ばれる実在の女で、キリストと結婚していて、キリストが十字架の上で処刑された時には懐妊していたと言われる。もう一度よく絵を眺めるとイエスは赤い長衣に青いマントを、またマリアは青い長衣に赤いマントと対照的で、二人は腰の辺りで接しているにも関わらず上半身を遠ざけあっている。小説ではこの二人の間の空間は絵の中心をなすV字形で、聖杯や女性の子宮を表す記号であって、更に全体を眺めると結婚あるいはマグダラのマリアを表すMの字が浮かび上がると説く。

 シオン修道会によれば、イエスの磔刑後マグダラのマリアは難を逃れるためにパレステイナを離れ、イエスが信頼していたアリマタヤのヨセフに助けられて、当時ガリアと呼ばれていたフランスに渡り、ひとりの娘を出産した。その名をサラという。マリアは俗間言われるような娼婦では決してなく、ユダヤの王ダヴィデとソロモンの血を引いていたので、フランスのユダヤ人たちはマリアを王統の始祖として尊敬し、サラ以後の家系図も保管していると記している。
 本年3月に記した<三位一体>の中でローマ皇帝コンスタンチヌスはキリスト教を強化するためにキリストを神に祭り上げたことに触れた。初期の教会はイエスとマグダラのマリアの秘密が明るみに出て、神の子たるメシアは女性と交渉をもたなかったという根本的な教義が揺るがされる事態を非常に恐れていたから、キリストの子孫は絶えざる危険にさらされていた。今日に至るまでシオン修道会は次の三つの責務を負っている。それはマグダラのマリアの生涯を記したサングリアル文書を守ること、マグダラのマリアの墓を守ること及びキリストの血脈すなわち今でも生き延びているメロヴィング王家の後裔を守る事であるという。
 ダ・ヴィンチがこの有名な絵の中にかかる重大な秘密(コード)を盛り込んだ真の意図を私は知らない。しかし現行のキリスト教に対する無言の反逆であることは疑いない。著者ダン・ブラウンはこの小説の冒頭で“この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述はすべて事実に基づいている。”と記している。

<太平洋探検> キャプテン・クックによる航海記(第1回航海)(クック太平洋探検―増田義郎訳・岩波文庫)を読んだ。1768年7月30日、王立協会評議会は国王陛下の名において、ジェイムズ・クック海尉に、三檣帆船エンデヴァー号の船長として、ホーン岬を回航してキング・ジョージ島(現タヒテイ島)に至り、更に秘密指令として西方のニュージーランド及び未発見の大陸探索・調査を命じた。スペース・シャトル・“エンデヴァー”はこの船にちなんで名付けられたのだと言う。
 クックは上流階級出身の海軍士官ではなかった。クックは1728年イングランドのヨークシャ北部に農夫の子として生まれた。父の雇い主の好意で月謝を払ってもらって、エイトンの小学校に通い読み書きや数学を習った。やがて海に憧れるようになり、石炭輸送業ジョン・ウオーカーと三年間の年季奉公契約を結んで341トンの石炭輸送船に乗り組み、意欲的に航海術を学び始めた。次いでウオーカーが入手した新船の艤装を手伝い、そのまま乗り組んでAB(熟練有資格甲板員)として働いた。1750年にバルト海航路のメアリ号に乗り組み、2年後の24歳でウオーカー商会の最新帆船フレンドシップ号の航海長に任命された。ウオーカーとの関係は良好だったが、27歳の時に王室海軍にABとして志願した。
 船長から一介の平水夫になったのである。彼は“運を試したかった”と述べている。2年後クックは王室海軍ペンブロック号のマスターに任命される。マスターは船長や士官と違って叩き上げの熟練者で、豊富な経験によって航海の要諦を身につけた者であるが、将来高い地位に昇進する望みはほとんどなかった。しかしマスターは船を動かすための重要な仕事のほとんどの責任者であって、甲板長を指揮してマストや帆や索の艤装、食糧・弾薬・武器の補給、海図の保管と訂正、水深測量、航海日誌の記入を行う。マスターがいなければ船は動かなかった。彼はその後11年にわたりこの職をこなし、実力を蓄えた。ケベック攻略作戦に参加し、三角測量の方法を学んで広範囲の正確な海図を作成して、彼の測量の専門家としての力量は海軍部内で広く認められるところとなった。

