
<アフリカ> 近年アフリカへの世界の認識がようやく改まりつつあるように感ずる。先に英国で開かれたサミットではアフリカ諸国への積極援助が議題に上がったし、どうなるかは先行き不明だが、日本などと並んでアフリカの代表が国連理事国に名乗りをあげかけている。広大な面積をもつアフリカ大陸だが、如何にしてあのような多数の国に分割されたか、この地域には古い歴史というものが存在しなかったのか、地球上で最も遠隔に近い地の日本では私を含めて多くを知らぬ人が多い。この際“新書アフリカ史”(宮本正興+松田素二・講談社現代新書)を教材として概観を試みたい。


<ダ・ヴィンチ・コード> ダン・ブラウンが書き下ろした標題の小説がベスト・セラーになったというので、自分の趣旨に逆らって買い求めた。ここでその小説の筋書きを追っても仕方がないが、ダ・ヴィンチ作と言われる有名な“最後の晩餐”の絵が話題に上がっている。ここにはイエス・キリストを含めて13人の人物が描かれていて、その中にはイエスを裏切ったユダもいるというのだが、それはさておき、人々はここに描かれているのはすべて男と思っているがそうではない、中央のキリストの向かって左側にいて、上半身をキリストと逆の方向に傾けているのは明らかに女性である。修復前の絵はその顔の部分が不鮮明だったこともあって、多くの人がこの絵を鑑賞していたのにも関わらず、13人の中に女がいることにほとんど気が付かなかった。
この女性はマグダラのマリアと呼ばれる実在の女で、キリストと結婚していて、キリストが十字架の上で処刑された時には懐妊していたと言われる。もう一度よく絵を眺めるとイエスは赤い長衣に青いマントを、またマリアは青い長衣に赤いマントと対照的で、二人は腰の辺りで接しているにも関わらず上半身を遠ざけあっている。小説ではこの二人の間の空間は絵の中心をなすV字形で、聖杯や女性の子宮を表す記号であって、更に全体を眺めると結婚あるいはマグダラのマリアを表すMの字が浮かび上がると説く。
シオン修道会によれば、イエスの磔刑後マグダラのマリアは難を逃れるためにパレステイナを離れ、イエスが信頼していたアリマタヤのヨセフに助けられて、当時ガリアと呼ばれていたフランスに渡り、ひとりの娘を出産した。その名をサラという。マリアは俗間言われるような娼婦では決してなく、ユダヤの王ダヴィデとソロモンの血を引いていたので、フランスのユダヤ人たちはマリアを王統の始祖として尊敬し、サラ以後の家系図も保管していると記している。
本年3月に記した<三位一体>の中でローマ皇帝コンスタンチヌスはキリスト教を強化するためにキリストを神に祭り上げたことに触れた。初期の教会はイエスとマグダラのマリアの秘密が明るみに出て、神の子たるメシアは女性と交渉をもたなかったという根本的な教義が揺るがされる事態を非常に恐れていたから、キリストの子孫は絶えざる危険にさらされていた。今日に至るまでシオン修道会は次の三つの責務を負っている。それはマグダラのマリアの生涯を記したサングリアル文書を守ること、マグダラのマリアの墓を守ること及びキリストの血脈すなわち今でも生き延びているメロヴィング王家の後裔を守る事であるという。
ダ・ヴィンチがこの有名な絵の中にかかる重大な秘密(コード)を盛り込んだ真の意図を私は知らない。しかし現行のキリスト教に対する無言の反逆であることは疑いない。著者ダン・ブラウンはこの小説の冒頭で“この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述はすべて事実に基づいている。”と記している。
<太平洋探検> キャプテン・クックによる航海記(第1回航海)(クック太平洋探検―増田義郎訳・岩波文庫)を読んだ。1768年7月30日、王立協会評議会は国王陛下の名において、ジェイムズ・クック海尉に、三檣帆船エンデヴァー号の船長として、ホーン岬を回航してキング・ジョージ島(現タヒテイ島)に至り、更に秘密指令として西方のニュージーランド及び未発見の大陸探索・調査を命じた。スペース・シャトル・“エンデヴァー”はこの船にちなんで名付けられたのだと言う。
