9月の話題


2005年9月

<歴史認識>   文藝春秋冒頭の随筆ではこのところ阿川弘之と塩野七生が毎回小文を載せている。前者についてもいずれ触れたいと思うが、今回は塩野の説くところに共鳴してここに採りあげる。彼女は“レパントの海戦”という小品を書いているが、その前の取材中に一人のトルコからの留学生に会って話を聞こうとしたら、彼はレパントの海戦については学校で教わらなかったので何も知らないと答えたという。この海戦はそれまでイスラム勢に押されまくってきたキリスト教国が連合して待ったをかけ、南ヨーロッパのイスラム化にストップをかけた記念すべき戦闘なのである。彼女は“コンスタンチノーブルの陥落”・“ロードス島攻防記”・“レパントの海戦”を3部作としてまとめたが、ロードス島で徹底的に敗れた聖ヨハネ騎士団の後身団体を訪れたら、ロードス島での攻防の記録はないと言われてしまった。逆に何故マルタの攻防戦を書かないのか、これなら資料はすべて揃っているのにと言う。マルタ攻防戦では騎士団は勝ったのだ。ロードス島攻防戦の記録がないのは史料を後世になって廃棄したのではない、史実を丹念に集めて再構築し、それを後世に残す意志が欠けていたに過ぎないと彼女は言う。
 EUはEU共通の歴史教科書を作ろうと考えて実施に移った。ヨーロッパの歴史は3000年で、その内の2500年がボーダーレス、最後の500年は国境の引かれた近代国家で、共通教科書作りは当初は容易と考えられたが、やってみると互いに戦争ばかりしていた最後の500年間の“歴史認識の共有”は困難で、2500年の歴史は共通でまた最後の500年は各国それぞれでということになった。この作業に参加した学者の一人は“EU共通の歴史教科書”とはそれぞれの国が自分たちに都合のよい部分を取り出して教えることになるか、誰にも読まれないかどちらかになるだろうと苦い感想を述べたという。彼女は言う。映画“羅生門”の原作“藪の中”を思い出してほしい、また2000年前にユリウス・カエサルが言った次の一句を味わってほしい、“人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない”と。
 彼女は宣言する、“日韓でも日中でも、学者たちが集まって歴史認識の共有を目指すのは時間の無駄である”と。ウーン、参った。これだけ事実をつきつけられると反論のしようがない。SollenはSeinに勝てない。かくあるべしという観念論は人間世界の現実のありように敵うわけがない。最後に彼女はこういう提案をしている。1種にはしぼれない日本の歴史教科書を5種、中国と韓国の歴史教科書を少なくとも1種、毎年英訳しておく。歴史の審判に役立つであろう。原本とともにどこかの有名な図書館に寄贈しておけば。

<暗号> 銀行のATMを利用するための暗証番号の仕組みを学んで、その要点を忘れぬようにと2001年6月の話題に書き込んだ。パソコンでインターネットへ入るようになると、やたらにパスワードを要求されて、大文字・小文字の扱いで毎度神経を使う。現代社会ではこのように誰でも暗号と無縁では生きられなくなっている。人類はかなり昔から暗号を作成して利用する一方で、他者の暗号を解読する努力を続けてきた。戦争では味方にはぜひ伝えたいが、敵には知らせられない情報が乱れ飛び、暗号の作成と解読技術は格段に進歩した。この方面の頭脳の働きに格段すぐれた人がいて、素人には到底発想が困難な領域にまで運用技術を進歩させた。こういった歴史が詳しく解説してある“暗号解読”(サイモン・シン、新潮社)という本を入手した。(右の写真はドイツ軍が使った暗号機エニグマ)

 著者は暗号の作成と解読に関する発展史は一種の生存競争であり、細菌とそれを駆逐しようとする抗生物質の進化に例えられると述べている。細菌は次々と繰り出される新しい抗生物質に打ち勝って生き延びるために、絶えず進化しなければならない。秘密を守ろうとする側も、それを暴こうとする側も、数学・言語学・情報理論・量子論と幅広い領域の学問や技術を利用してきたし、コンピュータの発達と活用を促した。歴史の節目で暗号は重要な役割を演じ、戦争の勝敗を決し支配者に死をもたらした。
 この著書の原題は“The Code Book”だが、著者は暗号にはコードとサイファーがあると断っている。コードというのは一つの単語またはひとまとまりのフレーズを別の単語や数や記号で置き換えたもので、例えば“Attack at dawn”というフレーズを“Jupiter”というコードに代えて当事者どうしが予め取り決めて使うので、それを知らぬ第3者には理解のしようがない。一方でサイファーというのは単語全体でなく、個々の文字を置き換えの対象とするために、コードよりも基本的なレベルの暗号で、この著書の大半はこれを扱っているので、本来なら原題も“The Code and Cipher Book”と改めるべきである。特に暗号解読者は“Cipher breaker”と呼ぶべきだと断っている。