 1768年王立協会は王室の下賜金4000ポンドによって368トン、船齢3年9ヶ月の三檣帆船を購入し、評議会はクックの出席を求めて金星の太陽面通過を含めた南太平洋の観測を諮問した。クックは6尺豊かで40歳、一同は彼の聡明さと人柄にすっかり感銘を受けた。クックは王立協会の委嘱を承諾し、海軍本部は当初マスターとしてのクックに35人の部下を付けようと考えていたが、長期の遠洋航海であることを考慮して定員を70人に引き上げ、指揮官としての資格については5月25日付けでクックを一等レフテナントに任命する破格の人事を発表した。一等レフテナントは旧日本海軍の少佐もしくは大尉に相当する。出発間際にはエンデヴァ号の乗員数は更に増えて85人になり、その中には船大工4人、縫帆員、船医、砲手、兵器係なども含まれた。乗組員85人の大部分は30歳以下の青年で、平均年齢は25歳だった。出帆直前に博物学者ジョゼフ・バンクス氏など9名が王立協会の要請で追加された。彼らは航海中に貴重な大量の資料を蒐集し、英国博物館に寄贈した。

 クックの航海日誌は7月30日出帆以降ほぼ毎日、克明に記されている。船内の統制維持のために、秩序を乱す部下に対して時折12回の鞭刑を科している。11月半ばよりリオ・デ・ジャネイロ付近にて約1月を過ごす。ポルトガルによって開かれたこの都市は英国船に対して表面上の儀礼は尽くすが、決して友好的ではなかった。南米大陸南端付近で植物採集に上陸したバンクス氏一行が寒冷な天候で危うく遭難しかけ、二人の従者が凍死する。1月26日ホーン岬沖を回航。天体観測によって確定したホーン岬とル・メール海峡の緯度を自信をもって報じている。4月12日にキング・ジョージ島付近に到着。クックは住民と極力友好的につきあうように努めた。この島々には3ヶ月滞在した。食糧などとの物々交換で住民に高く評価されるのは手斧、釘、望遠鏡、ナイフなどだった。住民の生活・習慣についての細かい観察結果が記されている。潮の干満は世界中で最も小さいという。8月16日島々を離れてニュージーランドを目指す。

 10月7日陸地を発見。北島と分かる。その後12月30日まで島の周辺を巡って海岸線の形状を確定させる。1月1日から3月31日までは南島の周辺を巡る。約半年にわたる島の観察結果をクックは“ニュージーランド概観”として土地や住民の風俗習慣について報告にまとめている。この土地の一部は1642年にアベル・ゼーマンによって発見され、ニュー・ゼーラント(ゼーラントはオランダ北西部の州の名)と名付けられたが、部下が原住民に殺害されたために、足をふみ入れなかった。クックは作成した海図で天候の悪さのために岸に沿って航行できなかったために海岸線を確定できない箇所は点線で、明確な箇所は実線で表示した。川や海には多種で豊富な魚が居るが、陸上にはほとんど野獣がいないと記している。若者は老人を非常に尊敬し、若者たちは老人によって治められているが、戦いで殺した人を食べる風習があると報じている。
 4月1日エンデヴァー号は未知の大陸を求めて西に向かった。4月19日陸地を発見、最南の岬をヒックス岬と命名し、海岸に沿って北北東に針路を転じた。なおこの頃クックがタスマニアを発見したという説があるが、彼の航海記で彼は1674年のタスマンの航海日誌に言及はしているが、この大きな島を直接視認してはいない。現代、オーストラリアと呼ぶこの大陸を当時の人々はニュー・ホランドと呼んだ。船は大陸の海岸線に沿って北北東から次第に北北西に進んだ。6月10日トリビュレーション(苦しみ)岬に到達してから苦難が始まった。

 6月11日十分高頻度に測深をしていたにも関わらず、船は突然サンゴ礁の端に乗り上げて座礁してしまった。錨は何の役にも立たなかった。当初船は全くと言っていいほど漏水しなかった。船を軽くするために有効と思われるあらゆるものを海へ投げ入れた。50トンもの重量を軽減したにも関わらず、まだ船は浮上しなかった。潮が引いてくると船は激しく右舷に傾き、浸水が始まって2台のポンプでやっとくみ出せるほどになった。潮が満ち始めると船の傾きは戻ったが、浸水量は増大し4台のポンプをもってしても排水量を上回った。この頃には破滅をも覚悟した。座礁後23時間で船は浮上し、沈没を免れるために乗組員全員をポンプにはりつけた。漏水を減らすためにほぐした麻綱や羊毛にタールをしみこませて詰め物をした。やがてポンプひとつで楽に排水できるほど浸水が減ったので、船上の全員が元気づいた。
 傷口が拡がらないように船底に端から端まで帆をロープで拡げた。二隻のボートを曳いて航海長が先行し、船の前方の水深を測った。そのようにして10日ほど暗礁の間をさまよった挙げ句、適当な岸を見つけて船首を引き上げ、船底の漏水箇所を調べることができた。鋭い刃物で切り取られたように右舷船底の板4枚が破れていた。船大工たちが作業を開始した。右舷の仕事が何とか終わり、船を反対側に傾けると左舷船底では2枚の板が破れていた。苦労の結果40日後に再び船を水に浮かべることができたが、周辺は暗礁だらけで偵察に日時を要した。この間原住民の生態や大陸の動植物の有様を知ることができた。カンガルーが多数生息していた。カメと魚とで食物には何とか事足りた。岩礁の間を彷うこと更に2週間、船の進行中は常に測鎖を垂れ続け8月14日に至ってようやく船は外海に出ることに成功した。エンデヴァー号が苦闘した広い海域は現在グレイト・バリア・リーフと呼ばれている。船にはまだ漏水があり大波を受ければ増大するが、1台のポンプでまかなえる限度内で、今までの苦労に比すれば取るに足らないほどに思われた。