クックは上流階級出身の海軍士官ではなかった。クックは1728年イングランドのヨークシャ北部に農夫の子として生まれた。父の雇い主の好意で月謝を払ってもらって、エイトンの小学校に通い読み書きや数学を習った。やがて海に憧れるようになり、石炭輸送業ジョン・ウオーカーと三年間の年季奉公契約を結んで341トンの石炭輸送船に乗り組み、意欲的に航海術を学び始めた。次いでウオーカーが入手した新船の艤装を手伝い、そのまま乗り組んでAB(熟練有資格甲板員)として働いた。1750年にバルト海航路のメアリ号に乗り組み、2年後の24歳でウオーカー商会の最新帆船フレンドシップ号の航海長に任命された。ウオーカーとの関係は良好だったが、27歳の時に王室海軍にABとして志願した。
船長から一介の平水夫になったのである。彼は“運を試したかった”と述べている。2年後クックは王室海軍ペンブロック号のマスターに任命される。マスターは船長や士官と違って叩き上げの熟練者で、豊富な経験によって航海の要諦を身につけた者であるが、将来高い地位に昇進する望みはほとんどなかった。しかしマスターは船を動かすための重要な仕事のほとんどの責任者であって、甲板長を指揮してマストや帆や索の艤装、食糧・弾薬・武器の補給、海図の保管と訂正、水深測量、航海日誌の記入を行う。マスターがいなければ船は動かなかった。彼はその後11年にわたりこの職をこなし、実力を蓄えた。ケベック攻略作戦に参加し、三角測量の方法を学んで広範囲の正確な海図を作成して、彼の測量の専門家としての力量は海軍部内で広く認められるところとなった。
1768年王立協会は王室の下賜金4000ポンドによって368トン、船齢3年9ヶ月の三檣帆船を購入し、評議会はクックの出席を求めて金星の太陽面通過を含めた南太平洋の観測を諮問した。クックは6尺豊かで40歳、一同は彼の聡明さと人柄にすっかり感銘を受けた。クックは王立協会の委嘱を承諾し、海軍本部は当初マスターとしてのクックに35人の部下を付けようと考えていたが、長期の遠洋航海であることを考慮して定員を70人に引き上げ、指揮官としての資格については5月25日付けでクックを一等レフテナントに任命する破格の人事を発表した。一等レフテナントは旧日本海軍の少佐もしくは大尉に相当する。出発間際にはエンデヴァ号の乗員数は更に増えて85人になり、その中には船大工4人、縫帆員、船医、砲手、兵器係なども含まれた。乗組員85人の大部分は30歳以下の青年で、平均年齢は25歳だった。出帆直前に博物学者ジョゼフ・バンクス氏など9名が王立協会の要請で追加された。彼らは航海中に貴重な大量の資料を蒐集し、英国博物館に寄贈した。


<郵政民営化法案不成立> 3ヶ月を越える今国会の審議を経て、郵政民営化法案は衆議院では自民党議員から37票の反対と14票の棄権が出て、薄氷を踏む5票差で可決されたが、参議院では8月8日午後総投票数233票、白票108票、青票125票の大差で否決されて不成立となった。自民党議員の造反は反対22、欠席・棄権8となった。小泉首相はこの結果を与党の一部を含む国会による小泉内閣に対する不信任と受け止めて、衆議院を解散することにした。
小泉首相自ら構造改革の本丸と位置付けた郵政民営化法案だが、参議院で否決されて衆議院を解散するのは筋が通らないという意見は多い。確かにこの郵政民営化法案について国民の賛否を問う形で衆院選挙をやっても、その結果は参議院には直接反映されないのだから、近い将来この郵政民営化法案が国会を通過することは常識では考えにくい。それを敢えて今回の選挙の争点を郵政民営化の是非を直接民意に問うということにして、頽勢を一挙に挽回しようとする賭に出た。また小泉首相は選挙に際して法案に反対した37人の議員を公認しないし、仮に当選しても党には入れない、また全小選挙区に候補を立てると述べ、併せて“この際古い自民党はぶっこわす” と宣言した。これで自民党の分裂選挙になり、徒にただ法案に反対していただけの民主党を利することになる恐れがある。しかし公明党はいち早く小泉全面支持を打ち出した。小泉首相は自公合わせて過半数が勝敗ラインで、これを割れば責任を取ると言明した。