 ローマ時代ユリウス・カエサルは“ガリア戦記”で、アルファベットをそれよりも三つ後ろのアルファベットに置き換える暗号を伝令に持たせる文書に使用したと記されている。ずらす文字数を変えれば25種類の暗号文ができる。このタイプの暗号は従って“シーザー式暗号”と呼ばれる。これを拡張して自由に文字を置き換える換字式暗号がその後1000年にわたって用いられた。一般に暗号システムは“アルゴリズム”と“鍵”とから成り、前者はその基本方針を、また後者はその詳細を決める。この場合“鍵”は自由に並べ替えられたアルファベット文字列で、これを正規のアルファベットと換字する。実際は限られた文字数の単語を“鍵”にしてまず頭に並べる方式が多用された。
 長い間換字式暗号は鍵の候補が多すぎるために破れないだろうと人々に思われていたが、アラビヤ人たちが言語学、統計学、篤い信仰心の連繋で暗号の解読法を見出した。個々の文字の出現頻度に差があることがそのきっかけになった。この頻度分析は初期はアラブで、後にはヨーロッパで発達し、単アルファベット換字式暗号はもはや安全ではなくなった。幽閉されていたスコットランド女王メアリーは彼女の陰の支持者との交信の暗号文の判読によって、イングランド女王エリザベスの暗殺を承認した罪で裁かれ、1587年2月8日断頭台に消えた。

 次に考えられたのは“シーザー式暗号”の後ろにずらす字数をキーワードになる文字(例えば“WHITE”)によって1字ごとに変えていく方式である。キーワード文字の字数が尽きれば同じ文字 “WHITE”を無限に繰り返す。これを発案者の名をとってヴィジュネル暗号と呼んだ。これは従来の方式に対して“多アルファベット換字式暗号”とも呼ばれ、単純な頻度分析では解読できない。この暗号は少なくとも18世紀中は解読不能な暗号として解読者たちをリードした。他に一つの文字に対してその一般的に知られる出現頻度にほぼ応じた個数の2桁の数字を与える方式がある。これは同じ文字に対して複数の異なる記号を与えることから“ホモフォニック(同音異綴)換字式暗号”と呼ばれ、頻度分析による攻撃には強いが、ヴィジュネル暗号よりは解読されやすい。
 19世紀に登場したチャールス・バベッジ(英)は多年の研究の結果、詳しい説明を省略するが、遂に1854年ヴィジュネル暗号の解読に成功した。イギリス情報部は長くこの事実を秘匿した。19世紀になるとイタリアの物理学者グリエルモ・マルコーニが無線通信を発明し、すべての艦船とは無線で連絡が取れるようになった。通信にはモールス信号が使用されたが、電波は敵味方すべてに届いてしまうので、オペレーターは暗号化されたメッセージをモールス信号で打電した。しかし第1次大戦中特にドイツ軍の暗号は英国側に解読されていた。ドイツ外相ツインマーマンの米国を中立のままに止めようとする暗号電報はイギリス軍に解読されて逆に米国の参戦を誘い、英国とドイツの勝敗は逆転した。

 1918年ドイツの発明家アルトウール・シェルビウスは“エニグマ”と呼ばれる電気式暗号円盤を発明した。エニグマ機の基本構成は平文文字を入力するキーボード、その各文字を暗号化するスクランブラー、暗号化された文字をランプ表示するランプボードの3点で、互いにワイヤで接続されている(右の写真はエニグマのローター:1文字打つごとに1ノッチ進む)。送信者はエニグマ機に平文を入力して暗号文を作成し、受信者はエニグマ機に暗号文を入力して平文を生み出す、即ち暗号化と復号がミラープロセスになっている。26文字を扱う円盤形スクランブラー3枚の組み合わせによって、26X26X26=17576通りの初期設定が可能で、コードブックに従って1日に1回設定替えを行う。設計者は更にプラグボードの配線替えと三つのスクランブラーの配置替えによって、鍵の数を大幅に増す変更を行った。第1次大戦敗北の主因は通信の機密保護に失敗したためと悟り、ドイツ軍は20年間で3万台のエニグマを買い上げた。第2次世界大戦が勃発した時、ドイツ軍は前代未聞の力をもつ暗号システムに守られていた。しかしこれは実は定期的に受信者に配布するコード・ブックの存在に機密の弱点があった。