 次は激しい潮流に乗って西へ向かう水路へ入り込んだ。水深が浅いため2隻のボート“ピナス”と“ヨール”を先行させ水深測量を続けた。多くの岩礁があって危険なために夜間は停泊し夜明けとともに出発した。水路の一方を形成している本土の岬をヨーク岬と名付けた。水路の浅い箇所は僅か5尋しかなかったが平坦で、水路の幅は約1マイル半だった。ここに至ってクック船長は南緯38度からこの地点までの(オーストラリア)東海岸は如何なるヨーロッパ人も過去に見たり訪れたりしたことはないと確信し、英国国旗を掲げ、ジョージ3世陛下の名においてこの全東海岸をニュー・サウス・ウエルスの名において領有を宣言した。この中には上記の海岸にあるすべての湾・港・川・島々なども含まれる。こののち我々は小銃を3発発射し、それに答えて同じ数の礼砲が船から発射されたーとある。
 水路を更に西に進むと水深は依然として浅かったが、十分に通り抜けられる見通しを持ち、水路にエンデヴァー海峡と名付け、その北側の島々をプリンス・オブ・ウエルズ諸島と名付けた。これらの島々がずっとニューギニアまで続いている可能性は大きいと考えた。かくしてニュー・ホランドとニュー・ギニアが二つの切り離された土地もしくは島であることが証明できて、クックは大いに満足した。彼はニュー・サウス・ウエルスの島々や暗礁について詳細は海図を参照してもらいたい、暗礁の半数が海図に示されていると信じると述べている。彼は“ニュー・ホランド概観”としてこの大陸に生息する植物・動物ならびに原住民について10ページ以上の報告を記している。その最後にニュー・ホランドとニュー・ギニアの原住民が相互に交流することなく、異なった民族であって異なった言語を話している可能性が大である旨述べている。
 8月29日に狭い水路を抜けてからインドネシア諸島の南の海を西へ進み、10月1日ジャワに到着した。この界隈の島々はオランダ東インド会社の支配下にある。以前はポルトガルが支配していて、人々はポルトガル語を話す。ここでドックに船を入れ根本的な修理をすることにした。船底を点検すると損傷は竜骨をはじめ広範囲に及んでおり、誰しも船が海に浮かんでいたのを驚くほどだった。多くの乗員のほとんどは病気や疲労で弱り果てていて、修復作業に参加できる人数はごく限られていた。このころ船中の病人の数は40人を超えていた。多くの人が野菜食の欠乏で体調を損なった。12月26日出港、赤痢の発生もあり、次々に死亡者が出た。バンクス氏も相当ひどいところまで悪化したが、奇跡的に回復した。3月14日喜望峰に到着、ケープタウンに立ち寄る。4月16日出港。7月13日英国ダウンズに投錨。

 エンデヴァー号は木造船で、最近復元建造されたがその小ささに驚嘆の声が絶えないという(右上の写真)。この船でほぼ3年かけて世界を一周した。よくも救援のない未知の海域で座礁を凌ぎきったものだ。帆船であって、習熟した船員が操帆するとはいえ、逆風・無風の乗りきりにどれほどの労力・耐久力・注意力が必要なことか。特に岩礁の中に入り込んで一歩間違えれば再度の座礁の危険がある状況においては。この航海記を読むとジェイムズ・クックの熟練と知識、優れた統率力と勇気のどれひとつ欠けてもこの探検行は破綻したであろう。それに加えて耐久力と鋭い判断力を常時支える健康と好運に恵まれたことも含めて、クックであってはじめてなしえた事業だったと思わざるを得ない。自分がヨーロッパ人として始めて認知したから、直ちに領有宣言をするというのは“アフリカ”で示されたのと同じヨーロッパ人の傲慢ではあるが、結果的にはニュージーランド、オーストラリア共にそれが通ってしまっている。特にオーストラリアについてはその長方形の東西南北のわずか一辺、しかも短い東側の辺を周航したに過ぎない。それで領有が宣言できる素朴な時代だった。