採決の前日“殺されてもいい”という小泉の抵抗にあって隠忍自重の説得に失敗した森元首相は“全くの変人だ、もう私の役割は終わった”と匙を投げた。片山虎之助自民党参議院幹事長は何とか参議院での法案成立に尽力してきただけに無念の表情を隠そうとせず、“相当迷った人がいたが、最後になって反対の流れができてしまった”と語った。しかし小泉首相は時の権力に拘束されたガリレオ・ガリレイが“それでも地球は動く”と言ったという例を挙げ、法案をこのまま葬ってしまうことに強く抵抗する姿勢を示した。今の世の中でこのような一途な人も稀有である。若者が次々と自殺志願をする現代日本で、予想以上の大衆の支持を受けるかもしれない。国会審議中にはクールビズで通していた首相は国会解散を決める閣議および衆院解散国会に青いネクタイを締めて現れた。
衆・参両院における委員会審議の状況は屡々テレビで放映されたが、法案提出の過程で“民間でできることは民間で”という基本精神はよいとして、公社を四つの民間企業に分割するという思想が突然出てきたことには十分な説明がなく、特に郵便・貯金・簡保の他にその3者の業務を代行する“窓口会社”が独立化することには違和感を覚えた。多分これは現行の郵便局の建物としての構造をそのまま活かすための発想なのだろうが、郵便・貯金・簡保の3機能を別会社に分割する必然性と、それにも関わらずその各々を代表する窓口が一本化されている点には矛盾がある。一体窓口会社の経営などというものが独立できるものなのだろうか。小泉首相がこの“4分化”は譲れぬ基本方針としてこだわった割にはその理由についての具体的な説明はなかった。
更には民営化すればその地方の事情に応じて今までの郵便局には許されなかったコンビニへの事業展開だって自由にできるなどと喧伝していたが、現代では専門のコンビニだって競争に負けてドンドン閉店していく時代である。今まで与えられた定型業務を忠実にこなすだけだった郵便局員が未経験の競争社会に飛び込んでそううまく営業していけるとは思えない。そのような在来なかった業務を始めるということと、在来業務を無理に四つに分けるということの繋がりや便宜が理解できない。下手をすれば経営に行き詰まって周辺住民の要望にも関わらず倒産・閉店が続出するのではないか。法案に構造改革の基本理念とは違ったこのような問題をもはらんでいたとすれば、そのような点を懸念して法案に反対した議員もいたであろう。法案をめぐる内閣側の対応が万全だったとは決して言えない。
しかし主たる争点は綿貫前衆議院議長をドンとする郵政懇話会の面々で、この人たちにとって郵政問題すなわち在来から続く郵便局システムは彼らの在来からの存立基盤であったわけで、参議院での表決後一堂に会して廃案になったことを祝し、互いの健闘を称えて今後の結束持続を再確認していた。衆院での採決直後に“衆院では逸したが参院では確実に潰します!”と宣言した亀井派では衆参両院ともに12人が反対に回って法案否決の原動力になった。小泉首相がこの人々を目の仇にしない筈がない。遂に衆院選挙ではこの人たちを公認しないばかりか、対抗馬を立てて自民党から追い出す戦法に出た。派内で賛成・反対の分裂状態になり、党執行部によって賛成派の議員を反対派候補の刺客に擁立される窮地に追い込まれた亀井静香氏は自らの微力を理由に8月15日派閥会長を辞任した。僅か1週間で得意の頂点から失意の底に転落する政変劇だった。
毎日新聞の最新世論調査によると、果然小泉人気が上昇しているらしい。ことによると今までの常識がひっくり返ることになるかもしれない。石原慎太郎は“コップの中の争い”と評した。そうかもしれないが、この結果は日本の政治にとって後戻りできない変質をもたらすだろう。その程度まではまだ読めない。岡田代表は勝利しなければ責任を取ると早々と自らの退路を封じてしまったが、このところ何もしていない民主党が漁夫の利を得るとは思えない。