 エニグマのお陰で1926年になってドイツの通信に他の国で解読できないメッセージが急に増えていった。ところが一人のドイツ人元軍人がひそかにエニグマに関する情報をフランスに売り渡した。この情報は軍事協定に基づきドイツによる侵略の脅威に怯えていたポーランドに渡された。ポーランド暗号局のレイエフスキーは忍耐と工夫の果てに毎日傍受されたメッセージからメッセージ鍵を探し当て、予め配布されているコードブックに記載されている日鍵と合わせて正当な受信者と同様に解読できるようになった。1938年ポーランドの通信傍受および暗号解読活動はピークに達したが、1939年にドイツの暗号作成者がエニグマの安全性を強化すると、情報の流れはピタリと途絶えた。ヒットラーの猛攻撃を目前にしてポーランド当局はフランスとイギリスの情報担当官を招いてエニグマに関する最新の知見を開示した。エニグマの弱点を知ったイギリスはアラン・チューリングを中心に独自の解読作業を開始した。ドイツ海軍はUボートの活躍を中心に大西洋海戦において確実に優位に立った。イギリスはドイツ艦船を捕獲して最新のコードブックを入手する作戦に出た。これが成功してエニグマ暗号はガラス張りになったが、イギリスは解読の事実がドイツに悟られるのを極力防いだ。 英当局はドイツのエニグマ暗号だけでなく、イタリアと日本の暗号も解読していた。これら三国の暗号文から得られる情報は“ウルトラ”のコード・ネームで呼ばれ、その情報ファイルは戦争の主要な局面すべてにおいて連合国を大きく優位に立たせた。1944年にウルトラは連合国のヨーロッパ侵攻(ノルマンデイ上陸作戦)に重大な役割を演ずることになった。サー・ハリー・ヒンズレーはこう述べた、“英国政府暗号班がエニグマ暗号を解読できず、ウルトラ情報を生み出せなかったなら、戦争終結は1945年ではなく1948年になっていただろう”と。

 アメリカの暗号解読者たちは“パープル”と呼ばれる日本の暗号を解読することによって、エニグマ解読と同様な効果を太平洋戦線に及ぼしていた。1942年にアリューシャン列島を攻撃すると見せかけてミッドウエイ諸島を攻略するという日本軍の通信文を解読した米海軍は逆に不意打ちを食わせてミッドウエイ海戦に大勝した。その1年後連合艦隊司令長官山本五十六のソロモン視察日程を入手した米軍は16機の戦闘機の仰撃によって彼を葬った。一方で米軍通信にも不安があったので、米国は少数民族のナヴァホ族の言語を軍事通信に採用することにした。難解なナヴァホ語はそのまま解読不能の暗号になり、熾烈な戦場で暗号作成・入力・復号のミスや手間を省いた。語彙に乏しいのを補うために必要な軍事用語に日常の動植物などの名称を当てはめる用語集を作成した。ナヴァホ族が通信兵に採用された。ハワード・コナー少将は“ナヴァホ兵がいなかったなら、海兵隊は硫黄島を占領できなかっただろう”と語った。事実日本軍の情報部長有末精三中将は戦後ナヴァホ暗号に手も足も出なかったことを認めた。

 第2次大戦後のコンピュータの発達に伴って暗号界は新たな技術革新を迎えた。コンピュータは如何なる複雑な仮想暗号機にもなり得るし、暗号化・復号化に必要な処理速度は速く、暗号化の対象はアルファベットの文字ではなく二進法に転換された数になる。米国商務省標準局(NSA)は解読の危険性を考慮して56ビットの暗号化標準を定めてDESと命名した。ここで鍵配送問題が浮上した。文書を暗号化するには鍵を使わなければならないが、暗号の作成者は受信者に鍵を送らないと受信者は解読できない。或いは受信者が作成者に予め鍵を送らなければならない。ここに鍵の送付をめぐる安全の問題が生ずる。ここで非対称鍵という概念が生まれた。これは暗号化鍵と復号鍵が同じではないというもので、暗号化鍵は公開しても正当な受信者が非公開の復号鍵を使えば問題はないというものである。この場合暗号化鍵と復号鍵の関係は一方向関数でなければならない。
 このような一方向関数は容易には発見されなかったが、1977年4月マサチューセッツ工科大学のリヴェスト、シャミア、アドルフという3人の学生が成案に到達し、それを三人の頭文字を取ったRSAという論文にして発表した。それは二つの素数”p”と”q”、それと両者の積”N”であって、”N”を公開鍵、”p”と”q”を個人鍵とする。暗号文を受信したい人は”N”を名詞に刷ってもよいし、インターネットに公開してもよい。”p”と”q”が十分に大きい数であれば、”N”を知っていても”p”と”q”を求めるのは至難の業なのである。現在まで素因数分解の一般的手法は考案されていない。現在RSAを使う人々は10進法で200桁以上の”N”値を使用しているという。これでようやく解読者が優勢だった時代が長かった暗号通信の世界に解読不能の技術が当面は確立した。