<郵政民営化法案不成立> 3ヶ月を越える今国会の審議を経て、郵政民営化法案は衆議院では自民党議員から37票の反対と14票の棄権が出て、薄氷を踏む5票差で可決されたが、参議院では8月8日午後総投票数233票、白票108票、青票125票の大差で否決されて不成立となった。自民党議員の造反は反対22、欠席・棄権8となった。小泉首相はこの結果を与党の一部を含む国会による小泉内閣に対する不信任と受け止めて、衆議院を解散することにした。

 小泉首相自ら構造改革の本丸と位置付けた郵政民営化法案だが、参議院で否決されて衆議院を解散するのは筋が通らないという意見は多い。確かにこの郵政民営化法案について国民の賛否を問う形で衆院選挙をやっても、その結果は参議院には直接反映されないのだから、近い将来この郵政民営化法案が国会を通過することは常識では考えにくい。それを敢えて今回の選挙の争点を郵政民営化の是非を直接民意に問うということにして、頽勢を一挙に挽回しようとする賭に出た。また小泉首相は選挙に際して法案に反対した37人の議員を公認しないし、仮に当選しても党には入れない、また全小選挙区に候補を立てると述べ、併せて“この際古い自民党はぶっこわす” と宣言した。これで自民党の分裂選挙になり、徒にただ法案に反対していただけの民主党を利することになる恐れがある。しかし公明党はいち早く小泉全面支持を打ち出した。小泉首相は自公合わせて過半数が勝敗ラインで、これを割れば責任を取ると言明した。
 採決の前日“殺されてもいい”という小泉の抵抗にあって隠忍自重の説得に失敗した森元首相は“全くの変人だ、もう私の役割は終わった”と匙を投げた。片山虎之助自民党参議院幹事長は何とか参議院での法案成立に尽力してきただけに無念の表情を隠そうとせず、“相当迷った人がいたが、最後になって反対の流れができてしまった”と語った。しかし小泉首相は時の権力に拘束されたガリレオ・ガリレイが“それでも地球は動く”と言ったという例を挙げ、法案をこのまま葬ってしまうことに強く抵抗する姿勢を示した。今の世の中でこのような一途な人も稀有である。若者が次々と自殺志願をする現代日本で、予想以上の大衆の支持を受けるかもしれない。国会審議中にはクールビズで通していた首相は国会解散を決める閣議および衆院解散国会に青いネクタイを締めて現れた。

 衆・参両院における委員会審議の状況は屡々テレビで放映されたが、法案提出の過程で“民間でできることは民間で”という基本精神はよいとして、公社を四つの民間企業に分割するという思想が突然出てきたことには十分な説明がなく、特に郵便・貯金・簡保の他にその3者の業務を代行する“窓口会社”が独立化することには違和感を覚えた。多分これは現行の郵便局の建物としての構造をそのまま活かすための発想なのだろうが、郵便・貯金・簡保の3機能を別会社に分割する必然性と、それにも関わらずその各々を代表する窓口が一本化されている点には矛盾がある。一体窓口会社の経営などというものが独立できるものなのだろうか。小泉首相がこの“4分化”は譲れぬ基本方針としてこだわった割にはその理由についての具体的な説明はなかった。
 更には民営化すればその地方の事情に応じて今までの郵便局には許されなかったコンビニへの事業展開だって自由にできるなどと喧伝していたが、現代では専門のコンビニだって競争に負けてドンドン閉店していく時代である。今まで与えられた定型業務を忠実にこなすだけだった郵便局員が未経験の競争社会に飛び込んでそううまく営業していけるとは思えない。そのような在来なかった業務を始めるということと、在来業務を無理に四つに分けるということの繋がりや便宜が理解できない。下手をすれば経営に行き詰まって周辺住民の要望にも関わらず倒産・閉店が続出するのではないか。法案に構造改革の基本理念とは違ったこのような問題をもはらんでいたとすれば、そのような点を懸念して法案に反対した議員もいたであろう。法案をめぐる内閣側の対応が万全だったとは決して言えない。