<終戦記念日> 8月15日の毎日新聞を手にして驚いた。戦後60年を記念して新聞が行った世論調査では中国や米国と戦った戦争の評価について、“間違った戦争だった”が43%、“やむを得ない戦争だった”が29%、“分からない”が26%ということだった。この半年ほど毎朝衛星放送で“60年前日本人は今では想像もつかないよう日々を送っていた”と題して、60年前のその日の新聞、白々しい虚偽の戦果を伝える報道、私と同年輩の人の当時の生々しい回想と感慨を伝えた。最近はこの時間になると聞くのが切なくてチャンネルを切り替えるようになった。顧みて対中戦争では理念なき侵略戦争をした挙げ句、対米戦争では事前の準備も調査も特段の工夫もない何というみじめな惨敗を喫したことか。徹底的に間違っていたではないか。
現代の若い人たちに過去の第2次大戦についての正確な認識がないのは、我々以降の世代にこの戦争の馬鹿らしさ、愚劣さをまともに認識評価せず、もう祖先になってしまった軍部を中心とする日本人たちの不快な所業を忘却の彼方に押しやってしまおうとする心情のためではないか。それが日露戦争以後の日本の国際協調から背を向けたねじ曲がった進み方について冷徹な歴史認識を行い、それを若い世代に正しく伝えることを怠った結果ではないのか。人間は例えば日露海戦など自分たちの誇るべき成果は子孫に伝えたくなるが、逆にロクに理屈が立たず恥ずべきみじめな所業についてはできれば子孫に伝えずに忘れ去ってしまいたいと思い、実際にそうしてきたのではないか。その証拠が現代日本の多くの歴史教科書であり、前述の世論調査の結果になっているのだろう。
この随筆で繰り返し見てきた通り、欧米文化の発展がキリスト教文明の思い上がりを生み、過去1世紀以上に及ぶアフリカの蹂躙や現代にも止まぬイスラム教民族への圧迫につながっていて、人間というものは自分が悪いということは認めたがらぬということは昔からの真理だが、現代日本もこれに匹敵するほどにひどい。“ひどい”というのは“非道”と書く。悪いのは詳しく教えない方だけではない、学ぶ方も心を虚しくして真実を探し求めなくてはいけない。米軍機に脅かされながら輸送船でやっと辿り着いたインドネシアのジャングルで、補給を断たれて食べるものもなく空しく死んでいった多くの日本軍兵士に象徴される戦争の愚劣さはその企画・指揮をした参謀本部の無能さに繋がる。京都・奈良を除いて日本全国余すところなく絨毯爆撃されてなすところなかったのも、原爆を落とされたのも、やむを得なかったと言うのか。
人の上に立ち、戦争を実行する責務を帯びた人々の自省心・工夫のなさやおごりがまかり通っていた時代への反省が米軍進駐の陰に隠れてないがしろにされてしまった後遺症は60年後の今でも多分に残っていると私は信じる。前記の兵士たちと戦争を指導した東条英機に代表される軍指導部をゴチャマゼにして靖国神社に合祀し、構わずそれに参拝する精神と世論調査の結果には相応ずるものがある。中国などに指摘されるのは癪だが、日本人の反省・自戒は不足している。

<ホモ・ルーデンス> ヨハン・ホイジンガーは1872年にオランダに生まれて、1938年に標題*の著作を刊行した。この著書は複雑な内容と構成をもち、その全体を紹介するのは困難であるが、彼は“人間とは遊ぶ存在である”ということを確信し、その遊びの態様を極力普遍的に説こうとしていることだけは疑いない。著者は我々人類の呼称として“ホモ・サピエンス”と並べて“ホモ・ファベル”(作る人)を持ち出してみるが、より適切でその本質的機能を表す言葉として“ホモ・ルーデンス”(遊ぶ人)を選び直した。2001年9月に<遊び>と題してロジェ・カイヨワ(仏)の所説(遊びは“競争”か“運”か“模擬”か“眩暈”のいずれかから成るーと説く)を紹介したが、この著作*は人間の文化の大半を人類の遊びの所産として総合的に捉えており、論ずる対象はカイヨワより広汎である。
ホイジンガは“遊び”の根源性を人間の歴史の起源に、更に歴史以前に求める。原始的な人間の生活と行動―言語、宗教、生産の技術、求愛、各種の儀礼、芸術(私はカイヨワの所説に少なくともこの要素が脱落していることを指摘した)―の発生における状態の中には、遊びとしか名付けようのないものがあり、この遊びこそが文化の発展、共同体の組織造りに大きな役割を果たしている、と彼は述べている。今日の我々の生活では、遊びとは非日常的な圏内で、固有の秩序と法則に従って行われる特殊な行動と感じられ、日常生活とは次元を異にするものと意識されるのが通例だが、人間生活の根源的状況においては、遊びが生活を規定していたのであり、ときには生活自体が遊びだったのである。