<東海道中膝栗毛> 有名な文学作品にはそれぞれ大なり小なり癖がある。ここで取り上げる十返舎一九の作になる標題の作品(上下巻・岩波文庫)は文体・構成が日頃読み慣れた現代世界と相当に隔絶しているので、ちょっと覗いただけで違和感が強く、匙を投げそうになった。書体にも、描写する対象(作者の関心の持ち方)も馴染みがなかったし、昔の仮名使いや方言を遠慮なく取り込んだ生々しい対話の連続するスタイルに素直について行く気がしなかった。しかし一旦本を閉じて改めて考えてみると、舞台は馴染みの東海道で、そこを庶民が旅行して見聞することざまであるし、作者はまさしく生粋の日本人、登場する人物はすべて我々の祖先であって、時代はたかだか300年ほど前、これを拒絶してしまったら誰がこの世界に親しみをもつだろうか。もし仮に刑務所へでも入れられて読む物としてこの本しかなければ、いやでも端から端まで詳しく目を通すことだろう。一旦この世界に馴染めば、先祖たちの世界にひたるのに抵抗も消えるに違いない。
 解説によればこの道中膝栗毛は享和二年に初版を出してから文政五年まで、21年の長年月にわたって少しづつ分けて出版されたものである。ざっと見ると如何にも気楽に筆を進めたようであるが、実は相当に苦心している。書式は洒落本を真似て芝居の台本の如く、会話を主としてこれを大字に書し、地の文は小書にして、ト書きは二行に割って人物の行動や服装などを叙述する体裁になっている。各地の遊郭や宿屋の特色とか、方言とか、身分に応ずる言葉・身振り・態度などを克明に描いている。洒落本が主として江戸の遊里を舞台にしているのに対し、膝栗毛は舞台を地理的に拡大して、地方的な風土物産等をもって、更に潤色を加えたものである。

 膝栗毛では弥次郎兵衛と喜多八という二人の人物がほとんど対等の立場で活動する。従来のこの種の話にありがちの一方が主で他方が従という関係にはない。説話構成は笑話式で五十三次あるいは六十九次ごとに、その場かぎりの写生やうがちを生命とし、“おち”をもっていることを特徴とする。全体的な筋や主題は特にない。先行作品としては狂言の影響が最大だが、その他多くの文学作品が引用され、近世の習俗に合わせるように材料を換骨奪胎している。短歌形式の狂歌・ざれうたが適当なところで冗漫な文章を締めくくる。歌の語句には一つ以上の掛詞がある。地名にはまずかけが入る。こういう遊び感覚は作者にとっては必須のものになっている。自作の挿絵があちこちに入っている。
 お泊りはよい程が谷と留め女、戸塚前ては放さざりけり(右上の挿絵に対応するざれ歌)

 道中膝栗毛凡例 この作品のどこに力点を置いたかを示した
○此の書はすべて東海道往来之記、上貴人高官の通行より、下抜参物貰の木賃泊、雲駕馬士の俗腸迄、其下情を穿て、悉く弘著す(下抜参物=家の者の目を盗み、着のみ着のままで、そっと家を抜け出して、伊勢参宮をすること。木賃泊=食料は持参し、それを煮炊する薪代(木賃)だけを払って泊まること。俗腸=布袋腹(ほてっぱら):嘲りことば。弘著=あばき出してひろめる。)
○駅々風土の佳勝、山川の秀異なるは、諸家の道中記に精しければ此に除く。所々の名物景勝等に至っては、聊其滑稽詞を加へ記す
○館伴女傀儡の風流泊々の遊戯、その可笑みを純(もっぱら)にす(館伴女=宿引女あるいは留女。傀儡=旅籠屋の下女、旅人を泊めて淫をひさいだ。)
○巻中に着す夷曲歌は、排設地口を専にす。故に嗤者は笑へ、予が風製落首体たるを以て、入金を嘗て出さず、却て其料を着服するは、是称を取より徳を執て、慚を愧と思はざる、予が性質仕方がなし(排設地口=こぢつけぐち:一語に二様の意味をもたせる。嗤=わらう:バカにする。風製=風のように気まぐれで即興体の)

 道中膝栗毛発端
ー武蔵野の尾花がすゑにかかる白雲と詠しは、むかしむかし浦の苫屋、鴫たつ澤の夕暮に愛て、仲の町の夕景色をしらざる時のことなりし。今は井の内に鮎を汲む水道の水長(とこしなへ)にして、土蔵造の白壁建てつづき、香の物桶、明俵、破れ傘の置所まで、地主只は通さぬ大江戸の繁盛、他国の目よりは、大道に金銀も蒔ちらしあるやうにおもはれ、何でもひと稼と心ざして出かけ来るもの、幾千万の数限りもなき其中に、生国は駿州府中、栃面屋弥治郎兵衛といふもの、親の代より相応の商人にして、百二百の小判には、何時でも困らぬほどの身代なりしが、安部川町の色酒にはまり、其上旅役者華水多羅四郎が抱(かかえ)の鼻之助といへるに打込、この道に孝行ものとて、黄金の釜をほりだせし心地して悦び、戯気(たはけ)のありたけを尽し、はては身代にまで途方もなき穴を掘明て留度なく、尻の仕舞は若衆とふたり、尻に帆かけて府中の町を欠落するとて
 借金は富士の山ほどあるゆへにそこで夜逃を駿河ものかな ーとこういう調子で膝栗毛本文は始まる。弥治郎兵衛と喜多八の道中でのやりとりの一例を挙げると、
―六郷の渉しをこへて、万年屋(補注 奈良茶飯をたべさせるので有名な茶店)にて支度せんと(補注 食事をしようと)、腰をかける。万年やのおんな「おはようございやす 弥二郎兵へ「二ぜんたのみます きた八「コウ弥二さん見なせへ、今の女の尻(けつ)は去年までは、柳(補注 ほっそりとした処女のこしつき)で居たっけが、もふ臼になったア。どふでも杵にこづかれると見へる。そして面妖、道中の茶屋では、床の間に、ひからびた花をいけておくの。あのかけものを見ねへ。なんだ 弥二「アリャア鯉のたきのぼりよ 北「おらあ又、鮒がそうめんをくふのかとおもった 弥二「コウむだをいはずとはやく食はっし。汁が冷めらア 北「ヲヤいつの間にもってきた。ドレドレー という具合。