 しかし主たる争点は綿貫前衆議院議長をドンとする郵政懇話会の面々で、この人たちにとって郵政問題すなわち在来から続く郵便局システムは彼らの在来からの存立基盤であったわけで、参議院での表決後一堂に会して廃案になったことを祝し、互いの健闘を称えて今後の結束持続を再確認していた。衆院での採決直後に“衆院では逸したが参院では確実に潰します!”と宣言した亀井派では衆参両院ともに12人が反対に回って法案否決の原動力になった。小泉首相がこの人々を目の仇にしない筈がない。遂に衆院選挙ではこの人たちを公認しないばかりか、対抗馬を立てて自民党から追い出す戦法に出た。派内で賛成・反対の分裂状態になり、党執行部によって賛成派の議員を反対派候補の刺客に擁立される窮地に追い込まれた亀井静香氏は自らの微力を理由に8月15日派閥会長を辞任した。僅か1週間で得意の頂点から失意の底に転落する政変劇だった。
 毎日新聞の最新世論調査によると、果然小泉人気が上昇しているらしい。ことによると今までの常識がひっくり返ることになるかもしれない。石原慎太郎は“コップの中の争い”と評した。そうかもしれないが、この結果は日本の政治にとって後戻りできない変質をもたらすだろう。その程度まではまだ読めない。岡田代表は勝利しなければ責任を取ると早々と自らの退路を封じてしまったが、このところ何もしていない民主党が漁夫の利を得るとは思えない。

<終戦記念日> 8月15日の毎日新聞を手にして驚いた。戦後60年を記念して新聞が行った世論調査では中国や米国と戦った戦争の評価について、“間違った戦争だった”が43%、“やむを得ない戦争だった”が29%、“分からない”が26%ということだった。この半年ほど毎朝衛星放送で“60年前日本人は今では想像もつかないよう日々を送っていた”と題して、60年前のその日の新聞、白々しい虚偽の戦果を伝える報道、私と同年輩の人の当時の生々しい回想と感慨を伝えた。最近はこの時間になると聞くのが切なくてチャンネルを切り替えるようになった。顧みて対中戦争では理念なき侵略戦争をした挙げ句、対米戦争では事前の準備も調査も特段の工夫もない何というみじめな惨敗を喫したことか。徹底的に間違っていたではないか。
 現代の若い人たちに過去の第2次大戦についての正確な認識がないのは、我々以降の世代にこの戦争の馬鹿らしさ、愚劣さをまともに認識評価せず、もう祖先になってしまった軍部を中心とする日本人たちの不快な所業を忘却の彼方に押しやってしまおうとする心情のためではないか。それが日露戦争以後の日本の国際協調から背を向けたねじ曲がった進み方について冷徹な歴史認識を行い、それを若い世代に正しく伝えることを怠った結果ではないのか。人間は例えば日露海戦など自分たちの誇るべき成果は子孫に伝えたくなるが、逆にロクに理屈が立たず恥ずべきみじめな所業についてはできれば子孫に伝えずに忘れ去ってしまいたいと思い、実際にそうしてきたのではないか。その証拠が現代日本の多くの歴史教科書であり、前述の世論調査の結果になっているのだろう。

 この随筆で繰り返し見てきた通り、欧米文化の発展がキリスト教文明の思い上がりを生み、過去1世紀以上に及ぶアフリカの蹂躙や現代にも止まぬイスラム教民族への圧迫につながっていて、人間というものは自分が悪いということは認めたがらぬということは昔からの真理だが、現代日本もこれに匹敵するほどにひどい。“ひどい”というのは“非道”と書く。悪いのは詳しく教えない方だけではない、学ぶ方も心を虚しくして真実を探し求めなくてはいけない。米軍機に脅かされながら輸送船でやっと辿り着いたインドネシアのジャングルで、補給を断たれて食べるものもなく空しく死んでいった多くの日本軍兵士に象徴される戦争の愚劣さはその企画・指揮をした参謀本部の無能さに繋がる。京都・奈良を除いて日本全国余すところなく絨毯爆撃されてなすところなかったのも、原爆を落とされたのも、やむを得なかったと言うのか。
 人の上に立ち、戦争を実行する責務を帯びた人々の自省心・工夫のなさやおごりがまかり通っていた時代への反省が米軍進駐の陰に隠れてないがしろにされてしまった後遺症は60年後の今でも多分に残っていると私は信じる。前記の兵士たちと戦争を指導した東条英機に代表される軍指導部をゴチャマゼにして靖国神社に合祀し、構わずそれに参拝する精神と世論調査の結果には相応ずるものがある。中国などに指摘されるのは癪だが、日本人の反省・自戒は不足している。

<ホモ・ルーデンス> ヨハン・ホイジンガーは1872年にオランダに生まれて、1938年に標題*の著作を刊行した。この著書は複雑な内容と構成をもち、その全体を紹介するのは困難であるが、彼は“人間とは遊ぶ存在である”ということを確信し、その遊びの態様を極力普遍的に説こうとしていることだけは疑いない。著者は我々人類の呼称として“ホモ・サピエンス”と並べて“ホモ・ファベル”(作る人)を持ち出してみるが、より適切でその本質的機能を表す言葉として“ホモ・ルーデンス”(遊ぶ人)を選び直した。2001年9月に<遊び>と題してロジェ・カイヨワ(仏)の所説(遊びは“競争”か“運”か“模擬”か“眩暈”のいずれかから成るーと説く)を紹介したが、この著作*は人間の文化の大半を人類の遊びの所産として総合的に捉えており、論ずる対象はカイヨワより広汎である。