ポトラッチというのは部族が二派に分かれて一派がただ自分の側の優越性を相手に見せつけるために夥しい財物を浪費し、威儀をもって厖大な品々の儀礼的な贈与を行う大規模な祝祭の儀礼で、相手側はそれにまさるとも劣らぬ返礼をしなければならない。悪口合戦は古来様々な場で行われてきた。競争相手よりぬきんでたい徳を自讃することから始まるが、やがて競技の形式は相手側を侮辱する方に移行する。ローマ時代・中国・古代アラビヤ・古代ギリシャ・中世の英国などでそのような激しい口論の記録がある。闘技は昔は祭儀の一部として行われたが、やがて文化の発揚として観衆を集めて行われるようになり、屡々死を伴った。詩はその誕生から現代に至るまで常に精神的な遊びの領域に踏みとどまっている。詩にはさまざまな形式があるが、それは常に遊びの形式として工夫され、競技の中で養われる。それは常に智慧を働かせる歓びを人に与えた。音楽と舞踊は切り離せない双生児のようなものである。これらは古来祭祀の中で用いられ、個人的・情緒的芸術体験として評価されるようになったのははるか後世になってからである。造形芸術(建築・彫刻・絵画・陶磁器)は他に及ぼす作用の面でほかと異なる。それが生命を吹き込まれ、享受されるための公的な行為の場が欠如しているために、この分野では遊びの因子がないようにも見える。しかし造形性への意志はそれを鑑賞する立場をも包含して明らかに遊びの本能に由来するものである。これらはいずれも日常生活から離れて子どもっぽいぐらいの遊びの心から始まり、文化要素を形成するに至った。
彼は次のような定義を考える。―遊びとはある定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的な拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのものの中にある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは“日常生活”とは“別のもの”という意識に裏付けられている。― こうしてみるとこの遊びという範疇は生の最も基本的な要素と見なすことができる。彼が指摘しているもう一つの事実は世界中のどの言語にもそういう“遊び”という一般的な範疇をはっきり区別して、一つの言葉で把握していた事実がないことである。高度に発達した言語はそれを複数の異なる言葉で分けて表現するようになってしまっている。彼は唯一の例外として日本語を採りあげる。日本語だけは“遊ぶ”という広汎な適応性をもった言葉をもち、対比的に“まじめ”という言葉があると言っている。機械用語としての“遊び”というのは機械部品相互に密着せず、ある程度動き得る余裕があることを言い、この余裕が屡々重要な役割を果たす。ホイジンガーはこのような用例にまでことの本質が巧みに捉えられていると指摘する。
彼は法律、戦争、知識(学問)、芸術の各論にわたり“遊ぶ人(ホモ・ルーデンス)”の遍在を縦横自在に説き進める。彼は“すべては遊びなり”という考察から一歩進めて、人間の生活と文化は遊びと真面目の相互転換から成り立っているという図式に到達した。なお彼は現代における遊びの要素の一つとしてスポーツを挙げているが、また現代ではプロの競技者とアマチュア愛好家の分離が進み、組織化と訓練の絶え間ない強化によって純粋な遊びの内容がそこから失われていくと述べている。著者は現代文化におけるスポーツは遊びの中の最高の部分、最善の部分を失っていると言い、遊びはあまりにも真面目になり過ぎたと嘆いている。またそれはチェスや囲碁・将棋といった室内ゲームの領域にまで及んでいると指摘する。そうであろう。しかし私見を言えば、世はそれらの専門家のほかに多くの評論家や観客を生み、それらの人々に当事者ではないにしても大いなる遊びの世界を提供していることを否定する必要はないだろう。