 分断発行された各編の巻末に丸の中に“貞”の字を入れた熊手の絵のついた判が捺してある。本人の弁によれば酉の年の生まれなので、酉の町の唐の芋熊手を用いたとある。幼名は幾五郎で、これをもじって一九にしたという。膝栗毛出版後は日の出の勢いで、万都の人気を一身に集めた。今でも弥次喜多道中という言葉は日本中で知らぬ人がいないほどになっている。しかし実際に本人に会った人の話では男前だが真面目な人物で、とても戯作などしそうに見えなかったと、また別人だが共に旅をしたら、始終何か書いていて、ろくに話もせず、あんな面白くない人はいなかったという。晩年手足偏枯の症にて遂に起たずとある。辞世は“此世をばどりゃおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら”という狂歌であった。享年六十七歳。
 決して堅苦しくない読み物で、当時の東海道を旅する気になった人には予備知識として大いに役に立っただろう。書き物といえば道徳のはしくれを説くものが氾濫する中で、聖人君主でない凡人のありようはこんなものさと遠慮なくぶちまけた思い切りの良さが民衆に受けたに違いない。それにしても語呂合わせが心底から好きなことだ。こういう人は今のアナウンサーの中にもたまにいる。

<ガリレオ・ガリレイ> ベルトルト・ブレヒト(1896-1956)はナチ時代を生きた自分の人生経験を基に、ガリレイの人物と時代を知悉して“ガリレイの生涯”を戯曲化した。要点を紹介する。(右はガリレイが重力の実験をしたピサの斜塔)

第1幕 パドヴァの数学教師ガリレオ・ガリレイは、コペルニクスの宇宙体系の新学説*を立証しようとする。(*太陽は静止し、地球が廻る)
第2幕 ガリレイは、ヴェネツイア共和国に、新発明*を贈呈する。(*望遠鏡)
第3幕 1610年、望遠鏡の助けでガリレイは天空にコペルニクスの宇宙体系を証明するような現象*を発見する。彼の研究の結果起こるかもしれない危険を警告されて、ガリレイは人間の理性に対してもつ信仰を確認する。(*月と地球が似たような天体であることと木星の周りを小衛星が廻ること)
第4幕 ガリレイは、居住地をヴェネツイア共和国から住みやすいフィレンツエの宮廷に移りかえた。望遠鏡による彼の発見*は、当地の学界では頑な不信に出遭った。(*同上)
第5幕 ペストにも屈せず、ガリレイは彼の研究を続ける。
第6幕 1616年、教皇庁の学問研究所ローマ学院は、ガリレイの発見を確認する。
第7幕 しかし異端審問所はコペルニクスの理論を禁書目録に載せる。
第8幕 ある対話*(*若い修道士がガリレイに木星の衛星と教令との矛盾を糾す)
第9幕 8年の沈黙の後、その人自身も科学者である新しい教皇が即位したことに勇気づけられたガリレイは、禁じられた分野の研究を再開する。太陽黒点がテーマである。
第10幕 次の10年の間に、ガリレイの学説は民衆の中に拡がっていく。瓦版屋や大道歌手が、いたるところでこの新しい理論をとりあげて話題にする。1632年の謝肉祭の時期には、イタリアの多くの都市が、職人組合の謝肉祭行列の趣向に天文学を扱う。
第11幕 1633年、異端審問所は、世界的に有名なこの研究者をローマに召還する。
第12幕 教皇、異端審問総監の枢機卿に説得される。
第13幕 ガリレオ・ガリレイは宗教裁判所で彼の地動説を撤回する。
第14幕 1633-1642年、ガリレオ・ガリレイはフィrンツエ近郊の別荘に住み、死ぬまで宗教裁判所の囚人であった。“新科学対話”のコピーをひそかに昔の直弟子アンドレアに手渡す。あわせてガリレイは自分が拷問台の脅迫に屈して自分の知識を権力者に引き渡し、彼らが自分の都合でそれを悪用するのを許し、自分の職業を裏切ったと告白し反省する。
第15幕 ガリレイの著書“新科学対話”がアンドレアによってイタリアの国境を越えて持ち出される。