 ホイジンガは“遊び”の根源性を人間の歴史の起源に、更に歴史以前に求める。原始的な人間の生活と行動―言語、宗教、生産の技術、求愛、各種の儀礼、芸術(私はカイヨワの所説に少なくともこの要素が脱落していることを指摘した)―の発生における状態の中には、遊びとしか名付けようのないものがあり、この遊びこそが文化の発展、共同体の組織造りに大きな役割を果たしている、と彼は述べている。今日の我々の生活では、遊びとは非日常的な圏内で、固有の秩序と法則に従って行われる特殊な行動と感じられ、日常生活とは次元を異にするものと意識されるのが通例だが、人間生活の根源的状況においては、遊びが生活を規定していたのであり、ときには生活自体が遊びだったのである。

 ポトラッチというのは部族が二派に分かれて一派がただ自分の側の優越性を相手に見せつけるために夥しい財物を浪費し、威儀をもって厖大な品々の儀礼的な贈与を行う大規模な祝祭の儀礼で、相手側はそれにまさるとも劣らぬ返礼をしなければならない。悪口合戦は古来様々な場で行われてきた。競争相手よりぬきんでたい徳を自讃することから始まるが、やがて競技の形式は相手側を侮辱する方に移行する。ローマ時代・中国・古代アラビヤ・古代ギリシャ・中世の英国などでそのような激しい口論の記録がある。闘技は昔は祭儀の一部として行われたが、やがて文化の発揚として観衆を集めて行われるようになり、屡々死を伴った。はその誕生から現代に至るまで常に精神的な遊びの領域に踏みとどまっている。詩にはさまざまな形式があるが、それは常に遊びの形式として工夫され、競技の中で養われる。それは常に智慧を働かせる歓びを人に与えた。音楽舞踊は切り離せない双生児のようなものである。これらは古来祭祀の中で用いられ、個人的・情緒的芸術体験として評価されるようになったのははるか後世になってからである。造形芸術建築・彫刻・絵画・陶磁器)は他に及ぼす作用の面でほかと異なる。それが生命を吹き込まれ、享受されるための公的な行為の場が欠如しているために、この分野では遊びの因子がないようにも見える。しかし造形性への意志はそれを鑑賞する立場をも包含して明らかに遊びの本能に由来するものである。これらはいずれも日常生活から離れて子どもっぽいぐらいの遊びの心から始まり、文化要素を形成するに至った。

 彼は次のような定義を考える。―遊びとはある定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的な拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのものの中にある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは“日常生活”とは“別のもの”という意識に裏付けられている。― こうしてみるとこの遊びという範疇は生の最も基本的な要素と見なすことができる。彼が指摘しているもう一つの事実は世界中のどの言語にもそういう“遊び”という一般的な範疇をはっきり区別して、一つの言葉で把握していた事実がないことである。高度に発達した言語はそれを複数の異なる言葉で分けて表現するようになってしまっている。彼は唯一の例外として日本語を採りあげる。日本語だけは“遊ぶ”という広汎な適応性をもった言葉をもち、対比的に“まじめ”という言葉があると言っている。機械用語としての“遊び”というのは機械部品相互に密着せず、ある程度動き得る余裕があることを言い、この余裕が屡々重要な役割を果たす。ホイジンガーはこのような用例にまでことの本質が巧みに捉えられていると指摘する。
 彼は法律、戦争、知識(学問)、芸術の各論にわたり“遊ぶ人(ホモ・ルーデンス)”の遍在を縦横自在に説き進める。彼は“すべては遊びなり”という考察から一歩進めて、人間の生活と文化は遊びと真面目の相互転換から成り立っているという図式に到達した。なお彼は現代における遊びの要素の一つとしてスポーツを挙げているが、また現代ではプロの競技者とアマチュア愛好家の分離が進み、組織化と訓練の絶え間ない強化によって純粋な遊びの内容がそこから失われていくと述べている。著者は現代文化におけるスポーツは遊びの中の最高の部分、最善の部分を失っていると言い、遊びはあまりにも真面目になり過ぎたと嘆いている。またそれはチェスや囲碁・将棋といった室内ゲームの領域にまで及んでいると指摘する。そうであろう。しかし私見を言えば、世はそれらの専門家のほかに多くの評論家や観客を生み、それらの人々に当事者ではないにしても大いなる遊びの世界を提供していることを否定する必要はないだろう。