<杜牧詩選> 始めに“江南春絶句”と題する短い漢詩を紹介する。
千里鶯啼緑映紅 千里 鶯啼いて緑 紅に映ず
水村山郭酒旗風 水村山郭 酒旗の風
南朝四百八十寺 南朝 四百八十寺
多少楼臺烟雨中 多少の楼台 煙雨の中
この詩は中学か高校で教わった憶えがある。嘗て長江下流に南朝四百八十寺があったという広い地域を頭に浮かべて、その一隅の春の農村ののどかな風景を詠った視覚的な作品である。このようなテーマを採りあげる理由の中には、本来縦書きであるべき漢詩がこのような横書きの環境にうまく適応できるかどうかを試したくなったという点と、使用できる漢字の数に制約の多い日本語ワープロ環境で100%表示が許されるか否かのスリルを味わいたいという点があった。幸いにも前述の如く、この有名な詩に関しては何とか条件をパスした。
杜牧は803年に生まれ、杜甫の詩と韓愈の文を愛し、晩唐の詩壇にあって清新・俊爽な詩風をもつ格調高き古典詩人と紹介されている。祖父は宰相だったが、幼時に祖父・父が相次いで病死した後の貧窮の中から高等文官試験に合格し、監察御史として10年間江南の地で幕僚生活を送る。その後宦官の専横を嫌って地方へ出て、刺史(州知事)になって中央政府に批判的な晩年を送り、不遇な漂泊の境遇の中で詩には多くの名作を残した。標題の小冊子(岩波文庫)はこの杜牧の詩131首を収めている。
“山行”と題するもう一首を紹介する。
遠上寒山石径斜 遠く寒山に上れば 石径斜めなり
白雲生處有人家 白雲生ずる処 人家有り
停車坐愛楓林晩 車を停めて坐(そぞろ)に愛す 楓林の晩(くれ)
霜葉紅於二月花 霜葉は 二月の花より紅なり
―今度もうまく取り込むことができた。ここでは晩秋の美しさを詠じている。解説によれば二月花とは春に咲く花、多分桃の花だという。“江南春”・“山行”ともに日本人の好きな漢詩なのだそうだ。
しかしこの詩人の本領は史跡を訪ねて、往時の権力者たちが辿った行跡を感慨をこめて詠ずる作品にこめられている。秦の始皇帝、漢の劉邦、楚の項羽、隋の煬帝、唐の玄宗、楊貴妃、安禄山。実はご本人が時の権力者になりかわりたかったのかもしれない。次に掲げる“阿呆宮の賦”は遊興にふける十七歳の敬宗を風刺し、唐朝の前途を憂える青年杜牧(24歳)の真情が溢れ出た傑作である。因みに阿呆宮というのは秦の始皇帝が天下統一後に造った巨大な宮殿の名である。また“賦”とは非定型長篇の韻文を指す。彼が26歳の若さで難関の進士に及第できたのは、本作品に感動した太学博士呉武陵が試験委員長に強く推挙した結果であるという。詩の韻文は表示困難な漢字が多く、再現が難しいために大意の日本語訳を以下に示す。
ー戦国末期の六国が滅亡して、天下は秦によって統一された。蜀の緑の山々が禿山と化して阿呆宮が忽然と姿を現した。阿呆宮は三百余里四方もの大地をどっしりと覆いつくし、高く聳え立って、天空も太陽も隠れて見えないほどであった。宮殿は驪山の北麓に始まって、西に向かって折れ曲がり、そのままずっと秦の都咸陽にまで続いた。二つの川は、豊かに水をたたえつつ、宮殿の障壁のもとに流れ込む。五歩進むごとに一つの高楼、十歩進むごとに一つの高閣がそびえ立つ。建物をつなぐ渡り廊下は、ゆるやかにカーブを描き、鋭く突き出た軒先は反り返って、烏が頭をもたげて餌を啄むかのよう。楼閣はそれぞれ異なる地形に従って巧みに造られ、宮殿の心臓部と緊密につながりつつ、軒先は互いに角を闘わせるように競いあう。ぐるぐるとめぐり、くねくねと折れ曲がる。蜂の巣のように密集し、水面の渦巻きのようにめぐりとりまいて、いったい幾千万の建物から成っているのか、全く分からない。渭水の川波の上に横たわる長い橋。まだ雲も湧かないのに、どうして龍が現れたのだろう。空中にかかる、二階造りの長い廊下。雨上がりでもないのに、どうして美しい虹が出現したのだろう。宮殿内に入れば、高く低く建て込んで人を迷わせ、西も東も見定めがたい。楽しげな歌声が楼台からにぎやかに響き渡ると、うららかな春の日差しが照りそうような暖かさ。多くの宮女たちが殿上で袖をひるがえして踊りだせば、にわかに冷たい風と雨が吹きそそぐような秋の肌寒さ。同じ一日のうち、同じ宮殿のなかにありながら、気候がかくも異なっている。