 ベルトルト・ブレヒトはその戯曲の中で、イタリアに終生在住したガリレオ・ガリレイが時の強い政治宗教権力の圧力を受けて、巷間伝えられるように“それでも地球は動く”と地動説を主張し続けたのではなく、公には自説を完全に撤回して弟子たちに軽蔑される立場に甘んじたことを明らかにした。この学説撤回によって、ガリレイは教会に従属しながらも科学の研究継続が可能になり、その仕事を後世に引き継ぐことができるようになったという評価は認めつつも、ガリレイは天文学と物理学を豊かにはしたが、その両科学が一時は聖書と教会への不信を示すことですべての進歩陣営の先頭に立った社会的な意味を奪い取って象牙の塔に押し込めたと糾弾する。
 この戯曲は1938年も終わろうとする時期、多くの人々がファッシズムの進軍がもはやとどめることができないと思い、西欧文明の決定的な崩壊が訪れたと考えたあの時期に執筆された。この世界に自然科学の隆盛や新しい音楽芸術、新しい演劇芸術をもたらしたあの偉大な時代は終焉の直前であった。ブレヒトは殉難者、悲劇的なヒーローとしてのガリレイ像を打ち壊すとともに、理性を信じ新しい時代の到来まで“生き延びる思想”を信条としてナチスの暴力支配に抵抗し、いかに真実を世界に伝えるかという戦術を示唆した。ところが亡命地のアメリカで、ヒロシマへの原爆投下のニュースを聞くに及んで、初稿を書き換えて第14幕ではガリレイに徹底した自己断罪を行わせた。科学が獲得した成果の管理を誤ると、人類を破滅に導くような目的に用いられうる。たとえ戦術とはいえ、科学の成果が権力者に引き渡され、管理されるという形を作ってしまうことになれば、どんな免罪もあり得なくなるというわけだ。

<小泉劇場> 前項のような事実認識をふまえると、選挙前に小泉首相が引用した“ガリレオが「それでも地球は動いている」というせりふを放った”というのは真っ赤な嘘である。しかし嘘も方便ということもある。こういう劇場効果をも計算に入れて、小泉首相は“永田町で否定されたこの郵政民営化についてこの際国民の真意を問いたい”と争点を絞った。法案に反対した前議員に対しては同じ選挙区にマスコミが“刺客”とはやしたてた小池環境相や猪口邦子などの美人候補を民営化賛成派として新たに擁立した結果、自民党は衆院選挙に大勝してしまった。予想を大幅に越える圧勝になり、予め届け出ていた比例代表名簿の人数不足で1人を社民党に譲るというおまけまでつけた。衆院は郵政民営化を支持する自公両党合わせて2/3を越える勢力となり、仮に参院が法案を再度否決しても衆院で改めて可決する票数を確保した。ここまで小泉支持が伸びると予想した人は少なかったが、それにしても“自民党の分裂は民主党のチャンス”とだけ見た民主党の岡田代表には明らかに先見の明がなかった。外野にいる我々と違って、アツクなっている当事者には冷静に情勢を見極める視点がもてないものらしい。
 全国平均の投票率は前回選挙に比して5%近く上昇して国民の関心の高さが示された。識者が指摘するように、小選挙区制というのは政治にドラマをもたらす。この劇的な選挙結果には日本国内だけでなく、日本に関心をもつ世界があっけにとられた。選挙後の内閣初閣議では小泉首相は全員起立の大拍手に迎えられた。
 まず苦難を経てリーダーを替えて再建されるであろう民主党は新国会において早速審議される郵政民営化法案にあくまで反対するのかどうか。これだけ明確な民意が選挙で示された以上、あくまで建前上の議論だが、従来方針通りまともにこれを否定してはもはや二大政党の一つである資格を失うのではないか。元来民主党のこの法案への取り組み方に誤りがあった。政治改革にまともに反対するのは本来野党の取るべき態度ではなかった。実際全党員がこの法案にまともに反対していたとは思われないが、党議拘束で法案への同調を抑えこんだ。本来なら郵政民営化自体に異を唱えず、そのやり方に異論を唱えれば分かりやすかった。だがそれを国会審議中も選挙になってからも他にもっと大きい問題があると言い張って硬直化した方針を持続し、国民にそっぽを向かれた。

 次の大きな山は民主党が“郵政民営化には賛成するが、その方法には問題がある”と方針を改めるかどうかだ。先月の話題<郵政民営化法案不成立>でも指摘したし、法案に反対して自民党から追い出された綿貫元衆院議長も言っているように、何故4分社化するのかについては十分説明がなされていないし、方法論的には大いに議論の余地がある。リーダーも変わるのだから、この際“過ちを改むるに憚ることなかれ”と作戦を変えるチャンスだと思う。大所帯の方針転換は簡単ではないかもしれないが、そうでもしない限り民主党はジリ貧になっていくだけだろう。
 仮にそのように野党が法案への方針を変更したと仮定して、次の山は小泉首相がそれにどう応ずるかである。選挙結果におごりたかぶる気持ちをもって、従来方針通り強引に押し切ってしまうか、それはそれで勢いが強いから法案は国会を通過するだろうし、近く自民党内で造反議員に対する処分決定もあるらしいから、それを先行した執行部は後に引けなくなる可能性が大きい。だがもし小泉首相が勝ちにおごらず融和の精神に転じてそのような反対論にも耳を傾けて譲歩し、“勝って兜の緒を締めよ”と法案を修正してほぼ全員賛成の形で国会を通過させることができれば、今後の諸改革に資するところは大きいだろう。しかし小泉首相の性格と在来の4分社化にこだわってきた経緯を考え合わせると、その可能性は1/10以下と見る。飯島秘書官だか陰の首相の知恵袋がどう首相にアドバイスするかもあるが。