<杜牧詩選> 始めに“江南春絶句”と題する短い漢詩を紹介する。
千里鶯啼緑映紅   千里 鶯啼いて緑 紅に映ず
水村山郭酒旗風   水村山郭 酒旗の風
南朝四百八十寺   南朝 四百八十寺
多少楼臺烟雨中   多少の楼台 煙雨の中
 この詩は中学か高校で教わった憶えがある。嘗て長江下流に南朝四百八十寺があったという広い地域を頭に浮かべて、その一隅の春の農村ののどかな風景を詠った視覚的な作品である。このようなテーマを採りあげる理由の中には、本来縦書きであるべき漢詩がこのような横書きの環境にうまく適応できるかどうかを試したくなったという点と、使用できる漢字の数に制約の多い日本語ワープロ環境で100%表示が許されるか否かのスリルを味わいたいという点があった。幸いにも前述の如く、この有名な詩に関しては何とか条件をパスした。
 杜牧は803年に生まれ、杜甫の詩と韓愈の文を愛し、晩唐の詩壇にあって清新・俊爽な詩風をもつ格調高き古典詩人と紹介されている。祖父は宰相だったが、幼時に祖父・父が相次いで病死した後の貧窮の中から高等文官試験に合格し、監察御史として10年間江南の地で幕僚生活を送る。その後宦官の専横を嫌って地方へ出て、刺史(州知事)になって中央政府に批判的な晩年を送り、不遇な漂泊の境遇の中で詩には多くの名作を残した。標題の小冊子(岩波文庫)はこの杜牧の詩131首を収めている。
 “山行”と題するもう一首を紹介する。
遠上寒山石径斜   遠く寒山に上れば 石径斜めなり
白雲生處有人家   白雲生ずる処 人家有り
停車坐愛楓林晩   車を停めて坐(そぞろ)に愛す 楓林の晩(くれ)
霜葉紅於二月花   霜葉は 二月の花より紅なり
 ―今度もうまく取り込むことができた。ここでは晩秋の美しさを詠じている。解説によれば二月花とは春に咲く花、多分桃の花だという。“江南春”・“山行”ともに日本人の好きな漢詩なのだそうだ。

 しかしこの詩人の本領は史跡を訪ねて、往時の権力者たちが辿った行跡を感慨をこめて詠ずる作品にこめられている。秦の始皇帝、漢の劉邦、楚の項羽、隋の煬帝、唐の玄宗、楊貴妃、安禄山。実はご本人が時の権力者になりかわりたかったのかもしれない。次に掲げる“阿呆宮の賦”は遊興にふける十七歳の敬宗を風刺し、唐朝の前途を憂える青年杜牧(24歳)の真情が溢れ出た傑作である。因みに阿呆宮というのは秦の始皇帝が天下統一後に造った巨大な宮殿の名である。また“賦”とは非定型長篇の韻文を指す。彼が26歳の若さで難関の進士に及第できたのは、本作品に感動した太学博士呉武陵が試験委員長に強く推挙した結果であるという。詩の韻文は表示困難な漢字が多く、再現が難しいために大意の日本語訳を以下に示す。

 ー戦国末期の六国が滅亡して、天下は秦によって統一された。蜀の緑の山々が禿山と化して阿呆宮が忽然と姿を現した。阿呆宮は三百余里四方もの大地をどっしりと覆いつくし、高く聳え立って、天空も太陽も隠れて見えないほどであった。宮殿は驪山の北麓に始まって、西に向かって折れ曲がり、そのままずっと秦の都咸陽にまで続いた。二つの川は、豊かに水をたたえつつ、宮殿の障壁のもとに流れ込む。五歩進むごとに一つの高楼、十歩進むごとに一つの高閣がそびえ立つ。建物をつなぐ渡り廊下は、ゆるやかにカーブを描き、鋭く突き出た軒先は反り返って、烏が頭をもたげて餌を啄むかのよう。楼閣はそれぞれ異なる地形に従って巧みに造られ、宮殿の心臓部と緊密につながりつつ、軒先は互いに角を闘わせるように競いあう。ぐるぐるとめぐり、くねくねと折れ曲がる。蜂の巣のように密集し、水面の渦巻きのようにめぐりとりまいて、いったい幾千万の建物から成っているのか、全く分からない。渭水の川波の上に横たわる長い橋。まだ雲も湧かないのに、どうして龍が現れたのだろう。空中にかかる、二階造りの長い廊下。雨上がりでもないのに、どうして美しい虹が出現したのだろう。宮殿内に入れば、高く低く建て込んで人を迷わせ、西も東も見定めがたい。楽しげな歌声が楼台からにぎやかに響き渡ると、うららかな春の日差しが照りそうような暖かさ。多くの宮女たちが殿上で袖をひるがえして踊りだせば、にわかに冷たい風と雨が吹きそそぐような秋の肌寒さ。同じ一日のうち、同じ宮殿のなかにありながら、気候がかくも異なっている。