六国の宮廷にいた后妃や女官たち、六王の子どもや孫たちは、それぞれの国の王宮に別れを告げ、車に載せられて秦の都にやってきた。そして朝晩、歌をうたい琴をかなでて、秦の宮中に奉仕する身となった。明るい星がまたたくように見えるのは、宮女たちが化粧のために鏡の蓋を開けたもの。黒い雲が群がり起こるように見えるのは、朝を迎えて寝乱れ髪を梳かしているため。清らかな渭水の水面に、ねっとりした脂肪が浮かび漂うのは、化粧の水を棄てたもの。煙が流れ霧がたなびくように見えるのは、椒や蘭の香を焚いたため。雷鳴が突然とどろくのは、皇帝の御車が通りゆく音。ガラガラとしだいに遠ざかり、いずことも知れず消えていく。宮女たちは、肌から身のこなしに到るまで、ありとあらゆる媚態を表し、美しさを極めつくして、いつまでも立ちつくし、遠くを眺めて、皇帝の訪れを待ち望む。しかしそれでも、お目通りのかなわない者がいて、三十六年間に及んだ。
燕や趙の国が集めて貯えた財宝、韓や魏の国が苦心して収集した宝物、斉や楚の国の選りすぐりの品々は、何代、何年もの長い期間をかけて、それぞれの人民から奪い取って、山のように積み重ねていた。ところが突如、国が滅んで保有できなくなり、阿呆宮に運ばれることになった。かくして宝物の鼎も鍋同然、美しい宝玉も石ころ同然、黄金も土くれ同然、真珠も小石同然に見なされ、道ばたに棄てられたものが、うねうねと続いた。秦の君臣は、この有様を目のあたりにしながら、それほど残念がらない。ああ、天子一人の心は、何千何万もの民衆の心に、深い影響を与える。秦の皇帝が豪奢な暮らしを好めば、人民もまた自分の家を愛して豊かにしようと願うものだ。それなのに、どうしてごくわずかな物までしぼり取って、それを泥か沙のように惜しみなく浪費したのであろうか。阿呆宮の棟木を背負う柱の数は、田畑で働く農民よりも多い。梁に架けわたした垂木の数は機織りする女性よりも多い。無数にきらめく釘の数は、倉庫に貯える穀物の粒よりも多い。複雑に入り組んだ屋根瓦の合わせ目の線は、身にまとう衣服の帛の縷の数よりも多い。直・横に連なる欄干の数は、全土に築かれた城郭よりも多い。かまびすしい管弦の響きは、商業区に集う人々の話し声よりも大きい。しかも天下の人々を抑圧して、批判を口に出す勇気はなくとも、心の中では恐れげもなく腹を立てさせたのだ。民心を失った暴君、始皇帝の心は、日ごとに驕り高ぶって頑なになっていった。やがて辺境警備の兵が反乱の叫び声をあげ、続いて函谷関の守りが破れた。そして楚の人、項羽の放った一本の炬火で、惜しいことに、広大な宮殿は一面の焼け野原に変わってしまった。
ああ、六国を滅ぼしたのは、六国自身であり、秦ではない。秦の王族を全滅させたのは、秦自身であって、天下の人々ではない。ああ、もし六国の王が、それぞれ自分の国民をいつくしんでいたならば、秦の侵攻を充分防ぐことができたであろう。もしも秦のほうでもまた、既に滅ぼした六国の人民をいつくしんでいたならば、秦は三世から次々に伝えて万世に到るまで、君主の地位を保ち得たであろう。いったい誰が秦の一族を滅ぼすことなどできよう。秦の人々は、自分で自国の滅亡を悲しむゆとりがなく、後世の人々が代わりに秦の亡国を悲しんでいる。しかし後世の人々が悲しむだけで秦の亡びかたを教訓として戒めなかったならば、やはり今度もまた、より後世の人々に自ら生きる国家の滅亡を悲しまれる事態となろう。ー
阿呆宮は項羽に焼かれて全焼するまでに3ヶ月かかったと言われ馬鹿げて大きかったこと、或いは厖大な建築費のために財政が傾いたということで、いずれも馬鹿げたことを阿呆というようになったという2説になっている。後世の杜牧はまことしやかな詩を書いているが、もちろんこの宮殿を直接見た筈はない。しかし彼の詩によって専制君主秦の始皇帝は人並みすぐれた才能のある男であったにしても、如何に民衆から毛嫌いされたかはよく分かる。冒頭の挿絵は木村武山の作品“阿呆劫火”である。