<六カ国会談> 北朝鮮と米国の対立をめぐり、周辺4ヶ国が協議に加わる形で03年8月から始まった第4回6ヶ国協議(中国北京・釣魚台)は最終日とされた19日の午前中までは、対立は根深く到底合意点に達することは困難と見られていたが、最後の半日で状勢が一挙に変わって基本合意が成立してしまった。会議の議長国である中国は北朝鮮との個別協議を重ねた上で、2日前に提示した第5次文書案を修正した第6次文書案をベースに参加国の合意を取り付けた。発表された共同声明の骨子は次の通りである。

○朝鮮半島の検証可能な非核化で一致した。
○北朝鮮はすべての核兵器および現存する核計画を廃棄する。
○米国は北朝鮮攻撃、侵略の意図をもたない。
○北朝鮮への軽水炉提供問題を適当な時期に議論する。
○米朝は国交正常化のための措置を取る。
○日朝は日朝平壌宣言に従い、国交正常化の措置を取る
○日米中韓露は北朝鮮へのエネルギー支援の意向を表明した。
○当事者間で朝鮮半島の恒久的平和について協議した。
○一致した事項を段階的に実施する。
○次回協議を北京で11月上旬に実施する。

 前日までの会議では北朝鮮の核兵器の放棄と核拡散条約(N.P.T.)への復帰と米国による軽水炉の供与のいずれを先行するかで両者の見解は鋭く対立し、2年続いたこの会議は遂に破局を迎え、安保理への付託を余儀なくさせるのかと当事者も周辺も半ば覚悟した。しかしイラク状勢の泥沼化とハリケーンによる南部の洪水被害の深刻化を抱えている米国がこれ以上のお荷物を抱えたくないのは明らかで、議長国中国もその面子にかけても何とか会議を成功もしくは持続させたかった。そのような事情が施策のあるべき順序・前後関係にに目をつぶった草案を解決案として受け入れることになったようだ。米国の首席代表・ヒル国務次官補は“今日まいた種を成長させ、我々の信じていることをかなえたい。この共同声明採択は全員を勝者にした”と語った。日朝も5回の2国間協議をもって“懸案事項の解決”という間接的な表現ながら拉致問題で交渉を続ける余地を残したことで、日本側も関係国の理解を得られた点に満足した。日朝協議が再開されるのだという。
 ところが閉会直後の20日、北朝鮮外務省スポークスマンは“米国が北朝鮮に軽水炉型原子炉を提供すれば、すぐにN.P.T.に復帰し、I.A.E.A.と保証措置(査察)協定を締結して履行する。但し米国が核放棄要求を優先させれば、朝米間の核問題では何も変わるものがなくなり、その結果は極めて深刻で複雑なものになるであろう”と恫喝した。これに対して米国務省報道官は直ちに“北朝鮮が軽水炉提供まで核放棄に応じないとしたのは明らかに共同声明に反する”と反論した。中国当事者はこれらの問題は次回の会議(11月上旬)で討議されるであろうと言明した。これによって19日の共同決議は茶番であったことが早々に露呈されてしまった。恐らく中国は北朝鮮との個別会談で“この枠組みが崩れて安保理へ移ったら、もう中国は支援できない。不満はあろうが、こちらの顔を立てて、会議終了まではおとなしくしていろ、後で言いたいことを言うのは勝手だ”とでも牽制したに違いない。