 六国の宮廷にいた后妃や女官たち、六王の子どもや孫たちは、それぞれの国の王宮に別れを告げ、車に載せられて秦の都にやってきた。そして朝晩、歌をうたい琴をかなでて、秦の宮中に奉仕する身となった。明るい星がまたたくように見えるのは、宮女たちが化粧のために鏡の蓋を開けたもの。黒い雲が群がり起こるように見えるのは、朝を迎えて寝乱れ髪を梳かしているため。清らかな渭水の水面に、ねっとりした脂肪が浮かび漂うのは、化粧の水を棄てたもの。煙が流れ霧がたなびくように見えるのは、椒や蘭の香を焚いたため。雷鳴が突然とどろくのは、皇帝の御車が通りゆく音。ガラガラとしだいに遠ざかり、いずことも知れず消えていく。宮女たちは、肌から身のこなしに到るまで、ありとあらゆる媚態を表し、美しさを極めつくして、いつまでも立ちつくし、遠くを眺めて、皇帝の訪れを待ち望む。しかしそれでも、お目通りのかなわない者がいて、三十六年間に及んだ。

 燕や趙の国が集めて貯えた財宝、韓や魏の国が苦心して収集した宝物、斉や楚の国の選りすぐりの品々は、何代、何年もの長い期間をかけて、それぞれの人民から奪い取って、山のように積み重ねていた。ところが突如、国が滅んで保有できなくなり、阿呆宮に運ばれることになった。かくして宝物の鼎も鍋同然、美しい宝玉も石ころ同然、黄金も土くれ同然、真珠も小石同然に見なされ、道ばたに棄てられたものが、うねうねと続いた。秦の君臣は、この有様を目のあたりにしながら、それほど残念がらない。ああ、天子一人の心は、何千何万もの民衆の心に、深い影響を与える。秦の皇帝が豪奢な暮らしを好めば、人民もまた自分の家を愛して豊かにしようと願うものだ。それなのに、どうしてごくわずかな物までしぼり取って、それを泥か沙のように惜しみなく浪費したのであろうか。阿呆宮の棟木を背負う柱の数は、田畑で働く農民よりも多い。梁に架けわたした垂木の数は機織りする女性よりも多い。無数にきらめく釘の数は、倉庫に貯える穀物の粒よりも多い。複雑に入り組んだ屋根瓦の合わせ目の線は、身にまとう衣服の帛の縷の数よりも多い。直・横に連なる欄干の数は、全土に築かれた城郭よりも多い。かまびすしい管弦の響きは、商業区に集う人々の話し声よりも大きい。しかも天下の人々を抑圧して、批判を口に出す勇気はなくとも、心の中では恐れげもなく腹を立てさせたのだ。民心を失った暴君、始皇帝の心は、日ごとに驕り高ぶって頑なになっていった。やがて辺境警備の兵が反乱の叫び声をあげ、続いて函谷関の守りが破れた。そして楚の人、項羽の放った一本の炬火で、惜しいことに、広大な宮殿は一面の焼け野原に変わってしまった。

 ああ、六国を滅ぼしたのは、六国自身であり、秦ではない。秦の王族を全滅させたのは、秦自身であって、天下の人々ではない。ああ、もし六国の王が、それぞれ自分の国民をいつくしんでいたならば、秦の侵攻を充分防ぐことができたであろう。もしも秦のほうでもまた、既に滅ぼした六国の人民をいつくしんでいたならば、秦は三世から次々に伝えて万世に到るまで、君主の地位を保ち得たであろう。いったい誰が秦の一族を滅ぼすことなどできよう。秦の人々は、自分で自国の滅亡を悲しむゆとりがなく、後世の人々が代わりに秦の亡国を悲しんでいる。しかし後世の人々が悲しむだけで秦の亡びかたを教訓として戒めなかったならば、やはり今度もまた、より後世の人々に自ら生きる国家の滅亡を悲しまれる事態となろう。ー

 阿呆宮は項羽に焼かれて全焼するまでに3ヶ月かかったと言われ馬鹿げて大きかったこと、或いは厖大な建築費のために財政が傾いたということで、いずれも馬鹿げたことを阿呆というようになったという2説になっている。後世の杜牧はまことしやかな詩を書いているが、もちろんこの宮殿を直接見た筈はない。しかし彼の詩によって専制君主秦の始皇帝は人並みすぐれた才能のある男であったにしても、如何に民衆から毛嫌いされたかはよく分かる。冒頭の挿絵は木村武山の作品“阿呆劫火”である。



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