 大体過去において米国から供与された軽水炉に関してN.P.T.から脱退して査察要員に国外退去を命じた犯歴をもつ北朝鮮が同じ裏切りをしない保証はどこにもない。軽水炉は建設に10年かかるという。こういう世界が注目する会議の参加者は表向き自分の顔が立てば、問題を実質先送りすることに抵抗しないだろう。次は誰かが肩代わりしてくれる筈だから。
 だが、国際問題の解説者田中宇氏によれば、この度の会談は一見意味のない合意しかなされなかったのではなく、そう見せかけながら実質的に重大な合意が成立したのだという。それは共同宣言の中に“米国は北朝鮮を武力で攻撃することはない”という文言が文書の形で盛り込まれたことである。北朝鮮はブッシュ政権が“悪の枢軸”としてイラク、イランと並んで北朝鮮が名指しされて以来、この米の敵視政策を逃れようと並々ならぬ努力を払ってきた。但しそれは米国に屈服する姿勢を見せることでなく、逆に反撃の強気の発言を繰り返すことによってだった。今回の会談終了後に北朝鮮が“軽水炉提供が先だ”と発言したのは、それによって米国が“そういうことを言うのなら、共同宣言そのものが無効だ”と、不可侵の約束そのものまでは取り消さないことを確認するためだったという。事実北朝鮮は米国からの反論に対しては挑戦的な再反論を控えて沈黙を守っている。
 田中宇氏によれば、元々米国が“悪の枢軸”に北朝鮮を入れたのは中東イスラムへの侵攻をカムフラージするためで、イラクへの侵攻の名分が消えて後処理が泥沼化しても、未だ懲りずにイランに対する侵攻姿勢を強めている。もうこうなれば、北朝鮮への軽水炉提供などやるはずがなく、東アジアの主導権は中国に譲って世界の多極化を容認するだろうと言う。田中宇氏の最近の国際問題の解説には裏を読み過ぎる感が強く、全面的な賛意は表しかねるが、この問題に関しては当たらずとも遠からずという気がしてきた。

<鉛筆使用の強制> 鉛筆については2002年5月に<鉛筆対ワープロ>で書いた心境は変わっていないが、このほど2度にわたって鉛筆の使用を強いられる羽目に会った。一度は小泉自民党が圧勝することになった先日の選挙の投票所で、投票用紙への記載に持参のボールペンを取り出したら、遠くで見ていた係員が飛んできて備え付けとは別の鉛筆を差し出した。左手で紙を抑えられない私には、鉛筆は紙との摩擦係数の違いで書く時に紙が動いてしまうので扱いにくく不快なのだが、逆らわずに黙ってそれを使った。しかし何故ボールペンで書いてはいけないのかは納得できない。ついでに言えば投票用紙は二つに折らないと入らないように投票箱の挿入口の幅が狭くなっている。私には右手だけで紙を二つに折るのには困難があるのに、投票用紙には二つ折にする癖もついていない。わざわざ覗き込むこともないだろうに、何故全員が二つ折りにしなければいけないのか。
 もう一度は国勢調査で届けられた記入用紙で、冒頭に”記入は鉛筆で”と指定してある。選択方式で該当項目の上の楕円を黒く塗りつぶすことになっているからこれは鉛筆でないとできないが、氏名や生年月日まで書きにくい鉛筆を使わなければならない必然性はない。黒く塗りつぶすために持った鉛筆で文字もついでに書けばよいという発想らしいが、黒く塗りつぶすには先端の丸くなった鉛筆が、また文字を書くには先端の尖った鉛筆がよいから、キチンと対応しようとすれば2種類の鉛筆が必要になる。黒く塗りつぶす方式は多分コンピューターで扱うためらしいが、書きにくい鉛筆で書いた文字の判読をコンピューターでやればトラブルも出るだろう。調査員の配布・回収の手間を考えれば人が判読する手間などものの数にも入らない。配布された封筒の裏には“封をして提出した場合は、調査員が開封することはありません”と印刷してあるから調査員が回収時にチェックすることはなさそうだし、ボールペンで記入してしまった家庭には書き直すようにと送り返すことは多分やらないだろう。

 ここまで書いて添付された封筒をよく見ると、記載事項は矛盾だらけだった。まず“この封筒は、調査票をなくしたり汚したりしないよう、整理用としてお使いください。”とある。次いで★記入した調査票は、正確な統計を作成するために、調査員によって記入もれ、記入誤りなどの確認が行われますので、そのまま調査員にお渡しください。★記入した調査票をこのまま封筒に入れ、添付のテープで封をして調査員に渡して頂くこともできます。この場合、調査票は、封をしたまま市区町村に提出されます。★調査票に記入もれ、記入誤りなどがあった場合は、確認のためおたずねすることがありますので、ご協力をお願いします。―とあるが、更に薄くかすれた朱印が捺してあって、“ヨコハマは全封入 調査票は封筒に入れて必ず封をしてご提出ください”と書いてある。要するに勧進元の総務省統計局としては、調査の上で統計を実行する市区町村の事情を配慮して取り扱い方法に柔軟性をもたせたらしいが、受け取る各家庭では混乱する向きもあるだろう。最近プライバシーの保護がうるさいから、調査員(多分ご近所の主婦などが勤めるだろう)が中身を読むことに付随するトラブルを配慮し、なおかつ村(今どきまだ存在するか?)などで頼りない老人に正しく記入させるための配慮もしたのだろう。
 こうして見れば、諸般の事情に比べればボールペンで記入したって一向に構わないように思われる。今どきボールペンはあっても鉛筆はない家庭もあるだろう。コンビニではボールペンは売っているが、鉛筆はどうか。役所は渡辺淳一氏のような昔気質の人には配慮するのか、また今でも学校の筆記試験は鉛筆らしいから私の頭が硬いのか。それにしても筆記用具に関して封筒で見せたぐらいの柔軟性はあって然るべきと考える。



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